ヘルモゲネスを探して

錬金術書を読む Si hoc est quomodo est, si non est quomodo non est [Avicennae ad Hasen Regem Epistula de Re Recta, c.1]

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』59


 

われわれは可能知性であるかもしくは能動知性である。ところで、可能態および現勢態において(知性によって)複合(構成)された諸有(存在者)のすべてはこの個人の本質とは異なるとすると、わたしはわたしの本質とは異なることとなるだろうわたしの自己は可能態および現勢態からなる(複合する)知性である一方、わたしの自己の本質は現勢態(能作)からなって(構成されて)いる。わたしが考えるもの、わたしが記すものの様相を、可能態と現勢態の複合した知性が記述する。こうしたものの記述は可能態にあるのではなく、現勢態にある(ものとして記述される)。これらが知性に現勢態としてはたらく(知性を能作させる)。能動知性が不可分に与えるものどもが可能知性に不可分に受け入れられることはできないとしても、なにも驚くべきところはない。実際、体躯(物体)の中で質料は諸性質を不可分に受け取るのではない。諸性質はそれらに固有の観念的本質に従って分割することは不能であるにもかかわらず、質料はこれまた不可分な白さを分割されたもののように受け取る。それは動物が動物の本質と異なるように、動物の本質が動物の依存しているように、わたしもわたしの本質とは異なっている。つまり、わたしの本質はに依存しているが、のあらゆる種に依存しているのではない。それは可感的に依存しない。というのもすでに述べたように、これは想像力の質料(素材)であるから。また想像的魂に依存するものでもない。というのもこれまたすでに述べたように、これは可能知性の質料(素材)であるから。また可能知性に依存するものでもない。というのもこれまたすでに述べたように、これは能動知性の質料(素材)であるから。それゆえ、わたしの本質は例外的に能動知性依存している。というのもすでに述べたように、これだけがまさに固有の意味で形相である、つまり諸形相の形相であるから。一方、の諸他の種は同時に基体であり形相である。すでに述べたように、自然本性は下位なる諸有(存在者)にとっては諸形相として昇る一方、上位なる諸有(存在者)にとっては質料となる(として降る)。その最終的にして極限的な形相がこの能動知性であり、自然本性はこの限界に到達すると停止(固着)する。なぜなら、能動知性の基体として与えられ得るようなより上位なるなにものかはもはや何もないから[1][p.101] とするとわれわれは能動知性であり、とするといったいなぜわれわれは死後、この世で思惟したことがらを想起することがないのか、とアリストテレスが問いを立てていることには十分な理由がある。この問いの解決は、ここであるいは先に知性についてなした言明、つまり能動知性は非受動である一方、受動的な知性は壊敗的である、に見合ったものとなるだろう。

 



[1] cfr. tr.lat. III.XXVII, p.304 ed.1542: Solus enim intellectus agens proprie & maxime censendus est forma, imo vero forma formarum: inferiora autem caetera modo subiectorum loco, modo formarum habentur. Sane ordo naturae & processus hic est, ut respectu inferiorum superioribus vice formarum utatur, respectu superiorum inferioribus loco materie. Summam vero & supremam formarum intellectum agentem constituit, quo simulatque progressa est, receptui canit, in eoque finem quasi extremam manum imponit, utpote quae nullam formam superiorem aut nobiliorem haberet, cui loco materiae subiiceret intellectum agentem. 

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』58


 

それはこれ(合一した知性)が何時、諸観念を抱擁し形成しようと望むかにかかっている。実際、これが諸観念の産生の原因であり、端緒原理である。それゆえ知性はにもっともよく似ている。実際、はある相貌(観点)からするなら諸有(存在者)そのものと同一化するし、また別の相貌(観点)からするあんらこれら諸有(存在者)の制作者である。知性は受動することにおいてよりも、産生することにおいてより高貴である。いずれにしても、能動原理は質料よりもより高貴である。繰り返し述べてきたように、知性は同時に知性のはたらきであるとともに可知的なものである。それは知識のはたらき(現勢している知識)が知識の対象そのものと同一化する(同一視される)のと同じこと。しかし知性のはたらきと可知的なものは同じ意味ではない(方向にあるのではない)。可知的なものとはその内に可能知性を含んでいるが、知性のはたらきとはそれ自体現勢(能作)しているものとしてある。ところで、人にあって可能知性能動知に先立ってある。なぜといって一々の自然本性的素因(配置)は時間順序において能作(現勢)に先立つものであるから。しかし絶対的な意味(方向)において、可能知性能動知性に先立つものではない。なぜといって不完全が完全に先立つことは決してなく、可能態(潜在力)が現勢態(能作)に先立つことなどあり得ないから。能動知性の本質は現勢(能作)によって特定(自己同定)されるのであって、可能態(潜在力)がこれに先立つ訳ではない。その(能動知性の)自然本性は現勢(能作)と同じであり、すでに述べたように、知性は実際に分離しており、非受動、非混合であって、時に思惟し、時に思惟しないというものではない[1]能動知性可能知性に置き換わるときこの愛着を被る一方、それ自体自らそのものとしてあるときにはただ在る。現勢(能作)とは不断、疲れを知らぬ不滅、永遠である。[p.100] 能動知性はこれに固有で一義的な意味(方向)で同時に知性のはたらきであり可知的なものでもある。それは異なった相貌(観点)から言われるのでもなく、他の可知的なものどものように質料から分離することで可知的なものどもとなるような実効的知性(獲得知性)とは違い、それ自体可知的なものでありそれ固有の自然本性からして思惟されたものと思惟(すること)を保持している。可能知性のうちで諸観念は区別されてあるが、これはそのうちで業と知識もまた区別されているのと同様である。逆に、能動知性のうちでは、本質は現勢(能作)と一致符合しているので、能動知性のそれも特に能作(現勢)において、諸観念を説明することが難しく、またこれ(知性)はある観念から他の観念へと移行することがないのでより神的であり、綜合をなす(はたらく)ことも分析をなす(はたらく)こともなく、知解に論述的な処方を適用することもなく、すべての形相が一緒に纏められ、これらが同時に現在する[2]アリストテレスが言うように、ただこのようにしてのみ能動知性の本質は現勢(能作)に一致符合する。もしも能動知性が賢者たちがなす(言う?)ようにある観念から他の観念に移行するなら、本質は常在しつつ、現勢(能作)が変化を被るのでなければならない。つまり、その中では本質は現勢(能作)とは違うのでなければならない。がこれは明らかにアリストテレスが同意しないところである。これらの語彙(終局目的)群についてアリストテレスはその第一章でも語っている。「観想し、愛し、憎むことはそれのさまざまな愛着ではない」[3]

 



[1] cfr. tr.lat. III.XXVI, p.303 ed.1542: Quom vero secum ipse est, quom natura eius sola spectatur, quae nihil aliud est quam actus merus, tum infatigabilis, immortalis, aeternus, semper intelligens, & semper intellectus a se est:

[2] cfr. tr.lat. III.XXVI, p.303 ed.1542: nam alia re, aut per aliam, quaedmodum caetera quae intelligantur, & quae intellectus habitu constituto a materia divellit, & intelligibiles facio, sed per se intelligibilis est, & per suam naturam haber, ut & intelligere possit a sese. In intellectu quidem potestatis divisae & sectae notiones sunt, in eoque variae, tum artes, tum noticiae, & scientiae collocantur: contra in intellectu agente, & ut expressius ac verius loquamur, in intellectu qui simplex actus est, quando substantia eius actu describitur, videtur alia ratio statuendo longe difficilior dictu, & longe etiam divinior. Nec enim is ex uno genere in aliud transit, neque componit quicquam aut dividit, neque discursu utitur ad res noscendas, sed comprehensione quadam.

