申命記

「 今、働かれる神 」 申命記26章1~11節

「 今、働かれる神 」 申命記26章1~11節
~収穫感謝日礼拝にて~

申命記26章1~11節
 あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。
 あなたは、そのとき任に就いている祭司のもとに行き、「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と言いなさい。
 祭司はあなたの手から籠を受け取って、あなたの神、主の祭壇の前に供える。
 あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。
 エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。
 わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。
 わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。




【 概 説 】

 今日、プロテスタント教会で守られている収穫感謝日礼拝は、もともとの起源が清教徒革命後にアメリカに渡った清教徒の人たちが、アメリカに上陸してそこで非常に厳しい生活状況であったのがインデアンの人たちの助力を得て、無事に一年を経ることができたことを感謝したのがルーツとなっています。
 後に、リンカーンがアメリカ大統領であった時に11月の第4木曜日を祭日に制定したという経緯があります。

 そういうことがあって、プロテスタント教会では11月の最後の日曜日(2006年では11月26日)が収穫感謝日礼拝というふうに礼拝を守るところが多いのではないかと思います。


~~~ 注 ~~~
 もともと「教会暦」とはカトリック教会で作り出されたもので、プロテスタント教会は「教会暦」を持ちません。ただ、それでもクリスマスやイースターをプロテスタント教会が独自に定めるわけにもいきませんので、今日ではカトリック教会の「教会暦」を基本にして、教団として独自に定めるもの、あるいは教会が独自に定めるものなど様々なタイプが混在しています。
 藤沢ナザレン教会の「教会暦」はカトリック教会・聖公会のものをベースにして藤沢ナザレン教会独自のものとなっています。
 あと、補足すれば、ナザレン教団の「教会暦」というのも実は存在しません。
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【 収穫感謝礼拝は農業祭? 】

 収穫感謝祭というと、日本で言うところの新嘗祭のようなものを連想しますが、この申命記で言われている事は若干、何に感謝しているのかそのポイントが少し違うことに気づくのではないかと思います。

 「収穫感謝」というと「その年の農作物の収穫に対する感謝」というふうに誰でも考えると思いますが、考えてみれば分かりますが、教会は別に農業を営んでいるわけではありません。

 先ほどの清教徒のケースがそうなのですが、今でこそ、教会に来ている人の職業は多種多様ですが、当時としてはみんなが生きるためには自分たちの日ごとの食料を確保することが最優先事項でありました。

 その意味で、形式としては「収穫感謝」でありますが、もちろん農業以外に七面鳥のような動物の狩猟を行ったり、その他にも生きていくための様々な営みを行っておられ、それらすべての「収穫物」に対する「感謝」を神さまに行ったという事なのです。

 つまり、一見「農業祭」のようですが本質的には「一年の生活を守られた事に対する神さまへの感謝の祭り」なのです。

 先ほどの申命記で書かれている事柄は、「地の実りの初物」を祭壇の前に供えるわけですが、別に神さまがこれを食べるという事ではありません。

 言い換えるなら、「報告書」みたいなもので、「実際、このような収穫がありました。」ということを神さまと自分たちの前に示して、「神さまが、確かにこの一年間を守り祝して下さったのだ」ということを告白すると共に、その事に感謝をしたのです。



【 神は、今働かれる方である。 】

 神さまは、わたしたちに対して時々に働かれるのかというとそうではありません。

 旧約聖書で幾つか見かけるみ言葉に「わたしは必ずあなたと共にある。」というものがあります。

 つまり日本の神社のように、わたしたちが神さまのところまで出向いて、鈴をならして呼んではじめて、わたしたちの祈りに耳を傾けるというのではなくて、日々わたしたちと共にあって守り祝しておられるのだというメッセージが基本としてあります。

 そこで日々の神さまの守りとは、わたしたちにとってあまりにも身近で、気づきにくいところに働かれるので、わたしたちは守られている事に気づきにくいのです。

 例えば、「病気になったが奇跡的に病気が治った。」という事が何度もあれば、わたしたちは神さまによって守られていることを実感するでしょうが、「この一年、幸いにも病気にならずに済んだ。」というのであれば、本当に神さまが守って下さったのか、実感は起こらないと思います。

 しかし、だからと言って自分が病気にならなかったのは、自分の日ごろの健康に対する注意があったからこそで、神さまは何もしなかったのだ、という結論になるのかと言えば、なかなかそうも言えないのではないでしょうか。

 なぜなら、幾ら注意していても体調を崩す時は体調を崩しますし、病気になるときには病気になるからです。


