2009年01月

2009年01月31日

不思議です

92d1c2b2.jpg今、先日知床のある斜里へ行った時に浮かんだ曲を編集してるって話はこの前したんですが、その資料集めで見つけたこの文。

津軽藩士がロシアからの攻撃から国家を守るために斜里へ出向き、冬を越せず、多くの命が亡くなったという事件

家老が書く藩の日記にも記載されず、どこで死んだかも知らさせず、ただ待つだけしかなかった家族たち・・・


クタビレ爺イの面白日本史というサイトでこのことについて詳しく記載しています。



かなり長いですが津軽人は必ず読んで欲しい。

        絶望の防人『北の黒船事件』

北海道・斜里町、毎年夏になると青森・弘前市の『ねぶた』がこのオホーツクに面した北の町を練り歩く。なぜ津軽の夏祭りが北海道で行われるようになったのだろうか?実はこの祭りの裏には幕末の日本を震撼させた事件が起きていたことが隠されている。津軽と斜里を結び付ける事件とは、ペリーが浦賀にくる五十年も前に日本の北辺にロシアが南下して来た所謂北の黒船事件である。                         事件は1806年に始まった。当時蝦夷地と言われていた北海道周辺に、突然ロシア軍艦が襲来し砲撃を始めたのである。鎖国日本を揺るがす大事件であった。防衛の最前線となった斜里には津軽藩士が送り込まれたが、ロシアと戦うこと無く斜里の地で壊滅、その事実は闇に葬られて終った。十九世紀の初期に斜里で何が起きたのか?唯一残された隊士の日記によってそれは明かになった。
斜里は知床半島のオホーツク側の根元に在る。知床とはアイヌ語のシレトク(地の果て)から来ており、現在でも原始そのままの自然景観が残っているから当時としては想像外の僻地であったと思われる。
ロシア船の最初の襲撃は1806年 9月の樺太襲撃であり、当時樺太の南部にあった松前藩の出先も突然襲撃を受け、倉庫が焼払われた。砲撃は一度に止まらず、翌年の四月には択捉島の番屋、六月には利尻島周辺の日本船が焼討ちにあい、米・塩・酒を略奪されて居る。突然の襲撃に日本側は手も足も出なかったという。択捉島には津軽藩・南部藩の警備兵二百人がいたが、銃を乱射しながら上陸するロシア兵の前にただ右往左往して逃げ惑うばかりであった。
なぜロシアは攻撃を仕掛けて来たのか?早稲田大学にロシア船が樺太に残した文書の写しが保管されて居る。これはロシア側の占領宣言であり、もともとは真鍮の板に刻まれ、村に高々と掲げられていたものである。文面によれば新たに占領したこの島を(好奇心)となずけ、村長に皇帝アレクサンドル一世の名において勲章を授けている。その事で村長以下はロシア臣民にされてしまったことになる。村を占領し一方的にロシアの領土を宣言する事は日本側から見れば真に侵略である。
警備兵惨敗の知らせは直ちに江戸に伝わり、ロシア軍艦150 隻、兵力一万人が攻めてくる、松前藩の前の藩主がロシア側に寝返ったなどと町中では瞬く間にデマが広がった。町人たちは幕府の無策を笑う落首を詠み始める。例えば『蝦夷の浦に打出見ればうろたへの不時のさわぎに武器はふりつつ』『玉込めて筒の空音ははかるとも世におろしやの船はゆるさじ』のような類である。                             幕府は直ちに蝦夷地警備の強化を決定し、1807年東北諸藩に三千名の出兵が命ぜられた。東北諸藩の一つ津軽藩にも出兵命令が届いたのは五月二十一日のことである。そして二十四日に藩士たちに出陣が命じられる。このとき出陣し運よく帰還できた藩士の日記が残されていたのである。その日記は昭和二十九年に発見された『松前詰合日記』と言い、筆者は当時二十二歳の足軽斉藤勝利、出陣から帰国までを詳細に書き記している。十七か月に及ぶこの詳細な記録は日本を震撼させた事件を一兵卒の目で見た貴重な記録である。
