聖書のはなし

エレミヤ書 2章

 エレミヤ書2章は、全体としてみれば、イスラエルの偶像崇拝という罪に対する告発です。
それは、世界における正義の審判者としてのイスラエルの隠された罪を白日の下にさらけ出す事と、あと、そこから罪の悔い改めに至ることができるようにという、神の悲痛なる言葉です。

 ここで偶像崇拝が殊更に悪いものとして糾弾されていますが、旧約聖書における偶像崇拝とは、決して、神の民であるイスラエル人に対して、感情的に神が嫉妬しているのではないという理解が大切です。

 本文の最後の方で明らかにされますが、偶像崇拝がそれほどまでに悪とされる理由は、それが神の正義を捻じ曲げるものであり、人を殺すものであるからです。

 では、なぜ偶像崇拝が神の正義を捻じ曲げ、人を殺すものとなるのか?

 それは、まずイスラエルにおいて神は、世界における正義を司る神であるという点にあります。

 本来、人間の救済について、それは本質的に金銭に代えることのできないものです。神の救いは、それにあずかる人を分け隔てしません。つまり、王様であっても、奴隷であっても、イスラエル人であろうがなかろうが、関係ないはずなのです。

 ところが、イスラエル宗教に偶像崇拝が入ってくることによって、神の救いに差別化が起こり始めることになります。
 神殿に対して多額の寄進をする人はより多く救われ、しかし、神殿に献金のできない人は救われない、ということがまかり通るようになってしまったのです。
 エレミヤ書で告発されているバアル神(五穀豊穣の神)は、奉げものが多ければ多いだけ、恵みを返してくれる神でありました。だからこそ、神殿に多額の献金をする人には、その多額の献金に対する見返りを神殿は行い、しかし、その一方で、貧しさのために献金のできない者は救いにすら預かれない、神によって呪われた者となったのです。

 本来、神の救いは、そのような金銭に代えることのできるものではなく、宗教的な修行といった人間的な努力によって代えることもできない、「ただ神がその憐れみによって、その人の罪を赦す」という神の権威であったものを、当時の指導的立場にある人々が自分たちが良い生活をしたいがためにそのように信仰を捻じ曲げ、神殿や社会がそこに住む人々を食い物にしてきたのだという、罪の告白がなされているのです。

 その意味で、本来、そういった誤った信仰ではなく、神の御前にあって神の正義に倣うはずの宗教的指導者たちが、自分たちが神から与えられている本分をわきまえず、むしろ自分たちからそのような悪の道へ走った罪は決して、軽いものではありませんでした。

 その意味で、ここでは、北イスラエルが自分たちの罪によって滅んだことの教訓から、偶像崇拝の悪を学ぶことなく、その裁きによって、自分の罪を深く悔い改めるということのできなかったことに対する失意と、だからこそ、神の裁きを軽く見ることなく、それを真摯に自分たちのこととして受け止めることの大切さがここで言われているのです。

 これは、キリスト教の信仰とも共通しますが、神を信じるとはつまりは神的な存在を拝むことではなく、神の前に自分の罪を悔い改め、そこから真実に生きることこそが、ここで言われている、正しい信仰であるのです。

 その意味で、偶像崇拝とは、別の神の像を拝むという表面的なことよりも、むしろ神の前において自分の罪を認めないということが、まさに神に対して背を向ける行為であり、すなわちそれが偶像崇拝なのです。

 では、そのようなポイントを踏まえつつ、以下、本分をみていきます。




1)主の言葉がわたしに臨んだ。
2)行って、エルサレムの人々に呼びかけ/耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心/花嫁のときの愛/種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。
3)イスラエルは主にささげられたもの/収穫の初穂であった。それを食べる者はみな罰せられ/災いを被った、と主は言われる。
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 預言者エレミヤに対して、ある時、主なる神の言葉が臨んだ。
 「エレミヤよ、さあ、行ってエルサレムの人々に呼びかけ、彼らに神の言葉に対して耳を傾けさせよ。」
 主なる神はこう言われる。
 「わたしは、イスラエルよ、あなたの若い時の真心。つまり、出エジプトでのお前たちの正しい信仰心、まさに、まだお前が花嫁であった時の愛、種の蒔かれることのない土地、つまり荒れ野でのわたしに対する従順を思い起こす。
 当時、イスラエルはまさに主なる神であるわたしに奉げられた、神に対する奉げもの、すなわち収穫の初穂であった。
 もし、諸外国が神に奉げる初穂を侵略するのであれば、それは皆、神によって罰せられ、災いを被ったものだ」と主は言われる。
 


 
4)ヤコブの家よ/イスラエルの家のすべての部族よ/主の言葉を聞け。
5)主はこう言われる。お前たちの先祖は/わたしにどんなおちどがあったので/遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い/空しいものとなってしまった。
6)彼らは尋ねもしなかった。「主はどこにおられるのか/わたしたちをエジプトの地から上らせ/あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地/乾ききった、暗黒の地/だれひとりそこを通らず/人の住まない地に導かれた方は」と。
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 ところが、ヤコブの家よ、神の与えたイスラエルの名前を持つ家のすべての部族よ、今こそ、主なる神の言葉を聞け。主はこう言われる。
 「お前たちの先祖は、主なる神であるわたしにどんな落ち度があったので、偶像を慕い、わたしから遠く離れて行ったのか?
 彼らはまさに空しいものの後を追いかけ、自分たち自身がまさにその空しいものとなってしまった。
 しかも、彼らは誰も尋ねなかった。「わたしたちの主はどこにおられるのか? わたしたちをエジプトの地から救い出し、あの荒れ野、荒涼とした穴だらけの地、乾ききった暗黒の地、だれひとりそこを通る者はおらず、人の住まない地に導かれた方はどこだ?」と。


 
7)わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き/味の良い果物を食べさせた。ところが、お前たちはわたしの土地に入ると/そこを汚し/わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた。
8)祭司たちも尋ねなかった。「主はどこにおられるのか」と。律法を教える人たちはわたしを理解せず/指導者たちはわたしに背き/預言者たちはバアルによって預言し/助けにならぬものの後を追った。
9)それゆえ、わたしはお前たちを/あらためて告発し/また、お前たちの子孫と争うと/主は言われる。
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 「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き、味の良い果物を食べさせた。
 ところが、お前たちはわたしの土地に入ると、そこをお前たちの罪で汚し、わたしが与えた良い土地を、人の住むことのできないような忌まわしい地へとすっかり汚染してしまった。
 本来、そのことにもっとも鋭敏でなければならない祭司たちも尋ねなかった。
 『わたしたちの主はどこにおられるのか?』と。
 律法を教える人たちは、わたしの御心を理解せず、指導者たちは主なる神であるわたしに背き、こともあろうに、預言者たちはバアル神によって預言し、助けにならないものの後をイスラエルは追いかけた。
 それゆえ、わたしはイスラエルよ、お前たちをあらためて告発し、また、お前たちの子孫と争う」と、主は言われる。



10)キティムの島々に渡って、尋ね/ケダルに人を送って、よく調べさせ/果たして、こんなことがあったかどうか確かめよ。
11)一体、どこの国が/神々を取り替えたことがあろうか/しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を/助けにならぬものと取り替えた。
12)天よ、驚け、このことを/大いに、震えおののけ、と主は言われる。
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 さあ、北の方にあるキティム(キプロス島)に渡って、そこの人々に尋ねてみるがよい。
 また、南方のケダル(北アラビアの地域)に人を送って、よく調べさせてみよ。
 果たして、未だかつてこんなことが世界にあっただろうか確認せよ。

 一体、かつて、どこの国が、自分たちの礼拝する神を取り替えたことがあっただろうか? しかも、それは決して神でもないものと。
 ところが、わたしの愛するイスラエルの民は、自分たちの栄光であるはずの世界に唯一の神を、まったく助けにもならないものと取り替えてしまった。
 天よ、驚け、このことを。大いに、震えおののけ。」と主は言われる。



13)まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。
14)イスラエルは奴隷なのか/家に生まれた僕であろうか。それなのに、どうして捕らわれの身になったのか。
15)若獅子が彼に向かってほえ/うなり声をあげた。彼の地は荒れ地とされ/町々は焼き払われて/住む人もなくなった。
16)メンフィスとタフパンヘスの人々も/あなたの頭をそり上げる。
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 「まことに、わが民は二つの悪を行った。
 ひとつは、生ける水の源であるわたしを捨てたこと。そして、二つ目は、生ける水の水源にもならない、無用の水溜を掘ったことだ。
 わたしの愛するイスラエルははたして奴隷なのか?
 それとも、その家に生まれた下僕であるのか? もちろん、そうではない。イスラエルはわたしの愛する子どもである。
 しかし、それにも関わらず、どうして今や、偶像によって捕らわれの身になってしまっているのか?

 見よ、若獅子であるアッシリアは北イスラエルに向かってほえ、うなり声をあげた。
 北イスラエルはそれによって、荒れ地とされ、町々は焼き払われて、住む人もなくなったではないか。

 エジプトのメンフィスとその東の地域の人々も、彼らはお前たちの助けとなるどころか、神の祝福である頭髪や髭をすっかり剃り挙げてしまうであろう。(頭髪や髭は神の祝福と信じられており、それが無くなると神の祝福がなくなると信じられていた。《例》士師記16:17「わたしは母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう。」)



17)あなたの神なる主が、旅路を導かれたとき/あなたが主を捨てたので/このことがあなたの身に及んだのではないか。
18)それなのに、今あなたはエジプトへ行って/ナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。また、アッシリアへ行って/ユーフラテスの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。
19)あなたの犯した悪が、あなたを懲らしめ/あなたの背信が、あなたを責めている。あなたが、わたしを畏れず/あなたの神である主を捨てたことが/いかに悪く、苦いことであるかを/味わい知るがよいと/万軍の主なる神は言われる。
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 北イスラエルが滅亡した経緯を学ぶが良い。
 あなたの神である主が、旅路を導かれたとき、神ではなく、むしろあなたが神である主を捨てたので、その報いがあなた自身に及んだのではないか。
 それなのに、今、あなたはエジプトに行って、ナイルの水を飲もうとする。すなわち、エジプトの軍事力によって助かろうとする。
 また、アッシリアに対しても同じように振舞う。それは一体、どういうことか?
 決して、神の裁きだと、神のイスラエルに対する嫉妬のゆえに、あるいは憎しみのゆえに、その裁きが下るのではない。
 むしろ、イスラエルよ、あなたの犯した悪こそが、あなたを懲らしめ、わたしに対する背信、それ自体があなたを責めているのだ。
 だからこそ、今こそ、あなたが、主なる神であるわたしを畏れることなく、あなたの神である主を捨てたことが、いかに悪く、苦いことであるかを味わい知るがよい。そこから、正しい信仰が何かを学ぶように。」と万軍の主なる神は言われる。



20)あなたは久しい昔に軛を折り/手綱を振り切って/「わたしは仕えることはしない」と言った。あなたは高い丘の上/緑の木の下と見ればどこにでも/身を横たえて遊女となる。
21)わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる/確かな種として植えたのに/どうして、わたしに背いて/悪い野ぶどうに変わり果てたのか。
22)たとえ灰汁で体を洗い/多くの石灰を使っても/わたしの目には/罪があなたに染みついていると/主なる神は言われる。
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 主は言われる。
 「乙女イスラエルよ、あなたは久しい昔に、主である神(エル)の支配(イスラ)を壊し、わたしの制止を振り切って、『わたしは主なる神に仕えることはしない』と言った。
 あなたは高い丘の上、緑の木の下と見ればどこにでも身を横たえて遊女となる。
  わたしはあなたを甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、お前は主なる神であるわたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果ててしまったのか?
 たとえ、灰汁で体を洗い、多くの石灰を使って漂白しようとも、主なるわたしの目には、罪があなたの体には染み付いている」と主なる神は言われる。

  
 
23)どうして、お前は言い張るのか/わたしは汚れていない/バアルの後を追ったことはない、と。見よ、谷でのお前のふるまいを/思ってみよ、何をしたのか。お前は、素早い雌のらくだのように/道をさまよい歩く。
24)また、荒れ野に慣れた雌ろばのように/息遣いも荒く、欲情にあえいでいる。誰がその情欲を制しえよう。彼女に会いたければ、だれも苦労はしない。その月になれば、見つけ出せる。
25)素足になることを避け/喉が渇かぬようにせよ、と言われても/お前は答えて言う。「いいえ、止めても無駄です。わたしは異国の男を慕い/その後を追います」と。
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 それなのに、どうしてお前は言い張るのか?
 「わたしは汚れていない。これまでバアル神の後を追いかけたことはない」と。

 見よ、谷でのお前のふるまいを思い出すが良い。そこでお前は何をしたのか?
 わたしは知っている。お前は、すばやいメスのらくだのように、交尾相手を求めて道をさまよい歩く。
 また、荒れ野にも慣れたメスろばのように、息遣いも荒く、欲情にあえいである。 一体、誰がその情欲を制しえようか? 
 