 教会では神さまによって一年間の歩みを守られた事を、いつ感謝をするのか。

 週ごとの礼拝でもそのことは感謝しますが、やはり一年間の歩みをどこかで区切り、新しい一年間の歩みが、やはり神さまによって守られるように祈る時がわたしたちには必要なのです。

 その意味で、日本で1年の終わりは12月31日の大晦日ですが、教会暦で大晦日に当たるのが、この収穫感謝日礼拝であるのです。


 名称としては「収穫感謝」ですがその本質的なところは、一年の歩みにおいて、神さまが守り祝してくださった事に対する感謝と、これからも神さまが共にあって守り祝してくださいますように、という祈りなわけです。

旧約聖書に見る王様の地位

旧約聖書に見る王様の地位


 およそ古代社会において、王とは神と等しい存在だと思われていました。その事は、イスラエル民族と同時代にあった、エジプトやバビロニア、アッシリアなどを思い起こせばよく分かると思います。

 王とは「神の子ども」あるいは、まさに「神」であって、その権力は絶対的なものでありました。まあ、難しい言い方をすれば絶対君主制国家とでも表現できるのかも知れませんが、聖書の視点に立つと、王様とは、現代のわたしたちが思うよりもかなり制限の多い存在であることが分かります。


 今回は、そんな旧約聖書の示す王さまについて見ていきたいと思います。

 

【 聖書に見る王のあるべき姿 】


【申命記17章14~20節】
 あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言うならば、
 必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。
 王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。
 王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。
 彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、
 それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。
 そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。



 申命記の「申命」とは「重ねて命じる」というような意味があり、神さまがモーセを立てて、エジプトから導き出したというようなイスラエル民族の歴史を振り返ると共に、モーセを通して示された、様々な律法(生活の上でのルール他)や決まりごとが記されています。

 イスラエル民族は元々、部族社会を形成していましたが、歴史の中でどんどん人口を増やしていき、王政国家に変わっていきます。

 イスラエル民族を取り巻くのは、先進大国であったエジプトをはじめ、バビロニア、アッシリアといった列強の国家であって、しかも絶対君主制をとるケースがほとんどでした。

 そういった、まわりを先進国に囲まれて成長したイスラエル民族にとって、「王政国家」とは、そういった列強国の仲間入りをすることを意味し、「いつかは自分たちも、王を頂点とした一人前の国家になりたい!」という願いがあったわけです。

 まあ、そんな状況にあって、上記の聖書箇所を見ると、王様についてエジプトのファラオなどとは大きく異なる事が分かります。



【 これって本当に王さま? 】

 先ほどの聖書箇所からみた王様としての制約は以下のとおりです。


1)主(神さま)によって選ばれた人でないとダメ。
2)同じ民族でないとダメ。(例え、能力的に優れていても外国人選手は不採用!)
3)勝手に軍事力を増強してはダメ。
4)複数の妻や愛人を抱えてはいけない。(奥さんは一人だけ!)
5)必要以上のお金を貯めてはいけない。
6)常に聖書の先生を側において、その意見に耳を傾けるように!(自分勝手はダメ!)


 そして、上記のことをしっかりと守るのであれば、イスラエルの王さまとして長く王位を保つことができますよ、というわけです。


 さあ、皆さんはこれを見て、イスラエルの王さまが、エジプトのファラオですとか、その他の国々の王さまと比べて、非常に制約が大きいと思われるのではないでしょうか。

 またこれって逆を言えば、それ以外の国の王さまは上記の決まりの逆をやってるぞ、という事なんですね。(もちろん、イスラエルの人たちが歴史的に、国がどのようにして滅びるのかという事に対して、非常に良く観察をしている事も伺えると思います。)

 あと、その理由を少し書いてみようと思います。
 

【 なぜ、王は同じ民族から選らばなければならないか? 】

 元々イスラエル民族は遊牧民であったために自前の国土を持ちません。そのため、民族・国家としてのアイデンティティは国土以外のものに求めなければなりませんでした。その自分たち民族・国家のアイデンティティになるのが、一つはユダヤ教(及び、聖書)。それに加えて、民族(血族)という事になるわけです。
 実は、わたしたちが思っている以上に、古代世界では人の行き来があって、結果として様々な混血がおこっていました。そうすると、国土を持たない民族が、自分たちの民族のアイデンティティを確保するには、混血が起こらないようにすることが重要になってくるのです。(聖書の中では、宗教改革として混血を禁じる命令が出されたことが記録されています。また、食物規定といったものもその一端を担っていました。)
