マルコによる福音書3章13~19節

13)イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。

14)そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、

15)悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

16)こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。

17)ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。

18)アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、

19)それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。



「使徒の選び」


 イエスさまは、その公生涯において何人もの弟子を作られたのですが、その中でも十二人を選び、「使徒」と名付けられたと今日の聖書個所には登場します。

 しかし、今日の聖書個所にもあるように、イエスさまはそのようにしてご自身でお選びになった使徒の一人によって裏切られ、ローマの官警に捕らえられてしまうのです。


 その十二人の使徒の一人が「イスカリオテのユダ」として知られる人物であるのですが、このイエスさまが使徒を選ばれたという出来事には、色々と考えさせられることがあります。


 たとえば、先のマルコによる福音書2章において、イエスさまは中風の人のいやしを行われるところで、数人の律法学者たちが心の中で考えていることを、「御自分の霊の力ですぐに知って」と言われています。


 イエスさまは、神さまからの聖霊の力を受けて、様々な奇跡を行われるわけですが、そうした奇跡に類する事柄として、人の心の中の思いまで知ることができたことがマルコによる福音書には記されているのです。


 しかし、そのようにしてイエスさまは人の心の内を知るという聖霊の力を持ちつつも、しかし、ご自身がお選びになったイスカリオテのユダによって、逮捕され、結果的に十字架において処刑されてしまうのです。


 マルコによる福音書を読んでいて、まず、わたしたちが疑問に思うことが、イエスさまは人の心の中を知ることができたのであれば、なぜイスカリオテのユダを使徒に招き入れたのだろうか、という疑問です。


 そして、そうした疑問に対して、当時のキリスト教会においては、様々な憶説が飛び交いました。


 もっとも知られているのは、イエスさまは聖霊の力を受けた時に、ご自身の十字架の死に至るまでを理解され、そして、イスカリオテのユダによって裏切られることをもイエスさまは知っておられたのだという考え方です。


 また、それ以外の解釈として、これは異端的であるとして歴史的に退けられたものとして、実は十二使徒の中でイスカリオテのユダこそが全てを理解しており、イエスさまを裏切るという汚れ役を担ったのだという、むしろ、イスカリオテのユダこそがイエスさまのことを一番良く知っていたのだという説であり、これは「ユダの福音書」という福音書が、今から19年ほど前に研究者たちによって発見されたことから世に知られるようになりました。




 さて、イエスさまによって選ばれた十二使徒たちですが、今日の聖書個所を読むとわかりますが、あまり詳しいことは書かれていません。


 また、福音書を読み進めていくと、十二使徒たちというのは、決してイエスさまの一番の理解者ということではなく、マルコによる福音書ではイスカリオテのユダだけではなく、シモン・ペトロも、イエスさまのことを三回、「知らない」と否定し、それ以外の使徒たちも、イエスさまが逮捕されたその時、イエスさまのことを見捨てて逃げていったのです。


 他のマタイによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書を読むとわかりますが、使徒たちに対して、復活のイエスさまが姿を現すという記述があります。マルコによる福音書も、後代の加筆として、十二使徒たちに復活のイエスさまがあらわれたことを記録していますが、もともとマルコによる福音書は16章8節で終わっていたとすれば、マルコによる福音書は、十二使徒たちについて、あまり良いことを記録していないことになるのです。


 マルコによる福音書はそうした意味で、十二使徒たちを決して特別扱いしているわけではないことが見えてくるのです。


 では、イエスさまはなぜ、そうした他の弟子たちと別にして十二使徒たちを指名されたのか、そうした点を覚えて今日の聖書個所をみていきたいと思います。


 さて、今日の聖書個所において、十二使徒たちを指名した理由が記されています。それは14~15節の記述になるのですが、以下のとおりです。


 「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:14~15)


 ごく当たり前のことですが、イエスさまによって召された十二人の使徒たちは、イエスさまの宣教活動における補助を担当する、専属の担当者として任命されたのです。


 ただ、ここで注意しなければならないのは、この十二人たちがイエスさまの死後、復活された後も、そうしたイエスさまの特別な権威を継承する権威者であったとは記していない点にあります。


 しかし、イエスさまは、そうした使徒たちの一人としてイスカリオテのユダを使徒の中に含めたのです。


 人の心の中を知ることのできたイエスさまにとって、イスカリオテのユダを使徒に含めるということは、色々と心の中で葛藤があったかもしれません。しかし、イエスさまはそうした人物をも使徒の一人としてご自身の身の回りに招き入れたのです。


 そういう意味では、イエスさまのそうしたお考えというのは、まさに単純に良いか悪いか、ご自分にとって有益であるか否かというような事ではなく、そうした敵であるとか味方であるとかを越えて、十二使徒の一人に招き入れられたのです。


