出エジプト記25章 幕屋建設と及び付帯器具についての指示

 これまで出エジプト記20章から24章にかけて、いわゆる十戒と契約の書についてみてきました。これらは主に、信仰生活(神によって支配された日常生活)に関わる事柄であって、神と人との関係性、また人と人との関係性に主眼をおいたものでした。

 さて、出エジプト記25章から31章にかけては、いわゆる宗教祭儀について、「神を礼拝するために必要な用具?」についての具体的な決まりが主な内容になっています。

 しかも、ここに記されている事柄は、いわゆる「概要」ではなく、かなり細かく示されていて、まさに「そのものを作成するために必要な情報」として書かれているということが特徴となっています。

 その関係で、聖書を読もうとする人にとって、こうした箇所は信仰的な教えでもなく、説話でもなく、物語でもない。聖書を読み進める上であまりにも魅力がなく、ちょっと読んですぐに飽きる、そんな箇所となっています。

 最近、キリスト教関係の本で、「良い本とは言えないけど参考にはなる」ということで、朴潤植著、姜泰進訳『神の救済史的経綸から見る幕屋と契約の箱』という本から、イラストを紹介します。なお、なぜ「良い本とは言えない」と言うかといえば、理由は単純で「出エジプト記は救済史的観点から書かれたとは言えない」からです。

 「救済史」という観点はそもそもがキリスト教由来のもので、正典『聖書』を全体として貫いている神学的な考え方として「(神による人類)救済史」というものが『聖書』の背後にあると考える考え方です。

 これは別に異端的なものではなく、キリスト教信仰においてはごく普通の考え方なのですが、そもそも創世記も出エジプト記も、そのはじまりは民族的な視点に立っていて、その意味で「救済史」的な視点はありません。
 救済史とは「全人類の救済」が前提となっており、新約聖書において「神の救い」がイスラエル民族という特定民族のための限定的な救いであったところから、救いの対象が「全ての民族」へと広がりました。神の救いが全人類を対象としたことから、当然、旧約聖書に記されたイスラエル民族の救いは、いわば全人類が救済されるための歴史的通過点として理解されるようになったのです。
 そして、そこから「神の救いの計画」は最初から、すなわち天地創造の前から神はそのように計画しておられたのだと理解されるようになったのです。

 当然の事として、出エジプト記は「全人類」を物語の前提にしているかといえばそうではなく、限りなく「イスラエル民族」限定であって、その意味で「イスラエル民族の救済」こそが命題であって、「全人類が救われる」というような発想はありません。

 出エジプト記において大事なのは、神がいわゆる全知全能の神だということよりも、神を持たなかった(神のものとされていなかった)一民族が、神との契約を結ぶことによって「神と民」という一対の関係になることです。そのため出エジプト記には「他民族」とか「世界」といったような広がりはなく、限りなく、イスラエル民族を中心とした局所的な場所での物語になっています。
 
 


 さて、話を元に戻して、こうした幕屋と付帯器具についての精密な指示はいったい何を意味しているのでしょうか?

 これはエゼキエル書40章~43章にかけての新しい神殿についての様々な寸法が書かれているところと共通するのではないか、というのがわたしの個人的な意見です。

 すなわち「神の命令」「神の指示」と言いながら、その内容が抽象的なものであったり、中途半端なものであったりすれば、それはイスラエルの人々にとって「神の言葉、命令だと言いながら、実現不可能な事柄が言われていては信憑性も何もない。」ということになります。

 だからこそ、そこに書かれている命令・指示書は「具体的であり、かつ実際的である」という事がイスラエルの人々にとって信仰の助けとなるわけです。


 その意味で「細かく書いてある」ということは、ただ、いたずらに話をややこしく、難しくしているのではなく、「細かく書いてある」ということがイスラエルの人たちにとって、「神からの命令書が真実のものである」ということの裏付けとなっているのです。


 ただし、そういう意味では、書かれている内容については、それが「書かれていることは表向きの意味であって、実はこれは象徴的に何々を意味しているのだ~」というような、一種の暗号や秘密を指示しているものではないと考えます。


 そういう意味では、今日的にわたしたちにとってはあまり意味はありません。イスラエル民族にとっては信仰的な宝物ですが、そうした状況を異にするわたしたちにとっては、ほぼ無意味な内容という事になってしまいます(これを覚えたからと言って、キリスト教信仰の上で有益であるとは言いにくいです)。


 ただ、まあここで記されているものが具体的にどのような形の物になるのかは、知っておいても良いと思いますので、前述の参考書からのイラストをしばらく紹介したいと思います。

救済史シリーズ9画帳、『神の救済史的経綸から見る 幕屋と契約の箱』、朴潤植著、姜泰進訳、イーグレープ発行、2016年、ISBN978-4-903748-98-6、3,700円


幕屋建設の指示
1)主はモーセに仰せになった。
2)イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。
3)彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、
4)青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、
5)赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
6)ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、
7)エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。
8)わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。
9)わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい。




1)アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。
2)純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。
3)四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。
4)箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。
5)棒はその環に通したまま抜かずに置く。
6)この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。
7)次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。
8)打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、
9)すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。
10)一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。
11)この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。
12)わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。

契約の箱



13)アカシヤ材で机を作りなさい。寸法は縦二アンマ、横一アンマ、高さ一・五アンマ。
14)純金で覆い、金の飾り縁を作る。
15)一トファの幅の枠で四本の脚を補強し、枠にも金の飾り縁を作る。
16)四つの金環を作り、それぞれの脚の外側に付けるが、
17)枠の高さに付け、机を担ぐ棒を通す環とする。
18)アカシヤ材で棒を作って金で覆い、机を担ぐ棒とする。
19)皿、柄杓、小瓶、水差しを作り、ぶどう酒の献げ物をささげるのに用いる。これらは、純金で作る。
20)この机に供えのパンを、絶えずわたしの前に供えなさい。

備えのパンの机



燭台
21)純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。
22)六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付ける。
23)一本の支柱には三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付け、もう一本の支柱にも三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。燭台から分かれて出ている六本の支柱を同じように作る。
24)燭台の主柱には四つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。
25)節は、支柱が対になって出ている所に一つ、その次に支柱が対になって出ている所に一つ、またその次に支柱が対になって出ている所に一つと、燭台の主柱から出ている六本の支柱の付け根の所に作る。
26)これらの節と支柱は主柱と一体でなければならず、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りとする。
27)次に、七個のともし火皿を作り、それを上に載せて光が前方に届くようにする。
28)また、芯切り鋏と火皿を純金で作る。
29)燭台とこれらすべての祭具とを重さ一キカルの純金で作る。
30)あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい。

燭台


出エジプト記24章 契約の締結

 出エジプト記24章は全体的には、これまで語られてきた十戒と契約の書の内容が、神とイスラエルの民との間において締結されるという物語と、その後、神さまの指示によって石板を受け取るためにシナイ山にモーセが登っていくという話です。


 この聖書個所ではモーセ、あるいはアロンの他に「ナダブ(気前のよい)」「アビフ(彼は私の父)」という人物名が登場します。

 このナダブ、アビフは出エジプト記では6章のところに紹介されており、そこではアロンの息子として紹介されています。

 ところが、出エジプト記6章14節以下のモーセとアロンの系図のところで紹介されていますが、そこを見るとアロンの息子というのは、ナダブ、アビフの他に、実は、もう二人、エルアザル(神は助け給う)とイタマル(手のひらほどの海岸)が居たというふうに記されているのです。

 つまり、どういう事かと言えば、出エジプト記24章では、あえて「ナダブ」「アビフ」と二人だけのように報告しているのです。

 なぜ、出エジプト記24章は「ナダブ」と「アビフ」だけを登場させているのか?



アロンの子ら

 ちなみに、アロンの息子たちについて調べると上の図のようになります。

 ここにおいて一体どういう事が言えるのかといえば、「ナダブ」と「アビフ」はレビ記10章において、神のみ前に罪を犯した関係で神の火によって焼け死んだとされています。

 すなわち、レビ記においては「ナダブ」と「アビフ」という名前は、アロンの息子たちにおいては不名誉な名前であるとして理解されているのです。


 ちなみに、レビ記では、アロンの息子たちという紹介の仕方で4人の名前が紹介されることはなく、あくまでも「死んだ二人の息子」「生き残った二人の息子」というような、ひとつの特徴的な名前としてナダブ・アビフ、そしてエルアザル・イタマルという名前が紹介されているのです。

 レビ記は、アロンの息子たちについて、そうした不祥事が起こったことを記していますが、出エジプト記においては、そうしたアロンの息子たちが不祥事の為に死んだという情報は一切記録していません。

 また、アロンの息子たちということで四人の名前が登場するのは、出エジプト記、レビ記以外では、民数記と歴代誌上がありますが、それぞれに、ナダブとアビフの死についての記述の仕方に差があります。


 民数記26:60~61「アロンにはナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルが生まれたが、
ナダブとアビフは、規定に反した炭火を主の御前にささげて、死を招いた。
 
 
 歴代誌上24:2「ナダブとアビフは父に先立って死に、子も残さなかった。そこでエルアザルとイタマルが祭司の務めを果たした。」


 この表記の仕方を見るとわかりますが、いわゆる「不祥事」として理解しているか、それとも「不慮の事故」として理解しているか、そうした違いがあります。

 そして、それはいわゆるひとつの事実についての「理解」の違いではなく、むしろ歴代誌上の表記は、「事実を捻じ曲げて、あくまでも不祥事ではなく、不慮の事故である」というふうに読者に理解させようとしているということであるのです。



 では、出エジプト記24章において、アロンの息子たちとして、ナダブとアビフの名前だけを登場させているのかと言えば、それは個人的に推測するところは、この後、イスラエルの民は「金の子牛事件」を起こします。

