ひとりごと

2017年01月21日

自動運転のクルマが_512


コミュニケーションの第一歩は景色を共有すること


本日、車関係の仕事をしている患者さんと雑談をしていたら、興味深い、ハッとさせられる話がありました。

自動車は自動運転技術に向けて、技術競争があちこちで繰り広げられているわけですが、その中で、「クルマとのコミュニケーション」という言葉が出てきました。どうやら他人事ではなさそうです。

クルマのディスプレイに何を映すか、という話なのですが、ドライバー(自動運転になればドライバーではなくなりますが…)の視野に入っているものを映す必要があるとのこと。

フロントガラスから見える外の景色をなぜわざわざ映し出す必要があるのか…

と思うわけです。

意味があるのです。クルマから発する「あなたと景色を私も見ています」というメッセージらしいのです。ちょっと難しく言えば、「あなたと同じ認識をしています」ということです。これはクルマの方からドライバー(搭乗者)に働きかけるコミュニケーションとして、とても大事なことらしいのです。

なぜなら、そうしないとドライバー(搭乗者)が不安になるとのこと。確かに!

自分で運転する際も、フロントガラスから前方を見ている自分を認識しているから、安心しクルマを走らせることができます。その見ているものに少しでも疑いがあれば、安心して運転できません。

誰かに運転してもらう時もそうですよね。その人が、きちんと情報を認識しているとわかっているから、運転を任せられます。「その人とコミュニケーションが取れる」ということを前提として任せられます。



鍼灸師は何を観て何をしているのか


ここから鍼灸の話です。

自動運転するクルマが何を認識しているのか、搭乗者が知りたいように、鍼灸を受ける患者さんも鍼灸師が何を認識しているのか、わからないと不安です。

これ、すべての鍼灸師に共通する課題です。鍼灸師が見ている景色を患者さんに伝えるだけで、患者さんは安心できます。ここに気が付かない鍼灸師は、いくら腕を磨いても苦労します。

整動鍼では、(患者さんの)動きを“一緒に"見ることで、患者さんの安心を誘っています。

ちなみに、何をしているのかわからなくても大丈夫な時は、相手の権威を感じている場合です。「この方は世界が認めた名医です」と、専門家が口を揃えていれば、その医師が何を見ているのか、何を考えているのか、わからなくてもよいのかもしれません。むしろ、「私などには考えもつかない上の上の事を考えているのだろう」と前向きな想像で片付けてしまいます。

話はそれますが、時々権威にあぐらをかく医師をみかけます。うちでは突発性難聴をよく観ているので、聴力検査の結果(オージオグラム)を持参するように患者さんにお願いしています。でも、もってきてもらえない時が希にあります。

信じられないことに、オージオグラム(聴力検査の結果)を渡してくれない医師がいるのです。「結果を知ってどうするんですか?」という耳を疑うような態度なのです。自分の体のことを知りたいと思うのは、当然なはずです。人は、立場や地位が保証されてしまうと、相手を不安に陥れていることに無頓着になるのかもしれません。



鍼灸師も人工知能に負ける可能性


地位や権威から縁が遠い私だからこそ、患者さんの不安に目を向けやすいとも言えます。目を向けなければ、職業として成り立たず、食べて行けません。患者さんも、そこに期待しているように思います。

不安をいかに解消できるか。いつもそこを考えるようにしています。
知ってびっくり、自動運転のクルマと発想が同じでした。

クルマも積極的に人間とコミュニケーションしようと仕掛けてきます。これからAI(人工知能)の時代に入ります。きっと、私たちの気持ちをくすぐるような働きかけをしてきます。人間として、鍼灸師として負けてはいられません。



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2017年01月18日

鍼灸師の3つのタイプ


ずっと東洋医学をやってきたつもりでした。しかし、ここ数年「東洋医学」という言葉を使わなくなってきていることに気が付きました。同時に「西洋医学」という言葉も使っていません。
鍼灸どっちでもいい_512