 その意味で、わたしたちが教会に招き入れられていることは、実にすごいことであると思います。


 わたしたちは、ある意味で、この教会に、イエスさまによって「これと思う人々」として招き入れられているからです。


 もちろん、わたしたちがこの五井教会に集うのは、それぞれの意思によって、決断によって集っているわけですが、しかし、大切なのは、その選びが、まさに神さまによって、主イエス・キリストの名によって招かれているからです。


 当然、「あの人とは意見が合わない」ということもあるでしょう。十二使徒たちでさえ、仲間内で自分たちの序列について喧嘩したりするくらいですから。


 しかし、そうしたわたしたちの思いをはるかに超えて、イエスさまはわたしたち一人ひとりをこの教会に招かれたという事にあります。なぜなら、それこそが、わたしたち一人ひとりをイエスさまが愛しておられることの証拠であるからです。


 わたしたちは、この世において、様々な形でイエスさまの、神さまの御愛を経験することができます。それは祈りを捧げることができることも、この世における神さまの御愛に基づくものであり、イエスさまがわたしたちを覚えて愛しておられる事実に基づくものです。


 その意味で、わたしたちの身の回りにおいて、実は、様々なかたちで神さまのわたしたちを愛する愛が現実のものとして実現していることを、この聖書個所は示しているのです。


 それは弟子たちの人格や能力によるものではなく、まさにイエスさまがご自身の名において召されたという事実に基づくのです。


 だからこそ、イスカリオテのユダでさえ使徒に招かれたイエスさまの深い御愛が、実はこのところにおいて示されているのです。


 時に、わたしたちは自分自身の弱さによって神さまに対して背を向けてしまうことも多々あります。しかし、だからと言って、神さまはわたしたちを見捨てることはありません。なぜなら、神さまの御愛は、まさにイエスさまによる招きに根拠があるからです。


 だからこそ、わたしたちはこの世において、わたしたちを招いてくださる神さまの御愛に応答する者として、礼拝を守り、礼拝において感謝の気持ちを捧げるのです。


 キリスト者とは、決して、何かしらの訓練を経て、試験を通じてなるものではなく、神さまの御自愛によって、主イエス・キリストの名によって召されることを通じて、キリスト者とされるのです。


 それは神さまの深いご自愛の出来事であって、神さまがわたしたちを愛してくださっていることのこの世における偉大な奇跡として、わたしたちは神さまを礼拝するのです。


 今朝、わたしたちはそのように神さまによって覚えられ、愛されていることを覚えつつ、地上における生涯を、感謝をもって歩んでまいりましょう。


 お祈りします。

 

 マルコによる福音書2章1~12節
1)数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2)大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
3)四人の男が中風の人を運んで来た。
4)しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
5)イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
6)ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
7)「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
8)イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9)中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10)人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11)「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12)その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


「わたしたちを憐れむ神」

 先に、マルコによる福音書について、マルコによる福音書を著したのは十二使徒の一人ではなく、その弟子のマルコであることをお話ししました。この福音書記者マルコについて、もう一つ補足して言えば、このマルコという弟子は、使徒言行録12章、15章に登場するヨハネ・マルコのことであると言われています。

 使徒言行録12章において、ヘロデ王が初代教会の主だったメンバーであるヨハネの兄弟ヤコブを殺害します。このヤコブとヨハネは、十二使徒で、ゼベダイの子として知られるヤコブとヨハネでした。

 そして、ちょうどヘロデ王はヤコブの次に、十二使徒の一人であるペトロを殺害しようと逮捕し、その時、ペトロのために教会では熱心な祈りがささげられていたと報告されています。

 その後、主の天使がペトロにあらわれ、ペトロはその導きで牢を脱出して、この教会へとやってくるのですが、この教会というのが、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家であって、マルコと呼ばれていたヨハネは、その母マリアが主催するエルサレム教会の一つに所属しており、またペトロや、15章ではバルナバの弟子として、初期のキリスト教の中にあって、重要な働きをしたのです。

 そうしたマルコと呼ばれていたヨハネ、ヨハネ・マルコと言ったりしますが、この人物が、ペトロたちの語ったイエスさまについての話を書き留めたものが、このマルコによる福音書なのです。

 そして、このマルコによる福音書には一つの特徴がありました。それは何かと言うと、イエスさまの人間としての面、つまりマルコによる福音書を読むと、イエスさまの人柄が見えてくるのです。すなわち、イエスさまの人間としてのご人格が分かる福音書が、このマルコによる福音書なのです。

 さて、今日のこの聖書個所はある中風に病む人を四人の男の人たちがイエスさまのところに連れてきて、その病をいやしていただくという物語の箇所です。

 教会学校の紙芝居なんかで、四人の男たちが屋根に穴をあけて、そこから中風の人を床ごと釣り下ろすという、ちょっと想像を超える出来事の聖書個所でもあります。

 しかし、皆さんのお手持ちの聖書個所のところを見ると、この出来事と同じことを扱った平行箇所としてマタイ9章、ルカ5章という記載があると思います。実は、この中風の人のいやしの物語において、中風の人を連れてきた人たちが「四人の男」であると記述しているのは、実はマルコによる福音書だけなのです。

 マタイによる福音書では「人々」、そしてルカによる福音書では「男たち」というふうに書かれています。

 この違いについて、皆さんはどう意味が変わってくるかわかるでしょうか?

