本章はイザヤ書の最後で、エルサレムの上に、まさに主なる神(エル)による支配(イスラ)が行われることを声を高らかに謳います。
神の栄光と、裁きによって打ち倒された者たちの悲惨な姿は、その対照的な表現によって、神の栄光の高さを強調します。
イスラエルの堕落にはじまったイスラエル民族の罪に向かう歩みはその社会全体を腐敗させ、個々人の罪の贖罪や王の贖罪などで手に負えるものでなくなり、その結果として、イスラエルは一度滅亡します。
神は、その裁きをもってイスラエルを無から生みだす「再創造」として、この業を表現します。しかし、イスラエル民族を完全に滅亡させるのではなく、神の厳しい裁きを耐え、そこから新たに命を芽吹く人たちをもって、神は新生イスラエルを築く、そのような流れの頂点として、この章があります。
本章では、過去のイスラエルの歴史を数行に凝縮し、混沌とした数百年にわたる歴史の中において行われた神の御業を大きくクローズアップする形で表現します。神の御業の全体像を知ることができるのは、まさに歴史を超越した神の視点からでなければそれを認識することができず、その中で生きている人間はそれを知りえません。
その意味で、ここで強調されるのは、神の御心と御業ということであって、人が神に対してどのように歩むべきかの指針と、それに伴う確かな祝福と、そこから外れた場合の悲惨な結末とを示します。もちろん、神の御心はそのような悲惨な結末にあるのではなく、確かな祝福であることは言うまでもありません。
そして、イスラエルの負の歴史を振り返りつつ、そこでの経験を踏まえ、帰納的に神の御心と、信仰とはどういうことかを提示します。
すなわち、「神を礼拝する」「神を信じる」とは、神的な、あるいは神々しい崇拝対象に対して特定の儀礼をもって拝むという行為を指さない点が重要です。むしろ、信仰とは、(この世における正義を司る)神の前に実質的に立つことを意味し、自身の実存を深く反省するという哲学的行為が大切であることを意味します。
宗教の発展は儀式・儀礼を拡充します。それ自体はこれといって神の御前に悪いことでもなんでもありませんが、そのような表面的な儀式・無内容の儀礼こそが偶像崇拝として糾弾されているのです。
その意味で、神が人間に求めているのは実質的な罪の悔い改めであり、自己に対する哲学的反省をもって望むことの重要性が説かれています。
創世記3章に示されるように、「罪(弱さ・不完全さ)」は人間の本質をなす要素です。その意味で、人間が自身の努力によって「罪」を克服できるのであれば、それは人間を超えた超・人間的な存在になります。その意味で、神がそのような不完全な人間に対して求めるのは、そのような超・人間化ではなく、むしろ人間が人間に留まり、自分の「罪」に対して真正面から向き合うことが求められているのです。
創世記4章では、カインとアベルの物語を通して、神がアベルを殺害するカインに対して、「お前はそれ(罪)を支配しなければならない。」ということを言っています。
その意味で、人間が自助努力によって罪から解放される術はなく、その意味で人間が自身の罪によって自滅することなく生きるためには、この罪において人間を救済する存在が必要になるのです。
そして、人間の罪に関わるもっとも重要な、本質的な存在が、まさに「神」であるわけです。
つまり、人間と神との関係性は、「罪」というこの関係において成り立つのです。
イザヤ書が帰納的に結論付ける神とは、まさにわたしたち人間が自身の罪を深く、実存的に、反省し、悔い改め、告白をする。そして、その告白された人間の罪を、この世において正義を司る唯一の神が、この罪を赦すことによって、ここにはじめて信仰における神とその人とのつながりが成立するのです。
つまり、それは言い方を変えれば、いくら礼拝やその他の儀式、集会、祈祷会などに参加しても、その行為が信仰的行為かどうかは無関係であることになります。
なにやら神的な存在を知っており、その救済の働きを知っており、崇拝しているということは、イザヤ書が示す(キリスト教も同じでしょうが)信仰とは全くことなるのです。むしろそのようなその人の実質的な罪の悔い改めを伴わない宗教行為は、すべてが偶像崇拝と同じだと結論付けているのです。
