さて、インターネット上で出回る「種散之儀」が捏造であると指摘するにあたって、まずその全文を引用させていただきます。

種散之儀(たねちらしのぎ)

一、まず、沐浴を行い、身を清めます。
二、種散之儀用の礼服(股の開いた袴)を着用します。
三、裸体の描かれた屏風を用意します。
四、懐紙を載せた四方を、その前に置きます。
五、四方の前に座し、右手で御棒を握ります。左手は、膝の横に置きます。
六、屏風の絵を鑑賞しながら、右手を前後に動かし、御棒を摩擦いたします。
七、散(ちらし)の気配があれば、四方の懐紙を左手に取り、御棒の前を軽く押さえます。
八、心の天にいたるときも、種はこぼしあそばぬよう、懐紙で受け止めます。
九、「よい」と合図いたしますと、侍女が部屋に入ります。
十、侍女の「お相手は如何なされました」の言葉には、「もう帰られた」と答えます。
十一、屏風に一礼し、座したまま三歩さがります。
十二、立ち上がり、もう一礼して、十六歩で部屋を出、儀を終えます。

このテクストが捏造であると断ずるため、その不審な点を3点ほど指摘させていただきたく思います。

第一に、日本語に誤りがございます。「御棒」とは一体なんのことを指しているのでしょうか。このテクストの文脈から察するに皇族の逸物のことを言っているのでしょうけれど、このような日本語は存在しません。何にでも「御」をつけていれば丁寧というものではございません。いやしくも皇族の逸物を「棒」呼ばわりすることは不敬極まるものであると思います。

この要領の作成者が実際の種散之儀に接したことがあれば、このような誤記はあり得ぬことであります。

そして第二に、儀式の順番に不審な箇所があるということです。それは自慰の前に沐浴するのに、自慰のあとに沐浴をしないということです。もとより沐浴は体を清めることにその本義があるのでございます。そうであるならば、自慰によって汚れた逸物を清めないというのはあまりにも不自然ではないでしょうか。

そして最後に、侍女の役割が不明確であるということです。侍女は自慰が終わったあと皇族に呼ばれて部屋に入るわけですが、この際に皇族から「相手はもう帰った」と言われます。しかし、この記述と儀式全体との整合性がございません。

いったい、侍女は部屋の設営の際にはどこにいるのでしょうか。儀式ののちに皇族から「相手はもう帰った」と言われるということは、皇族は侍女に対して実在の女性が入ってきて帰っていったということを言っていることになります。

そう考えてみますと、どのタイミングで侍女が部屋の前に待機するかは非常に重要です。室内に女性が入っていくのを見ていないのに「もう帰った」と言われることになってしまうからです。

また、この侍女は部屋の片付けや懐紙の始末をするのでしょうか。「相手はもう帰った」と言われているにも関わらず、皇族の精子のついた懐紙や裸体の描かれた屏風を始末させられるというのは不自然な話です。

逆に部屋の片付けをしないとなると、なぜ皇族に呼ばれて部屋のなかに入るのかが分からなくなります。

このような誤記、整合性のなさからインターネット上に流布する「種散之儀」は捏造であると断ぜざるを得ないのです。

日本男児がこのようなものに惑わされぬよう、心から祈る次第であります。