イザヤ書

イザヤ書 66章

本章はイザヤ書の最後で、エルサレムの上に、まさに主なる神(エル)による支配(イスラ)が行われることを声を高らかに謳います。

 神の栄光と、裁きによって打ち倒された者たちの悲惨な姿は、その対照的な表現によって、神の栄光の高さを強調します。

 イスラエルの堕落にはじまったイスラエル民族の罪に向かう歩みはその社会全体を腐敗させ、個々人の罪の贖罪や王の贖罪などで手に負えるものでなくなり、その結果として、イスラエルは一度滅亡します。
 神は、その裁きをもってイスラエルを無から生みだす「再創造」として、この業を表現します。しかし、イスラエル民族を完全に滅亡させるのではなく、神の厳しい裁きを耐え、そこから新たに命を芽吹く人たちをもって、神は新生イスラエルを築く、そのような流れの頂点として、この章があります。

 本章では、過去のイスラエルの歴史を数行に凝縮し、混沌とした数百年にわたる歴史の中において行われた神の御業を大きくクローズアップする形で表現します。神の御業の全体像を知ることができるのは、まさに歴史を超越した神の視点からでなければそれを認識することができず、その中で生きている人間はそれを知りえません。
 その意味で、ここで強調されるのは、神の御心と御業ということであって、人が神に対してどのように歩むべきかの指針と、それに伴う確かな祝福と、そこから外れた場合の悲惨な結末とを示します。もちろん、神の御心はそのような悲惨な結末にあるのではなく、確かな祝福であることは言うまでもありません。

 そして、イスラエルの負の歴史を振り返りつつ、そこでの経験を踏まえ、帰納的に神の御心と、信仰とはどういうことかを提示します。

 すなわち、「神を礼拝する」「神を信じる」とは、神的な、あるいは神々しい崇拝対象に対して特定の儀礼をもって拝むという行為を指さない点が重要です。むしろ、信仰とは、(この世における正義を司る)神の前に実質的に立つことを意味し、自身の実存を深く反省するという哲学的行為が大切であることを意味します。

 宗教の発展は儀式・儀礼を拡充します。それ自体はこれといって神の御前に悪いことでもなんでもありませんが、そのような表面的な儀式・無内容の儀礼こそが偶像崇拝として糾弾されているのです。
 その意味で、神が人間に求めているのは実質的な罪の悔い改めであり、自己に対する哲学的反省をもって望むことの重要性が説かれています。

 創世記3章に示されるように、「罪(弱さ・不完全さ)」は人間の本質をなす要素です。その意味で、人間が自身の努力によって「罪」を克服できるのであれば、それは人間を超えた超・人間的な存在になります。その意味で、神がそのような不完全な人間に対して求めるのは、そのような超・人間化ではなく、むしろ人間が人間に留まり、自分の「罪」に対して真正面から向き合うことが求められているのです。

 創世記4章では、カインとアベルの物語を通して、神がアベルを殺害するカインに対して、「お前はそれ(罪)を支配しなければならない。」ということを言っています。

 その意味で、人間が自助努力によって罪から解放される術はなく、その意味で人間が自身の罪によって自滅することなく生きるためには、この罪において人間を救済する存在が必要になるのです。

 そして、人間の罪に関わるもっとも重要な、本質的な存在が、まさに「神」であるわけです。

 つまり、人間と神との関係性は、「罪」というこの関係において成り立つのです。

 イザヤ書が帰納的に結論付ける神とは、まさにわたしたち人間が自身の罪を深く、実存的に、反省し、悔い改め、告白をする。そして、その告白された人間の罪を、この世において正義を司る唯一の神が、この罪を赦すことによって、ここにはじめて信仰における神とその人とのつながりが成立するのです。

 つまり、それは言い方を変えれば、いくら礼拝やその他の儀式、集会、祈祷会などに参加しても、その行為が信仰的行為かどうかは無関係であることになります。

 なにやら神的な存在を知っており、その救済の働きを知っており、崇拝しているということは、イザヤ書が示す(キリスト教も同じでしょうが)信仰とは全くことなるのです。むしろそのようなその人の実質的な罪の悔い改めを伴わない宗教行為は、すべてが偶像崇拝と同じだと結論付けているのです。

 では、神を信じるとはどういうことか、それは神の前に実質的に、実存的に反省し、悔い改め、罪を告白することを通して、神によってその罪を赦されることにあるのです。

 つまり、神とは、わたしたちが自分の罪を告白し、その罪を赦してくださる存在としての神であり、その神によって罪を赦されることにおいてはじめて、わたしたちは神の民となることができるのです。しかも、天地創造において、神がこの世を創造されたという点において、地球上の全ての人がその対象となっているのです。

 そのような実質的な信仰について、新約聖書ではヨハネによる福音書13章8節で、イエスさまの言われた次の言葉が、良く表わしています。

 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ13:8)

 「足を洗う」というのは、単純にその行為そのものを指しているのではなく、むしろ、ここでは「罪の赦し」を言っていると理解する時に、弟子としてイエスさまにもっとも近かったペトロが、この足を洗うという行為、つまり罪の赦しをイエスさまから頂かないのであれば、ペトロとイエスさまとはまったく無関係だという意味になります。

 つまり、わたしたちはまさに「罪とその赦し」という唯一の点において神さまとの関係に置かれているのであって、「罪の悔い改め」がなければ、いくら洗礼を受けたクリスチャンと言えども、神さまと全く無関係の存在になってしまうのです。

 すなわち、信仰とは、「神の御前に自分の罪を告白する」という事象と、及び、告白された罪に対して「神がその罪の赦しを与える」という事象との関係性を指し、あらゆる信仰行為(礼拝など)は、すべてこの基礎の上に成り立つのです。また、自身の罪の告白を伴わないあらゆる信仰行為は、そのすべてが偶像崇拝と同じだということになるのです。

 そして、重要な事は、それはまだクリスチャンでない人ではなく、むしろ既に信仰に入っているクリスチャンこそが、神さまによって問われている事柄であるのです。

 その意味で、イザヤ書において、特に神さまによって糾弾されるエルサレム神殿に仕えていた当時の祭司たちは、まさにそのような存在として、かなりきつく糾弾されています。なぜなら、神の正義を旨とする信仰において最も罪深いことが「偽善」であるからです。

 キリストの教会も、牧師も、信徒も、常に、この偽善との戦いの中にあります。どれだけ、自分の罪に対して真摯に向き合うことができるか? それが信仰にとって一番重要なことであることを、イザヤ書は示しています。そして、神の御心がそのような弱いわたしたちが、神の祝福の下に留まり続けることができることにあることを明確に宣言するのです。

 では、以下、本文をみていきます。

 

1)主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。
2)これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
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 永い沈黙の後に、今こそ、主なる神は以下のように言われる。
 「この天はわたしの王座であり、この大地もすべてがわたしの足を載せる台に過ぎないにも関わらず、
 しかし、お前たちは、いったいどこにわたしのために神殿を建てることができるのか?
 一体、お前たちの手の業の何をもってわたしの安息の場としようというのか?
 見るがいい。これらの万物は全てわたしの手が創造し、まさにわたしの創造によって世界に存在するのだ。」と。 

  「むしろ、わたしが顧みるのは、この世において悩み苦しむ人であり、わたしの前にあって自身の罪のゆえに、霊が砕かれている人であり、主なる神であるわたしの言葉に、畏れうやまうような人物である。」と。



3)牛を殺してささげ、人を打ち倒す者/羊をいけにえとし、犬の首を折る者/穀物をささげ、豚の血をささげる者/乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者/これらの者が自分たちの道を選び/その魂は忌むべき偶像を喜ぶように。
4)わたしも、彼らを気ままに扱うことを選び/彼らの危惧することを来させよう。彼らは呼んでも答えず、語りかけても聞かず/わたしの目に悪とされることを行い/わたしの喜ばないことを選ぶのだから。
5)御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者/わたしの名のゆえに/あなたたちを追い払った者が言う/主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。彼らは、恥を受ける。
6)都から騒がしい声がする。神殿から声がする。敵に報いを返される主の声が聞こえる。
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 見よ、お前たちの所業はこうだ。
 片方で神に対して生贄の牛をささげながら、その一方で人を打ち倒す。
 羊をいけにえとしながら、その一方では、偶像の神のために犬の首を折って奉げる。
 神に穀物をささげる一方で、律法では忌み嫌われる豚の血をささげる。
 神に乳香を記念の献げ物としながら、その隠れたところでは偶像を神として称える、そのような者。
 エルサレム神殿に仕えるこれらの祭司たちは、まさに自分で滅びに向かう罪の道を選択し、その魂はわたしの忌むべき偶像を喜ぶ。
 だからこそ、お前たちがわたしに対してそのように自分の意志と責任を持って臨むのであるから、わたしもお前たちの行うように、お前たちに臨もう。お前たちの危惧する神の裁きによる滅びをお前たちの上に下そうではないか。
 わたしのこの判断は自分勝手なものであろうか? それとも不正であろうか? そうではない。
 お前たちは、わたしの呼び声に答えず、お前たちに対して語りかけたその言葉に、お前たちは聞かず、お前たちの責任と判断において、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選択するのだから。

 さあ、今こそ、わたしの御言葉に畏れおののく人々よ、主なる神であるわたしの言葉を聞け。
 主なる神の御言葉に従うあなたがたを憎み、主なる神であるわたしの名前のゆえに、あなたがたを追い払った者がたちが言った言葉。
 すなわち、「主が栄光をあらわされるように。お前たちの喜ぶところを見せてもらおう。」と、彼らが、あなたがたを嘲って言った言葉のとおり、主なる神であるわたしは、今こそ、彼らの上に、その言葉のとおりの制裁を下そう。そして、彼らが主なる神であるわたしのゆえに恥を受けるところを目の当たりにするがよい。
 そして、主なる神の都エルサレムから、その神殿、エルサレム神殿から、神の裁きによって苦しむ祭司たちの声が聞こえる。そして、彼らの受けた嘲りに報いられる、主なる神の声が聞こえる。



7)産みの苦しみが臨む前に彼女は子を産み/陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。
8)誰がこのようなことを聞き/誰がこのようなことを見たであろうか。一つの国が一日で生まれ/一つの民が一度に生まれえようか。だが、シオンは/産みの苦しみが臨むやいなや、子らを産んだ。
9)わたしが、胎を開かせてなお/産ませずにおくことがあろうか、と主は言われる。子を産ませるわたしが/胎を閉ざすことがあろうかと/あなたの神は言われる。
---
 例えるならこうだ。
 すなわち、ある女性が、臨月を待つ前に、彼女は子どもを産んだ。
 陣痛の起る前に、予期せず、男の子を産み落とした。
 つまりそれは突然、予期せずに実現した。

 一体、誰がこのようなことを聞き、誰が、いまだかつてこのようなことを見たであろうか?
 すなわち、一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれることがあるだろうか?