5/26朝、斉藤たちは弘前城下を出発する。支度金は三両二分(78.000円相当)が支給されているが、金が支給されたのは出発の前日の夜であり、支度品を買い整える暇もない慌ただしい出発であった。斉藤たちへの命令は最初は箱館への出陣であった。この箱館は周知のごとく、古くはアイヌ語で『宇須岸ウスケシ』と呼ばれていたところで15世紀半ばに河野政通が半島の突端にある臥牛山とも別名のある函館山の麓に館を建てその形が箱に似ているので『箱館』となずけられたが、1869年榎本武揚の投降で箱館戦争終結後に『函館』と改称されている。                               所が彼等が箱館に着くと直ぐに今度は樺太に近い宗谷への転身が命ぜられ、一か月近い旅の末、宗谷に到着した斉藤たちは、事もあろうに更に遠い斜里に赴くように命ぜられてしまう。函館から斜里までの千キロの道を斉藤たち津軽兵は黙々と歩き通したのである。 ここ斜里からは知床半島の付け根に聳える美しい山『斜里岳』が良く見えるが、斉藤たちの故郷津軽の岩木山に似た稜線を持つ斜里岳など、雄大な自然を楽しむ余裕が斉藤たちにあったとは到底考えられない。当時の斜里にはアイヌの小さな村があったきりだったので斉藤たちは先ず自分たちの生活の場所を作る必要に迫られたのである。記録には『御長屋幅三間、長さ十間にて丸太柱を斜里表にて切り組み申し候……』とあり、津軽兵の生活は陣屋の建設から始った。百人の隊員が暮らすためには三棟の長屋が必要であった。しかし慣れない大工仕事はなかなか捗らず全ての陣屋が完成するまで三か月が過ぎて終った。 日記は『陰地にして朝は明け方遅く、日暮れは早く常々曇りて相見えし候…』と続く。周辺湿地帯の陣屋でオホーツクの短い夏は早くも終ろうとしていた。
斉藤たちの陣屋跡は斜里町がこの日記を元に推定し、海岸近くにその記念碑が建てられている。郷土史研究家によるとこの場所は湿地帯と川に挟まれた砂丘のような場所であったが、海が荒れて川に海水が逆流し、川水を飲料水としていた彼等は大いに難渋した筈であるし、陣屋とは言っても今で言うバラックであり、とても人の住める様な代物ではなかったようである。
日記には警備を始めることになったときの彼の思いが認められている。『ロシア船渡来、陣屋焼き払いの砌り、御人数見苦しき体にて……』彼の頭の中にはエトロフ島が襲撃にあったとき逃げ惑うばかりであった津軽兵の失態が蘇り、あの惨敗を繰り返す事は出来ないと言う津軽藩士の誇りと気負いが厳しい日々を支えて居たのである。長い太平の世の中でいきなり降って湧いた外国からの襲撃は彼等にも大きなショックとして感じ取られていたようである。江戸市中でも武具や馬具が売り切れたと言うから地域だけの騒ぎでは無かったのである。
しかしどうして斜里かと言うと、地球儀を上から見て、つまり地図をロシアから見ると良く分る。ロシアからすると不凍港が欲しいと言う事で南に真っ直ぐ行くと北海道の知床にぶつかる、そして知床の半島部分は全て断崖絶壁であり、着岸できる一番近い海岸線は斜里なのであるからここを中心として防衛ラインを引くと言う戦略は間違って居ない。
ロシア船来航の前触れを少し整理して置くと、ロシアの南下政策は十七世紀から目立っており、元禄年間の1688年には既にカムチャッカまで到達し、1711には千島、アメリカが独立宣言した二年後の1778年には国後島、根室に来航し松前藩に通商を求めたがこれは拒否
して居る。例の大黒屋光太夫がアリューシャンに漂着するのはこの五年後の1783年。  日本では天明の飢饉の真っ最中の1786にもロシアは蝦夷に現れたりするので幕府は本格的に蝦夷地の調査に乗出し、1793年〜1795年に最上徳内が樺太・エトロフ探検、1798年には近藤重三がエトロフを帰順させ、同年伊能忠敬の弟子の間宮林蔵が樺太に渡り樺太が島である事を確認している。因みにフランス革命は1789年である。
