イラストレーター・ ヨネヤマフミアキ presents イラストーク

イラスト、マンガ、似顔絵、筆文字などを制作するイラストレーター・ヨネヤマフミアキのブログ。 とくにテーマはありませんが、イラストなどをちょくちょくアップしていきます。

ご無沙汰しております


大変ご無沙汰しております。
久しぶりに書き込みます。また近々、記事を書きたいなと思っております。
どうかよろしくお願いいたします〜。

3月3日のひな祭り

100303_女
今日は3月3日のひな祭り。ということで、サラリと描いた女性画をアップしました。細いペンで下描きなしで描いたのですが、結構品良く仕上がっているので気に入ってます。

思い通りにならないのがアタリマエ?

「世の中、自分の思い通りにならないのがアタリマエ」という。
だが、殆どの人間は、ほぼ完全に自分の思ったとおりになっているはずだ。

それを説明するにはまず、言葉の定義が必要となる。
まず「自分」「思い」という言葉の定義を明確にしなくてはならない。

「自分」には二通りある。「潜在意識」と「顕在意識」。
この二つがまったく同じことを考えていたら問題はない。
しかし、両者の思いにはかなりの差があることが多い。
頭では、将来は学校の先生に成りたいと思っていても、心では、「作家になりたい」と思っていたりする。
その場合、大概が潜在意識のほうに動くようだ。比較にならないほどに潜在意識のほうが強いから

一方、「思い」という言葉も、一つのケースだけではない。漠然とした「思い」と「明確な強い思い」。漠然とした思いでは何も成就しない。とろ火で風呂を沸かそうとしても埒があかないのと同じである。

紙につけた黒丸印をめがけレンズで偏光させた日光をあて、熱で穴をあける・・・。
このことは、この例によく例えられる。

「自分」がレンズで「思い」。しかし、もっと正確にいうと、「自分の顕在意識」レンズで「自分の潜在意識」がレンズを支えている腕、ということになる。
これにブレがあると、どんなに努力しても穴をあけることはできない。

一生懸命頑張っていても気がつくと焦点がずれているなんことはよくある話だ・・。
そういうときに、「世の中思い通りに進まないなあ」という言葉が出てしまうのかもしれない。

元ジャイアンツの桑田真澄投手や、サッカーの中村俊輔選手。
彼らは、小中学校の指導者の目では、「素質の面では3-4番目」だったらしい。
しかし、「最も熱心に取り組んでいた者」だったという。


特に中村俊輔は、高校入学時には身長が160センチそこそこ。
今後サッカーを続けるには致命的だったらしい。
だが、その後一年で15センチも伸びたという。「伸ばした」というべきか。

同様に、背を「伸ばした」話はレスラーにも多い。
猛烈に強い願望の前では、思春期に身長を延ばすことぐらいはたやすくやってのけるのかもしれない。

しかし、ほとんど人の「思い」は、どうだろう。
日常生活のなかで大半を、どうでもいい思考や不満や愚痴などに向けてしまっている。
そう考えると、魔法のような達成能力を持ちつつも、我々の多くは、使用しないまますごしてしまっていることになる。

結局は、集中力。これがすべてに勝るのか。

ロス疑惑の終焉

三浦和義のロス疑惑が、意外な終焉を迎えた。彼の死が自殺か他殺かは、今後も藪の中とされるだろう。

80年代。スキャンダルの渦中の三浦和義は、小説に出てくるような男だった。
ピカレスク・ロマン。まさしく悪漢小説の主人公だった。

ワルの定義もさまざまだ。
チンピラになるのはたやすいが、ワルで主役を張るのは難しい。
能力が高くなくてはならない。強くなくてはななない。カッコよくなくてはならない。

三浦和義はカッコよかった。背が高くハンサムで、常に美女に囲まれていた。英語を操り、法律を自家薬籠中のものとした。学歴はないが雑貨商として独立、一人で海外でビジネスをし、美女を片端から口説き、乱交パーティに参加していた。
そこに立ち込める悪の疑惑。
・・・これはもう、小説の主人公以外の何者でもない。

ニュース・バリューは、光と影の落差が激しいほど高騰する。
「清廉潔白といわれる大僧正が、10億円の所得隠しをしていた」という話ならバリューはある。しかし、「気の小さい隣の勤め人のおじさんが、交通費を200円ちょろまかした」という話では、ニュースにならない。
・・・光と影の落差が激しいニュースを、人はスキャンダルと呼ぶのだろう。


90年代のアメリカン・フットボール界の超スーパースター、OJシンプソンの事件もその一つ。引退後は俳優としても成功していた、歴史上に輝く超スーパースターが、自分の妻をストーカーまがいの惨殺をしたという事件。この光と影の落差も凄まじい。
メインストリーム照らす爽やかかな光と、人種差別や劣等感、スーパースター特有の孤独や重圧という陰だった。

一方、三浦和義はどうだろう。アウトサイダーが才覚と魅力でのし上がった妖しい光、その光源潜むヤバイ影、そんな仕組みのスキャンダルだったのではいか。

高校時代からすでに、火事の発見者として表彰される一方、放火の容疑で逮捕されたという。人生の最初から疑惑にまみれ、生きている間も、死に方すらも疑惑にまみれた人生だった。

おそらく100歳生きても、200歳生きても、ずっと灰色・灰色・灰色の人生を送ったに違いない。人間というのは、そういう意味では変わらない生き物だなあと実感する。

・・・彼は、獄中ではどんな音楽を聴いていたのだろうか。
「グレイ」だったら笑えたりして。

“カッコイイ”って何だろう〜あしたのジョーを見て思う

ときどき、動画サイトでアニメを見る。名作といわれているものを見ればハズレは少ない。コンテンツ制作能力の劣化した現在の地上波テレビを見るよりも数倍意味がある。名作「あしたのジョー」を数話見ているが、止まらなくなってしまう。とにかく、“力石徹”がやたらカッコイイ。

力石は、漫画史上に残る名キャラクター。カッコよさという点では比類な存在だ。
力石は、すべての少年が憧れるすべての要素を持っている。精悍な容姿、たくましくバランスのとれた肉体、バツグンの才能。強い精神力、繊細な神経、鋭い洞察力。少ない口数。加えてあの、印象深いテーマ音楽。

力石の最大の特徴は何だろう。・・・「孤独」である。
ジョーは孤児院出で、放浪少年だった過去を持つ。しかし丹下段平との出会い、西やドヤ街連中との愛情に包まれて生活している。一方、力石自身は人望を備えているが、どこか影がある。白木葉子や美樹太郎氏の庇護を受けつつも、常に一人きりで行動する。

そう、力石には孤独が似合うのだ。誰かと連れ合ってベタベタしている雰囲気がない。ボクシングにおいてもトレーナーもつけず、一人で決断し一人で行う。そして、一人でフト消えてしまう。そんなイメージなのだ。
“自分以外に誰にも見ることの出来ない世界”を見、それに向かって歩く。他人に干渉はしないかわりに、弱音、愚痴や批判、不平不満を一切言わない。
こんな男がカッコよくないはずがない。

・・・類型はいるだろうか。
ムーミンのスナフキン。木枯らし紋二郎といったところか。
この二人は、ともに流れ者だ。住居がハッキリしている力石とはそこは違う。だが、単独行動者であること、他者には見えないものに向かって進む者であるところは共通する。