 そのようなお前に会いたければ、誰も苦労する者はいない。
 なぜなら、発情期になれば、簡単に見つけ出せるからだ。

 「素足になることを避け、喉が渇かぬようにせよ」と言われても、お前はわたしに答えて言う。
 『いいえ、止めても無駄です。わたしは異国の男を慕い、その後を追います』と。



26)盗人が捕らえられて辱めを受けるように/イスラエルの家も辱めを受ける/その王、高官、祭司、預言者らも共に。
27)彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い/石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う。わたしに顔を向けず、かえって背を向け/しかも、災難に遭えば/「立ち上がって/わたしたちをお救いください」と言う。
28)お前が造った神々はどこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ/災難に遭ったお前を救いうるのならば。ユダよ、お前の神々は/町の数ほどあるではないか。
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 まさに盗人が捕らえられて、公衆の面前で辱めを受けるように、イスラエルの家も世界の人々の前で辱めを受けるであろう。
 その王、高官、祭司、預言者らも共々に。
 なぜなら、彼らは木で作ったモノに向かって「わたしの父」と言い、石でつくったモノに向かって「わたしを産んだ母」と言うからだ。
 そのようなお前が作った神々とやらは、一体、どこにいるのか?
 むしろ、災難に遭ったお前が助けを求めるのであれば、わたしではなく彼らが立ち上がればよいのだ。
 町ごとに、そのような偶像をつくり、それを礼拝する。ユダよ、お前の神々は、まさに町の数ほどあるではないか。助けを求めるのであれば、むしろそられの神とよぶモノに助けを求めるが良い。
  


29)なぜ、わたしと争い/わたしに背き続けるのか、と主は言われる。
30)わたしはお前たちの子らを打ったが/無駄であった。彼らは懲らしめを受け入れなかった。獅子が滅ぼし尽くすように/お前たちは預言者を剣の餌食とした。
31)この世代の者よ、見よ、これは主の言葉だ。わたしはイスラエルにとって荒れ野なのか。深い闇の地なのか。どうして、わたしの民は言うのか。「迷い出てしまったからには/あなたのもとには帰りません」と。
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 「なぜ、わたしと争い、わたしに対して背き続けるのか」と主なる神は言われる。

 「わたしはお前たちの子らを打ったが、それは結局のところ無駄であった。
 彼らはわたしの懲らしめを受け入れず、かえって獅子が滅ぼし尽くすように、お前たちは、わたしの送った預言者を殺してしまった。
 この世代の者たちよ、見よ、これは主の言葉だ。
 主なる神は言われる。
 「わたしはイスラエルにとって荒れ野なのか? それとも深い闇の地なのか?
 どうして、わたしの民は言うのか。『わたしたちは迷い出てしまったからには、あなたのもとには帰りません』と。」


 
32)おとめがその身を飾るものを/花嫁が晴れ着の帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れ/数えきれない月日が過ぎた。
33)なんと巧みにお前は情事を求めることか。悪い女たちにさえ、その道を教えるほどだ。
34)お前の着物の裾には/罪のない貧しい者を殺した血が染みついている。それは、盗みに押し入ったときに/付いたものではない。それにもかかわらず
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 おとめがその身を飾るものを忘れることがあるだろうか? 花嫁が晴れ着の帯を忘れるだろうか?
 しかし、驚くべきことに、わたしの民はわたしを忘れてしまい、数え切れない月日が過ぎてしまった。

 遊女イスラエルよ、なんと巧みにお前は情事を求めることか。
 悪い女たちにさえ、その道を教えるほどだ。これ以上、いう言葉がない。

 お前の着物の裾には、罪のない貧しい者を殺した血が染み付いている。
 それは、決して盗みに押し入ったときに付いたものではない。

 お前たちは、自分たちでは直接手を汚すことなく、偶像崇拝において救われるべき貧しい者たちの命を奪ったのだ。


35)「わたしには罪がない」とか/「主の怒りはわたしから去った」とお前は言う。だが、見よ。「わたしは罪を犯していない」と言うなら/お前は裁きの座に引き出される。
36)なんと軽率にお前は道を変えるのか。アッシリアによって辱められたように/エジプトにも辱められるであろう。
37)そこからも、お前は両手を頭に置いて出て来る。主はお前が頼りにしているものを退けられる。彼らに頼ろうとしても成功するはずがない。
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 それにも関わらず、お前は「わたしには罪がない」とか、「主なる神の怒りはわたしから去った」とお前は言う。

 だが、見よ、「わたしは罪を犯していない」と言うなら、お前は主なるわたしの裁きの座に引き出される。

 それにしてもなんと軽率にお前は自分たちの道を変えるのか?
 先に、北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたように、お前たちはエジプトにも侵略されるだろう。

 そうなれば、お前は降伏として両手を頭に置いて出て来る事になる。
 しかし、主なる神はお前が頼りにしているものを退けられる。すなわち、エジプトやバビロニアなどの諸外国に頼ろうとしても成功するはずがないのだ。 

エレミヤ書 1章

 今回からエレミヤ書を見ていきます。

 まず、エレミヤについて、1~3節の記述を頼りにすると、彼が自分のことを「若者」と言っていることから、およそ彼の生まれたのは紀元前626年よりも12(当時の成人式が今と同じくらいに行われているのであれば)~20年くらい前ではないかということが推測できます。ただ、誕生日が何時かはあまり問題ではありません。
 そして、彼が最後エジプトに脱出するのが、およそ紀元前583年(第三回目のバビロン捕囚)とみると、彼の預言者としての活動期間は約40年間ということになります。
 なお、補足として、その期間に起こった歴史的な出来事を交えて以下に年表を紹介します。

歴史年表 (北イスラエルは前722年に滅亡)
・前639年、南ユダ、ヨシア王在位(~前609年)
・前626年、召命を受ける
・前625年、新バビロニア帝国がアッシリアより独立
・前622年、「律法の書」発見、宗教改革を行う。
  異教祭儀・地方聖所の廃止、祭儀をエルサレムに限定、旧北王国の領土を併合しユダ王国の独立を回復。
・前612年、アッシリアの首都ニネベがバビロニア、スキタイ、メディア連合軍によって陥落。
・前609年、エジプト・ネコ2世、アッシリアの救援のため北進、途中で抵抗するヨシア王を殺害。南ユダはパレスチナ、シリア、エジプトの支配下に。バビロニアによってハランが征服され、アッシリア滅亡。
・前605年、エジプト、カルケミシュの戦いでバビロンに敗北。南ユダ、エホヤキム王(前608~598年)在位。南ユダはバビロニアに保護を求めその支配下になる。
・前601年、バビロニアのエジプト侵攻をエジプトが撃退。エジプトの盛り返しを期にエホヤキム王、バビロニア、ネブカドネザル王に反乱。
・前597年、バビロニア、エルサレムを占領(第一回、バビロン捕囚)
・前593年、南ユダ国内では親バビロニア派と反バビロニア派の抗争
・前588年、ゼデキヤ王(597~587年)、バビロニアに反乱。
・前587年、バビロニア、エルサレムを破壊。ユダはバビロニアの州に併合(第二回バビロン捕囚)。
・ここらへんでエレミヤはエジプトに脱出。 
・前583年、第三回、バビロン捕囚。


 ヨシア王の治世に一大宗教改革が行われ、このとき地方聖所が廃止され、イスラエルの祭儀はエルサレム神殿に一極集中します。
 エレミヤの父親は、ユダに北接するベニヤミンの地、アナトトで祭司をしていることから、アナトトに地方聖所があって、そこでエレミヤの家族は親の代から祭司を務めていたことが推測できます。

アナトト

 アナトトはエルサレムの北東約4Kmにある小さな町で、そういったことから、エレミヤは幼い頃から祭司の子どもとして聖書の教育を受けていたのではないかということが伺えます。

 そして、ある時、神からの召命を受け、いやいやながらも、預言者としての人生を歩むことになります。
 しかし、神がエレミヤに示す預言はエルサレムの悪とその裁きについて、また、彼はその召命によって、家族や親族をはじめ南ユダの国全体を敵に回すということであり、そこにエレミヤの召命における苦しみと、その深い慰めを見ることができます。

 預言者イザヤが、その召命に際して、「主よ、わたしがおります。わたしをお遣わしください。」と積極的にその召命の歩みを始めたのに対して、エレミヤはどちらかと言えば、いやいやながら。むしろ、自分では望んでいないにも関わらず、自分の命が与えられる、母親の胎内にいる時から既に預言者に定められたという点において、一種の宿命的な召命理解を感じさせます。
 しかし、だからと言って、エレミヤはそれが「不幸な人生だ」と思っているわけではありません。なぜなら、そのような半ば神からの強制を、あくまで自分の言葉でそれを受け入れたことを語っているからです。そこには、この世的な幸福を捨てて、全世界を敵に回しても、主なる神が自分と共にあって守ってくださるという、「神の召しと守り」こそが彼の喜びと慰めの根元であるからです。

 では、エレミヤに対して示された裁きの原因となっていることをこの1章では異教の偶像崇拝と言っています。

 南ユダ、およびイスラエルの亡国の歴史を俯瞰し、それを神の視点から、正義の視点から、まさにこお一点における罪と、その贖罪と救いというふうにまとめています。

 では、なぜ異教の偶像崇拝が国を亡ぼすほどの悪であるのか?

 もちろん、これは、イスラエルの神が、自分の民が別の神を拝むことに対して嫉妬をしているということではありません。

 偶像崇拝が極めて重大な悪であることは、イザヤ書やそれ以外でも示されていますが、神が人間に与えた「貴い人間性」を貶める行為であるからです。それは、間接的に神に対する侮辱行為と変わることがありません。

 創世記によれば、人間は大地の塵から創られますが、しかし、その土からつくられた人間には、神によって「貴い人間性」、あるいは神の似姿としての尊さが与えられているのです。

 人間が自分で、「自分は偉いのだ」と傲慢になることではなくて、神から恵みとして与えられた「貴い人間性」をすべての人がその命と共に与えられているのです。

 しかし、偶像崇拝は、そのような「貴い人間性」を持つ人間が木や石で作った偶像の前にひれ伏す行為であり、「貴い人間性」をそのような「つまらないもの」よりも低いものとする行為であるからこそ、強く非難されるのです。

 すべての人に与えられているこの「貴い人間性」は、人間が自分の能力によって勝ち取ったものではなく、あくまで、神さまからの恵みとして、慈しみとしていただいているものであって、それはわたしたちにとってこれ以上なく大切なものです。そして、だからこそ人は、他のどのような存在でもなく、そのような土の塵から創造されにも関わらず、人間に「貴い人間性」を与えてくださったこの唯一の神に対して感謝をささげるのです。


 ただまあ、実際問題として、家族や親族や国全体を敵にまわすような召命は個人的には勘弁願いたいものです。

 では、以下、本文をみていきます。


1)エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。
2)主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、
3)更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
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 以下は、神によって預言者として立てられたエレミヤの語った言葉である。
 彼は、ベニヤミンの地、アナトトに住む祭司ヒルキヤの子どもとして生まれた。
 エレミヤに対して、主の言葉が臨んだのは、南ユダ王国のアモン王の子どもであるヨシア王の時代であり、ヨシア王の治世の第13年(紀元前626年)であった。
 それから、ヨシア王の子どもであるヨヤキム王の時代にも臨み、ヨシア王の子どもであるゼデキヤが王位に就いてその治世の第11年(前586年)の終わり、すなわち、その年の5月に、エルサレムの住民が(第二回)捕囚となる時まで続いた。



4)主の言葉がわたしに臨んだ。
5)「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」
6)わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
---
 ある時、主の言葉がわたしに臨んだ。
 主なる神は言われた。
 「わたしはあなたを母の胎内につくる前からあなたを知っていた。
 そして、母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として、既に立てたのだ」と。
 わたしは主なる神に言った。
 「ああ、わが主なる神よ。わたしはまだ人々に語る言葉を知りません。
 しかも、わたしはまだ若者に過ぎないのです」と。



