使徒言行録15章には使徒会議についての記録が登場します。この使徒会議について、新約聖書には使徒言行録と、パウロの記したガラテヤの信徒への手紙にそのことが登場します。使徒言行録では特にこれが何時行われたのかは書かれていませんが、ガラテヤの信徒への手紙において1章18節「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが~」とあることから、パウロが復活の主と出会い、使徒とされてから最初エルサレムを訪れたけれども、そこでは12使徒とは誰とも面会せず、その後、アラビア、ダマスコと移り、それから三年後に、エルサレムで主の兄弟ヤコブと面会し、その後、14年後にバルナバとエルサレムに行き、その際、テトスを同行させたと言っています(ガラテヤの信徒への手紙2章1節)。つまり、この時のエルサレムへ行ったというのが使徒会議が目的のものであったと考えられるのです。

 すなわち、主の復活が紀元30年と仮定して、上記のことを考慮すると、およそそれから最短でも17~19年くらい。つまり、およそ紀元50年ごろ(『旧約新約 聖書時代史』によれば48年ごろ)にパウロはバルナバ、テトスと共にアンティオキア教会からエルサレム教会にに行き、そこで上記の事を協議したということになるのです。




【 ペトロたちエルサレム教会の姿について 】

 まず、使徒言行録2章9~11節にある「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」という記述からすれば、当時のローマ帝国統治下において、キリスト教がローマの各地に散っていた事を示しています。そして、それは当然の事ながら、そうした地域に突然、同時並行的に興ったのではなく、「聖霊の導きによって」、つまり、使徒言行録が成立する紀元90年代において、回想的に総括された表現としてみることができるわけです。

使徒言行録に登場する地域名

 なぜ、そうした各地からの人たちが初代のエルサレム教会の成立当初の信徒ではないことが言えるのか? 理由は簡単で、なぜなら「ユダヤ人でない人はエルサレム神殿の祭儀に加わることができないから」です。

 その意味で、使徒言行録2章46~47節にあるとおり、最初のエルサレム教会とは、すなわち礼拝堂を独自に持つ「家の教会」ではなく、礼拝そのものはユダヤ教の祭儀に参加することであり、その後、それぞれの家に集まって聖餐、あるいは愛餐の時、交わりの時をもっていたことが伺えるのです。

 「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒言行録2章46~47節)
 
 そうしたことから、当時のペトロたちの初代教会におけるユダヤ教と異なる信仰的な特徴は、すなわち、「パンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美した」という点にあることが言えるのです。


 また、使徒言行録2~3章のペトロの説教に見る信仰的な教えは、以下のとおり。

36)だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒言行録2章36節)

38)すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

19)だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
20)こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
21)このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(使徒言行録3章19~21節)

 ここでは、イエスが旧約の預言にあるメシアであり、「罪の悔い改め」と、「終末における神の裁きと主イエスの再臨による慰め」がパウロの教説における中心点であることがわかります。そして、ユダヤ教とエルサレム教会との決定的な違いが、使徒言行録2章38節に登場する「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」という事柄であることがわかります。

 そして、そうした初代のエルサレム教会の活動、すなわちユダヤ人に対する「洗礼式」、および「死者(イエス)の十字架と復活」の信仰はひとつのムーブメントとなり、ユダヤ教の人々にとって脅威(信者が増えていくので)となり、それはユダヤ教内における一つのセクトとして扱うことが難しくなってきたのです。

 そうした中でペトロとヨハネに対する議会での取り調べが行われ、ペトロとヨハネは宣教活動をしないよう脅された後、釈放される(使徒言行録4章1~22節)のです。そして、そうしたペトロたち、ユダヤ人キリスト教徒に対する迫害が次第に強さを増して行き、そうした中で、レビ族から「バルナバ」と呼ばれる、キプロス島出身のヨセフというユダヤ人キリスト者が与えられます(使徒言行録4章36節)。そして、この人物がアンティオキア教会を指導するようになり、またパウロを指導するようになるのです。

 その後、ペトロをはじめとする12使徒たちは大祭司たちの手によって逮捕され、牢獄に入れられます(使徒言行録5章18節)。結局は鞭打ちの刑だけで、エルサレムにおいてキリスト教の宣教をするなと禁止されるだけで釈放され、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」(使徒言行録5章42節)にあるように、むしろその宣教はいよいよ拡大していくことになるのです。

 使徒言行録では、そうした出来事の後に、6章において「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」(使徒言行録6章1節)と、当時のユダヤ人キリスト教徒について、二種類のグループがあることをここで紹介します。つまり、当時のエルサレム教会(家の教会)の中に、ギリシア語を話す人々と、ヘブライ語を話す人々とのグループが存在し、しかも、当時の教会で慣習的になっていた愛餐の出来事について不公平があると問題が起こり、ここで当時の使徒たちは、使徒に続く7人の弟子たちを任命し、ここから、初代12使徒に続く、弟子たちに対する按手礼が行われ、それぞれの家の教会の牧者として任命されるのです。

5)一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
6)使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
7)こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。(使徒言行録6章5~7)