力石やジョーは確かにカッコイイ。でもそのカッコよさは、危険と孤立との隣り合わせ。クルマでいえば、スポーツカーのカッコよさである。しかし、F1カーは確かにカッコイイ。だけどレース以外の場所では何の役にも立たない。クラッシュする率が高く、燃費も悪い。寿命も短くメンテも大変でツブシが利かないものでもある。

一方、マンモス西などはどうだろう。
乗用車や業務車であり、カッコよくはないが、リスクも孤立も少ない。使いまわしが利き、寿命も長く、メンテの手間もかからない。

もし、ジョーや力石のような人間が実際にいたらどうなのか。
若い頃は、孤独の翳りが人気を呼びヒーロー的存在になるかもしれない。女たちからもさぞかしモテるだろう。

しかし。その人生の差は、F1カーと業務用自動車の比較で見れば明らかだ。
F1カーは古くなればなるほどつぶしが利かなくなる。業務車には、古さはさして致命的ではない。ポンコツになりつつも一生懸命働いてくれた業務用社には、憧れはなくても愛着がわくはずだ。

若い頃は鮮やかだったジョーたちは、加齢が進むにつれて孤立した変わり者になり、老境には破滅する確率も増える。間違いなく幸せなおじいさんとは程遠い生き方だろう。

・・・おそらく、自分をはじめとしたほとんどの人間が、「マンモス西」の類型をウロウロとしているに違いない。善人でもなく悪人でもになく、そのどちらにも徹しきれない中途半端な人生を送っている。
だから力石みたいな人間をカッコイイと思うワケで。まあ、ないものねだりということでしょうか。

どうやら、「憧れ」の仕組みもそんなところに隠されているのかもしれないと、相変わらず役に立たないことを考える今日でありました。

ブログ〜スポーツを見るとどうして感動するのか

スポーツはよく、人生の縮図という。
感動するというのは、共感するということ。強い肯定的な影響を受けること。

人々は、アスリートが他人と競う姿に共感するのだろうか。
おそらく、それだけではあるまい。
しかし、「他人と争った結果の勝敗」だけが、最終的な意味ではない。それは、「スポットライトを浴びる権利争い」の意味合いが強い。五輪の金メダルの選手であろうと、予選落ちの選手であろうと、一つのことに打ち込む素晴らしさには変わりがない。

プロ野球より、能力的には圧倒的に劣っている高校野球の試合ほうが、ときとして感動を与える場合があるのがその証拠である。

いくら突き抜けた世界記録保持者でも、その選手が不正を働いたり、薬物を使っていたり、、手を抜いたプレイでは人々は感動しないだろう。
一方、目立たない選手でも、コツコツ地道に力を付けていく姿などは感動するのではないか。

人間は、サルの時代からあらゆる逆境に見舞われてきた。
恐竜に襲われ、氷河期に直面し、病疫にやられてきた。それらを智慧と工夫と忍耐で乗り越えてきた。氷河期には集団でマンモスを狩り、毛皮をコートやテント代わりにして生き延びた。狩猟する動物がいなくなると、米の栽培で生きていくことを獲得。いくつかの天災、疫病を克服するために科学が発展し、精神を救うために宗教が生まれた。度重なる絶体絶命の危機を、智慧と勇気と忍耐で切り抜けてきた。

アスリートたちの競技もキャリアもまさしく、そんな“人間の歴史の縮図”なのではないか。一つの競技自体に、人類の歴史の縮図が織り込まれている。いうなれば、人間という生物のDNAを感じ取るのではないか。我々の人生も同様だ。すべてのの人に“決して平坦ではないドラマ”が隠されている。
それと同様なものを、スポーツのなかに見出すのではないだろうか。

スポーツというのは、「筋書きのないドラマ」とよく言われる。
勝敗の波乱が、まるで鑑賞用のようにできているから不思議だ。
ドラマの中に、人間同士のDNAを確認しあったときに、“感動”を引き起こすのだろう。そんな仕組みなのかなと考えた。



隣の芝の霊能力

一時期、四柱推命に凝っていたことがある。
図書館である本を借り、「基本的な性格」を最初に占ってみた。恐ろしいほど当たっていた。
他の占いと異なることは、各個人が5つの基本的な星を割り出し、その組み合わせや配列によって作用の仕方が異なってくるということだ。気持悪いほど当たっていたので、とても興味を持った。

次のステップとして、「過去の出来事や未来予測」にトライしてみた。しかし、ちょっと突っ込んだところまで進むとなかなか難しい。占う方法がかなり複雑なのだ。星の組み合わせにおいても、オプションやら例外パターンなどがあまりに沢山ありすぎる。また占いの本の著者によっても微妙に方法や読み方が異なってくる・・・。
「これ以上はプロに習わないと難しいのかな」ということで中断してしまった。

昨日は、霊力を持つ人の本を読んだ。小説家・佐藤愛子とタレントのピーコさんとの対談本。佐藤さんの話によると、美輪明宏さんは、第一級の霊能力者であるらしい。20年ほど前、佐藤さんの別荘に幽霊が出、ある知人に電話で相談したら美輪さんを紹介されたのが最初。それまで霊の存在などまるきり信じなかった佐藤さんは、美輪さんに電話をし、別荘の状況を説明した。二人の会話はそれが最初なのに、美輪さんは、電話口で別荘の場所や雰囲気、状況など全部いいあてたという。
動物の憑依、先祖の祟り、前世の因縁・・。そこから見えない世界の話が、延々と出てくる。

それはそれですごい。
しかし、あまりにも途方もない別世界なので、スゴいというだけで何の参考にもならない。
たとえば、40歳を過ぎて何かのキッカケでピアノを弾いた人がいるとする。実は非常なる才能があった男があり、先生に「もしあなたが5歳のときからピアノをやっていたら、一流の演奏家になれたかもしれません」などと評されたとしよう。でも現実の彼は40歳を過ぎてしまっている。この場合はまあ、「趣味のピアノ弾き」として人生を楽しめば良い・・・ってワケで。

結局、そういうのって“縁”だと思う。世の中には、自分に縁があることないことがある。縁がないことを望んでも仕方がないワケで。霊力だとか、オーラが見えるとか見えないとか、前世が何だったかとか・・・。その手のことを丸きり信じないわけでもないけど、自分にはあまり縁がないことなので、深入りをする必要もないかな、と思っている。

縁があることには、一生懸命対処するけど、そうでないものに岡惚れしても仕方ない。魚は海を泳げば良く、鳥は空を飛べばいい。魚が鳥を見て、「俺も空を飛びえてえな〜」なんて考えても仕方がないって感じである。
自分の目の前にあることをしっかりやればいいではないか。自分の今、ここにあることに集中してさ。少なくとも自分の場合は、そういう風にしかできないみたい。

とはいいつつ、隣の芝は青いもの。自分が持っていないから、なお更強烈に憧れが高まったりする。ノッポとチビ、デブとヤセ、キレイとブサイク、年寄りと若者、さまざまな「ネイバー・グリーンズ(隣の芝が青い人たち 笑)」がくっついては離れる。
やがてそのうち疲れてきて、適度な青さの隣人を探してさまよい歩く、我々はそんな日々を繰返しているのかもしれない。

なんていいつつ、今日の食事は、魚にしようか鳥にしようか、迷いながら商店街をうろついている自分がいたりする。



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桜やつつじが呼ぶ季節

狭い部屋で仕事をしていると、次第に息が詰まってくる。かといって部屋着を着替えて外に出るのも億劫。本を楽器を弾いたりベッドに寝転がったりして気を紛らしている。だがなんか物足りない。身体を動かしたいのだ。でも外に出るのは億劫。そんな折、新たなアイテムを購入した。