では、神を信じるとはどういうことか、それは神の前に実質的に、実存的に反省し、悔い改め、罪を告白することを通して、神によってその罪を赦されることにあるのです。
つまり、神とは、わたしたちが自分の罪を告白し、その罪を赦してくださる存在としての神であり、その神によって罪を赦されることにおいてはじめて、わたしたちは神の民となることができるのです。しかも、天地創造において、神がこの世を創造されたという点において、地球上の全ての人がその対象となっているのです。
そのような実質的な信仰について、新約聖書ではヨハネによる福音書13章8節で、イエスさまの言われた次の言葉が、良く表わしています。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ13:8)
「足を洗う」というのは、単純にその行為そのものを指しているのではなく、むしろ、ここでは「罪の赦し」を言っていると理解する時に、弟子としてイエスさまにもっとも近かったペトロが、この足を洗うという行為、つまり罪の赦しをイエスさまから頂かないのであれば、ペトロとイエスさまとはまったく無関係だという意味になります。
つまり、わたしたちはまさに「罪とその赦し」という唯一の点において神さまとの関係に置かれているのであって、「罪の悔い改め」がなければ、いくら洗礼を受けたクリスチャンと言えども、神さまと全く無関係の存在になってしまうのです。
すなわち、信仰とは、「神の御前に自分の罪を告白する」という事象と、及び、告白された罪に対して「神がその罪の赦しを与える」という事象との関係性を指し、あらゆる信仰行為(礼拝など)は、すべてこの基礎の上に成り立つのです。また、自身の罪の告白を伴わないあらゆる信仰行為は、そのすべてが偶像崇拝と同じだということになるのです。
そして、重要な事は、それはまだクリスチャンでない人ではなく、むしろ既に信仰に入っているクリスチャンこそが、神さまによって問われている事柄であるのです。
その意味で、イザヤ書において、特に神さまによって糾弾されるエルサレム神殿に仕えていた当時の祭司たちは、まさにそのような存在として、かなりきつく糾弾されています。なぜなら、神の正義を旨とする信仰において最も罪深いことが「偽善」であるからです。
キリストの教会も、牧師も、信徒も、常に、この偽善との戦いの中にあります。どれだけ、自分の罪に対して真摯に向き合うことができるか? それが信仰にとって一番重要なことであることを、イザヤ書は示しています。そして、神の御心がそのような弱いわたしたちが、神の祝福の下に留まり続けることができることにあることを明確に宣言するのです。
では、以下、本文をみていきます。
---
「そして、わたしはイスラエル人ではなく、諸国民の中からも祭司とレビ人を立てる」と、主は言われる。
「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前に永遠に続くように、あなたたちの子孫とあなたたちの名、つまり、イスラエル(神の支配)の名も永遠に続く」と、主は言われる。
「そして、新月ごと、安息日ごとに、地上に生きるすべての肉なる者は、主なる神であるわたしの前に来て礼拝することになる」と、主は言われる。
「しかし、そこにあって、主なる神を礼拝しに来る者たちは、エルサレム(神の平和)の外にあって、信仰を持つと告白しながら腹の内は神に対して敵対する者たち、すなわち偽善者である祭司たちの死体を見るであろう。その死体に蛆虫は絶えることがなく、彼らの死体を焼く火は消えることがない。そして、彼らのそのような状態は、まさにすべての肉なる者たちにとって、憎悪の的となる。すなわち、信仰者にして偽善を行うことをすべての人が憎み、結果として、そこから離れるようになるのだ。」
神の栄光と、裁きによって打ち倒された者たちの悲惨な姿は、その対照的な表現によって、神の栄光の高さを強調します。