 出エジプト記におけるこの不祥事は、アロンが手引きをした事になっていますが、そういう意味では、出エジプト記は、アロンも不祥事を起こしたが、ナダブとアビフも不祥事を起こす人物であって、そういう意味では「アロンの息子たち」というイスラエルの中における権威・特権に対するカウンターとして、「ナダブとアビフは、父アロンと共に、神との契約締結を担ったけれども、しかし、その後、神の御前において大きな罪を犯した」ということを主張していると理解できるのです。

 だからこそ、出エジプト記は、最終的にアロンの権威を継承するエルアザルとイタマルを、このところで登場させず、「金の子牛事件」から分離して、エルアザルの息子であるピネハスを守るという、そうした意図をくみ取ることができるかな、というところです。


 以下、本文をみていきます。
 

―――
1)主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。
2)しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」
3)モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
―――
 主はモーセに言われた。
 「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの70人の長老と一緒に主のもとに上りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。しかし、モーセだけは主に近づくことができる。
 その他の者は近づいてはならない。また、他の民は彼と共に登ることはできない。」と。


 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言い、神に対して主のみ言葉を守ることを約束した。



4)モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
5)彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
6)モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
7)契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
8)モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
―――
 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、イスラエル十二部族を記念して十二の石の柱を建てた。

 彼は、すなわちモーセはイスラエルの人々の若者をそれぞれの石の柱のところに遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に神との和解の献げ物として、主に雄牛をささげさせた。

 モーセはその血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。

 彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります。」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。

 「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」と。



9)モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。
10)彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。
11)神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。
―――
 モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの70人の長老と一緒に主の御許に登って行った。

 彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。

 本来、人間が神と相対すれば、神の清さのゆえに人間は滅んでしまうが、この時、神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、唯一の例外的に、彼らは神を見て、食べ、また飲むことができた。




12)主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、
13)モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、
14)長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」
―――
 その後、主が「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。

 モーセは、神の山へ登って行くとき、長老たちに言った。
 「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。
 見よ、アロンとフル(穴の意、モーセとアロンに仕えたレビ族の人間)とがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」と。



15)モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。
16)主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。
17)主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。
18)モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。
―――
 モーセが神の山に登って行くと、雲は山を覆った。
 そして、主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。
 七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。

 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火山の噴火のように見えた。
 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。
 そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

出エジプト記23章 契約の書 その4

 出エジプト記23章は、先の章から続く一連の決まり事でありますが、内容的にはそうした「決まり・戒律」ですが、このところでは、どちらかと言えば、そうした「決まり・戒律」を通じて、「神の性質が明らかにされている」という点を見落としてはなりません。

 すなわち、イスラエルの民に対するこれらの「決まり・戒律」は、第一義としては「イスラエルの民が守るべき法」であると共に、第二義として「神がご自身の本質/志向を明らかにしている」という点において、イスラエルの人々にとって、これを理解することが「神に近づくこと」「神と共に歩むこと」であるという喜びにつながるのです。

 その意味で、ここで言われている事柄は、限りなく公平・中立という点であって、「神は誰をも贔屓をしない」という点が極めて重要であるのです。

 加えて、23節以下のところにおいて、いわゆる「聖絶」(神の意志によって特定民族を滅ぼすこと)について触れている箇所がありますが、これは「神はイスラエル民族を至上の民族として優遇する」ことを意味しません。

 たとえば、こうした「聖絶」の解釈は、いわゆる保守的・原理主義的な傾向を帯びると、限りなく自分たちを正義としてその他を排斥する運動につながっていきます。
 キリスト教会での例を挙げれば、「キリスト教徒こそが正しく、その他の宗教を信じている人たちや無宗教の人たちをキリスト教徒にすることが神の御心である」というような理解です。

 事実、アメリカのキリスト教保守の教会においては、他の信仰を一切認めず、自分たちの信仰こそが正しいと信じて疑わない人もいることでしょう。


 しかし、出エジプト記はそうした独善的な信仰を認めません。

 神の行われる「聖絶」は、基本的には「神のご計画の中」にあって、わたしたち人間がとやかく言うところのものではありません。そして、神はそうした人間の思惑を越えてご自身の正義に基づいて、その結果としての「聖絶」を行われるのであり、その「聖絶」は正しいのです。
 ここで問題は、「聖絶」は「神がイスラエルを贔屓した結果」でなく、あくまでも「世界において正義をつかさどる神に対して、ある民族が犯した罪の報いとしての聖絶である」という事なのです。

 もちろん、旧約聖書には、「聖絶」を通じて、「神がイスラエルの民を憐れんでくれた」というように解釈させる箇所もあるかと思います。また、それ以外のニュアンスを匂わせる箇所もあるかと思います。

 その意味では、こうした解釈の難しい聖書個所は、何度も何度も読み返してみて、色々な視点から解釈を試みると良いかと思います。聖書の言葉自体は変わりませんが、その時々の解釈によって与えられる神さまからのメッセージこそが大切であるからです。

 「律法・決まり・戒律」とは、血も涙もないようなものではなく、イスラエルの民にとって、まさに神の、命に満ち溢れた救いの言葉、慰めの言葉であって、その言葉を通じて神の本質に触れることができることは最高の喜びであるのです。

 
 
 では、以下、本文をみていきます。


ーーー
1)あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。
2)あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。
3)また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。
ーーー

 あなたは神を信じるのであれば、神は真実な方であるので、あなたは根拠のないうわさを流してはならない。
 また、そうした根拠のないうわさを流すことによって悪人に加担し、不法を引き起こす証となって、神の御前に罪を犯してはならない。それはつまるところ偽証罪になるのだ。

 また、あなたは自分の意思を捨てて、多数者に追随して、そのことによって悪を行ってはならない。
 特に、あなたは法廷の争いにおいて、物事の真実に基づくのではなく、ただ多数者の方が良いと思って多数者に追随し、真実の証言ではなく、誤った証言をし、不当な判決に導いてはならない。

 さらに、あなたは弱い人を憐れむ故に、訴訟において真実を曲げてかばってはならない。
 弱い人を憐れむことは大切なことであるが、しかし、だからと言って、真実を曲げてはならないからである。神は真実な方であるので、弱い人と言えどもその罪については正しく裁きを行わなければならない。しかし、罪を裁いた後は、正しく弱い人を憐れむがよい。神は罪を憎まれるが人に対しては憐れむ方であるからである。



4)あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。
5)もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。
ーーー
 もし、あなたに敵対する人物の所有するろばが迷っているのに出会ったならば、神は正しい方であるので、あなたはそのろばをあなたの勝手にすることなく、必ず敵対する彼のもとに連れ戻さなければならない。
 神は正しい方であるので、敵味方に関係なく、あなたは正しい行いをしなければならない。あなたは敵味方という人間関係に支配され、悪を行ってはならない。
 それゆえ、もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、あなたはそれを見捨てておいてはならない。神は正義を行われる方であるから、あなたは必ず、あなたを憎む者のろばと共に、あなたの憎む者を助けなければならない。



6)あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。
7)偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない。
8)あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。
9)あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。
ーーー
 あなたは訴訟において、憐みのゆえに、乏しい人の判決を曲げてはならない。
 また、偽りの発言を避けねばならない。判決を曲げたり、偽りの発言によって、罪なき人、正しい人を殺すことがあってはならない。
 わたしは悪人を正しいとすることはない。
 それゆえ、あなたは誰からも賄賂を取ってはならない。賄賂は目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。

 あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。なぜなら、あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。



10)あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。
11)しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
ーーー
 あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。
 しかし、七年目には、土地を休ませて、休閑地としなければならない。
 また、あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。
 ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。なぜなら、大地の実りは神さまからの恵みであって、神の恵みは所有者だけのものではないからである。



12)あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
13)わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。
ーーー
 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には仕事を休まなければならない。
 それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。なぜなら、わたしが命じたことを守ることによって、あなたたちはこの世の罪や悪から命を守られるからである。
 それゆえ、あなたは他の神々の名を唱えてはならない。また、その名を口にしてはならない。それらはあなたを正義から遠ざけ、罪や悪による滅びへと導くものとなるからである。



14)あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。
15)あなたは除酵祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。あなたはその時エジプトを出たからである。何も持たずにわたしの前に出てはならない。
16)あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い、年の終わりには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。
ーーー
 あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。
 あなたは除酵祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。なぜならあなたはその時に、エジプトを出たからである。

 また、あなたはわたしの前に出る時に、何も持たずにわたしの前に出てはならない。
 わたしはあなたを祝福し、多くの実りを与える。それにより、あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い、年の終わりには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。




17)年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。
18)あなたはわたしにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない。また、祭りの献げ物の脂肪を朝まで残しておいてはならない。
19)あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。
ーーー
 年に三度、イスラエルの男性はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。その代わり、女性や子どもは神のみ前に出なくても、それを問題にはしない。

 あなたはわたしにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない。
 また、祭りの献げ物の脂肪を朝まで残しておいてはならない。それぞれ、きちんと処理をされなければならない。手を抜いたり、簡略してはならない。
 また、あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。それが祝福を受けたものの義務であるからである。
 さらに、あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。

 

20)見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。
21)あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである。
22)しかし、もしあなたが彼の声に聞き従い、わたしの語ることをすべて行うならば、わたしはあなたの敵に敵対し、仇に仇を報いる。
ーーー
 見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。
 あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである。
 しかし、もしあなたが彼の声に聞き従い、わたしの語ることをすべて行うならば、わたしはあなたの敵に敵対し、仇に仇を報いる。