 しかし、シオンは、すなわちエルサレムは、まさに産みの苦しみが臨むやいなや、子らを、新しいエルサレムの住民たちを得たのだ。
 「主なる神であるわたしが、胎を開かせてなお産ませずにおくことがあるだあろうか」、と主は言われる。
 「子を産ませるわたしが、途中で胎を閉ざすようなことをするだろうか」、とあなたの神は言われる。


 
10)エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。
11)彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。
12)主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。
13)母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
14)これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。
---
 さあ、今こそ、神の裁きが行われる。それゆえ、乙女エルサレムと共に喜び祝い、主なる神が祝福されるエルサレムのゆえに、世界の民は喜び踊れ。
 聖都エルサレム(「神の教え」の意)を愛するすべての人よ。エルサレムと共に喜び楽しむがよい。
 今まで、二重に辱めを受け、喪に服していたすべての人よ、喜び踊れ。
 さあ、彼女、すなわち神の祝福を受けたエルサレムの与える慰めの乳房から、その乳を飲んで飽きたり、その豊かな祝福を象徴する乳房に養われ、喜びを得よ。

 主なる神はこう言われる。
 「見よ、わたしは彼女、すなわちエルサレム(「エル」=「神」、「サレム/シャローム」=「平和」)にその祝福を向けよう。
 (神の[エル])平和(サレム)を大河を流れる水のように注ぎ、そのエルサレムから流れ出る神の祝福によって、世界の国々に対して繁栄を、あたかも洪水の流れが襲うかのように実現させよう。
 そして、エルサレムに住む新しい住民たちよ、あなたたちは、あたかもその乳房に養われ、抱いて運ばれ、彼女の膝の上であやされるのだ。
 まるでその母が自分の子どもを慰めるように、神であるわたしは、あなたたちを慰めよう。
 あなたたちはこのエルサレム(「神の教え」)で慰めを受けるのだ。
 あなた方がは、それを見て、心は喜び楽しみ、あなたたちの骨は青草のように、若葉が茂るような、あの生命力に溢れて神の前に元気を得るようになるのだ。
 こうして、主なる神の祝福の御手が主に従う人の上に置かれ、ひるがえって、主なる神の御心に敵対する者に対しては、容赦なく、その懲罰が降ることが世界に対して示されるのだ。


 
15)見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを/叱咤と共に火と炎を送られる。
16)主は必ず火をもって裁きに臨まれ/剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。
17)園に入るために身を清め、自分を聖別し/その中にある一つのものに付き従い/豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者は/ことごとく絶たれる、と主は言われる。
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 見よ、主の裁きは火と共に来る。主なる神の乗る戦車は、まさにつむじ風の速さで、すみやかに来る。
 主なる神の怒りと憤り、叱咤と共に、神に背く者たちを滅ぼす火と炎を彼らの上に下される。
 主なる神は必ず、その罪を焼き尽くす火をもって裁きに臨まれ、その剣をもってすべての肉なる者を裁かれる。
 そして、主によって刺し貫かれる者は多い。

 「なぜなら、姦淫をしようと、自分の身を清め、聖別し、姦淫の園の中にあるひとつのもの、すなわち偶像を敬い、律法で禁じられている豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者、すなわち、表面的には信仰者であることを装い、その裏で偶像崇拝を行う者は、ことごとく地上から断たれる」と、主は言われる。



18)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
19)わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。
20)彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。
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 主なる神は言われる。
 「わたしは、彼らの罪深い業と彼らのその腹の底にある謀のゆえに、また、すべての国、すべての言葉の民を聖なる都エルサレムに集めるために、今こそ来臨し、世界の国、民はわたしの栄光を見ることになる。

 わたしはすべての民の間に、イスラエル、エルサレムというひとつのしるしを置き、その裁きによってあらゆる罪から清められた者たち、つまりイスラエルの残りの者たちを、全世界に遣わす。
 すなわち、遠い国として知られているタルシシュや、プルとルドに、またトバルとヤワンにまで。更に、主なる神であるわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともないような、そのような世界の果てにまで、わたしは彼らを遣わし、宣べ伝え、全世界の諸国民が、主なる神であるわたしの栄光を知る。
 諸国の国・民は、エルサレムのすべての兄弟を、主なる神への献げ物として、諸国に住む神の民として、馬や車、駕籠、らば、らくだに載せて、主なるわたしの聖なる山エルサレムに連れてくることになる」と、主は言われる。
 「それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿に持ってくるのと同じようにして、諸国の中から神の民を連れてくるのである」と、主は言われる。

 
 
21)わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。
22)わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。
23)新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。
24)外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる。 
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 「そして、わたしはイスラエル人ではなく、諸国民の中からも祭司とレビ人を立てる」と、主は言われる。
 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前に永遠に続くように、あなたたちの子孫とあなたたちの名、つまり、イスラエル(神の支配)の名も永遠に続く」と、主は言われる。
 「そして、新月ごと、安息日ごとに、地上に生きるすべての肉なる者は、主なる神であるわたしの前に来て礼拝することになる」と、主は言われる。

 「しかし、そこにあって、主なる神を礼拝しに来る者たちは、エルサレム(神の平和)の外にあって、信仰を持つと告白しながら腹の内は神に対して敵対する者たち、すなわち偽善者である祭司たちの死体を見るであろう。その死体に蛆虫は絶えることがなく、彼らの死体を焼く火は消えることがない。そして、彼らのそのような状態は、まさにすべての肉なる者たちにとって、憎悪の的となる。すなわち、信仰者にして偽善を行うことをすべての人が憎み、結果として、そこから離れるようになるのだ。」

イザヤ書 64章

 イザヤ書64章は言うなれば神の前における、イザヤによるイスラエルの罪の告白と、神の憐れみを請い求める、そんな内容になっています。

 全体としてみれば、1)神の御前における罪の告白 2)罪の告白に対する神の言葉による応答 3)救済の告知と実施というような流れにあって、ちょうど64章は 1) の部分に相当します。

 第三イザヤの活躍したのは、およそ紀元前515年の前後と言われています。ところが、この聖書箇所はバビロンによるエルサレム神殿の破壊や、あるいはエルサレムの破壊を言っていますので、イザヤはイスラエルの亡国の歴史を振り返ると同時に、イスラエルの滅亡からバビロン捕囚という、神の沈黙や神に見捨てられたという、そういう中に身を置き、そこにあってイスラエルの神に対する偶像礼拝の罪を告白します。

 第三イザヤが生きた時代は、イスラエル滅亡からすればかなり後であり、しかもペルシャ帝国のキュロス王が台頭した時代ですので、直接は関係ありません。

 しかし、イスラエルの過去の歴史をここで神のみ前にあって、神に対する背きのゆえの処罰であり、また、ここで神に対して、「神さまはイスラエルを救済する方ですよね!」という、神さまに対する切実な祈り、嘆願を行っています。

 ここで注意しなければならないのは、イザヤの嘆願は神に対する絶望のゆえではないという点です。

 イザヤは、イスラエルはまさにこの神によって創造された民であり、その神がその手の業による民を見捨てるはずはなく、今、イスラエルの上に下されている裁きも、「永遠の苦しみではないですよね」という、神に対する正義の実行を求めています。

 イザヤは、わたしたちの信じる神は、世界における正義を司る神であり、正義を司る神は、決して私怨や不当な扱いをすることはありえないと信じています。

 イザヤは、自身をイスラエルの過去の歴史における神に対する背きの罪を、神のみ前において担うことを通して、今の苦しみが永遠に続くものではなく、神の正しい裁きによって、必ず、この苦しみは取り去られ、神が共にいてくださる平安のうちに移されることを、神さまの前で、執り成しをしているのです。

 いうなればイザヤは神さまの主催される法廷において、罪を犯したイスラエルを弁護する弁護士として、神さまの前に、正しい裁きと、不当に受けている苦しみに対する救済の執行を求めるのです。

 しかし、まだ神さまからの応答はありません。沈黙を守る神さまに対して、人間にできる限界の交渉をイザヤは行うのです。しかし、それは決して絶望のゆえではなく、必ず与えられる主の憐れみをひたすら請い求めるのです。

 以下、本文をみていきます。




1)柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように/あなたの御名が敵に示されれば/国々は御前に震える。
2)期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば/あなたの御前に山々は揺れ動く。
3)あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。
---
 火にかけた鍋の水が、そのうち沸騰するように、神よ、あなたの万軍の御名による裁きがひとたび世界に対して示されれば、世界の国々はその裁きを恐れ、御前に震えることでしょう。
 また、それだけでなく、あなたの裁きが、わたしたちのまったく意図しないような恐るべきことと共に行われるのであれば、動くことのないはずの山々さえも、そのあまりの出来事に対して揺れ動くことでしょう。

 神よ、あなたを待ち望むものたちを省みてくださるのは、この世界において、神よ、あなた以外にはありません。それははるか昔からそうであって、あなた以外に、イスラエルに対して目を留めてくださる存在は見たことも聞いたこともありません。


 
4)喜んで正しいことを行い/あなたの道に従って、あなたを心に留める者を/あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました/わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって/わたしたちはとこしえに救われます。
5)わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。
6)あなたの御名を呼ぶ者はなくなり/奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し/わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。
---
 そのようなあなたは、あなたの御前に、喜んで正しいことを行い、あなたの示される道に従って、あなたを常に心のうちに留める者を、必ずあなたはご自分のもとに迎え入れてくださいます。あなたは、まさにそのような方ではありませんか。

 しかし、あなたはわたしたちイスラエルの民に対して憤られました。
 それは、まさにわたしたちがあなたに対して罪を犯したからです。
 しかし、あなたのその御業によって、わたしたちはとこしえに救われるのです。

 神よ、わたしたちは皆、あなたの御前にあって罪に汚れた者となり、あなたの御前に、正しいはずの業も、すべてがあなたの御前に汚れた者となりました。わたしたちは皆、枯葉のように、あなたに対するわたしたちの悪は、まさに枯葉に吹き付ける風のように、わたしたちを御前から遠くへと運び去りました。

 わたしたちの中にあなたの御名を呼ぶ者はなくなり、わずかになったあなたの御名を呼び求める者も、自分のまわりがすべて御名を呼ばない者であるのに怖気て、奮い立ってあなたにすがろうとする者さえいません。
 まさに、そのようなわたしたちからあなたは御顔を隠し、わたしたちの悪のゆえに、力を奪われてしまいました。



7)しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。
8)どうか主が、激しく怒られることなく/いつまでも悪に心を留められることなく/あなたの民であるわたしたちすべてに/目を留めてくださるように。
9)あなたの聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し
10)わたしたちの輝き、わたしたちの聖所/先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ/わたしたちの慕うものは廃虚となった。
11)それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え/黙して、わたしたちを苦しめられるのですか。
---
 しかし、主よ、いまこそもう一度、言わせてください。
 もし、あなたがわたしたちのことを見捨てたとしても、神よ、あなたこそが私たちの父なのです。
 わたしたちが粘土であれば、あなたこそがわたしたちにとっての陶工であり、
 主よ、わたしたちはまさにあなたの御手による業ではありませんか!

 神よ、わたしたちの過失による罪のゆえに、また意図的にあなたに対して背いたその悪のゆえに、激しく憤られ、その裁きをくだされたことを、わたしたちは正面から受けとめます。あなたの裁きは正しく、誤りはありません。
 ですから、神よ、永久に激しく怒られることなく、いつまでも、わたしたちの犯した悪に拘ることなく、あなたの御手の業による民であるわたしたちすべてに、その慈しみの目をもって省みてください。

 神よ、見てください。
 あなたの聖なる町々は荒れ野となりました。エルサレムのあるシオンの丘は荒れ野となり、エルサレムの都は荒廃し、わたしたちの輝きである、わたしたちの聖所、わたしたちの先祖があなたを賛美した場所は、すっかり火に焼かれて、わたしたちの慕うものも廃墟となってしまいました。

 神よ、それでもなお、あなたの裁きは続くのでしょうか? まだ、罪の悔い改めの清算ができていないのですか?
 それでも、あなたは御自分をわたしたちから隠し、黙して、わたしたちを苦しめるのですか?
 まだ苦しみが必要なのですか?