イスラエルの堕落にはじまったイスラエル民族の罪に向かう歩みはその社会全体を腐敗させ、個々人の罪の贖罪や王の贖罪などで手に負えるものでなくなり、その結果として、イスラエルは一度滅亡します。
神は、その裁きをもってイスラエルを無から生みだす「再創造」として、この業を表現します。しかし、イスラエル民族を完全に滅亡させるのではなく、神の厳しい裁きを耐え、そこから新たに命を芽吹く人たちをもって、神は新生イスラエルを築く、そのような流れの頂点として、この章があります。
本章では、過去のイスラエルの歴史を数行に凝縮し、混沌とした数百年にわたる歴史の中において行われた神の御業を大きくクローズアップする形で表現します。神の御業の全体像を知ることができるのは、まさに歴史を超越した神の視点からでなければそれを認識することができず、その中で生きている人間はそれを知りえません。
その意味で、ここで強調されるのは、神の御心と御業ということであって、人が神に対してどのように歩むべきかの指針と、それに伴う確かな祝福と、そこから外れた場合の悲惨な結末とを示します。もちろん、神の御心はそのような悲惨な結末にあるのではなく、確かな祝福であることは言うまでもありません。
そして、イスラエルの負の歴史を振り返りつつ、そこでの経験を踏まえ、帰納的に神の御心と、信仰とはどういうことかを提示します。
すなわち、「神を礼拝する」「神を信じる」とは、神的な、あるいは神々しい崇拝対象に対して特定の儀礼をもって拝むという行為を指さない点が重要です。むしろ、信仰とは、(この世における正義を司る)神の前に実質的に立つことを意味し、自身の実存を深く反省するという哲学的行為が大切であることを意味します。
宗教の発展は儀式・儀礼を拡充します。それ自体はこれといって神の御前に悪いことでもなんでもありませんが、そのような表面的な儀式・無内容の儀礼こそが偶像崇拝として糾弾されているのです。
その意味で、神が人間に求めているのは実質的な罪の悔い改めであり、自己に対する哲学的反省をもって望むことの重要性が説かれています。
創世記3章に示されるように、「罪(弱さ・不完全さ)」は人間の本質をなす要素です。その意味で、人間が自身の努力によって「罪」を克服できるのであれば、それは人間を超えた超・人間的な存在になります。その意味で、神がそのような不完全な人間に対して求めるのは、そのような超・人間化ではなく、むしろ人間が人間に留まり、自分の「罪」に対して真正面から向き合うことが求められているのです。
創世記4章では、カインとアベルの物語を通して、神がアベルを殺害するカインに対して、「お前はそれ(罪)を支配しなければならない。」ということを言っています。
その意味で、人間が自助努力によって罪から解放される術はなく、その意味で人間が自身の罪によって自滅することなく生きるためには、この罪において人間を救済する存在が必要になるのです。
そして、人間の罪に関わるもっとも重要な、本質的な存在が、まさに「神」であるわけです。
つまり、人間と神との関係性は、「罪」というこの関係において成り立つのです。
イザヤ書が帰納的に結論付ける神とは、まさにわたしたち人間が自身の罪を深く、実存的に、反省し、悔い改め、告白をする。そして、その告白された人間の罪を、この世において正義を司る唯一の神が、この罪を赦すことによって、ここにはじめて信仰における神とその人とのつながりが成立するのです。
つまり、それは言い方を変えれば、いくら礼拝やその他の儀式、集会、祈祷会などに参加しても、その行為が信仰的行為かどうかは無関係であることになります。
なにやら神的な存在を知っており、その救済の働きを知っており、崇拝しているということは、イザヤ書が示す(キリスト教も同じでしょうが)信仰とは全くことなるのです。むしろそのようなその人の実質的な罪の悔い改めを伴わない宗教行為は、すべてが偶像崇拝と同じだと結論付けているのです。
では、神を信じるとはどういうことか、それは神の前に実質的に、実存的に反省し、悔い改め、罪を告白することを通して、神によってその罪を赦されることにあるのです。