結局のところ、こだわりはなさそうです。ただ、東洋医学独自の考え方は、病院医療の主流ではないため、誰かが東洋医学の魅力を叫んでいないと、その価値は埋もれてしまいます。その役目を私が担うまでもなく、いろいろな方が情報発信しています。ふと気が付けば傍観していました。

鍼灸師は3つのタイプに分かれます。

‥賤琉絣悒織ぅ
∪祥琉絣悒織ぅ
折衷派タイプ


,離織ぅ廚蓮◆幔灸学は、古き時代の東洋で生まれたのだから、東洋医学ベースに行うのが当たり前であり、そうでなければ鍼灸のポテンシャルは引き出せない」と考えています。

△離織ぅ廚蓮◆屮┘咼妊鵐后焚奮愿根拠)に乏しい東洋医学では、医療として認めてもらえない。医師と同じ言葉を使えないようでは鍼灸師の社会的信用は上がらない」と考えています。

のタイプは、「良いところは何でも吸収して臨床に活かすべきだ。その時その時によって使い分ければいいではないか」と考えています。


自分は,離織ぅ廚任后

理由はしっくりくるからです。しかし、現実と妄想を区別できない鍼灸師に思われないように気を付けています。△紡个靴討蓮▲侫Д鵐轡鵐阿琉畫をまとって剣道をするような気持ち悪さを感じます。に対しては、柔軟な思考であるようで、軸が定まっていない不安定さを感じます。



できれば科学的な方がいいよね


この記事の目的は、 銑に決着を付けようという目的ではありません。論争に参加しようとは思いません。それは、私の関心が「目の前で起こる現象」に移っているからです。

 銑は、きっと各々の思想や生き方の話なのです。言い換えれば、それぞれの正義を示す言葉なのです。正義をぶつけ合っても、生産性のある話になっていきません。

私にも正義のようなものがあります。それは「できるだけ鍼灸は科学的な方がいい」ということです。「できるだけ」というところが大事です。

鍼灸のすべてを科学で説明することはできません。現実的に、治効機序のごくわずかな部分がわかっているだけです。つまり、ほとんどわかっていません。わかっていなくても臨床的価値は疑いようがありません。

「科学的」という言葉は、「客観的」に置き換えてもかまいません。「誰でも効果がわかる鍼灸」を目指しています。そのことばかり考えていたら、東洋医学とか西洋医学とか、そういう論争に興味がなくなってしまったのです。私の関心の9割が「鍼灸をわかりやすくする」に向かっています。

わかりやすい鍼灸に必要なのは、「現象の観察」と「認識の誘導」です。ツボによって起こる変化を見逃さないことが大切です。観念的になりがちな鍼灸を、観察的にすると、鍼灸のイメージがガラリと変わります。

結局、最近の私は、現象を観るのに夢中で正義の話をする余裕がなくなっているのだろうと思います。



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2016年11月02日

クリ助、バレエを観に行く


先日、新国立劇場にバレエ(演目:ロメオとジュリエット)を観て来ました。バレエ観劇は、もともと妻の趣味で今では何となく私の趣味でもあるような位置づけになって来ています。


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この日は息子と娘も一緒でした。『ロメオとジュリエット』は、心情表現が際立っていました。『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』も素晴らしいけれど、心情表現を楽しむ点では『ロメオとジュリエット』だと思いました。

ちなみに、私の一番のお気に入りは『ラ・バヤデール』です。バレエの魅力が全部つまっています。衣装や舞台も音楽もゴージャスで、欲張りな演目です。

バレエの芸術性を楽しみながら、いっぽうで、鍼灸師、活法使いとして、身体の使い方という点が気になります。何かを言わずにはいられません。



■古武術とバレエの違い


活法は古武術の裏技ですから、古武術視点でバレエを観ることがあります。その目から見て、バレエは古武術と根本的に異なります。

古武術は「いかに身体を無理なく動かせるか」を追求しているのに対し、バレエは「不自然で無理な動き」を追求しています。窮屈なトゥシューズを履いてつま先で立つ。どう見ても無理しているのです。無理はつま先だけではありません。股関節を外旋方向に極端にひねったり、腰を極端にそらしたりと、言い出せばキリがありません。