[3] Aristotele, De anima I, 4, 408b25.:「思惟することも観想することも、たしかに身体の内部の何か他のものが滅びるときには衰弱するが、しかし思惟するものそれ自身は作用を受けることはない。だが、思考することや愛したり憎んだりすることは、思惟(知性)の感受する様態ではなく、思惟(知性)をもつ特定のあり方のものが思惟(知性)をもつかぎりにおいて、それに属する様態である」。(中畑正志訳)

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』57


 

第六書 (Aristotele, De anima III 5-13.430a10-435b25

 

5. (430a10-430a25)

 

自然本性から生起する諸有(存在者)の一々は、それに先立つ瞬間に可能態(潜在力)をもち、これにつづく瞬間に完成成就(完全)の現勢態をもつ。これら諸有(存在者)の一々は自然本性的に善い下準備(素因、配置)あるいは可能態(潜在力)に留まることはない(こうした場合には、特定の目的なしに自然本性からこれら諸要素(元素)を受け取ったこととなる)。人の魂も単にこの限度つまり能態にある知性にまで到来し、その自然本性により適宜思惟する準備ができている(素因がある)だけでなく、当然ながら善い準備(素因)には完成成就した(完全な)現勢(能作)がつづく。ここから見返すなら、魂は自然本性的にこのようにあらかじめ準備(配置)されている(このような性向がある)。それゆえ、可能態にある知性は完成成就(完全に)されねばならない。ただしこの完成成就(完全)は自らによってではなく、他からなされる。つまり、魂の中にも一方は可能態にある知性(可能知性)、他方は現勢態にある知性能動知性)、もはや可能態にあり、ただ自然本性的性向(素因)をそなえているのではない現勢態にある知性(能動知性)という差異が存することが必要となる(必然である)。それ(能動知性)は可能知性と合一することで現勢(能作)にまでこれを進捗させ、そのうちに万有宇宙の諸観念(普遍の諸観念)および諸知識がある実効知性[1]を実現する。可能態にある家や可能態にある彫像つまり石や青銅は家の形相や彫像の形相を受け取る能力をもたず、そのためにはが適切な可能態(潜在力)に、その目的のために準備できている(配置されている)質料のなかに技巧的な形相を挿入するのでなければ、家や彫像という複合した(構成された)有(存在者)を実現することにはならない。これと同様に、可能知性はなにか他の知性、すでに現勢態(能作)として完全であって、可能態にあるのではないような知性によって完成成就されねばならない。これをと類比するなら、可能知性をうごかし、魂の善い自然本性的性向(配置)を思惟するように(思惟として)完成成就させ、外衣(慣習)を準備する(与える)。この知性は分離しており、非受動で、混合しない(混合を欠いている)。一方、いわゆる可能知性にも正確に同じ能力を帰属するなら、それは魂といよいよ同じ性質のもの(生来のもの)となる。つまりあらゆる種類の魂のことではなく、ただ人の魂と同じである。[p.99] [2]それは光が可能態としてある視覚に、可能態としてある色に突然あらわれ、視覚を現勢(能作)させ、色を現勢(能作)させるように、この能動知性は可能知性を刺激し、これを能動知性とするだけでなく、可能態にある可知的なものどもを現勢態にある可知的なものどもに変容させる(可知的なものどもとして能作させる)。可能態にある可知的なものどもとは質料の中にある諸形相のことであり、個々の(具体的な)可感的なものどもから推論される(が意味する)一般観念の数々である[3]可能知性はここまでこれらの形相や観念を識別できず、ある異なる観念を他に移行させることもできず、綜合(結合)も分析(分離)もなすことができない。これはかえって貯蔵庫のようなもの、あるいは記憶の中に蓄えられた質料(素材?)が感覚(意味)や想像力から導出されるもの(形相や観念)を捺印するようなもの[4]能動知性可能知性に卒然と架乗される(あらわれる)と、こうした諸観念の質料(素材)が感得され受動知性能動知性と合一してある観念から他へと移行し、綜合と分析をなすこと、省察(反射)により異なった諸観念から異なった諸観念を取り出す(抽出する)ことができるようになる。つまり、能動知性可能知性に対する関係は、業の質料(素材)に対する関係と同じであり、可能知性はあらゆる事物と化す(なる)一方[5]能動知性はあらゆる事物を産生する。それゆえ、思惟はわれわれに依存しており、われわれが望む時に思惟される(われわれは思惟する)。この時、業は質料(素材)の外にある(と関係ない)のではない。鋳造者の業が青銅の外にあり(とは関係なく)、大工の業が材木の外にある(とは関係ない)のとは違い、能動知性可能知性の総体に降る。大工や鋳造者がそれぞれ材木や青銅に外からはたらきかけるのではなく、どちらも質料の総体に浸透する(を貫通する)ことができるように。これと同様、能動知性も可能知性に卒然と架乗されることで、これと合一する。その一(合一)は質料と形相の複合である(からなっている)。ここに合一した知性もまた二つの自然本性つまり質料の自然本性と産生の原因という自然本性をもち、すべての事物と化す(になる)とともに、すべての事物を産生する。実際、これは知解のはたらきによってある様相の下、諸対象そのものと化し、ある相貌において(観点からすると)諸観念と一緒にあるものとしての質料のようなものとしてあらわれ、また別の相貌においては(観点からすると)制作者(神)としてあらわれる。

 



[1] Cfr. habitus(習慣知性), acquisito(獲得知性)

[2] cfr. tr.lat. III.XXIIII, p.302 ed.1542

[3] Quemadmodum itaque lumen quom oculos & colores accedit, non modo visui, sed coloribus etiam actum praebet: ita intellectus agens quom intellectum potentiae agitat, non solum intellectui actum ministrat, sed & res quae potentia intellectae sunt, facit ut in eo intellectae sint actu. Atque hae sunt formae materiales, & notiones communes de singularibus sensibus collectae.

[4] Has intellectus potentiae neque potest per se distinguere, neque ex una earum transitionem incogitationem alterius facere, neque componere, sed illas a sensibus & imaginatione acceptas,& materia exutas, in memoria tanquam in promptuario thesauros suos custodit,

[5] deinde ingruente intellectus agentis luce, & massam illam notionum atque sylvam intrante versanteque, efficitur ut unus cum illo evadat, atque ita libero discursu possit componere, dividere, circunspicere, considerare, incognoscere singula. Ergo qualis est artis ad suam materiam comparatio, talis est intellectus agentis ad intellectum potentiae probanda.