23)わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヘト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導くとき、わたしは彼らを絶やす。
24)あなたは彼らの神々にひれ伏し仕えてはならない。そのならわしを行ってはならない。あなたは彼らを滅ぼし、その石柱を打ち砕かねばならない。
25)あなたたちは、あなたたちの神、主に仕えねばならない。主はあなたのパンと水を祝福するであろう。わたしはあなたの中から病を取り除く。
ーーー
 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヘト(ヒッタイト)人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導くとき、わたしは彼らを絶やす。
 あなたは彼らの神々にひれ伏して仕えてはならない。そのならわしを行ってはならない。
 あなたは彼らを滅ぼし、その石柱を打ち砕かねばならない。
 あなたたちは、あなたたちの神、主に仕えねばならない。主はあなたのパンと水を祝福するであろう。
 それによって、わたしはあなたの中から病を取り除く。



26)あなたの国には流産する女も不妊の女もいなくなる。わたしはあなたの天寿を全うさせる。
27)わたしは、あなたの前にわたしの恐れを送り、あなたが入って行く土地の民をすべて混乱に陥れ、あなたの敵をすべて敗走させる。
28)わたしはまた、あなたの前に恐怖を送り、あなたの前からヒビ人、カナン人、ヘト人を追い出す。
ーーー
 そして、あなたの国には流産する女も不妊の女もいなくなる。わたしはあなたの天寿を全うさせる。
 わたしは、あなたの前にわたしの恐れを送り、あなたが入っていく土地の民をすべて混乱に陥れ、あなたの敵をすべて敗走させる。
 わたしはまた、あなたの前に恐怖を送り、あなたの前からヒビ人、カナン人、ヘト人を追い出す。




29)しかし、一年間は彼らをあなたの前から追い出さない。さもないと、国土は荒れ果て、野獣の数が増し、あなたに向かって来る。
30)わたしは彼らをあなたの前から徐々に追い出すので、あなたは子を産み、国土を受け継ぐに至る。
31)わたしは葦の海からペリシテ人の海まで、また荒れ野から大河までをあなたの領地と定める。わたしはその土地の住民をあなたたちの手に渡すから、あなたは彼らを自分の前から追い出す。
ーーー
 しかし、わたしは決して無条件で追い出すのではなく、一年間は彼らをあなたの前から追い出さない。さもないと、国土は荒れ果て、野獣の数が増し、あなたに向かって来るからだ。
 わたしは彼らをあなたの前から徐々に追い出すので、あなたは子を産み、国土を受け継ぐに至る。
 そのようにして、わたしは葦の海からペリシテ人の海まで、またシナイの荒れ野から大河チグリス・ユーフラテス川までをあなたの領地と定める。
 わたしはその土地の住民をあなたたちの手に渡すから、あなたは彼らを自分の前から追い出す。



32)あなたは彼らおよび彼らの神々と契約を結んではならない。
33)彼らはあなたの国に住むことはできない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を犯させないためである。さもないと、あなたは彼らの神々を拝み、それは、あなたにとって罠となるからである。
ーーー
 あなたは彼ら、および彼らの神々と契約を結んではならない。
 彼らはあなたの国に住むことはできない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を犯させないためである。さもないと、あなたは彼らの神々を拝み、それは、あなたにとって罠となるからである。あなたがたは、わたしによって生きなければならない。

子どもが産めない事を叱責する牧師に唖然とした

 先日、ある若いご夫妻がわたしのところにやって来て、自分たちはあるキリスト教の教会の牧師に妻の不妊の相談をしたら、それがあたかも聖書に書いてあるかのように「信仰者としてダメだ」ということを言われた、と苦しい胸の内を明かしてくださった。

 しかも、その牧師は「別の教会に行っても同じように言われるぞ」と、ダメ押しをしたという事で、お二人は医師から告げられた「子どもができない」という言葉によるショックと、牧師からも人間としてダメであるかのように言われた事と、二重にショックを受けたということだった。


 牧師として19年やってきたが、時たまそうした話を耳にすることがある。

 一体何を根拠にそうした事を言うのか? 聖書のどこにそうした事が書かれているのか?

 個人的には、そうした事を言う背景がまったく理解できない。



 プロテスタント教会には様々な信仰の形があるが、特に、聖霊体験や、ナザレン教会もそうした傾向のある教会であるけれども、「聖化(せいか/きよめ)」を標榜する教会においては、信仰的に「きよい」ことが要求されることが多い。

 「聖化/きよめ」というのは、信仰者が信仰的により神に近い状態になるように自分自身の信仰者としての在り方を問うそうした信仰的な取り組みのことであるけれども、こうした「神に近づこう」とする信仰的な傾向それ自体が悪いわけではないが、しかし、そこには信仰者が注意しないといけない重大な落とし穴が待っているのだ。


 それは何かと言えば、「きよめ」はより清浄であることを求め、また神に近づくことを求めるため、当然のことながら、そこに信仰者としての「状態の段階」という、一種、権力的なものを伴う信仰の差別化の動きが発生する。

 すなわち、牧師を頂点として、教会の中で牧師が最も霊的に神に近く、きよい存在となり、その下にリーダー、奉仕者、平信徒というような、役割や役職、奉仕といった様々な要素に基づいた教会の中の信仰者としての階級が出来てしまうのだ。

 当然、そうした傾向の強い教会の牧師は信徒から尊敬され、信徒とは決定的に異なる清い存在として、教会の中における階級の頂点に立ち、あたかもその語る言葉は「神の言葉」と同じように尊いものとして理解されまたそのように理解するように、一種のマインドコントロールになる。それは信徒だけでなく、そうした教会を主催する牧師自身も、自分で掘った落とし穴に自分で落ち込むことになる。

 また、こうした教会は、そうした階級的なシステムによる教会をより強固なものとし、またより強大なものとするために、「伝道」「宣教」「神の国の実現」「神の御業」といったような言葉を使って、表面的には「神さまを喜ばせるために」、その本質は「牧師をより神に近づける階級的なシステムを強固にするため」にセルチャーチ、弟子訓練、弟子化その他の、主に軍隊組織と変わらないようなやり方で教勢拡大を目指す。

 会員が増えること、献金が増えることは、それによって自分たちがやっていることが神の御心であり、またそれがあたかも正義であり、正しいことであることの証明のように信徒は刷り込まれる。そして、そういう牧師自身も、「自分がやっていることは神の御心にかなっているのだ」という勝手な思い込みに沈んでしまう。それが誘惑であるとは思わない。

 事実、そうした様々な手法によって事実、教会員は増え、献金が増えるのだから、自分たちが神のみ前において「間違ったことをしている」という自覚は起こりようがない。そうして得た会員数と献金額は、まさに自分たちがやっていることが「神の御心である」という確信を強めるだけであって、より一層、教会の中の階級化に拍車をかける。しかし、そこには目に見えない人間の欲望から出てきた罪が雪だるま式に大きくなっていき、誰もそのことに気が付かない。



 神に近づこうとする行為は、それ自体が悪いわけではない。しかし、神に近づこうとし、自分が人間であることを越えようとする時、それは神のみ前において極めて重大な信仰的な過ちとなる。そうした神のみ前において末期的な教会ほど、そこに集う人たちが信仰的に熱心であることは何とも皮肉だ。

 子どもを身ごもる事ができないと告げられた女性の苦しみを、その牧師は神の御名において更に大きな苦しみに変えた。その女性が、自分が言ったことばに傷つき自死を考えたなど、その牧師は微塵も心に留めていない。
 
 わたしはその牧師に二つのみ言葉をプレゼントしよう。

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(マタイ18:6)
 
 わたしが家の窓から/格子を通して外を眺めていると
 浅はかな者らが見えたが、中に一人/意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。
 通りを過ぎ、女の家の角に来ると/そちらに向かって歩いて行った。
 ・・・(中略)・・・
 彼女に説き伏せられ、滑らかな唇に惑わされて
 たちまち、彼は女に従った。まるで、屠り場に行く雄牛だ。足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。やがて、矢が肝臓を貫くであろう。彼は罠にかかる鳥よりもたやすく/自分の欲望の罠にかかったことを知らない。(箴言7:6~8、21~23)

 その牧師の上に、主の祝福が豊かに注がれるように。

出エジプト記22章 契約の書 その3

出エジプト記22章は内容的には普段の共同生活の中で、何かしらモノの貸し借りをする上で問題が発生した時の対処法としての裁き方が示されています。

 具体的には、21章37節のところからはじまる家畜等の貸し借りやそういった事柄において何かしらの損害が発生した時における対処法というかたちをとっています。

 内容的にはまさに書いてある通りなので、そんなに内容的に難しく分からないということは無いと思います。

 むしろ、それよりももっと大切なことは何かと言えば、トラブルによって破壊された人間関係において、その壊れた人間関係を修復するための、すなわち両者の和解を実現するものとして、神の定めた律法、法律が重要な役割をになっているということです。


 たとえば、何かしらの損害を受けた人が加害者に対して日本では次のように言うことがあります。

 「誠意を見せろ」


 この極めて日本的な表現は、ある意味で大変、非人道的でもあるのです。なぜかと言えば、この言葉が意味するものは「被害者が加害者側の弁償をどうにでもできる」という点において、「無限に責任を負う」ことになりかねないからです。

 加害者と被害者とは両者の関係性がきわめてアンバランスな状態であって、「加害者が悪であり、被害者が正義である」という関係は、被害者が加害者に報復をすることによってその関係性は簡単に逆転してしまいます。

 その意味で、集団における、あるいは社会における事件・事故などによるそうした関係性の破壊という出来事に対して、もっとも避けるべき事柄は何かと言えば言い争いから始まって、最終的にはお互いがお互いを殺し合う一種の戦争状態であり、そこにおいて最も望ましいのが、そうした破壊された関係性の修復にあるのです。

 契約の書に登場する法律とは、その意味で、様々な事情によって破壊されてしまった関係性を、正義なる神の裁きによって、お互いの関係性を修復し、お互いに愛し合う関係の修復を実現するものであるのです。

 だからこそ、何かしらの被害が発生した場合、被害者は加害者に対して、相手の言いなりになるのではなく、弁償をするにしてもその上限を設定し、その上限を超えて弁償する必要がない事を明らかにすると共に、弁償の下限を設定することによって、少なくともそれだけの弁償をすれば、弁償を受ける人物は、相手の弁償を快く受け入れなければならないのです。

