2021年12月15日

東洋医学の「曖昧さ」はなぜ好まれるのか?

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東洋医学の「曖昧さ」が好きな鍼灸師と嫌いな鍼灸師


鍼灸師の間でも、「東洋医学 vs 西洋医学」みたいな構図があります。しかし対立するほど過激な関係ではなく「あっちとは違う」と互いに思っているような程度です。

鍼灸学校に入学すると、東洋医学の時間があります。経絡(けいらく)や中医学の理論を学びます。もともと、鍼灸は経絡と共にデビューしたようなものですから、鍼灸を学ぶ上で経絡は切り離せません。いっぽう、中医学は古典医学を現代医学から理解しやすいように整理して生まれた近代の理論です。

私が興味深いと思っているのは、東洋医学が好きな鍼灸師と、東洋医学が嫌いな鍼灸師は、その理由が同じであることです。

その理由とは「曖昧さ」です。これは、 巍K罎世ら処理できる人」と◆巍K罎世ら処理できない」人に分かれるのではないかと考えています。

こうも言えるのではないでしょうか。

,蓮意味を自分の中で作りたい人
△蓮意味を誤解なく理解したい人

どちらも、感覚的には真理に近づきたいと考えているように思います。ですから、どちらも、ホンモノを追求したいという欲求があります。ホンモノであるという裏付けを,麓分の中に求め、△麓分の外にも求めているという違いなのでしょう。

私は完全に△離織ぅ廚任后それをはっきり表に出しているので,離織ぅ廚麗灸師からはどうも好かれていないようです。,凌佑砲靴討澆譴弌↓△鮗臘イ垢觧笋魯離ぅ困世らです。自分が感じている価値を否定されたら誰も嫌な気持ちになります。

もちろん、誰かを嫌な気持ちにさせたくて△領場をとっているのではありません。,諒も大切にしています。文学やアートでは,重要だと思っています。


文学の価値、鍼灸の価値を並べてみると


文学やアートの答えは受け取る側にあります。それぞれが感じたものの中から価値を発見できます。価値基準はいくつあってもよいのです。

「I LOVE YOU」を「月が綺麗ですね」と訳したという夏目漱石の都市伝説が有名ですが、読み手が価値を創造した典型例です。こういう話は好きです。意味を自分の中でつくるのは楽しいです。

こうしたパターンは鍼灸においても見られます。「価値は患者さんが決めるもの」という考え方です。受け手が感じたものが価値という考えです。

一見すると正しいのですが、鍼灸は文学ではありません。医療として考える必要があります。たとえば、甘くて美味しい薬と苦くて不味い薬があったとします。

多くの人は、甘くて美味しい薬を選んでしまうでしょう。しかし、薬の価値は「美味しさ」では決められません。味がついているなら「飲みやすいように」という配慮です。医師や薬剤師が効果や副作用を説明するからこそ、薬の本当の価値を理解できるのです。

鍼灸にも配慮があります。心地よい施術室、施術者の笑顔などがそうです。しかし、そういった要素と鍼灸の価値は分けて考えなければいけません。配慮のある鍼灸院の方が患者さんが多くなるでしょうが、ここでは「患者さんの数=鍼灸の価値」という考え方はしません。


海底ケーブルの価値を評価できますか?


鍼灸の価値には見えないものがあり、患者さんがすべてを評価できないのです。たとえば、インターネットの通信速度は誰でも評価できますが、海底ケーブルに使われている素材の評価は専門家でなければできませんよね。ほとんどの人が考えませんが、耐久性のある素材が通信速度という価値を支えているわけです。

「患者さんが価値を決めるもの」という主張には、こうした見えない価値の存在が軽視されているように思うのです。「患者さんウケ=鍼灸の価値」という主張には疑問があります。鍼灸はアートではないからです。アートの要素はあっても、アートそのものではありません。

鍼灸にも、海底ケーブルの素材のように、わかる人にしかわからない確かな価値があるのです。そして、その価値を創造できるのは鍼灸師だけです。

施術を患者さんが評価するのは当然ですが、鍼灸の価値の評価を患者さんに丸投げするのは違うのです。「患者さんの評価がすべて」という言い方はとても聞こえがよいのです。私は受け入れられません。「売れるものが正解」は市場原理としては正しいと思いますが、医療倫理で考えると必ずしもそうではありません。

患者さんが集まらなければ職業として成り立ちません。だから、「鍼灸師は人気商売だよ」という意見は間違いではありませんが、それだけが価値基準になってしまうと、売上が鍼灸師の価値を決めるようになってしまいます。

けっして、人気で勝負したらいけないという意見ではありません。何の努力もしなければ人気も出ませんから。ただ、人気と価値はイコールではないという見方をしておかないと、鍼灸師として大切なものを見失ってしまうと危惧しています。


倫理観に根ざした鍼灸の価値


わかりやすく説明するために、たとえ話をします。糖尿病の人に医師が糖質制限を行うのは倫理観が働いているからです。

たとえば、患者さんの要望が正解なら、甘いものが食べたいなら「どんどん食べましょう」でよいはずです。しかし、そうしないのは「病気が悪化して死んでしまったらいけない」という考えがあるからです。これは社会の中にある標準的な考え方です。これを倫理といいますが、この倫理は絶対ではありませんから時代は社会状況によって変化するものです。個人の強烈な考えに揺さぶられることもあります。

「倫理観とは何か」と調べてみたら、「社会での善悪の判断の基準となる考え方」とありました。個人より社会を優先した考え方です。この倫理をとても重んじるのが医療です。医療に関わるものが、それぞれの趣向や価値観を出し過ぎてしまうと、何が正解かわからなくなります。仕組みが作りにくく、チームが混乱してしまいます。

医療とは個人的なものではなく社会的なものです。対極にあるのは「母の手」だと思います。個人的な関係の中から生まれる癒やしです。

このように考えると、鍼灸を医療と考えるなら倫理を重視することが必要です。社会と照らし合わせながら正解を探していく行為です。いっぽう、癒やしと考えるなら個人の関係の中に正解を求めていけばよいのです。

鍼灸には、医療の側面と癒やしの側面があります。私は医療としての鍼灸を追求したいので、倫理観というものを大切にしています。そして、この立場から鍼灸の価値を高められるよう努めていきます。

twitterもよろしくお願いします。
https://twitter.com/kuri_suke

はりきゅう養気院(群馬県/伊勢崎市)
はりきゅうルーム カポス(東京/品川駅)
整動協会(鍼灸師のための臨床研究会)


yoki at 18:21│Comments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 鍼灸 | 東洋医学(中国医学)

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