a0659f8b.jpg渋谷で起こった妹殺害バラバラ事件。新宿で発見された夫殺害バラバラ事件。猟奇的事件が続く。
この二つに共通することがある。これらの家族は、都心に住み高級を取り、周囲の人も認めるセレブ系の人々であること。外側から見ると順風満帆に恵まれた人であったということだ。

昔から、上流家族の惨殺事件は多い。高学歴家族の夫婦が受験ノイローゼの息子を殺すケースが目立つ。「金属バット殺人事件」、「開成高生殺人事件」。セレブ系では「O・J・シンプソン事件」が衝撃的だ。逆に、下町の魚屋の妹惨殺事件とか、商店街の豆腐屋の夫バラバラ殺人といったケースは少ない。

この世のすべてのものには、光と影がある。
人間の心も同様だ。「自我」と「シャドー」というものがある。
自我というのはエゴイズムである。「オレがオレが」といった自分本位の気持ち。しかしそれを露骨に出すことは道義上許されない。通常“いい人”の仮面を被っている。それを「ペルソナ」と呼ぶ。エゴイズムがある以上、都合どおりに進めることを邪魔する憎らしい存在がある、それを「シャドー」という。普段はペルソナが圧倒的に支配しているので、シャドーの存在は無意識レベルに押し込まれている。
つまり現代人のほとんどは、自分のエゴを押し通すために努力をし、それをペルソナという仮面で正当化し、邪魔モノや憎しみはシャドーという暗闇に押し込んだ毎日を送っている。

光と影の関係と同様、ペルソナが大きさに比例してシャドーも大きくなる。
「エゴ⇒努力⇒成功」とエスカレートする。すると、「シャドー⇒競争⇒憎しみ」のほうも肥大する。セレブになると、社会的に高度な人格を要求される。それを演ずるのがペルソナの役目。周囲からは「素晴らしい人格者」といわれていても、結局は仮面。心の底では、エゴと同等に膨張したシャドーで非常なストレスに悩む傾向にある。

セレブ系殺人事件は、圧迫に圧迫を重ねた「シャドー」が、強烈蒸気機関のように噴射してしまったモノだといえる。セレブじゃないフツーの人たちは、そこまで圧迫されていないから、殺人までにいかなくて済んでいるだけなのかも。

多かれ少なかれ、近代人にはその手の悩みはつき物だ。そういう時代に生きている我々に救いはないのか。

意識の膨張とエゴの両方を膨張することはできない。それをやるから苦しむわけで・・。苦しんで苦しんだ果てに、ある日突然「エゴを捨てればいいのだ」ということに気が付く。
すると、突然人生が楽になり、ふっと楽になるといった経験をするらしい。
これが一種の“悟り”なのかもしれない。
そういった“成熟した自我”の域まで達した人の民族は、競争社会、物質社会を脱するようになる。インディアンや一部のアジア系民族がそれに属するという。

しかし、競争社会に根本から晒されている近代国家では稀な話。大病を患うとか、生死の境をさまようなどといった、「死線をさまよう」くらいの経験をしないとこの境地には達せないらしい・・・。

屁理屈を書きすぎた。セレブに戻ろう。
ベッカムがアメリカのサッカーリーグに移籍した。
ニュースでの彼の画像を見る。若くて才能があって人格者。巨万の富を持ち、ソケット鼻の妻と子とお城のような家に住み、周囲への気配りも忘れない、映画スターのような美貌のスーパースター。
だけど、つくづく疲れそうな人生ではある。
イチローがあるインタビューに答えていたのを思い出す。
「ボクに憧れる人は多いと思う。しかし、仮に一週間、ボクと同じ生活を送ってみたらいい。きっとうんざりすると思うよ」と。
一週間限定なら、経験してみたいけどね。その間の打率はかなり下がると思うけど。

いずれにしても、近代国家に済む我々は、報酬というニンジンを追い掛けつづけるエゴイズムに振り回されて生きている。エゴと並行しつつ日々膨らみつづけるシャドウを、作り笑いで圧迫し、イイヤツの振りをしつづけ生きているわけですわ。頑張れー、人間〜。

懸命に頑張ってもこの最後のところでアウトになったら、これがホントの“セレブり三振”ってヤツですかね。はは。