7)しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。
8)彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。
9)主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。
 10)見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」 
---
 しかし、主なる神はわたしに言われた。
 「お前は、自分が若者に過ぎないなどと言ってはならない。これは既に定められたことであって、必ずそのとおりになる。
 だから、わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、決して相手に対して恐れることなく、行って、わたしが命じる言葉をすべて語りなさい。
 彼らを恐れる必要はない。なぜなら、わたしがあなたと共にいて、例え、命が奪われるような状況になったとしても、必ずわたしがお前のことを救い出すからだ」と、主は言われた。
 そして、主は、その御手をわたしの口に伸ばし、触れられ、わたしに言われた。
 「見よ、(あなたの罪は赦され)、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける」と。
  主は、言われた。
 「見よ、今日、あなたに対して諸国民、諸王国に対する以下の権威をゆだねる。
 それは一方で、抜き、壊し、滅ぼし、破壊する権威と、一方において建て、植えるためのものだ」と。



11)主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」
12)主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと/見張っている(ショーケード)。」
---
 ある時、主の言葉がわたしの臨んだ。
 「エレミヤよ、何が見えるか?」
 わたしは答えた。
 「アーモンドの枝が見えます。」
 主はわたしに言われた。
 「あなたの見るとおりだ。アーモンドの枝につぼみが育ち、まさに開花の時期が迫っている。
 そして、そのようにわたしは、わたしのイスラエルに対する裁きの言葉を実現しようとして、
 イスラエルのこれまでのわたしに対する悪行を見張っているのだ」と。


 
13)主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」
14)主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる/この地に住む者すべてに。
15)北のすべての民とすべての国に/わたしは今、呼びかける、と主は言われる。彼らはやって来て、エルサレムの門の前に/都をとりまく城壁と/ユダのすべての町に向かって/それぞれ王座を据える。
---
 さらに、主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。
 「エレミヤよ、何が見えるか?」
 わたしは答えた。
 「煮えたぎる鍋が見えます。しかも、北の方角からこちらの方へ傾いているのが見えます」と。
 主はわたしに言われた。
 「今まさに北からイスラエルに対する災いが襲い掛かる。それはこの地に住む者すべてに対して。権力者も貧しい者も、年配者も子どもであろうと、分け隔てなくこの災いが襲い掛かる。
 イスラエルの北に位置するすべての民と国に対して、わたしは今こそ、イスラエルの罪に対する懲罰を行うための号令を発するところである。ひとたび号令がかかるや、彼らやイスラエルに侵攻してくる。そして、彼らはエルサレムの近くまでやって来ては、ユダヤのすべての町に向かって、イスラエルを滅ぼすために最前線の陣地を設営し、そこにそれぞれの軍隊を指揮する王の王座を据え、わたしの鬨の声を待つ」と。

 
 
16)わたしは、わが民の甚だしい悪に対して/裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき/手で造ったものの前にひれ伏した。
17)あなたは腰に帯を締め/立って、彼らに語れ/わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな/わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように。
18)わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて/堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王やその高官たち/その祭司や国の民に立ち向かわせる。
19)彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと/主は言われた。
---
 主なる神は言われた。
 「わたしは、わが民の甚だしい悪に対して、その懲罰としての裁きを今こそ告げる。
 なぜなら、彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき、偶像に過ぎない手で造ったものの前にひれ伏し、わたしが人間に与えたその貴い人間性という宝物を台無しにしたからだ。わたしの前にその罪は非常に大きい。 
 
 さあ、エレミヤよ、あなたは腰に帯を締め、立って、彼らにわたしが命じるすべての言葉を語るがよい。
 彼らがお前の命を奪おうとしても、彼らの前に決しておののいてはならない。
 むしろ、わたしはわたしに自身にかけて、彼らの前でお前がおののくことがないようにしよう。
 そして、わたしは今日、あなたをイスラエルの全土に向けて、イスラエルに対する戦いの最前線として、お前のことを、エルサレムの町よりもお前を堅固なものとし、石でできたエルサレムの柱に対して、お前を鉄の柱とし、石でできたエルサレムの城壁に対して、わたしはお前の事を石よりもはるかに強い青銅の城壁としてお前を立て、ユダの王をはじめ高官たち、その祭司や国民に対して、お前を立ち向かわせる。
 お前は、家族や親族をはじめ、イスラエルの全員を敵にまわし、彼らはお前に対して戦いを挑むであろう。
 しかし、彼らはお前に対して勝つことはできない。なぜなら、わたしがあなたと共にいて、どのような状況であろうとも、必ずあなたのことを救い出すからだ」と主は言われた。

イザヤ書 66章

本章はイザヤ書の最後で、エルサレムの上に、まさに主なる神(エル)による支配(イスラ)が行われることを声を高らかに謳います。

 神の栄光と、裁きによって打ち倒された者たちの悲惨な姿は、その対照的な表現によって、神の栄光の高さを強調します。

 イスラエルの堕落にはじまったイスラエル民族の罪に向かう歩みはその社会全体を腐敗させ、個々人の罪の贖罪や王の贖罪などで手に負えるものでなくなり、その結果として、イスラエルは一度滅亡します。
 神は、その裁きをもってイスラエルを無から生みだす「再創造」として、この業を表現します。しかし、イスラエル民族を完全に滅亡させるのではなく、神の厳しい裁きを耐え、そこから新たに命を芽吹く人たちをもって、神は新生イスラエルを築く、そのような流れの頂点として、この章があります。

 本章では、過去のイスラエルの歴史を数行に凝縮し、混沌とした数百年にわたる歴史の中において行われた神の御業を大きくクローズアップする形で表現します。神の御業の全体像を知ることができるのは、まさに歴史を超越した神の視点からでなければそれを認識することができず、その中で生きている人間はそれを知りえません。
 その意味で、ここで強調されるのは、神の御心と御業ということであって、人が神に対してどのように歩むべきかの指針と、それに伴う確かな祝福と、そこから外れた場合の悲惨な結末とを示します。もちろん、神の御心はそのような悲惨な結末にあるのではなく、確かな祝福であることは言うまでもありません。

 そして、イスラエルの負の歴史を振り返りつつ、そこでの経験を踏まえ、帰納的に神の御心と、信仰とはどういうことかを提示します。

 すなわち、「神を礼拝する」「神を信じる」とは、神的な、あるいは神々しい崇拝対象に対して特定の儀礼をもって拝むという行為を指さない点が重要です。むしろ、信仰とは、(この世における正義を司る)神の前に実質的に立つことを意味し、自身の実存を深く反省するという哲学的行為が大切であることを意味します。

 宗教の発展は儀式・儀礼を拡充します。それ自体はこれといって神の御前に悪いことでもなんでもありませんが、そのような表面的な儀式・無内容の儀礼こそが偶像崇拝として糾弾されているのです。
 その意味で、神が人間に求めているのは実質的な罪の悔い改めであり、自己に対する哲学的反省をもって望むことの重要性が説かれています。

 創世記3章に示されるように、「罪(弱さ・不完全さ)」は人間の本質をなす要素です。その意味で、人間が自身の努力によって「罪」を克服できるのであれば、それは人間を超えた超・人間的な存在になります。その意味で、神がそのような不完全な人間に対して求めるのは、そのような超・人間化ではなく、むしろ人間が人間に留まり、自分の「罪」に対して真正面から向き合うことが求められているのです。

 創世記4章では、カインとアベルの物語を通して、神がアベルを殺害するカインに対して、「お前はそれ(罪)を支配しなければならない。」ということを言っています。

 その意味で、人間が自助努力によって罪から解放される術はなく、その意味で人間が自身の罪によって自滅することなく生きるためには、この罪において人間を救済する存在が必要になるのです。

 そして、人間の罪に関わるもっとも重要な、本質的な存在が、まさに「神」であるわけです。

 つまり、人間と神との関係性は、「罪」というこの関係において成り立つのです。

 イザヤ書が帰納的に結論付ける神とは、まさにわたしたち人間が自身の罪を深く、実存的に、反省し、悔い改め、告白をする。そして、その告白された人間の罪を、この世において正義を司る唯一の神が、この罪を赦すことによって、ここにはじめて信仰における神とその人とのつながりが成立するのです。

 つまり、それは言い方を変えれば、いくら礼拝やその他の儀式、集会、祈祷会などに参加しても、その行為が信仰的行為かどうかは無関係であることになります。

 なにやら神的な存在を知っており、その救済の働きを知っており、崇拝しているということは、イザヤ書が示す(キリスト教も同じでしょうが)信仰とは全くことなるのです。むしろそのようなその人の実質的な罪の悔い改めを伴わない宗教行為は、すべてが偶像崇拝と同じだと結論付けているのです。

 では、神を信じるとはどういうことか、それは神の前に実質的に、実存的に反省し、悔い改め、罪を告白することを通して、神によってその罪を赦されることにあるのです。

 つまり、神とは、わたしたちが自分の罪を告白し、その罪を赦してくださる存在としての神であり、その神によって罪を赦されることにおいてはじめて、わたしたちは神の民となることができるのです。しかも、天地創造において、神がこの世を創造されたという点において、地球上の全ての人がその対象となっているのです。

 そのような実質的な信仰について、新約聖書ではヨハネによる福音書13章8節で、イエスさまの言われた次の言葉が、良く表わしています。

 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ13:8)

 「足を洗う」というのは、単純にその行為そのものを指しているのではなく、むしろ、ここでは「罪の赦し」を言っていると理解する時に、弟子としてイエスさまにもっとも近かったペトロが、この足を洗うという行為、つまり罪の赦しをイエスさまから頂かないのであれば、ペトロとイエスさまとはまったく無関係だという意味になります。

 つまり、わたしたちはまさに「罪とその赦し」という唯一の点において神さまとの関係に置かれているのであって、「罪の悔い改め」がなければ、いくら洗礼を受けたクリスチャンと言えども、神さまと全く無関係の存在になってしまうのです。

 すなわち、信仰とは、「神の御前に自分の罪を告白する」という事象と、及び、告白された罪に対して「神がその罪の赦しを与える」という事象との関係性を指し、あらゆる信仰行為(礼拝など)は、すべてこの基礎の上に成り立つのです。また、自身の罪の告白を伴わないあらゆる信仰行為は、そのすべてが偶像崇拝と同じだということになるのです。

 そして、重要な事は、それはまだクリスチャンでない人ではなく、むしろ既に信仰に入っているクリスチャンこそが、神さまによって問われている事柄であるのです。

 その意味で、イザヤ書において、特に神さまによって糾弾されるエルサレム神殿に仕えていた当時の祭司たちは、まさにそのような存在として、かなりきつく糾弾されています。なぜなら、神の正義を旨とする信仰において最も罪深いことが「偽善」であるからです。

 キリストの教会も、牧師も、信徒も、常に、この偽善との戦いの中にあります。どれだけ、自分の罪に対して真摯に向き合うことができるか? それが信仰にとって一番重要なことであることを、イザヤ書は示しています。そして、神の御心がそのような弱いわたしたちが、神の祝福の下に留まり続けることができることにあることを明確に宣言するのです。

 では、以下、本文をみていきます。

 

1)主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。
2)これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。
---
 永い沈黙の後に、今こそ、主なる神は以下のように言われる。
 「この天はわたしの王座であり、この大地もすべてがわたしの足を載せる台に過ぎないにも関わらず、
 しかし、お前たちは、いったいどこにわたしのために神殿を建てることができるのか?
 一体、お前たちの手の業の何をもってわたしの安息の場としようというのか?
 見るがいい。これらの万物は全てわたしの手が創造し、まさにわたしの創造によって世界に存在するのだ。」と。 

  「むしろ、わたしが顧みるのは、この世において悩み苦しむ人であり、わたしの前にあって自身の罪のゆえに、霊が砕かれている人であり、主なる神であるわたしの言葉に、畏れうやまうような人物である。」と。



3)牛を殺してささげ、人を打ち倒す者/羊をいけにえとし、犬の首を折る者/穀物をささげ、豚の血をささげる者/乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者/これらの者が自分たちの道を選び/その魂は忌むべき偶像を喜ぶように。
4)わたしも、彼らを気ままに扱うことを選び/彼らの危惧することを来させよう。彼らは呼んでも答えず、語りかけても聞かず/わたしの目に悪とされることを行い/わたしの喜ばないことを選ぶのだから。
5)御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者/わたしの名のゆえに/あなたたちを追い払った者が言う/主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。彼らは、恥を受ける。
6)都から騒がしい声がする。神殿から声がする。敵に報いを返される主の声が聞こえる。
---
 見よ、お前たちの所業はこうだ。
 片方で神に対して生贄の牛をささげながら、その一方で人を打ち倒す。
 羊をいけにえとしながら、その一方では、偶像の神のために犬の首を折って奉げる。
 神に穀物をささげる一方で、律法では忌み嫌われる豚の血をささげる。
 神に乳香を記念の献げ物としながら、その隠れたところでは偶像を神として称える、そのような者。
 エルサレム神殿に仕えるこれらの祭司たちは、まさに自分で滅びに向かう罪の道を選択し、その魂はわたしの忌むべき偶像を喜ぶ。
 だからこそ、お前たちがわたしに対してそのように自分の意志と責任を持って臨むのであるから、わたしもお前たちの行うように、お前たちに臨もう。お前たちの危惧する神の裁きによる滅びをお前たちの上に下そうではないか。
 わたしのこの判断は自分勝手なものであろうか? それとも不正であろうか? そうではない。
 お前たちは、わたしの呼び声に答えず、お前たちに対して語りかけたその言葉に、お前たちは聞かず、お前たちの責任と判断において、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選択するのだから。