さて襲撃に至る火種は1792年に根室に来航し通商を求めたロシア使節の『ラックスマン』である。彼はロシアの陸軍将校であり、最初の遣日使節となる。おまけに長い異国暮らしから漸く帰還できた大黒屋光太夫など三人の漂流民を連れてきており、根室に到着後、翌年箱館で幕府の目付・石川忠房と会談、シベリア総督の公文書を提示したが受理されず帰国したが、後の『レザノフ』訪日の端緒となった。この頃日本では豪腕で鳴らした松平定信が老中を辞し同時に寛政の改革も終結したときである。
その後、1795年には蝦夷地で再びロシア船が日本船の貨物を収奪、1797年ロシア人のエトロフ上陸などがあり、同年幕府は老中を総裁とする蝦夷地ご用係を設置し、東蝦夷を幕府直轄とし、1802年には蝦夷奉行を創設、箱館奉行と改称する。
そして1804年、ロシアの貴族であり、商人でもある『レザノフ』が外交官として先のラックスマンの果たせなかったロシア皇帝としての正式の通商条約締結を求めて長崎に来航する。彼は北太平洋の漁業・貿易・植民の特権を持つ露米会社の創設者でもあり、重役を兼ねて居た。彼のパートナーは毛皮商のシェリコフであり、この時乗ってきた船はロシアの航海者にして提督のクルゼンシテルンのものであり、彼は北アメリカのロシア領植民地と日本・中国・ロシア本国を結ぶ交易路の確立のためロシア初の世界周航を指揮している途中であった。この時期なぜ、正式の通商を求めてきたかと言うと、その理由は毛皮でありロシア科学アカデミー日本研究センター所長のサルチコフ氏は『当時極東地域で毛皮猟に携わっていたロシア人は食糧不足で次々と死んでいたので、日本に交易を求め食糧を補給しようとしたのである。19世紀の初め、ロシア人はラッコの毛皮を求めて北太平洋に進出してきていた。ラッコは最高級の毛皮としてヨーロッパ貴族に珍重されて居たのであり、毛皮一枚がロシア貴族の年収に相当するような高値で取引され、その莫大な利益はロシア政府の重要な財源になっていたのである。このラッコ猟の最大の問題が食糧の補給であったのである』と言う。しかし幕府は半年もの間、レザノフを長崎に留め置いて、その揚げ句に鎖国を理由にしてこの申し出を断り、国外退去迄も求めたのである。無念の内に帰国の途に付いたレザノフは、部下に千島・樺太の砲撃を命令する。それが1806年の事件である。しかし何故レザノフは攻撃迄命じたのか?昨年、岡山大学の研究室がロシアの公文書館で発見したのは襲撃までの経緯を示す文書である。それはレザノフが帰国後に皇帝に対して書いた日本訪問の報告書であり、彼の日本滞在中に極秘で集めた日本の国情に関する情報が120 頁に及んで記載されて居る。それによると『日本の商人は鎖国体制に大きな不満を持っており、皆が異国との交易を望んでいる。今回の交渉は失敗に終わったが幕府のこの決定はいずれ覆るであろう……』と書いてあり、もし北方で少し軍事行動に出れば幕府も方針を変えるであろうと言うことを示唆している。逆に言えばそうでも言わないと皇帝に申し訳が立たず、ロシアにも帰り辛いと謂う事であったかも知れない。しかしレザノ
フの思惑は外れ、1806年 9月の樺太襲撃から半年後の1807年 3月、幕府は蝦夷地全域を直轄領とし、1807年 4月の択捉島の襲撃後は1807年 5月に東北諸藩に出兵を指示し、国境警備の強化を計ることはやったが、交易を認める気配は全くなかった。この当時、千島などの関係で日本とロシアの国境ははっきりしていなかったし、その両者の間にはアイヌがいたりしていたので、日本はロシアに攻められて始めて国境を意識したのであるし、もっと言えば国家を意識したのである。

