米倉ゼミナール・ゼミ生ブログ

日本大学法学部新聞学科・米倉ゼミナール(映像ジャーナリズム研究)のゼミ生ブログです。 ■日大法学部・米倉ゼミナール5期生(2019年度・4年生)6期生(3年生)のメンバーが交代で、ジャーナリズム、放送関係の文献の書評、番組・映画評、ゼミ活動紹介などを更新していきます。

初めての世界

初めてのゼミ、初めての研究、初めての仲間。そんな初めてだらけのパイロット研究だった。まず、どこから手をつけて良いのか、何から始めるべきなのか、それすら私は分からなかった。ほとんどはじめましてのメンバーといきなりグループで研究なんて無理だろ、と正直思っていた。春休みから本格的に始まった研究、まわりのゼミは春休みを謳歌している。なのに、どうして週一で集まらねばならないのか、まだ3年になってないんだし、そんな思いがずっと心にあった。いつもだったら大好きなアルバイトができるのに、とも思った。
 だが、3年になってこの考え方は少しずつだが変わっていった。まわりのゼミも活動を本格的に始めたらしく、忙しそうにしていた。もちろん私のゼミは春休みから少しずつだが活動していたおかげで、同期のゼミ生ともコミュニケーション取れるようになり、研究も進んできている。なんだか、まわりのゼミより充実しているような気がした。友人に「米倉ゼミどう?」と聞かれて、私は「大変だよ」と答えるものの、どこか誇らしかった。春休みから始まった研究も5月末には発表ということもあり、3年になって間もなかったが、とっても忙しく、ここまで来るのに本当にあっという間に感じた。
  今回の研究は東日本大震災をテーマに行った。私は東北出身でもなければ、東北に親戚がいる訳でもなかった。したがって、東日本大震災について詳しく知ることができるきっかけとなった。特に今回の研究で印象に残っていることは、周年報道化というような、毎年3月に震災報道が増えることが必ずしも悪いことでもないということである。今まではその時だけする報道が良くないこと、好ましくないこととして考えていた。それは、このゼミに入室する時のエントリーシートでも書いた気がする。関心が薄れていくのはしょうがない、でも、せめて3月だけは震災のことを思い出して、考えよう、忘れてはならない。そんな思いが込められていたことに気がつき、私の考えが変わった瞬間だった。
 まだまだ書き足りないことは山ほどあるが、これからたくさんゼミ生と切磋琢磨して研究に取り組む上で、私の考え、価値観が変わっていく気がする。そして、自分自身がステップアップしていけるような気がして、とっても楽しみだ。次の共同研究は何をしようか。
(うえやまはるか)
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見つめ合う。対象と、自分と。

 

 

パイロット研究とはなんだ?と思う人も多くいると思う。私も初めはさっぱりわからなかった。「パイロット」とは「試験的に行うもの」という意味がある。その意味のとおり、私たちは生まれて初めての「ゼミナールの研究発表」を行った。

 

 怒涛の日々であった。本番が迫っていた頃にはゼミの時間内では作業や打ち合わせが足りず、スケジュールを合わせてゼミ以外で会ったりしていた。スケジュール帳が真っ黒で、予定をたくさん調整したなあという思い出が蘇る。時には自宅で電話しながら作業も行ったが、一度疲れすぎてそのまま寝てしまったことがあった。あの時は本当に申し訳なかった。しかし、それほど追い込まれながら作業を行っていた。

 

 研究発表を終えた今思うのは、やはりまだ課題が山積しているということだ。

 私の行った分析が、人がどう感じうるか、というような論理的に表しにくく分析のしにくい事柄であった。やはり指摘もいただいたし、質問に対してうまく答えられないこともあった。しかし、議論していく中で、どうして私がこの角度から分析がしたかったのか、なぜこの分析方法を取ったのか、ということがはっきり言えた瞬間があった。これは紛れもなく研究してきた成果であると感じた。質問に満足に答えきれず、課題も多く残ったが、成果ももぎ取れたということに嬉しさと、この研究をやってきた意味を感じた。