 イエスさまがこの中風の人をいやされるそのきっかけとして、今日の聖書個所では、「その人たちの信仰を見て」というふうに記しています。先ほどの平行箇所では、マタイが「人々」、マルコが「四人の男」、ルカは「男たち」というふうに異なるのですが、しかし、イエスさまがその中風の人をいやすきっかけとなる箇所における表現、マルコでは「その人たちの信仰を見て」という表現は他の聖書個所も同じなのです。

 つまり、マタイ、マルコ、ルカによる福音書はすべて、イエスさまは「その人たちの信仰を見て」、中風の人をいやされるのですが、登場人物として紹介しているのはマタイ、マルコ、ルカで異なっているのです。

 つまり、この事はマルコによる福音書は「四人の男」という事が極めて重要な事柄として理解されているということなのです。

 ひとつずつ、紹介するとマタイの「人々」という表現の場合、「人々」には女性も含まれると解釈できるのです。場合によっては全員が女性であったということも可能であるわけです。

 逆に、「男たち」という場合、この場合、中風の人を連れてきた人たちが男性であることは分かりますが、「男たち」という場合には、意味として「不特定多数」という解釈になるのです。

 そうすると「四人の男」という表現が意味するところは極めてハッキリとしてきます。

 それは単純に四人の男たちということではなく、ある種、この中風の人を深く憐れんで、その憐みのゆえに、天井に穴をあけて床ごと、中風の人をつり下ろすという隣人愛の実践に生きた人たち。

 昨今、テレビでスーパーボランティアと紹介される方をテレビで取り上げていましたが、ここで言われようとしているのは、まさにこの中風の人を愛する四人の隣人の愛の行動を、イエスさまはご覧になり、その四人の隣人愛を受けて、イエスさまはご自身が神さまから与えられている罪のゆるしの権能を行使され、生きた命の言葉である「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」という祝福の言葉をかけられたのです。

 それはある意味で、わたしたちキリスト者の生き方を指し示すものでもあります。

 もちろん、わたしたちには、他の人の病気をいやしたりする力はありません。しかし、わたしたちは、そうした悩み苦しむ人たちに寄り添って執り成しの祈りを捧げることができるのです。

 ただ、注意すべきは、わたしたちはここで四人の男たちが天井に穴をあけて中風の人を床ごとつり下ろすという行動に出ましたが、その事は、わたしたちに直接、そのような困っている人、病んでいる人たちを助けるための具体的な行動を求めているのではない、ということです。

 大切なことは、わたしたちはキリスト者であって、キリスト者の本分は、まさに主イエス・キリストの名によって執り成しの祈りを捧げることにあるのです。

 もちろん、わたしたちがそのように祈ったからと言って、必ずしも、祈ったとおりの事が起こるわけではありません。

 その人がどのように神さまの取り扱いを受けるかについては、わたしたちは、神さまに祈ることはできても、命令することはできないのです。

 しかし、マルコによる福音書が示そうとしているのは、わたしたち人間が直接、神さまの御心を動かすことはできませんが、わたしたちの祈りを聞き給う神さまは、わたしたちを深く憐れんでくださる方であることをこの聖書個所は示しているのです。

 途中、イエスさまが中風の人に「あなたの罪は赦される」と語った事に対して、数人の律法学者たちが心に「この人は、神を冒涜している」と思うのですが、ここでイエスさまは「ご自分の霊の力ですぐに知って」、彼らに応えるのですが、イエスさまは、まさにご自分の霊の力によって、わたしたち人間の心の思いを直ちに知ってくださる方であるのです。

 わたしたちは、そのような主イエス・キリストの名によって、執り成しの祈りを捧げるのです。

 だからこそ、わたしたちの目には、何も起こらないように思えても、決して落胆する必要はありません。主イエス・キリストの名によって、祈る祈りに対して、神さまがその祈りを無視されることはありません。ただ、そうした執り成しの祈りによる神さまの御業は、わたしたちにとってあまりにも規模が大きく、わたしたちの目に入っていても、その事に気が付かないだけなのです。