 しかし、わたしたちはあなたの救いを確信するのです。 

イザヤ書 63章

 イザヤ書63章はひとことで言えば、重層的なイスラエルの歴史を通して、そこでなされる神の救いの御業の嘆願というような箇所となっています。

 詩篇137編における、イスラエルの民の、神に対するバビロニアとその手先となったエドムに対する報復の祈りに対する、神の応答としての裁きが、この箇所の1節から6節までの内容に対応します。

 そもそもなぜ、ここで他国ではなくエドムが登場するのかですが、恐らく、民数記20章14節以下、モーセがイスラエルの民を率いてエドムを通過しようとしたとき、エドムの王がこれを許可せず、イスラエル民族はエドムの領地を迂回しなければならなかった記事があります。

 イザヤ書63章は後半のところでモーセの出来事を思い起こすように促していますので、おそらく、史実かどうかは別として、民数記の記事、および詩編137編などの整合性で、このように記したのではないかと個人的には推察します。

 その意味で、エドムとは、史実としてのエドム王国が極端に悪いというよりも、むしろイスラエルを苦しめた敵としての役割を担っているのではないかと思います。

 詩編137編では、エドムが新バビロニア帝国の手先となって、他国に先んじてエルサレム攻略に乗り込んだ、そういう歴史的な背後を感じさせます。

 しかし、詩編137編、あるいはイザヤ書63章で登場する「報復」は、あくまで神の正義による判決に基づく制裁行為であって、それは「制裁」というよりも、「自分たちの犯した罪に対する報い」であって、その神の報いが非常に残酷なまでの表現をとっているのは、神が実際にそういう虐殺を行ったことよりも、むしろ、それによってこれまでイスラエルが被った被害や損害、精神的苦痛に対する、神の慰めの意味が強いと思います。

 神の報復とは、つまりは神の裁きであり、それは世界における正義を司る神の裁量に基づき、決して、私怨によるものでないのです。

 例えるなら、兄弟げんかをして泣いている方に対して、「お父さんがお前に代わって怒ってやったから」と言って、泣いてる方を慰めるようなものです。

 そして、この神の報復で大切なことは、あくまで「人間は自分で報復しない」ということです。

 最近の殺人事件の裁判なんかで、加害者が死刑を求刑されない場合に、被害者の家族が死刑を求める場面なんかを見かけます。

 裁判はもともと、人間を裁くのではなくて、あくまで罪を裁くのです。

 「罪を憎んで、人を憎まず」という台詞が、昔の時代劇なんかでありましたが、それといっしょです。

 ところが、仮に、被害者の家族が求めによって、加害者を死刑にするようになれば、それはいわゆる仇討ちであって、私刑と同じです。そこには、法律ではなく、被害者の怨恨しかないのです。


 しかし、聖書の信仰がすごいのは、通常であれば、そういうふうに流れてしまいそうですが、そこにストップをかけるのが、この詩編137編、あるいはイザヤ書63章に登場する神の報復です。

 「神が、加害者に対して必ず、ただしく報復してくれるから、被害者であるあなたは加害者を許しなさい。」というわけです。

 なぜ、人が直接、相手に対して報復してはならないのか? それは、相手に危害を加えることが、神の前に罪であるからです。そして、罪の報いが死であるからには、いくら仇討ちが人間の目に正当化されようとも、神の前には人ひとりの命を奪うという意味においては死にあたる罪を犯すことになるのです。

 だからこそ、むしろ被害者は「加害者の罪を許す」という神の前における正義の行為によって、かえって加害者の上に、犯した罪の重さを増し加えさせるように促すのです。この考えは箴言だったかコヘレトの言葉に見ることができます。


 そして、詩編137編につづられているように、神の報いがいつか仇の上に下るように、切に祈る。

 そして、イザヤ書63章では、まさにその報いの時の到来を語るのです。

 しかし、ここで重要なことは、神の報復とは、決して、イスラエル以外の外国だけに、敵対宗教の国家にだけ向けられるものではなくて、実は、イスラエルに対しても、この神の報復は行われたという点です。

 はじめ、エドムをはじめとした外国が「けしからん」と、神による諸外国の蹂躙が行われますが、イスラエルも同じように、神によって蹂躙される。具体的には北イスラエルの滅亡、南ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚の出来事といった事柄がそれに該当するわけですが、その意味では、エドムだけが取り立てて悪いという表現でもないのです。
 
 しかし、そういった中にあって、イスラエルの神がイスラエルを創造し、担い、負われてきたと、イザヤ書46章で出てくる、神によっておんぶされるイスラエルの姿が、まさに、ここでの慰めの言葉となっていることが重要です。

 このモチーフは、有名な「Footprints」の詞に共通します。

 では、以下、本文をみていきます。



1)「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き/勢い余って身を倒しているのは。」「わたしは勝利を告げ/大いなる救いをもたらすもの。」
2)「なぜ、あなたの装いは赤く染まり/衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
3)「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ/憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び/わたしは着物を汚した。」
---
 声)「エドムからやって来るのは一体だれだろうか? エドムの大きな都市であるボツラから。しかも、その衣は鮮血のように赤い。しかもその装いは神の威光に輝き、その勢いのあまり前傾してやってくる」

 神) 「わたしは勝利を告げ、大いなる救いをもたらすものである。」

 声)「なぜ、あなたの装いは赤く染まっているのか? あたかも酒ぶねで、ぶどうの実を踏み潰す人たちのように、その飛び散る果汁によって染まっているのか?」

 神)「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとり、主なる神であるわたしに伴わなかった。それゆえ、わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。だから、わたしの衣は、踏み砕かれた彼らの血を浴び、もともと汚れの無い真っ白い装いを、彼らの罪の報いである彼らの流血によって着物を汚してしまったのだ。」



4)わたしが心に定めた報復の日/わたしの贖いの年が来たので
5)わたしは見回したが、助ける者はなく/驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕により/わたしを支えたのはわたしの憤りだ。
6)わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり/わたしの憤りをもって彼らを酔わせ/彼らの血を大地に流れさせた。
---
 神)「わたしが心に定めた報復の日、裁きの日。わたしによる彼らの罪の贖いの時が来たので、わたしは世界を見回してみたが、誰一人として、彼らを助ける(偶像の)神はなく、また驚くほどに、彼らを支える(偶像の神)はいなかった。それゆえ、わたしの救いは、まさにわたしの腕により、わたしを支えたのはわたしの憤りであった。」
 神)「わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血を大地に流れさせた。」



7)わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを。
8)主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。
9)彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。
---
 驚くべき主の報復に、わたしイザヤはそのことを心に留める。
 すなわち、主なる神の慈しみと主の栄誉を。そして、主がわたしたちに賜ったすべてのことを。
 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを。

 主は言われた。「彼らはわたしの民である。しかも偽りのない子らである」と。
 そして、主なる神は彼らの救い主となられた。

 イスラエルの民の苦しみの時にも、主なる神は決してイスラエルの民を見捨てることなく、彼らの受けた苦難を常に御自分の苦難とされ、御前に仕える御使いによってイスラエルの民を救い、その愛と憐れみをもって彼らの罪を贖い、大いなる昔から常に共にあって、彼らを負い、そして、彼らを担ってくださったのだ。



10)しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。
11)そのとき、主の民は思い起こした/昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか/その群れを飼う者を海から導き出された方は。どこにおられるのか/聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。
12)主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ/民の前で海を二つに分け/とこしえの名声を得られた。
---
 しかし、なんということか! 彼らは主なる神の大いなる憐れみを受けているにも関わらず、主に背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって彼らの敵となり、戦い挑まれた。
 そのとき、主の民は思い起こした。
 すなわち、昔の日々を、モーセの時代を。
 「どこにおられるのか? その群れを飼う者を海から導き出された方は?
 どこにおられるのか? 聖なる霊を彼のうちにおかれた方は?」
 主なる神は、まさに輝く御腕をモーセの右に伴わせ、イスラエルの民の前で葦の海を二つに分け、そのことを通してとこしえの名声を得られた。


 
13)主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが/彼らは荒れ野を行く馬のように/つまずくこともなかった。
14)谷間に下りて行く家畜のように/主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き/輝く名声を得られた。
---
 主なる神は彼らを導いて、その二つに分かれた海の淵の中を通らせられたが、彼らは、まさに荒れ野を行く馬のように、決してつまずくこともなかった。
 あるいは、水の流れる谷間に下りていく家畜のように、主の霊は彼らを憩わせられた。
 このようにして、主なる神よ、あなたは御自分の民を導き、その輝く名声を得られた。



15)どうか、天から見下ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。
16)あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。
17)なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。
---
 しかし、どうか、主なる神よ。今こそ、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から地上をご覧ください。
 どこにあるのですか? あなたの熱情と力強い御業は。
 あなたのたぎる思いと憐れみはいったいどこにあるのですか?
 それらはわたしの目には隠されていて、わたしにはまったく分かりません。

 神よ、あなたはわたしたちの父です。
 例え、信仰の祖であるアブラハムがわたしたちのことを見たことがなくても。
 たとえ、あなたがイスラエルと名づけたヤコブがわたしたちをイスラエルの子と認めなくても。
 主よ、あなたは確かにわたしたちの父です。
 「わたしたちの贖い主」。これは永遠の昔からあなたの御名なのです。

 ところが、どうしてあなたはわたしたちを、あなたを信じる信仰の道から迷いださせ、わたしたちの心をかたくなにして、あなたに対する信仰を失わせるのですか?

 イザヤ書6章10節に、「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」とあるように、あなたは、なぜ、わたしたちを滅ぼそうとするのですか?

 どうか主よ、いまこそ思い直してくださり、わたしたちを顧みてください。救ってください。


 
18)あなたの聖なる民が/継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。
19)あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。
---
 あなたの聖なる民が、その継ぐべき土地をもったのはイスラエルの歴史においてたったわずかの間です。 
 間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。
 イスラエル(「神の支配」の意)というのは名ばかりで、あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。
 主なる神よ。どうか、今こそ、天を裂いて降ってきてください!
 あなたの御前に山々が揺れ動くように! 

イザヤ書 62章

 イザヤ書62章は、ひとくちでいえば「エルサレム再興の歌」です。

 主に第一イザヤによって語られてきたエルサレムの指導者、及び住民の罪が極まり、その結果として、神さまはエルサレムのすべてを解体し、一から築き直すというエルサレム救済の業に乗り出されます。

 しかし、それは、単純にイスラエル民族という特定国家・特定宗教の救済ではなく、世界救済という大事業の片鱗であったというのが、第一から第二イザヤにかけての主な内容でした。

 そして、この62章では、姦淫の女として表現されるエルサレムの都に対して慰めと祝福の言葉が神さまからエルサレムに対してなされます。

 この象徴的な表現は、つまりはその前提を把握していないとうまく理解できないのです。

 では、その前提は何かと言えば以下のとおりです。

 1) 主なる神は夫として、エルサレムの都は妻として、例えばアブラハム以降、その関係が維持されていた。
 2) ところが、エルサレムに住む住民たちは他の神々に乗り換えを行い、それによってエルサレムの都は正しい夫が居ながら、別の神、つまり別の夫とその関係(異教祭儀を行うことを姦淫と理解)を持つようになった。
 3) 結果、夫である神に対して姦淫の罪を犯した妻エルサレムの都は捨てられ(バビロン捕囚)てしまったが、しかし、大切なことは「離縁したわけではない」(イザヤ50:1)という点にある。

 4) その罪の故に、一度は夫(神)に捨てられた(バビロン捕囚)エルサレムの都であったが、捨てられ、辱められ、そうした神の導きのゆえにその罪は清算され、今や、それまでに受けた罰に対して多くの祝福をもって回復される時が来た(イザヤ61)。 

 イザヤ書62章4節で明らかになるように、ここでもう一度、神と和解し、以前に増して豊かな祝福を受けるようになることが本章では言われています。

 以下、本文をみていきます。



1)シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
2)諸国の民はあなたの正しさを見/王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって/あなたは呼ばれるであろう。
3)あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。
―――
 エルサレムの都の建つシオンの丘のために、主なる神であるわたしは決して口を閉ざすことなく、エルサレムの都のために、わたしは決して黙ってはいない。
 今こそ、エルサレムの都の正しさが光のように輝き出で、エルサレムの救いが、暗闇を照らす松明のように燃え上がるその時に至るまで。
 世界中の国・民はエルサレムの正しさを見、諸国の王たちは全員がエルサレムにあらわされた神の栄光を仰ぐことになる。
 エルサレムの都よ、お前は主なる神が定められた新しい名前によって、主なる神が直々にお前を呼ぶであろう。
 その時、あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたは神御自身がかぶる王冠としての栄光を受けるであろう。