このような状況の中、斜里の津軽兵たちも厳しい警戒を続けており、月に三回は射撃訓練もやっていたが、 9月 8日に宗谷の守備隊から異国船沖合に見えたとの連絡が入り、斜里でも厳戒体制がひかれた。しかし外国船が斜里に姿を見せることはなかった。そして斜里に冬が近づいてきていた。それまで斜里の警備兵がその地で冬を超した事などなかったのに、遂に撤退の命令は来なかったのである。
その頃、江戸城ではロシアへの対応を巡って議論がおきていた。先の老中松平定信からロシアの要求を受け入れ、交易を差し許すべきであり、勝ち目のない戦をするより開国で事態を乗り切るように求める意見書が出されたのである。定信はロシアの攻撃に対応する十分な軍事力が日本にはないことを指摘している。『海辺之備左様に急にも難行届…』
しかし1807年12月の幕府の結論は『ロシア船打ち払い令』という徹底抗戦であった。この幕府の強硬路線には事件を巡る国内問題があった。幕府の政治に口を挟む者が現われたのである。蘭学者の『杉田玄白』は戦争を避けるためには開国が必要であると説いたのに対して国学者の『平田篤胤』は断固戦えと主張し、それまで政治を独占してきて他からの口出しを許さなかった幕府の権威が揺らぎ始めて居た。幕府は自らの威信を保つためにロシアの武力を知りつつも、戦う姿勢を取らざるを得ず、各藩に対する出兵命令に繋がったのである。こうして斉藤たちの斜里での冬越しは決ってしまった。
『吹雪強く寒気いよいよ増し候…』11月の日記である。10月には早くも初雪が降った斜里は既に一面の銀世界であった。吹雪は急ごしらえの陣屋の隙間から容赦なく吹き込んで、しかも函館警備を想定した兵士たちの準備した冬支度は僅かに綿入れ壱枚のみであった。慌ただしい出陣のため布団も十分にはなく、準備不足の越冬は津軽兵たちに猛烈な寒さとの戦いを強いたのである。オホーツク沿岸では真冬には零下二十度を下回り、ぬれ手ぬぐいが板のように凍るのに一分とは掛からない。しかし斉藤たちを脅かしたのは寒さだけではない。『大海氷張り日増しに大山のごとく相成申候、皆々驚入申候…』流氷の到来である。最近では流氷がオホーツクの沿岸に来るのは 2月中旬であるが、斉藤の日記に因ると1807年は 11 月には既に海は凍って居たのである。流氷の訪れと共に斜里の冬は益々厳しさを増してゆく。
もう一つ彼等を襲った試練は正体不明の病であった。斉藤はこの病を『浮腫病』と書いて居る。一人目の発病者が出たのは十月七日であるが、当初津軽兵たちはこの病気が大変なものであるとは思って居なかったらしい。一か月半の間、病人は寝たきりのまま突如息を引取った。日記から分かる津軽兵の食べ物は塩・味噌・漬物であり、生魚は七か月間も口にしていない。現代医学から判断すると栄養失調の上にビタミンB1 の不足からくる重度