つまり、神とは、わたしたちが自分の罪を告白し、その罪を赦してくださる存在としての神であり、その神によって罪を赦されることにおいてはじめて、わたしたちは神の民となることができるのです。しかも、天地創造において、神がこの世を創造されたという点において、地球上の全ての人がその対象となっているのです。
そのような実質的な信仰について、新約聖書ではヨハネによる福音書13章8節で、イエスさまの言われた次の言葉が、良く表わしています。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ13:8)
「足を洗う」というのは、単純にその行為そのものを指しているのではなく、むしろ、ここでは「罪の赦し」を言っていると理解する時に、弟子としてイエスさまにもっとも近かったペトロが、この足を洗うという行為、つまり罪の赦しをイエスさまから頂かないのであれば、ペトロとイエスさまとはまったく無関係だという意味になります。
つまり、わたしたちはまさに「罪とその赦し」という唯一の点において神さまとの関係に置かれているのであって、「罪の悔い改め」がなければ、いくら洗礼を受けたクリスチャンと言えども、神さまと全く無関係の存在になってしまうのです。
すなわち、信仰とは、「神の御前に自分の罪を告白する」という事象と、及び、告白された罪に対して「神がその罪の赦しを与える」という事象との関係性を指し、あらゆる信仰行為(礼拝など)は、すべてこの基礎の上に成り立つのです。また、自身の罪の告白を伴わないあらゆる信仰行為は、そのすべてが偶像崇拝と同じだということになるのです。
そして、重要な事は、それはまだクリスチャンでない人ではなく、むしろ既に信仰に入っているクリスチャンこそが、神さまによって問われている事柄であるのです。
その意味で、イザヤ書において、特に神さまによって糾弾されるエルサレム神殿に仕えていた当時の祭司たちは、まさにそのような存在として、かなりきつく糾弾されています。なぜなら、神の正義を旨とする信仰において最も罪深いことが「偽善」であるからです。
キリストの教会も、牧師も、信徒も、常に、この偽善との戦いの中にあります。どれだけ、自分の罪に対して真摯に向き合うことができるか? それが信仰にとって一番重要なことであることを、イザヤ書は示しています。そして、神の御心がそのような弱いわたしたちが、神の祝福の下に留まり続けることができることにあることを明確に宣言するのです。
では、以下、本文をみていきます。
1)主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。
2)これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
---
永い沈黙の後に、今こそ、主なる神は以下のように言われる。
「この天はわたしの王座であり、この大地もすべてがわたしの足を載せる台に過ぎないにも関わらず、
しかし、お前たちは、いったいどこにわたしのために神殿を建てることができるのか?
一体、お前たちの手の業の何をもってわたしの安息の場としようというのか?
見るがいい。これらの万物は全てわたしの手が創造し、まさにわたしの創造によって世界に存在するのだ。」と。
「むしろ、わたしが顧みるのは、この世において悩み苦しむ人であり、わたしの前にあって自身の罪のゆえに、霊が砕かれている人であり、主なる神であるわたしの言葉に、畏れうやまうような人物である。」と。
3)牛を殺してささげ、人を打ち倒す者/羊をいけにえとし、犬の首を折る者/穀物をささげ、豚の血をささげる者/乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者/これらの者が自分たちの道を選び/その魂は忌むべき偶像を喜ぶように。
永い沈黙の後に、今こそ、主なる神は以下のように言われる。
「この天はわたしの王座であり、この大地もすべてがわたしの足を載せる台に過ぎないにも関わらず、
しかし、お前たちは、いったいどこにわたしのために神殿を建てることができるのか?
一体、お前たちの手の業の何をもってわたしの安息の場としようというのか?