4)あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ/あなたの土地は夫を得るからである。
5)若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。
―――
 エルサレムの都よ、お前は再び、以前のような「夫である神から捨てられた女」と呼ばれることなく、イスラエル国土が再び、「荒廃」と呼ばれることはない。
 それどころか、お前は「夫である神によって望まれるもの」と呼ばれ、お前の国土は「主なる神である方が夫であるもの」と、世界において主なる神の所有されるものと呼ばれることであろう。なぜなら、それはお前のゆえではなく、ただ主なる神がお前を望まれ、お前の国土は、まさに主なる神を夫として、神によって所有されるようになるからである。
 まさに、若者がおとめを娶るように、エルサレムよ、お前を再建される方、すなわち主なる神ご自身がお前を娶ってくださり、花婿が花嫁を喜びとするように、主なる神は、あなたを所有することをご自身の喜びとされるのだ。



6)エルサレムよ、あなたの城壁の上に/わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ/決して沈黙してはならない。
7)また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり/エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。
8)主は、御自分の右の手にかけて/力ある御腕にかけて、誓われた。わたしは再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず/あなたの労苦による新しい酒を/異邦人に飲ませることも決してない。
9)穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美し/ぶどうを取り入れた者は/聖所の庭でそれを飲む。
―――
 エルサレムの都よ、お前の城壁の上に、主なるわたしは見張りを置く。彼らは昼も夜も決して休むことなく、彼らは主なる神の命令によって、常に、エルサレムに対して主なる神を思い起こさせ続ける。
 また、バビロン捕囚において、主の沈黙を受けた時のように、再び主の沈黙を招くようなことをしてはならない。
 今は、まだ荒れ果てているが、主がお前の再建に取り掛かり、エルサレムを世界における栄誉としてくださる時、すなわち、主なる神の人類救済の大事業が完成するその時まで、主なる神に対する関係を疎かにしてはならない。
 主なる神は、御自分の右の手、つまり神ご自身の正義とその力にかけて誓われた。
 「わたしは再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず、あなたの労苦による新しい酒を、異邦人に飲ませることも決してない。
 むしろ、穀物を刈り入れた者はそれを食べて主を賛美し、ぶどうを取り入れた者は、聖所の庭でそれを飲むことであろう。」と。



10)城門を通れ、通れ、民の道を開け。盛り上げよ、土を盛り上げて広い道を備え/石を取り除け。諸国の民に向かって旗を掲げよ。
11)見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。
12)彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。
―――
 さあ、一度は失われたエルサレムの住民たちよ、今こそ、エルサレムの城門を通れ。行け、エルサレムの民よ、荒野に道を拓け。低いところは土を盛り上げ、民が通るための広い道を備えよ。民の躓きとなる石をそこから取り除け。今こそ、エルサレムの住民がエルサレムに帰還する。そのことを諸国の民に向って旗を揚げて知らせよ。

 見よ、主なる神は、このことを地の果てにまで、世界の隅々にまで布告される。
 「さあ、娘シオン、エルサレムの都に対して言え。見よ、あなたの救いが大路を通ってやって来る。見よ、主の勝ち得られた者は、主なる神に従い、主の大いなる働きの実り、栄光の数々が主なる神の御前を行進する。 
 彼らは『聖なる民、主にその罪を贖われた者』と呼ばれ、エルサレムよ、お前は『主なる神によって尋ね求められる女。神によって決して捨てられることのない都』と呼ばれるであろう」と。 

イザヤ書 61章

 イザヤ書61章は 一口で言えば、第3イザヤの召命の箇所です。

 内容的には、神の霊によって、まさにメシア(油を注がれた者)としての経験を主人公が経験するところから始まります。そして、4節から9節にかけて、イザヤに対して示された神の救い(報復)の言葉。そして、10・11節にて、もう一度、イザヤの召された経験についての賛美の言葉で締めくくられます。

 ところで、第1イザヤ、第2イザヤ、第3イザヤの違いは何かですが、主に時代背景の違いがその理由になっています。

 すべては、仮説に過ぎませんが、本文の内容から第1イザヤはおよそ紀元前740~700年頃にかけて活動していた人物であって、恐らく、弟子を持つくらいの影響力を持っていたのではないかと推測されます。

 そして、第2イザヤは、南ユダ王国のエルサレムで書かれたというよりも、ペルシャ帝国キュロス王について言及している点から見て、第1イザヤの信仰を引き継ぐ集団であって、時代的にはキュロス王によってバビロン捕囚から解放された紀元前538年の前後に活躍していたことが推測できるのです。

 そして、第3イザヤとは、前述のバビロンからの解放を受けてエルサレム帰還がはじまり、紀元前515年のエルサレム第二神殿が完成します。おそらく、その前後のことを内容に含んでいることから、第3イザヤはおよそ紀元前515年前後に活躍したのではないかということが言えるのです。

 第3イザヤはそういう意味で、第1イザヤ・第2イザヤの信仰を引き継ぐ形で、しかも、既に苦しみの時(バビロン捕囚)は終わりを告げ、第二神殿の完成によって、あらたな時代の始まり、世界において正義を司る神による新しい支配、それまで罪によって回復不能のところまで陥っていたイスラエル民族の浄化が完成されたと同時に、その救いが世界に対して行われていることを物語ります。

 イザヤ書61章は、この時代のイザヤとして召命を受けた人物の、その証と宣べ伝えるべき喜びのメッセージに、神を褒め称える歌となっています。

 では、以下、本文をみていきます。



1)主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2)主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
3)シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
---
 主なる神はわたしをイザヤとして油を注ぎ、主なる神の霊によってわたしは預言者とされた。
 それは、わたしを心の貧しい人、つまり真実の神を切に求める人たちに対して、喜びの知らせを伝えるためだ。
 主なる神は、今こそ、主の御前にあって打ち砕かれた心をその愛によって包み、捕らわれている人には自由を与え、鎖に繋がれている人には、その鎖からの解放を行うことを告知された。
 主なる神が恵みを与えてくださる時代、わたしたちの神が、わたしたちの悩みや苦しみに対して報いてくださるその時であることを告知され、嘆いている人々に慰めを与えられる。
 エルサレムが破壊され、棄てられてしまったことに嘆く人々に対して、後悔の故に頭に灰を被って泣く者に対して、その灰を取り去り、喜びの冠をかぶらせてくださる。嘆きに代えて喜びの香油を注いでくださり、暗い心に代えて喜びの賛美の衣をまとわせてくださる。
 そうして心から主を賛美する彼らは、まさに主が御自分の輝きを世界に対して現すために植えられた、この世の何事に対しても決して曲がることのない堅い正義の樫の木と呼ばれることであろう。



4)彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
5)他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。
6)あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。
---
 彼らはとこしえの廃墟、古い荒廃の跡であるエルサレムと神殿を建て直し、再興する。今まで廃墟となっていた町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
 他国の民によって搾取され、苦しめされていたエルサレムの民は、今こそ、逆に、他国の人々によって養われるようになる。他国の人々がエルサレムの民のために羊を飼い、異邦の人々がエルサレムの畑を耕し、そのぶどう畑の手入れをする。
 エルサレムの民は、世界中の人々から主の祭司と呼ばれ、世界において唯一である神に仕える者とされ、世界の富と栄光をその身に受けることであろう。



7)あなたたちは二倍の恥を受け/嘲りが彼らの分だと言われたから/その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける。
8)主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。
9)彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
---
 一度は失われたエルサレムの民たちよ、あなたたちはこれまで被るべきであった基準の二倍の恥を受け、世界中からの嘲りこそがお前たちの取り分だと言われた。それゆえ、主なる神は、お前たちの受けた損失に対して、基準の二倍の恵みと祝福を与えようといわれる。すなわち、永遠の喜びを受けるのだ。
 主なる神であるわたしは世界において正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。以前の祭司たちはまさに、神への献げ物を強奪し、自分たちのものにしたゆえに、その罪によって滅びた。またそのようにならないように留意せよ。しかし、わたしはまことをもって罪を犯したエルサレムの民の、その罪の故に被った労苦に対して報いよう。そして、とこしえの契約をお前たちと結ぼう。
 主なる神を信ずるこの一族は、世界において知られるようになり、その子孫は世界中において知られるようになる。彼らを見て、世界中の人々は認めるであろう。すなわち、これこそ、世界において正義を愛される主なる神の祝福を受けた人々である、と。



10)わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。
11)大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
---
 主なる神から受けた言葉によって、わたしは主なる神のゆえに喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
 まさに、主なる神は、救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださった。あたかも花婿のように救いという輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように主なる神の恵みの宝石で飾ってくださるからである。
 まさに、茶色い大地が草の芽を萌え出でさせすっかり緑に包まれるように、園が蒔かれた種を芽生えさせ美しくなるように、主なる神は、世界中の国民の前にあって、その恵みと栄誉を芽生えさせてくださるのだ。 

イザヤ書 60章

 イザヤ書60章はこれまでの神の裁きを受けて、神の救いの到来を称える「賛美」がその主な内容になっています。

 人間の行いによらない、真の神に主導される救いの御業が全世界に対して示されます。

 それまでのイスラエルにおける救い、イスラエル宗教における救いとは、人が神によって与えられた十戒とそれを補完する意味での律法の遵守にありました。

 しかし、人間は完全ではなく、そのような不完全な人間が律法を完全に実行することは無理でした。

 イザヤ書が非難の対象とする当時のイスラエル宗教は、そういったことに加えて、他宗教の祭儀を取り入れるなど、十戒に示された「神の御心」をまったく無視したものであり、かえってそれは人々に対する頚木であり、重荷に過ぎないというのが、これまでのイザヤ書において叫ばれていた内容です。

 ところが、当の祭司たちをはじめとするエルサレム神殿とその体制は、本質的なことを見失ってはいましたが、いろいろな意味において繁栄していました。その繁栄が、多くの人々の血や涙の上に成立していることなど、当時の指導者たちからすればまったく気に留めなかったのです。

 そこに神のさばきによる、イスラエル国家の滅亡とエルサレム神殿の崩壊が訪れます。

 様々な生贄が神に奉げられ、多くの献金が人々から巻き上げられている状況において、指導的立場にある人たちは、国家の一大事において「必ず神がイスラエルを守ってくれる」ものだと、たかをくくっていたわけです。

 しかし、唯一の神を信じるはずのイスラエルに、まさに滅亡の時が訪れたのです。

 そこにあって、人々は、自分たちの神が無力であること、自分たちを救う力がないことを呟きます。また、神がどこかに出かけてしまって、自分たちを見捨てたのだという信仰が大勢を占めるようになります。

 北イスラエル王国の滅亡に続いて、南ユダ王国も滅亡し、イスラエル民族は捕虜として外国へ強制移住させられます。

 そのようなイスラエルの苦難はおよそ40年に及び、その後、神による救いの計画が世界に対して、イスラエルの救国の御業を通して明らかになります。

 イザヤ書60章では、そういった流れを受けて、神による人類救済の大いなる御業の先駆けとして新生イスラエルの回復と廃墟と化したエルサレム神殿の回復を称えます。

 そして、それを通して、真に神の平和による、神の恵みの御業による世界救済と、人類がその神を知るようになり、人類によってこの神が賛美される、そういう内容となっています。

 
 では、以下、本文をみていきます。


1)起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。
2)見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
3)国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
---
 今こそ、主なる神は言われる。
 「起きよ、神の光を放て!」と。 
 廃墟となり、その子どもたちである住民たちの去ったエルサレムの街を照らす神の栄光は頭上に上り、その栄光はエルサレムの上に輝き、イスラエルだけでなく世界を照らす。
 見よ、世界は闇に覆われており、暗黒が国々を包んでいる。しかし、今こそ、エルサレムの都よ、お前の上に主が御自身をあらわし、その栄光がエルサレムの上に輝く。すると、暗黒に包まれた世界の国々は、世界を照らす主なる神の栄光に向かい、諸国の指導者たちは、主なる神の栄光に向かって歩むことになるであろう!