 また、研究を通して自分を見つめなおしたという気がする。急になんだと思われるかもしれないが、私はこの研究を通して非常に仲間に迷惑をかけた。辛いのは迷惑をかけられた人であるはずなのに、迷惑をかけたという申し訳なさから自分だけが辛いという思いが強くなった。

 私はもとから気が利く方でもなければ要領も良くない、抱えられる仕事量は少ない、という低スペックな人間だが、こうして冷静に振り返って、次に生かそうとすることができている。次は自分がしっかりするのはもちろん、仲間とみんなで上手く分析できるようにしたい。研究を通じて、人間としても収穫が得られた。

 

振り返ると、「学生である間に、なにか一つでも頑張れることがしたい。」と思ってこのゼミに入ることを決めた私は間違っていなかったなと感じる。これからまだ、生半可な気持ちでは取り組めない研究がたくさん待っているが、それらはきっと、また私を成長させてくれるであろう。私も期待して、次の研究に取り組みたい。(うえだ なつき)

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こんにちは!
6月も半ばですね。
雨は憂鬱ですが、紫陽花は雨の中の方が綺麗さを増しているような気がします
梅雨の唯一の楽しみです、、


さて、今回は6期生の第2回ブログ連載のお知らせです!!
テーマは「パイロット研究を終えて」
パイロット研究は、研究とはどのようなものか学ぶために行う軽めの研究です。

先日、無事にパイロット研究の発表会を終え、このブログ連載では感想や感じた課題などを綴りました
「ゼミってどんなことするの?」「研究ってなに?」という疑問を持つ、大学1、2年生の皆様には特に読んでいただきたい連載となっております!

明日から連載開始です。
お楽しみに〜

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↑発表会の様子



東日本大震災から8年が経ち、記憶や関心が薄れていくなかで、いま6期生はメディアが震災をどう伝えているかを研究しています。これは6期生の各メンバーが震災をどう経験したのかを、自分なりのタイトルをつけて記したブログの連載です。

          右目で見ること、左目で見ること

 東日本大震災と聞くと、私はいくつかのズレが思い浮かびます。

「パスポートをとって、うちに来ない?」ドイツの知人から、そう言われたのは震災から1ヶ月たったころのこと。“放射能の影響で東京ではマスクなしに外出できない”というドイツ国内での報道を見て、連絡してきてくれたのです。「東京は今のところ大丈夫だ」と返事をしましたが、そこに自分の実感している震災と大きな感覚のズレを感じました。

同じような感覚のズレは、ある時、祖母に戦争中は暗く重い時代だと思いこんで質問すると、帰ってきた答えがサトウキビが甘くて美味しかったことだったり、学校の先生の癖が変だったことを話してくれて、拍子抜けしてしまったことに似ています。これは、当事者の感じ方と場所や時代が離れた人からの感じ方が異なっていることからくるようです。このちょっとした違和感は、後々ものどに引っかかった小骨のように私の中にありました。

もう一つ思い出すのは、震災当日の細切れの記憶です。ブランコのように揺れる蛍光灯を見上げる英語の先生のぽかんとした口や、机の下で友達と手を握り合った感触、「これは避難訓練じゃないんだぞー」と叫ぶ校長先生の声、CMのなくなったテレビ。ここでも、自分の小さな体験と、テレビに映る想像をはるかに超えた大津波の映像とのズレを大きく感じました。

これらのズレを考える時、目の構造に例えて考えてみると分かり易いです。目の前に一つのリンゴを見ているとします。右目で見るリンゴと左目で見るリンゴにはちょっとしたズレがあり、両目でみることによって立体的な1つのリンゴとして見ることができます。同じように、ドイツの知人から見た“東日本”と、日本にいる私から見た“東日本”、より震源地の近くにいた人から見た“東日本”の像は、ズレがあります。その3つのズレを知ると“東日本”という像の奥行きが見えてきます。ただ、リンゴと違って、大震災はあまりに大きく、立体的に見る(理解する)のにもっと複数の視点を知ることが必要です。別の地点から眺めた視点を、時間をかけて自分の中に取り込んでいくことでしか、大地震の全体像をつかむことが出来ないのです。