 すなわち、ここに示されているのは、加害者・被害者というアンバランスな関係を修復して、お互いがまた平和な生活を送ることができるように、この法律が人間同士の関係性の破壊を修復してくれるのものであるのです。しかも、そうした法律の言葉は神の言葉であって、それを間違った解釈をしたり、あるいは悪用することは当然できません。

 律法に対するそうした意図的な悪は、まさに神さまに対する反逆であり、それは死罪に相当するものである、という理解が、そうした律法によって支配される社会においてそこに暮らす人々の人権と権利を守り、そして平和を実現する実際的な力なのです。

 しかし、残念ながら新約聖書において、いわゆるキリスト教の理解に立つ「律法理解」では、そうした律法の持つ本当の意味合いが無視されており、律法とは無用の長物として、役に立たないものという程度の扱いしか受けていません。


 その意味で、旧約聖書を読むときに、そうした旧約聖書における本来的な意味合いを理解する上でも、新約聖書における価値観をひとまず脇に置いておいて、素直にこうした文章に向き合うことが大切なのです。

 以下、本文をみていきます。




37)人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。
22章
2)彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない。
3)もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない。
ーーー
 もし、ある人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠って食べたり、食肉として売ったりした場合、その人は牛一頭の代償として牛五頭をもって弁償しなければならない。またそれが羊であった場合、羊一匹の代償として羊四匹をもって弁償しなければならない。
 なお、盗まれた人がその人に対して更に賠償を求めるのであれば、それは一切認められない。お互いにこのことをもって和解しなければならない。
 


1)もし、盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけられ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。
2)しかし、太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある。
ーーー
 もし、夜、盗人が家の壁に穴をあけて入るところを見つけられ、家の主人等に打たれて死んだ場合、盗人を殺した人に、殺人の罪はない。なぜなら、暗いところで必死になっている時に、誤って相手を殺してしまったからである。すなわち、それは不慮の事故であって、意図的な殺人とは区別されるからである。
 しかし、太陽が昇って、盗人の顔が見えている状況において、同様の事が起こり、盗人が死んだ場合、盗人を殺した人は、その殺人の罪を負わなければならない。なぜなら、相手の顔が見えており、相手を見て盗人と確認したうえで殺したわけであるから、それは意図的な殺人と同様であるからである。



4)人が畑あるいはぶどう畑で家畜に草を食べさせるとき、自分の家畜を放って、他人の畑で草を食べさせたならば、自分の畑とぶどう畑の最上の産物をもって償わねばならない。
5)火が出て、茨に燃え移り、麦束、立ち穂、あるいは畑のものを焼いた場合、火を出した者が必ず償わねばならない。
ーーー
 人が畑あるいはぶどう畑で家畜に草を食べさせるとき、自分の家畜を放って、他人の畑で草を食べさせたならば、自分の畑とぶどう畑の最上の産物をもって償わねばならない。
 また、外で火を起こしていた時に、その火が茨に燃え移り、それが麦束や立ち穂、あるいは畑のものを焼いた場合、火を出した者が、必ずその損害に対して償わなければならない。



6)人が銀あるいは物品の保管を隣人に託し、それが隣人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかれば、盗人は二倍にして償わねばならない。
7)もし、盗人が見つからない場合は、その家の主人が神の御もとに進み出て、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかったことを誓わねばならない。
ーーー
 人が銀あるいは物品の保管を隣人に託し、それが隣人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったのであれば、盗人は盗んだものについて二倍にして償わなければならない。
 もし、盗人が見つからない場合、すなわち、盗まれたのではなく保管を頼まれた人が意図せず紛失した場合、その家の主人は神の御許に進み出て、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかったことを誓わねばならない。その誓いは真実のものとして、保管を頼んだ人は保管を託した人を悪く思ってはならない。



8)牛、ろば、羊、あるいは衣服、その他すべての紛失物について言い争いが生じ、一方が、「それは自分の物です」と言うとき、両者の言い分は神の御もとに出され、神が有罪とした者が、隣人に二倍の償いをせねばならない。
9)人が隣人にろば、牛、羊、その他の家畜を預けたならば、それが死ぬか、傷つくか、奪われるかして、しかもそれを見た者がいない場合、
10)自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかった、と両者の間で主に誓いがなされねばならない。そして、所有者はこれを受け入れ、預かった人は償う必要はない。
11)ただし、彼のところから確かに盗まれた場合は、所有者に償わねばならない。
ーーー
 牛、ろば、羊、あるいは衣服、その他すべての紛失物について言い争いが生じ、一方が、「それは自分のものです」と言うとき、両者の言い分は神の御許に出され、神が有罪とした者が、隣人に二倍の償いをしなければならない。
 人が隣人にろば、牛、羊、その他の家畜を預けた時、それが死ぬか、傷つくか、奪われるかして、しかもそれを見た者がいない場合、それらを預かった人は、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかった、と両者の間で主に誓いがなされなければならない。そして、それらの所有者はその誓いを受け入れ、不慮の事故による損失について、それはあくまでも不慮の事故として、預かった人は償う必要はない。
 しかし、そうではなく、彼のところから確かに盗まれた場合、それは、預かった人がキチンと管理をせず、やるべきことを果たさなかったために起こった当然の事故であり、こうした場合には、預かった人は、所有者に所定のものをもって償わなければならない。



12)もし、野獣にかみ殺された場合は、証拠を持って行く。かみ殺されたものに対しては、償う必要はない。
13)人が隣人から家畜を借りて、それが傷つくか、死んだならば、所有者が一緒にいなかったときには必ず償わねばならない。
14)もし、所有者が一緒にいたならば、償う必要はない。ただし、それが賃借りしたものであれば、借り賃は支払わねばならない。
ーーー
 また、家畜等を預かっておきながら、それが野獣にかみ殺された場合は、預かっていた人は野獣にかみ殺された証拠を持って所有者にそのことを説明する。野獣にかみ殺されたものについては、それは不慮の事故と同じであるから、預かっていた人は所有者に弁償する必要はない。

 また、人が隣人から家畜を借りて、それが傷つくか、死んだ場合、所有者がそこに一緒にいなかったときは必ず弁償しなければならない。
 また、もし所有者がそこに一緒にいたなら、償う必要はない。ただし、その家畜を賃借りしたものであれば、借り賃については支払わなければならない。



15)人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。
16)もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばならない。
ーーー
 人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばならない。



17)女呪術師を生かしておいてはならない。
18)すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。
19)主ひとりのほか、神々に犠牲をささげる者は断ち滅ぼされる。
ーーー
 イスラエルにおいては、唯一の神を信じるのだから、他の宗教で行われているような女呪術師を置いてはならない。また、他の宗教で行われているような獣と寝るような行為をする者は処刑される。また、主なる神ではない、他の神々に対して犠牲をささげる者は、イスラエルの中から断ち滅ぼされるであろう。これらは、イスラエルにおいて、主なる神の御前において、極めて重大な罪であるから、こうしたことに決して近づいてはならない。



20)寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
21)寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。
22)もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。
23)そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。
ーーー
 あなたたちの間に生活している寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。
 なぜなら、あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
 同様に、寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。あなたたちはこれらの人たちの人権と生活を守らなければならない。
 もし、あなたが彼らを苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしは必ずその叫び声を聞き、あなたに対するわたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺すであろう。
 そうなれば、あなたたちの妻は寡婦となり、子どもらは孤児となってしまうであろう。



24)もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。
25)もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。
26)なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。
ーーー
 もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼らに金を貸す場合は、決して利子を取ってはならない。

 また、もし、隣人の上着を質にとるのであれば、その上着は日没までに隣人に返さねばならない。
 なぜなら、それは彼の唯一の衣服であり、肌を覆う着物だからである。
 それがなければ、夜、彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。
 もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしはその叫びを聞く。なぜなら、わたしは憐み深いからである。わたしが憐み深いように、あなたも同胞に対して憐み深くなければならない。



27)神をののしってはならない。あなたの民の中の代表者を呪ってはならない。
28)あなたの豊かな収穫とぶどう酒の奉献を遅らせてはならない。あなたの初子をわたしにささげねばならない。
29)あなたの牛と羊についても同じようにせよ。七日の間、その母と共に置き、八日目にわたしにささげねばならない。
30)あなたたちは、わたしに属する聖なる者とならねばならない。野外でかみ殺された肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えるべきである。
ーーー
 あなたは神をののしってはならない。また、あなたの民の中の代表者を呪ってはならない。
 あなたの豊かな収穫とぶどう酒の奉献を遅らせてはならない。
 あなたの初子をわたしにささげねばならない。
 あなたの牛と羊についても同じようにせよ。
 七日の間、その母と共に置き、八日目にわたしにささげねばならない。

 これらのように、あなたたちは、そのように律法に従い、わたしに属する聖なる者とならねばならない。
 野外でかみ殺された肉を食べてはならない。それは穢れた肉であるので、それは犬に投げ与えるべきものだからである。むしろ、神の御前において聖別された肉を腹いっぱいに十分に食べるがよい。


出エジプト記21章 契約の書 その2

 さて、先の出エジプト記20章の終わりのほうから「契約の書」と呼ばれる内容がしばらく続きます。基本的には十戒の内容を補足する形で色々なことが語られていますが、この箇所を出エジプト記の文脈において読む場合、いわゆる「キリスト教信仰」から一歩離れて解釈する必要があります。

 それはどういうことかといえば、先の20章のところでも説明しましたが、十戒にせよ律法の書にせよ、これらの内容は土地や神殿を持たない出エジプト記が前提とする寄留者であるイスラエルの民にとって、この十戒や契約の書こそが、神と自分たちを結びつける唯一の手がかりであって、それを守ることによって自分たちが「イスラエル民族である」というアイデンティティに立つことが可能になるのです。