 さあ、今こそ、わたしの御言葉に畏れおののく人々よ、主なる神であるわたしの言葉を聞け。
 主なる神の御言葉に従うあなたがたを憎み、主なる神であるわたしの名前のゆえに、あなたがたを追い払った者がたちが言った言葉。
 すなわち、「主が栄光をあらわされるように。お前たちの喜ぶところを見せてもらおう。」と、彼らが、あなたがたを嘲って言った言葉のとおり、主なる神であるわたしは、今こそ、彼らの上に、その言葉のとおりの制裁を下そう。そして、彼らが主なる神であるわたしのゆえに恥を受けるところを目の当たりにするがよい。
 そして、主なる神の都エルサレムから、その神殿、エルサレム神殿から、神の裁きによって苦しむ祭司たちの声が聞こえる。そして、彼らの受けた嘲りに報いられる、主なる神の声が聞こえる。



7)産みの苦しみが臨む前に彼女は子を産み/陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。
8)誰がこのようなことを聞き/誰がこのようなことを見たであろうか。一つの国が一日で生まれ/一つの民が一度に生まれえようか。だが、シオンは/産みの苦しみが臨むやいなや、子らを産んだ。
9)わたしが、胎を開かせてなお/産ませずにおくことがあろうか、と主は言われる。子を産ませるわたしが/胎を閉ざすことがあろうかと/あなたの神は言われる。
---
 例えるならこうだ。
 すなわち、ある女性が、臨月を待つ前に、彼女は子どもを産んだ。
 陣痛の起る前に、予期せず、男の子を産み落とした。
 つまりそれは突然、予期せずに実現した。

 一体、誰がこのようなことを聞き、誰が、いまだかつてこのようなことを見たであろうか?
 すなわち、一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれることがあるだろうか?

 しかし、シオンは、すなわちエルサレムは、まさに産みの苦しみが臨むやいなや、子らを、新しいエルサレムの住民たちを得たのだ。
 「主なる神であるわたしが、胎を開かせてなお産ませずにおくことがあるだあろうか」、と主は言われる。
 「子を産ませるわたしが、途中で胎を閉ざすようなことをするだろうか」、とあなたの神は言われる。


 
10)エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。
11)彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。
12)主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。
13)母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
14)これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。
---
 さあ、今こそ、神の裁きが行われる。それゆえ、乙女エルサレムと共に喜び祝い、主なる神が祝福されるエルサレムのゆえに、世界の民は喜び踊れ。
 聖都エルサレム(「神の教え」の意)を愛するすべての人よ。エルサレムと共に喜び楽しむがよい。
 今まで、二重に辱めを受け、喪に服していたすべての人よ、喜び踊れ。
 さあ、彼女、すなわち神の祝福を受けたエルサレムの与える慰めの乳房から、その乳を飲んで飽きたり、その豊かな祝福を象徴する乳房に養われ、喜びを得よ。

 主なる神はこう言われる。
 「見よ、わたしは彼女、すなわちエルサレム(「エル」=「神」、「サレム/シャローム」=「平和」)にその祝福を向けよう。
 (神の[エル])平和(サレム)を大河を流れる水のように注ぎ、そのエルサレムから流れ出る神の祝福によって、世界の国々に対して繁栄を、あたかも洪水の流れが襲うかのように実現させよう。
 そして、エルサレムに住む新しい住民たちよ、あなたたちは、あたかもその乳房に養われ、抱いて運ばれ、彼女の膝の上であやされるのだ。
 まるでその母が自分の子どもを慰めるように、神であるわたしは、あなたたちを慰めよう。
 あなたたちはこのエルサレム(「神の教え」)で慰めを受けるのだ。
 あなた方がは、それを見て、心は喜び楽しみ、あなたたちの骨は青草のように、若葉が茂るような、あの生命力に溢れて神の前に元気を得るようになるのだ。
 こうして、主なる神の祝福の御手が主に従う人の上に置かれ、ひるがえって、主なる神の御心に敵対する者に対しては、容赦なく、その懲罰が降ることが世界に対して示されるのだ。


 
15)見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを/叱咤と共に火と炎を送られる。
16)主は必ず火をもって裁きに臨まれ/剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。
17)園に入るために身を清め、自分を聖別し/その中にある一つのものに付き従い/豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者は/ことごとく絶たれる、と主は言われる。
---
 見よ、主の裁きは火と共に来る。主なる神の乗る戦車は、まさにつむじ風の速さで、すみやかに来る。
 主なる神の怒りと憤り、叱咤と共に、神に背く者たちを滅ぼす火と炎を彼らの上に下される。
 主なる神は必ず、その罪を焼き尽くす火をもって裁きに臨まれ、その剣をもってすべての肉なる者を裁かれる。
 そして、主によって刺し貫かれる者は多い。

 「なぜなら、姦淫をしようと、自分の身を清め、聖別し、姦淫の園の中にあるひとつのもの、すなわち偶像を敬い、律法で禁じられている豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者、すなわち、表面的には信仰者であることを装い、その裏で偶像崇拝を行う者は、ことごとく地上から断たれる」と、主は言われる。



18)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
19)わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。
20)彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。
---
 主なる神は言われる。
 「わたしは、彼らの罪深い業と彼らのその腹の底にある謀のゆえに、また、すべての国、すべての言葉の民を聖なる都エルサレムに集めるために、今こそ来臨し、世界の国、民はわたしの栄光を見ることになる。

 わたしはすべての民の間に、イスラエル、エルサレムというひとつのしるしを置き、その裁きによってあらゆる罪から清められた者たち、つまりイスラエルの残りの者たちを、全世界に遣わす。
 すなわち、遠い国として知られているタルシシュや、プルとルドに、またトバルとヤワンにまで。更に、主なる神であるわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともないような、そのような世界の果てにまで、わたしは彼らを遣わし、宣べ伝え、全世界の諸国民が、主なる神であるわたしの栄光を知る。
 諸国の国・民は、エルサレムのすべての兄弟を、主なる神への献げ物として、諸国に住む神の民として、馬や車、駕籠、らば、らくだに載せて、主なるわたしの聖なる山エルサレムに連れてくることになる」と、主は言われる。
 「それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿に持ってくるのと同じようにして、諸国の中から神の民を連れてくるのである」と、主は言われる。

 
 
21)わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。
22)わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。
23)新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。
24)外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる。 
---
 「そして、わたしはイスラエル人ではなく、諸国民の中からも祭司とレビ人を立てる」と、主は言われる。
 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前に永遠に続くように、あなたたちの子孫とあなたたちの名、つまり、イスラエル(神の支配)の名も永遠に続く」と、主は言われる。
 「そして、新月ごと、安息日ごとに、地上に生きるすべての肉なる者は、主なる神であるわたしの前に来て礼拝することになる」と、主は言われる。

 「しかし、そこにあって、主なる神を礼拝しに来る者たちは、エルサレム(神の平和)の外にあって、信仰を持つと告白しながら腹の内は神に対して敵対する者たち、すなわち偽善者である祭司たちの死体を見るであろう。その死体に蛆虫は絶えることがなく、彼らの死体を焼く火は消えることがない。そして、彼らのそのような状態は、まさにすべての肉なる者たちにとって、憎悪の的となる。すなわち、信仰者にして偽善を行うことをすべての人が憎み、結果として、そこから離れるようになるのだ。」

イザヤ書 65章

 イザヤ書65章は内容的には大きく二つに分かれます。前半の神に背く者(過失ではなく、意図的)に対する審判と神に従う者に対する報い(苦しみからの救済)です。

 これだけ見ていますと、神に背く者を(イスラエル人に対する)異邦人、また神に従う者がイスラエル人のように見えますが、よく見るとそうではありません。

 いわゆる、民族主義的な救済ではなく、たとえイスラエル人であっても、そこにおいて裁かれる者と救われる者に分かれることが言われています。

 その意味で、いわゆるユダヤ教においては、生活のすべての面でユダヤ人になることが救いの前提条件でありましたが、ここで言われる神の救いは、あくまで神の御前において自分が行った罪によって、個人個人がそれぞれ神によって裁きの座にでることになり、そこにおいて懲罰を受ける者と悩み苦しみに対する報いを受ける人とに別れることが示されています。

 つまり、世界規模で行われる神の裁きによって、世界における正義を基に、すべての人がその裁きを受けることを約束するものなのです。

 ただし、いわゆる閻魔様との大きな違いは、人が死んだ後ではなく、「今」という同時性を持っている点です。

 神の裁きが死後に行われるのであれば、それは生きている人にとって、「生きている間はあきらめなさい。」と言っているのと同じです。 しかし、そうではなく、神さまは「今」、そして「これから」を問題にするのです。

 加えて、上記の話ですと、ただ「勧善懲悪」を勧める点において、他の宗教とあまり変わらないのではないかと思われるかも知れませんが、後半に出てくる「救済」を語る物語は、それが「神の御心」であることを示しているのです。

 つまり、「悪いことをしたら処罰する。良いことをしたら褒賞する。」という裁きの条件をただ示すのではなく、「もともと神は人を祝福することを望んでいるのだ」という強いメッセージを、本文の背後に意図しているのです。

 20節以降の栄光のエルサレムの様子は、非常に極端な書き方をしていますが、「事実そうだ」ということよりもむしろ、そのように誇張して表現するほどに、神の人類救済のもたらす平和がすばらしいことを伝えようとしているのです。

 そして、前半の非常に厳しい裁きの場面を語るのも、要は事実そうなることが大切なのではなく、そういった悪人によって搾取を受けて苦しんでいる人たちを、神さまが決して見逃すことなく、苦しみにある人たちのために必ず神さまが、その流された涙に報いてくださることを示しているのです。
 だからこそ、処罰を受ける人にとっては恐るべき通告ですが、むしろ、そういう人たちが自分たちの罪を悔い改める事と合わせて、差別され、抑圧され、苦しめられていた人たちに対する神の救いの業が執行される、その喜びを語っているのです。

 以下、本文をみていきます。



1)わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。
2)反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。
3)この民は常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき
---
 主は言われる。
 「今や、わたしを探さない者にも、わたしはその世界に対する裁きによって自身を示し、
 わたしを求めない者にも、わたしはその御業によって、世界に知られるようになった。
 わたしを礼拝することもなく、わたしを慕うことのない民に対しても、わたしは重ねてその御業をあらわした。
 それは、まさに、イスラエルよ、反逆の民よ。自分勝手に悪の方向に進む民に対して、絶えることなく救いの手を差し伸べてきたのは、言うまでもない。

 このイスラエルの民は、常に、わたしを怒らせ、意図的にわたしに逆らう。
 ふさわしくない場所でいけにえをささげ、香を焚き、
 


4)墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし/豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら
5)「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな/わたしはお前にとってあまりに清い」と言う。これらの者は、わたしに怒りの煙を吐かせ/絶えることなく火を燃え上がらせる。
6)見よ、わたしの前にそれは書き記されている。わたしは黙すことなく、必ず報いる。彼らのふところに報いる。
---
 汚れた場所である墓場で、神の目から隠れた所で夜を過ごし、律法で食べることを禁じられた肉を食べ、その汚れた肉の汁を器に入れながら、『わたしから離れていよ。わたしはお前にとってあまりにも清い存在だからだ』と言う。
 彼らは、あたかも火山が怒りの煙を吐き、絶えることなく火を燃え上がらせるように、わたしを怒らせる。
 見よ、わたしの前に、お前たちの罪状は一つ残らず書き記されている。わたしはお前たちの罪に対して、悪に対して黙することなく、必ず報いる。お前たちの腹の内にある悪に対して、必ず報いる。



7)彼らの悪も先祖の悪も共に、と主は言われる。彼らは山の上で香をたき/丘の上でわたしを嘲った。わたしは、初めから彼らがしてきた業を量り/そのふところに報いる。
8)主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな/そこには祝福があるから、と人は言う。わたしはわが僕らのために/すべてを損なうことはしない。
9)ヤコブから子孫を/ユダからわたしの山々を継ぐ者を引き出そう。わたしの選んだ者らがそれを継ぎ/わたしの僕らがそこに住むであろう。
---
 彼らの悪も、彼らの先祖の悪も、その悪と罪のゆえに必ず報いる」と、主は言われる。
 