私の家の押入れには、震災が起きた日から3日分の新聞がしまってあります。いつか、もっと全体が見えるようになった時、取り出して見ることができるように。(やまかわちひろ)

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東日本大震災から8年が経ち、記憶や関心が薄れていくなかで、いま6期生はメディアが震災をどう伝えているかを研究しています。これは6期生の各メンバーが震災をどう経験したのかを、自分なりのタイトルをつけて記したブログの連載です。

今を大切に


 私はよくまさかのことを考える。万が一のことをよく想像する。いつ何が起きるか、いつ誰を失うか、いつ自分がどうなるかは誰にも分からない。

 あの日から私はそう考えるようになった。私が小学6年生の時、学校から帰ってくると信じられない光景が目に飛びかかってきた。黒い大きな濁流が車も船も家もすべてを飲み込んでいた。そこが海の上ではなく陸の上で、それも普段人々の生活している町であるということを私は受け入れることができなかった。私はその光景に自然の怖さを思い知らされた。私は小さい頃から海の近くで育った。海はいつも穏やかで、どんな時でも私の心に安らぎを与えてくれた。そんな海がここまで黒く大きく形を変えて襲い掛かってくるのかと衝撃を受けた。まるで悪魔のようだった。

 震災の日の朝は、私たちはそれぞれいろいろな気持ちを持ちながら一日の始まりを迎えただろう。ドキドキしていたり、イライラしていたり。しかし、誰もがきっといつもと同じような夜が来て、次の日が来ると思っていたはずだ。いつものような生活は奪われた。次の日が来なかった人もいた。私たちは絶対こうであるなどとは言い切れない。私たちが思っているようなときの流れ方はしない。だから私は伝えたいことは今伝えたいし、やりたいことは今やっておきたい。

 私は震災後のニュースで一人の中学生の答辞を耳にした。その答辞の中の言葉が私にはとても印象的で胸に響いた。

 『自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で私たちから大切なものを奪っていった。(中略)しかし、苦境にあっても天を恨まず運命に耐え、助け合っていくことがこれからの私たちの使命である。』

 襲い掛かってくる巨大な津波を私たちは止めることなどできず、次々と住む家を破壊され、数多くの命を失った。しかし、このような甚大な被害を前に私たちは立ち上がった。癒えない傷を抱えながらも希望を持ち、夜の寒さを忍び、泥の中をかき分けて、重い石を持ち上げ続けた。被災地で湯気を上げる炊き出しの前では笑顔さえ見えることもある。私はそこに人間の強さを感じた。(やぎまさと) 

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東日本大震災から8年が経ち、記憶や関心が薄れていくなかで、いま6期生はメディアが震災をどう伝えているかを研究しています。これは6期生の各メンバーが震災をどう経験したのかを、自分なりのタイトルをつけて記したブログの連載です。

当たり前

                        

「津波が来ています。一刻も早く逃げてください。」

「今すぐ逃げてください。」

繰り返し避難勧告を強く促すキャスターの声に、鳴り続ける避難警告音。キャスターの勧告と共に、映し出された沿岸部の海面の様子の中継。さらにキャスターと映像の背後から聞こえる、報道フロアで飛び交う様々な声も。私にとって、東日本大震災といえば、この光景を思い出す。震災を象徴する津波は、私にとっても印象強く記憶に残っている。それだけでなく当時の記憶は今でもはっきりと覚えている。

