生業は、雨のち曇り時々晴れ。

ヨーク社株式会社の社長が時々書いています。

レイアウトの魔術師。

ぼくが二番目に入社した会社は、写真スタジオも持っている総合プロダクションだった。 ぼくはナショナル(現パナソニック)の自転車事業部を担当するチームに配属された。そこで、アートディレクターの川口さんに、いろいろ教わっていくことになる。仕事のことはもちろん、そうじゃないこともたくさん教わった。だから、いろんな意味で川口さんはぼくの師匠でもある。

仕事が早く(と言っても夜の8時くらいだが)終わると、「ちょっと行こか」とよく誘ってもらった。まず、赤提灯で腹ごしらえしながら軽く飲んで、それから行きつけのスナックというのが定番のコースで、川口さんはカラオケも上手かったし酒も強かった。それにモテた。ぼくは一度だけ完全に酔いつぶれてしまったときがあったが、そのときも近くの宿まで運んでくれ宿代も済ませてくれていた。明くる日にお詫びとお礼を言うと、「よう飲んだな、二日酔いで頭痛いなぁ」と笑ってくれた。

仕事でも、ぼくにデザインを叩き込んでくれたのは川口さんだった。あるときぼくは、急ぎで入稿しなければならないリーフレットのデザインをしていたのだけど、表面よりも裏面のレイアウトで苦労していた。入れなければならない要素が多すぎて、なかなかうまくまとまらなかったのだ。それでもどうにかこうにか収 めたものに満足して、「できました」と川口さんに見せに行った。そしたら、川口さんは「まだやなぁ…」と言って、ぼくのレイアウトの上に白い紙を重ね、鉛筆で修正し始めた。「ええか、これは目立たせんとあかんから、ここへ大きめに入れて。これはこっちの関連事項なので、この横か下に置いて。これは小さく扱う内容なんで……」と、ひとつずつ理由を説明しながら、ぼくの目の前でレイアウトを入れ替えて行ったのだ。そのつぶやきは呪文のようだし、その手先の動きはまるで魔術のようだった。そして、「どや、これで」とできあがったレイアウトは、ぼくが時間をかけたレイアウトよりも、ずっとすっきりしていて分かりやすく読みやすかった。それからも、川口さんはレイアウトの秘訣を少しずつ教えてくれた。

それから何年か経ったころ、川口さんと親しくしていた営業職の方から連絡をいただいて久しぶりにお会いすることになった。話を聞いてみると、某有名企業の販促物を請ける新しい制作会社をつくることになったので、副社長兼クリエイティブディレクターとして来てくれないかという、たいへんありがたいお誘いだった。そのころぼくは小さな広告代理店で働いていて、やがては独立するつもりだったので、丁重にお断りしたのだが、川口さんが真っ先にぼくのことを推薦してくださったらしい。「アイツはいまはオレより上手いで。アイツなら安心やで。」と言ってくださったのだそうだ。

「川口さんの太鼓判やのにな、残念やな、来て欲しかったなぁ。」と、ほんとうに残念がってもらったのが恐縮だったが、川口さんに覚えてもらっていたこと、褒めてもらったことはものすごくうれしかった。

万能機の前の魔法使い。

ぼくにも駆け出しの頃があったから、独立するまでは、いろんな先輩からさまざまなことを学んできた。最初に入った会社でお世話になったのが安藤さん。谷町6丁目にあったその会社は、エレベーターのない古い鉛筆ビルの3階と5階を借りていて、3階がデザイン室兼経理室、5階が写植室兼暗室だった。安藤さんはそのビルの最上階ともなる5階で、まるでそのビルの主のように、朝早くから夜遅くまで写植を打っていた。縦の歯送りも横の歯送りもQ数チェンジもすべてがマニュアルの「万能機」という名前の写植機の前に座って、現像するまで見ることのできない印画紙上に、印字を繰り返しながら組版していく安藤さんはまるで魔法使いだった。縦横混在だって表組だってへっちゃら、印画紙に収まるサイズならトンボ付きの版下だって写植だけで作り上げてしまう。その魔法に魅せられたぼくは、お昼の休憩時間や紙焼きで暗室に入るときに、5階で油を売っては、安藤さんから少しずつ魔法を学んだ。

mojiban01まず基本は、歯送りの計算。当時の写植機は歯車の歯1つ分(0.25mm)が移動の最小単位で、それを歯送りと呼んでいた。「写研とモリサワでは文字の中心の位置が違うから、歯送りの計算方法も違ってくるんよ。文字盤の配列も全然違うしねぇ。ややこしいねぇ。」と、安藤さんはニコニコしながら教えてくれた。「簡単なロゴやマークならリス撮りして、文字盤に貼りつけて一緒に印字してしまうといい。でもリスフィルムの時はちょっとだけ露光のボルト上げてやってね。位置調整?それは、ほらフィルムを押さえながら指先で…」と、離れ業も見せてくれた。安藤さんが前に座ると、その写植機は本当に万能になったのだ。

安藤さんが、そんな調子だから、ぼくらデザイナーは、ほとんど写植の切り貼りをする必要がなかった。詰め打ち用の仮名文字盤なんて、その会社にはまだなかったし、当時はまだまだベタ打ちの方が多かったけど、安藤さんに頼むとちゃんときれいな詰め打ちが上がってきた。それがどんなに凄いことだったか。ぼくは転職後に思い知ることになる。
あのときに、ぼくが教わった魔法は、安藤さんの持っている魔法の1万分の1にも満たないかもしれないけれど、ぼくはリスフィルムで自分専用の仮名文字盤を作って、それをあの万能機にセットして、自分で考えたコピーを打たせてもらった。現像した印画紙を安藤さんに見せに行ったら、「ほ~う、これはうまいことできたね。かっこいいねぇ。」と、目を細めて褒めてくれた。
写植の時代が終わってDTPが主流になってから久しい。DTPの世界にもきっと魔法はあるのだと思うけど、あの時の安藤さんみたいな魔法使いには、まだ出会えていない。