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バレエの身体操作は無理の連続です。

飛んだり回転したりするので、一見するとスポーツのようでありますが、スポーツとは身体に求めるスペックが違います。バレエではカラダのシルエットをキレイに見せるという目的があるので、そのための姿勢、そのための関節の使い方、その関節を支えるように筋肉を鍛えます。ですから、関節や筋肉の使い方が不自然です。

合理性の向こうに芸術性が見えてくることはよくありますが、芸術の追求は合理性の追求とは違うものです。古武術の動きに対して「美しい〜」と思う時の芸術性と、バレエを観て「美しい〜」と思う時の芸術性は異質であり異次元のものです。

古武術からバレエを観ると「そんなに無理しなくても...」と思うわけですが、そもそも目的が違うので、古武術の言い分はバレエでは通用しません。

私に定義づけできる資格があるかはさておき、この二つを対比させなければ話が進みませんから、このように考えてみました。

 古武術の身体操作は、効率の追求
 バレエの身体操作は、表現の追求




■無駄な動きは死を招く


効率について考えてみます。

効率を上げるためには、合理的に物事を考えなければなりません。無駄を探して排除していきます。

肉体には限界がありますから、持ちうる肉体のポテンシャルを最大に引き出すことが古武術が目指すところです。本来はもっと生々しい話で、無駄な動きがあったらスキができて、即、殺されてしまうのです。平和な世においては、無駄のない動きの追究です。

無駄のない動きは、健康と親密な関係です。無駄があると関節に負担がかかります。筋肉も余計に頑張ります。

その結果、たとえばですが、膝を痛めたり腰を痛めたりするのです。その痛みを鎮痛することができても、根本的な動きが変わらなければ、同じ症状を繰り返します。こうした原理で慢性化していく症状がたくさんあります。

慢性症状の背景には、非効率な動き、合理的でない身体の使い方が潜んでいるというわけです。ここに注目すると、慢性症状を解決する糸口がつかめます。


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■古武術とスポーツが決定的に違うのは「反則」があるかないか


スポーツは種目によって極端に酷使する部分があります。やればやるほど非日常になっていき、極めれば極めるほど、身体の使い方が偏っていきます。限定的な効率を求めると、全体の中に非効率が生じてしまいます。しかし、ルールが決まっていて、動きが限定されるスポーツにおいては宿命です。

これに対し、古武術にはルールがありません。現代から見るから「古武術」という言い方になりますが。ある時代の人にとっては、敵を殺したり敵から命を守るための武術です。


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状況を読みながら、最適な行動を取らなければなりません。どんな手を使おうと自由です。殺されたら終わりです。武器を手にしていたら武器を最大限利用し、武器を持たない時には、武器を持つ敵からどうしたら逃げられるかを考えます。

想定している「時と場合」がスポーツよりずっと広いのです。ルールがないからです。その分、身体の使い方も幅広く追究しなければなりません。そのなごりを受け継いだものが、「古武術」と呼ばれるものです。活法(かっぽう)はその裏技です。人を救うのが活法です。

だから、活法にもルールがありません。あるのは上手な人に共通する法則です。発売されたばかりなので宣伝させてください。

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■表現するための身体


原始的な観点から見れば、身体運動を追究する目的の一つは「戦いに勝つ(負けないで生き延びる)」です。もう一つは「コミュニケーションのための自己表現」です。

言語が使われる前から、人類はコミュニケーションをしていたわけですから、(言語にならない)発声や、身振り手振りで気持ちや状況を伝えていたはずです。

今も昔も、ダンスは自己表現の手段です。表現する目的は「仲間に入れてもらう」ためです。身体を動かすことは、仲間作りにとって重要だったわけです。バレエも例外ではないでしょう。身体表現の手段に注目したいので、ここではショービジネス歴史とは切り離しておきます。


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バレエと言えば、何と言っても柔軟な身体です。常識を越えた関節の使い方をします。運動学的に見たら、いつ関節が壊れてもおかしくない姿勢を取り続け、そこに重力を受け続けます。ダンサーは、限界ギリギリを見極めてレッスンし舞台を演じています。バレエダンサーは綱渡りを続けています。一流になるほど、細い細い綱を渡っているのだろうと想像できます。