 ですから、わたしたちは熱心に祈ることにしましょう。主は憐れみ深く慈しみは大きいとは、まさに詩編において度々告白される祈りであります。

 慈しみと憐みの主が、わたしたちと共にいてくださる生涯こそ、わたしたちにとって、大きな恵みと慰め、希望であるのです。

 お祈りします。

 マルコによる福音書1:1~8

1)神の子イエス・キリストの福音の初め。

2)預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。

3)荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、

4)洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5)ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6)ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7)彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

8)わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」



「イエス・キリストの到来」 


 キリスト教の歴史において、キリスト教の資料として最も古いものはパウロの直筆による手紙になります。それはパウロがまだ生きていた時代であって、パウロが3回にわたって宣教旅行を行うのですが、その途中において書かれたものとして知られています。

 西暦50年前後のことで、今日、わたしたちがキリスト教信仰を学ぶ上で重要なものでありますが、それは当時の教会の人たちにとっても同じでした。


 パウロがどうしてキリスト教信仰における重要な人物となったのかと言えば、まさに彼が記した手紙が、当時の人たち、つまり教会にとって共通の信仰の基礎となり、キリスト教の信仰を理解する上で重要な手紙として認識されるようになったからです。


 ところが、パウロは、まさに自分がこれから書く手紙がキリスト教の聖典とされるであろうことを意識して書いたわけではありません。歴史的にはパウロの意図とは関係なく、結果としてパウロの手紙が新約聖書の中に聖典として位置づけられるようになったのです。


 そして、それと同様にして、歴史的には福音書記者マルコによって、歴史上初の福音書がパウロやペトロの死後、およそ10年前後である紀元60年代に「マルコによる福音書」が成立するのです。


 しかし、福音書記者マルコも、もともと自分が書く福音書が、当時のキリスト教会全てにおいて聖典として採用されることを意識して書いたわけではありません。この事は、他の福音書にも共通していて、誰も、この福音書がキリスト教会における聖典であるとして書いたのではないのです。


 そして、なぜ、こうした理解が大切であるかといえば、『聖書』とは、ある日突然、天から降ってきたわけではないからです。


 わたしたちは『聖書』が神の啓示を受けて書かれたものであると信じていますが、しかし、それは信仰告白に基づくものであって、具体的には教会会議の席上において決められた決定に基づくのです。


 だからこそ、そうした多くのキリスト者たちの信仰的な働きを大切にする上で、わたしたちは『聖書』についての見識を深めることを通じて、実は、信仰の核心に近づくことができるのです。


 信仰とは個人的なものであるからこそ、わたしたちにとって自分たちの信仰を客観的に見つめることが大切であり、その事を通じて、わたしたちは信仰的な独善に陥ることなく、信仰を新たにすることができるのです。


 さて、歴史的には西暦66年から73年にかけて起ったユダヤ戦争において、エルサレムはローマ軍によって完全に破壊されます。そして、この時に、エルサレムにあったエルサレム教会も消滅してしまうのです。


 しかし、使徒言行録に記録されているように、早いころからエルサレム以外に成立したキリスト教会は結果的に、生き延びることになるのです。

 イザヤ書に書かれている「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」(イザヤ11:1)とは、一面において、そうした生前のイエスさまにつながる直径のエルサレム教会は消滅してしまったけれども、その他の異邦人による教会が生き延びることになったことをも意味するのかもしれません。


 また、エルサレムの崩壊は、生前イエスさまが預言されていた預言の成就であるとも理解されました。


 まだ、キリスト教会は一般的には公認されておらず、人知れず信仰を継承していたのですが、しかし、この出来事を通じて、多くのキリスト者たちは、まさに主イエス・キリストの預言が成就し、その約束の時が迫っていることを強く心に感じたのだと思います。


 そして、そうした当時の状況の中から、それ以前は、使徒と呼ばれる人たちがおり、その人たちの導きによって教会が導かれてきたのですが、次第に、使徒と呼ばれる人たちがだんだんと天寿を全うしたりと居なくなってきました。


 そこで、自分たちの信仰を言葉にすること、まさにパウロが自分の信仰を手紙に記したことをもって、各地にあるそれぞれの教会において、信仰を言葉にすることが盛んにされるようになってくるのです。


 そうした文筆活動における一つの偉大な記録が、今日、わたしたちが手にしている『聖書』に含まれる「マルコによる福音書」でした。


 福音書記者マルコは、使徒について、イエスさまの生前の事柄についてごく簡潔な言葉をもって記録しました。また、マルコは、いわゆるイエスさまに関わる噂話の類については、確証が取れないものについては記述しませんでした。


 その意味で、マルコによる福音書は、人間としてのイエスさまの行動に焦点が当てられており、この福音書を通して、わたしたちは、地上を歩まれた神であるイエス・キリストを知ることができるようになっているのです。


 しかも、わたしの理解では、まずマルコによる福音書を一度目を読むと、わたしたちは人間であったイエスさまに出会うことができ、二度目を読む時に、そこに登場するのは復活のイエスさまであるというような、そうした読者に対する仕掛けを見る事ができるからです。