 その意味でキリスト教信仰における十戒や律法といったものに対する理解は、出エジプト記では全く通用しません。そうしたキリスト教信仰に置ける十戒や律法に対する理解が、出エジプト記における十戒や契約の書の理解を大きく妨げてしまうのです。

 先にも書きましたが、十戒も契約の書も、これらはイスラエルの民にとって救いであり、希望であるのです。だからこそ、新約聖書の視点から離れて出エジプト記の舞台に身をおいて正しく理解するためには、十戒も契約の書もイスラエルの民にとって希望であり、喜びであるという前提に立った理解がひつようなのです。

 とくにそうした理解が大きく異なるのが、出エジプト記21章の冒頭にある「奴隷に関わる法」です。


 今日、わたしたちにとって「奴隷(制度)」とはすなわち、非人道的であり、古代世界の野蛮な風習というような印象が強いのではないかと思います。それはすなわち人類の歴史における一種の汚点であり非文明的、非文化的なものとの理解が前提になっていると思います。


 ところが、イスラエルにおける「奴隷(制度)」についての法は、上記のように非人道的な野蛮な風習として理解されているかというと決してそうではありません。

 むしろ、出エジプト記21章に登場する「奴隷(制度)」とは、内容を良く見るとわかりますが、極めて人道的であり、奴隷を作り出すための法ではなく、むしろ奴隷を奴隷状態から解放することが目的の極めて人道的、救済的な内容になっているのです。
 
 奴隷制度が非人道的であるというのは極めて今日的な理解であり、たとえばアメリカ南北戦争において問題とされた奴隷制度が、今日のわたしたちが使う「奴隷」という言葉の意味内容でないかと思います。

 しかし、古代世界において、たとえばローマ帝国において、奴隷は、社会を構成する身分の一種として理解されており、いわゆる人身売買によって奴隷になることもありましたが、自分が仕事の上で借金を作ってしまい、そのお金の弁済のために、自分を売って奴隷になり、借金を返すといったような事が、ある種、制度化されていたのです。

 たとえば、家族の生活が苦しく、何とか収入を得ようと自分の娘や息子を奴隷として売ったりすることが、日常的に行われていたのです。こうしたことは、決して大昔の外国の話ではなく、日本においても明治時代くらいまで奉公人制度等が残っており、家族の生活を支えるために10歳くらいの子どもがそうした労働に従事することが普通に行われていました。

 しかし、奴隷制度は世界標準ということではなく、地域や国によっても考え方、待遇など色々な違いがあり、当然のこととして人権が全く認められない、まさに人間の姿をした家畜・動物的な扱いを受ける場合もあったのです。


 その意味で、この「契約の書」における「奴隷」についての記述は、そうした非人道的な視点からのものではなく、むしろ、そうした非人道的な奴隷制度が存在した世界において、極めて人道的に、奴隷を非人間的な状態から解放することを目的とされた法であるのです。



ーーー2018年3月7日追記ーーー

 また、こうした民と民との間を公平に裁くことは、わたしたちが集団生活をする上では非常に重要な事柄であって、これらの律法は、「罪人を処刑する」という事に主眼があるのではなくて、むしろ、日常生活において起こりがちなトラブルによって人々が互いに憎しみ合うことを防ぎ、加害者も被害者もお互いに納得の上で「和解をする」という事に主眼があることを忘れてはなりません。

 そういう意味で、もし、権力者にそういった「裁き」の判断基準があるとすれば、当然、誰もがその権力者にこびへつらうようになり、権力者はまた、そうした賄賂等によって自分の内なる判断基準を誤らせることになります。

 そうではなく、本文途中に出てくるメソポタミアのハムラビ法典からの引用である「目には目を、歯には歯を」というくだりは、民と民(そこには奴隷も含まれる)の間を正しく裁き、争いを静め、平和を実現する上で、こうした決まりが非常に重要であることを示しているのです。

 ハムラビ法典におけるこの同害報復法は、ハムラビ法典においてはあくまでも「同じ身分の間で」という注がつきますが、イスラエルの律法におけるこの同害報復法は主人と奴隷という異なる身分の間での仲裁も含んでいます。

 だからこそ、この律法は、ただいたずらに違反者を処罰する事を通じて、罪人を処刑することではなく、①にトラブルによって互いに憎しみ合う両者の和解を実現するものであると同時に、②「処刑」について言及されている場合は、「その罪がそれほどまでに重罪であり、民と民との間を混乱に陥れる重大な過ちであるという事を、普段の生活において人々に注意させる」そうした目的のために与えられたものと見ることが可能なのです。

 その意味では、「処刑」ということが言われていますが、恐らく、わたしたちが想像する以上にそのことによって「処刑されるケース」は少なかったのではないかと思います。人々が、普段からそうしたことに気を付けていれば、当然、そうした過ちは少なくなることが簡単に想像できるからです。 


 ではそうした特徴があることを踏まえながら、以下、本文を説明していきます。



1)以下は、あなたが彼らに示すべき法である。
2)あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。
3)もし、彼が独身で来た場合は、独身で去らねばならない。もし、彼が妻帯者であった場合は、その妻も共に去ることができる。
ーーー
 以下は、あなた(モーセ)が彼ら(イスラエルの民)に示すべき法である。


 もし、何らかの理由で、あなたが同族であるヘブライ人である奴隷を買うならば、神を信じるあなたはその奴隷に対して、以下のようにしなければならない。

 すなわち、その奴隷は6年間は奴隷としてあなたの下で働かなければならないが、7年目には、無償で自由の身となることが可能なのだ。(たとえば、あなたが100万円でその奴隷を買い、6年間でその奴隷が50万円の働きしかできなかった場合、あなたは7年目に自由になるその奴隷に対して、自由にしてやる代わりに、不足の50万円を支払うように命じたりしてはならない。どんなに不足があったとしても、あなたは神を信じるのだから、無償でその奴隷を解放しなければならない。)

 また、もし、彼(奴隷)が独身で来た場合は、独身で去らねばならない。しかし、もし、彼が妻帯者であった場合、その妻も一緒に去ることができる。(すなわち、神が合わせた夫婦を別々に奴隷としてはならない。)
 



4)もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。
5)もし、その奴隷が、「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と明言する場合は、
6)主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。
ーーー
 もし、主人であるお前が、彼(奴隷)に奴隷期間中に妻を与え、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子どもは、彼のものではなく、主人であるお前のものであり、奴隷が満了する7年目には、彼は独身で去らねばならない。

 しかし、もし、その奴隷が、「わたしは主人と妻子とを愛しており、7年目の年を迎えても自由の身になる意志はありません」と明言するのであれば、その奴隷の主人であるお前は、彼を神のもとに連れて行き、その入り口、もしくは入口の柱のところで、彼の耳を錐で刺し通し、修身の誓いを結べば、彼を生涯、奴隷とすることができる。



7)人が自分の娘を女奴隷として売るならば、彼女は、男奴隷が去るときと同じように去ることはできない。
8)もし、主人が彼女を一度自分のものと定めながら、気に入らなくなった場合は、彼女が買い戻されることを許さねばならない。彼は彼女を裏切ったのだから、外国人に売る権利はない。
9)もし、彼女を自分の息子のものと定めた場合は、自分の娘と同じように扱わなければならない。
ーーー
 もし、経済的な理由やその他のやむを得ない事情によって、ある人が自分の娘を女奴隷として売るのであれば、彼女は、男奴隷が去る時と同じように去ることはできない。(なぜなら男奴隷は主に肉体労働が主となるが、女奴隷は愛人として買われる場合もあったから)

 もし、その女奴隷の主人が、その女奴隷をひとたび自分の愛人として定めながら、気に入らなくなった場合は、彼女が買い戻されることを許さねばならない。なぜなら、その主人は愛人として購入した、その契約を反故にし、彼女に対して裏切り行為をすることになるからである。当然、その女奴隷を外国人に売り払う権利はない。

 もし、その女奴隷の主人が、彼女を自分の息子のものと定めた場合は、自分の娘と同じように扱わなければならない。(すなわち女奴隷はいたずらに性的欲求を満たすための道具ではない)


10)もし、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならない。
11)もし、彼がこの三つの事柄を実行しない場合は、彼女は金を支払わずに無償で去ることができる。
ーーー
 もし、女奴隷の主人が、それに加えて別の女を妻として迎えた場合、その女奴隷から、食事や衣服、そして夫婦の交わりを減らしてはならない。女奴隷を定める行為は結婚と同じであり、神はその女奴隷の神でもあるからである。

 もし、女奴隷の主人が、これらの三つの事柄を実行しない場合は、彼女は、自分が買われた代金を、主人に支払うことなく、無償でその主人の下を去り、自由の身となる事ができる。




12)人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。
13)ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。
14)しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。
ーーー
 人を打って死なせた者は、必ず死刑に処せられる。

 ただし、故意ではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合、すなわち偶然に相手を死なせてしまった場合、わたしは加害者となったあなたのために一つの場所を定める。加害者となったお前はそこに逃れ、お前を殺そうとする者の手から命を守る。

 しかし、そうした故意に隣人を殺そうとして暴力をふるうのであれば、あなたはその人をわたしの祭壇のもとから連れ出して、処刑することができる。ただし、あくまでも「処刑することができる」ということであって、処刑を命じるわけではない。



15)自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。
16)人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。
17)自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。
ーーー
 自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。

 人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、どちらとこ必ず死刑に処せられる。すなわち誘拐はそれほどまに重罪なのである。

 自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。誘拐と同様に、呪いも極めて重罪であるからである。



18)人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、
19)もし、回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。ただし、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばならない。
20)人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合は、必ず罰せられる。
ーーー
 人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、もし、回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。