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』56


 

アナクサゴラス[1]は知性について、一方で正しく(真直ぐ)表現しつつも、他方で正しく(真直ぐで)ない。つまり、知性を一々の質料との混合なしとみるところでは彼は正しく思惟している。一方、思惟とは愛着を被るものであるが、知性がそのような自然本性のものとして万物をどのように思惟するか、われわれに教えることを逸している。いかなる有(存在者)も質料を分有し、被る(受動する)ことのないものはなく、質料は受動するものおよび能動するものに共通する要素(元素)としてその底にある(下支えしている)。つまりなんらかの有(存在者)が他のなんらかの有(存在者)の能作(はたらき)を被ることはない。たとえば或る線が音のはたらきを(被ることはなく)、愛着は同じ質料を共通に持つ有(存在者)の間にしか存しない。しかしアナクサゴラスはこうした区別をしていない。ここで何度もなしてきた区別の幾つかをあらためて想起しておかねばならない。「受動(被ること)」は感覚(意味)にとってすら受容の意で言われている訳ではないのであってみればまして知性についてこれが言われることはできないのではないか。感覚(意味)はすくなくとも身体諸器官を用いるので、能作する(はたらく)諸対象つまり可感的なものどもと共通したなんらかの基体(下支え)をもつのかもしれない。実際これ(感覚)は体躯を用い、諸体躯によって動かされる。すでに述べたように、知性は可能態としてすべての可知的なものどもである(可知的なものどものすべてを潜在させている)が、可知的なものどもを思惟する前にはこれ(知性)は現勢態としてはいかなる可知的なものでもない(どのような可知的なものをも現勢させていない)。知性というものはある特定の自然本性を分有する(に参与する)ことなど決してなく、受動(被ること)からはもっとも遠い。逆に、なにも記されていない(現勢した記述を載せていない)書板の場合のように、そこに文字が記されると、記された文字は書板の完成成就とは言えるかもしれないが、書板はそこに書かれたものを受け取っただけであって、これを書板による愛着とは言えない。知性に起こることも同様である。知性は可知的なものどもを現勢(能作)させるにあたり、これを受容するのではなく−混合するという意味ではなく、単純なものとして−完成成就する。実際、アリストテレスが言うように、絶対的な意味で可能態にある知性はいかなる有(存在者)をも現勢(能作)していない。なにも現勢(能作)していないとするなら、愛着を被ることも混合されることもあり得ない。愛着を被ることと混合されてあることは、まさに何ものかの現勢(能作)としての有(存在者)のことである。知性の中に観念の知解が産生される時、知性は可能態から現勢態へと移行する。この時これ(知性)は同時に知性のはたらきであるとともに可知的なものである。つまり知性は可知的なものどもの能作(はたらき)を被るのではなく、それ自体が可知的なものどもと化す。どうやら可能態にある知性は人の魂の中にだけ存するもののようである。というのも人の魂の中でだけ、さまざまな愛着は理拠づけ(理性)に準じる(下属する)とともに、適宜、理拠づけ(理性)に晒される(対して配置される)ことになる一方、こうしたことは諸他の動物においては起こらないから。それにしても、同時に知性のはたらきであり可知的なものどもである、とはどのような様相であろうか。それは同じ相貌(観点)においてであるのか、あるいはある相貌(観点)からするとそれは知性のはたらきとなり、別の相貌(観点)からすると可知的なものどもとなるのだろうか。あるいは、質料を欠く諸有(存在者)にとって、思惟するところ(もの)と思惟されたところ(もの)とは同じことであるということだろうか。というのも、思弁的知識とこれによって知解可能となる対象とは同じことであるから。一方、質料の中にある諸形相に対しては、可知的なものどもと知性のはたらきとは別である。[p.98] すでに述べたように、これらの形相つまり質料の中にある諸形相はその自然本性からして可知的なものどもである訳ではなく、知性のはたらきがこれらの形相を質料から分離することによって可知的なものとするのであり、これらの形相は可能態として可知的なものどもであって、現勢(能作)していない。それらは思惟されるに適したものであって、それらの自然本性それ自体が可知的なものであるという訳ではないそれはこうした有(存在者)として適宜思惟されたものであって、つねに思惟しつづけられているのではない。この知性、つまり可能態にある知性は、可能態にある知性であるとともに可能態にある可知的なものどもでもある。それゆえ、つねに思惟しつづけられているのではない。その基体は可能態にあり(潜在力であり、力能に過ぎず)、持続的につねに思惟しつづけるなら疲労する。つまりそれはつねに可知的なものである訳ですらなく、諸観念を汲み取る時にだけ可知的なものである(となる)。あるいは、まったく可能態に欠ける知性があるとすると、これはつねに知性のはたらきでありつづけ可知的なものでありつづけることになる[2]。ではここで議論を変え、このようなものについて論じてみよう。

 



[1] Anassagora, 59B12 Diels-Kranz.上註参照 cfr. Platone, Cratilo 413C.

[2] cfr. tr.lat. III.XIX, p.301 ed.1542: Prohinc merito evenit ut illa non intelligant sed intelligantur tantum. At intellectus potentiae quemadmodum est potentia intellectus, ita & intelligibilis potentia est. Quamobrem non semper intelligit, imo vero assiduitate nimia videur aegrescere lacessereque, cuius culpam habet potentia illa quae subest, inhaeretque intellectui. Quapropter nec semper intelligibilis est, sed tunc solum quom sibi notiones multas quasi copias & suppetias ad commentandum speculandumque comparavit. Quod si alius intellectus habetur, cui nulla potentia innexa fit, utique illum semper & intellectum & intelligibilem esse necesse est, 

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』55


 

ところで、水と水の本質とは区別される。水は形相と質料の複合(からなるもの)であるが、水の本質とは水の形相であり、水が何であるかである。[p.96] 一々の語彙は質料によってではなく、形相によって限定(特定)される。これは業による産生物にも当てはまることで、家と家の本質とは、彫像と彫像の本質のように異なっている。家は石や建材や瓦をもって造られる形象であるが、家の本質はこれらによる形相およびこれらの組み合わせ(構成)である。同様に、彫像も石あるいは青銅によってつくられる形象であるが、彫像の本質は彫像の形相である。とはいえすべての事例がこれに当てはまる訳ではない。幾つかの場合には有(存在者)とこの有(存在者)の本質は同一である。たとえば点と点の本質あるいは、その他なにか完全に非質料性で単純な有(存在者)の場合。これらの場合つまりそれに準じて有(存在者)があるような本質および形相の観念はその有(存在者)そのものの自然本性の総体と一致符合する。こうした場合、われわれは形相を質料とともに捉えられたものとして判断する。たとえば冷と湿は質料とともに捉えられる、あるいは水をその総体として判断する時に捉えられる−というのも既述のように、水はこれらの性質が質料とともに複合した(組み合わさった)関係(比)であるから−つまりわれわれが、水をその総体として、あるいは肉をその総体において判断する時には、可感的能力あるいはこれに結びついた想像力だけで十分ということになる。一方、水の本質や肉の本質を探る時には、これを判断する能力はまた別にある、あるいは別様にはたらくおそらく甘さが黄色とは異なるという判断をなす能力と、水と水の本質は異なると判断する能力とは異なるのでなければならない。両者とも諸対象を感得しているのは当然であるが、そこでは質料が形相と一緒に考察されているか、形相が別物として抽象されて考察されているかによって、別様にはたらいているのである。実際、水を判断するにあたりこの能力は可感的なものを伝達する想像力を必要とする一方で、水の本質を判断するためにはこれ自身だけで十分である[1]。ところで、真直ぐ張られ(引かれ)ているばかりか断ち切られた(*曲がった)線[2]がつねに同じであるにもかかわらず、別様のはたらきとして(あらわれで)あると言われ得るなら、知性が体躯(物体)を複合物と知るのと、それ自体を(によって)その形相と形象だけによって直観洞察するのは別様のはたらき(あらわれ)であると言われ得よう。知性は思惟している諸有(存在者)と類同なものとなり複合物を思弁する時には複合物となり、ただ形相をだけ抽象する場合には単純なものと化すように、時に直線に類同なものとなり、時に断ち切られた(*曲がった)線[3]となる。プラトンは知性の諸活動(はたらき)を迅速に動く円環やら真直ぐ(正しく)動く円環といったさまざまな円環に類比している[4]。一方、アリストテレスは知性の諸能作(はたらき)を真直ぐ張られた線や断ち切られた線(曲がった線)に類比している。実際、知性は質料と友に形相を考慮する時、一つであるのではなく二重(二様)となる。いわゆる抽象された諸有(存在者)にも、水やその他の要素(元素)に対応する要素と水の本質に対応する他の要素があり、これらの諸有(存在者)の中にも、真直ぐな(正しい)ものと真直ぐ(正しさ)の本質がある。真直ぐは連続(持続)を含む(連続(持続)は直線の基体である)一方、直線の本質は真直ぐ(正しい)という観念である[5]こうした抽象的な諸有(存在者)の場合には、知性は諸対象を両者をもって判断しているようにみえる。両者とはつまり諸対象を基体と形相の複合物として、および形相そのものとして。要するに、知性はこれら両者を諸対象としつつ、この場合にも同じ様相でふるまうものと判断されるのではなく、こうした抽象された諸有(存在者)の場合にも、時に単純なものとして、また時に複合したものとなる。基体から可感的な物体(体躯)となる質料と、基体からいわゆる抽象的な諸有(存在者)となる質料は別であるにせよ、これら諸有(存在者)の場合、知性の思惟は時により単純であり、時に複合したものとして(より複雑で)あると言い得るだろう。[p.97] いずれにしても、知性が物体(体躯)を考える時には可感的な能力を必要とする。というのも、これ(知性)自体、感覚を免れているとすると、水が何であるか、肉が何であるかを判断することができない。一方、三角形や直線について(の判断に)は知性そのものだけで十分である。というのも、これらの対象は質料から分離しており、知性の思惟も質料から分離しているから。これらの対象はただ観念的本質としてだけ分離され得るものの、それ自体として存立(自存)することはできないように、知性もこれらをただ観念的本質としてのみ分離する。