 具体的には、マルコによる福音書1章14節で、イエスさまはガリラヤから宣教をはじめられますが、マルコによる福音書16章7節において、主の御使いが語る言葉「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:7)の言葉によって、わたしたちの心は、ふたたびガリラヤに赴く事になるからです。


 その意味で、マルコによる福音書は、二度読むことを通じて、読者が復活のイエスさまに会うことができるようになっているのです。


 マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」として、まず洗礼者ヨハネを登場させます。すなわち、歴史的にはまず洗礼者ヨハネによる罪の悔い改めと罪の悔い改めを得させる洗礼を通じて、多くの人たちが洗礼者ヨハネの弟子とされていたのです。


 そして、そこに、まさに神の子イエス・キリストが登場する舞台となるのです。


 この短く簡潔な物語は、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたと記しています。その意味で、歴史的にはイエスさまは、洗礼者ヨハネの弟子となった人物であり、まさにこれに続くイエスさまの受洗の記述をもって、イエスさまが、まさに神の子とされたことを伝えているのです。


 しかし、イエスさまが偉いのか、洗礼者ヨハネが偉いのか、そうしたことが問題にされているわけではありません。


 むしろ、大切なのはイエスさまの御業における最も大切な事として「聖霊によるバプテスマ」こそイエスさまが行われた大いなる御業であるということです。


 その意味で、わたしたちは主イエス・キリストによって、そのお名前によって聖霊によるバプテスマを受けるのです。それこそが、この聖書個所における大切なことであって、わたしたちは、今日、どのようにして聖霊を受けることができるかと言えば、まさにこの聖霊によるバプテスマを通して与えられるのだという知らせであるのです。


 そして、それは、まさに、今日のわたしたちは生前のイエスさまにお会いすることは不可能でありますが、しかし、このマルコによる福音書は、これを読む者がまさに神の子、イエス・キリストのお名前によって、その大いなる憐みと力によって、聖霊を受けることが可能であり、またその聖霊を通じて、神さまとつながることができることを、マルコは証しているのです。


 まだ、歴代の使徒たちが生きていた時代においては、使徒たちから洗礼を受けることが重要でありました。しかし、それであれば、今日わたしたちがそうした神のそうした恵みに与ることは難しいと言わざるをえません。


 だからこそ、この聖霊によるバプテスマが極めて大切であるのです。わたしたちは誰もが主イエス・キリストの名によって、水による洗礼を受けるのですが、しかし、それは本質的には聖霊によるバプテスマと同じなのです。なぜなら、それを可能にするのがイエス・キリストであるからです。


 場所ではなく、時ではなく、また権威によらず、ただ主イエス・キリストの名によって、わたしたちはバプテスマによる洗礼を受けることが可能なのです。なぜなら、水によるバプテスマは人間の行いによるものですが、聖霊によるバプテスマは、まさに神さまが行われる洗礼であるからです。それを人間が受けた受けていないととやかく言うことはできません。


 まさにその人と神さまとの密接なつながりであり、それは厳かにして、また恵みと慈しみに富み、わたしたちに信仰的な敬虔さを与えてくれるものであるのです。


 わたしたちはその豊かな恵みを戴き、まさにその恵みの内に、生涯、イエス・キリストの名に仕える生き方へと招かれているのです。


 この一年の歩みが、恵みと慈しみに満ちたものであることを、共に感謝しつつ、主の御名によって共に歩んでまいりましょう。


 お祈りします。

 ヨハネによる福音書1章1~18節

1)初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2)この言は、初めに神と共にあった。

3)万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

4)言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

5)光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

6)神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

7)彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。

8)彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

9)その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

10)言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。

11)言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

12)しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

13)この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

14)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

15)ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

16)わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

17)律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

18)いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。



「もう一つのクリスマス」


 あけましておめでとうございます。わたしたちは今日、元日において礼拝を守るのですが、この元日の礼拝の意義について、まず皆さんと共にその確認をしたいと思います。

 わたしたちが元日に礼拝を守るのは、他の多くの人たちが元日に神社に詣でるのに対して、教会でも何かやろうということで起こったのか、そうしたいきさつは教会ごとに色々あると思います。


 ただ、やはりそうした何となくということではなく、元日の礼拝は何に基づいて行うのか、そうしたところをわたしたちははっきりさせた上で、この元日の礼拝を守りたいと思います。


 さて、いわゆるキリスト教の暦というものはカトリック教会の定めた教会暦に端を発するもので、一年間およそ50回行われる礼拝を、イエス・キリストの降誕を覚え待ち望むアドベントから始まって、クリスマス、レント、イースター、ペンテコステときて、あとは11月末くらいまで特に何もない時期が続きます。