身体の使い方として見れば、バレエは合理的ではありません。日常では、そんなに脚を挙げる必要も、そんなに腰を反らす必要もありません。つまり、自己表現を目的した運動は、エネルギー効率を追究したものではないのです。武術やスポーツにおいては、身体のエネルギーがロスしないように効率を求めてトレーニングしますが、バレエは違います。

武術やスポーツが、エネルギーロスを最小にしようと身体を使うのに対し、バレエでは表現力を最大にしようと身体を使います。バレエはスポーツと混同されることがありますが、身体を使う目的が全く違うのです。



■肉体は有限、精神は無限


生きていくためには、肉体を守ること、そして仲間とつながること、この2つが同等に大事だと私は思います。どんなに強い肉体を持っていても、人間は一人では生きていけないからです。逆もしかり。どんなに精神性を磨いても病気になったら生きていけません。

武術は有限なる肉体への抵抗であり、バレエは無限なる精神への挑戦だと思います。身体運動として矛盾することを共存させることができるのは、動物の中で人間のみです。

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■生きるとは矛盾を抱えること


このように考えると、人の動きは矛盾の中にあります。この矛盾を上手に扱える人が人生の達人なのかもしれません。

人間は健康に良いことばかり選ぶわけではありません。患者さんと話していると、「なぜ身体に悪いとわかっていて、その行動がやめられないのだろう?」と思う場面があります。患者さんは「治りたい」と言っているのに、治りにくい行動もしてしまうのです。

医療者として「それはダメ!」と言い切らなければなりませんが、人間としては「わかるよ〜」と心の中でつぶやいています。いつだって、医療というのは矛盾だらけです。矛盾をわかった上で取り組まないと矛盾に苦しみます。

うまく対応するには「物事には二面性があって、どちらも正解なんだ」と考えることかもしれません。患者さんの二面性を意識するだけで変わるかもしれません。

「効率と表現」は、仕事全般にも言えることです。効率ばかり追いかけるとマシンですし、表現ばかり考えていては十分な利益を得られません。どう両立させるかが課題です。考えるんだ、クリ助。

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2016年08月21日

男子400mリレー。
おめでとう! すごいすごい! 本当にすごい!

個々のスピードの足し算では説明できない速さ!
みんなが言っている、誰もが言っているバトンのテクニック。

あまりにも興奮しすぎてNHKがYouTubeにアップした動画を何度も視聴。


不思議なのは、最後のバトン(桐生→ケンブリッジ)からゴールまで。
この10秒は神がかっているとしか思えません。


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アンカーにバトンが渡る前、横並び。
日本チームは健闘しているとはいえ、「世界に負けていないぞ」という印象止まり。
(ただ、キャプチャ画像を見るとケンブリッジ選手の脚が消えかかっている...!)。


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「まぁ悪くないな」という印象(上から目線でスミマセン)。
これから起こることには全く気が付いていない私。


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??? 頭が混乱に突入。


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んののの??? 夢と現実の区別がつかなくなる。


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ここどこ??? なになに???

結果を理解するのにだいぶ時間がかかりました。


選手のみなさん、ごめんなさい。
ハッキリ言って、決勝には期待していませんでした。
本当にありがとう。感動しました!

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2016年05月18日

「鍼灸の基本がマッサージである」という誤った説が蔓延しています。

私もこの空気に飲まれ、鍼灸と合わせてあん摩マッサージ指圧師の免許を取ってしまいました。今さらなことなので、後悔はしていません。学びの場では素敵な仲間と出会えましたから。


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■触診のスケール感

鍼灸が求める触診と、マッサージ系の触診では、スケールが全く違います。仮にマッサージを基準としてしまうと、ツボは、揉んだり押したりする時のスケールでしか捉えられないのです。はっきり言ってしまえば、親指の腹のサイズ感でツボを捉えることしかできないのです。これは鍼灸師として致命的なことです。

