2010年06月17日

彼の名前は、サトウさんという。
彼はいつの間にか、名字のような、名前のような、不思議な名前を付けられてしまった。
その理由はただ一つ、彼が保護されていた病院の名前が、「佐藤動物病院」だったということ。

彼が鼻風邪を引いたとき、僕はスクーターに乗り、彼を連れ、その病院に行ったことがある。
サトウさんはいつも、じっとしているのが苦手だったし、一つところに押さえつけられると、すぐにそこから逃げだそうとした。

「こら、サトウさん、じっとしてないと」
「サトウさん、って」
「彼の名前です」
「もう少し、別な名前を」
「いえ、彼は、みんなから愛されているもので」

それは、一度付けた名前に対する愛着からか、ユニークな名前を付けた自分達に対する誇らしさからか、あるいは、まるで人間の名字のような名前を付けることで、彼がなんだか、寮生の一員になったような、そんな気分になったからか。
今となっては、その理由は分からないけれど、とにかく僕らは、育ての恩のある先生に反対されながらも、彼の名前を、かたくなに、サトウさんと呼び続けたのだった。

僕らは、彼のことを、サトウさん、と呼び続けていたのだけれど、彼は、それが自分の名前を呼ぶものなのだということに、気付いていたのだろうか。
彼が反応していたのは、もっぱら、サトウさん、と呼ぶ人間の声ではなく、スーパーの袋を丸めた時の、カサカサ、という音だった。

スーパーの袋を丸めて、ロフトベッドの上に、投げる。
ベッドに昇って、くわえて、降りる。
スーパーの袋を丸めて、本棚の上に、投げる。
棚に昇って、くわえて、降りる。
彼はまるで、それが自らに与えられた、極めて重要な仕事であるかのように、何度も何度も、ロフトベッドや本棚を、昇っては降り、降りては昇り、それを何時間も繰り返していた。

彼は、とても大人しい猫だった。
いや、さっきも言ったように、彼は毎日、ビニール袋を追い掛けて部屋を走り回っていたし、同じように、紐のついた猫じゃらしを振り回すと、何十回、何百回と飛び跳ねていたのだから、大人しい、とは言えないかもしれない。
ただ、彼はほとんど、鳴き声を上げなかったのだ。
春になり、窓の外から、昼と言わず夜と言わず、猫の鳴き声が聞こえる季節になったとしても、彼は決して、声を上げることなく、部屋の布団の上でじっと動かなかった。
僕が、数少ない彼の声を聞いたことがあるのは、何時間もエサをあげるのを忘れていた時と、暗がりの中で、彼に気付かず踏んづけてしまったときだけだった。

ただひたすらに、撫で、撫でられ、エサを与え、与えられ、愛を注ぎ、注がれる。
そこでは、誰の言葉も必要なかった。
彼が、まるでゆりかごのような、この部屋の中にいる限りは。

(続)

(11:54)

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