 プロテスタント教会は、そうしたキリスト教の暦というよりもアメリカに渡った清教徒たちの慣習に基づく収穫感謝祭で締めくくられています。


 だいたい、上記のものが皆さんがキリスト教のカレンダーで目にする、いわゆる教会歴と呼ばれるものです。ただ、カトリック教会の教会歴はもっといろいろな記念日があって、およそ毎週必ず何かしらを覚えて礼拝をするというふうになっています。



 日本人の感覚として、「一年の計は元旦にあり」という言葉にも見る事ができるように1月1日が一年の始まりと見るのですが、キリスト教の暦ではアドベントが教会歴における元日になります。


 その意味で、わたしたちのこの元日礼拝は「一年の始まり」ではなくて、別の意味としてこの礼拝を守ることになるのです。では、何を根拠にして元日礼拝を守るのか? そこでわたしたちは聖書の記述に帰ってくるわけです。


 プログラムにも載せましたが、イエス・キリストの降誕を覚えるクリスマスが12月25日です。すると、ちょうど25日から当日を含めて8日目が1月1日になります。


 ルカによる福音書の記述に従えば、すなわち1月1日とは、まさにユダヤの慣習に基づいて割礼を受け、イエスと命名されたのが1月1日になるわけです。


 だからこそ、わたしたちが1月1日になぜ礼拝を守るのか、その根拠はまさにルカによる福音書に基づき、イエスさまが割礼を受け、イエスと命名されたことを覚える日として、この礼拝を守るのです。


 では、今日の聖書個所ですが、特に、『希望』誌には指定がありませんでしたので、ヨハネによる福音書の冒頭のところを聖書個所として取り上げました。


 わたしたちはマタイによる福音書、ルカによる福音書のイエス・キリストの降誕物語をもってクリスマスの時を守るわけですが、しかし、ヨハネによる福音書にも、ヨハネによる福音書独自のイエス・キリストの降誕物語が示されているのです。


 それはあまりにも抽象的な表現なので、なかなかこの文面をもって「クリスマスの出来事ですよ」と言ってもわかりませんが、しかしこれはれっきとしたイエス・キリストの誕生に関わる物語であるのです。


 それは、物語というよりも「信仰告白である」という表現の方が適しているかと思います。


 さて、福音書の成立は歴史的には紀元60年代において弟子のマルコが最初の福音書を書いたことにはじまります。


 当時は、まだ生前のイエスさまと一緒に生まれ育った人たち、親類縁者も居た関係から、イエスさまの誕生に関わる話というのは、およそ信仰告白とは結び付くことがなかったのです。


 しかし、それからおよそ二十年近くの時間が流れ、マタイによる福音書とおよそルカによる福音書が成立するようになります。


 これらは、イエスさまの降誕について、イエスさまの誕生以前、また洗礼者ヨハネについてもその誕生予告から記され、またその事が色々と信仰上において問題となりました。


 そうした、マタイによる福音書、ルカによる福音書における記述に色々と問題を認める人たちによって、今一度、イエス・キリストについて、特にその誕生について、信仰的に正しく表記する必要性を受けて成立したのが、このヨハネによる福音書であったのです。


 ルカによる福音書は「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。」(ルカ1:3)で著者が「順序正しく書いて」と示しているように、かなり極端な修正が加えられました。


 具体的には、洗礼者ヨハネとイエスさまが親戚関係にあるというような話です。また、イエスさまの誕生は聖霊によって処女マリアが懐妊するわけですが、では、マリアのおなかの子どもは聖霊と人間の半神半人というような存在であるのかという疑問です。


 そうした問題点に対して、ヨハネによる福音書は、イエス・キリストの本質は神の言であって、それはまさに神が天地万物を創造する以前に存在し、この天地万物はまさにこの言によって創造されたと信仰告白するのです。


 そして、洗礼者ヨハネは、イエスさまの親戚などではなく、神さまによってこの世に遣わされた人間であって、洗礼者ヨハネはあくまでもイエスさまについて証をする人物であったとするのです。


 この聖書個所は良く見ると非常に面白い構成になっていて、ゴシック体の太字で示した部分がイエス・キリストに関わる内容のところです。そして、その間に、洗礼者ヨハネについての記述、そして、そうした記述に挟まれる形で、1節から18節までの中心部分、つまり13節において、わたしたち信仰者についてのメッセージが記されているのです。


 このヨハネによる福音書はイエス・キリストの本体は、まさにイエス・キリストの霊と呼べるものであって、それが地上に生まれたイエスという一人の人間の内に宿ったのだと信仰告白するのです。


 そして、その結論部分において、わたしたちに恵みと真理が示されたことを証するのです。

それは律法を超えるものとして、まさに、このイエス・キリストの執り成しがあってはじめて、わたしたちは神を拝することができるのです。


 だからこそ、イエス・キリストの恵みは、わたしたちがまさに神さまとの意思疎通を可能にしたという事にあり、それはわたしたちのそれぞれの人生において、まさに恵みと真理とが約束されたことを証するのです。


