パウロの直接の弟子で新約聖書に手紙の受け手として登場するのがテモテとテトスです。

 しかし、パウロの指導したマケドニア州テサロニケ、フィリピ教会、そしてアカイア州コリント教会、アジア州エフェソ教会、ガラテヤ州の教会は「異邦人(ユダヤ人以外)教会」として知られていますが、聖書に登場する名前を見ると、本当の異邦人キリスト者の名前は少ないことがわかります。あるいは、異邦人キリスト者の数が多い為に、いちいち全部を紹介することができないので名前が出てこないのか、そこらへんはちょっと分からないところです。

 そうした中で、明らかに異邦人であり、キリスト者として、パウロの弟子として福音宣教の業に従事したのがテトスになります。(テモテは先の記事でも紹介していますが、使徒言行録16章の記述によればパウロの勧めで割礼を受けてユダヤ人となっています。)


 テトスへの手紙の成立は、およそ2世紀前半ごろ(『旧約新約時代史』、山我哲雄・佐藤 研著、p219)であり、成立場所は不明であるけれども、しかし、本文において指摘されているように、「グノーシス主義的色彩の二元論的放逸主義者が激しく攻撃されている」(同書、p219)。

 およそ、そうした同時代的に書かれた書物として「テモテへの第一の手紙」「テモテへの第二の手紙」があり、その意味では、これらの文書はパウロが直接の弟子であるテモテ、テトスに対して書き送った手紙という体裁をとってはいるけれども、恐らく、当時のパウロの異邦人キリスト教の伝統に立脚するキリスト教会が、そうした内外からの信仰的な挑戦に対して、正しい信仰とはどういったものであるかを当時の教会の指導者たちに対する指導的書簡として、「実は、パウロは、教会が将来直面するであろう困難にどのように立ち向かうのかを実は弟子のテモテ、あるいはテトスに対して、このようにパウロは語っていたのだという、一種の権威付けとして書かれたことが伺えるわけです。



【 テトスへの手紙の本文について 】

 では、以下にテトスへの手紙の本文について、少しずつみていきます。

 テトスへの手紙1章

1)神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。
2)これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。
3)神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――
4)信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。
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 テトスへの手紙は全体で3章と手紙の中では短い方です。そして、この挨拶からわかるのは、パウロがまさに「イエス・キリストによって使徒とされたパウロ」であり、テトスはこのパウロの受けた信仰を正しく共有する真の弟子であるという宣言です。

 上記の引用において「--」で括られた1節の途中から3節末までが、すなわち、パウロの受けたものが何であるかを示しており、それは赤字の部分に示されているように、「教会に分裂をもたらす教え」ではなく、むしろ「神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くため」のものであるというわけです。


5)あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。
6)長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。
7)監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、
8)かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、
9)教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。
10)実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。
11)その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。
12)彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。」
13)この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、
14)ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。
15)清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。
16)こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。
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 1章5節~16節については、パウロがテトスに託した使命についての説明と、その留意点についてです。

 ここでテトスがパウロから受けた使命とは何かと言えば、クレタ島において、町ごとに存在するキリスト教の教会(長老や監督といった職制があることから、既に家の教会ではなく、ある程度の規模をもつ教会であることがわかります)を管理・指導する役割をになっていたことがわかります。すなわち、それは今日的に言えば、教区長のようなものであり、そうした町の教会ごとに長老の任命と、監督の任命する権威を、さきの1~4節のところで語られていたように、イエス・キリストによって使徒とされたパウロから委託されているというわけです。

 ここで、当時の教会が直面していた問題とは、いわゆるキリスト教徒に対する迫害というよりも、むしろ、この5節以下16節までのところで語られていることによれば、それはむしろキリスト教会の中に発生している問題であり、また、同じキリスト教でもユダヤ主義的なキリスト教の教えや、あるいは間違った福音理解についてそれが問題であることを指摘しています。そして、テトスがそうした当時の教会の状況において保持しなければならないものが、パウロがテトスに対して教えたその教えであり、それ以上でもなく、それ以下でもないというわけです。それは、教会の中に秩序を与え、分別を持たせる信仰であって、自分たちの利益のために信仰を利用することは許されないのです。