2011311日。発災からわずか数分で、テレビはスタジオから東北沿岸部の津波中継へ切り替わった。次第に、津波到達の様子が映し出され、想像をはるかに超える津波の恐ろしさを目の当たりにし、津波が次々と街を飲み込んでいく姿に唖然とした。リアルタイムで映し出される衝撃的な映像に、これは本当に日本で起こっていることなのだろうか?とさえ思った。そう感じるほどに、自然災害によって、一瞬にして日常が奪われてしまった事実を簡単に信じられなかった。

  津波が街を破壊していく映像を見て、私は「当たり前」の日常というものは、突然に一変するということを思い知った。大きな被災はなかったものの、私自身、震災直後1週間は、決して「当たり前」の日常を送れてはいなかった。余震や地震速報の音に怯え、夜はニュースをつけっぱなしにして家族全員リビングに集まって寝た。枕元には、すぐに避難できるよう荷物をおいた。朝起きたら、世界が一変しているのではないかと不安だった。食料品はどこを回っても品切れで、昼食代わりにと、友達と持ち寄ったお菓子を食べたりもした。それが私にとっては幸せで、友達といれることが心強かった。

私は、家族や友達が無事だったことや、変わらない地元の光景が、どれだけ幸せなことなのかに気付かされた。自然災害は、誰の身に襲いかかるかわからない。次は、自分かもしれない。故に、「当たり前」に慣れてはいけない、甘んじてはいけない、大切にすべき、感謝をすべきだ。11日「当たり前」の日常を。そう東日本大震災は教えてくれた。(にわまどか)

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東日本大震災から8年が経ち、記憶や関心が薄れていくなかで、いま6期生はメディアが震災をどう伝えているかを研究しています。これは6期生の各メンバーが震災をどう経験したのかを、自分なりのタイトルをつけて記したブログの連載です。

変えていくために

8年前の311日、東日本大震災が起きた。当時、私は小学校6年生だった。初めて体験した震度5。「とうとう関東大震災が起きた」と感じた。勝手に父親は死んだと決めつけていて、学校に迎えに来てくれたときは嬉しくて泣いていた。

 家に帰ってテレビを見て、自分が体験した揺れはまだ小さかったことに気づいた。津波が街を襲っていく映像の恐怖感を今でも覚えている。しかしその恐怖感の一方で、「東京は被災地ではない」と感じ、この震災を他人事として考えるようになった。届かなくなった給食の牛乳からは震災の影響を感じたが、被災地で起きていることやその後の復興予算の使い道については、遠い場所の無関係な出来事に感じていた。

 大学3年生の現在、放送ジャーナリズムを専攻し、ゼミで東日本大震災についての報道を調べている。研究を進めていく中で、今年の報道の傾向は震災の被災地のことだけでなく、一般的な「防災」を扱ったものが多いことが分かってきた。避難時の注意や、避難生活を少しでも快適にするための工夫についてのリポートなどである。私たちが先行研究を読んで立てた作業仮説の中に、「自分事化するような取り上げ方はされているか」というものがある。防災に関するニュースの増加は、この自分事化する報道に当てはまるのだろうか。

 この仮説を立てた理由として、坪井ゆづる氏の「被災地で問う『この国は変わったのか』ゆがみは露わだが、変化の兆しも」という文献がある。その中で坪井氏は、国まかせではなく、自治体レベル、個人レベルで復興について本気で考えるべきだ。社会を変えていくのは私たちで、支援の思いを抱いているだけでは何も変わらないと述べている。そこから被災地以外の人にも、震災を自分事として考えてもらう報道が必要だと感じた。その点で考えると、現在の報道を自分事化として捉えるのは的外れな気がする。

私は、現時点で報道の流れを変えることはできない。しかし、坪井氏が述べているような、本気で復興について考えることはできる。東京に住んでいると、地域のつながりが弱く、自治体を意識する機会も少ない。私がその自治体を意識して変えられるチャンスであったのが、この前行われた区議会議員選挙だ。しかし、恥ずかしながら投票に行くことを忘れていた。今後は被災地の復興や様々な問題について、自分たちが変えるべきものとして考え、行動に反映させていきたい。(にしむらゆみか)