ソフトボール大のスポンジボール。部屋の壁に何度ぶつけてもまったく問題ない。100円ショップで購入した。野球のボールのようなコーティングがなかなかカワイイ。

作業姿勢が続いて肩がこったとき、パソコンが立ち上がるまでの中途半端な待ち時間、そんなときにこのボールを壁にぶつけている。

子供のころから野球をやっていた。小学生のころは毎日、近所の“品川区土木研修センター”の壁にボールをぶつけて練習をしていた。ボクにとっての壁ぶつけは、相撲取の四股のようなもの。へぼ将棋の貧乏ゆすりのようなもの。心が落ち着くのだ。

以前も壁ぶつけアイテムを探し、何度もトライしてきた。ピンポン球やゴムボールはダメだ。小さくて重さがない反発力が強い。あらぬ方向へ飛んだ果てに、机上のコーヒーカップに当たって撒き散らしたり、絵の具皿に当たって作品を台無しにしたり。机の下などにもぐり込み、探したときには腕がホコリだらけになっているという欠点もあった。このボールにはそれがない。

「これはいい!」などと独り言をいいつつ、映画「大脱走」のスティーブ・マックイーンよろしく、部屋の壁にボールをぶつけている。
そんなアレコレをしてもどうしても行き詰まりから解消されない午後になってはじめて、「ちょっと外を歩いてこよう」となる。

「アタマの中にボールみたいなものがあって、常にそいつを打ち抜きたい」。多くの人(特に男性)は、潜在的にそういう部分をもっている。小高い丘を駆け上がり、小さい河を飛び越え、樹の奥に隠れた獲物のど真ん中にボールを命中させ、「やった」と雄叫びを上げる・・・。
スポーツも、絵を描くことも、音楽も、ダンス、カラオケ、ゲームなども結局は、この本能の発露に根ざしていると思う。

男の子と女の子の最大の違いは空間認識能力。狩りをする男はこの能力が高く、欲求も強い。今の社会は、男の子たちのこの本能を抑圧させている。現代の最大のいじめ等の根本はそこにあるかも。“ひきこもり”なども、この能力の磨き方、表現の仕方などを得られず自家中毒に落ちいている状態を指すのではないか。

暖かくなってくると、本能は顕著になる。
先日も散歩の折、樹からはみ出した枝葉を、テニスのボレー風に「ピシっ」と叩いて歩いてた。そんな姿を、通りすがりの女性に見られて笑われてしまった。「オマエは子供か」と(たぶん)。

もともと落ち着きがなく、ややストレスがたまり気味。ブツブツと社会問題をまぶして自己弁護しつつ、ウロウロ街を歩いている。春を告げる桜が、そんなアホを上からニッコリ眺めてる。
連休を告げるつつじが艶やかに微笑む。

野球をしたい、バンドやりたい、カラオケしたい、酒飲みたい、絵を描きたい、寒くてもギャグを連発したい・・。そんな楽しみが湧き上がってくる,楽しい季節の到来です。

無意識はひたすら黙っている

つい最近、東大副理事クラスの人が電車で痴漢行為をした事件があった。
数年前、有名なタレントが、女性のスカート盗撮で捕まった事件があった。著名なタレント教授が、女性のスカートを手鏡で覗いて捕まった事件もある。
皆優秀な人たちである。子供のころから頭がよく、才能も社交力もあり、努力の末に社会的なステイタスを作り上げた人たちだと思う。

彼らは、基本的にイイ人なのだと思う。
飲み会などで集まると、時間どおりに来て、仕切りや雑用をこなし、他人のくどい話の聞き役をし、気を利いたジョークなどもいい、会計などもこなす人なのではないか。
仕事でも気配り力を発揮し、周囲に頼られ、有難く思われ、よく声がかかったりする。だからあそこまでの成功を収めたのだろう。

だが彼らの本心は、自分だって宴席ではキレイな女性を口説いたり、つまらん話をするヤツを無視したいと本音では思っていたりする。それらを鉄壁の意志力と笑顔で抑え、長年イイ人を遂行してたりする。
周囲から受け入れられればられるほど、イイ人とプレッシャーとギャップが増えていく。

痴漢をした人たちのことを世間では、転落した人ととられる。
彼ら自身、裁判のとき、服役しているときにも反省をしているのかもしれない。しかし心の片隅のどこか一部にホッとしている部分があるかもしれない。もしプレッシャーを受けつづけていたら、昂じたストレスからもっとヒドイ目にあっている可能性もある。それを回避するためのソフトランディングだったと見ることもできる。

ある臨床心理学者の話。
自閉症の小学生の診察をしていた。彼は普段は大人しいのだが、ときどき癇癪を起こす。身近のパソコンや本棚を持ち上げ、投げつける。先生も最初はビックしたが、まるで大川栄策のタンスのごとく、あまりにも鮮やかなので、惚れ惚れしはじめたという。
診療の甲斐あって、少年の自閉症はなおり退院。しかし先生は心の片隅で、あの少年の鮮やかな力技が消えてしまうのが少し淋しいなと思ったという。その少年自身も、世間的には“普通”の少年になれたのだが、なんとなく淋しそうだった、という話。

もう一つ。中年の勤め人を診た話。
患者は長い間、耳鳴りがして困っているといった。様々な病院にいったのだが治らず、その先生に相談。回復の見込みがでてきたときに先生は告げた。「耳鳴りがなくなったとしても、必ずしも幸せなるとは限りませんよ。もう一度よく考えてみてください」と。患者は数日考えた末、「自分はこの耳鳴りがあるから、逆にバランス取れているところがあるかもしれない。完全になくなったらちょっと淋しくなってしまう気がした。だから診察はやめます」と・・・。

所詮芸術や自己表現なんてのはそういう、“自己に内在する何かわからないもの”の変形に過ぎない。それが社会的評価内に収まるか、何の約にも立たないか、はたまた犯罪になってしまうのか、というのは別問題なのだ。

意識なんてのは所詮、海のように広大な無意識のなかで、ポッカリ浮かんだ泡のような存在。泡はプカプカよく喋るが、無意識はひたすら黙っている。だからなかなか理解できない。
ごくたまに、伝えてくるメッセージも、空を飛んでいるところだったり、荒唐無稽だったり、不条理で難解な夢だったする。ああ、徹底的に不器用なヤツだ。

心の中でヒッソリ眠る、理論のまったく通用しない、無意識という野獣をすべての人が飼っている。不器用だからといって、無視しまくるとトンデモナイ反撃を喰らう。どうか皆様、ご注意を。



国の健全、自分の健全

400d377a.jpg風邪を引いた。
スゴク久しぶり旧友とようやく会え、気合を入れたプレゼンがやっと終わり、手間のかかる作業を終え、やっとホッとした。・・・途端にコロっと風邪を引いた。
野球で例えるとポテンヒットみたいに、風邪は絶妙の機会を見計らって、ポコッと身体に休みをくれる。
緊張が続いてるときには風邪を引かず、ここで大丈夫だというときに一気に出る。
「いやあ、風邪を引いちゃって、参加できなくなってしまった・」などキャンセルできる相手というのは、たいてい甘えることのできる身内の人たち。じゃなかったら元々気が進まなかった約束ごとである場合が多い。

“やる気のなさ”というのも風邪ににている。
やりたくないこと、キライなこと、疲れているとき、他へ気持ちが向いているとき。やる気のなさがサインを鳴らす。「こういうときにムリするとロクなことがないぜ」と、“やる気のなさ”がボクらにメッセージを送っているのだ。