見るがいい。これらの万物は全てわたしの手が創造し、まさにわたしの創造によって世界に存在するのだ。」と。
「むしろ、わたしが顧みるのは、この世において悩み苦しむ人であり、わたしの前にあって自身の罪のゆえに、霊が砕かれている人であり、主なる神であるわたしの言葉に、畏れうやまうような人物である。」と。
3)牛を殺してささげ、人を打ち倒す者/羊をいけにえとし、犬の首を折る者/穀物をささげ、豚の血をささげる者/乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者/これらの者が自分たちの道を選び/その魂は忌むべき偶像を喜ぶように。
4)わたしも、彼らを気ままに扱うことを選び/彼らの危惧することを来させよう。彼らは呼んでも答えず、語りかけても聞かず/わたしの目に悪とされることを行い/わたしの喜ばないことを選ぶのだから。
5)御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者/わたしの名のゆえに/あなたたちを追い払った者が言う/主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。彼らは、恥を受ける。
6)都から騒がしい声がする。神殿から声がする。敵に報いを返される主の声が聞こえる。
---
見よ、お前たちの所業はこうだ。
片方で神に対して生贄の牛をささげながら、その一方で人を打ち倒す。
羊をいけにえとしながら、その一方では、偶像の神のために犬の首を折って奉げる。
神に穀物をささげる一方で、律法では忌み嫌われる豚の血をささげる。
神に乳香を記念の献げ物としながら、その隠れたところでは偶像を神として称える、そのような者。
エルサレム神殿に仕えるこれらの祭司たちは、まさに自分で滅びに向かう罪の道を選択し、その魂はわたしの忌むべき偶像を喜ぶ。
だからこそ、お前たちがわたしに対してそのように自分の意志と責任を持って臨むのであるから、わたしもお前たちの行うように、お前たちに臨もう。お前たちの危惧する神の裁きによる滅びをお前たちの上に下そうではないか。
わたしのこの判断は自分勝手なものであろうか? それとも不正であろうか? そうではない。
お前たちは、わたしの呼び声に答えず、お前たちに対して語りかけたその言葉に、お前たちは聞かず、お前たちの責任と判断において、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選択するのだから。
さあ、今こそ、わたしの御言葉に畏れおののく人々よ、主なる神であるわたしの言葉を聞け。
主なる神の御言葉に従うあなたがたを憎み、主なる神であるわたしの名前のゆえに、あなたがたを追い払った者がたちが言った言葉。
すなわち、「主が栄光をあらわされるように。お前たちの喜ぶところを見せてもらおう。」と、彼らが、あなたがたを嘲って言った言葉のとおり、主なる神であるわたしは、今こそ、彼らの上に、その言葉のとおりの制裁を下そう。そして、彼らが主なる神であるわたしのゆえに恥を受けるところを目の当たりにするがよい。
そして、主なる神の都エルサレムから、その神殿、エルサレム神殿から、神の裁きによって苦しむ祭司たちの声が聞こえる。そして、彼らの受けた嘲りに報いられる、主なる神の声が聞こえる。
7)産みの苦しみが臨む前に彼女は子を産み/陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。
見よ、お前たちの所業はこうだ。
片方で神に対して生贄の牛をささげながら、その一方で人を打ち倒す。
羊をいけにえとしながら、その一方では、偶像の神のために犬の首を折って奉げる。
神に穀物をささげる一方で、律法では忌み嫌われる豚の血をささげる。
神に乳香を記念の献げ物としながら、その隠れたところでは偶像を神として称える、そのような者。
エルサレム神殿に仕えるこれらの祭司たちは、まさに自分で滅びに向かう罪の道を選択し、その魂はわたしの忌むべき偶像を喜ぶ。
だからこそ、お前たちがわたしに対してそのように自分の意志と責任を持って臨むのであるから、わたしもお前たちの行うように、お前たちに臨もう。お前たちの危惧する神の裁きによる滅びをお前たちの上に下そうではないか。
わたしのこの判断は自分勝手なものであろうか? それとも不正であろうか? そうではない。
お前たちは、わたしの呼び声に答えず、お前たちに対して語りかけたその言葉に、お前たちは聞かず、お前たちの責任と判断において、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選択するのだから。