 ただし、その場合、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばならない。


 人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合は、必ず罰せられる。




21)ただし、一両日でも生きていた場合は、罰せられない。それは自分の財産だからである。
22)人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。
ーーー
 ただし、その奴隷が一両日でも生きていた場合は、罰せられない。それは自分の財産だからである。
 
 人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。その場合、女の主人の要求通りではなく、仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。



23)もし、その他の損傷があるならば、命には命、
24)目には目、歯には歯、手には手、足には足、
25)やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
ーーー
 もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。



26)人が自分の男奴隷あるいは女奴隷の目を打って、目がつぶれた場合、その目の償いとして、その者を自由にして去らせねばならない。
27)もし、自分の男奴隷あるいは女奴隷の歯を折った場合、その歯の償いとして、その者を自由に去らせねばならない。
28)牛が男あるいは女を突いて死なせた場合、その牛は必ず石で打ち殺されねばならない。また、その肉は食べてはならない。しかし、その牛の所有者に罪はない。
ーーー
 ある人が自分の男奴隷あるいは女奴隷の目を打って、目がつぶれた場合、その目の償いとして、その者を自由にして去らせねばならない。

 もし、自分の所有する男奴隷あるいは女奴隷の歯を折った場合、その歯の償いとして、その者を自由にさらせねばならない。

 牛が男あるいは女を突いて死なせた場合、その牛は必ず石で打ち殺されねばならない。また、その肉は食べてはならない。しかし、その牛の所有者に罪はない。



29)ただし、もし、その牛に以前から突く癖があり、所有者に警告がなされていたのに、彼がその警告を守らず、男あるいは女を死なせた場合は、牛は石で打ち殺され、所有者もまた死刑に処せられる。
30)もし、賠償金が要求された場合には、自分の命の代償として、要求されたとおりに支払わねばならない。
31)男の子あるいは女の子を突いた場合も、この規定に準じて処理されねばならない。
32)もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀三十シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されねばならない。
ーーー
 ただし、もし、その牛に以前から人を突く癖があり、所有者に警告がなされていたのに、彼がその警告を守らず、男あるいは女を死なせた場合は、牛は石で打ち殺され、所有者もまた死刑に処せられる。

 また、もし賠償金が要求された場合には、自分の命の代償として、要求されたとおりに支払わねばならない。

 男の子あるいは女の子を突いた場合も、この規定に準じて処理されねばならない。

 もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀30シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されねばならない。



33)人が水溜めをあけたままにしておくか、水溜めを掘って、それに蓋をしないでおいたため、そこに牛あるいはろばが落ちた場合、
34)その水溜めの所有者はそれを償い、牛あるいはろばの所有者に銀を支払う。ただし、死んだ家畜は彼のものとなる。
35)ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って、その代金を折半し、死んだ方の牛も折半する。
36)しかし、牛に以前から突く癖のあることが分かっていながら、所有者が注意を怠った場合は、必ず、その牛の代償として牛で償わねばならない。ただし、死んだ牛は彼のものとなる。
ーーー
 人が水溜めの蓋をあけたままにしておくか、水溜を掘って、それに蓋をしないでおいたため、そこに牛あるいはろばが落ちた場合、その水溜の所有者はそれを償い、牛あるいはろばの所有者に銀を支払う。ただし、死んだ家畜は彼のものとなる。

 ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って、その代金を折半し、死んだ方の牛も折半する。

 しかし、その牛に以前から突く癖のあることが分かっていながら、所有者が注意を怠った場合は、必ず、その牛の代償として牛で償わねばならない。ただし、その場合、死んだ牛は彼のものとなる。



37)人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。
ーーー
 人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。


出エジプト記20章 「十戒」と「契約の書」

 出エジプト記20章は「十戒」について記されている部分と、その後、23章にかけての「契約の書」と呼ばれる二つの部分から成り立っています。


 さて、モーセの十戒といえばまさに出エジプト記における最も重要な内容であると恐らく誰もが考える事でしょう。

 ただし、キリスト教の信仰においては「福音>律法(十戒)」というような、律法、すなわち旧約聖書の十戒は、イエス・キリストの福音の登場によって完成されたので、旧約聖書も十戒も過去のものであまり今日的な意味はない、というふうにプロテスタント教会では理解されているのではないかと思います。

 たしかに、福音と十戒・律法を比較すれば、福音の方が完全であり、十戒も律法もイスラエル人はそれをキチンと守ることができなかったために、イエス・キリストの登場まで救われることがなかったというような、「十戒=不完全で実行不可能」という理解がプロテスタント教会においては一種常識的なかたちで信じられていたりします。
 しかし、ここではあくまでも旧約聖書の視点から、この十戒がどういう位置づけのものであったかを説明したいと思います。


 先も書きましたが、プロテスタント教会で良く言われることに、「十戒はそれを守ることが人間には不可能であった」ということがあります。

 では、仮にそうだとして、ごく基本的な問いとして「では、なぜ、神は人間に実行不可能な十戒を与えたのか?」という問いにプロテスタント教会の信仰では答えることができません。

 新約聖書の信仰の視点は「律法・十戒は実行不可能」という理解に立ちますが、旧約聖書の視点からすれば「律法・十戒は実行可能」という理解なのです。

 また、「十戒」という訳語によって、それが「神によって禁じられている10の命令」というような理解にたって、十戒とは「イスラエル民族が絶対に守るべき神からの禁止命令」と理解する、そうしたことにも、旧約聖書としての理解の妨げになっている原因のひとつでないかと個人的には理解します。

 なお、この「十戒」という言葉は、どちらかといえば申命記において登場する言葉(申命記では本文に「十戒」という言葉が出てきます)であって、出エジプト記には「十戒」に相当する言葉は出てきません。しかも、「十戒」というふうに日本語に訳されているヘブライ語の単語を直訳すれば「10のお言葉」という感じであって、「10の禁止命令」ではありません。


ーーー参考『ラビの聖書解釈 -ユダヤ教とキリスト教の対話ー』、ジョナサン・マゴネット著、小林洋一訳、新教出版社、p18~19ーーー

・・・(前略)・・・聖書的、ラビ的述語では、十戒は「戒め」と呼ばれることは全くありません。十戒のユダヤ教の述語は「アセレト ハ・デブロト」、すなわち「十の言葉」です。このことは、私たちが、いわゆる十戒の禁止命令を、どう理解するかに、影響を与えます。ストレートな戒めーー「あなたはa、b、あるいはcをすべきではない」--の代わりに、その意味するところは、「あなたは神との契約関係に入ったので、これらのことをもはやしようとは思わないでしょう」というようなものになります。それ故に、強調は、「上」からの、「何々をすべきではない」、という「命令」から、ある種の内的、自発的規制に切り替わることになります。「きっと、あなたは殺人をしないでしょう。姦淫をしないでしょう」、等々の語りかけとなります。

ーーー

 その意味で、今日のプロテスタント教会において「十戒」というふうに理解されているような、「絶対に不可侵の神からの禁止命令」ということではなく、むしろ、これはキリスト教信仰における「福音」と同じ、つまり「神からの恵みのお言葉」として、神を持たなかったイスラエルの民に、神さまが与えてくださった「神の祝福」であるという理解されるのです。


 なぜ、このような理解が可能であるかといえば、それまでイスラエルの民は、エジプトの国において奴隷として生活をしていました。すなわち、イスラエルの民の奴隷としての生活において、イスラエルの民は自分たちの神を持つことができず、また、創世記においてアブラハム、イサク、ヤコブの神との直接的な関係が薄れ、まさに「流浪の民」となっていたのです。

 そうした流浪の民が、諸国民と同じように、世界において他の国々と対等にやりあうためには、人はいるわけですから、当然、国土と国土を守護する神の存在が求められるのです。


 その意味で、出エジプト記は、イスラエルの民が最終的に諸国民と同じように神によって守護される国家を形成するための、最初の物語でもあるのです。

 しかし、多くの場合、神はその土地に由来する「土地神」であることがほとんどで、土地を所有しないイスラエルの民は、当然、通常のやり方では神を得ることができません。その意味で、便宜上、「十戒」という言葉を使って説明しますが、まさに、この「十戒」を「神から(恵みとして、祝福として)いただく」ことによって、イスラエルの民は、まさに神と民という、諸国民と同じ立場になることが可能となったのです。

 その意味で、「十戒」に含まれる「禁止命令」は「これをやぶったら処刑だ」というような意味のものではなく、例えば、「殺してはならない。」という日本語では禁止命令で表現される言葉も、「あなたが神を信じるのであれば、あなたは(人を)殺さないであろう。」というような、禁止命令ではなく、「神を畏れる」という正しい信仰に立つとき、あなたは「殺人」を免れることが可能となるのだということを言おうとしているのです。そして、これは他の「禁止命令」で表現されるものにも共通します。

 さらに別の例として、以下の表現があります。
5)あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが
6)わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

 赤字で示した部分がそうですが、これだけを独立して読むと、「神とは、逆らう者になんてしつこく残酷な神だろうか」と思うかもしれませんが、これはこの文として独立しているのではなく、読点(「、」)によって6節に続いていることがわかります。

 つまり、前者では「三代、四代」が挙げられ、後者では「幾千代」が挙げられ、この二つが比較されていることがわかります。当然、これは神による人間の「罪の追求」よりも、神の「祝福」の方がはるかに大きい事を示しているのです。

 ということは、神は「自分との約束を破ったら、すぐに処刑」というような短絡的な、また血も涙もないような存在ではなく、「神とは慈しみ深い存在である」という事が言われようとしているのです。

 
 神が聖なる方であり、罪を赦さない存在であるということはその大前提ですが、しかし、だからと言って、神は短絡的に人間を処刑する存在かというと決してそうではありません。

 むしろ、出エジプト記においては、まさに、神を見出すことのできない人間に対して、モーセを通じて、イスラエルの民に、神からの恵みとして10の言葉が与えられた、という事であり、この言葉、神さまとの「約束の言葉」によって、イスラエルの民は、まだ土地を所有してはいませんが、神を所有することができ、民族としてのアイデンティティを獲得することが、結果として実現したのです。