 ちょうどヨハネによる福音書が記された時代、それはユダヤ教徒からの迫害やローマ帝国からの迫害が起った時代でもありました。


 そうした信仰を持つということが困難な時代にあって、このヨハネによる福音書は、まさにそうした人たちの信仰を支える福音書となったのでした。


 わたしたちはそうした信仰の先達たちからすれば、非常に幸せな状況に生を受けていることを思います。


 この新しい一年が、また主と共に歩む一年であるように、わたしたちは主イエス・キリストにあるキリスト者として、この新しい一年を共に歩んでまいりましょう。


 お祈りします。

 詩編103篇
1)【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。
2)わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
3)主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
4)命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
5)長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。
6)主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。
7)主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。
8)主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。
9)永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。
10)主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。
11)天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
12)東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
13)父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
14)主はわたしたちを/どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを/御心に留めておられる。
15)人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。
16)風がその上に吹けば、消えうせ/生えていた所を知る者もなくなる。
17)主の慈しみは世々とこしえに/主を畏れる人の上にあり/恵みの御業は子らの子らに
18)主の契約を守る人/命令を心に留めて行う人に及ぶ。
19)主は天に御座を固く据え/主権をもってすべてを統治される。
20)御使いたちよ、主をたたえよ/主の語られる声を聞き/御言葉を成し遂げるものよ/力ある勇士たちよ。
21)主の万軍よ、主をたたえよ/御もとに仕え、御旨を果たすものよ。
22)主に造られたものはすべて、主をたたえよ/主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。


「御業を証しする生涯」

 今日は2018年最後の礼拝となります。わたしはいつもナザレン教団・教会教育部の発行している『希望』誌の聖書個所から説教をしています。


 今日の聖書個所は詩編103篇ということで、これは年末30日・31日に該当するキリスト教の暦というのがないため、一年を総括する意味において神さまに対する感謝ということで、この聖書個所が与えられているものと理解します。


 さて、キリスト教信仰において、ふだんのわたしたちの信仰生活に密着する聖書個所と言えば、この詩編ではないでしょうか。


 詩編には様々な詩が含まれていますが、そこには信仰者にとって、その生涯においてわたしたちを支え、慰め、励ましてくれる、そうした言葉に満ちた文書であると思います。


 しかし、詩編は、いわゆる物語とは異なり、明確なあらすじが明示されていない関係で、どうしても詩編の御言葉を読むときに、何となく今の自分にピンとくる箇所、ピンとこない箇所という具合で、何となく御言葉の選り好みをしているような印象を受けやすい箇所でもあると思います。


 たとえば今日の詩編103篇についても、恐らく、この部分は好きだけれども、この部分はあまり好きではないというような、そうした読み方に陥りやすいのです。もちろん、そうした読み方もまた、聖書の読み方の一つとして認められると思いますので、わたしが説明する事柄も、聖書の読み方の一つとしてご理解いただければと思います。


 さて、わたしたちが日々触れるこの『聖書』という書物は、いわゆる小説のような文学作品とは異なりますが、しかし、共通する面も多々あります。


 それは、この『聖書』を執筆した人たち、先の信仰者たちがこれらの言葉を後世に残そうと『聖書』の物語を記すその時に、当然ながら、「何を伝えたいのか?」という、信仰的な事柄を頭に思い描いた上で執筆したであろうということです。


 つまり、自分の心の中にある事柄を文字にして記すわけですが、当然、その人たちは、その文章を読む人が、この文章をどのように読み取ってくれるだろうかということをも考慮した上で書かれているということです。


 ただ、そうした場合に、執筆者が想定している読者というのは、あくまでも自分たちと同じような状況におかれ、また自分たちと同じ状況に生きている人たちを想定している関係で、当然、『聖書』の本文を書いた人たちは、まさに自分が書いた文章を2000年も後の時代の、しかも日本語という全く未知の言語をしようする人たちが読むであろうことを、まったく想像できませんでした。


 それは、ここの教会で作った『70執念記念誌』を1000年も後の時代の人たちが手にして読んだ時に、何を感じるかというのと似ています。


 わたしたちに馴染みの薄い旧約聖書は、およそ天地創造からの記述がありますが、天地創造の時代から『聖書』が書かれたわけではありません。


 旧約聖書の成立の話になりますが、旧約聖書が本当の意味において文書として、厳密には巻物として編纂されるようになるのは、そんなに古くありません。もちろん、物語の編纂や文字化というのは、当時として見れば特殊技能に基づくものであって、多くの人たちはそうしたものとは無関係に生活をしていました。