さあ、今こそ、わたしの御言葉に畏れおののく人々よ、主なる神であるわたしの言葉を聞け。
主なる神の御言葉に従うあなたがたを憎み、主なる神であるわたしの名前のゆえに、あなたがたを追い払った者がたちが言った言葉。
すなわち、「主が栄光をあらわされるように。お前たちの喜ぶところを見せてもらおう。」と、彼らが、あなたがたを嘲って言った言葉のとおり、主なる神であるわたしは、今こそ、彼らの上に、その言葉のとおりの制裁を下そう。そして、彼らが主なる神であるわたしのゆえに恥を受けるところを目の当たりにするがよい。
そして、主なる神の都エルサレムから、その神殿、エルサレム神殿から、神の裁きによって苦しむ祭司たちの声が聞こえる。そして、彼らの受けた嘲りに報いられる、主なる神の声が聞こえる。
7)産みの苦しみが臨む前に彼女は子を産み/陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。
8)誰がこのようなことを聞き/誰がこのようなことを見たであろうか。一つの国が一日で生まれ/一つの民が一度に生まれえようか。だが、シオンは/産みの苦しみが臨むやいなや、子らを産んだ。
9)わたしが、胎を開かせてなお/産ませずにおくことがあろうか、と主は言われる。子を産ませるわたしが/胎を閉ざすことがあろうかと/あなたの神は言われる。
---
例えるならこうだ。
すなわち、ある女性が、臨月を待つ前に、彼女は子どもを産んだ。
陣痛の起る前に、予期せず、男の子を産み落とした。
つまりそれは突然、予期せずに実現した。
一体、誰がこのようなことを聞き、誰が、いまだかつてこのようなことを見たであろうか?
すなわち、一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれることがあるだろうか?
しかし、シオンは、すなわちエルサレムは、まさに産みの苦しみが臨むやいなや、子らを、新しいエルサレムの住民たちを得たのだ。
「主なる神であるわたしが、胎を開かせてなお産ませずにおくことがあるだあろうか」、と主は言われる。
「子を産ませるわたしが、途中で胎を閉ざすようなことをするだろうか」、とあなたの神は言われる。
---
例えるならこうだ。
すなわち、ある女性が、臨月を待つ前に、彼女は子どもを産んだ。
陣痛の起る前に、予期せず、男の子を産み落とした。
つまりそれは突然、予期せずに実現した。
一体、誰がこのようなことを聞き、誰が、いまだかつてこのようなことを見たであろうか?
すなわち、一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれることがあるだろうか?
しかし、シオンは、すなわちエルサレムは、まさに産みの苦しみが臨むやいなや、子らを、新しいエルサレムの住民たちを得たのだ。
「主なる神であるわたしが、胎を開かせてなお産ませずにおくことがあるだあろうか」、と主は言われる。
「子を産ませるわたしが、途中で胎を閉ざすようなことをするだろうか」、とあなたの神は言われる。
10)エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。
11)彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。
12)主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。
13)母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
14)これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。
---
さあ、今こそ、神の裁きが行われる。それゆえ、乙女エルサレムと共に喜び祝い、主なる神が祝福されるエルサレムのゆえに、世界の民は喜び踊れ。
聖都エルサレム(「神の教え」の意)を愛するすべての人よ。エルサレムと共に喜び楽しむがよい。
今まで、二重に辱めを受け、喪に服していたすべての人よ、喜び踊れ。
さあ、彼女、すなわち神の祝福を受けたエルサレムの与える慰めの乳房から、その乳を飲んで飽きたり、その豊かな祝福を象徴する乳房に養われ、喜びを得よ。
主なる神はこう言われる。
「見よ、わたしは彼女、すなわちエルサレム(「エル」=「神」、「サレム/シャローム」=「平和」)にその祝福を向けよう。
(神の[エル])平和(サレム)を大河を流れる水のように注ぎ、そのエルサレムから流れ出る神の祝福によって、世界の国々に対して繁栄を、あたかも洪水の流れが襲うかのように実現させよう。
そして、エルサレムに住む新しい住民たちよ、あなたたちは、あたかもその乳房に養われ、抱いて運ばれ、彼女の膝の上であやされるのだ。