それを承知で無理を続けると、“ウツ”になる。
サインではなくアラームに変化するのだ。
世の中にはウツになる人が増えている。
基本的には、人間というのは生産効率性を最優先にして生活し続けるようにはできてはいない。
しかし、現在は経済至上社会。コンビニがあり、ネットが張り巡らされ、男女雇用機会均等法があり、24時間タタカウことを誰もが受け入れる覚悟が必要、という時代に生きてる。

おそらく多くの人が、それに拒否反応を抱いているに違いない。しかし時代という専制君主には逆らえないから、顔には出せない。“ウツ”とは、無理やり適応されるにロボットのごとく働かせようとする流れへの、防御策なのではないか。

ロボットというと、今ハヤリ?の“機械”という言葉に置き換えてもいい。
あれを言った人たちは、「多くの“機械”たちへプログラミングを指令しているのが自分たち」だと考えており、発言によってそれが透けて見えてしまっている。

子供を産む⇒○ 産まない⇒×
ヤル気がある⇒○ ない⇒×
夢を諦めない⇒○ 諦める⇒×
というような01010101が沢山ならんだカードを、彼らの都合のいいように書き換えようとしたいのだろう。

富国強兵の時代には「産めよ増やせよ」と煽り、
戦時中は「贅沢は敵だ」と引き締め、
高度経済成長の労働力不足には、「オンナも働け」尻を叩き、
バブルの時代には、「24時間タタカエマスカ」と謳い、
不況に陥ると、「夢を諦めないで〜」とたきつける。

その結果、民衆がクタクタになってしまっている。
すべてのことをお金に換金し尽くし、あげくに未来の人口までもが減少しているってわけである。
多くの人が、「ありのままでいいんだよ」という境地に近づいてきている昨今。
そこに、「格差社会」で、鼻先のニンジン競争を徹底させようとする発想・・・。
そこに、「産む機械」「二人が健全」という、空ぶかしをさせようとする発想・・・。
制度でしか人を動かすことのできない人たちとの、この発想のズレ具合。

今、多くの人に必要なのは、「贅沢は敵だ」という引き締めでも、「産めよ増やせよ」でもない。
「休息」が必要なのではないか。「24時間タタカエマスカ」といって強壮剤を飲みたいのではなく、「ありのままでいいじゃんか」といって休みたいのだと思う。
充分休めれば、子供も作りたくなるのではないか、自然の流れで・・。

柳沢さんという人は、人としては案外イイ人なのかもしれない。国家の本音をそのまま丸出しにしてくれるのだから。
政治家の側から見れば、“安全弁が壊れた、ちょっとヤバい機械”といえるかもしれないが。

セレブたちの光と影

a0659f8b.jpg渋谷で起こった妹殺害バラバラ事件。新宿で発見された夫殺害バラバラ事件。猟奇的事件が続く。
この二つに共通することがある。これらの家族は、都心に住み高級を取り、周囲の人も認めるセレブ系の人々であること。外側から見ると順風満帆に恵まれた人であったということだ。

昔から、上流家族の惨殺事件は多い。高学歴家族の夫婦が受験ノイローゼの息子を殺すケースが目立つ。「金属バット殺人事件」、「開成高生殺人事件」。セレブ系では「O・J・シンプソン事件」が衝撃的だ。逆に、下町の魚屋の妹惨殺事件とか、商店街の豆腐屋の夫バラバラ殺人といったケースは少ない。

この世のすべてのものには、光と影がある。
人間の心も同様だ。「自我」と「シャドー」というものがある。
自我というのはエゴイズムである。「オレがオレが」といった自分本位の気持ち。しかしそれを露骨に出すことは道義上許されない。通常“いい人”の仮面を被っている。それを「ペルソナ」と呼ぶ。エゴイズムがある以上、都合どおりに進めることを邪魔する憎らしい存在がある、それを「シャドー」という。普段はペルソナが圧倒的に支配しているので、シャドーの存在は無意識レベルに押し込まれている。
つまり現代人のほとんどは、自分のエゴを押し通すために努力をし、それをペルソナという仮面で正当化し、邪魔モノや憎しみはシャドーという暗闇に押し込んだ毎日を送っている。

光と影の関係と同様、ペルソナが大きさに比例してシャドーも大きくなる。
「エゴ⇒努力⇒成功」とエスカレートする。すると、「シャドー⇒競争⇒憎しみ」のほうも肥大する。セレブになると、社会的に高度な人格を要求される。それを演ずるのがペルソナの役目。周囲からは「素晴らしい人格者」といわれていても、結局は仮面。心の底では、エゴと同等に膨張したシャドーで非常なストレスに悩む傾向にある。

セレブ系殺人事件は、圧迫に圧迫を重ねた「シャドー」が、強烈蒸気機関のように噴射してしまったモノだといえる。セレブじゃないフツーの人たちは、そこまで圧迫されていないから、殺人までにいかなくて済んでいるだけなのかも。

多かれ少なかれ、近代人にはその手の悩みはつき物だ。そういう時代に生きている我々に救いはないのか。

意識の膨張とエゴの両方を膨張することはできない。それをやるから苦しむわけで・・。苦しんで苦しんだ果てに、ある日突然「エゴを捨てればいいのだ」ということに気が付く。
すると、突然人生が楽になり、ふっと楽になるといった経験をするらしい。
これが一種の“悟り”なのかもしれない。
そういった“成熟した自我”の域まで達した人の民族は、競争社会、物質社会を脱するようになる。インディアンや一部のアジア系民族がそれに属するという。

しかし、競争社会に根本から晒されている近代国家では稀な話。大病を患うとか、生死の境をさまようなどといった、「死線をさまよう」くらいの経験をしないとこの境地には達せないらしい・・・。

屁理屈を書きすぎた。セレブに戻ろう。
ベッカムがアメリカのサッカーリーグに移籍した。
ニュースでの彼の画像を見る。若くて才能があって人格者。巨万の富を持ち、ソケット鼻の妻と子とお城のような家に住み、周囲への気配りも忘れない、映画スターのような美貌のスーパースター。
だけど、つくづく疲れそうな人生ではある。
イチローがあるインタビューに答えていたのを思い出す。
「ボクに憧れる人は多いと思う。しかし、仮に一週間、ボクと同じ生活を送ってみたらいい。きっとうんざりすると思うよ」と。
一週間限定なら、経験してみたいけどね。その間の打率はかなり下がると思うけど。

いずれにしても、近代国家に済む我々は、報酬というニンジンを追い掛けつづけるエゴイズムに振り回されて生きている。エゴと並行しつつ日々膨らみつづけるシャドウを、作り笑いで圧迫し、イイヤツの振りをしつづけ生きているわけですわ。頑張れー、人間〜。

懸命に頑張ってもこの最後のところでアウトになったら、これがホントの“セレブり三振”ってヤツですかね。はは。



バンドの復活

2006年もいよいよあとわずかになりました。
友人、知人、関係者各位、大変にお世話になりました。
このブログも、「週一度更新」と銘打っておきながら、6月以降はほとんど更新できない状態で、失礼いたしました。

皆様のおかげさまを持ちまして、今年後半から多忙となってしまい、ブログ更新にまで気持ちが回らなくなってしまいました。
もともと、一点に集中すると他が疎かになってしまいがちな性格、加えて案外几帳面。不器用ゆ絵の滞りをお許しくだされば幸いです。