 あと、他にも色々と理由を挙げることもできると思いますが、そういうような状況があるものですから、「王さまは自分たちの民族から」、という事が言われても不思議はないのです。



【 なぜ、勝手に軍事力を増強してはならないのか? 】
 
 聖書の本文中「馬」とありましたが、これはもちろんペットや家畜ではなく、当時は兵器でした。(牛や羊じゃあ、戦争になりませんものね。)

 ですから「馬を増やす」とは、要は「富国強兵」の一歩という事であって、世の東西を問わず昔からそのように実行されてきました。
 誰でも王さまになった人は必ず自分の力によって大国になることを夢に見ました。しかし、同時に富国強兵・侵略戦争を繰り返すことによって、段々と国が疲弊し、滅亡への道を歩んだ国は少なくありません。そういった「富国強兵」による弊害に対する警鐘を鳴らすのに加えて、旧約聖書で神さまは社会的な弱者に対しての配慮を常に忘れません。
 戦争で真っ先に血を流すのは、兵隊として徴用される社会的な地位の低い人たちであって王さまではありません。(最終的には王さまも血を流すことがありますが。)だからこそ、王の権限によって勝手に戦争を起こし、そういった人たちの血が流される事に対して神さまは容赦しないのです。
 
 

【 なぜ、複数の妻や愛人を持ってはいけないのか? 】

 王さまであれば、奥さんの一人や二人は当たり前というのが、聖書に出てくる世界での常識でした。権力にものを言わせて自分の欲望を満たすためというのも一つの理由ですが、他の理由として、「政略結婚」という事がありました。つまり、国と国とが平和条約を結ぶに当たって、王さま同士が自分たちの娘・息子同士を結婚させたり、あるいは自分がお嫁さんをもらったりという事が普通に行われていたのです。もちろん、これはなるべく戦争を回避し、平和裏に国と国との関係を築こうという昔の人の知恵かも知れません。
 ただ、聖書を見ますと、イスラエルの王さまが外国人の妻を迎え入れたところ、同時に外国の神さままで導入し、結果として神の裁きを招いたという事が記録されています。

 まあ、あとは王さまはちゃんと王さまとしての仕事をしろという事でしょうかね?。(複数の奥さんといちゃついてばっかりいてはダメという事ですね。)



【 なぜ、必要以上にお金を貯めてはならないのか? 】

 恐らく、災害や飢饉が起こった時などを想定して、外国から食料などを購入するために、必要なお金を貯めるという事については認められるのだと思います。
 しかし、それ以上のお金は貯めてはならないとは、もともと王さまのお金とは言っても、その出処は国民の税金が考えられますから、自分の私利私欲のために、国民が徴税によって苦しむ事に対する、人道的な視点からの戒めだと思います。
 神さまの視点からすれば、国民を虐げるような王さまはあってはならないのです。




【 なぜ、神さまが定めた人? なぜ聖書を? 】

 聖書に書かれている王さまのあり方からすれば、基本的に国の政治のあり方は「政教分離」ではなく「政教一致」です。

 近代的国家の姿として「法治国家」が挙げられますが、ある意味、イスラエル民族の求めた、王さまのあり方は極めて「法治国家」に近いのです。
 その理由として、王さまの権限が、絶対に法(言い換えれば、「聖書」であり「神さま」)を超えるという事がないのです。

 ところが、聖書の世界に登場してくる国家は、その多くが絶対君主制国家であり、基本的にその国の法律もありますが、王さまがその法律を無視したり、変えたりすることが可能なわけです。つまり、王さまが法であり、神であるからです。
 しかし、聖書は、「王さま」というものを、そのような特別な存在として認めていません。

 あくまで、働きとしての「王さま」であって、外国の王さまのように立ち居振舞うことなく、与えられた仕事を忠実に守ることが求められるのです。



【 旧約聖書での王さまは限りなく裁判官に近い 】

 では、そのような幾つもの制約の中で、王さまの大切な仕事とは何かというと、以下のものです。

0)聖書に親しみ、常に正しい信仰であることを心がける。
1)貧しい人や立場の弱い人たちが虐げられていないか、その人たちの人権を守る。
2)国内における人と人との争いの仲介を行う。



 0)としたのは、これはあくまで大前提であるからです。王さまとはあくまで神さまによって導かれ任命された役職であって、その人の才能・功績とは無関係だという事です。だからこそ、王さまは自分が王さまであることを自慢したり、王さまとしての権力を自分勝手に行使したりすることが禁じられているのです。

 1)2)は、国民はあくまで神さまから王さまに対して預かっているものであり、そこにおいて国民を神の導きの下に、正しく導くことが求められます。つまり、誰に対しても公平・公正である事が必要であり、同時に、ひとたび様々な不正・差別行為が行われれば、裁きによって懲罰や補償といったことを速やかに行わなければならないのです。
 このことは法治国家において当たり前の事柄ですが、今日といえども世界を見回すと、賄賂が横行し、裁判の判決がお金によって捻じ曲げられることが多々あります。そういった現状を見ますと、紀元前において、既にそのような法治国家としてのルールが備わっているのは驚きです。

  

 以上、色々と書いてきましたが、今の社会と比べて、はるかにこちらの方が人道的であるように思うのはわたしだけ?
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