まるでその母が自分の子どもを慰めるように、神であるわたしは、あなたたちを慰めよう。
あなたたちはこのエルサレム(「神の教え」)で慰めを受けるのだ。
あなた方がは、それを見て、心は喜び楽しみ、あなたたちの骨は青草のように、若葉が茂るような、あの生命力に溢れて神の前に元気を得るようになるのだ。
こうして、主なる神の祝福の御手が主に従う人の上に置かれ、ひるがえって、主なる神の御心に敵対する者に対しては、容赦なく、その懲罰が降ることが世界に対して示されるのだ。
---
さあ、今こそ、神の裁きが行われる。それゆえ、乙女エルサレムと共に喜び祝い、主なる神が祝福されるエルサレムのゆえに、世界の民は喜び踊れ。
聖都エルサレム(「神の教え」の意)を愛するすべての人よ。エルサレムと共に喜び楽しむがよい。
今まで、二重に辱めを受け、喪に服していたすべての人よ、喜び踊れ。
さあ、彼女、すなわち神の祝福を受けたエルサレムの与える慰めの乳房から、その乳を飲んで飽きたり、その豊かな祝福を象徴する乳房に養われ、喜びを得よ。
主なる神はこう言われる。
「見よ、わたしは彼女、すなわちエルサレム(「エル」=「神」、「サレム/シャローム」=「平和」)にその祝福を向けよう。
(神の[エル])平和(サレム)を大河を流れる水のように注ぎ、そのエルサレムから流れ出る神の祝福によって、世界の国々に対して繁栄を、あたかも洪水の流れが襲うかのように実現させよう。
そして、エルサレムに住む新しい住民たちよ、あなたたちは、あたかもその乳房に養われ、抱いて運ばれ、彼女の膝の上であやされるのだ。
まるでその母が自分の子どもを慰めるように、神であるわたしは、あなたたちを慰めよう。
あなたたちはこのエルサレム(「神の教え」)で慰めを受けるのだ。
あなた方がは、それを見て、心は喜び楽しみ、あなたたちの骨は青草のように、若葉が茂るような、あの生命力に溢れて神の前に元気を得るようになるのだ。
こうして、主なる神の祝福の御手が主に従う人の上に置かれ、ひるがえって、主なる神の御心に敵対する者に対しては、容赦なく、その懲罰が降ることが世界に対して示されるのだ。
15)見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを/叱咤と共に火と炎を送られる。
16)主は必ず火をもって裁きに臨まれ/剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。
17)園に入るために身を清め、自分を聖別し/その中にある一つのものに付き従い/豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者は/ことごとく絶たれる、と主は言われる。
---
見よ、主の裁きは火と共に来る。主なる神の乗る戦車は、まさにつむじ風の速さで、すみやかに来る。
主なる神の怒りと憤り、叱咤と共に、神に背く者たちを滅ぼす火と炎を彼らの上に下される。
主なる神は必ず、その罪を焼き尽くす火をもって裁きに臨まれ、その剣をもってすべての肉なる者を裁かれる。
そして、主によって刺し貫かれる者は多い。
「なぜなら、姦淫をしようと、自分の身を清め、聖別し、姦淫の園の中にあるひとつのもの、すなわち偶像を敬い、律法で禁じられている豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者、すなわち、表面的には信仰者であることを装い、その裏で偶像崇拝を行う者は、ことごとく地上から断たれる」と、主は言われる。
18)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
見よ、主の裁きは火と共に来る。主なる神の乗る戦車は、まさにつむじ風の速さで、すみやかに来る。
主なる神の怒りと憤り、叱咤と共に、神に背く者たちを滅ぼす火と炎を彼らの上に下される。
主なる神は必ず、その罪を焼き尽くす火をもって裁きに臨まれ、その剣をもってすべての肉なる者を裁かれる。
そして、主によって刺し貫かれる者は多い。
「なぜなら、姦淫をしようと、自分の身を清め、聖別し、姦淫の園の中にあるひとつのもの、すなわち偶像を敬い、律法で禁じられている豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者、すなわち、表面的には信仰者であることを装い、その裏で偶像崇拝を行う者は、ことごとく地上から断たれる」と、主は言われる。
18)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
