2006年05月12日

 以下、多田道太郎「プルードンの家庭論」『プルードン研究(河野健ニ編)』岩波書店1974.9、p312?314より引用です。

 <決定的に相異なる両性の協力(これがまたプルードン思想の要であるわけだが)というのが、人間が「社会」を形成し、進化させてゆくための、基礎的な必要条件である。ちがった性がまず存在し、ついでそれらが協力してゆくということがなければうことがなければ、社会の形成はありえないのである。主体が男女という二元に分れることが、じつは客観世界において動物性のほかに「社会」が形づくられてゆく基礎となる。(したがって、男女の性別を縮小化しようというさまざまの主張、傾向は、ブルードンによってきびしく排斥される。こうした傾向はけっきょく「社会」の無化につながるものだからである。また、このブルードンの考えは、「社会」の基礎が生物学的、心理学的主体の条件のなかに横たわっているという信念をみちぴきだす。)

 結婚が生殖という生物学的レベルでの必要をみたすための制度であることはいうまでもないが、これを愛という人間学的レベルで考えればどういうことになるか。プルードンは言う。「生殖を目的とする両性の協力は、愛という特別の感情の影響下におこなわれる。(中略)『愛は死よりも強し』という有名なことばがある。その意味するところはこうだ。いったん愛を味わった存在は、もはや死について何を恐れることもない。なぜなら愛は死そのものなのだから。愛とは歓喜における死、安楽死(euthanasia)のことなのだから。」(プルードン『革命と教会における正義』4:19より)。愛はカオスをかきまわし、自然を生気づけ、こうして生を再生する。しかし同時に、愛はたがいの犠牲を求める。相手のうちにおのれを殺すことが犠牲の意味であって、すなわち、これは死を意味する。生のための死。死による生。

 愛はこうして、プルードンにょれば、所有や労働と同じく、アンチノミーの一形式である。生と死とのあいだにひきさかれたアンチノミーである。したがって、愛は均衡(equilibre)を自選的に(ということは、他者、第三者の介入なしに、ということである)求める。その均衡は、愛よりもより高次のシステムに属するはずである。

 或る種の詩人、思想家、宗教家によって至高のものとみなされている愛が、ブルードンのばあい、「結婚の素材」としてしか扱われていないことは注目に価する。結婚という制度のなかで、これは低い次元に属している。とはいうものの、愛はいかに低い次元においてであるにせよ、するどい矛盾を内包していることにも注意を向けざるをえない。矛盾をはらんでいるからこそ、愛は均衡の法則に服し、より高次の「総合」にいたりつくのである。>

 多田道太郎「プルードンの家庭論」『プルードン研究(河野健ニ編)』岩波書店1974.9、p312?314より

////////////参考//////////////////////////

(感覚の段階)  (イデアルの段階)   (良心の段階)

         イデアル_        ジュスチス 

肉 _      貞淑  /

理性/  

                        

上記は、多田氏によるプルードンの恋愛論の図示(同書p317より)。ここでも系列的弁証法(dialectique selliere)が見られる。プルードンのそれはヘーゲルと違って、第三者の介入がなくアンチノミーは解消されない(*注)。

*注「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスをとる」(プルードン『正義論』第二巻、原書の155頁)

斉藤悦則氏のサイト↓「矛盾と生きる」より

http://www.minc.ne.jp/~saito-/works.html



(12:51)

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