 
 
4)目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。
5)そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。
6)らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
---
 うつむくのを止めよ。さあ、今こそ、お前の目を上げて世界を見渡すが良い。
 お前から奴隷として取り去られた住民たちは、諸国の富と一緒に、お前のもとに帰ってくる。
 エルサレムの都よ、そのとき、お前は主なる神の御前に畏れ、おののきつつも、しかしお前は喜びに輝き、心もすっかりと晴れやかになるであろう。
 遠く、海の彼方からお前のもとに宝が送られてくる。世界中の国々の富が、おまえのもとに集められる。
 さあ、南のミディアンの方を見るが良い。エファのキャラバン隊の若いらくだの集団が、お前のもとに黄金や乳香を携えてやってくる。南のシェバの人々も皆、そうしてやって来る。そして、まさにこのようにして、主の栄誉が宣べ伝えられるのだ。



7)ケダルの羊の群れはすべて集められ/ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ/わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。
8)これらは誰か。雲のように飛び、巣に帰る鳩のように速い。
9)それは島々がわたしに向けて送るもの/タルシシュの船を先頭に/金銀をもたせ、あなたの子らを遠くから運んで来る。あなたの神、主の御名のため/あなたに輝きを与える/イスラエルの聖なる神のために。
---
 ケダルの羊の群れはすべて集められ、ネバヨトの雄羊もあなたのところに集められる。
 それらはわたしの聖なる祭壇にささげられ、わたしはそれを受け入れる。
 そして、わたしはわが家である、イスラエルの家の輝きに、さらに輝きを増し加える。

 さあ、見よ。これらは一体誰だろうか? 雲のように空を飛び世界に散って行き、あたかも巣に帰る鳩のように、速やかに各地から帰ってくる。
 それは、わたしが世界の国々に対して送る伝令である。
 見よ、北方のタルシシュの貿易船を先頭にして、金銀財宝を携え、エルサレムの住民たちを連れ帰る。
 彼らは、人間の功績ではなく、まさに主なる神であるわたしの恵みの御業として、主なる神の御名のゆえにエルサレムに帰ってくることができたのだ。
 それは、エルサレムよ、おまえに輝きを与えることになるであろう。しかし、それは、あくまでもイスラエルの家を治める神のためである。



10)異邦の人々があなたの城壁を築き/その王たちはあなたに仕える。わたしは怒ってあなたを打ったが/今、あなたを憐れむことを喜ぶ。
11)あなたの城門は常に開かれていて/昼も夜も閉ざされることはなく/国々の富があなたのもとにもたらされ/その王たちも導き入れられる。
12)あなたに仕えない国も王国も滅び/国々はまったく廃虚となるであろう。
---
 エルサレムの都よ。見よ、異邦人たちがあなたの城壁を築き、その異邦人の王たちは聖なるエルサレムに仕えることになる。
 先に、わたしはお前の罪のゆえに怒って、アッシリアやバビロニアの侵略にまかせ、一度はお前を見捨てたが、しかし、今や主なる神であるわたしは、エルサレムよ、おまえを憐れむことを喜びとする。
 その城門は常に開かれて、昼も夜も、国々の富をエルサレムに持ち込んでくる。同じように、国々の王たちも、お前の城門をくぐってエルサレムに導き入れられる。
 すべて、生きる者は、主なる神の恵みにより、エルサレムの門をくぐる者たちが、それによって豊かになる。しかし、神でないものを神として、すべての恵みを司る主なる神に背を向ける国々は、自分たちの罪をどうすることもできずに、自分たちの罪によって滅亡し、廃墟となるであろう。




13)レバノンの栄光は、糸杉、樅、つげの木と共に/あなたのもとに来て、わたしの聖所を輝かせる。わたしはわたしの足を置く場所に栄光を与える。
14)あなたを苦しめた者の子らは/あなたのもとに来て、身をかがめ/あなたを卑しめた者も皆/あなたの足もとにひれ伏し/主の都、イスラエルの聖なる神のシオンと/あなたを呼ぶ。
15)かつてあなたは捨てられ、憎まれ/通り過ぎる者もなかったが/今、わたしはあなたをとこしえの誇り/代々の楽しみとする。
---
 その豊かさは、例えるなら、レバンンの栄光は糸杉や 樅、つげの木 と共にあって、それらの高級建材はエルサレムに運搬され、エルサレム神殿の飾るものとなり、それによって聖所を輝かせる。
 しかし、主なる神であるわたしは、わたしの足を置く場所であるエルサレム神殿に、まさにわたしの名のゆえに栄光を与えよう。
 それは、これまでエルサレムに住む人々を苦しめた者たちの子孫たちが、エルサレムにやって来てそこで身をかがめ、これまでエルサレムを卑しめた者たちも皆、「主なる神の都、イスラエルの聖なる神のシオン丘」とエルサレムのことを呼ぶようになることを通してである。
 かつてあなたは戦争に負け、破壊され、廃墟となり、そこを通り過ぎる者もいなかったが、今こそ、わたしはエルサレムを主なる神にとっての永遠の誇りとし、代々の楽しみとする。


 
16)あなたは国々の乳に養われ/王たちを養う乳房に養われる。こうして、あなたは知るようになる/主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖う者/ヤコブの力ある者であることを。
17)わたしは青銅の代わりに金を/鉄の代わりに銀をもたらし/木の代わりに青銅を/石の代わりに鉄をもたらす。わたしがあなたに与える命令は平和/あなたを支配するものは恵みの業。
18)あなたの地は再び不法を耳にすることなく/破壊と崩壊は領土のうちから絶える。あなたの城壁は「救い」と/城門は「栄誉」と呼ばれる。
---
 神の救いの時に、エルサレムよ、お前は国々の富によって潤され、例えるなら、諸国の王たちを養う乳房によって、お前は養われる。
 こうして、お前は知るようになるであろう。主なる神があなたをその罪から救い、奴隷として連れ去られたイスラエルの民を買い戻し、「力の無い神」ではなく、その力を司る方であることを。

 わたしはお前に、以前よりも増して祝福を与えよう。
 例えるなら、青銅の代わりに金を与え、鉄の代わりに銀をもたらし、木の代わりに青銅を、石の代わりに鉄をもたらそう。
 今こそ、わたしがエルサレムよ、あなたに与える命令はこれである。つまり、「主なる神が常に共にある」という「平和」である。そしてエルサレムを支配するものは、主なる神の恵みの御業である。
 これによって、イスラエルのどこにあっても、再び不法を耳にすることはなく、破壊と崩壊は領土の内から絶えるであろう。その時、エルサレムの城壁は「主なる神の救い」と呼ばれ、その城門は「主なる神の栄誉」と世界の国々から賞賛されるであろう。


 
19)太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。
20)あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。
21)あなたの民は皆、主に従う者となり/とこしえに地を継ぎ/わたしの植えた若木、わたしの手の業として/輝きに包まれる。
22)最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。
---
 もはや、太陽は再び昼においてあなたを照らす光とならず、月の輝きも、夜あなたを照らす光とはなることはない。
 なぜなら、主なる神こそがあなたを照らす永遠の光となり、太陽や月の輝きに代わって、主なる神の栄光があなたを照らす輝きとなるからだ。
 主なる神の栄光は、太陽のように沈むようなことはなく、また月の満ち欠けのように欠けることがない。
 主なる神の栄光は永遠にあなたを照らす光となり、闇に包まれていたあなたの嘆きの日々は終わりを迎える。
 その時に、エルサレムに住む者はみな、主に従う者となり、主の祝福によって、その恵みの御業によって、とこしえにその地を継ぎ、例えるなら主なる神の植えた若木、主なる神の御手による業として、主なる神の栄光を帯びるようになる。
 そこにあっては、例えるなら、最も小さい者であっても千人に匹敵する力を持つようになり、最も弱い者も強大な国と肩を並べるようになる。
 しかも、主なる神の定められたその時に、それは速やかに行われ、決して遅れることはないのだ。
 

イザヤ書 59章

 イザヤ書 59章は、これまでところで神の救いの計画とその実現について書かれてきたことに対して、悔い改めの勧告をするものですが、単純に「罪を悔い改めよ」というのではなくて、そこにあってこれまで信仰上の疑問であった「なぜ神は自分たちの祈りに応えてくれないのか?」という問いに対する、答えとして、それを神さまの口から、あたかも吐露するかのようなかたちで、エルサレム神殿に仕える当時の人たち(おそらく祭司たち)に対する罪の告発という面をも併せ持っています。

 祭司たちは、神に対して、イスラエルの救済を祈ったけれども、神はそれに対して一切応えてくれなかった。

 なぜ、神は、わたしたちの祈りに対して応えてくれないのか?

 そういった神の正義に対する疑問が、この59章では文字としては出てきませんが、前提とされていることは1節における、突然の神からの告白から見て取れます。

 祭司たちは、自分たちはイスラエルの神の前にあって、信仰を保ち、正義を行い、罪や悪から離れているという自負がありました。しかし、それはまったくの思い違いであって、それは神から見れば、真っ黒に罪に染まっている状態であったのです。

 神の正義から遠く離れてしまっているイスラエルの民の祈りは、もはや神の耳には届きません。それは、神がイスラエルの「訴えを無視している」というのではなく、罪によって、その声が届かなくなっているのだと説明するのです。

 人間は、あくまでも「自己中心的」です。人間の主張する「正義」が実に「自己中心的」なものであるかをここで示しています。

 だからこそ、ここで主なる神は、そういった「自己中心的」な罪の束縛から解き放たれるために、「律法」ではなくて、あえて「主を畏れること」、つまり神を信ずる信仰と隣人に対する慈善を行うことを第一として求めるのです。

 その意味で、礼拝とは、ただ神的な存在に対して頭を垂れるような行為を指すのではなくて、神の前に出ることを通して、自分の罪(不完全な部分)を告白することと共に、神の憐れみを求めることを要求するのです。なぜなら、人間の罪を赦すのは、祭司たちではなく、あくまで神だけだからです。

 本文中では、9節~13節にかけて、独白のような形で罪の告白があります。

 そして、そのように罪赦された罪人は、その恵み、喜びによって、隣人に対して神の正義をもって、慈善を行う人生へと導かれるのです。 

 イザヤ書59章では、その全体を通して、「彼らと結ぶ契約である」と告白しています。

 そこには、モーセに対して示された十戒ではなくて、それよりも上位のものとして「新しい契約」という救いが示されています。

 以下、本文をみていきます。



1)主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
2)むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
3)お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。
4)正しい訴えをする者はなく/真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り/労苦をはらみ、災いを産む。
---
 お前たちは、主なる神であるわたしが、お前たちを救わないことに対して、あるはお前たちの祈りに対して耳を貸さないことに腹を立てているようだが、それはまったくのお門違いだ。

 主なるわたしの手が短く、力がない、能力がないのでお前たちを救えないのでは、決してない。また、わたしが耳が遠く、聞こえにくくなっている。つまり、神であるわたしの能力が劣るために、お前たちの訴えが聞こえないというのでもない。

 そうではなく、お前たちの悪こそが、わたしとお前たちのとの間を隔ててしまい、お前たちの行う罪が、わたしの顔をお前たちから遠ざけ、隠し、また、お前たちの罪がお前たちの訴えの言葉をわたしの耳に届かないように妨害しているのだ。

 お前たちの両手を、今、自分の目で見るがよい。お前たちの手は血で穢れ、その指はまさに悪によってまみれているではないか。お前たちの唇は、誰に対しても偽りを語り、その舌は悪事をつぶやくことしかない。

 お前たちの中に正しい訴えをする者はいなく、真実をもって隣人を弁護する者もいない。むしろ、むなしいことを頼みとして、偽って語り、それは隣人に対して労苦を強いて、隣人に対して災いを撒き散らしている。