 「彼らは、その山の数だけ山上で香をたき、その数だけ、丘の上で主なるわたしを嘲った。
 わたしは、初めから彼らがしてきた、その悪の業を記録し、彼らの腹の内にある、その悪に対して報いる。」と、主は言われる。

 主は、こう言われる。「お前たち常識として、『ぶどうの房に汁があれば、それを少しでも損なってはならない。なぜなら、それはまさに神の祝福であるから』と言っている。わたしも、わたしがイスラエルの名前を与えたしもべヤコブのために、イスラエルの民の全員を滅ぼすことはしない。
 むしろ、わたしはヤコブから子孫を興し、ユダからわたしの山々であるエルサレムを引き継ぐ者を引き出そう。
 わたしの選んだ者たちがそれを引き継ぎ、わたしの御心に従うものたちがそこに住むであろう。」



10)シャロンの野は羊の群がるところ/アコルの谷は牛の伏すところとなり/わたしを尋ね求めるわが民のものとなる。
11)お前たち、主を捨て、わたしの聖なる山を忘れ/禍福の神に食卓を調え/運命の神に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。
12)わたしはお前たちを剣に渡す。お前たちは皆、倒され屠られる。呼んでも答えず、語りかけても聞かず/わたしの目に悪とされることを行い/わたしの喜ばないことを選んだからである。
---
 主は言われる。
 「シャロンの野は羊の群がるところであり、アコルの谷は牛の伏すところとなる。
 そして、まさにそのように、わたしの御心を尋ね求める民たちのものとなる。

 わたしに背く者たちよ。お前たち、主なる神を捨て、わたしの聖なる山、エルサレムであることを忘れ、そこで異教の神々のために奉げ物を用意し、崇拝する者たちよ。わたしは、お前たちを剣の餌食とする。むしろ、お前たちこそが剣によって倒され、屠られるのだ。お前たちは、わたしの声に対して呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからだ。」



13)それゆえ、主なる神はこう言われる。見よ、わたしの僕らは糧を得るが/お前たちは飢える。見よ、わたしの僕らは飲むことができるが/お前たちは渇く。見よ、わたしの僕らは喜び祝うが/お前たちは恥を受ける。
14)見よ、わたしの僕らは心の喜びに声をあげるが/お前たちは心の痛みに叫びをあげ/魂を砕かれて泣き叫ぶ。
15)お前たちが残す名は/わたしに選ばれた者の誓いの言葉となり/「主なる神はお前を滅ぼす」と唱えられる。しかし、僕たちは異なる名で呼ばれる。
---
 それゆえ、主なる神はこう言われる。
 「見よ、わたしの選んだ、このしもべたちはわたしの祝福によってその糧を得るが、お前たちはそれにありつくことはできない。
 見よ、わたしの選んだ、このしもべたちはわたしの祝福によって飲むことができるが、お前たちは渇く。
 見よ、わたしの選んだ、このしもべたちは喜びに祝うが、お前たちは恥を受けることになる。
 見よ、わたしの選んだ、このしもべたちは心の喜びに声をあげるが、お前たちは、その心の痛みに叫び声をあげ、その魂を砕かれて泣き叫ぶであろう。
 そのようなお前たちがこの世において残す名は「主なる神はお前を滅ぼす」であり、それはわたしが、このしもべたちの悩み苦しみに対して報いることを誓った、まさにその誓いのとおりとなる。
 しかし、わたしの選んだしもべたちは、お前たちとは異なる名で呼ばれる。」



16)この地で祝福される人は/真実の神によって祝福され/この地で誓う人は真実の神によって誓う。初めからの苦しみは忘れられる。わたしの目から隠されるからである。
17)見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
18)代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。
---
 「この地で祝福される人は、真実の神によって祝福され、この地で神に誓う人は、真実の神によって誓う。
 彼らが受けた初めからの苦しみは、その受けた喜びのあまりの大きさに、二度と思い出すこともない。
 それらは、主なる神の慈しみのゆえに、わたしの目からすべてがことごとく隠されるからである。

 見よ、わたしはここに新しい天と新しい地を創造する。
 それは、まさに新しい天地創造であり、ひとたびそうなれば、それより以前のことを思い起こす者はいない。
 それはわたしの目からすべてがことごとく隠されるように、だれの心にも上ることはない。
 さあ、わたしの選んだしもべたちよ、お前たちはその受けた辱めのゆえに、代々にわたって喜び楽しみ、喜び踊るが良い。
 わたしは創造する。それは修正でもなく、訂正でもなく、創造である。
 見よ、わたしはエルサレムをまったく新たにし、喜び踊るものとして、そこに住む民を、主なる神と共にあって喜び楽しむ者として創造する。」



19)わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
20)そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。
21)彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる。
---
 「そして、わたしはこのエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。
 そこには、もはや泣く声や叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
 そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
 あたかも、百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者が呪われた者とされるようなものだ。
 彼らは家を建てて住み、そこにぶどうを植えてその実を食べる。」



22)彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。
23)彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。
24)彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける。
25)狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。
---
 「彼らが建てたものに他国人が住むようになることはなく、彼らが植えたものを他国人が食べるようになることもない。
 わたしの民の一生はまさに木の寿命と同じように長くなり、わたしによって選ばれた者たちは、彼らの手の業にまさって、わたしの祝福のゆえに永らえるであろう。
 彼らは無駄に労することもなく、貧しさのゆえに生まれた子どもを生活のために殺すこともない。
 彼らは、その子孫も共に、主によって祝福された者の一族となるであろう。

 バビロン捕囚の時代においては、お前たちは神の沈黙に不平を訴えた。

 しかし、彼らが呼びかけるより先に、主なる神であるわたしは彼らに答え、まだ彼らが祈りのうちに語りかけている間に、わたしはそれを聞き届けているのだ。

 だからこそ、お前たちの願う前に、わたしはこのことをお前たちに示そう。すなわち、
 新しいイスラエル(「神の支配」の意味)は、まさに狼と小羊が共に草をはみ、ライオンは牛のようにわらを食べ、蛇は人間に危害を加えることなく、大地の塵を食べるようにする。わたしが支配する、わたしの聖なる山、エルサレムのどこにおいても、そのように主なる神の支配のゆえに、害することも滅ぼすこともない。そして、そのように、わたしは新しいエルサレムを創造する」と、主なる神は言われる。
 

イザヤ書 64章

 イザヤ書64章は言うなれば神の前における、イザヤによるイスラエルの罪の告白と、神の憐れみを請い求める、そんな内容になっています。

 全体としてみれば、1)神の御前における罪の告白 2)罪の告白に対する神の言葉による応答 3)救済の告知と実施というような流れにあって、ちょうど64章は 1) の部分に相当します。

 第三イザヤの活躍したのは、およそ紀元前515年の前後と言われています。ところが、この聖書箇所はバビロンによるエルサレム神殿の破壊や、あるいはエルサレムの破壊を言っていますので、イザヤはイスラエルの亡国の歴史を振り返ると同時に、イスラエルの滅亡からバビロン捕囚という、神の沈黙や神に見捨てられたという、そういう中に身を置き、そこにあってイスラエルの神に対する偶像礼拝の罪を告白します。

 第三イザヤが生きた時代は、イスラエル滅亡からすればかなり後であり、しかもペルシャ帝国のキュロス王が台頭した時代ですので、直接は関係ありません。

 しかし、イスラエルの過去の歴史をここで神のみ前にあって、神に対する背きのゆえの処罰であり、また、ここで神に対して、「神さまはイスラエルを救済する方ですよね!」という、神さまに対する切実な祈り、嘆願を行っています。

 ここで注意しなければならないのは、イザヤの嘆願は神に対する絶望のゆえではないという点です。

 イザヤは、イスラエルはまさにこの神によって創造された民であり、その神がその手の業による民を見捨てるはずはなく、今、イスラエルの上に下されている裁きも、「永遠の苦しみではないですよね」という、神に対する正義の実行を求めています。

 イザヤは、わたしたちの信じる神は、世界における正義を司る神であり、正義を司る神は、決して私怨や不当な扱いをすることはありえないと信じています。

 イザヤは、自身をイスラエルの過去の歴史における神に対する背きの罪を、神のみ前において担うことを通して、今の苦しみが永遠に続くものではなく、神の正しい裁きによって、必ず、この苦しみは取り去られ、神が共にいてくださる平安のうちに移されることを、神さまの前で、執り成しをしているのです。

 いうなればイザヤは神さまの主催される法廷において、罪を犯したイスラエルを弁護する弁護士として、神さまの前に、正しい裁きと、不当に受けている苦しみに対する救済の執行を求めるのです。

 しかし、まだ神さまからの応答はありません。沈黙を守る神さまに対して、人間にできる限界の交渉をイザヤは行うのです。しかし、それは決して絶望のゆえではなく、必ず与えられる主の憐れみをひたすら請い求めるのです。

 以下、本文をみていきます。




1)柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように/あなたの御名が敵に示されれば/国々は御前に震える。
2)期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば/あなたの御前に山々は揺れ動く。
3)あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。
---
 火にかけた鍋の水が、そのうち沸騰するように、神よ、あなたの万軍の御名による裁きがひとたび世界に対して示されれば、世界の国々はその裁きを恐れ、御前に震えることでしょう。
 また、それだけでなく、あなたの裁きが、わたしたちのまったく意図しないような恐るべきことと共に行われるのであれば、動くことのないはずの山々さえも、そのあまりの出来事に対して揺れ動くことでしょう。

 神よ、あなたを待ち望むものたちを省みてくださるのは、この世界において、神よ、あなた以外にはありません。それははるか昔からそうであって、あなた以外に、イスラエルに対して目を留めてくださる存在は見たことも聞いたこともありません。


 
4)喜んで正しいことを行い/あなたの道に従って、あなたを心に留める者を/あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました/わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって/わたしたちはとこしえに救われます。
5)わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。
6)あなたの御名を呼ぶ者はなくなり/奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し/わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。
---
 そのようなあなたは、あなたの御前に、喜んで正しいことを行い、あなたの示される道に従って、あなたを常に心のうちに留める者を、必ずあなたはご自分のもとに迎え入れてくださいます。あなたは、まさにそのような方ではありませんか。

 しかし、あなたはわたしたちイスラエルの民に対して憤られました。
 それは、まさにわたしたちがあなたに対して罪を犯したからです。
 しかし、あなたのその御業によって、わたしたちはとこしえに救われるのです。

 神よ、わたしたちは皆、あなたの御前にあって罪に汚れた者となり、あなたの御前に、正しいはずの業も、すべてがあなたの御前に汚れた者となりました。わたしたちは皆、枯葉のように、あなたに対するわたしたちの悪は、まさに枯葉に吹き付ける風のように、わたしたちを御前から遠くへと運び去りました。

 わたしたちの中にあなたの御名を呼ぶ者はなくなり、わずかになったあなたの御名を呼び求める者も、自分のまわりがすべて御名を呼ばない者であるのに怖気て、奮い立ってあなたにすがろうとする者さえいません。
 まさに、そのようなわたしたちからあなたは御顔を隠し、わたしたちの悪のゆえに、力を奪われてしまいました。



7)しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。
8)どうか主が、激しく怒られることなく/いつまでも悪に心を留められることなく/あなたの民であるわたしたちすべてに/目を留めてくださるように。
9)あなたの聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し
10)わたしたちの輝き、わたしたちの聖所/先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ/わたしたちの慕うものは廃虚となった。
11)それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え/黙して、わたしたちを苦しめられるのですか。
---
 しかし、主よ、いまこそもう一度、言わせてください。
 もし、あなたがわたしたちのことを見捨てたとしても、神よ、あなたこそが私たちの父なのです。
 わたしたちが粘土であれば、あなたこそがわたしたちにとっての陶工であり、
 主よ、わたしたちはまさにあなたの御手による業ではありませんか!

 神よ、わたしたちの過失による罪のゆえに、また意図的にあなたに対して背いたその悪のゆえに、激しく憤られ、その裁きをくだされたことを、わたしたちは正面から受けとめます。あなたの裁きは正しく、誤りはありません。
 ですから、神よ、永久に激しく怒られることなく、いつまでも、わたしたちの犯した悪に拘ることなく、あなたの御手の業による民であるわたしたちすべてに、その慈しみの目をもって省みてください。

 神よ、見てください。
 あなたの聖なる町々は荒れ野となりました。エルサレムのあるシオンの丘は荒れ野となり、エルサレムの都は荒廃し、わたしたちの輝きである、わたしたちの聖所、わたしたちの先祖があなたを賛美した場所は、すっかり火に焼かれて、わたしたちの慕うものも廃墟となってしまいました。

 神よ、それでもなお、あなたの裁きは続くのでしょうか? まだ、罪の悔い改めの清算ができていないのですか?
 それでも、あなたは御自分をわたしたちから隠し、黙して、わたしたちを苦しめるのですか?
 まだ苦しみが必要なのですか?