しかしその分は、お仕事のうえへシッカリと反映させていくつもりです。どうかよろしくお願いいたします。


仕事の面でもプライベートの面でも充実させることができました。仕事のことは、サイト上でご報告させていただきました。

プライベートの面で最も印象的だったのは、バンド活動の復活です。7月30日、池袋のマイルスカフェでライブをさせていただきました。
主催者の方々、対バンの皆さん、バンド仲間のおかげで、とても楽しいステージを行うことができました。そしてその後も、これを機に、趣味であるキーボードの弾き語りも復活。以降毎日、仕事の合間の余興として楽しんでおります。

2006年の日本は、景気の面では復調の兆しが見えた年であり、来年はさらに上向くことが期待されています。しかし子供の自殺やいじめ問題の多発等、精神面での問題も大変にクローズアップ。
これからの世の中全体に「経済がよければすべて良し」という風潮が是正されていくのではないでしょうか。

とまあ、下手な趣味から、いきなり大上段な話へと飛んでしましたが・・。
とにかくお世話になったみなさま、ありがとうございました。
よいお年をお過ごしくださいませ。



他力時代の試金石

今年も日本人の自殺者が3万人を超えたという統計が出た。そして、女性一人が一生で産む子供の平均数が1.24人という数字も出た。

極端な少子高齢化社会で、団塊世代の大量リタイア時代も目前。年金制度の改革で高齢者の離婚も増大しそうだとなると、自殺者3万人の数値が上乗せされる能性大だ。

原因はなにか。
大きい理由の一つとして、“生きるための原理原則が変わった”といえる。「何のために生きるか」という根本原理が大きく変化し、それについていけなくなっているのではないか。

明治時代以降の、物質文明や生産主義に基づく向上発展を第一義とした日本。勤勉で工夫好きで、和を尊ぶという国民性と案外にマッチして、わずか70〜80年の間に世界トップクラスの国家へ。だがそれも、さらに30年ほどを過ぎるた現在においては、完全に行き詰まりをみせた。
新しい時代への適応不安、自分の受けた価値観や教育とのギャップに適応できずに、多くの人々は苦しんでいる。


時代的には、これから江戸時代の自立型縮小経済の方向に進んでいかざるを得ない。
生きていくために最低限のモノを獲得し、それを維持するための最低限の生活をし、必要以上は働かないといった方向性だ。経済や技術も必要以上に進化させず、工夫と訓練を積み重ねるといった生活だ。
しかしココまで肥大してしまった社会では、おいそれと方向転換はできなかろう。利害関係が絡み、口では改革賛成、内心では大反対で、一進一退を続けながら自滅するパターンに陥る可能性もある。


世の風潮はどうなのだろう。
諸富詳彦氏の「むなしさの心理学(トランスパーソナル心理学)」、天外伺郎氏の「運命の法則」五木寛之氏の「他力」などを最近読んだ。諸富氏は大学教授、天外氏は元ソニーの技術者、五木氏は小説家。三者とも専門分野も個性も違うのでアプローチは異なるが、説いている根本的な部分は共通している。

すなわち、「運命の流れに沿って逆らわずに生きてみないか」、ということ。これを諸富氏は「いのちの大河にそって生きる」といい、天外氏「運命の大河に従って生きる」といっている。五木氏は、ブームになった言葉、「他力に従って生きる」と表現している。
時代はまさしく、“他力”の法に流れている。


と同時に。
書籍や雑誌などを見て思うのは、「如何にして成功するか」「如何にして愛されるか」「いかにして儲けるか」「いかにしてモテるか」というテーマが非常に多い。
いうなれば、「いかにしてテイクするか」ということ。呼吸でいえば、「いかにして吸い込むか」だ。
しかし、呼吸を例にしてもわかるように、ずっと息を吸いつづけることはできない。息を吸うためには吐かなくてはならず、この二つは表裏一体なわけだ。ギブとテイクも同様だ。
しかし、時代の風潮は「テイクテイク」である。

その最たる国がアメリカ。しかし、21世紀になって5年ほどのうちに急激に求心力が低下してきたことでも、「テイク主義」が時代とそぐわなくなってきたことも明白。日本はもともと、エゴが少ない民族である。ももとも21世紀型であったわけで、今さら無理して前世紀型であるグローバル・スタンダード(アメリカン・スタンダード)にあわせるのは逆行ですらあると思う。

実際、20歳代の人たちの間では、ポランティアなどの活動をする人が増えていると聴く。
あと数年して街に、「いかにしてギブするか」系の本があふれるようになると、世の中もいい方向へ変わっていくのだろう。
「いかにして、ゲットするか」ではなく、「いかにしてギブするか」、「いかにして愛されるか」ではなく「いかにして愛するか」・・。そこら辺の変換をどうやっていくかが、今後の大きな試金石となるのではないか。

ああ随分とデカいことを書いてしまいました・・。ははは。

ペニスナイト

ペニスナイトとい言葉がある。ドイツの心理学的な用語、というか学説らしい。
「女性は生まれたときからペニスを持っておらず、それを持つ男性を無意識のうちに嫉妬しつづける」という。そして「男性がやることを自分もやりたがるという潜在意識を抱きつづけるのだ」とそれは主張する。

うなづける部分は多い。
ほとんどの分野で、その道を超一流まで極めるのは男性だ。政治やスポーツは当然として、料理でも、音楽や絵画でもそうだ。


初めての分野を開拓するのも男性が多い。未開の地、発見、発明などの世界も男性の独壇場である。
つまり男は革命に向いており、新しい世界を考え、切り開くまでは力を発揮する。平定して、安定路線を歩むと女性が頭角を現しはじめる。制度が確立しきってくると、今度は女性の独壇場となる。

自動車の歴史を例にとって考えてみよう。
A)自動車を発明したのは、男である。
一握りの天才たちが、寝食を忘れ命を賭けて作った。別の男が現れそれを商品化させ、また違った能力を持った天才が必死になって市場に定着させた。引き継ぐ別の男がたちが、とって替わって心血を注ぎ込んで改良を加えた。機能面で、デザイン面で、コンセプトにおいて。改革につぐ改革を行っていった。

B)並行してレーサーが現れる。天才的なレーサーが次々と現れ、世間の瞠目を引く。
それがある程度行き着くと、自動車という乗り物は普及しきり、確立しきった企業や権力者側の立場となり、権威を持つ。完全に社会の道具の一つとなり、ファミリーカーなるものが登場するようになる。すると、このあたり市場は女性の独占状態となる。
現在、スポーツカーの売上などは換算としており、ファミリーカーが圧倒的な立場を保つ・・。

C)車のシルエットがそれを象徴している。
改革期の時期の自動車は、ペニスを象徴した、先端的、先鋭的なシルエット。安定期のファミリーカーなどとを見ると、赤子を象徴した、角の取れた、丸っこい形か、容量優先のワンボックスカーなどが主流になる。

D)同時に、男の独壇場であったレーサーの世界にも、女性が登場する。“女性レーサー”という人たちだ。
・・・しかし、どんなに頑張っても、男性レーサーのトップクラスには入ることはできない。


とまあ、一連の流れを説明した。
この連なりは、“自動車”だけではなく、なんの世界でも同じ。
開拓的な事柄、発明、発見は、男性の場所。平定、保護、保育などには女性が得意な人が多い。
“ペニスナイト”の学説はおそらく、このD)の部分だけクローズアップして解釈して考えたのだろう。