 
5)彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。その卵を食べる者は死に/卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す。
6)くもの糸は着物にならず/その織物で身を覆うことはできない。彼らの織物は災いの織物/その手には不法の業がある。
7)彼らの足は悪に走り/罪のない者の血を流そうと急ぐ。彼らの計画は災いの計画。破壊と崩壊がその道にある。
8)彼らは平和の道を知らず/その歩む道には裁きがない。彼らは自分の道を曲げ/その道を歩む者はだれも平和を知らない。
---
 今まさに、エルサレム神殿に仕える祭司たちを見よ。彼らはまさに毒蛇である蝮の卵を孵す者であり、また、蜘蛛が巣を作るようなものだ。その卵を食べる者は死んでしまい、あるいはその卵を踏み潰そうとすれば、そこから毒蛇が飛び出て、その人をかみ殺す。
 また、その蜘蛛の糸は着物にすることはできず、また、その糸で編んだ織物で身を覆うことはできない。彼らの織物はまさに他人に対して災いを与える災いの織物であって、その手には不法の業、つまり、隣人を災厄に巻き込むための策略があるだけなのだ。
 そして、彼らの足は、常に悪に走り、罪のない者の血を流そうと急ぐ。無実の人に罪を着せ、他人に下す謀略によって私腹を肥やす。彼らの計画は災いの計画であり、破壊と崩壊がその道の先に待ち構えている。
 彼らは主なる神の平和の道を知らず、その歩む道には神の正義に基づく裁きがない。
 彼らは、自分たちで勝手に自分たちの道を曲げる。彼らによって作られた律法は、主なる神の正義と異なり、その道を歩む者は誰も主なる神の平和を知らない。



9)それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ/恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ/輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。
10)盲人のように壁を手探りし/目をもたない人のように手探りする。真昼にも夕暮れ時のようにつまずき/死人のように暗闇に包まれる。
11)わたしたちは皆、熊のようにうなり/鳩のような声を立てる。正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った。
---
 それゆえ、主なる神の正義はわたしたちを遠く離れてしまい、主なる神の恵みの業は、わたしたちに追いつくことがない。
 わたしたちは光を望んだが、見よ、それは人間の罪の闇に閉ざされてしまった。
 わたしたちは輝きを望んだが、見よ、わたしたちはまさにその暗黒の中を歩いているのだ。
 わたしたちは、盲人のように壁を手探りし、目をもたない人のように手探りをするほかない。
 たとえ真昼であっても、夕暮れ時のようにつまずき、あたかも死人のように暗闇に包まれている。
 わたしたちは、皆、熊のようにうなり声を上げ、鳩のように低いうめき声をあげる。
 わたしたちは主なる神の正義を望んだが、しかし、それはなかった。
 わたしたちは救いを望んだが、しかし、救いはわたしたちを遠く離れ去ってしまった。



12)御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。
13)主に対して偽り背き/わたしたちの神から離れ去り/虐げと裏切りを謀り/偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。
14)こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき/正しいことは通ることもできない。
15)まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。
---
 主なる神の御前に、わたしたちの背きの罪は重く、わたしたち自身の罪が、神の御前において、わたしたちに不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎を知っている。
 主なる神に対して偽り、そして背き、わたしたちの神からすっかり離れ去ってしまい、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやくような始末。
 こうして、正義はわたしたちから離れ去ってしまい、主なる神の恵みの業は、わたしたちから遠く離れたところに立っている。
 本来、正義がなければならない公開裁判の場である広場に、主なる神の正義は、そこに満ちた悪と罪のゆえによろめき、主なる神の正義はそこを通ることもできない。人々の間に、まことはすっかり失われてしまい、悪を避ける者たちも、悪を行う者たちによって殺戮されてしまった。
 主なる神は、まさに、エルサレムにおいて、主なる神の正義が行われていないことを見られた。そして、それはあたかも創世記におけるソドムとゴモラのように、主の御目に悪と映ったのだ。



16)主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業。
17)主は恵みの御業を鎧としてまとい/救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい/熱情を上着として身を包まれた。
18)主は人の業に従って報い/刃向かう者の仇に憤りを表し/敵に報い、島々に報いを返される。
19)西では主の御名を畏れ/東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み/主の霊がその上を吹く。
---
 主なる神は、エルサレムに主の正義をおこなう人がひとりもいないのを見、また、アブラハムが主に執り成しを祈ったように、執り成す人がいないのを驚かれた。
 主なる神の救いは、主の御腕により、主が主であることを支えるのは、まさにその恵みの御業によってである。
 主なる神は、その恵みの御業を鎧として身にまとい、救いを兜としてかぶり、罪に対する報復を衣としてまとい、あらゆる罪を焼き尽くす熱情を上着として、その身を包まれた。
 主なる神は、その人の行う業によって、その罪に報い、主なる神に刃向かう者の仇に憤りを表し、神に敵対する者に報いを返される。
 世界において西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を人々は畏れる。
 主なる神はまさに、激しい流れのように、今こそエルサレムに臨み、主の霊がその上を吹き付ける。



20)主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。
21)これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると/主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊/あなたの口においたわたしの言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/あなたの子孫の子孫の口からも/今も、そしてとこしえに/離れることはない、と主は言われる。
--- 
 さあ、主なる神は、まさに人を罪から贖う者として、シオンの丘、エルサレムに来られる。
 ヤコブのうちの罪、つまりエルサレムにあって、自分の罪を悔いる者たちのもとに来ると、主は言われる。
 「これは、わたしが彼らと結ぶ契約である」と、主は言われる。
 「あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも、今も、そしてとこしえに離れることはない」と、主は言われる。
 

イザヤ書 58章

 イザヤ書58章は、前半において当時のエルサレム神殿に仕える祭司たちに対する神のさばきの言葉と、悔い改めの勧告。そして、真の悔い改めとは何かということを通して、真の信仰がどのようなものであるかを示しています。

 これはイエスさまの時代にも当てはまりますが、エルサレム神殿の経済的な発展・反映は、必ずしもエルサレムに住む人々に対して幸福をもたらすものとはなりませんでした。

 それどころか、祭司たちによる律法の制定をイザヤ書58章ではそれを「軛(くびき)」というふうに表現し、祭司たちが、その「軛(くびき)」によって、人々を苦しめていることを告発しています。

 もちろん、これこそが祭司たちの罪だというのではなくて、およそ罪にまみれてしまっているエルサレム神殿と祭司たちに対して、「数え上げるとキリがないが、その中でも一つ例として取り上げれば」という前提において、安息日における断食の実施がいかに神の前に罪深いものであり、祭司たちの不正にまみれているかが示されています。

 宗教はとかく形式主義に陥りやすく、実質的なものよりもただその行為、あるいは所作をもって良い信仰と判断したりします。

 「人間はその心の内の思いが行動に出るのであって、悔い改める心があるからこそ、そのように神の前に悔い改めることができる」というのであれば良いでしょう。

 ところが、イザヤ書が指摘するのは、祭司たちがその職業柄、断食をまったくの形骸化、あるいはそれを利用して他人を罪に定め、しかも自分たちはあたかも断食をしなくても、あるいは安息日を大切にしなくても問題ないというような、これ以上はない悪行を行っているという神さまによる罪の告発でありました。

 イエスさまの時代、イエスさまが当時の神殿において、祭司や律法学者たちに対して、まさにあてつけるように「あなたがたは、・・・強盗の巣に」(マタイ21:13)してしまったと糾弾する場面があります。

 祭司や律法学者とは、その実質において神さまにもっとも近い存在でなければならないはずであるのに、彼らこそが、神さまからもっとも遠く離れた存在として、あるいは「神に逆らう者」として告発されているのです。

 そして、それは今日の教会にも当てはまることでしょう。

 牧師は、そういう意味では、教会員の誰よりも自分の罪に対して厳しく、神のみ前にあって罪を悔い改める者であることが求められるのです。

 イザヤ書58章に示される祭司たちの姿は、まさに罪にまみれた教会において、ひたすら私腹を肥やすことを生きがいにする牧師の姿です。

 そして、それはどこか別の教会というのではなく、まさに神さまによって、牧師・永野健一個人が追及されている事柄であるのです。

 教会がまさにイエス・キリストを土台とする教会であるように、牧師に突きつけられている神さまのさばきの御言葉は、それを決して脇へと捨てることなく、真正面から対峙しなければならないのです。

 それでは、以下、本文をみていきます。




1)喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。
2)彼らが日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。
---
 さあ、預言者よ。声の続く限り、喉をからして、エルサレム神殿に仕える祭司たちの背きと罪を告発せよ。
 罪にまみれ、わたしがヤコブに対してあたえたイスラエルの名を取り上げられたヤコブの家、つまり、悪に満ちた祭司たちの巣窟であるエルサレム神殿に対して、大声で、その罪を告発せよ。
 なぜなら、彼ら、すなわち祭司たちが、日々、自身の罪を悔い改め、主なる神を尋ね求め、真実の信仰を望むことができるように。また、隣人に対する愛の実践を行い、神の裁きをないがしろにすることなく、真摯にそれを受け止め、常に、神に近く、神と共にあることを望むことができるようになるためだ。



3)何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。
---
 罪にまみれた祭司たちよ! お前たちの主張はこうだ。すなわち、「神よ、なぜあなたはわたしたちの行う断食を顧みず、このような苦行をしてまで神のみ前に正しくあろうとしているのに、あなたはわたしたちのことを認めてくださらないのか? わたしたちにどんな罪があるというのですか?」と。

 しかし、わたしはお前たちの悪行の一切を知っている。
 まさにお前たちの目で見るがいい。お前たちは断食の日に、断食をせずに思うままに飲み食いし、それどころか、お前たちは自分たちのことはすっかり棚に上げ、他の人たちに対してそのような苦行を強いている。
 

 
4)見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。
5)そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。
---
 さあ、お前たちの罪は火を見るよりも明らかだ。見るが良い。
 お前たちは、神の御前に断食をすると見せかけて、自分たちのうちでは派閥闘争を繰り返し、むしろ、神であるわたしに敵対し、そのこぶしを神であるわたしに対して向けている。
 そのような、お前たちがやっている形だけの断食に一体なんの意味があるのか? そのような断食であれば、お前たちの声が天上で聞かれることはないであろう。

 お前たちの言う断食とは一体何か? そんなものがわたしが示した断食だとでもいうのか? そもそも断食とは苦行を行うことなのか?
 お前たちの言う断食とはこうだ。すなわち葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと。
 それをお前は断食と呼び、それを行うことが主に喜ばれる日とでも呼ぶのか?


 
6)わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
7)更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
8)そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
---
 なんと愚かしいことか! わたしの選ぶ断食とはまさにこれだ!
 すなわち、ただ形だけ食事を断つことではなく、その実質において、お前たちが悪の誘惑から遠ざかり、お前たちが隣人に対して課している「律法」という名の軛から彼らを解放し、お前たちが定めたところの「律法」をすべて廃止することだ。
 そして、そのようにした上で、飢えている人に対しておまえのパンを分けてあげるがよい。また、街中をさまよう貧しい人を見かければ、その人をお前の家に招きいれて食事を与え、もし、裸の人を見かければ、お前の衣服を着せてやるがよい。また、同胞に対してお前は助けを惜しむようなことがあってはならない。

 もし、お前がそのように普段から実践するのであれば、まさに、その断食はおまえにとっての光となり、それはお前の引き受けた傷を速やかにいやし、お前の人生を正しい方向へと先導し、その背後からは、主なる神であるわたしの栄光がお前を守ることであろう。



9)あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら
10)飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
---
 エルサレム神殿に仕える罪深い祭司たちよ。お前たちは、主なるわたしに対して、「いくら呼びかけても、答えてくれない。神は、わたしたちの正義を無視している。」と言う。
 しかし、そうではない。お前がわたしを呼ぶのであれば、わたしはその呼びかけに応え、お前がわたしを呼んで叫ぶのであれば、「わたしはここにいる」と応えるであろう。
 もし、お前たちが真にわたしを呼び求めるのであれば、お前の隣人に対して、律法を守ることを押し付けるようなことは止めよ。そして、それを守ることのできなかった人を指差し、罪人に定めることも止めよ。そして、そのような人に対して、呪いの言葉をもって虐げることを止めよ。そういったことをお前の中からすべて取り去ってしまうのであれば、わたしは喜んでお前に応えよう。
 そして、飢えている人に常に心を配り、苦しめられている人たちをその苦しみから解放するのであれば、まさにそれこそが正しい信仰であり、その信仰の光はこの世の闇の中で輝き出で、今、あなたを包んでいるお前自身の罪による闇はすっかりなくなり、真昼のようにお前は神の正義を輝かすようになるであろう。
 