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東日本大震災から8年が経ち、記憶や関心が薄れていくなかで、いま6期生はメディアが震災をどう伝えているかを研究しています。これは6期生の各メンバーが震災をどう経験したのかを、自分なりのタイトルをつけて記したブログの連載です。

心の中の教訓


再び起こり得る震災に、どう備えればよいか。災害に対する具体的な教訓は、世間で共有されつつあるように感じる。しかしあの震災は、私の心の中に、あることを考えるきっかけを与えてくれた。

 

「あのとき何してた?」東日本大震災について話すと、必ず出てくる言葉であるといっても過言ではない。小学校の卒業直前に震災を経験したため、中学校に進学したての頃、この話題で盛り上がった。

「俺はちょうどジェットコースターの頂上にいて、めっちゃ揺れちゃってヤバかった!」

「私は普通に帰りの会の途中だったなぁ」

と、明るく笑って話す同級生がほとんどだった。東京暮らしの中学生にとっては、何気ない過去の話に感じてしまうためだろうか。ただ面白おかしく、自慢するような話し方だった。当時の私もみんなと同じように振る舞ってしまっていたが、少しだけ違和感を覚えていた。今振り返ると、その気持ちの正体が明確にわかる。

  もしそこに、被災地である東北に住んでいた人がいたら、震災で大切な人を失ってしまった人がいたら、どう感じるだろうか。思い出すのも辛いかもしれない。

 

大学2年生になって、岩手県釜石市出身の後輩と仲良くなった。出会ってしばらく経ち、実際に東日本大震災が起きた当時についての話を聞かせてくれた。「私は大丈夫で学校まで親が迎えに来てくれたのですが、友達の中にはもう両親と会えなくなってしまった子もいて…」頭を鈍器で殴られたような気分になった。震災からある程度の時間が経った今でこそ話せるという雰囲気で、大変だった時期を乗り越えたような彼女の口調だった。しかし被災地を知らない私には、計り知れない苦悩があっただろうと感じずにはいられなかった。

 

自分にとっては未知の場所で起こった出来事だからといって、軽率に発言するべきではない。今回不幸にも東北の方々が被害に遭ってしまったが、自分にいつどのようなことが起こるかは、誰にもわからない。決して他人事ではないのだ。東日本大震災に限らず、身近なことでも、自分とは異なる立場にある人々への思いやりが必要である。この教訓は、自分の心の中で今でも生き続けている。(たぐちみき)

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東日本大震災から8年が経ち、記憶や関心が薄れていくなかで、いま6期生はメディアが震災をどう伝えているかを研究しています。これは6期生の各メンバーが震災をどう経験したのかを、自分なりのタイトルをつけて記したブログの連載です。

ガンバレ、私の第2のふるさと
             

 私にとっての東日本大震災とは、変わらないふくしまの形だ。ヒトの持つ力の強さ、そこに変わらずに在る形は、幼かった私の心に深い感動をもたらした。

父親が福島県に単身赴任していたのもあり、長期休暇になるとよく遊びに行った。魚が大好きな私にとっては天国のような場所だった。海沿いの町だったため何を食べても美味しい。魚市場のおじさん達は皆優しく、はつらつとして、とても活気溢れていた。

けれど、あの震災で全て壊された。人も、建物も、全て破壊された。今でも鮮明に思い出すことが出来る。道路の両端に瓦礫の山、あれだけ活気に溢れていたのに誰もいない。

色付いた町がモノトーンの世界になっていた。見知った水族館が消えていた。夏に行った海の家も無くなっていた。美味しい魚を家族で食べたあの魚市場もボロボロだった。壊された、破壊された。私の中の「思い出」はそこには存在しなかった。