鍼をするということは、鍼の太さが基準です。ですから、少なくともミリ単位での触診が必要なのです。私の意見が入る余地はなく、鍼とはそういうものです。親指のスケールのままツボ探しをすることは、ゴルフのカップにサッカーボールを入れようとするのと同じです。成り立つわけがありません。


ゴルフ


マッサージと鍼灸を並行して行う場合、必ずスケール感を変えなければなりません。少なくとも2種類のスケールを使い分けることが必要なのです。使い分けなければ、鍼のみが持つ究極の鋭敏さが繰り出す効果には、決して出会うことができません。鍼灸の技術を磨くということは、鍼の鋭敏さに準ずる鋭敏な指先を作ることだと思うのです。こうした感性が伴わなければ、鍼灸の原典である『素問』や『霊枢』の価値に気づくことなく終わってしまう気がします。

東洋医学のベースとなる東洋思想はスケールの大きなものです。しかし、それは「細かいことは気にせず大雑把にぼんやりと考えろ」という解釈を許すものではありません。鍼という極限まで小さな道具を生み出しているのが、その証拠です。


■鍼灸の刺激の本質は「量」ではなく「質」にある

触れる面積が少ないほど、体は敏感に反応します。これは、触れる際の力学的なエネルギーに比例していないということです。

物理療法でありながら、物理的な刺激量では計れないものが鍼灸にはあるのです。少なくとも鍼灸の本質を語る時「量」では言い表せないのです。ですから、鍼灸は刺激の「質」こそ重要です。「質」とは、鍼灸による刺激を人体がどう解釈するかです。

接触するだけより刺入した方が優しい刺激になるということが起こります。極端な言い方なようで極端ではありません。「痛くないから優しい、痛いから優しくない」と分けることもできません。

ついでに言うと「気持ちいいから優しい」というわけでもないのです。マッサージで気持ちよい刺激ができるようになったからと言って、鍼灸における良質な刺激を生み出すとは限りません。なぜなら、鍼灸とマッサージは求められる技術の次元が異なるからです。


■種目が違う

鍼灸とマッサージ、それぞれ上手いという専門家は確かにいます。それは、シンプルにそれぞれが上手いのです。揉んで揉んで...を繰り返すだけで鍼灸の方が勝手に上手になるわけがありません。気持ちのいい触り方は上手になるかもしれませんが...。バレーボールを練習しても、バドミントンが勝手に上手くならないと全く同じ理由です。種目がそもそも違うのです。


球技のボール


患者さんの“今”の「気持ちいい」を引き出す慰安的マッサージをいくら研磨しても、患者さんの“未来”の「変化」をもたらす技術にはなりません。

裏返せば、慰安的鍼灸を追究するのであれば、マッサージの延長上に鍼灸を配置することができるかもしれません。


■鍼灸を慰安にしたのは誰か

そもそも、鍼灸の歴史は慰安の歴史ではありません。古典の中に慰安の話を見つけるのは容易ではありません。

慰安を行うことが悪いと言いたいのではありません。ただ、鍼灸で慰安を極めるのは、分が悪すぎるのです。ただでさえ、食べていくのが難しいと言われている鍼灸師。就職先を探している鍼灸師に「鍼灸の基本はマッサージである」というレトリックは都合がよいのです。修行という名目で安価に医療系国家免許所有スタッフを雇用することができるからです。

繰り返しになりますが「鍼灸+マッサージ」という組み合わせが問題の本質ではなく、マッサージが上手になれば鍼灸が上手になるというレトリックが問題の本質です。ここに気が付かないと、いつまでも、慰安と医療の混合施術から抜けることができず、自分の価値を正当に評価してもらう機会を得られなくなります。

私は、マッサージ経験を持たない優秀な鍼灸師をたくさん知っています。彼らは「マッサージが基本ですよね」とは決して言いません。


■慰安と医療の区別(保存版)

私なりに、慰安と医療を区別してみました。このように考えると、揉んで揉んで...を繰り返しながら患者さんの気持ちよさを追究することと、患者さんの病気や怪我の回復を追究することと根本的に構造が違うのです。


慰安的医療的



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yoki at 22:12│Comments(4)このエントリーをはてなブックマークに追加
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