 しかし、わたしたちはあなたの救いを確信するのです。 

創世記 3章 人類の堕罪か、それとも・・・

創世記3章
1) 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
2)女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3)でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
4)蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
5)それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
6)女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
7)二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
8)その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
9)主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
10)彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
11)神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
12)アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
13)主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
14)主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
15)お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
16)神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
17)神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
18)お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
19)お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
20)アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。
21)主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
22)主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
23)主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
24)こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

---
 
 創世記3章は、キリスト教旧来のとらえ方としては、人類にどのようにして罪が入り込んだのか、その「原罪」の教義を示す箇所として知られています。ただし、これはあくまでキリスト教の教義上のことであって、もともと聖書本文に「これが原罪の由来である」というようなことは一切書かれていません。それは、上記に示した本文を見て分かるとおりです。

 では、この箇所は一体何を示しているものであるのか?

 創世記2章に、3章の前提となる情報が以下のとおり示されています。

 創世記2章9、15~17節
9)主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

15)主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
16)主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
17)ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
 
  人類の祖であるアダムとエバは、はじめエデンの園に住んで、そこを管理する存在であった。
 そして、エデンの園の中央には、「命の木」と「善悪の知識の木」の2本があった。
 そして、ここで3章を読み解く鍵となる神の命令が17節に記されています。

 神さまは人間に対して命令をされますが、あくまでも、これは命令を破った場合の罰則を言っているのではないという点をまず踏まえておかなければなりません。

 話を整理すると、この時点で、人間に寿命はなく、永遠にエデンの園の管理者として生きることが可能であったことを物語っているのです。



 ところが、ここに思いもよらぬ展開が待ち構えています。

 神の創造した被造物のなかでもっとも知恵の高かった蛇が、エバに対して、神の命令に背いて、善悪の知識の木の実を食べることを吹聴するのです。

 ここで、蛇の言った言葉に注目すると以下のとおりです。
 ・「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
 ・「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

  ここで蛇はエバに対して嘘を言っているかというとそうではありません。
 蛇はあくまでエバに対して、エバ自身の判断、つまり知恵の行使を誘導しているのです。
 事実、その実は、食べた結果として死ぬのではなくて、神によって「命の木」の実を食べることができなくなった結果、被造物としての人類には寿命というものが設定された。そして、その結果として、神の言うとおり、「必ず死んでしまう。」という言葉のとおりになったのです。

 ここで単純に可能性としてみれば、園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」の2本が生えていたわけですから、「善悪の知識の木」ではなく、先に「命の木」の実を食べる可能性もあったのです。


 そうすると、蛇の誘惑によって、ということがクローズアップされますが、実は、最初から神さまは、「命の木」と「善悪の知識の木」の両方、アダムとエバが、自分たちの知恵によって、どちらを選択するかを伺っていたということが考えられるのです。

 ただし、神さまは「善悪の知識の木」から実を採って食べた場合、人類に寿命が確定してしまう。そして、その結果として「死んでしまう。」と言ったわけです。

 ですから、「善悪の知識の木」は人間の寿命とは直接は無関係で、むしろ「目が開け、自分たちが裸であることを恥ずかしく思った」ということが、その結果になると思うのです。


 これを一般的に神話として客観的に見れは、この物語は、「蛇にどうして足がないのか」を説明する物語であり、また「女性の出産が大変であること」を説明する物語であり、直接、これが神との約束を破ったことに対する罰だとは書いてありません。

 つまり、これは例えば、「人はどうして生活において苦しむのか?」、その理由を説明する原因譚であって、それ以上でも、それ以下でもなく、解釈の一つの可能性として「原罪」の教理の聖書箇所とされているという話なのです。


 実際、あるキリスト教を紹介する本に、この箇所におけるアダムとエバの罪とその罪に対する罰として次のように説明されています。

---
罪) ・禁断の木の実を食べた
   ・神のようになろうとした
   ・蛇の言葉を信じた

罰) ・アダム ---生活の糧を得るための労苦
   ・エバ  ---出産と生活の苦しみ
   ・蛇   ---呪われ、地をはいずり回る存在となった
---
『完全版・図説 聖書の世界』、(株)学研パブリッシング、p29、2011年7月



 確かに、結果だけを見ているとそうなりますが、むしろ、ここで問われるべきは、「なぜ、そもそも神がエデンの園の中央に『命の木』と『善悪の知識の木』を生えさせたか?」ということです。


 聖書は、その理由を本文に書いていませんが、わざわざ「命の木」と「善悪の知識の木」を生えさせた神の御心が何であるかが、実は、ここで非常に重要になっていると個人的に思うのです。 

 では、この箇所において聖書本文に書かれていない神の御心は何か?

 当初、アダムとエバは、神の手による被造物として、神に近い存在であり、まだ寿命も確定していませんでした。

 そして、神は、エデンの園に二人を住まわせ、そこで二人が、自分たちのアイデンティティーとして、どちらを選択するか、つまり神と同じ「永遠の命」を選択するか、あるいは「永遠の命」よりもむしろ「善悪の知識」を選択するかを見守ったということなのです。

  神の命令に忠実であるが、しかし、神と等しい永遠の命を持つ存在と、寿命を持つけれども、神と同じように善悪の知識を持つ存在と、どちらになるか、神さまは、それをアダムとエバに委ねたのです。


 そして、そこに蛇が登場します。被造物の中で、もっとも知恵に長けた存在。その蛇の投げかけた言葉によって、エバは、自分で考え、自分で行動します。

 神さまから指示された命令ではなく、エバはこの時点で、自律して思考し、行動する術を身につけたのです。

 なんとなく、「善悪の知識の木の実を食べたからアダムとエバは考えるようになった」と考えますが、実は、それ以前に、既にエバは、自分で事の良し悪しを考え判断しているのです。ですから、むしろ「善悪の知識の木の実」を食べたことが二人にもたらした結果は「恥ずかしさという感情の取得」であって、別に、それを食べなかったとしても、少なくともエバ(アダムはもらって食べただけなので)は自分で善悪の判断をする存在となったのです。


 そして、神さまは二人の異変に気づき、二人はその理由を神さまに問われます。

 ここは、表面的に見れば、「約束を破ったことを神さまに見つかって怒られている」と解釈できます。


 しかし、先の、そもそもなぜ神は「命の木」と「善悪の知識の木」をエデンの園に生えさせたのかを考える時に、これは単純な叱責ではないと見るほうが自然ではないかと思います。

 なぜなら、そもそも食べていけないものであれば、それを手の届くところに置いておく神に責任があるという話になるからです。

 例えば、子どもがライターで火遊びをして、それが原因で火事になって死んでしまった場合、その責任は子どもにあるでしょうか?

 まあ、確かに、子どもを大人と同じ存在として見るのであれば、子どもの罪を問えますが、わたしたちの常識において、それは保護者の管理責任ということになると思います。

 神によって創造されたアダムとエバは、まだ人間としては半人前であり、お互いが裸であっても恥ずかしがることのないような、幼い状態でありました。

 神さまは、アダムとエバが永遠に子どものままに留まることを望むのか、それとも、自分の考えや行動に責任を持てる大人になるのか、実は、この創世記3章のもっとも重要な点は、ここにあると個人的には考えるのです。


 その意味で、神はアダムとエバを叱り、エデンの園から追放しますが、それは決して、犯した罪に対する処罰ではなくて、人が本当に人として、自分の考え・自分の行動に責任を持てる、そのような存在になった二人に対する、深い慈愛に基づく自立のうながしであるのです。

 つまり、この物語は、神の直接保護下にあったアダムとエバに対して、保護者としての神との分離、それがすなわち自立的な人間の始まりであって、「罪を犯す」ということよりも、むしろ、人間が自身の罪(不完全な被造物としての弱さ)の責任主体となることを物語っているように思います。

 なぜなら、子どもは責任主体でない限りにおいて、その罪の責任は保護者である親にあります。これを神とアダムとエバとの関係において考えれば、アダムとエバが神の前に罪を犯し、その責任主体となったことは、むしろ、神がアダムとエバとを、罪の責任主体として取り扱ったということになります。

 言葉としては、神さまは非常に怒ったように思えますが、内心は、人が自立して、その責任主体となったことを喜んでいるように思うのです。(まあ、必ずしも良いことをしたわけではないですが・・・。)


 そして、人は、この件によって神の直接保護から外れて、「真に生きること」を経験する存在として自立します。

 しかし、それは神が人類を見捨てたということではありません。

 神は、その後も、人類に対して深い愛を注がれます。

 その意味では、神のもっとも大いなる奇跡は、その尽きることのない慈愛であって、決してわたしたち人間に対する援助ではありません。

 神は、わたしたちを一人前の人間として、自分の考え・行動に責任を持つ存在であることを尊重するゆえに、むしろ、わたしたちの世界に介入することなく、その深い愛のまなざしをもって見守ってくださるのです。

 「祈っても神さまが救ってくれない。」というのは、一面においてそれは真理です。なぜなら、もし、わたしたちが赤ちゃんのような存在であれば、それこそ保護者責任、つまり創造主の責任において、わたしたちの日常生活に多く介入されることでしょう。
 しかし、そうではなく、神さまはわたしたちのことを、御自分の姿に似せて、神の御前において貴い者としてくださるゆえに、わたしたちの人生における苦難を取り除かないのです。それは、わたしたちが真に人間であり、神さまによって信頼されている故であることを、わたしたちは自覚しないといけないのです。

 例えば、なぜ、世界に争いや戦争、地震や津波といった天災、さまざまな不幸が起こるのか? それは、言うなれば神によって創造されたわたしたちの、この世という生活空間における人類共通の課題であって、決して人類に対する罰ではないということです。

 神の導きによって、お互いがお互いを貴い存在であるという共通認識に立って、神の愛に生きるときに、これらの課題を乗り越えていくことが人類にはできるし、そのことを神さまは信頼してくれているのです。



 神の叱る言葉の強さは、むしろ、神が御自身に対して言い聞かせているものであって、そこにはアダムとエバが、御自分のもとから、一個の人間として旅立つ、その通過儀礼としてのニュアンスがあるように思います。

 イザヤ書に次のような御言葉があります。
 
 「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。」(イザヤ書63章9節)

 神は、直接介入から、間接介入、そして、むしろわたしたちから距離をとって見守るという選択をされました。
それは、わたしたちを見捨てたということではなく、その計り知ることのできないまでの深い慈しみによるものであるということが、創世記3章では示されているように思います。 

イザヤ書 63章

 イザヤ書63章はひとことで言えば、重層的なイスラエルの歴史を通して、そこでなされる神の救いの御業の嘆願というような箇所となっています。

 詩篇137編における、イスラエルの民の、神に対するバビロニアとその手先となったエドムに対する報復の祈りに対する、神の応答としての裁きが、この箇所の1節から6節までの内容に対応します。

 そもそもなぜ、ここで他国ではなくエドムが登場するのかですが、恐らく、民数記20章14節以下、モーセがイスラエルの民を率いてエドムを通過しようとしたとき、エドムの王がこれを許可せず、イスラエル民族はエドムの領地を迂回しなければならなかった記事があります。

 イザヤ書63章は後半のところでモーセの出来事を思い起こすように促していますので、おそらく、史実かどうかは別として、民数記の記事、および詩編137編などの整合性で、このように記したのではないかと個人的には推察します。

 その意味で、エドムとは、史実としてのエドム王国が極端に悪いというよりも、むしろイスラエルを苦しめた敵としての役割を担っているのではないかと思います。

 詩編137編では、エドムが新バビロニア帝国の手先となって、他国に先んじてエルサレム攻略に乗り込んだ、そういう歴史的な背後を感じさせます。

 しかし、詩編137編、あるいはイザヤ書63章で登場する「報復」は、あくまで神の正義による判決に基づく制裁行為であって、それは「制裁」というよりも、「自分たちの犯した罪に対する報い」であって、その神の報いが非常に残酷なまでの表現をとっているのは、神が実際にそういう虐殺を行ったことよりも、むしろ、それによってこれまでイスラエルが被った被害や損害、精神的苦痛に対する、神の慰めの意味が強いと思います。