兵器にたとえるなら、男は自由自在に空を飛び回る戦闘機、女はそれを格納し指令する航空母艦といった風に比喩できるのではないか。

ただ皮肉なことに、この戦闘機ってのがカッコイイ。洗練されていてスピードがあって、美しくやたら魅力的。そして航空母艦自体が追いかけ、真似をしたがってしまうのだ。
この入り組んだ矛盾の関係が、人間と兵器を同等に扱えないってことである。あたりまえか・・・。

戦闘機の世界だってそれなりに大変だ。
すべての戦闘機がスーパー戦闘機になれるわけではない。むしろ9割の戦闘機は凡庸は汎用機で終わる。輝けるものはほんのわずか。ハイリスク、ハイリターン。でも皆輝きたくてそこを目指す。
イチロー、中田英寿、B‘Z、マーロン・ブランド、ビートルズ、モーツアルトを目指して頑張っている。


おやじギャルという言葉が一頃流行った。
しかし最近聞かない。これもギャル自体がオヤジ化しきってしまい、なんら新味がなくなったからなのか。
いや、「オヤジという存在自体、すでにオバサン化した男」のニュアンスを含むという説もある。ただ単に、ギャルが楽チンな方向で、ペニスを取り込んでしまっただけなのか。
これって、憧れとは正反対な、“萎んだペニスナイト”といえるかも。なんとなく、情けなくて面白い。

ああ。男と女の関係は、どこまでもどこまでも、矛盾と幻とネジレの位置にあるわけですね。

モテる男はスイッチヒッター

一時一世を風靡した学説、「利己的遺伝子」。
「すべての人間は、自分の遺伝子を残すために行動している」という説だ。ボクも一時期夢中になって読んだ。とくに竹内久美子さんの切り口が面白く、彼女の本もたくさん読んだ。代表作のひとつに「シンメトリーな男」という著作がある。この中で氏は、利己的遺伝子学説からみた、「モテる男」の定義を挙げている。

巷で「モテる男」と形容される男の特徴は何か。これを人間はもちろん、人間以外の生物を観察して、さまざまな特徴を調べ尽くしている。で、彼女の結論は、「モテる男とは、アタマが良く、ルックスの良い不良」。
でもこれだけだと抽象的過ぎる。それらの特徴を簡単に見抜く方法が出ており、これがかなり面白い。一言でまとめると“右と左のバランスがいいこと”が大事とあった。

異性の興味をひきつけるということで、よく引き合いにだされる孔雀の羽根。オスは広げた羽の目が多いほど、メスたちのウケがいい、と。だが大きさだけではないらしい。ツバメの場合は、Yの字に左右に伸びた尾先が長いほどイイわけでもないという。両方の長さが同じであることが最も大切な条件だったのだ。
「このことは人間にも当てはまり、右と左の間接や手の大きさなどのバランスから、モテるモテないがわかる」という説を披露。

つまるところこれは、右脳と左脳のバランスを言っているのではないか。
いくら学歴方面でエリートでも、理屈だけで音楽もアートもまったく解せない人はモテないだろう。その逆で、雰囲気やセンスだけで生きている男も頼りない。

その類推でいうと、プロ野球のスイッチヒッターなどというのは、究極の両手利きなのではないか。野球という高度な空間知覚と運動能力を要するスポーツで、いわんやプロで、両の手で打てるというのは奇跡に近い存在だ。

古い歴史でいえば、ジャイアンツにいた柴田勲、カープの高橋慶彦が出色のスイッチヒッター。現在では、マリナーズの西岡が目立つ。面白いことに三者ともにイイ男である。
柴田は赤い手袋をはめた盗塁王として、日本で最初にダンディズムをとりいれたキザなスターだったし、高橋慶彦も全盛期には女優と浮名を流している。どちらも不良がかったイイ男。

ちなみにダイエーホークスの王監督は、選手としては当然、世界のホームララン王。彼は両手聴きではない。娘が趣味ではじめたピアノを自分もマスター。バーなどで興が乗ると弾き語りをし、パソコンも好きで常に最新の機器をそろえている、典型的な全能人間である。ああ、うらやまC。

いずれにしても。
この道一本ではなく、何か種類の違う秀でた分野が多岐にわたっていることが人格的な立体感を生んでいるのかも。そういう人は大概忙しい。「忙しくってオンナなんか構ってられないぜ」なんていう、冷たい部分でまたモテたりして。

こういう人は男から見てもあこがれてしまう。
まあ、「利己的遺伝子的な目」からみたら、男にモテも仕方ないのだろうけどね。

ライバルなんかいなくても・・・。

「宮本武蔵」を読んでいる。昭和11年に連載開始、大好評を重ねて日本の戦前の国民的ともいえる娯楽小説となった吉川英治の傑作。面白い。その要因の一つはライバル関係の設定が秀逸なところだ。
そう、武蔵と小次郎。

このなかでボクなりに気づいたところがある。
宮本武蔵 佐々木小次郎のライバル関係のスタイルは、その後に世に出るさまざまな物語の原型となっているのではないか。

姿三四郎と檜垣源之助
星飛雄馬と花形満
矢吹ジョーと力石徹
堀口元気と火山尊

これらはすべて、同じ系列である。
●主人公は貧しい家の出。しかし才能と夢がある。
●性格はストイックでマジメで不器用。
●しかし周囲には次々応援する人が現れ、女性にモテる。
●対するライバルは、恵まれた人である。金持ちで体格とルックスに恵まれている。
●オマケに才能に抜群に恵まれ、ちょっとキザ。

この原型はおそらく、宮本武蔵と佐々木小次郎より遡り、武田信玄と上杉謙信の対比からくるのではないか。実際は武田は享楽的で現実的、文武に秀で、政治的能力がすぐれた統治家。上杉は天才的軍人だけど孤独好き、山にこもって戦以外には興味がない狂信的軍人だったとか。

この関係をもっとわかりやすいライバル関係にすると、武蔵と小次郎的な配置になる。
世の中的には、貧乏人、才能がなく、ルックスもよくない人のほうが多数。加えて、すべての長所を備えた人への反発心もある。だから、恵まれた側を敵役にし、恵まれない側を主人公にしたほうが大衆の指示を受けやすくしたわけだ。


ここに突然、まったく異質な男を並べる。
突然の引退宣言をしたあと、「襟付き襟なし」で話題になっている新庄剛志だ。
この人はとことん目立つのが好きだな。だけどどこか主張の意図がずれている。本当は力で目立ちたいのだけれど、衰えてきたから、引退宣言やファッションなどで目立とうとしているのか。あの手の話題性を作れるのも、ある種の才能だとは思うが。

新庄にはライバルがいない。
「プロ野球もファッション性で目立ってもいいのではなか」という彼のメッセージもわかるにはわかる。プロとして、その手の自己顕示も一法だとは思う。
だが気になるのは、彼の場合、それが個人単体の目立ち方であり、対決としての目立ち方ではない部分。


かつての、王貞治と江夏豊の対決、江川と掛布の対決、清原と桑田のコンビ。全盛期の伊良部と清原。上原と川上謙信の投手対決。
そういった、ライバルとの火花を散らすことで目立つのではなく、あくまでの彼単体で目立とうとしている点が、スポーツ選手としては非常に異質である。
もし彼の目立ち方が勝負に力点がおかれていたら、その潜在的な能力からいってもっと活躍できたろうし、もっと努力をしもっと現役に固執したはず。

だから彼の個性は、少なくとも男性から確固とした支持をえるタイプではない。どこかフワフワとした頼りない印象をぬぐえない。勝負と勝負、力と力で目立つという意志の力ではないから。勝負による試合の演出ではないからだ。
(女性に対し失礼かもしれないが)ファッションで目立つ程度なら女にでもできる。選び抜かれた男たちの対決の場所で、なぜわざわざ、そういう部分を主張するのか。