 テトスへの手紙2章

1)しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい
2)年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい
3)同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい
4)そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、
5)分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです
6)同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、
7)非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
8)奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、
9)盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。
10)実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
11)その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
12)また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
13)キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
14)十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。

 テトスへの手紙2章においては、キリスト教の正しい教えが、当時の社会においては秩序を実現するものであり、そのためには、テトス自身が、まず自分の生き方においてそれを実践し、実現していなければならないと勧めています。その意味で、これは直接、テトスに対して語られていますが、そうした当時のキリスト教教会においてテトスの立場、すなわち教区長に相当する人物に求められるキリスト教的倫理規範がここでは示されています。そして、そうしたかたちで教会の中にも秩序を実現し、それはたとえ奴隷であったとしても、キリスト教会の中ではその秩序に従うべきであることが示されています。そして、そうした正しい教えによる個人の正しい信仰生活を通して、その集合体であるキリストの教会も真に清く正しいものとなることができると教えています。



 テトスへの手紙3章

1)人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、
2)また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。
3)わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。
4)しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、
5)神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
6)神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました
7)こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
8)この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。
9)愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。
10)分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい
11)あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。
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 この3章でパウロがテトスに対して示しているのは、キリスト者はキリストの支配の下にあるからといってこの世の権力から自由にされているということではなく、むしろ、積極的に、この世においてこの世の支配に服することによって、この世の権力から自由になることを求めています。

 それはこの世的な権力に対して抵抗もって報いるのではなく、むしろ、キリスト者は、キリストの御前においてあくまでもキリストがその十字架に磔になるまで無抵抗であったように、この世に対する積極的な服従と、それと併せて信仰により善を行うことによってそうしたこの世的な権力に対して立ち向かうことを勧めています。しかし、それはいわゆる「倫理規定」というものではなく、それが信仰者が神によって救われる、聖霊の助けによって清められることによってそうしたことを実現することを教えています。

 また、当時の教会の中で起っていた様々な種類の信仰について、そうした議論が無意味であり、教会の成長のためにはむしろ不要であることを言っています。また、そうした一種の異端的キリスト者との関わりを持たないようにと勧めています。


12)アルテマスティキコをあなたのもとへ遣わしたら、急いで、ニコポリスにいるわたしのところへ来てください。わたしはそこで冬を越すことにしたからです。
13)法律家ゼナスアポロとを、何も不自由しないように、よく世話をして、送り出してください。
14)わたしたちの仲間も、実際に必要な物を賄うために、良い行いに励むことを学ばねばなりません。実を結ばない者とならないためです。
15)わたしと一緒にいる者たちが皆、あなたによろしくと言っています。わたしたちを愛している信仰の友人たちによろしく伝えてください。恵みがあなたがた一同と共にあるように。

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 ここでパウロが滞在していることになっているのは、アカイア州のコリントよりもさらに西の方にあるニコポリスということになっている。その意味で、パウロの弟子でアルテマス(テトスの手紙だけに登場するパウロの弟子)とティキコ(使徒言行録20:4によればアジア州出身のパウロの弟子で、エフェソの信徒への手紙6:21やテモテへの手紙2 4:12によれば、エフェソの教会に派遣されて、そこでエフェソの教会を指導した人物)が、現在、テトスのいる場所へ向っていることを示しています。
 このことについて、実際にそうした事があったかは不明ですが、こうした手紙において弟子テトスと同じように表現されていることから、アルテマス、ティキコも、同じく、パウロの指導にある正しい弟子であり、かつ、その弟子たちが指導した教会がパウロの権威によって正しい教会であることが保証されているように感じます。