11)主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
12)人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
---
 主なる神の正義をお前がその身にまとうのであれば、その正義は、あなたを導き、まさに砂漠におけるオアシスのように、その湛える命の水によってお前の渇きをいやし、外面的な力ではなく、お前の内なる力となってお前を元気付けることであろう。そのような、正しい信仰に立つのであれば、まさに神の祝福によって、お前は砂漠におけるオアシスのように、神の恵みによって豊かに潤された園となり、またその泉は決して涸れることがないであろう。
 さあ、そのような人々がエルサレムの町に増えるのであれば、人々は廃墟となったエルサレムの町を再び築き直し、エルサレムの基礎を正しく据え直すことであろう。多くの人は、彼らを「城壁の破れを直す者」と呼び、「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶようになるであろう。
 


13)安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら
14)そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される。
---
 だからこそ、今こそ聞け、エルサレムの祭司たちよ。主なる神がこう宣言される。
 安息日に主を礼拝することなく自分勝手に振舞うことを止めよ。
 誘惑に囚われることなく、安息日を喜びの日と呼び、主の聖なる礼拝を尊ぶべき日であると尊重せよ。
 今お前がやっている罪をことごとく悔い改め、主なる神のみ前に正しく歩むのであれば、そのとき、まさにお前たちは主を喜びとすることができるであろう。
 そのとき、わたしはお前たちにエルサレムの聖なる高台、つまりエルサレムを支配させ、お前たちの父祖ヤコブに対してわたしがあたえた嗣業、つまり「イスラエル」という聖なる名をお前たちに享受させようではないか。 

イザヤ書 57章

 イザヤ書57章の主な内容は2つ。ひとつは、前半部分の偶像を崇拝するようになった広義ではイスラエル人、狭義にはエルサレム神殿の祭司たちに対する裁きの言葉と、そこにあって主なる神により頼む人に対して、こよなく慈しみをもって働かれる神の臨在を示す内容となっています。

 そして、これら二つの事柄が指し示すのは、「正しい信仰とは何か?」ということです。

 この問いについてのイザヤ書の答えは簡単で、主なる神のみ前に「自分の罪を悔い改める」ことだけです。

 つまり、自分の罪を告白し、その罪を赦していただくことにおいて、神は、その人の神となり、その罪を赦していただくという出来事を通して、その人は神の民とされるのです。

 つまり、「神を礼拝する」とは、まさに「自分の罪を神の前で告白する」ことであって、それ以外の何ものでもありません。

 ヨハネによる福音書13章8節、『ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

 わたしたちとイエス・キリストとの関係は、唯一、このイエスさまの「洗う」という行為によって。つまり、イエスさまに対して自分の罪を告白し、その罪を赦してもらうというその関係以外にはないのです。

 その意味で、イエスさまの示された信仰は、非常にイザヤ書と共通する点が多いです。

 加えて、その背景となっているエルサレム神殿の組織、体制なんかも共通しています。

 ヨハネによる福音書2章14~16節
14)そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
15)イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
16)鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 

 ここでイエスさまはエルサレム神殿の境内で商売している人たちを追い出しますが、イエスさまが告発しているのは、そういった直接商売をしている人たちではなく、むしろ、そういう人たちに対して「境内で商売することを許可している人たち」である点に注意しなければなりません。

 もちろん、エルサレム神殿の境内で商売することを許しているのは、他の誰でもない神殿に仕える祭司たちです。(マタイ21:13「そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」)

 つまり、イザヤ書57章で言われている「姦淫」とは、たとえば、バアル神やアシェラ神(女神)といった豊穣の神を崇拝することや、あるいは途中に示されているモレク神崇拝を指しており、「姦淫の女」とは、エルサレム(およびエルサレム神殿)。そして、「姦淫の子/子孫」とは、そういった異教の神を崇拝する神殿に仕える神官や司祭といった当時の宗教的指導者たちを指しているのです。



 さて、バアル神やアシェラ神、あるいはモレク神を崇拝することがなぜいけないのか?

 まあ、その理由としては、ごく基本的なところで言えば、イザヤ書において、世界に神という存在は唯一ですので、それ以外は神ではないという説明ですが、バアル神やアシェラ神は豊穣の神であって、これが非難される理由は、ひとつには祭儀が人間の性行為と結びつくことについての問題であるのと、なぜそういった性行為と結びつくことが悪いのかというと、それは人間の性行為を軽んずる、つまり、人間を軽視する行為となるからです。

 直接、イザヤ書とは関係ありませんが、出エジプト記において、モーセがシナイ山にひとりで登って神に会見する時に、そのふもとに残された人たちが、アロンに詰め寄り、金の子牛の像を作って大騒ぎをしていたという出来事が記されています。

 この金の子牛は、それ自体が神だというのではなくて、それは神の座る台座であって、人がその神輿を担いで大騒ぎをして、その台座の上に、神を呼び出そうという行為であるのです。そして、神が性的に興奮するように、人間が性行為をしてみせるわけです。(ただ、まあ根拠はないでしょうが。)
 そして、バアル神は男の神としてデザインされ、そのシンボルが男根をモチーフとしていたということもあります。そして、それと対をなすように、もともとはまったく別個の神でしたが、アシェラ神という女神が一組にして、エルサレムで信仰されたわけです。

 また、もう一つ出てくるモレク神ですが、これは人間の子どもの命を犠牲にすることによって、願いをかなえてくれる神で、これもレビ記などを見ますと、強烈に排斥されている異教であることがわかります。なぜ、モレク神を崇拝することがだめなのかは、子どもを生贄にする宗教だからです。

 レビ記20章2~3節
2)イスラエルの人々にこう言いなさい。イスラエルの人々であれ、イスラエルに寄留する者であれ、そのうちのだれであっても、自分の子をモレク神にささげる者は、必ず死刑に処せられる。国の民は彼を石で打ち殺す。
3)わたしは、その者にわたしの顔を向け、民の中から断つ。自分の子をモレク神にささげ、わたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を冒涜したからである。


 イスラエルの歴史に登場する人物で、ソロモン王と言えば、聖書で大岡裁き(二人の母親の難題をその知恵で解決した)をやった話で有名ですが、そのソロモン王は非常に奥さんが多かったことでも有名です。

 列王記上11章1~7節
1)ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。
2)これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」と仰せになったが、ソロモンは彼女たちを愛してそのとり
3)彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。
4)ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。
5)ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべき神ミルコムに従った。
6)ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。
7)そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした
 
 ソロモン王が奥さんが多かったとは、別に「女好きだった」ということではありません。
 イスラエルの位置は、周りを大国にはさまれ、しかもイスラエルの近隣は小国家が乱立する状況にありました。常に、国境が侵犯される恐れがあり、他国の侵入から自国を守るための優れた政治手腕が必要とされていたのです。

  ソロモン王が採った手法は、ひとことで言えば「政略結婚」です。相手国の王女を王宮に迎え入れることによって、要は相手国から侵略戦争を仕掛けてこれないように人質をとった形にしたのです。

 しかし、この政策もあいまって、ソロモン王の時代に、イスラエルは最大版図を得ることができます。そして、経済的にも非常に発展するのですが、そういう政略結婚のしわ寄せとして、外国の宗教を公に入れざるを得なかったのです。

 ソロモン王は見た目上、繁栄と平和を実現しましたが、その繁栄と平和は、まさに砂上の楼閣であったのです。

 イスラエルの信仰において、ソロモン王は外国の宗教祭儀を導入しました。そして、それが後々まで尾を引くことになったのです。(列王記では、結局、南北王朝分裂とその後のイスラエルの滅亡をソロモンの罪と見ています。)

 そして、そういったイスラエルの罪について、神さまによる裁きと、バビロン捕囚の期間における神の沈黙が続きます。そして、ついには解放の時が訪れ、苦難の僕のとりなしによって、イスラエルの罪は赦されことになったのです。


 さて、こうして見てきますと、イザヤ書57章で告発されるエルサレム神殿の宗教指導者たちの姿は、まさに、今の教会に対する警告であると思います。実に興味深いことに、神さまは、信仰者でない人に対しては非常に優しいのですが、こと信仰者にして意図的に神に逆らう者に対しては非常に厳しいのです。

 教会は、既にこの神を知っているという責任において、わたしたちクリスチャンは、他宗教の人たちのことよりも、むしろ自分と神との関係において襟を正さなければならないのです。

 結果として教会が祝され大きくなることは良いことですが、教会は「大きくなること」を目標に掲げてはならないのです。

 教会の宣教の業は、「信徒数を増やすためではない」という点が常に意識され、守られない限り、ともすると、イエスさまの言われるように教会がまさに「強盗の巣」になってしまうのです。

 その意味で、聖書の言葉に真摯に耳を傾ける必要が教会にはあるのです。


 前置きが長くなりましたが、以下、本文を見ていきます。
 
ーーー
1)神に従ったあの人は失われたが/だれひとり心にかけなかった。神の慈しみに生きる人々が取り去られても/気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。
2)しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う。
---
 ああ、誰が知るだろうか? 神に従った、あの苦難の僕の命は失われたが、だれひとり、彼の死を心にかけることはなかった。神の慈しみに生きる人々の命がこの世から取り去られても、それに気づく者はいない。
 なんと、悲しいことか! 神に従ったあの苦難の僕は、イスラエルの罪を一身に背負い、まさにその苦難にさいなまれて地上から取り去られた。
 しかし、まさにそのことを通して、イスラエルの上に平和が訪れるのだ。その真実に歩む人は、その平和のうちに横たわって憩うことであろう。




3)お前たち、女まじない師の子らよ/姦淫する男と淫行の女との子孫よ/ここに近づくがよい。
4)お前たちは誰を快楽の相手とするのか。誰に向かって大口を開き、舌を出すのか。お前たちは背きの罪が産んだ子ら/偽りの子孫ではないか。
5)大木の陰、すべての茂る木の下で身を焦がし/谷間や岩の裂け目で子供を屠る者らではないか。
---
 さあ、エルサレム神殿に仕える祭司たちよ。もとい、神に仕えるどころか忌まわしきまじない師の子らよ。
 真の夫である主なる神を離れ、他の男神と淫行にふけった母、エルサレムの子孫たちよ。
 今、ここにやって来るがよい。主なる神の裁きの座に!

 お前たちは、いったい誰と一緒になることを喜びとするのか? いったい、誰に向かって嘲って見せるのか?
 お前たちが喜ぶのは、まさに異教の神。お前たちが嘲るのは主なる神であるわたしだ。
 だとすれば、お前たちはまさに、主なる神であるわたしに対する背きの罪が産んだ子ども、偽りの子孫ではないか!

 お前たちは、バアル神やアシェラ神のもとでその身を焦がし、谷間や岩の裂け目で、子どもを生贄にするモレク神を崇拝する者たちではないか!



6)お前は谷間の滑らかな岩を自分の分とし/彼らを自分の運命とし/それらにぶどう酒を注ぎ/穀物の献げ物をささげた。わたしがそれらを容赦すると思うのか。
7)高い山の上に、お前は床を設け/そこにも上っていけにえをささげた。
8)お前は扉と門柱の後ろにお前の像を置き/わたしに背いて裸になり/床を広くしてそこに上り/彼らと契約を交わし/床を共にすることを愛し、そのしるしを見た。
---
 お前は、豊穣の神像のたわわな胸を自分たちのものとし、それらと自分の運命を共にした。
 それらの偶像にぶどう酒を注ぎ、穀物のささげ物をし、偶像を崇拝した。
 さあ、答えて見よ。わたしがお前たちのその行いを容赦すると思うのか?