社会人にりたてのころ。友人の結婚式に招かれ、招待状に「平服でいたしてください」とあるのを間に受け、グレイのスーツの群れに一人、アロハシャツで出席し赤面しきりの自分の姿を思い出す。
新庄は、きっとそういう、フワフワした状態を恥ずかしいとは思わず、楽しいと思ってしまう精神構造なのだろうな。

うーむ。貴重な選手だ。
ある意味で、“何十年に一人”といった人材だったのだろう。
でも一度引退したら、復活はしないでほしい。あまりに見え見えだから。お願いしますね。

進化も退化もない、あるのは適応だけ

春だ。眠くなる。とくに昼飯を食べた後の数時間が異常に眠い。
そういうときには散歩に限る。だけど今はあまり時間が自由にならない。
部屋にこもって座り仕事をしている身としては、眠気対処法にアタマを痛める季節である。

眠くなる、とは何か。
脳が活性化していないということだ。食後の眠気は、食物を消化することにエネルギーが集中し脳まで回らないということである。
では・・。脳を活性化させるためにはどうすればよいか。
●もっとも効果的なのは“音読”であるらしい。声を出して書物等を間違わないように読むことが、脳の緊張を生むとのこと。
●次にいいのが、手先を動かすこと。例えば文字や絵を描いたり、楽器を弾いたりすることとされている。
●そして次に来るのが散歩や運動ということになる。
・・・どうやら、怠慢と覚醒は相性が悪いらしい。

人間のさまざまな種類の活動時の脳波を測った人がいる。
それによると例えば、歌を歌うという行為でも、カラオケで歌う場合とアカペラで歌う場合とでは、脳の働きがまったく異なるらしい。同じ曲を同じ時間うたっても、アカペラで歌うほうがはるかに脳が働いているのだ。つまり、楽をしなければしないほど、人間の脳は活性化する。
結局、脳は、苦しみを克服するために存在する、ということだ。

江戸時代の人は、江戸から京都まで二週間をかけてあるいて移動した。職人は、米粒に何文字もの筆文字を書き込み、雲助は、籠に人を乗せて二人で何キロも移動した。決して特殊な能力ではなく、普通の人が普通にこなしていたのだ。
「苦しみを克服するために脳がある」という理屈になぞれば、現代人たる我々はとてつもなく退化しているのかもしれない。

もっとさかのぼると、原始人はテレパシーを持っており、かなり自由に遠距離の同士でも交信出来たという説もある。これは我々の想像の範囲を超えている。だが人間の底知れぬ適応能力から考えれば、不可能なことではないのだろう。
そう考えると、一体何が進化で何が退化なのかわからなくなってくる。
結局は「適応」なのだろうな。進化も退化もない、あるのは適応だけなのだ。

人間にとって、適応することがすべて。
今の時代に、籠で何キロも走れ、テレパシーができても、京都に二週間かけて歩いていけたとしても、パソコンひとつ使えなければ社会的には爪はじきされてしまう。
「あのさ、米粒に何文字も書いている暇があったら、eメールを使えるようになってくれない?」などと文句をいわれるのがオチだ。

そして進化というのは、その前時代人には想像できない形で訪れる。
よって、現在我々が不適応者とみなしているところから、次代のヒーローが現れる可能性も高い。低年齢層で多発している、“ひきこもり”や“すぐにキレる子供”、“コミュニケーションがとれない子供”なども、次代の何かに適応しようとしている予兆なのか。想像を絶するヒーローは、ここから登場するのではないか。(ホリエモンも“ひきこもり”だったというし・・・)

そしておそらく、とてつもな次代のヒーローが未来に登場したとしても、我々にはその凄さが理解できないのだろうな。我々で理解できるレベルじゃ、進化ではないわけだし。
ヒーローが活躍している中、「昔はよかった」などとツラツラ文句を垂れまくって傍観している老人になっているのかもしれない。
さてさて。今のうちに、その“昔”を楽しんでおくとしますか。


無理をしてでも、楽しく生きよう

少子高齢化社会が進んでいる。
あと数年もすれば、団塊の世代の大量定年の時代を迎え、本格化する。
小学校の運動会を見ても、自分の世代と比べて子供たちの少なさにビックリする。平日に下町のスーパーになどでは老人の数がやたらに多いのにも驚く。概して老人になると出不精になるから、人目に触れない老人を含めれば、その何倍もいるはずだ。

自分の人生を振り返って満足しているという老人は、何割くらいいるのだろうか。
勝手な推測だが、「まじめな人」は、自分の人生を振り帰ったときに不満を抱きやすいのではないか、と思っている。

なぜか。
「まじめ」とは、「自分の行動規範を、世間の多数決が決めたことに沿って生きる人」と定義できる。しかし世間の定義なんてものはそもそも、幻であり流行であり一時的多数決にすぎない。それは往々にして魅力に欠ける代物でもある。つまり、“マジメな人”というのは、自分の本当にやりたいことを抑えてツマラナイことを精進してきた人ということになる。

人間の脳というのは、嫌いなことを頑張って努力しろと教えられても、効率があがらないようにできている。余りに嫌なことを押し付けられると、自分の脳細胞を破壊してまでも抵抗するらしい。だから、老人になってボケる人に、マジメだった人が多いというのもこの理由だ。

逆に、「あの人にはかなわない」と他人から感嘆されるほどの飛びぬけた才能は,結局脳の中の何らかの欠陥を補うための作用であるという説がある。
イチローも中田英寿も松井秀希も紛れもないヒーローだ。しかし日常生活では我々がいともたやすくできることが、全然駄目だったりしているはず。ただ隠れて見えないだけで・・。
目の醒めるような飛び切りのマジックであればあるほど、入念な仕込みがあるように、彼らだって闇の部分はあるはずだ。

すなわち。
“マジメな生き方”というのは、「世間のモノサシ」を口実にして、自分自身への仕込みをサボっているだけなのだろう。当然いつまでたってもマジックも生まれない。自分をいじめてガンバる人や、それを美徳とする、かつての日本の風潮も、脳に対しては良くない。くよくよ悩めば、脳は萎縮し、ボケにつながる。

嫌なことを一生懸命やらされて、競争などで巧妙なレースを仕組まれ、とりあえず成果を上げて国が物質的に豊かになった。だけど人間の心がすさみ、ボケた人が増えたという光景では、あまりにツライ。
・・・我々の親の世代以前は、それを嫌が応でも強制された。

そして現在、シャッター通りと化した村に老人しかおらず、都心の小学校の運動会でも、広い校庭に子供がちょっぴりしかいないという光景も、ツライ。
ひょっとして、赤ちゃん未満の魂が、生まれてくるのを躊躇しているのだろうかと、変なことさえ考えてしまう。

能力をのばすには、皆と同じように頑張るのではなく、自分を信じて自分の好きなことに打ち込んだほうが早道とはよく言われる。
我々も20年後30年後40年後には老境に差し掛かる。そのためには、自分のアタマで考えた、自分のカスタムメイドの仕込みをしつづけなくてはならない。そのことが素晴らしいマジックを産むための、そして幸せな老人になるための、唯一の道筋に違いない。

我々一人一人が全力を尽くして、そういう生きをしていくことが必要なのだろう。
「そんなのは理想だとか願望だ」などと言って、逃げている猶予はない。
我々が今、続く世代にむけて“楽しい生き方”をしてみせなければいけないという、逼迫した状況に来ている気が、ヒシヒシとしている。