 



[1] cfr. tr.lat. III.XIX, pp.299-300 ed.1542: ad essentiam vero solam eius conspectandam nullas suppetias requirit, sed ipse sibi intellectus

[2] cfr. tr.lat. III.XIX, p.300 ed.1542: igitur lineam atteniam & flexam…直線と曲線

[3] cfr. tr.lat. III.XIX, p.300 ed.1542: ita interdum lineae directae, interdum arcuatae confertur.

[4] cfr. tr.lat. III.XIX, p.300 ed.1542: Sane Plato actiones intellectus circulis primum recto, mox circinato recurrentique interius comparat:

Platone, Timeo 37C.:「「異」の円が正しく進行して、それ(宇宙)の魂全体に、これを伝える場合には、確実で真なる思わく・所信が生まれ、他方また、推理計算の対象となるものにかかわり、「同」の円がなめらかに動いて、これを明らかにする場合には、必然的に、理性・知識が完成されます。」(種山恭子訳)

[5] cfr. tr.lat. III.XIX, p.300 ed.1542: Aristoteles lineae explicatae & replicatae, sive porrectae & curvatae. Ac curvatae quidem iccirco, quia quom intellectus materiam & foma iunctim, id est, quod concretum & conditum est, comprehendit, tum quasi geminari & duplicari videtur accessu phantasmatum & visorum, quorum operam utrumque in una ea functione desyderat.アリストテレスも線を説明して延びたもの(直線)と曲がったもの(曲線)をもち出している。曲線とはつまり知性により質料と形相が結ばれたもの、すなわち具体的に調合されたもので、あたかも対化あるいは倍化されて見られたものが想像力と視覚の両者のはたらきを望みの一つの機能のうちに行うようなもの。」(?

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』54


 

4. (429a10-430a9)

 

われわれが思索や実践的活動に用いる魂の諸部分については、それが場所的に分離されている−プラトンが知性を頭に、憤怒的な魂を心臓に、色情的な魂を肝臓に配置してみせたように−場合にも、魂の諸他の能力から場所的に区別されず、単に観念(概念)的に分離される場合にも、上述したような諸能力に対して、それも特に想像力に対してどのような差異があらわれる(存する)のか、そしてどのように知性の能作(はたらき)が生まれるのかを考察してみなければならない[1]知性の能作(はたらき)が諸感覚の受容の能作(はたらき)と類同(類比的)なものであるなら(すでに述べたように魂は両者のはたらきを介して判断し知解する)、知性もまた可知的なものどもからなんらかの愛着を被るのかもしれない。感覚(意味)が可感的なものどもの能作(はたらき)のもとに(愛着を)被るように。しかしこの場合、「愛着を被るのかもしれない」という表現は広義に解釈されなければならない。より正確に言うなら、知性は潜在力(可能態)から能作(現勢態)へと自己実現する[2]、と。はじめ、知性が潜在力(可能態)としてあることは明らかである。まさにこれゆえに、われわれはねに思惟するのではないばかりか、つねに同じ可知的なものどもを思惟する訳でもなく、時にその或るものを、また時に別のものを思惟する[3]これはこの知性が可能態にあることのしるしである。実際、その基礎にさまざまな現勢(はたらき)を産出する可能態がないとすると、あれからこれの現勢へと移行することは可能ではないだろう。つまり知性はまさに愛着と言われるものなしにあることになる。これはある固有の形相をもつのではなく、一々の(あらゆる)形相の受容体(うつわ)でなければならない。そして可能態にあるところのものはその対象であり、対象そのものの存在なしにある。それは可知的なものどもに対して、感覚(意味)が可感的なものどもに対するのと同じ関係にあるに違いない。能作(現勢)している感覚(意味)が感得される可感的なものどもでない訳ではないように、知性もそうした類として直観洞察された可知的なものどものなにかが能作(現勢)しているものでなければならない。つまり、あらゆる可知的なものどもを思惟する知性は、可能態としてあらゆる可知的なものであるのか、形相や形象そのものをもたないのであるか、いずれかであらねばならない。そこでアナクサゴラスは、混合ない知性、またこれ(知性)に知られる諸有(存在者)の異なった自然本性を考察する時には虚しい夢想をなさなかった[4]。これにより、彼はそれ(知性)の中になにも明かさず(あらわさず)、なにも現在させることなしに容易に知ることができるだろう。形相が内に現在するなら、これが他の諸形相を関係ないものとして阻害することになるから。それゆえこのような知性は、これに関係のない(外在する)諸自然本性や諸形相を受け取ることができるにせよ、いかなる自然本性ももたず、固有の形相をももたないこととなる。つまり知性はそれら(形相)のすべてを包摂するにふさわしいその自然本性からして、限定された形相をいっさい含まないここで知性と謂われるのは魂が省察(反映)し、観念(懐胎)するもののことであり、受容にあたり想像力として不適切に言及される知性のことではない)。何かを考える前にはいかなる有(存在者)も現勢していないこれはそこには決して体躯(物体)が混じられることはないという道理とも符合している。体躯(物体)は体躯(物体)と混合するものであるから。知性が体躯(物体)であるなら、それは必然的に現勢(能作)し、まさにこれの形相をもつこととなる。しかし知性は感覚のように体躯(物体)を器官として用いることもできないだろう。そんなことが可能であるとすると、知性は器官の性質を分有する(に参与する)こととなり、器官の性質はその(器官の)能作(はたらき)としてつねに現在するので、諸他の形相を阻害することとなってしまうだろう。これは可感的な能力においてなにより明らかにあらわれる。実際、感覚能力は物体(体躯)ではなく、体躯の諸器官によって普遍的に用いられる(役立てられる)ものであるので、これら器官とともに愛着に参与する(を分有する)。これは可感的な諸器官のうちに明らかである。可感的な諸器官は激しく可感的な諸有(存在者)によって激しく動かされるとき、たとえば聴覚が強烈な音に動かされ、視覚が激しく輝く色に動かされ、嗅覚が強烈な匂いに動かされると、[p.95] もはや微弱な可感的なものどもを容易に感得できず、識別することもできなくなり、もっとも激しい衝拍の捺印が持続することでより微弱な衝拍が跳ね返される(感得されない)。しかし知性は可知性の強い或る有(存在者)を思惟する時も思惟が衰微する訳ではなく、可知性の弱い諸有(存在者)をよりよく思惟することになる。つまり、感覚(意味)は体躯(物体)なしにはあり得ない一方、知性はあらゆる物体(体躯)から分離されている。これが、魂は諸観念の場所である、と言明する者たちの理説である。ここでは「場所」という語彙が不適切に用いられているのではあるが。つまりこれは魂の総体について謂ったものではなく、ただこれら二つの能力すなわち思惟する能力と感覚(意味)する能力について謂ったものであり、魂とはこれらを保管する(含みもつ)場所であるという意味ではなく、ある意味で思惟され感覚される諸有(存在者)が生起する場所という意味である。この可能態としての知性(可能知性)は賢者ならざる人のうちにも見つかるものである。可感的なものども、可感的なものどもから導出されるさまざまな想像、これらの諸対象をめぐって実修されるところに発して、普遍をとらえに向かうこと、さまざまな相違の中に類同を、さまざまな異の中に同を摘出することができる。ここに知性はより完璧となる。それは賢者が知識の真を所持するに到った後、彼は外(他者)からの教えも実修もなしにこれらの真のいずれかを選びつつ、自らの徳(力能)によって行為(能作)へと移行することができるようになるようなものである。つまりこのような状態にある知性は、先に見出されたようなものではないにせよ、いまだ可能態にある。実際、これの中には、類同と差異、同と異、調和と不和を見るにふさわしい視覚のようなものが生起し、自ら思惟することが可能となる。これは可知的なものどもではないにせよ、知性に他ならない。つまりこれは直観洞察された可知的なものどもと同であることを見て、この条件(状態)において自ら自身をも思惟する。知性が単に外衣(素因、習慣)であるなら、可知的なものどもは倉庫に貯蔵れているようなものであるが、これが能作(はたらき)に移行すると直観洞察された可知的なものと一致符合し、この条件(状態)において当然ながら自ら自身を思惟する。というのも、それ自らが思惟される諸有(存在者)であるから[5]。実際、知識が知的な真の数々に一致符合する(幾何学的諸公理が幾何学と一致符合するのと同様)ように、知性も可知的なものどもと一致符合する。外衣(素因、慣習)そのものが休息しているなら、真の数々も休息しているが、外衣(素因、慣習)が発動し、行為(能作、現勢)に移行し、それらの真のいずれかに(として)はたらくと、思惟しているものと同と化す。たとえば三角形が二直角を含みもつことを教える知識は、公理であるとともに、三角形が二直角を含みもつことを論証する道理づけでもある。これと同様に、知性も休息している時にはただ可知的なものどもにかかわる外衣(素因、慣習)をもつだけであると言われる。しかしこれが可知的なものどものいずれか一つに関して能作に移行する(いずれかを思惟する)と、これは思惟されている可知的なものと同であり、自ら思惟されるものを思惟するものとなる。であるとすると、[6]こうした知性と想像の受容能力との間にはどのような差異があるのだろうか。そのためにはこれら両者の自然本性について規定してみなければならない。