 そこからしばらく経ち、10月くらいだったろうか。慣れ親しんだ魚市場が営業を再開したということで久々に家族で行こうという話になった。今でこそ落ち着いてはいるが、当時は放射能の影響が――ということで福島産の飲食物は食べないという風潮が強かった。私達家族はそういった考えは無かったが、もし福島県に対し強い思い入れが無かったといたら…。同じように福島産は避けていたかもしれない。

 市場に着いた私が見たのは、以前となんら変わらない光景だった。一夜干しされたイカやメヒカリ。美味しそうな刺身。前と同じ場所でおじさんが威勢よく働いていた。もちろん魚の種類も、人も少なかった。けれど震災前と同じ、活気に溢れた光景があった。

今振り返って思うが、船が流されても漁を行い、風評被害と戦いながらも営業を再開した人々の苦労は、私には想像もつかないものだったろう。だからだろうか、商品を買った時のおじさんの「まいど!ありがとうね!」という言葉と笑顔からは一言では言い表せないような感情が出ていた気がした。

 今年で震災から8年が経った。大きな商業ビルが建つなど、私の知る景色とは違うが復興も順調に進んでいる。見知った景色が無くなるのは少し寂しいが、あのおじさんが働く市場はそこにある。完全な復興には長い年月が必要だが、大丈夫だ。ヒトの持つパワーは無限大だ。私にとって第2の故郷、遠くからでも応援しよう。がんばれ。

 そうだ、離れていても出来る故郷へのエール。今日は帰りに福島産の牛乳を買って帰ろうかな。 (おかの ともき)

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語り継がなければいけない

「うわぁ〜揺れてる!地震だ!」と友達の叫び声、そして女子生徒たちの悲鳴。東日本大震災という言葉を聞くと、私はまず先に、授業の一環で図書室にいたこの光景を思い出す。2011年当時私は六年生。残りあとわずかの小学校生活を惜しみつつも、新たに始まる中学校生活に期待と不安を抱きながら普段通りの一日になる…はずだった。14時46分、歯車が狂った。屋上にあるプールの水が滝のように落ち、遠くの方では火事で煙が上がっている家もあった。この時まだ、”東京で”大きな地震が起きたとしか思っていなかった。

 しかし、その事態の深刻さは私の想定をはるかに超えるものだった。家に帰りテレビをつけると、NHKや民放各局が報じていたのは東京ではなかった。画面の左上に「マグニチュード8.8 国内最大規模」の文字。仙台や福島、岩手の様子が次々に切り替わっていくが、どれもショッキングな映像だった。資料映像ではなくリアルタイムで、日本で起きている。津波が家々を飲み込んでいき、その津波から猛スピードで逃げていく車。そして燃え盛る炎。SF映画でしか見たことのなかった映像が今、日本のニュースで流れている。「これは現実なのか?」12歳の私はただ呆然と、テレビの前に立ち尽くしながら津波の映像を見ていた。

 あれから今年で8年が経過した。震災報道特番ではここ数年で「あなたならどうする?」と視聴者である私たちに語りかけてくる様になった。私は常々”もしも自分だったら…”を考えてしまう。「もしもテレビに映る、家族を失い地面にしゃがみ込む男性が自分だったら」「もしも津波に飲み込まれ泣き叫ぶ子供が自分だったら」と。今後起こりうるかもしれない大地震から決して目を背けてはいけない。そして、決して忘れてはいけない。

 家を失ったわけではないし、家族を失ったわけではない。しかし、東日本大震災の悲劇は他人事ではない。この悲劇に、自分が見舞われないという保証はないのである。八年経っても当時の見ている景色、当時の感じていた想いは全く消えていない。むしろ、これからもずっと消えることはないと私は思う。

 この悲劇で失った命を無駄にしてはいけない。そしてこれ以上の犠牲を増やさないためにも、我々の記憶から、決して風化させてはいけない。その景色や体験は、おじいちゃんおばあちゃんが戦時中の体験を教えてくれるように、私たちもこれから生まれてくる子供や孫世代に語り継がなければいけない。(おおむら こうすけ)

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