パソコンのあるデザインオフィス。

デザインオフィスにパソコンが置いてあるというのは、いまではあたり前のことだが、ヨーク社の創業時(1986年)では、けっこう珍しいことだった。まず、いまのデザイナーが当然のように使っている Mac というパソコンは、海の向こうで生まれたばかりで、ごく一部のマニアだけしかその存在を知らなかったし、モノクロ表示&英語版のみなのに、システム価格はクルマが買えるほど高価だった。また、パソコンは使いこなすのが難しいというイメージが先行していたし、実用性の点でもまだまだと言われていた。それでも、ヨーク社には創業時からパソコンがあった。
あのころのパソコンは、理工系の実験道具か、あるいは高価な趣味の道具というイメージだったかもしれない。大企業のオフィスに置いてあったのは、まだパソコンではなくオフコンと呼ばれるもので、経理や在庫管理などのオフィスワークに特化したものだった。日本のデザインオフィスに Mac が爆発的に普及するのは、もう少し後のことだ。むしろ、一般的なオフィスではパソコンよりも先にワープロ専用機が普及していた。だから、ヨーク社を訪れた多くの人は、置いてあるパソコンを見て「おぉ、ワープロですかぁ」と言った。この時代はパソコンが使えなくても恥ずかしいことではなかった。いや、ひょっとすると、パソコンを使っている方が、変わった人だったのかもしれない。

X1turbo-01ヨーク社の第一号パソコンは、シャープのパソコンテレビ X1-turbo というホビーマシンで、独立するときに自宅から持ってきたものだった。いまのパソコンと比べると、できることは限られていたけど、自社のロゴもこれで作ったし、デザインワークから、経理の伝票処理、売上グラフの作成まで幅広く活躍してくれた。パソコンテレビなので暇なときはテレビも見ることができた。もちろん、ワープロとしても使っていた。簡単なプログラミングの知識さえあれば、零細企業にはぴったりのパソコンだったかもしれない。

その翌年、パソコンテレビの上位機種として、ユニークなパソコンが発売された。プロセッサーに当時の Mac と同じ MC68000 を使った X68000 というパソコンだ。しかも、フルカラーで日本語が扱えるうえに Mac よりも格段に安かった。マンハッタンシェイプと呼ばれた筐体デザインはちょっと出前箱にも似ていたけど、とてもカッコ良かった。マウスでアイコンをクリックしたりドラッグしたりする操作方法も当時としては新しかった。これが、後にヨーク社の第二号パソコンとなり、Mac が導入されるまで、X1-turbo とともに活躍してくれた。
ぼくは、いまでもあのころのパソコンが好きだ。それぞれに個性があったし、使い方に創意工夫が求められるところが良かった。それに、何よりも夢があった。パソコンという製品そのものから未来への夢を感じることができた。だから、独立を決意した時から、オフィスには、まずパソコンを置こうと決めていた。

独立して分かったこと。

独立を決めたときに、ぼくが最初に考えはじめたのが、社名とロゴだった。まぁ、これは商業柄だからしかたがないけど、「独立したら、まずは判子をつくらなきゃ…」と、教えてくれた人がいた。「個人ではじめるか、法人ではじめるかによっても違いますが、会社名以外に、住所印でしょ、代表者印でしょ、それに実印に、角印に、社名と住所印は2種類くらいあったほうがいいですよ。すぐに要るようになりますから…」と、その方の会社の判子を並べて押して渡してくれた。

以前の会社でボーナス時期になるとよく来ていた取引銀行の人は、「独立したら銀行口座はうちで作ってくださいよ。」と言ってくれた。そして「お付き合いだと思ってクレジットカードにも申し込んでおいてください。」と言う。会社辞めたばかりで、審査通るのですかと聞くと、「うちとは長いお付き合いですし財形貯蓄もやってもらってましたから大丈夫です。」と、言われるままに申し込んだら、後日、この大手銀行グループのカード会社から「お断り」が届いた。そのことを件の銀行員に伝えたら、「え、おかしいなぁ。そういう時はまず私に話があるはずなんですけどね。」と言ったまま、姿を現さなくなった。

200906今度は、隣の信用金庫から飛び込みで外交員がやってきた。「新しい会社でっか。うちで口座作りまっせ。」と、まるで魚屋の親父みたいな話し方をするその外交員は、ぼくの個人印を見るなり取り上げて「これ三文判ですなぁ」と見破った。「もうちょっとええ判子を持たんと。」ええ?なぜ分かったんだろう。聞いてもニヤニヤするだけで教えてくれない。そのときは不思議だったが、あとでじっくり考えてみたら種明かしは意外と簡単なことだった。そんな感じで話し方はいかにも大阪商売人風だったが、その人は、普通口座だけでなく、当座もつくってくれ、初めての小切手帳を持たせてくれた。法人化するときも「会計士さん、ええ先生紹介しまっせ。」と、世話してくれた。その後も、他の支店へ異動になるまでの数年間、その人からは、悪徳商法の手口やら、いろいろなことが学べた。金融機関だって広告会社だって、看板の大きさだけで評価してはいけないのだ。惑わされてはいけない。

独立することで、ぼくは丸腰になった。そして、丸腰になって、はじめて分かったこと、見えたことがたくさんある。その多くは、もし大きな看板の下にいたら一生気がつかなかったことかもしれない。

livedoor プロフィール
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