まったく穏やかな心情での自殺はありうるか?
p.54 世界の苦悩に関する教説によせる補遺
文明の最低の段階を示している‘遊牧の生活’は、文明の最高の段階において、普遍化した漫遊の生活となって再び現れてくる。前者は困窮から、後者は‘退屈’から、生まれてきたのである。

や:世界旅行のことか?

p.55 同
……動物の生活には、人間のそれに比して、苦悩も少ないが、同時にまた歓喜も少ない。[中略]。動物は一面において‘憂慮と不安’さらにはそれにともなう苦悩から開放されているが、多面においてそれはまた本当の意味での‘希望’を持っていない。したがってまたそれはかの思考による喜ばしい未来への期待、並びにかかる期待にともなう幸福な妄想……[中略]……にもあずかりえないわけで、動物はこの意味において希望のないものなのである。

や:動物は過去や未来について考えないから、昔の恥ずかしい記憶に悩まされることがない。未来の不安に悩まされることもない。

p.61 同
‘二代乃至はまた三代’にもわたって人間の世代を生きてきたような人であれば、あたかもお祭の日に見世物小屋のなかに坐り続けて、あらゆる種類の手品師の演技を、それもその演技が二度も三度もひきつづき繰返されるのを、見ていた人のようなきもちにさせられることであろう、――即ち、手品はただ一度だけえ見てもらうようにしくまれているものなので、仕組がわかり珍しさが消えてしまえば、それはもう何の印象も与えないものだ、ということを覚るのである。――

や:代わり映えのしない毎日は記憶によるものなのか。以前聞いた話によれば五歳の子にとっての一年は1/5生だが、80歳の人にとっての一年は1/80生だということだった。

p.74 自殺について
[自殺した友人に対して]……呼び覚まされてくるのは哀愁と同情である。そしておそらくはそれに、悪行にともなうところの倫理的否認というよりはむしろ、彼の行為に対する一種嘆賞の念がかえってしばしばいりまじることであろう。

や:どれほど近しい人が自殺したとしても、私は彼が自殺したことにたいして怒りを感じることはないだろう。あるとすれば純粋な悲しみか、彼を自殺に追いやった事柄への怒りである。では彼がまったく内省的な理由から自殺したとすればどうだろうか?

p.78 同
自殺に反対せられるべき唯一の適切な倫理的根拠……[中略]……はこうである、――自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差出すことによって、最高の倫理的目標への到達に犯行することになるものでるということ。

や:世間では「自殺は逃げ」「自殺は甘え」といった意見がある。それらはつまるところ諦めずに頑張れという意見なのだろうな。

p.90 生きんとする意志の肯定と否定に関する教説のよせる補遺
「交合の直後に悪魔のたか笑いが聞こえてくる」ということに気付かなかったであろうか。

や:賢者タイムのことか!

p.91 同
どの婦人も、生殖行為に際しては驚かされ、恥ずかしさに消えいるばかりの思いをさせられるのであるが、ところが妊娠したとなると、羞恥のかけらも見せず、否一種の誇りをさえまじえて、見せびらかして歩く。

や:むかしは息子娘やその嫁夫に「子供はまだかな?」と聞く人がいたそうだ。実におぞましい。神経を疑う。もっとも、彼らが自らの息子や娘に対して「彼女彼氏とはもうセックスをしたのか」と聞くのであればそれは一貫した態度だ。


本書はショウペンハウエルによる(おそらく哲学的な)エッセイ集である。彼の世界観はかなり一貫しているので、上に挙げた引用を読んで小気味良い印象を受けた方は安心して読まれるとよい。私はまだ彼の主著『意志と表象としての世界』をまだ読んでいないから哲学的な背景についてはよくわからない。彼について知っていることは高校倫理で習った程度だ。それでも小気味良い気持ちにはなれた。

おそらく私を含め世の一般の人が彼の哲学やその背景について深い造詣を持っているということはないだろう。だから今回はオヤッと思ったところを引用して一言コメントをつけるにとどめた。記事をあらためて私個人に関する感想を少し書くことにしよう。