 また、ここで法律家ゼナスとアポロという名前が出てきますが、アポロについては先の記事を見ていただければと思います。
  (法律家)ゼナスという名前はテトスへの手紙にしか登場しない人物であって、その意味では異邦人キリスト者である可能性があり、また、そうした時代において恐らく名前が知られていた人物であろうということが伺えます。



【 テトスへの手紙以外におけるテトスの記述について 】 

 テトスへの手紙以外におけるテトスについて記述があるのは、コリントの信徒への手紙2、ガラテヤの信徒への手紙、テモテへの手紙2 だけです。

 まず、コリントの信徒への手紙2におけるテトスについての記述は以下のとおりです。

 「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。」
(コリントの信徒への手紙2 8章16~20節)
 
 
  コリントの信徒への手紙2で見えてくるのは、テトスは、おそらくアジア州の諸教会(例えばエフェソ教会など)から任命され、パウロの勧告を受け入れて、コリントの教会に派遣されてきたことを、このところは伝えています。また、その慈善の働きが、すなわちローマの信徒への手紙やあるいはガラテヤの信徒への手紙で言われているように、エルサレム教会に対する献金を管理する、そうした働きであったことをこのところは示しています。


 また、ガラテヤの信徒への手紙におけるテトスについての記述は以下のとおりです。

 「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。」(ガラテヤの信徒への手紙2章1~4節)

 ここでは、パウロはテトスについて、「ギリシア人」であり、割礼を受けていない(ユダヤ人ではない)と紹介しています。しかも、テトスについて、パウロはバルナバと共に、テトスを連れてエルサレムへ行ったこと、また、テトスのことを「潜り込んで来た偽の兄弟」と、かなりきつい言い方をしています。

 この事について、ガラテヤの信徒への手紙とコリントの信徒への手紙とでは、ガラテヤの信徒への手紙の方が先に書かれており、それはすなわち、その後、コリントの信徒への手紙2で言われているように、アジア州の諸教会が「テトスがキリスト教徒であることを承認していることから、恐らく、この間において、おそらくパウロの「勧告」に従って真に信仰者になったことが伺えます。


 「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、
テトスはダルマティアに行っているからです。」(テモテへの手紙2 4章10節)


 テモテへの手紙2は、大体、テトスへの手紙と同時期である紀元2世紀初頭に成立しています。この記述が意味するのが何かは、情報が少ないのでちょっと何とも言えませんが、確実なのはテトスはダルマティアにあるキリストの教会と何らかの関わりがあったのではないかということです。ダルマティアはアドリア海東岸の地域で、そうした地域が、あるいはテトスの出生と関係があるのか、そこらへんは定かではありません。

 むしろ、出生かあるいはその後の活躍と関係が深いかと言えば、それは教会の記憶としてむしろそうした後の活躍であり、ダルマティアにあったキリストの教会との関係の線が可能性としては高いのではないかと個人的には想像するところです。
 
 

【 結論としてテトスとは何者か? 】

 これまでのところを総合して考えると、次のようになるかと思います。

 1)テトスはギリシア人であり、もともと、下心があってパウロの弟子となった。

 2)パウロはテトスに対してエルサレム教会に対する献金の管理をまかせていた。

 3)パウロはバルナバと共に使徒会議にテトスを連れて行った。

 4)その後、テトスは異邦人キリスト者として、パウロと行動を共にし、アジア州の教会においてパウロの働きを助けた。そして、この時期、テトスは下心があって弟子となっていたことを悔い改めて、この時に、テトスは真に異邦人キリスト者となった。

 5)その後、テトスはダルマティア地方やあるいはクレタ島に行き、そこでキリストの教会を指導した。 

 というようなことが言えるのではないかと思います。もちろん、実際問題どうかは定かでありませんが、聖書の記述からみれば、そうしたことが推測できるかなということです。