無理をしてでも、楽しく生きようではないか。続く世代の人たちのためにも。

投資する人、投機する人

ある文筆業者の経験談。
彼は、文筆業をするまえは会社員で営業をしていた。稼ぎはそこそこだったがストレスがたまって衝動買いやギャンブルに明け暮れ、借金が膨大になったった。彼がある日「オレはお金をためて3年後に独立する」と決心した途端、ぴったりを無駄遣いが止まった、とのこと。
水商売のホステスさんもストレスがたまる仕事。嫌な客と酒を飲んで、頑張ってお金を稼いでる。しかし案外、ストレスを発散するためにホストにカネを注ぐケースもあるらしい。
この二例は、同じ原理なのだろう。

「銀杏の樹の枝ぶりは、銀杏の葉っぱと同じ形をしている」という言葉と同様、物事の出だしで躓くと延々とそれが続くということだ。
すなわち、「自己否定した努力でカネを稼いでも、自己否定的に使ってしまうのがオチ」ということか。

確かに、自分の嫌いな仕事で大金を稼いでも、あまり嬉しくない。
おそらく、自分の力でない何かで名誉を得ても感動がないとかというのと同じ。つまり自己肯定の波動で獲得したものでないと、喜びは沸かないようにできているのだろう。

自己否定の怖いところは、カネに限ったことではない。
幼いころ母親から否定されて育った自己否定の人になった。つまり“否定語”が母国語なのだ。当人がもし女性なら、彼氏を励ますつもりで否定語を投げかけてサゲマンとなり、子供を育てるつもりで否定語を投げかける。そして代々、自己否定が受け継がれていくわけだ。オーマイゴッド。

このことは、株などについても同じことがいえるのではないか。
自分が惚れ込んだ会社があり、どうしてもその会社によくなって欲しいという気持ちで資本を与えるのが投資。対象の会社のことなどはどうでもよく、利鞘さえ得れればそれでいいというのが投機。

この考えを、恋愛や結婚に置き換えてみよう。
相手の、考え、生き方、生き様、性格などに共鳴して寄り添うのが投資的恋愛。相手の容貌、収入、財産、家系などに引かれて一緒に寄り添うのが投機的恋愛。
・・・と分類ができるかもしれない。

投機といえば以前、ホリエモンの書いた本を何冊か読んだ。
それ以外にも、ネットバブルなどで一世を風靡した若き寵児たちの本を、流行のたびに手にしてきた。切れ者でエネルギッシュな彼らの言葉は、オンタイムには説得力に満ち溢れていたものだ。

彼らのすべてが、勝者礼讃、成功の美酒を語り、成功の方法、哲学を陶々と述べていた。
しかし、数人のカリスマたちの本で印象的共通項が、一つだけあった。それは、一人として「自分の仕事が大好きだ」との台詞を書いている著者はいなかった、ということ。

ミュージシャンが音楽が好き、野球の選手が野球好き、パティシエがお菓子大好き・・・、そういう職人気質的/使命感的な「好きさ」がまったく伝わってこなかった。自己否定の人は、権力や資産を求める気持ちが強い人が多いと、以前どこかで聴いた。「好き」がないことの反動なのかもしれない。

投資と投機。この違いはどうやら、ここら辺にあるのかな。
資と機の違い。やはり”愛“なのか。

ああ愛か。SIとKIの両方ともに、せっかくIがついているのに・・・ね。


挨拶のゆくえ



よく通る近所の坂道がある。路地沿いの家がイヌを飼っている。大型件のポインター。ノーブルな顔立ち、白地に黒の反転がある大型犬。小洒落た小さい分譲住宅の狭い庭の小さい犬小屋に、大きな体を折り曲げるようにして入っている。
ボクがその前を通ると必ず、目が合う。

イヌの名前はチェリー。犬小屋に「チェリーの家」と書いてある。
チェリーとボクの付き合いは3年くらい。付き合いといっても、飼い主のことを知ってるわけでも、餌を与えたことがあるわけでもない。ただ、延々と3年間、彼の前を通行人として歩いてきただけだ。

最初のころ、毎日通るのだから、すぐに顔を覚えてくれるのではと期待するが、気位の高いチェリーは、なかなかボクになつかなかった。それでも、彼の前を通るたびに、「チェリー、チェリー、チュチュ」と舌をならして声をかけた。「彼と仲良くなるのは時間がかかりそうだ」と長期戦を決め込んだ。

最初のころはまったく無視。呼ばれてもピクっと耳を動かす程度で見向きもしない。数ヶ月してからようやく、機嫌がいいときだけ、ちょっとこっちを見て微妙に目を見開くらいのことをしてくれるようになった。

くそう、絶対仲良くなってやる・・・。
ある日、坂を登りつつ、彼の手前5メートルくらいのところから、「チュチュ・・」と舌を鳴らしながら近づいていくと、突然チェリーがニョキっと立って尻尾を振ってこちらを見る。
「やった、チェリー。ボクをとうとう認めてくれたんだな!」
しかし、ふと自分の背後を見ると、肉屋のレジ袋を下げたオッサンがチャリに乗っていた。ボクじゃなくてオッサンに気を取られただけなのね。袋の中の肉の匂いに・・・。
ああチェリー。なんと気高く、孤高でありながらも、意地汚いイヌなのか。

そんなこんなを繰り返しながら、出会って2年くらいすると、さすがに、お義理の尻尾を振ってくれるようになった。夏は暑いので、コンクリートにべったりと伸びきっているだらしないチェリー。冬は寒いので、大きな体を小さな犬小屋に押し込み、顔だけちょこんと出しているチェリー。
彼と挨拶するのも、日常のこととはいえ、ホッととする一瞬であった。


ときどき、耳に包帯みたいなモノを巻いていた。あまり体は強くないほうかもしれない。だけど、雨の日でも、ボクが声をかけると、ひょっこりと犬小屋から顔を出し、舌を出し目で挨拶をしてくれる。なびきにくいが、一度心を開くとけっこう律儀なヤツなんだな。


去年の冬は寒かった。「温暖化で氷山が溶け生態系が変わる」という不安を吹き飛ばすような寒さ。
それでも外を歩かないわけにはいかないボクは、例の坂道をいつものように歩く。
おや、チェリーがいない。
そりゃそうだ。これだけ寒いなか、屋外の犬小屋で過ごさせるのは可愛そう。飼い主がおそらく、室内に避難させたのだろう。
翌日もその翌日もいない。チェリーと会うのは、暖かくなるまでお預けだなと思った。

春になり、花見のシーズン。それでもチェリーはいなかった。
それどころか・・・。
チェリーの犬小屋が、あるとき消えていた。

どうしたのだろう。
どこかに預けられたのか。それとも・・・。

ボクは基本的に、道端で知人と挨拶をするのが苦手だ。
モノ思いにふけって歩くことが多く、それを中断されるのがイヤなこともある。なんとなくわずらわしいな、と思うことも、正直いって、ある。むしろ都会の生活のよさは、その煩わしさの少なさにあると思っている節もある。

でも、チェリーは特別な存在だった。イヌだから気を使わないということもある。
だけど、日常の風景の一部でありながら、間違いなくボクはチェリーから、小さな喜びと元気をもらっていたのだ。
チェリーはどうしたのだろうか。

人間に対してもこのような素直で無私な挨拶ができれば、もっと何かが変わっていくかもしれないな・・・。

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