 神の報復とは、つまりは神の裁きであり、それは世界における正義を司る神の裁量に基づき、決して、私怨によるものでないのです。

 例えるなら、兄弟げんかをして泣いている方に対して、「お父さんがお前に代わって怒ってやったから」と言って、泣いてる方を慰めるようなものです。

 そして、この神の報復で大切なことは、あくまで「人間は自分で報復しない」ということです。

 最近の殺人事件の裁判なんかで、加害者が死刑を求刑されない場合に、被害者の家族が死刑を求める場面なんかを見かけます。

 裁判はもともと、人間を裁くのではなくて、あくまで罪を裁くのです。

 「罪を憎んで、人を憎まず」という台詞が、昔の時代劇なんかでありましたが、それといっしょです。

 ところが、仮に、被害者の家族が求めによって、加害者を死刑にするようになれば、それはいわゆる仇討ちであって、私刑と同じです。そこには、法律ではなく、被害者の怨恨しかないのです。


 しかし、聖書の信仰がすごいのは、通常であれば、そういうふうに流れてしまいそうですが、そこにストップをかけるのが、この詩編137編、あるいはイザヤ書63章に登場する神の報復です。

 「神が、加害者に対して必ず、ただしく報復してくれるから、被害者であるあなたは加害者を許しなさい。」というわけです。

 なぜ、人が直接、相手に対して報復してはならないのか? それは、相手に危害を加えることが、神の前に罪であるからです。そして、罪の報いが死であるからには、いくら仇討ちが人間の目に正当化されようとも、神の前には人ひとりの命を奪うという意味においては死にあたる罪を犯すことになるのです。

 だからこそ、むしろ被害者は「加害者の罪を許す」という神の前における正義の行為によって、かえって加害者の上に、犯した罪の重さを増し加えさせるように促すのです。この考えは箴言だったかコヘレトの言葉に見ることができます。


 そして、詩編137編につづられているように、神の報いがいつか仇の上に下るように、切に祈る。

 そして、イザヤ書63章では、まさにその報いの時の到来を語るのです。

 しかし、ここで重要なことは、神の報復とは、決して、イスラエル以外の外国だけに、敵対宗教の国家にだけ向けられるものではなくて、実は、イスラエルに対しても、この神の報復は行われたという点です。

 はじめ、エドムをはじめとした外国が「けしからん」と、神による諸外国の蹂躙が行われますが、イスラエルも同じように、神によって蹂躙される。具体的には北イスラエルの滅亡、南ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚の出来事といった事柄がそれに該当するわけですが、その意味では、エドムだけが取り立てて悪いという表現でもないのです。
 
 しかし、そういった中にあって、イスラエルの神がイスラエルを創造し、担い、負われてきたと、イザヤ書46章で出てくる、神によっておんぶされるイスラエルの姿が、まさに、ここでの慰めの言葉となっていることが重要です。

 このモチーフは、有名な「Footprints」の詞に共通します。

 では、以下、本文をみていきます。



1)「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き/勢い余って身を倒しているのは。」「わたしは勝利を告げ/大いなる救いをもたらすもの。」
2)「なぜ、あなたの装いは赤く染まり/衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
3)「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ/憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び/わたしは着物を汚した。」
---
 声)「エドムからやって来るのは一体だれだろうか? エドムの大きな都市であるボツラから。しかも、その衣は鮮血のように赤い。しかもその装いは神の威光に輝き、その勢いのあまり前傾してやってくる」

 神) 「わたしは勝利を告げ、大いなる救いをもたらすものである。」

 声)「なぜ、あなたの装いは赤く染まっているのか? あたかも酒ぶねで、ぶどうの実を踏み潰す人たちのように、その飛び散る果汁によって染まっているのか?」

 神)「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとり、主なる神であるわたしに伴わなかった。それゆえ、わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。だから、わたしの衣は、踏み砕かれた彼らの血を浴び、もともと汚れの無い真っ白い装いを、彼らの罪の報いである彼らの流血によって着物を汚してしまったのだ。」



4)わたしが心に定めた報復の日/わたしの贖いの年が来たので
5)わたしは見回したが、助ける者はなく/驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕により/わたしを支えたのはわたしの憤りだ。
6)わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり/わたしの憤りをもって彼らを酔わせ/彼らの血を大地に流れさせた。
---
 神)「わたしが心に定めた報復の日、裁きの日。わたしによる彼らの罪の贖いの時が来たので、わたしは世界を見回してみたが、誰一人として、彼らを助ける(偶像の)神はなく、また驚くほどに、彼らを支える(偶像の神)はいなかった。それゆえ、わたしの救いは、まさにわたしの腕により、わたしを支えたのはわたしの憤りであった。」
 神)「わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血を大地に流れさせた。」



7)わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを。
8)主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。
9)彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。
---
 驚くべき主の報復に、わたしイザヤはそのことを心に留める。
 すなわち、主なる神の慈しみと主の栄誉を。そして、主がわたしたちに賜ったすべてのことを。
 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを。

 主は言われた。「彼らはわたしの民である。しかも偽りのない子らである」と。
 そして、主なる神は彼らの救い主となられた。

 イスラエルの民の苦しみの時にも、主なる神は決してイスラエルの民を見捨てることなく、彼らの受けた苦難を常に御自分の苦難とされ、御前に仕える御使いによってイスラエルの民を救い、その愛と憐れみをもって彼らの罪を贖い、大いなる昔から常に共にあって、彼らを負い、そして、彼らを担ってくださったのだ。



10)しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。
11)そのとき、主の民は思い起こした/昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか/その群れを飼う者を海から導き出された方は。どこにおられるのか/聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。
12)主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ/民の前で海を二つに分け/とこしえの名声を得られた。
---
 しかし、なんということか! 彼らは主なる神の大いなる憐れみを受けているにも関わらず、主に背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって彼らの敵となり、戦い挑まれた。
 そのとき、主の民は思い起こした。
 すなわち、昔の日々を、モーセの時代を。
 「どこにおられるのか? その群れを飼う者を海から導き出された方は?
 どこにおられるのか? 聖なる霊を彼のうちにおかれた方は?」
 主なる神は、まさに輝く御腕をモーセの右に伴わせ、イスラエルの民の前で葦の海を二つに分け、そのことを通してとこしえの名声を得られた。


 
13)主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが/彼らは荒れ野を行く馬のように/つまずくこともなかった。
14)谷間に下りて行く家畜のように/主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き/輝く名声を得られた。
---
 主なる神は彼らを導いて、その二つに分かれた海の淵の中を通らせられたが、彼らは、まさに荒れ野を行く馬のように、決してつまずくこともなかった。
 あるいは、水の流れる谷間に下りていく家畜のように、主の霊は彼らを憩わせられた。
 このようにして、主なる神よ、あなたは御自分の民を導き、その輝く名声を得られた。



15)どうか、天から見下ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。
16)あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。
17)なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。
---
 しかし、どうか、主なる神よ。今こそ、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から地上をご覧ください。
 どこにあるのですか? あなたの熱情と力強い御業は。
 あなたのたぎる思いと憐れみはいったいどこにあるのですか?
 それらはわたしの目には隠されていて、わたしにはまったく分かりません。

 神よ、あなたはわたしたちの父です。
 例え、信仰の祖であるアブラハムがわたしたちのことを見たことがなくても。
 たとえ、あなたがイスラエルと名づけたヤコブがわたしたちをイスラエルの子と認めなくても。
 主よ、あなたは確かにわたしたちの父です。
 「わたしたちの贖い主」。これは永遠の昔からあなたの御名なのです。

 ところが、どうしてあなたはわたしたちを、あなたを信じる信仰の道から迷いださせ、わたしたちの心をかたくなにして、あなたに対する信仰を失わせるのですか?

 イザヤ書6章10節に、「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」とあるように、あなたは、なぜ、わたしたちを滅ぼそうとするのですか?

 どうか主よ、いまこそ思い直してくださり、わたしたちを顧みてください。救ってください。


 
18)あなたの聖なる民が/継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。
19)あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。
---
 あなたの聖なる民が、その継ぐべき土地をもったのはイスラエルの歴史においてたったわずかの間です。 
 間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。
 イスラエル(「神の支配」の意)というのは名ばかりで、あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。
 主なる神よ。どうか、今こそ、天を裂いて降ってきてください!
 あなたの御前に山々が揺れ動くように! 

イザヤ書 62章

 イザヤ書62章は、ひとくちでいえば「エルサレム再興の歌」です。

 主に第一イザヤによって語られてきたエルサレムの指導者、及び住民の罪が極まり、その結果として、神さまはエルサレムのすべてを解体し、一から築き直すというエルサレム救済の業に乗り出されます。

 しかし、それは、単純にイスラエル民族という特定国家・特定宗教の救済ではなく、世界救済という大事業の片鱗であったというのが、第一から第二イザヤにかけての主な内容でした。

 そして、この62章では、姦淫の女として表現されるエルサレムの都に対して慰めと祝福の言葉が神さまからエルサレムに対してなされます。

 この象徴的な表現は、つまりはその前提を把握していないとうまく理解できないのです。

 では、その前提は何かと言えば以下のとおりです。

 1) 主なる神は夫として、エルサレムの都は妻として、例えばアブラハム以降、その関係が維持されていた。
 2) ところが、エルサレムに住む住民たちは他の神々に乗り換えを行い、それによってエルサレムの都は正しい夫が居ながら、別の神、つまり別の夫とその関係(異教祭儀を行うことを姦淫と理解)を持つようになった。
 3) 結果、夫である神に対して姦淫の罪を犯した妻エルサレムの都は捨てられ(バビロン捕囚)てしまったが、しかし、大切なことは「離縁したわけではない」(イザヤ50:1)という点にある。

 4) その罪の故に、一度は夫(神)に捨てられた(バビロン捕囚)エルサレムの都であったが、捨てられ、辱められ、そうした神の導きのゆえにその罪は清算され、今や、それまでに受けた罰に対して多くの祝福をもって回復される時が来た(イザヤ61)。 

 イザヤ書62章4節で明らかになるように、ここでもう一度、神と和解し、以前に増して豊かな祝福を受けるようになることが本章では言われています。

 以下、本文をみていきます。



1)シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
2)諸国の民はあなたの正しさを見/王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって/あなたは呼ばれるであろう。
3)あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。
―――
 エルサレムの都の建つシオンの丘のために、主なる神であるわたしは決して口を閉ざすことなく、エルサレムの都のために、わたしは決して黙ってはいない。
 今こそ、エルサレムの都の正しさが光のように輝き出で、エルサレムの救いが、暗闇を照らす松明のように燃え上がるその時に至るまで。
 世界中の国・民はエルサレムの正しさを見、諸国の王たちは全員がエルサレムにあらわされた神の栄光を仰ぐことになる。
 エルサレムの都よ、お前は主なる神が定められた新しい名前によって、主なる神が直々にお前を呼ぶであろう。
 その時、あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたは神御自身がかぶる王冠としての栄光を受けるであろう。



4)あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ/あなたの土地は夫を得るからである。
5)若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。
―――
 エルサレムの都よ、お前は再び、以前のような「夫である神から捨てられた女」と呼ばれることなく、イスラエル国土が再び、「荒廃」と呼ばれることはない。
 それどころか、お前は「夫である神によって望まれるもの」と呼ばれ、お前の国土は「主なる神である方が夫であるもの」と、世界において主なる神の所有されるものと呼ばれることであろう。なぜなら、それはお前のゆえではなく、ただ主なる神がお前を望まれ、お前の国土は、まさに主なる神を夫として、神によって所有されるようになるからである。
 まさに、若者がおとめを娶るように、エルサレムよ、お前を再建される方、すなわち主なる神ご自身がお前を娶ってくださり、花婿が花嫁を喜びとするように、主なる神は、あなたを所有することをご自身の喜びとされるのだ。



6)エルサレムよ、あなたの城壁の上に/わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ/決して沈黙してはならない。
7)また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり/エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。
8)主は、御自分の右の手にかけて/力ある御腕にかけて、誓われた。わたしは再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず/あなたの労苦による新しい酒を/異邦人に飲ませることも決してない。
9)穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美し/ぶどうを取り入れた者は/聖所の庭でそれを飲む。
―――
 エルサレムの都よ、お前の城壁の上に、主なるわたしは見張りを置く。彼らは昼も夜も決して休むことなく、彼らは主なる神の命令によって、常に、エルサレムに対して主なる神を思い起こさせ続ける。
 また、バビロン捕囚において、主の沈黙を受けた時のように、再び主の沈黙を招くようなことをしてはならない。
 今は、まだ荒れ果てているが、主がお前の再建に取り掛かり、エルサレムを世界における栄誉としてくださる時、すなわち、主なる神の人類救済の大事業が完成するその時まで、主なる神に対する関係を疎かにしてはならない。
 主なる神は、御自分の右の手、つまり神ご自身の正義とその力にかけて誓われた。
 「わたしは再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず、あなたの労苦による新しい酒を、異邦人に飲ませることも決してない。
 むしろ、穀物を刈り入れた者はそれを食べて主を賛美し、ぶどうを取り入れた者は、聖所の庭でそれを飲むことであろう。」と。