 いくら人間が、努力しても、神がそれに同意しなければ、神と民という関係に入ることはできません。

 だからこそ、この「十戒」はイスラエルの民にとって大きな慰めであり、恵みであり、祝福となったのです。


 その意味で、イスラエルの人々は、この十戒を「自分たちにとっての重荷」として理解しているかというと決してそういうことはありません。また、書かれている事柄を守ることが不可能であると考えているかというと決してそうではありません。当然、そのような慈しみ深い神が、人間に実行不可能な命令を与えるはずがありません。

 「十戒は実現不可能」というのはキリスト教の信仰における十戒の理解であって、その意味では正しくありません。

 そうではなく、「十戒」はイスラエルの民にとっての大きな喜びであったのです。

 

 あと、それに続く、「契約の書」ですが、まあ書かれているとおりで、特に深い理由はありません。
補足的に説明がひつようなのは、恐らく、「なぜ、ノミを当てた石は汚れるのか?」ということですが、イスラエルにとっての祭壇は「自然物」、つまり、「神が創造されたままのものを用いるべきである」という理解に立つということです。

 ノミで形を整えたり、あるいは土から煉瓦を作るのは例えば、エジプトのような外国で良く行われているやり方です。つまり、イスラエルの祭壇は、そうした他の外国の神々と同じような形ではなく、この天地を創造され、しかも「神がよしとされた自然物」こそ最適であるということなのです。

 階段についても、「隠しどころ」、つまり股間があらわになってはならない、という直接的な理由ですが、基本的には上記のことと同じで、他の神々の神殿において祭壇は高い位置に作られるという、そうした事と一線を画するというような理由でないかとおもいます。

 しかし、たとえばエゼキエル書等に出てくる神殿の祭壇は「階段で登る仕様」になっていて、必ずしも旧約聖書全体が、この出エジプト記の記述にならっているかといえば、そうではないこともあるというところです。 


 以下、個人的な意訳を本文と共に紹介します。

ーーー

1)神はこれらすべての言葉を告げられた。
2)「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
3)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
ーーー
 神はこれらすべての言葉を告げられた。
 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
 (わたしはあなたに言葉を与え、それによってあなたは神の民となった。)
 それゆえ、わたしがあなたの神であって、それ以外のものは神ではない。



4)あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
5)あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
6)わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
ーーー
 また、(わたしこそがあなたの神であるから)、あなたはいかなる像も造ることはないであろう。
 (他の諸国民が行うように)、上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、すなわち、この世界に存在するいかなるものの形も造ることはないであろう。
 そして、あなたは(諸国民が行うように)それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりすることもないであろう。
 わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者に、わたしは父祖の罪をその子孫に三代、四代まで問うこともあるかもしれない。しかし、(あなたは)わたしを愛し、わたしの言葉を守る者とされたので、わたしは(あなたに)幾千代にも及ぶ慈しみを与えよう。わたしは慈しみ深い神なのである。



7)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
8)安息日を心に留め、これを聖別せよ。
ーーー
 (わたしは慈しみ深い神なので、あなたは)あなたの神、主の名をみだりに唱えることはないであろう。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおられない(が、そういうことも起こらないであろう。)
 安息日(は神の祝福の時であり、あなたがたと憩う時であるからこのこと)を心に留め、これを聖別しなさい。



9)六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10)七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
11)六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
ーーー
 (あなたは)六日の間働いて、何であれあなたの仕事をしなさい。
 そして、七日目は、あなたの神、主(が定められた)安息日であるから、あなたは仕事を休みなさい。(仕事を休み、神の御前に憩うのは、)あなただけでなく、あなたの息子も、娘も、あなたの(直接の家族の他に)男女の奴隷も、加えて、家畜であっても、更に、あなたの町の門の中に寄留する(土地や家を持たない)人々も同様にしなさい。
 六日の間に、主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は(この)安息日を祝福して聖別されたのである。(これはあなたがたに対する神の恵みであり祝福であり、休息の時、神からの命にあずかる時なのだ。)



12)あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
13)殺してはならない。
14)姦淫してはならない。
ーーー
 (あなたは、わたしを神として信じ、祝福を豊かに受けるので、)あなたの父母を敬うことであろう。
 それによってあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができるであろう。
 (あなたは、わたしを神として信じ、祝福を豊かに受けるので、)殺人をすることはないであろう。
 (あなたは、わたしを神として信じ、祝福を豊かに受けるので、)他人の妻を姦淫することはないであろう。



15)盗んではならない。
16)隣人に関して偽証してはならない。
17)隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
ーーー
 (あなたは、わたしを神として信じ、祝福を豊かに受けるので、)他人のものを盗むこともないであろう。
 (あなたは、わたしを神として信じ、祝福を豊かに受けるので、)隣人に関して偽証することもないであろう。
 (あなたは、わたしを神として信じ、祝福を豊かに受けるので、)隣人の家を欲することもないであろう。それ以外に隣人の妻や、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲することはないであらおう。」




18)民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、
19)モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」
ーーー
 (イスラエルの)民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民はそれを見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。
 「(モーセよ、)あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは(それを)聞きます。
 そして、神がわたしたちに(直接)お語りにならないようにしてください。
 そうでないと、わたしたちは(神の聖なる御前において不完全なので)死んでしまうでしょう。」



20)モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」
21)民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。
ーーー
 モーセは民に答えた。
 「恐れることはない。神が(ここに)来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れ(すなわち信仰)をおいて、罪を犯すことのないようにするためなのだ。」
 
 民は、遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。




 契約の書
(1)祭壇について
22)主はモーセに言われた。イスラエルの人々にこう言いなさい。あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。
23)あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。
ーーー
 主はモーセに言われた。
 「イスラエルの人々にこう言いなさい。あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。
 (それゆえ)あなたたちはわたしについて、先に語って聞かせたように、何も造ることはないであろう。(諸国民が行うように、)銀の神々も金の神々も造ることはないであろう。



24)あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。
25)しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。
26)あなたは、階段を用いて祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所があらわにならないためである。
ーーー
 あなたは、わたしのために(自然物である)土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。(わたしはあなたがたに言葉をあたえたので、)わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。

 その時、もし、わたしのために石を用いて祭壇を造るのであれば、(石を加工して)切り石で(祭壇を)築いてはならない。なぜなら、(諸国民が行うように)のみを当てると、(神が良しとされた自然物である自然)石が汚されるからである。
  
 また、あなたは、階段を用いて祭壇に登ってはならない。なぜなら、あなたの隠し所が(神の前に)あらわになってしまうからである。

出エジプト記19章 シナイ山到着

 出エジプト記19章は、イスラエルの民がエジプトを出てから三か月の道のりを経てシナイ山の麓に到着し、そこから20章において十戒を神から拝受する、そうしたイスラエルの民が神とまみえるための準備をする、そうした聖書箇所となっています。

 ポイントとしては以下のようなことが挙げられています。

 A)神は聖なる存在であり、聖であることが厳重に守られていないと地上に降りてくることができない。

 B)イスラエルの民が生活する空間と聖なる空間とは、境によって隔てられており、その境、境界を侵犯する行為は死罪にそうとうする。また、このことは家畜や野の獣も同じである。さらに、神を目撃しようと近づくことも禁止されている。(この領域侵犯が罪として理解される。人が人であるという限界に留まることが大事。)

 C)神を信じるとは、神と民という契約関係に入る事であって、神の言葉に聞き、神の戒めを守ることが絶対的に重要。


 「神が聖なる存在である」ということは旧約聖書における重要な信仰のひとつです。加えて、人間は罪深い存在であり、そのままでは神の前に出ることは不可能ですが、しかし、身を浄める行為を通じて、神にまみえる可能性があることを創世記等では言っています。

 ただし、出エジプト記19章においては、イスラエルの民が身を浄めることは、神に会う・会わないに関係なく、神の民として神との契約関係に入るためには必須の事柄であるようにこのところでは書かれています。

 最終的にシナイ山の山頂に登ることが許されるのはモーセとアロンという事になりますが、たとえ身を浄めた祭司であっても、神の許しなく聖別されたシナイ山に入ることは許されないというところです。

 むしろ、祭司やイスラエルの民が身を浄めるのは、シナイ山を一つの聖別された空間とするために、その境界線を設定するのに必要であり、また神を直接か関節か対面(必ずしも神を目撃できるわけではなく)するための備えとして必須であるというところかと思います。

 こうした「聖なる」という感覚は、どちらかというとプロテスタント教会の信仰ではあまり強くなく、カトリック教会、または正教会において重要視されています。



 なぜ、浄めの期間が三日なのかについては、詳しい事は不明です。ただ旧約聖書においては「三日」という表現は150回くらい出てきますが、あまり深い意味はないと思います。ニュアンスとして「しばらくして」程度の意味かもしれません。

 
 この箇所は読むと分かりますが、かなり言葉として変で、「主」が主語となる文章において、セリフの中でまた「主は~」と書かれており、ちょっと違和感を覚えます。「日本語訳がおかしい」ということではなく、恐らく、ヘブライ語の聖書においても同じように書かれているのでしょう。つまり、後付の可能性がプンプンしているのです。
 たとえば他に、イスラエルの民が聖なる境界線を越境した場合、自分たちで違反者を「殺さねばならない」と書いてあるかと思えば、「主が彼らを撃つことがないためである」と今度は違反者を神がその人を殺すというような具合です。

 その意味では、この箇所は書かれている事柄が、どことなくチグハグであるという印象を受けるのではないかと思います。

 ただ、そうした点を除けば、物語自体はそう難しいことを言っているのではないので、特にたいした説明もなく読めると思います。
 
 なお、本文中に出てくる「鷲の翼に乗せて」という表現は、レフィディムからシナイ山まで「ごく短時間で」導いたという、そういう意味です。



 また、今日的に、この箇所をどのように読むかですが、キリスト教信仰において神さまが聖なる存在であるということは、ある意味、今日的なプロテスタントの信仰において、神の前における「敬虔さ」を養う上で重要であると思います。

