2005年04月01日

四日市が「市」である所以 【5.四日市の産業を創った先駆者たち 前編】 

今や四日市だけではなく県全体に経済波及効果を及ぼす四日市港。
平成13年度の四日市港管理組合による調査によると
その経済効果は市に約3700億円、県に約7000億円を
もたらしているとしています(総生産額)。

そんな四日市港はそもそも和船問屋の稲葉三右衛門という一個人が
明治6年から実に11年もの長い年月をかけて
私財をなげうって修築した、その細かい経緯は
前回、前編と後編に分けて記したと思います。

今回はそうした四日市はおろか県を代表する産業基盤となった
四日市港、そして背後地の盛んな流通をもとに
近代産業の先駆者たる先人達が四日市の産業の礎をつくっていった
その経緯について、駆け足で見ていきたいと思います。


第一国立銀行(のちの第一勧業銀行)四日市支店跡地





四日市港が完成し、その港湾物流マーケットに最初に着目したのは
銀行や商工会議所のシステムをはじめて日本に紹介するなど
日本産業界の礎をつくった渋沢栄一でした。

既に1873(明治6)年、日本政府は渋沢の指導の下
国立銀行条令によって本邦最初の銀行、第一国立銀行を創立し、
貨幣鋳造とともに間接金融による事業振興に
日本ではじめて取り組んでいたのですが、
当初は一般民衆の銀行に対する仕組みや存在意義など認識が低く
当然信頼感もなく、預金する人もわずかで苦しい経営を強いられていました。
また大店の商人たちは、改進的な銀行を敬遠していました。

さらに1884(明治17)年には第一国立銀行の設立出資者であった
小野組が自身の経営不振で銀行から手を引き、資金繰りが悪化して
事実上の恐慌状態、銀行の存亡が本格的に危ぶまれました。
しかし、それでも渋沢は四日市港が稲葉の手により完成すると
四日市支店を東海地方ではいちはやく設立しました。
(上写真は現在の第一国立銀行跡地。市の管理下にあるようです)


その渋沢が四日市の実業界でいちはやく目をつけたのが伊藤伝七でした。
当時伊藤は川島地区などで各地で紡績業を試み始めていたのですが、
各地点々に運営しており、採算も取れず経営は火の車でした。
そこを渋沢は統合などで事業の合理化に携わり、その援助が実を結んで
1886(明治19)年伊藤は三重紡績会社を設立しました。

その後三重紡績会社は同じく日本では紡績業のパイオニアであった
大阪紡績会社と合併、現在の東洋紡となり世界一まで上り詰めます。
その東洋紡、現在は本社は大阪に置かれていますが、
最初の本社は四日市に置かれていました。

現在も四日市港は羊毛の輸入が盛んですが、
そうした歴史的な経緯が含まれていたのです。

(後編へ続く)

yokkaichi_man_mie at 23:00│Comments(2)TrackBack(0)四日市の紹介 

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この記事へのコメント

1. Posted by sat_escaper   2005年04月02日 00:54
トラックバックありがとうございます。
勉強になります。

故郷に関するお話でこれだけの情報を発信できるなんて
すごいなぁと驚いてしまいました。

またお邪魔します。
2. Posted by 無頼庵   2005年04月04日 00:39
sat_escaperさん、コメントありがとうございます。
返信がやや遅れてしまい申し訳ありませんでした。

最近は更新のための取材が足りない状況で大変ですが、
これからも故郷についてより深くわかりやすく
掘り下げてがんばってまいります、自分のためにも。

また覗きに来て下さいね!

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