 この出来事により、12使徒たちは祈りと教えに専念することになり、家の教会を牧するのは、そうした按手を受けた弟子たちの手に委ねられるようになるのです。ところが、そうした家の教会に対して迫害が起こり、その最初の被害者、殉教者としてステファノが処刑されるのです(使徒言行録7章)。


 さて、エルサレム教会の人々を大いに悲しませたステファノの殉教の出来事に続き、ここからエルサレム教会の大きな動きが起こります。それは何かと言えば、使徒言行録8章の冒頭にあるように、エルサレム教会に対して大迫害が起こり、この時、12使徒以外の弟子たちがローマ帝国のユダヤ州、サマリア地方へと散っていったのです。そして、そこで家の教会を設立する。そのひとつが、バルナバが牧し、またサウロが導かれるシリアにあるアンティオキアの教会であるわけです。

 「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」(使徒言行録8章1節)

 使徒言行録は8章において、まずサマリアに、エルサレム以外の最初のキリスト教会ができたことが記されています。この教会を指導したのは弟子のフィリポであり、そこにもとからの住民であるシモンという人物が加わり、教会が発展します。ところが、この教会には問題があって、その後、このサマリアにおけるキリスト教会を視察しに12使徒のペトロとヨハネが訪れますが、すなわち、サマリアにおけるキリスト教会で行われていたのは、「主イエス・キリストの名による洗礼」だけで、「聖霊を注ぐ、聖霊のバプテスマ」は行われていなかった(「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。」(使徒言行録8章16節)のです。

 ペトロとヨハネはサマリアにあるキリスト教会を視察に訪れ、彼らの上に手を置いて、すなわち按手礼を行ったところ、聖霊が注がれ、いよいよ内実をもって、エルサレム以外の真にキリスト教会の誕生ということになったわけです(使徒言行録8章4~25)。 
 また、弟子のフィリポによって、使徒言行録8章26節以下では、サマリア地方の海岸側の町々に福音宣教が行われたことと同時に、エチオピアの宦官に対して福音宣教を行い、そうしたところにもキリスト教会ができたことを物語っています。

 この後、使徒言行録はサウロの回心記事からはじまり、サウロがキリスト教徒となるところからはじまります。このとき、「ダマスコにアナニアという弟子がいた。」(使徒言行録9:10)とあるように、既にダマスコにあったユダヤ人キリスト教会の弟子でアナニアという人物が、サウロに洗礼を授け、キリスト者として導いたことが記されています。

 使徒言行録22章におけるパウロの説明によれば、アナニアという人物について以下のようであったとされています。

 「ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。」(使徒言行録22章12節)

 つまり、アナニアという人物は、異邦人の町にあってユダヤ人として生活している人物であり、加えて、先にキリスト者になった人物であることが示されているのです。


 さて、パウロ自身も、そもそもが異邦人の町に生まれ、そこで育った離散のユダヤ人でした。その事が意味することは、すなわちこうした時点における「キリスト教」というのは、すなわち、「ユダヤ人が前提の信仰」であったわけです。
 そして、ユダヤ人たちがユダヤ人キリスト者を迫害する理由は、「主イエス・キリストによる罪の赦し」と「洗礼」というこの2点において迫害を受けたことがわかるのです。




 【 どのような理由で使徒会議が開催されたのか? 】

 使徒会議が開催されるきっかけとなったのは、使徒言行録15章1節の記述によれば、『ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。』(使徒言行録15:1~2)とあるとおりです。

 これで分かることは、当時、エルサレム教会の働きがサマリア地方、あるいはパウロやバルナバのいるシリアのアンティオキア教会の方まで広がってきました。この動きというのは、一口に言えば福音宣教ということになりますが、厳密には、エルサレム教会の宣教活動によって成立した家の教会のことであり、つまり、それは「ユダヤ教・キリスト派」というようなものであったのです。

 以下は、そうしたユダヤ教と初代エルサレム教会(ユダヤ教のキリスト派)と、アンティオキア教会(異邦人教会)の違いと共通点を図であらわしたものです。


 使徒会議と使徒教令


 上記の図で説明すれば、ユダヤ教とユダヤ教・キリスト派というのは、基本的には「メシアがイエス」という点と、「洗礼式」という点以外は共通しています。つまり、ユダヤ教の人々も、ペトロたちキリスト派の人々も、「ユダヤ人である」という点においては共通するのです。

 ところが、パウロやバルナバをはじめとするアンティオキアの異邦人教会の人たちは、「ユダヤ人でない」という点において、決定的に異なるのです。ただし、パウロもバルナバも元々ユダヤ人ですので、「異邦人教会におけるユダヤ人」は、基本的には、ユダヤ教のキリスト派という扱いで問題がなかったのです。

  このアンティオキア教会について使徒言行録11章で紹介されています。

 「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」(使徒言行録11章19~21節)

