前回のエントリで、インターネットの掲示板「2ちゃんねる」などで流布する「種散之儀」のテクストは捏造であると指摘しました。次にその特徴について触れたいと思います。いわば、製作者のプロファイリングであります。
まず第一に感じられる特徴は、性的な、そして人としての未熟さであります。
それは自慰の後に沐浴を行わないということ、そして精子をこぼさないようにすることにあらわれています。
私がその箇所に感じるのは中学生くらいの男子の自慰です。中学生くらいの男子ですと、その住居は本人のものではなく、また父母などと同居であることが多い。そこで風呂などを勝手気ままに使うこともはばかられます。結果として射精の際に精子をこぼさないようにし、また、体を洗う必要がないようにするという風になります。
ところが大人になると事情は大きく変わります。自慰ではない普通の性行為ですと、行為の最中に女性器に触れた逸物が汚れることになりますから、行為の後に逸物を清めるということが普通に行われるものです。
そして第二に、形式主義的な儀式観です。
この種散之儀のテクストは儀式の要領を捏造したものですから、そこには作者の儀式に対する考え方というものが如実に現れていることになります。
さきほど、部屋の設営や片付けを誰が行うのかにも意味があるということを指摘いたしました。そうした視点からこのテクストを分析しますと、手順がマニュアル化されているようでいて、そこにはなんら儀式としての意味がないように見えます。
また、そのわりに専用の袴の存在を前提としていること、屏風と懐紙を置く位置について言及がある、そして侍女の呼び方が決まっているなどの形式には重きが置かれているように感じます。
儀式というものはもとより形式を定めて行うものでありますが、しかし、そのひとつひとつになにがしかの意味があることも多いものであります。
意味を持たない形式ばかりが書き連ねられているこの捏造されたテクストに対し、私はまるで皇族を飾り物のように捉える不敬なものさえ感じるのであります。
まず第一に感じられる特徴は、性的な、そして人としての未熟さであります。
それは自慰の後に沐浴を行わないということ、そして精子をこぼさないようにすることにあらわれています。
私がその箇所に感じるのは中学生くらいの男子の自慰です。中学生くらいの男子ですと、その住居は本人のものではなく、また父母などと同居であることが多い。そこで風呂などを勝手気ままに使うこともはばかられます。結果として射精の際に精子をこぼさないようにし、また、体を洗う必要がないようにするという風になります。
ところが大人になると事情は大きく変わります。自慰ではない普通の性行為ですと、行為の最中に女性器に触れた逸物が汚れることになりますから、行為の後に逸物を清めるということが普通に行われるものです。
そして第二に、形式主義的な儀式観です。
この種散之儀のテクストは儀式の要領を捏造したものですから、そこには作者の儀式に対する考え方というものが如実に現れていることになります。
さきほど、部屋の設営や片付けを誰が行うのかにも意味があるということを指摘いたしました。そうした視点からこのテクストを分析しますと、手順がマニュアル化されているようでいて、そこにはなんら儀式としての意味がないように見えます。
また、そのわりに専用の袴の存在を前提としていること、屏風と懐紙を置く位置について言及がある、そして侍女の呼び方が決まっているなどの形式には重きが置かれているように感じます。
儀式というものはもとより形式を定めて行うものでありますが、しかし、そのひとつひとつになにがしかの意味があることも多いものであります。
意味を持たない形式ばかりが書き連ねられているこの捏造されたテクストに対し、私はまるで皇族を飾り物のように捉える不敬なものさえ感じるのであります。