2022年01月02日

鍼灸を芸術の域まで高めるには

鍼灸を芸術の域まで高めるには


鍼灸の美学は引き算にあり」のつづきです。

前回はテーマに逆行するようにだいぶ長い文章になってしまったので、今回はできるだけ引き算の美学を取り入れてコンパクトな文章を目指します。

書くにあたって参考にしたのはこの書籍です。



哲学者カントの『判断力批判』を軸にして書かれています。そもそもカントが難解なので、この本も難易度が高いです。すべてを完全に理解できていませんが、鍼灸を芸術の域に引き上げるのに必要なことが見えてきたので記してみます。

鍼灸は、もちろん医術です。現代医療の中においては、医術の外に置かれたような状況ですが、鍼灸の歴史が医学史の中にあることは間違いありません。医療制度の中で鍼灸師ができることは限られていますが、その限られた中でもできることがたくさんあります。その中で可能性を追求することに面白さがあるのです。


鍼灸の役割とは


鍼灸師の役割は「鍼灸を通じて身心の悩みを解決すること」だと思っています。「鍼灸は道具に過ぎないから、『鍼灸を通じて』は必要ではない」という意見もあるでしょう。でも、私は、鍼灸師であるからには「鍼灸を通じて」の部分が大切だと思います。

「警察官は正義感があれば十分」とは思わないからです。制服をまとい警察手帳を示すから警察官としての仕事ができるのです。市民も協力的になってくれます。制服も警察手帳もなかったら「正義のヒーロー」として悪と戦わなければなりません。もちろん、バックボーンにある組織の力も大きいわけです。

鍼灸師は鍼灸があるからこそ、個人の力で勝負する必要がありません。「鍼灸師は人間力だ」という人がいますが、その前に「鍼灸師は鍼灸力」で勝負なのです。

鍼は身心にどのように作用するのでしょうか。科学が答えを出そうとしていますが、古典的には、経脈(經脉)を通じさせるものです(欲以微鍼通其經脉、調其 血氣、營其逆順出入之會)。

流れが悪いところに鍼をする、ということです。経脈とは流れが悪くなるラインだと考えればよいでしょう。流れを改善できるかどうかが鍼灸師の腕の差になるわけです。鍼灸の理論は、どこに鍼をしたらよいのかを示すものです。古典的な考えの中にもいろいろあり、現代にも新しい理論が生まれています。私も理論を提唱している一人ですが、テーマから外れるので紹介は割愛します。


技術と芸術


上手い鍼灸師の施術は見ているだけで気持ちよいものです。鍼灸は芸術になり得ると思っています。そう感じたからこそ鍼灸師になったと言えます。そして、そう感じているから鍼灸師をやめないのです。
私が鍼灸師を続けている理由の一つは、鍼灸が持つ芸術性に心が惹かれているからです。芸術性をもたらしているのは技術だと考えて、カントの力を借りて説明します。頭が整理できてスッキリすると思いますよ。

カントは、学問と技術をきっちり分けています。学問は、頭で分かれば目的を達成できていると考え、技術は頭で分かっているだけでは十分ではなく「できる」が伴っている必要があります。つまり、理解しただけのものは技術とは呼べず、身につけたものだけを技術と呼べるということです。さすがカント、わかりやすいですね。

学問と技術の違い


カントによると芸術は技術が生まれます。技術を磨くことで芸術になる可能性を示してくれています。ただ、技術というのも二つに分ける必要があるのです。「機械的技術」と「美的技術」です。

機械的技術というのは、目的を達成するために必要な行為で、鍼灸でいうと片手挿管のようなものです。この片手挿管というのは「片手で鍼を管に入れる行為」のことです。上手下手があっても、これが芸術になることはありません。

芸術になるのは、美的技術と言われるものです。この美的技術については詳しく書かれていませんでした。文字通り「美しい技術」と考えておく他ありません。この美的技術の中には「快適な技術」というものが含まれます。鍼灸院でいうと、鍼灸師の笑顔、施術室のインテリアや照明などです。これはマナーや環境づくりだと思ったらよいです。

機械的技術と美的技術(芸術)


鍼灸を芸術にするためには、マナーや環境を疎かにしてはいけないのです。ただ、それを極めるだけでは美的技術は十分になりません。詳しい説明が見つからなかったので「自分で考えろ」ということなのでしょう。これは「自分だけの工夫」と言ってもよいでしょう。芸術の域に押し上げるためには独創的な工夫が必要なのは当然といえば当然ですね。

自然に見える技術が美しい


では、独創的な工夫をすれば芸術になるのかといえば、そうではありません。カントは「美しいものは自然と技術が共存していなければならない」と説いています。同様の意味で、次のようにも説いています。「技術は、それが技術であることが認識されていながらも自然のように見えるとき、より気に入る」と。

つまり、機械的技術がわざとらしくては不可なのです。

洗練された片手挿管は、動きが滑らかで自然です。気がついた時には挿管が終わっています。「これから、鍼を管に入れるんだな」と動きに意図が見えたらアウトなのです。いくら独自の工夫をしても台無しになってしまうのです。

施術において必ずやる必要がある行為に関しては、何度も何度も繰り返して、体が勝手に動くようにしておく必要があるのです。地道な練習をショートカットして「鍼灸を芸術の域へ!」などと言おうものならカントに笑われます。


技術と呼べるもの


鍼灸師になるには、3年間の専門教育を受けて国家試験に合格する必要があります。学校で習ったことがすぐにできなくて、落ち込む場合があります。しかし、カントによれば、知っていればすぐにできるものは技術と呼ばないのです。

周りの人たちが、習ったことをすぐにできていたら、それは技術習得をしたことにはならないのです。知っていることをやっただけなのです。すぐにできないものが技術になり得るのです。学校を卒業して鍼灸師になっても同じです。セミナーに参加してすぐに真似できることは技術ではないのです。それは知識と呼ぶべきものです。もちろん、その知識にも価値があります。


我々は何を目指すべきか


「芸術」をテーマに書いてきましたが「鍼灸は芸術でなければならない」とは考えていません。鍼灸には色々な魅力があり、芸術性を追求できることはその中のひとつでしかありません。芸術性を追いかけて患者さんが離れてしまったら元も子もありません。

「鍼灸を通じて身心の悩みを解決すること」という目的と共存し、芸術性の追求がその目的を後押しするようなものでなければいけません。

私がカントを通じて学んだのは「自然であること」の重要性です。この自然は、平常心とは違います。繰り返して身につけることで生まれる自然な行為です。地道に繰り返して行くことで、いつか誰かの心を動かすものになっていくのです。芸術的と評価されようとされまいと、地道な繰り返しは、確実に誰かの役に立つはずです。


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はりきゅう養気院(群馬県/伊勢崎市)
はりきゅうルーム カポス(東京/品川駅)
整動協会(鍼灸師のための臨床研究会)

yoki at 00:10│Comments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 鍼灸 | ひとりごと

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