19)わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。
20)彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。
---
主なる神は言われる。
「わたしは、彼らの罪深い業と彼らのその腹の底にある謀のゆえに、また、すべての国、すべての言葉の民を聖なる都エルサレムに集めるために、今こそ来臨し、世界の国、民はわたしの栄光を見ることになる。
わたしはすべての民の間に、イスラエル、エルサレムというひとつのしるしを置き、その裁きによってあらゆる罪から清められた者たち、つまりイスラエルの残りの者たちを、全世界に遣わす。
すなわち、遠い国として知られているタルシシュや、プルとルドに、またトバルとヤワンにまで。更に、主なる神であるわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともないような、そのような世界の果てにまで、わたしは彼らを遣わし、宣べ伝え、全世界の諸国民が、主なる神であるわたしの栄光を知る。
諸国の国・民は、エルサレムのすべての兄弟を、主なる神への献げ物として、諸国に住む神の民として、馬や車、駕籠、らば、らくだに載せて、主なるわたしの聖なる山エルサレムに連れてくることになる」と、主は言われる。
「それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿に持ってくるのと同じようにして、諸国の中から神の民を連れてくるのである」と、主は言われる。
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主なる神は言われる。
「わたしは、彼らの罪深い業と彼らのその腹の底にある謀のゆえに、また、すべての国、すべての言葉の民を聖なる都エルサレムに集めるために、今こそ来臨し、世界の国、民はわたしの栄光を見ることになる。
わたしはすべての民の間に、イスラエル、エルサレムというひとつのしるしを置き、その裁きによってあらゆる罪から清められた者たち、つまりイスラエルの残りの者たちを、全世界に遣わす。
すなわち、遠い国として知られているタルシシュや、プルとルドに、またトバルとヤワンにまで。更に、主なる神であるわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともないような、そのような世界の果てにまで、わたしは彼らを遣わし、宣べ伝え、全世界の諸国民が、主なる神であるわたしの栄光を知る。
諸国の国・民は、エルサレムのすべての兄弟を、主なる神への献げ物として、諸国に住む神の民として、馬や車、駕籠、らば、らくだに載せて、主なるわたしの聖なる山エルサレムに連れてくることになる」と、主は言われる。
「それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿に持ってくるのと同じようにして、諸国の中から神の民を連れてくるのである」と、主は言われる。
21)わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。
22)わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。
23)新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。
24)外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる。 ---
「そして、わたしはイスラエル人ではなく、諸国民の中からも祭司とレビ人を立てる」と、主は言われる。
「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前に永遠に続くように、あなたたちの子孫とあなたたちの名、つまり、イスラエル(神の支配)の名も永遠に続く」と、主は言われる。
「そして、新月ごと、安息日ごとに、地上に生きるすべての肉なる者は、主なる神であるわたしの前に来て礼拝することになる」と、主は言われる。
「しかし、そこにあって、主なる神を礼拝しに来る者たちは、エルサレム(神の平和)の外にあって、信仰を持つと告白しながら腹の内は神に対して敵対する者たち、すなわち偽善者である祭司たちの死体を見るであろう。その死体に蛆虫は絶えることがなく、彼らの死体を焼く火は消えることがない。そして、彼らのそのような状態は、まさにすべての肉なる者たちにとって、憎悪の的となる。すなわち、信仰者にして偽善を行うことをすべての人が憎み、結果として、そこから離れるようになるのだ。」