 ステファノの殉教にはじまるエルサレム教会(ユダヤ教のキリスト派)に対する迫害により、弟子たちはフェニキア、キプロス、アンティオキアまで逃れながら、そのところで福音を語りました。しかし、上記の聖書箇所にあるように、「ユダヤ人限定」で語られたのです。すなわち、アンティオキア教会のおもなメンバーはユダヤ人だということであり、さらに、そこにキプロス島出身の弟子、すなわちバルナバたちによって、ギリシア語を話す人々にも福音宣教が行われたのです。

 そして、アンティオキア教会でサウロはパウロとして、バルナバの指導を受けて、異邦人キリスト者としての歩みをはじめ、このアンティオキア教会の異邦人教会において、弟子たちがはじめて「キリスト者」と呼ばれるようになったのです。

 「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」(使徒言行録11章25~26節)




アンティオキア教会における問題

 
 当初、アンティオキア教会は、おもにユダヤ人だけで構成されていましたが、バルナバやパウロなどの活躍により、ギリシア語を話すユダヤ人、そして、それ以外の無割礼の異邦人も加わるようになってきます。ところが、そうしたところに使徒言行録15章1節以下であるように、エルサレム教会の信仰を持つ人々がやって来て、無割礼のキリスト者に対して割礼を行うように求めたのです。

 パウロとバルナバはこの事でエルサレム教会から来た人々と議論となり、結局、エルサレム教会の指導者たちとキリスト教の信仰について協議する必要を覚えて、この時、パウロとバルナバは、本来、エルサレム神殿に入ることのできない、またユダヤ人と一緒に食事ができない無割礼のギリシア人テトスを同伴して、エルサレムの使徒会議に赴くのです。

 この使徒会議の主要議題は「無割礼のキリスト者に対して割礼を行うか否か」でした(使徒言行録15:5)。

 そして、議論の結果として、使徒教令として、異邦人キリスト者、すなわち無割礼のキリスト者に対して、(1)割礼は強制しない。(2)「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。」(使徒言行録15章29節)を遵守することを求めることに留めたのです。

  ところが、使徒言行録が記していない出来事が、実は、この時に起こっていたのでした。
 それはパウロがガラテヤの信徒への手紙で記していることなのですが、「 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2章3~4節)

 実は、パウロは使徒会議の時に、無割礼のギリシア人テトスを同伴して行っていたのです。本来、無割礼のユダヤ人ではないテトスが、ペトロや12使徒たちと一緒に食事についたりすることはできません。ところが、この時、エルサレム教会の人々はテトスについて知ってか知らなかったのか、特に問題にしなかったのです。


 ところが、今度は、ペトロがアンティオキア教会を訪れることがあり、その時のペトロの対応にパウロは問題を感じ、そのことをペトロに対して追及するということが起こります。この出来事については、使徒言行録では記されていませんが、パウロの言葉によるガラテヤの信徒への手紙にその経緯が記されています。

 「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」(ガラテヤの信徒への手紙2:11~13)

 ここら辺の経緯については使徒言行録は何も書いていませんが、こうしたようなパウロとエルサレム教会との確執が起こったことと、また、パウロが3回目の宣教旅行を終えてエルサレムに戻り、ヤコブを訪ねた折に、エルサレム教会の弟子たちは以下のようにパウロに言っています。

 「これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。」(使徒言行録21章20~21節)

 この記述が意味するものは、エルサレム教会の人々にとって、ペトロをはじめとする12使徒の活躍によって興った現象とは、すなわち、「ユダヤ人によるユダヤ教のキリスト派の拡大」であって、当然、そこで熱心に取り組まれているのは「律法の遵守」であるのです。ところが、それに対して、異邦人教会の拡大は、そうしたエルサレム教会の人々からすれば、パウロの教えは「ユダヤ人(の子ども)に対する割礼の禁止、食物規定の無効」ということで、「反律法的運動」として認識されたのです。


 このパウロの「反律法的・福音宣教」に対する反対は大きく、特に、使徒言行録13章に登場する、ピシディア州のアンティオキア教会における迫害となるのです。

 「ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。」(使徒言行録13章50~51節)

 こうしたパウロの福音宣教に対する反対は、使徒言行録14章においてイコニオン、リストラでも同様に起り、使徒言行録においては、ビティニア州やアジア州において、当初はパウロの教えを受け入れたけれども、結局、アジア州の教会はほとんどがパウロの信仰から離れて、エルサレム教会の信仰へと収束したということがテモテへの手紙に見ることができます。

 「あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。」(テモテへの手紙二 1章15節)

 アジア州のほとんどの教会がパウロから離れたとは、全く別の信仰に変わったということではなく、むしろ、エルサレム教会の教えのとおり、それは「イエスはメシア」と認め、水による洗礼を行い、かつ、ユダヤ人として律法にある割礼と食物規定の遵守を求める、エルサレム教会の信仰になったということを意味していると思います。

 そして、それは結果的には、二つのキリスト教の形へと収束したのではないかということです。

 ひとつは、今日、多くの教会で信仰されているキリスト教であり、もうひとつが、ユダヤ教型のキリスト教であるのです。

 両者の違いは、割礼の執行と律法の遵守であり、すなわち、そうした生活の上に、キリスト教の救いを位置づけるものであるのです。