 そして、旧約聖書が成立するもっとも重要な出来事が、イスラエルという国家が地図上から消滅したという出来事に基づきます。


 イスラエルの人々は、イスラエルという民族のすべてを失った時にはじめて、自分たちは一体何によってこれから生きていくのか、生きる希望を見出すことができるかを問うた時に、『イスラエルの神』と『聖書』という結論に導かれたのです。


 だからこそ、『聖書』を記した人たちが共通して理解している事柄、そして、自分たちの置かれた境遇について、極めて明瞭な事柄がありました。それは、まさに「バビロン捕囚」という状況として理解されるものです。


 「聖書が分からない」という人にとって、輪をかけてわからないのは「旧約聖書に書かれている事柄」でないかと思います。


 しかし、この「バビロン捕囚」ということを踏まえて聖書を読むときに、わたしたちは、そうした特に旧約聖書を記した人たちの置かれた状況を理解でき、また、そうした人たちが希望として理解していた神の救いを理解しやすくなります。


 さて、前置きが長くなりましたが、そうしたことを踏まえて、今日の聖書個所において、冒頭にも書かれている「わたしの魂よ、主をたたえよ。」という言葉がどういう状況において、どのような信仰の状態における言葉であるか、考える時に、このみ言葉は突然、生き生きとしてわたしたちに多くを語るようになります。


 「わたしの魂よ、主をたたえよ。」とは、今のわたしたちの信仰生活のように、普段の生活をしながら自由に信仰生活をすることのできる人の言葉ではありません。


 先ほど言いましたように、この言葉は、バビロン捕囚下におかれ、自由に信仰生活をすることのできない人が、異国の地において、自分の信仰を維持することが不可能な状況において、自分自身の魂に対して、信仰を奮い立たせようとして、語っている言葉であるとして理解する時に、この詩を記した人の気持ちが見えてきます。


 自分の周りには信仰とは全く異なる、あるいは他宗教の中にあって生活する人たちで溢れています。そこにおいて、ただイスラエルの神を信じるのは自分一人であるのです。しかも、イスラエルの信仰生活は、基本的にエルサレム神殿において、動物などの生贄を神さまにささげるというような儀式を必要としました。


 イスラエルの人にとって、信仰生活とは、まさに神殿と密着したものであると同時に、それは言い換えると自分一人では信仰生活を維持することが極めて難しいものであったのです。


 この人物は、そうした通常の神を礼拝することが不可能な状況において、いかに人生に希望を持つことができるか。そこにはやはり神さまの祝福が無ければ信仰生活が不可能であるという理解があるのです。


 そして、彼が到達した希望は、まさに創世記や出エジプト記に見る神の大いなる働きでした。神は一体どこにいて、どのように働かれるのか? 彼は聖書に記されていた言葉を振り返りながら、神さまがこの世界を支配し、この世における正義を司る方であることを確認します。


 今、自分が置かれているバビロン捕囚という状況は、まさに自分たち、あるいは自分の上の世代が神さまに対して大きな罪を犯したゆえである。だからこそ、その懲罰として、今の自分の置かれている状況があることを告白するのです。


 しかし、神さまは世界において正義を司る方であるからこそ、今自分が直面している懲罰的状況は必ず終わりを迎え、そしてその後に、神さまからの豊かな祝福が再び注がれるであろうことを、彼は言葉を尽くして表現するのです。11~12節の「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。」(詩編103:11~12)という言葉は、神さまの慈しみがどれほど大きいものであるかを表現しています。


 そして、それに続く、人間の創造と、そうした人間に対する神さまの慈しみ深い慈愛がここでは強調されています。そして、そうした神さまに対する、主の万軍による賛美が続くのです。


 信仰者は自分一人という孤独な状況において、しかし、最上級のさんびが神さまに対して行われるのです。


 彼は、置かれているその場所においては、まったくの孤独でありますが、しかし、彼にとって、もっとも彼を彼とするものは、この天地においてすべてを創造された、この方であるのです。


 だからこそ、彼にとっては自分と信仰を同じにする人が、周りにひとりも存在しないということは、まったく問題になりません。


 なぜなら、この天地とその万物が主なる神を証しており、自分自身が絶対的な不幸な状況に置かれているとしても、そこはやはり神の働かれる場であるからです。そこにおいては、信仰の友が居ないとは、まったく問題にならないのです。


 自分自身が信仰者として、この地上において生を全うすること。それこそが、自分が自分であるために最も大切なものであることを彼は再確認したのです。彼を彼とするのは、まさに主なる神さまであって、だからこそ彼は信仰によってのみ生きる事を願うのです。


 その信仰者としての姿勢はわたしたちにとっても極めて大切であると思います。


 今朝わたしたちは、わたしたちもまた神さまによって日々、大いなる恵みの内に信仰生活を送ることを得させていただいている恵みを覚え感謝しようではありませんか。


 お祈りします。

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