 それだけではない。聖なる高い山の上に、お前は寝床を設け、そこでも偶像に生贄をささげた。
 それどころか、お前は、わたしに見えないように、扉と門柱の後ろ、外から見えないところにバアルの偶像を置き、主なるわたしに背いて裸になり、そこにおいてバアルと契約を交わし、その寝床を共にすることを愛し、バアルの男根を見た。


 
9)お前は油を携えてメレク神のもとに足を運び/多くの香料をささげた。遠く使いを送り、陰府にまで下って行かせた。
10)お前は長い道のりに疲れても/もうだめだとは言わず/手の力を回復し、弱ることはなかった。
11)誰におびえ、誰を恐れて、お前は欺くのか。お前はわたしを心に留めず/心にかけることもしなかった。わたしがとこしえに沈黙していると思って/わたしを畏れないのか。
---
 しかも、それだけではなく。お前は香油を携えて王であるモレク神のもとに足を運び、多くの高価な香料をささげた。おまけに、遠く、死者の国にまで、お前は子どもを行かせたではないか。
 お前はモレクを崇拝するために長い道のりに疲れても、もうだめだとは言わず、そこから手の力を回復し、弱ることはなかったが、わたしに対して、そのようにしたことが一度でもあっただろうか?
 いったい、お前は誰におびえ、誰を恐れて、欺くのか?
 お前は、主なる神であるわたしを心に留めることなく、少しも心にかけなかった。
 さては、わたしがとこしえに沈黙しているとでも思っていたのか?



12)わたしが述べてみよう、お前の言い分/お前の造ったものどもを。お前にとって、それらは何の役にも立たない。
13)助けを求めて叫んでも/お前の偶像の一群はお前を救いはしない。風がそれらすべてを巻き上げ/ひと息でそれらを吹き去るであろう。わたしに身を寄せる者がこの地を嗣業とし/わたしの聖なる山を継ぐであろう。
---
 さあ、反論すべきことがあれば言ってみよ。(もちろん無駄だろうが。)
 お前が一言も返せないのであれば、わたしがお前の代わりに、お前の言い分を述べてやろう。
 あるいは、お前の造った偶像どもの言葉を。

 しかし、それはお前に何の役にも立たない。
 お前がいくら助けを求めて叫んでも、お前の神々の偶像の一群は、その数が多いにも関わらず決してお前を救うことはない。主なるわたしが風を起こせば、すべてを巻き上げ、わたしの一息で、それらは消し去られよう。

 そうして、聖なるわたしに身を寄せる者のみが、このエルサレムを嗣業として受け継ぎ、わたしの聖なるシオンの山を引き継ぐことになるだろう。




14)主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
15)高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
16)わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。
---
 今こそ、主なる神は言われる。
 「盛り上げよ。土を盛り上げて道を整えよ。
 わたしの民の道から、つまずきとなるそれらの偶像を取り除け」と。

 天高くあがめられ、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方、すなわち主なる神がこう言われる。
 「わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にある。
 そして、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に、命を得させる。
 わたしは、とこしえに責めるものではない。
 また、永遠に怒りを燃やすものでもない。
 わたしは、お前たちを創造した。お前たちの内にあるわたしの霊が、わたしの前で弱り果てることがないように、わたしはお前たちをいやす」と。
 

 
17)貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。
18)わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために
19)わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
---
 「貪欲なイスラエルの罪をわたしは怒り、アッシリアとバビロンをもってイスラエルを滅ぼした。
 そして、バビロン捕囚の間、わたしはイスラエルの前から姿を隠した。
 その結果、イスラエルはわたしに対して背き続け、彼らは自分たちの勝手に歩んだ。
 そして、わたしは罪によって打ちひしがれる彼らのその歩みを見た。
 今こそ、わたしはイスラエルをいやし、休ませ、慰めをもって彼らを回復させよう。
 しかし、それは決して、イスラエルのためではない。
 むしろ、彼らの内にある主なるわたしの前に嘆き苦しむ人々のためであることを心せよ!

 今こそ、わたしは唇の実りである、言葉によって創造し与えよう。
 それは「平和」、「平和」だ!
 それを遠くにいる者にも、また近くにいる者にも、等しく与えよう。
 わたしはイスラエルをいやす」と、主なる神は言われる。



20)神に逆らう者は巻き上がる海のようで/静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。
21)神に逆らう者に平和はないと/わたしの神は言われる。
---
 しかし、今こそ、心せよ! エルサレム神殿に仕える祭司たちよ!
 「お前たち、主なる神であるわたしに逆らう者は、まさに荒れ狂う海のようで、お前たちに平和を与えることはできない。
 お前たちは、その罪によって、罪の報いをその身に受けるであろう。「自分たちこそ神によって救われるのだ」などと、決して思うな!
 それゆえ、主なる神にであるわたしに、逆らう お前たちに、主なるわたしの平和はない」と、主なる神は言われる。

イザヤ書 56章

 イザヤ書56章から最後の66章までが、いわゆる第3イザヤと呼ばれる範囲で、内容的に第1イザヤが、紀元前740年から700年ごろにかけての南ユダ王国における歴史状況とそこにおける預言者イザヤの活動を記しているのに対して、第3イザヤと呼ばれる範囲は、主に紀元前538年ごろに起こったペルシャ帝国キュロス王による、バビロン捕囚の解放の出来事と、キュロス王によるエルサレム帰還・エルサレム神殿再建命令以後、厳密にはその時代というよりも、イスラエルの将来に対する神の救いの御言葉を記している点にあります。

 そして、いわゆる「イスラエル民族の救済」ではなく、それも含めて「人類の救済」である点を強調することにおいて、世界宗教としての萌芽を垣間見ることができます。

 加えて、申命記に特徴的な、聖なるイスラエル民族・特定宗教国家の救済の信仰を否定する点において、興味深い箇所でもあります。

 さて、では、イザヤ書56章の内容について言えば、全体として語られているのは、申命記における律法遵守による救済を否定すると共に、真の神信仰において、すべての人が神の救済の内に招かれているという福音的メッセージと、「律法遵守こそ救いの要」だと信じている当時のユダヤ教の祭司たちや当時のエルサレム神殿に仕える人たちに対する痛烈な批判です。

 イザヤ書56章9節以降のところで記されていますが、当時の神殿に仕える祭司たちが、従うべき神の御言葉に従うことをせず、かえって私腹を肥やすために人々から搾取を行い、悪を行っていたことが記されています。間近に迫った神の裁きにまったく気づくことなく、毎日酒に酔いしれ惰眠をむさぼっていると、また神の言葉として「この犬ども」と、非常に強烈な祭司批判となっています。

 加えて、それと対比されるように、異邦人・宦官という、申命記においては神の救済に与るための必要条件的な「主の会衆」に加わることのできないとされていた人たちに対する、神さまからの直接的な招きの言葉が記されています。

 具体的には、申命記23章2~4節に以下のように記されています。
 2)睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。
 3)混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。
 4)アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。

 2節にある「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者」は宦官のことで、「混血の人」はおそらく他所の地域に住み着いて、その土地の人たちと結婚してできた子どもたちを指すと思いますが、後の時代的にはサマリア人(もともと北イスラエルの国民であったのが、アッシリアの強制移住政策によって他地域の人たちとの混血が起こった)を言っているかも知れません(ただ、そうなると申命記が書かれたのは第二神殿の時代というふうになりますが・・・)。

 つまり、律法を基礎とするユダヤ教において、救いに与ることができないはずの人たちに対して、神さまからの直接的な招きの言葉が記されていると共に、本来、救いに与ることが確定しているはずのユダヤ教の祭司たちに対する滅びが記されているのです。

 それは、今日の教会に対して語られている言葉としてみる時に、祭司の立場にある牧師としては、非常に気をつけなければならないことであると思います。

 それは、牧師にとって酒を飲むことが罪だというようなことではなく、もっと信仰の本質として、教会は神の御心を行っているか、そのために牧師は神の御心を常に求めているか、神の御心に対して目を覚ましているかという問いです。

 教会に多くの人が集い賑わう事はあくまで結果として与えられることであって、牧師の働きの第一目標は宗教団体としての営業利益・営業収益ではないということです。

 マタイ10章8節にイエスさまのことばで「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とあります。まさに、そういうことに徹することができるかが信仰の要であるのです。(たとえば、神の御業であるのに、人間がそれに対して代価を設定するような行為がイザヤ書56章では言われています。)

 そういう意味では、教会が貧しい時は何も恐れる必要はなく、むしろ教会に多くの人が集い多くの献金が奉げられるような時こそ、注意が必要であるというわけです。

 そういうわけで、自戒しつつ、以下、本文をみていきます。



1)主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
2)いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。
3)主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
---
 主なる神はこう言われる。
 「わたしの正義を守り、隣人に対して恵みの業を行え。なぜなら、わたしの救いの業が今こそ実現が間近となったからだ。」

 どんなに幸せなことであろうか、このように行う人は。またそれを固く守る人は。
 つまり、安息日を守り、神を礼拝することをして、神の御名を汚すことのない人は。つまり、自分の行いを神の正義によってはかり、常に自戒して、悪から離れる人は。

 主なる神を礼拝しようと各地より集まってきた異邦人は次のように言ってはならない。
 「主なる神は、イスラエルの民と異邦人をその救いにおいて区別される」と。

 宦官も言うな。
 「わたしたを見るがいい。わたしは子どもをつくることができない人間だ。まるで枯れ木と同じだ」と。




4)なぜなら、主はこう言われる/宦官が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るなら
5)わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。
6)また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
7)わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
8)追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。
---
 なぜなら、主なる神はこう言われるからだ。
 「宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むこと、つまり、神の正義と慈善を行うことを選び、それによってわたしの契約を固く守るならば、わたしはお前たちのために、とこしえの名を与えよう。それは、人が息子、娘を持つにまさる記念の名であって、それをわたしの家であるエルサレムの城壁に刻みつけよう。そして、その名は決して地上から消し去られることはない」と。

 「また、異邦人たちが、主なる神であるわたしの下に集い、わたしを正しく信仰するのであれば、わたしは彼らを、聖なるエルサレムの神殿に招き、わたしの祈りの家の喜びの祝福に連なることを許す。わたしは、エルサレムの祭司たちが奉げるいけにえを先に拒んだ(イザヤ1章)が、彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、今度は、わたしはそれを受け入れよう。なぜなら、わたしの家は、地上におけるすべての民の祈りの家と呼ばれるからである」と。

 そして、バビロン捕囚によって各地に散らされたイスラエルをその救いに招かれるイスラエルの聖なる方である主なる神は、こう言われる。
 「わたしは、既にわたしの救いに招き集められた者たちだけでなく、そこに更に加えて、お前たちをそこに招きいれよう。しかも、更に、それらに加えて招きいれよう」と。 




9)野のすべての獣よ、森のすべての獣よ/食べに来るがよい。
10)見張りはだれも、見る力がなく、何も知らない。口を閉ざされた犬で、ほえることができない。伏してうたたねし、眠ることを愛する。
11)この犬どもは強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず/それぞれ自分の好む道に向かい/自分の利益を追い求める者ばかりだ。
12)「さあ、酒を手に入れよう。強い酒を浴びるように飲もう。明日も今日と同じこと。いや、もっとすばらしいにちがいない。」
---
 しかし、エルサレム神殿に仕える祭司たちよ。お前たちは覚悟するがよい。
 主なる神は言われる。
 「さあ、野のすべての獣たちよ、森に住むすべての獣たちよ。お前たちに餌食を与えるから、食べに来るがよい。
 エルサレムを信仰において見張る役目である祭司たちは、だれも神の御心を見る力がなく、何も知らない。
 まさに、番犬に例えるのであれば、口を閉ざされた犬と同じで、彼らは吠えることができず、番犬としての働きを行うことができない。しかも、それどころか、伏してうたたねをしては、眠ることを愛している。
 この犬ども、つまり、エルサレムの祭司たちは強欲でその自分の欲に飽きることを知らない。
 彼らは自分たちが神の御前にあって、羊飼いとして立てられているにもかかわらず、その役割をまったく自覚せず、それぞれ自分の思うままに立ち居振る舞い、私腹を肥やすことに限って熱心である者たちばかりだ。
 彼らは、間近に迫った神の裁きを悟らず、自分たちの身の滅びがそこまで来ていることを知らない。なんと、おろかなことか。
 祭司たちは言う。
 「さあ、酒を手に入れよう。それも強い酒を浴びるように飲もうではないか。
 明日も今日と同じに違いない。いや、わたしたちにとってもっとすばらしいに違いない」と。
 なんと、おろかなことか。

  
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