 



[1] 429a10sgg.

[2] cfr. tr.lat. III.XIII, p.297 ed.1542.: intellectum perfici & absolvi, quam pati, quotiens de potentia in actum effertur.

[3] cfr. tr.lat. III.XIII, p.297 ed.1542: Porro intellectum de potentia ad actum commeare nihil apertius, quom neque semper neque idem intelligere videamur, sed aliud alias.

430a5:「ただし、思惟がつねに思惟しているという状態にはないこと...」(中畑正志訳);「必ずしも常に思惟していないことの...」(山本光男訳);430a21:「この思惟は」、あるときに思惟し、あるときには思惟しない、ということはない(中畑訳);「理性は或る時には思惟しているが、或る時には思惟していないということはない」(山本訳)。

[4] Anassagora 59B12 Diels-Kranz.[Simplicio, Fisica, 164, 24]:「諸他のもののすべては全の諸部分をもつ。一方、知性は限りなく、独立しており、なにも混じられておらず、それだけで自ら自身としてある。もしもそれが自体的にあるのでなく、他と混じられているとすると、なにか或るものと混じられるばかりか、万物に参与する(を分有する)ことになる。実際、全の中にはすべての部分が見出され、これはすでに語った通り[B11]であり、混合された諸物はそれ(知性)を阻害することだろう。とすると何に対しても権能(潜在力)をもち得ないこととなる。一方、自体存在として唯一ある場合にはそれをもち得るのだが。実際、すべてのものの中で最も精妙(希薄)で純粋なものは、全および最大の力の完全な知解をもつ。生命をもつものは大きなものも小さなものも知性支配している。知性は、円運動の端緒となるであろうすべての旋回(周回)の衝拍と称される。旋回運動はまず小さなものからはじまり、徐々に大きなものへと広がり、ますます発展していく。知性は混合によってかたちづくられる諸物すべてを認め知る。分離によってかたちづくられるもの、分割されるものども、そのままにあるもの、あったもの、あるであろうもの、いま幾つあるか、どのようなものであることとなるのか、知性はこれらすべてに準備が整っており(すべてを配置し)、諸星辰、太陽、月、気やアイテールの諸部分が完了する旋転を区分(分離)していく。まさにこの旋転が分離を引き起こすものであった。希薄から濃密が分離され、冷から熱が、闇から光輝が、湿から乾が分離される。そこには多である多の部分がある。しかしなにものも全から分離することはないし、或るものは他から分割されるものではない。ただ知性だけを別にして。知性は大においても小にあってもすべて同である。その他のものはどれも他に似ている(同である)ことはなく、その一々が存し、より可視的なものどもの内に構成されており、より大きな尺度を分有している。」

[5] cfr. tr.lat. III.XVIII, p.299 ed.1542.: Quom igitur habitum solum tenet, tunc ipsa intelligibilia est, sed iacentia & deposita: quom vero in actum extrahitur, tunc perinde iure aequo cum ipsa re intellecta incedit, eoquo & ipsum se merito agnoscit.

[6] cfr. tr.lat. III.XIX, p.299 ed.1542

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』53


 