 新約聖書の時代においてパウロの信仰義認を、「何をやっても自由だ」と極端に解釈する人たちがいたのですが、今日的なプロテスタント教会の信仰において、やはりこのところで言われている「神と人との境界線を守ること、大切にすること」は重要であると思います。

 たとえば、人間が神になろうとするところに、必ず、その責任を誰がとるのかという事が問題になってきます。わたしたち人間の知的好奇心と神との間にある境界線は、人類にとって非常に難しい問題であると思います。

 人が神の領域に足を踏み入れる時、「神によって裁かれる」ということではなく、「自分の犯した事(行った行為)によって、その結果である報いを受けなければならない」という事になるのです。だからこそ、神がその領域侵犯を禁止するのは、わたしたちがそうした不幸に落ち込まないための神の憐みなのだと思います。

 以下、本文を紹介します。


ーーー

1)イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。
2)彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
3)モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。
4)あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。
5)今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
6)あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
7)モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。
8)民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、
9)主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。
10)主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、
11)三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。
12)民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。
13)その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」
14)モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、
15)民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。
16)三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
17)しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。
18)シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
19)角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
20)主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
21)主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。
22)また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」
23)モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」
24)主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」
25)モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。

出エジプト記18章 エトロの訪問と裁判方法の変更

 出エジプト記18章は1節以下で書かれているようにミディアン人(今でいうアラビア半島の西岸地域に住んでいた人々)の祭司でツィポラの父にあたる「しゅうと」であるエトロがモーセのところに、モーセの妻であるツィポラと二人の息子を連れて訪問するという物語りと、13節以下で展開されているモーセの裁判のやり方があまりにも効率が悪いため、エトロがモーセに対してこのようにするといいと提言し、モーセがそれを受け入れてイスラエルの民を正しく指導することができるようになったという話の二つが含まれています。

 話の流れからすると、どちらかといえば少し突拍子もない印象を受けますが、ある意味で、これまでの流れにおいてイスラエルの民がモーセやアロンに対して不平不満をぶちまける事があったことを覚えれば、このエトロのやり方を通じてはじめて、モーセはイスラエルの人々の持つ不満を上手に解消することができたのだという、そうした文脈になるかと思います。

 
 さて、まずしゅうとのエトロですが、彼の名前は出エジプト記3章1節にさかのぼります。
 しかしより厳密に言えば、実は出エジプト記2章11節以下において、モーセがツィポラと結婚する経緯が記されており、そこでは「エトロ」(彼の豊かさ)ではなく「レウエル」(神の友)というふうに記されています。
 これについては、たとえばレウエルは個人名でエトロはあだ名であったというような説明がありますが、個人的には、恐らくモーセについての資料の違いではないかと見るところです。

 また出エジプト記2章においてはモーセの息子は「ゲルショム」(寄留者)だけですが、出エジプト記18章においては、さらに「エリエゼル」(神は助け)という二人目の息子が登場するといった違いがあります。

 この息子の名前は、出エジプトの出来事にちなんでおり、その意味では、エジプト脱出を記念する意味において「エリエゼル」が与えられたという、一種記念碑的な意味合いがあるのではないかなというところです。この「エリエゼル」については、歴代誌上23章においてモーセの息子として、その子孫が記されていますが、しかし、出エジプト記においては18章にしか登場しない名前です。その意味で、モーセの時代にそうした伝承が存在したというよりも、歴代誌といったイスラエルの歴史が問題になってきたときに必要に応じて登場した名前なのかもしれません。詳細は不明です。

 さて、ツィポラについて、出エジプト記の伝承では彼女はミディアン人の祭司の娘として紹介されていることから当然、ツィポラはミディアン人(アラビア人)ということになります。ところが、民数記12章1節以下を見ると次のように記されています。

 『ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。』(民数記12:1)
 
 ここではモーセの妻がツィポラであるというふうに個人名は出てきませんが、モーセがクシュ人(エジプト人)を妻にしている。つまり、ツィポラはエジプト人であるというような話になります。このモーセの妻が果たしてツィポラ本人であるのか、それとも後妻であるのかは不明です。

 
 そういう意味では、色々な伝承が存在していたというところでないかと思います。


 この聖書箇所は、そうした出エジプトにおける挿入話のようなものなので、あまり特別に難しいということもなく、すんなり読める箇所でないかと思います。

 以下、本文を紹介します。

ーーー

1)モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロは、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた。
2)モーセのしゅうとエトロは、モーセが先に帰していた妻のツィポラと、
3)二人の息子を連れて来た。一人は、モーセが、「わたしは異国にいる寄留者だ」と言って、ゲルショムと名付け、
4)もう一人は、「わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた」と言って、エリエゼルと名付けた。
5)モーセのしゅうとエトロは、モーセの息子たちと妻を連れて荒れ野に行き、神の山に宿営しているモーセのところに行った。
6)彼はモーセに、「あなたのしゅうとであるわたし、エトロがあなたの妻と二人の子供を連れて来た」と伝えると、
7)モーセは出て来てしゅうとを迎え、身をかがめて口づけした。彼らは互いに安否を尋ね合ってから、天幕の中に入った。
8)モーセはしゅうとに、主がイスラエルのためファラオとエジプトに対してなされたすべてのこと、すなわち、彼らは途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせると、
9)エトロは、主がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んで、
10)言った。「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。
11)今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」
12)モーセのしゅうとエトロは焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセのしゅうとと共に神の御前で食事をした。


13)翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。
14)モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。
15)モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。
16)彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。
17)モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。
18)あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。
19)わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、
20)彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。
21)あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。
22)平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。
23)もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」
24)モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、
25)全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。
26)こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。
27)しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った。

出エジプト記17章 メリバの水の出来事、アマレク人との戦い

 出エジプト記17章は、16章における天からのマナと同様にイスラエルの民が、荒野において水・食料に困り、モーセに対して不平不満を述べるという出来事を記しています。また、17章8節以下においてはイスラエルの民とアマレク人との戦いについての出来事を記していますが、以下に順を追って説明します。

 まず、イスラエルの人々は主の命令に従ってシンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営します。

 ここで「シンの荒れ野」も「レフィディム」も、共に地名のようですがこれについてははっきりしません。ただ物語としては、イスラエルの民が神の命令に従って出発し、旅程に従って進み、レフィディム、すなわち「レフィディム」(休憩地・休息地の意)に至ったと、つまりは、ここまではイスラエルの人々は神の命令に対して従順であったというわけです。

 ところが、このレフィディムと呼ばれる休憩地は飲み水がありませんでした。当然、このレフィディムへ導いたのは神であり、すなわち、このレフィディムは単なる休憩地ではなく、イスラエルの民を試みる神の御計画に基づく誘導であったということです。

 イスラエルの人々は葦の海において、また16章における天からのマナによって、神の大いなる御業を経験していましたが、しかし、だからと言って、それが神を信じる信仰において大いに意味があるかというとスラエルの人々は、「神を信じる」というところまでは至っていなかったというわけです。

 そのことは7節の『イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。』という言葉にもよく表れています。

 この7節の説明によれば、実は、この試みは単に飲み水が問題なのではなく、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」という、まさに信仰の問題としてこのところではイスラエルの民の信仰が試されたのです。
 
 なお、これと同じような話は民数記20章にも登場しますが、似たような話ではありますが、題材は同じで言わんとすることは別のところにあります。

 また、民数記20章1~13の要約として、詩編95篇8節に以下のようにあります。

 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」(詩編95:8~11)



 8節以下はイスラエルの民とアマレク人との戦いについてですが、この聖書箇所はアマレク人を地上から滅ぼしてしまえという神の言葉を記述した、キリスト教徒にとってはあまり良い感じのしない聖書箇所です。

 では、そもそもなぜアマレク人を滅ぼすことが正当であると言えるかといえば、まずイスラエルの人々はレフィディム(休憩地・休息地)において休んでいるところに、アマレク人が武器をもって襲ってきたという設定から物語がはじまります。

 すなわち、イスラエルの人々はエジプトを脱出したのち、アマレク人の領地に攻め入ったのではなく、ただレフィディムという休憩地で休憩しているところにアマレク人が襲ってきたということになっているのです。

 そして、加えて、アマレク人を滅ぼせというこの命令は「神の命令」として、すなわちそれは、神の正しい裁きの結果として、世界における正義の制裁としてイスラエルの民に示されたものであり、その責任は全て神に帰するという理解なのです。

 また、このアマレク人との戦いにおいてその先頭に立つのはヨシュアなのですが、ここではヨシュアの戦士として、あるいは英雄として、そうした書き方が一切なされていません。ヨシュアは戦いますが、しかし、戦いの勝敗を決するのはヨシュアの力や能力や才能ではなく、ただモーセが手を挙げているか否かにかかっているのです。

 そして、この戦いにおいて描かれたモーセの姿は決して英雄ではなく、一人では両手を挙げていることができない、石の上に腰を下ろした力の無い老人の姿として描かれている点に意味があります。

 すなわち、この戦いにおいてヒーローも英雄も戦士、策士も存在せず、ただ「手を挙げている」、すなわち、「神をさんびする」という行為において勝利を得るのです。つまり、いかなる人間の能力や才能とも関係なく、ただただ神が働かれることこそ重要であるのです。

 以下、本文を紹介します。

ーーー

1)主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。
2)民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
3)しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
4)モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、
5)主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。
6)見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
7)彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。


8)アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、
9)モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」
10)ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。
11)モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。
12)モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。
13)ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。
14)主はモーセに言われた。「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」
15)モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、
16)言った。「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」
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