2007年11月20日


Jean Tinguely Museum in Basel

哲学者のドゥルーズが、ほぼ遺作となった著作のなかで、動く彫刻群↑で知られるティンゲリーの「哲学者たち」シリーズについて触れています。
ドゥルーズはその連作にティンゲリーの作品の中ではそれほど高い評価を与えているわけではありませんが、ティンゲリーの造る動くオブジェとドゥルーズの連結していくテクストのイメージはかなり近いと思われます。
ちなみにティンゲリーの動く彫刻は宮崎駿の『ハウルの動く城』↓にも似ています。
http://jp.youtube.com/watch?v=VfjnVV4uDHM&feature=related
同時性を連結した装置として体験させる手法はこの三者に共通しているかも知れません。

以下引用です。

<最近、ティンゲリーが、哲学者たちの記念碑的な機械状の肖像をいくつか展示した。それらは、音と、閃光とによって、さらには湾曲した複雑な平面に即した存在の質料および思考のイメージとによって、連言的もしくは選言的な、そして折り畳まれることと広げられることが可能な、様々な力強い無限運動を遂行する作品である。しかし、かくも偉大な芸術家にいささか批判の言を呈してよいとするなら、彼の試みは、いまだ完成の域に達していないように思われる。ティンゲリーは、『ニーチェ』以外の作品においては、たいへんうまくもろもろの機械をダンスさせることができたにもかかわらず、作品『ニーチェ』においては、何もダンスをするものがない。〔根拠律の〕四つの《根》すなわちマーヤのヴェールは、意志と表象としての世界という二面的な平面をいまにも占拠してしまいそうに見えていたのに。作品『ショーペンハウアー』は、わたしたちに、決定的なものは何も与えてくれない。作品『ハイデガー』は、まだ思考をおこなっていない思考の平面の上で、(隠蔽性・非隠蔽性〔真理性〕)をまったく保持していない。機械として描かれる内在平面と、その機械の部品として創造される諸概念に、おそらくいっそうの注意を向ける必要があったのだろう。そのような観点からすれば、かの錯覚を含むカントの機械状の肖像を思い描くことができるだろう(前ページの図を見られたい)。

カント、ドゥルーズ


(画像はドゥルーズがティンゲリーをまねて描いたと思われるカントの「機械状の肖像」。クリックすると拡大します。)





 1-音響装置をつけて、《自我》《自我》と絶えず反復する、牛の頭部をそなえた「私は思考する」。 2-普遍概念としてのカテゴリー(四つの大きな表題)、この図では、3の円運動に応じて外に伸びたり引っ込んだりする四つの軸。 3-〔超越論的〕図式の可動式の車輪。 4-それほど深くない水の流れ、すなわち、図式の車輪がそこに潜ったりそこから浮上したりするその内面性の形式としての《時間》。 5-外面性の形式としての《空間》、この図では、岸と底。 6-それら二つの形式の接合としての、流れの底にある、受動的自我。 7-時空を走り抜ける総合判断の諸原理。 8-《私》に内在する、可能的経験の超越論的野(内在平面)。 9-三つの《理念》、あるいは超越の錯覚(絶対的地平において回転する円環、《魂》、《世界》、《神》)。

 ここで生じてくる多くの問題は、哲学史ばかりでなく哲学にもかかわっている。内在平面のもろもろの薄層は、或る場合には、互いに対立するほどまでに、またそのひとつひとっがあれこれの哲学者に適合するほどまでに、たがいに離れ、或る場合には反対に、少なくともかなり長い期間通用するようになるために寄り集まる。そのうえ、ひとつの前・哲学的平面〔内在平面〕の創建と、哲学的諸概念の創造とのあいだの関係は、それら自身複雑なものである。長期間にわたって、いく人かの哲学者は、おのれの師として援用するひとりの先行的な哲学者と同じ平面の上にとどまりながらも、また彼と同じイメージを前提としながらも、いくつかの新たな概念を創造することができるー(以下略) >

『哲学とは何か』ドゥルーズpp82-84より
ちなみに下はティンゲリーが制作したプルードンです。
プルードンティンゲリーサムネイル



jean tinguely
les Philosophes
1999
p27より


ティンゲリークロポトキン
哲学者シリーズ
クロポトキン



(18:02)

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