つまり想像力は情動(感覚)なしに存することはできないし、諸他の有(存在者)と関連をもつ(対応する)こともできず、ただ情動(感覚)に関連した(対応する)ものと関連をもつことができるだけである。時に想像力が可知的なものどもと関連をもつ(対応する)にしても、これまたそれが情動(感覚)と結びついてある時にだけ起こる[1]。その例を挙げてみよう。蜜蝋はその自然本性からして、印章の捺印を受け入れることもできるし、これを保存することもできる。捺印を受け取ると言う時、われわれは蜜蝋の中にある特定の能力を認めている。これのおかげで、封印(印章)になされた刻印のはたらきを受けて展び、容易にそのかたちをとる。捺印の保存については、蜜蝋はまた別の特定の能力をもっていると言うことができる。これによって、より堅牢でより抵抗力ある自然本性を分有する。これと同じ説明を魂についてもなすことができる。これが可感的なものどもに動かされることについて、感覚能力をもつ、と。感得した可感的なものどもを保存することができることについては、想像力という能力をもつ、と[2][p.93] 情動(感情)のはたらきが能作(現勢)しているなら、想像力も能作(現勢)している、ということは明らかである。ここには知解も感受も欠けていないので、上述したように、可感的なものどもがもはや現在しなくなっても捺印を保存することができ、知解として保持される限りにおいて像の数々が惹起される(蘇る)。この能力を分有している動物たちはすべて、想像力に従ってさまざまな能作(能動)および所作(受動)を、時に正しくまた時に誤ってなす。このはたらきの正しさと不当さは情動(感覚)から想像力へと導かれる。とすると、想像力が情動(感覚)の真あるいは過誤に参画していることは当然であり、情動(感覚)が真を語る時には想像力も真を語り、情動(感覚)が偽を語る時には想像力も偽を語ることになる。それはさて、可感的なものどもそのものの感受は真であるか、あるいはそこには過つ可能性は最小限しかない。これに、第二に、可感的なものどもそのものの下にある主題の(底に従属している)数々および可感的なものどもそのものが備わる(を備える)有(存在者)の数々の感受がつづくのだが、この時すでに欺かれる可能性がある(近づいて来るものが白いかどうかは正確に情動(感覚)が識別し確認するが、近づいてくる人がソクラテスであるかどうかということについては過ち得る)。そして第三に、共通(一般)の可感的なものどもの感受および固有なものどもつまり感覚(意味)がもっとも容易に欺かれるところの運動、大きさ、数、形象との関連から、われわれは唯一の感覚(意味)にさまざまな感覚(意味)の機能(はたらき)を委ねる。これと同様、情動(感覚)が可感的なものどもそのものをめぐってはたらく時には想像力も真であるが、主題群や共通の可感的なものどもについては、これらが情動(感覚)として現在するにせよ不在であるにせよ、欺かれ得る。情動(感覚)が現在するなら、想像力は必然的に欺かれる。なぜといって、これが情動(感覚)とともに過つのは必然であるから。情動(感覚)が不在なら、想像力は可感的なものどもから受容したものとして残される捺印保存されない時には欺かれる。いずれ感覚(意味)が感得する可感的なものから遠ざかる時には過まつ可能性はたいへん大きい。これが魂の想像の能力であることが明らかとなり、こうした性格を示すものとして列挙されるこれ以外のいかなる能力にも、能作(現勢)する情動(感覚)から生じる魂の運動であるとわれわれが言い得るものはない、という道理づけが見出されたことになる。それらのなかで視覚はもっとも重要な感覚(意味)であり、想像力(he phantasia)もここあるいは光(to phaos)からその名辞を採られている。光なしには見ることができないから。先述したように、想像の数々は持続するとともにさまざまな情動(感覚)と類同であり、これによって動物たちはさまざまなはたらきをなす。獣たちはこれよりも卓越した他の能力をもたないから。また人にあっては想像力に卓越する能力も病や眠りにおいてしばしば晦まされるから。

 



[1] cfr. tr.lat. III.XIII, p.295 ed.1542.Quod si interim ad intelligibilia quoque usum sui accommodat, hoc ei illatenus contingit, quatenus &s sensui, a quo intellectualia ortum progressionemque habent.

[2] cfr. tr.lat. III.XIII, pp.295-6 ed.1542.Itaque ut cera impressionem simul recipit & retenntat, tantum diversis causis recipit, quia non rigens pugnans v’e est, sed cedens lentaque, & in omnem effigiem tenera retentat, quia praeter hoc etiam firmam & stabilem habet compactionem: ita & anima sensibiles formas, a quibus movetur & quasi eculpitur, recipit & conservat, sed recipit, quia compos est sentendi ea a quibus movetur: conservat, quia vim habet imaginandi ea quae sensit. Certum autem illud est, quotiens sensus in sensile agit, id est, quotiens sensus in actu est, & incumbit in sensilem, totiens quoque in idem sensile imaginationem moveri. Neque enim digressis rebus aut sublatis imaginatio tueri & custodire vestigia earum posset, nisi cognosceret & perciperet ea, quorum sibi custodia esset concredita.

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』52


 

他の有(存在者)によって動かされるさまざまの有(存在者)は、動くという自然本性的な能力(性向)をもっており、これらはまた梃が手で動かされて石を動かすように、また海が風に動かされて船を動かすように、他の有(存在者)を動かす。これと同じことが情動(感覚)に起こるとしてもなにも驚くべきところはない。これが外界の可感的なものどもに動かされると、運動が捺印する有(存在者)の形相(シミュラクラ)を受け取り、これがより完全な動物の中の魂のまた別の能力を動かす。この能力が想像力と呼ばれるもので、その自然本性はそれ自体の内に可感的なものどもから情動(感覚)が受け取る捺印を迎え入れ、これを伝達するとともに、可感的なものどもがもはや現在しなくなっても一定期間この痕跡を保存することができる[1]可感的なものどもがもはや現在しなくなると、想像能力は明らかに可感的能力とは異なったものとしてあらわれる。一方は現勢態(能動)を已めるが、他方は受け取った捺印を保持したままにとどめる。可感的なものが現在しており、両方の能力を刺激している時(つまり情動(感覚)と想像力の両能力)は、これら二つの能力の相違を見出すのは難しい。実際そこでは両者とも同じ対象をめぐって同時に能作(現勢)している。あるいはその時これら二つの能力は同じ対象に同時にはたらいているにしても、同様にではなく、情動(感覚)は外部の可感的なものに向かい、これによって動かされるのであり、想像力は情動(感覚)が印象として受け取った形相をめぐってはたらいている。そこで能作(現勢)している情動(感覚)は想像力に対して、可感的なものが情動(感覚)に対してあるのと同じものと化す。想像力と情動(感覚)の間の相違はこれゆえに見出すのが困難である。つまり両方の運動は同時に産生されるから。いずれにせよこれら二つの能力の相違はここに明白になる。多くの場合、情動(感覚)がその能作(現勢)のはたらきを已めても、想像力ははたらきつづける。そこで情動(感覚)が自らの内にもっていた外界に向かって延びた痕跡が想像力の対象となる。それは蜜蝋がその内に印章の捺印を迎え入れ、これを受け入れてこれに覆われた後、あらためて同じ印章を気に捺印し、周辺の気もまた蜜蝋と指輪がもはや現在しなくなってもこの形象を保存するようなものである[2]。しかしこれは魂のない物体のであり、動物存在たちにとっては様相が異なる。実際、動物たちにとって受動(受容)とはかえって能動であり、自己実現である。想像力は情動(感覚)が能作へと移行することによって実現されるのであり、これは情動(感覚)が可感的なものどもによって実現されるのと同様である。これは、特に情動(感覚)があるものの想像力に欠ける動物たちにおいてその差異を把握することができる。つまり蠅や蛆等々の類の動物において。これらの動物は可感的なものどもによって動かされるが、それは可感的なものどもを保存することはできないような様相においてである。これらは可感的なものどもを保存する能力に欠けているので、それが起こるところで(可感的なものどもに出会うごとに、刺激に応じて)動かされる。これらの動物にあっては情動(感覚)は衝突のようなものであり、一瞬も持続しない。逆に、可感的なものどもの捺印がより堅固(緻密)であるような動物にあっては、自然本性は情動(感覚)に、感得された可感的なものどもを分配する(消化する)別の能力をつけ加え[3]

 



[1] cfr. tr.lat. III.XIII, p.295 ed.1542.Sensus a sensilibus exterioribus commoti lacessitique primum simulachra ab iis missa recipiunt: deinde illam animae vim, quam imaginationem & phantasiam vocamus, impellunt, cuius ea est natura, ut formas atque imagines rerum, quas praebent & renunciant sensus, retineat & consignet in se, ita ut vel digressis iis quae sensus ciebant, tamen vestigia illorum, & efficies diutius haereant & cunctentur in nobis.