の脚気である。脚気は悪化すると心不全を起こし死に至るものである。年が明けた 3月には津軽兵の全員がこの浮腫病に侵されてしまっている。連日のように誰かが死んでいっても墓穴を掘る人手もない状況の中で遂に100 人の内、 72 人までが同じ病気で命を落してしまった。残りの兵士も気力を失い共に哀れを催したと日記にはある。
いかに寒い津軽出身と言えどもこの驚愕すべき寒気と流氷は体力より前に気持ちが先に負けてしまったのであろうし、津軽兵にとって自国を守れ、自分の家族を守れと言うなら気力も出るが、訳も分からず、見知らぬ土地で見えない敵に対してそれまで意識のない『国境』を守れと言われても、張り合いのない事であったと思われる。恐らく日本史の中でも最も過酷な事件であると言える。
漸く斜里に遅い春が巡ってきたとき、斉藤はひとりのアイヌの青年と語り合った。アイヌがどうやってこの厳しい冬を乗り切るかとの問いに、アイヌもここでは冬をこせずに、山を越えたクスリと言うところに行くのだと教えられた。それは斉藤が始めて耳にする情報であった。『夫れとは不知、右の場所え御人数詰合被差置候ゆへ、病死の者も多く御座候儀は尤もの事に候…』淡々とつづられる日記の中で斉藤が思いを露にしたのはこの時だけである。斜里に着いて一年後の1808年帰国命令が来た。長い警備が漸く終りを告げるのである。斉藤は長さ二間の墓標を立て、遺骨の代わりに周りの砂を持帰った。この年の末、幕府は津軽藩に警備の功績によって三万石の加増を行ったが、斜里の悲劇が公にされることはついに無かった。斉藤が書き綴った日記の表紙にも『他見無用』とある。
空前の危機に戦うポーズだけで幕府が守り通した威信、それが木っ端微塵に砕け散るのは1853年ぺりー来航の時である。
斉藤は日記を他見無用としながら書き残している。本当に他見無用なら書かなければ良いのに斉藤は津軽藩、幕府に気兼ねし隠したが、いつか後世の人が理解してくれると信じたに違いないし、もしこれを公表して反省材料としたならば、その後の日本はもっと違う、もっと旨い対応を外国に対して採れたかもしれない。
斉藤たちが去ってから一年後の斜里に犠牲者の供養のために一人の商人が訪れたが、その時の記録が斜里の禅龍寺過去帳の中から見つかったのは1953年の事であり、その商人は僧侶を連れて行ったらしく犠牲者全員に戒名が付けられていた。その戒名には『山』とか 『岳』という文字が多く、遂に故郷の岩木山を眺める事が出来なかった男達の霊を慰める為であったろうと言われている。そして今から15年前から、津軽兵の供養のために青森の『ねぶた』はオホーツクの小さな町、斜里の夏の夜を彩るようになったのである。