10)城門を通れ、通れ、民の道を開け。盛り上げよ、土を盛り上げて広い道を備え/石を取り除け。諸国の民に向かって旗を掲げよ。
11)見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。
12)彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ/あなたは尋ね求められる女/捨てられることのない都と呼ばれる。
―――
 さあ、一度は失われたエルサレムの住民たちよ、今こそ、エルサレムの城門を通れ。行け、エルサレムの民よ、荒野に道を拓け。低いところは土を盛り上げ、民が通るための広い道を備えよ。民の躓きとなる石をそこから取り除け。今こそ、エルサレムの住民がエルサレムに帰還する。そのことを諸国の民に向って旗を揚げて知らせよ。

 見よ、主なる神は、このことを地の果てにまで、世界の隅々にまで布告される。
 「さあ、娘シオン、エルサレムの都に対して言え。見よ、あなたの救いが大路を通ってやって来る。見よ、主の勝ち得られた者は、主なる神に従い、主の大いなる働きの実り、栄光の数々が主なる神の御前を行進する。 
 彼らは『聖なる民、主にその罪を贖われた者』と呼ばれ、エルサレムよ、お前は『主なる神によって尋ね求められる女。神によって決して捨てられることのない都』と呼ばれるであろう」と。 

イザヤ書 61章

 イザヤ書61章は 一口で言えば、第3イザヤの召命の箇所です。

 内容的には、神の霊によって、まさにメシア(油を注がれた者)としての経験を主人公が経験するところから始まります。そして、4節から9節にかけて、イザヤに対して示された神の救い(報復)の言葉。そして、10・11節にて、もう一度、イザヤの召された経験についての賛美の言葉で締めくくられます。

 ところで、第1イザヤ、第2イザヤ、第3イザヤの違いは何かですが、主に時代背景の違いがその理由になっています。

 すべては、仮説に過ぎませんが、本文の内容から第1イザヤはおよそ紀元前740~700年頃にかけて活動していた人物であって、恐らく、弟子を持つくらいの影響力を持っていたのではないかと推測されます。

 そして、第2イザヤは、南ユダ王国のエルサレムで書かれたというよりも、ペルシャ帝国キュロス王について言及している点から見て、第1イザヤの信仰を引き継ぐ集団であって、時代的にはキュロス王によってバビロン捕囚から解放された紀元前538年の前後に活躍していたことが推測できるのです。

 そして、第3イザヤとは、前述のバビロンからの解放を受けてエルサレム帰還がはじまり、紀元前515年のエルサレム第二神殿が完成します。おそらく、その前後のことを内容に含んでいることから、第3イザヤはおよそ紀元前515年前後に活躍したのではないかということが言えるのです。

 第3イザヤはそういう意味で、第1イザヤ・第2イザヤの信仰を引き継ぐ形で、しかも、既に苦しみの時(バビロン捕囚)は終わりを告げ、第二神殿の完成によって、あらたな時代の始まり、世界において正義を司る神による新しい支配、それまで罪によって回復不能のところまで陥っていたイスラエル民族の浄化が完成されたと同時に、その救いが世界に対して行われていることを物語ります。

 イザヤ書61章は、この時代のイザヤとして召命を受けた人物の、その証と宣べ伝えるべき喜びのメッセージに、神を褒め称える歌となっています。

 では、以下、本文をみていきます。



1)主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2)主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
3)シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
---
 主なる神はわたしをイザヤとして油を注ぎ、主なる神の霊によってわたしは預言者とされた。
 それは、わたしを心の貧しい人、つまり真実の神を切に求める人たちに対して、喜びの知らせを伝えるためだ。
 主なる神は、今こそ、主の御前にあって打ち砕かれた心をその愛によって包み、捕らわれている人には自由を与え、鎖に繋がれている人には、その鎖からの解放を行うことを告知された。
 主なる神が恵みを与えてくださる時代、わたしたちの神が、わたしたちの悩みや苦しみに対して報いてくださるその時であることを告知され、嘆いている人々に慰めを与えられる。
 エルサレムが破壊され、棄てられてしまったことに嘆く人々に対して、後悔の故に頭に灰を被って泣く者に対して、その灰を取り去り、喜びの冠をかぶらせてくださる。嘆きに代えて喜びの香油を注いでくださり、暗い心に代えて喜びの賛美の衣をまとわせてくださる。
 そうして心から主を賛美する彼らは、まさに主が御自分の輝きを世界に対して現すために植えられた、この世の何事に対しても決して曲がることのない堅い正義の樫の木と呼ばれることであろう。



4)彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
5)他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。
6)あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。
---
 彼らはとこしえの廃墟、古い荒廃の跡であるエルサレムと神殿を建て直し、再興する。今まで廃墟となっていた町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
 他国の民によって搾取され、苦しめされていたエルサレムの民は、今こそ、逆に、他国の人々によって養われるようになる。他国の人々がエルサレムの民のために羊を飼い、異邦の人々がエルサレムの畑を耕し、そのぶどう畑の手入れをする。
 エルサレムの民は、世界中の人々から主の祭司と呼ばれ、世界において唯一である神に仕える者とされ、世界の富と栄光をその身に受けることであろう。



7)あなたたちは二倍の恥を受け/嘲りが彼らの分だと言われたから/その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける。
8)主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。
9)彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
---
 一度は失われたエルサレムの民たちよ、あなたたちはこれまで被るべきであった基準の二倍の恥を受け、世界中からの嘲りこそがお前たちの取り分だと言われた。それゆえ、主なる神は、お前たちの受けた損失に対して、基準の二倍の恵みと祝福を与えようといわれる。すなわち、永遠の喜びを受けるのだ。
 主なる神であるわたしは世界において正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。以前の祭司たちはまさに、神への献げ物を強奪し、自分たちのものにしたゆえに、その罪によって滅びた。またそのようにならないように留意せよ。しかし、わたしはまことをもって罪を犯したエルサレムの民の、その罪の故に被った労苦に対して報いよう。そして、とこしえの契約をお前たちと結ぼう。
 主なる神を信ずるこの一族は、世界において知られるようになり、その子孫は世界中において知られるようになる。彼らを見て、世界中の人々は認めるであろう。すなわち、これこそ、世界において正義を愛される主なる神の祝福を受けた人々である、と。



10)わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。
11)大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
---
 主なる神から受けた言葉によって、わたしは主なる神のゆえに喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
 まさに、主なる神は、救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださった。あたかも花婿のように救いという輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように主なる神の恵みの宝石で飾ってくださるからである。
 まさに、茶色い大地が草の芽を萌え出でさせすっかり緑に包まれるように、園が蒔かれた種を芽生えさせ美しくなるように、主なる神は、世界中の国民の前にあって、その恵みと栄誉を芽生えさせてくださるのだ。 

創世記における人間の創造

創世記1・2章には天地創造に加えて、人類の創造物語が記されています。

 文書資料説(仮説)によれば、この1章(~2章3節)と 2章4節以下とでは、その基となっている資料が異なるということで、まあ、そういうことが言われています。

 しかし、その資料がどうこうということ以前に、実際に聖書を読んでみるとなんだか「書いてあることに違いがある」ということを気がつくのではないかと思います。まあ、そういうもんだと思って読む方も多いと思いますし、それがダメだということでもありません。

 ただ、そういった違いは、聖書をより深く読む上では非常に重要な働きを担うものですから、それは例えるなら、親の愛を子どもが理解できず、その子が親の立場になってはじめてその気持ちを理解できる、そういう感じです。

 聖書を読むうえで、そういういろいろな角度から聖書を読むと、また聖書の言葉の背後に広がる意味の深さ、つまり慰めや励ましの言葉を見出すことができるようになるのです。

 それでは、創世記1章2章における人間の創造についての箇所を見てみましょう。

創世記1章26~30節
26)神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27)神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
28)神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
28)神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
30)地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。 


 
創世記2章7~9節、15~18節、21~23節
7)主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
8)主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
9)主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

15)主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
16)主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
17)ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
18)主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

21)主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
22)そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
23)人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
 

 創世記における人類の創造は1章と2章とに出てきます。そして、1章における人類創造の特徴は、1)神に似せて創造された点と、2)男と女に創造されたという点にあります。

 普通に読むとまさにそのとおりですが、2章における人類の創造記事と比較すると、相違点が非常にはっきりとします。それをごく端的に示すと以下のとおりです。

・創世記1章
 ◎人間は、神に似せて創造され、(他の被造物よりも)神に近い存在として創造された。
 ◎人間は、神によって男と女に創造され、その性差は対等である。

 これに対して創世記2章の特徴は以下の点にあります。

・創世記2章
 ◎人間は、大地の塵から創造され、神の息によって人間となった。
 ◎女性は男性の体の一部から創造され、故に、男女の性差は常に男性優位であることを示す。
  しかし、男性の優位は男性が男性であるために必要なものであり、男性を補完する存在として女性の存在は重要である。

 とりあえず、男女の性についてはまた別の話になるので、とりあえず、最初の記述だけに限定すれば、創世記1章での記述は、人類を非常に高く評価します。それは人類が創造された意義、神から与えられた人類についての意義のようなもので、それに対して2章での人類の記述は、むしろその逆と言って良いでしょう。塵芥に過ぎない人類とは、それは人間という生物の科学的分析結果、あるいは人間という生物が塵芥と同じでどれだけつまらないもの儚いものかということを主張します。

 もちろん、これはどちらの記述がより正しく、どちらの記述が間違っているのかということではありません。

 むしろ、創世記を編纂した人たちは、この二つの記述が共に成立するその先に、神の人間に対する御心を表現しようとしているのです。


 1章における人類は完成されたものであって、創造された時点において完璧です。

 ところが、2章における人類は大地の塵から作られ、それは不完全にして、ひじょうに儚い存在です。

 つまり、1章における人類の姿はまったく問題がなく、それ自体、存在として完成されています。ところが、2章では、そのような人間として創造されたけれども、実際問題としてみれば、非常につまらなく、儚い存在であるというのです。

 旧来の解釈の仕方であれば、このアダムとエバから人類に罪(不完全さ)が入り込み、人類は失楽園を経験し、今のわたしたちもそのように原罪の呪縛から解き放たれない存在として見ます。確かに、そういった見方もできますが、問題は、「仮に、アダムとエバから人類に罪が入り込んだとすると、それは克服されるべきものであって、人間は原初の状態である、神の似姿として、完成された存在になることがキリスト教の目指すべき目標であるのか?」ということにあります。

 もちろん、そう理解するからこそ、わたしたちには「イエス・キリストの十字架と復活の救いが必要だ」ということになり、必然的に、それはキリスト教の宣教を行うための口実となるわけです。

 まあ、それはそれとして間違っているとは言いませんが、しかし、では創世記1章2章の伝えるべきメッセージが、「神の似姿として創造された人類の堕罪」という見方しかしないとなると、それはまたちょっとあまりにも一方的に決め付けた解釈の仕方でないかと思うわけです。


 むしろ、それよりも詩編8編が示すように、この創造の記事も、神の人類に対する慰めの言葉として解釈するのであれば、またよりいっそう深く創世記を読むことができるのではないかと思います。


 詩編8編5~7節
5)そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
6)神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7)御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。

 見ると分かりますが、詩編8編は創世記1章の記述に焦点を当てています。しかし、その詩編8編が前提とするのは、大地の塵に等しい、儚い存在としての自己理解があるのです。

 つまり、わたしたち人間はこの世界において非常に儚い存在に過ぎない(創世記2章における人類理解)。しかし、その儚い人類であるにも関わらず、神は人類に対して栄光と威光を冠として与えてくださっているのだ、という神の深い御慈愛を表現しているのです。

 ここで大切なのは、「自然界を支配する権威を神からゆだねられているのだ」という権利の主張ではないということです。

 創世記1章において、確かに、神は人類に対して他の被造物を支配するようにされたと記述しています。しかし、それは直接的な意味としてよりも、また実質的な意味よりも、本来、塵芥に過ぎない人類に対する神の計り知れない深い慈愛を強調するための表現として自然支配を言っていると解釈する方が素直にそのことを読めるという点にあるのです。

 この人類による自然支配の記述は、これまでもキリスト教が環境破壊に加担する、その根拠付けとして、まさに書いてあるそのように解釈した経緯があり、こういった解釈に対する反省が1970年代ごろより行われてきました。もちろん、今は、そういった解釈はほとんどされなくなったと思います。

 聖書は、古代ヘブライ語という、今日の発達した言語から比較すれば語彙も少なく、その示せる範囲としては限られています。しかし、その限られた語彙を用いて、現代の言葉でもあらわし得ないものをあらわそうとしている、そういう文書であるのです。

 聖書って面白いですね。
  







 

 
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