[2] cfr. tr.lat. III.XIII, p.295 ed.1542.quo quidem tempore vestigium rei sensilis conceptum foris & haustum a sensu, suum imaginationi subiectum efficitur. Quod quemadmodum fiat, de imaginatione hac capiamus licet exemplum, fingamus anulum esse, qui effigiem suam in cera penitissime, id est, immitus adigat, & ad usque fundum expangat, deinde a cera ita prorsus intime effigiata obsignari ambientem obductumque aerem, mox remota cera & anulo, impressionem & sugillationem in aere solam relinqui. Referamus hoc in sensum & imaginationem. Sensile pro anulo fit, vicem cerae sensus obtineat, imaginatio aeri succedat.

[3] cfr. tr.lat. III.XIII, p.295 ed.1542.His altera quaedam facultas supra sensum data est, in qua tanquam inserario atque penu ad usum promptuarium formae omnium rerum locantur.

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』51

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』51

 

つまり想像力とは情動を伴う見解ではなく、見解と情動の内的な連関でもない[1]。プラトンは、諸感覚がなにものかを感受すると同時にこれが何であるかこれらの語彙をもって見解を述べる時、想像力をもつ、と言っている[2]しかしいずれにしても想像力がいつも見解を伴うものである訳ではないことはすでに証示されている。たとえば絵画において不可能で非現実的な主題が描かれるように。ここまで言われてきたことはさておき、想像力が見解や情動とより内的(親密)な関連にあるとすると、情動の対象は見解の対象に他ならないことになる−たとえば白は情動(感覚)の対象であり、善は見解の対象である−とともに、情動(感覚)と見解は同じ有(存在者)を異なった関係のもとにもつより他にありえない(さまざまな関係(比)のもとにある有(存在者)そのものを対象としてもつのではない)−たとえば対象が同時に白で善であるにせよ、これは他ならず、見解はこの対象に関連して善であり、情動(感覚)は同じ対象に関連して白であるということを要請する−ことになる。偶々(偶性により)見解と情動(感覚)が同じ対象に関わるものであるにしても。つまり、見解と情動の内的(親密)な関係はその対象として同じ有(存在者)を同じ関係(比)に従ってもたねばならない[p.91] ばかりか、それらはお互いに合一するのでなければならず、お互いに対立することがあってはならない。時として、同じ有(存在者)を対象とし、同じ関係(比)に従って見解と情動が得られる場合であっても不一致が生じることがあり、見解が真を主張し(認め)、情動(感覚)が偽を主張するなら、この見解と情動の内的(親密)な関係を想像力と呼ぶことができるのかもしれない。実際、情動(感覚)が太陽は一ピエデの長さ(直径)であると言う一方、見解がそれは人が住む大地よりもずっと大きいと主張する時、どうして情動(感覚)と見解が内的(親密)に結びついているなどと言えようか。いったい、これら二つの能力が一つに混ぜられるとすると、一方が真を言い、他方は偽を言うなどということがどうして起こり得るのか。そのような時には、太陽に関わる真の見解を棄て、偽の見解と情動(感覚)の応答をとるか、元の見解そのものを保留しつつ、なにより想像力によってかたちづくられる情動(感覚)の方を無視するかしなければならない。しかしこれら二つとも不可能である。というのも、対象が変化を被らないなら前者のように真の見解を棄てるのは不可能である。それは対象が同じままで同を保存しつづけるとともに、見解を抱く者も同を保存しつづけるなら真の見解を棄てるのは不可能だから。といって後者のように、太陽は人の住む大地よりもずっと大きいという真の見解を保持する者が、太陽は一ピエデの長さ(直径)であると告げる想像力を信頼(信仰)することも不可能である。いずれの場合も、見解が情動(感覚)と混じることはなく、かえって情動が拒絶されると同時に、想像力もまた拒絶される。像力とは情動(感覚)の捺印であり、痕跡であって[3]見解と情動の混合ではない。水の中の櫂のように、想像力は見解と情動(感覚)の混合ではなく、想像力は情動(感覚)につづくものである一方、見解は情動(感覚)に対立(反)する。[4]つまり想像力が情動(感覚)でも知見でもない(その上、見解でも、深慮でも、知識でも、知性でもない)なら、そこには魂の能力は一切残らず、これらとの関係において想像力を問うことはできないことになる。すなわち、知性の一々の種(スペキエス)は過ち得ない(不謬)とするなら、そこにはいかなる能力も残されない。一方、知性の或る一つの種(スペキエス)は過つことも可能であるとすると、真を言うばかりか、偽に同意する(偽を承認する)こともできることとなり、そうであるならここで想像力とこの知性とを区別することが容易でなくなり、これらの間にはさまざまな接触点が示される(あらわれる)。まず−ちょうど語っていたところの−過つ可能性、第二に想像がわれわれに依拠しているように、知性をもってわれわれが望むものどもを思惟するところもわれわれに依拠していること。では想像力とこの類の知性の間にある相違とはどのようなものであるのか、ひきつづき探ってみることにしよう。それにはまず、これら二つの能力の自然本性をそれぞれ別々に規定しておく必要がある。そうすることによって、これらが相互にどこで異なっているのかという観点があらわになるだろう。そのためにはまず、想像力とは何であるか、規定しておく必要がある。というのもここまではそれが何でないかについて語ってきたが、何であるかについては語っていないから[5]

 



[1] Cfr. tr. lat. III. XVI p.296 ed.1542

[2] Plato, Teeteto 152c.cfr. tr.lat. III.XIII, p.294 ed.1542.

[3] cfr. tr.lat. III.XIII, p.294 ed.1542.Est enim imaginatio quasi quaedam impressio, &vestigium sensus, non complexio opinionis & sensus.

[4] cfr. tr.lat. III.XIII, p.295 ed.1542.

[5] cfr. tr.lat. III.XIII, p.295 ed.1542.Hactenus enim non quid sit, sed quid non sit executi sumus.

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』50


 