ここからは斜里のねぷた「役場ヤーヤ・ドーする会」から転載です。

慰霊碑の建立と慰霊祭
斜里町民は、この悲惨な「津軽藩士」の霊を慰めるため1973年(昭和48年)に「津軽藩士殉難慰霊碑」を建立し、第1回の慰霊祭を行い、現在も毎年7月下旬に行われています。

斜里ねぷたの由来
 斜里町民が「津軽藩士殉難慰霊祭」を行っていることが縁で第10回目の「津軽藩士殉難慰霊祭」の年である1983年(昭和58年)2月に「弘前市」と友好都市の盟約を結びました。
 この盟約を記念して、同月7月に「弘前ねぷた」が斜里町に伝授され「しれとこ斜里ねぷた」が始まりました。



慰霊碑に行った時、すごく穏やかな空気が流れていたのはそういうことだったんですね。


相馬に引越し、

「ヒロブログ」の主であり斜里の笛師である「G」さんと出会い、

マイミクゆーちゃんから昔のお山参詣の囃子、古田節の音源を貰い、

正月明けに仕事で3連休をもらい、斜里に行きたいなと思い、

GさんにTELしたら「丁度、今、ぶん太。さんを呼べないか?と話していたところ」といわれ、

あえて鉄道で斜里に行き、車窓から見える景色から新たなメロディーが生まれ、

S48年に建立された津軽藩士殉難慰霊碑には、弘前ではなく、私が引っ越した先の相馬地区の石が使われ、


藩士へのねぎらいの思いと、車窓からから浮かんだメロディーを曲にして斜里の皆さんとの交流会で吹き、

また、斜里の歌姫・チキ☆バンさんと共演し

津軽藩士にその当時の「お山」への囃子、古田節を献奏し、

次の日は地元の人もあまり見れない快晴の知床連山を眺め、藩士が喜んでくれたんだと感謝し、

斜里のとざけんの皆さんに登山囃子の指導をし、交流を深め、

また、交流会で演奏した、斜里で生まれた曲を歌にしてチキ☆バンさんに歌ってもらおうということになったり、

その曲のPVを作っていたら、やはり岩木山を入れたくなり、PVの途中に3回も入れ、藩士の思いを!と思ったら、ブログに戒名の話(山・岳が多いのは岩木山への思いを気遣っての事という文面)が出てきたり・・・


ここ何年かの私の一連の事はおそらくこのための導線であり、必然なんだなぁと思う。

なんか不思議だね。




クタビレ爺イの面白日本史

http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuunihonshi/e/8e81eff40ed0c17f3eddd8ee0ccd4937

yokohuehukyuu at 22:18|PermalinkComments(6)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2009年01月27日

やっと半分o(^o^)o

ここ最近新曲を作っております。
と言っても、メロディは斜里に行った時に出来ているんですが、コードと笛以外に使う楽器のチョイスに手間取っています。
昨日やっと私が感じた景色の見えるサウンドになって行くめどがついてきました。

ここからは楽しい作業なので毎日ワクワクです!


こうご期待!


yokohuehukyuu at 15:19|PermalinkComments(4)TrackBack(0)この記事をクリップ!ぶん太。の想い 

2009年01月26日

津軽人だなぁ

9d9064e7.JPG最近知床の絶景の事ばかり話してましたが、津軽の景色もやはり素晴らしい!!

仕事行く時にこんな景色見たらテンション上がります。



今日も一日お願いします。


お岩木さま(^-^)


yokohuehukyuu at 08:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!ぶん太。の想い 

2009年01月25日

恐縮です。

d342ddff.JPG
b6bfe595.JPG
最近公私とも少しバタバタバタバタバタコさんして日記の更新をお休みしてました。
でも、これは載せないと!!
昨日斜里からお届けものがありました。

ミニライブのDVDと知床の絶景のCDーR




今、知床で生まれた曲と斜里で生まれた曲を編集中なんですが、早く作って斜里の皆さんに聞いてもらいたいです!!


また、今日のお昼は斜里で頂いた焼きそば弁当。

美味しいかった!


yokohuehukyuu at 12:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!ぶん太。の想い 

2009年01月18日

新春岩木大会について

今年も登山囃子大会がやって参りました。
まだ大会を見に行った事が無い方の為に少し説明します。

登山囃子競演大会は、この登山囃子というものを広く知ってもらい、また各愛好者の交流、技術向上を目的に行われ、大会自体は60年を越える歴史があります。

お囃子が盛んな青森県津軽地方の中でもこの登山囃子は最も難易度が高く、この登山囃子大会で優勝する事は津軽で一番の腕前を持つ囃子手という事になると言っても過言ではありません!!

秋の年中行事、お山参詣で毎年行われる登山囃子本大会で優勝したただ一組だけがその年の11月3日に岩木山神社で行われる新嘗祭で津軽の囃子手代表として奉納演奏することを許されます。


その本大会に向けた今年一回目の大会が下記の通り開催されます。


2009年1月18日(日)

第3回登山囃子新春岩木大会

午前10時より

場所・岩木中央公民館

ちなみに登山囃子大会はどちらの大会も入場無料ですので、どうぞお誘い合わせの上お越しください!


津軽で一番の囃子手を見るチャンスです!!


yokohuehukyuu at 08:13|PermalinkComments(2)TrackBack(0)この記事をクリップ!ぶん太。の想い