以上から、想像が判断や合意(承認)とは異なるものであることは明らかである[1]われわれは知性とともに(知性によって)さまざまな可知的なものどもを、それらに関わる合意や判断を形成することなしに思惟する。するとここで想像力が知性のはたらきとどこで区別されるかを解説しておかねばならない。実際、知性はその準備的な基礎として想像を必要とするが、といって想像と知性が同一であるという訳ではない。これをより精妙に了解するためには、まずあらためて想像力について規定しておかねばならない。われわれが比喩的に用いるこの語彙の諸他の意味(われわれはしばしば想像力を情動にも知解にも用いる)を別にして、想像という語を諸感覚(意味)とともに感得され魂の中に存する(あらわれる)ある種の捺印、形象のように、われわれの内に生まれる像を謂うものとしよう。ところで、われわれがまさに想像と呼ぶところのものは、われわれがそれによって真偽を認める(言明する)識別の能力あるいは慣習(素因)の一つであり得る。この類の能力には、感覚(意味)、見解、知識、知性がある。知性−まさにこれに固有な意味で知性と称されるところ−とは、決して真実を過たぬものと解される。これがまさに知性の固有の感覚(意味)であり、これは知識がその固有な感覚(意味)において決して偽を承認しない(偽に合意しない)ものであるのと同様である。つまり、想像が情動ではないことは、以下の考察から明らかとなる。われわれは眠りの中で想像するが、これは諸感覚(意味)によって感得されるものではない。情動は可能態(受動)と現勢態(能動)の二様の意味(受容)で謂われる。われわれは夢の中で情動を可能態(受容)としてもつとは言えない。[p.90] なぜといって、夢というのは可感的なものどもから残される捺印の運動のようなものであるから。まして、そこで情動を現勢態(能動)としてもつとも言えない。なぜといって、諸感覚が現勢(能動)してはたらいているなら、動物は眠ることすらできないこととなる。それどころか、視覚を傷つけられた個々人がこれによって色を想像することを妨げられることはないが、そこで情動は彼らから可能態(受動)においても現勢態(能動)においても取り去られている。あるいは情動はあらゆる動物にあるが、想像力はある種のものにはあるにせよ、他のものには不在である。たとえば、蟻、蜜蜂にはそれがあり、犬や馬(その他情動を分有するすべての動物)にはそれよりも多くあるが、蛆にはない。また、可感的なものどもそのものの情動の大部分は真であるが、想像されたものどもはより偽(はかないもの)であり、無差別的な(漠然とした)情動を伴うものである。以上から明らかに、われわれは想像するという場合、われわれの諸感覚が可感的なものどもについて明瞭にはたらいておらず、明瞭に(明証をもって)感得していない時のことである。ソクラテスを近くで見つつ「これ(彼)はソクラテスだと思う(想像する)」と言う者などおらず、それは彼を遠くから見たり、情動が微弱な場合の言い方である。また、われわれが目を閉じる時には色を見ることはできないが、想像(像)が妨げられることはない。つまり想像力はこうした様々な観点からして情動とは区別され、また真を承認するさまざまな慣習(素因)としての知性のはたらきや知識からも区別される。想像力においてはこれ(真の承認)は稀であるから。後は見解と想像力とが同じであるのかどうかを探ってみねばならないが、すでに想像力は見解と区別されたところである。実際、われわれは想像力を一々の知見から分離した時、見解とは一種の知見であると言うことでそれ(想像力)が見解とは違うことを証示した。いずれ想像力も見解も真偽を承認(に同意)することができる点では共通だが、見解には信頼(信仰)が伴っている(見解をもつ者にこれを信じる信頼がないとは認め得ない)。信頼(信仰)には納得(得心)が伴い、納得(得心)には理拠づけ(理性)が伴うものであるから。実際、見解とは一種の理拠づけ(理性)による承認(合意)である。非理性的動物の中には想像力をもつものもあるが、これらに理拠づけ(理性)は完全に欠落している。それは先に言ったように、翼ある人のような不可能なものどもを憶測する(にかかわる見解をもつ)ことによるのではなく、それらを想像することによるものである。

 



[1] Cfr. tr. lat. III. XIIII p.294-5, ed.1542

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』49


 

これらの考察は論議を脱線させるものである。感覚(意味)が理拠的能力と符合しないことを証するには、すべての動物は感覚(意味)を分有(に参与)しているが、理拠的能力を分有(に参与)しているのは人だけである、と言われるところに明らかである。感覚(意味)の相違(種類)は五である一方、理拠的能力の相違(種類)はそれとは別で、感覚(意味)のさまざまな真実、知性のさまざまな真実のことである。この同じ有(存在者)を時に知性または理拠的能力、あるいは知解、もしくは論述的思惟と呼ぶにしても、混同してはならない[1]これらの語彙については後でより厳密に区別することとしよう。ここでは感覚(意味)に対するさまざまな相違を規定するため、これらの語彙をあたかも同じ意味をもつもののように用いるということにしておこう。また、知性の徳(力能)とは正しい見解、知識、慎重さ(賢慮)であるにせよ[2]、これらが感覚(意味)の徳(力能)であるとは決して言い得ない。一方、理拠の悪徳(欠陥)とは誤った見解、無知、歪曲のことであるが、これらが感覚(意味)の悪徳(欠陥)であるとは決して言い得ない。一方、理拠の悪徳(欠陥)は偽の(誤った)見解、無知、愚鈍といわれるが、これらが感覚(意味)の悪徳(欠陥)であるとは誰も言い得ない。また感覚(意味)とは一方で可感的なものそのものに関連しており、他方で共通な可感的なもの(共通諸感覚)に関連している。可感的なものそのものにかかわる感覚(意味)は通常、真である。しかし知性は、可知的なものそのものに関するものであっても共通なものに関わるものであっても、いずれ可知的なものそのものについては、共通なものについて以上に欺かれる(過つ)。実際、共通な可知的なものどもに関わる直観洞察の方が先であって(より先なる(優先、卓越した)ものが)よりよく知られる。また非理拠的な動物たちの中の多くは理拠を分有している(に参与している)と言われるが、これはわれわれが非理拠的動物たちに「理拠(理性)」という語を不適切に用いているのであり、ここでの議論には何の関係もない。これらは決して理拠(理性)を分有している訳ではない。ただその或るものはおそらく想像力を分有している。これは感覚(意味)の上位能力であるが、理拠づけ(理性)には遥かにおよばず、これら(感覚と理拠)と境を接しており、感覚(意味)に後続するものだが、判断に先立つものである。「判断」という語には理拠のはたらき(理性能力)からする判断力のあらゆる習性が含まれており、判断とはあたかも一つの類として、見解、知識、思慮といったものを種とするとみなされ得る。これらの能力はいずれもその前に(先立つものとして)想像力を前提としているが、想像力と同一ではない。一般に、見解に従ってあるいは知識あるいは深慮にしたがって判断をなすこと(定式化すること)は、これとは別の能力であって想像力によるものではない。この愛着まり想像力はわれわれに依存するもので、これを行使しようと欲する時になされる。実際、時に馬を、時に犬を、その他なんなりと有(存在者)の像(想像)を選択的に眼前にかたちづくることができる。逆に、なにごとかについて或る知見あるいは判断をなすには、われわれがなにか無差別に選ぶ諸有(存在者)によることなど不可能で、ただそこに識別される明白さ(明証)をもつ諸有(存在者)による場合だけである。[p.89] われわれに嘘と見えるような虚偽に対する拒絶を否定することはできないが、欲すると欲せざるとに関わらず、二かける二は四を認めることが必要である。逆に二かける二を五とするような者が算術を知っているとは認め難いだろう。あるいは人は二本足ではないとか、火は熱くないとか言うように。もしも汝が人は四足獣であると言ったり、火は冷たいというなら、なるほど汝はそう言うにせよ、汝はそうは考えていない[3]言葉をもって真実あるいは虚偽を言うのはわれわれにかかっている。とはいえ、われわれは諸見解や諸判断をなし、完全な合意あるいは拒絶を与える主であるわけではなく、こうした魂の愛着はただ無意識的なものである。実際、明白にわれわれにあらわれる諸対象はそうした諸存在(ものども)として魂を同意(承認)へと導くが、明白にわれわれにあらわれる非在のものども(ないことが明白なもの)は魂を拒否(否認)へと導く。何であるかを明瞭にあらわさないものどもは魂を判断の途絶(宙づり)に導く。つまり想像することはわれわれに依拠しており、可能なものを想像することばかりか、たとえば、ゲリオンのように多頭の人やボレアの息子たちのように翼をもった人々、半人半馬(ケンタウロス)やスキュラのような怪物といったまったく不可能なものを想像することすらできる。画家たちに望みのままの姿を描くことが許され(肯定され)ているように、それは魂にも許されている。そればかりか、われわれはなにか恐ろしく身の毛もよだつものを考える時、たちまち体躯にも影響があらわれ(体躯もその効果を被り)、震え、蒼白となる。一方、われわれがなにか快美なものを想像する時にはそれとは逆の気分になる(配置がとられる)。とはいえ、われわれはしばしば地震や野獣の襲撃といった状況を想像する時、描かれた絵の中の図像を観照する時あるいは魂の中のさまざまな想像を観照する時に何の影響(効果)をも被らないように、一切影響を被らないこともある。

 



[1] Cfr. tr. lat. III. XII p.293-4 ed.1542

[2] Cfr. tr. lat. III. X p.292 ed.1542:ここで知性はvirtutes animiと訳されている。

[3] Id.: non tamen id quod dicis etiam sensis.

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』48

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』48

 

3 (427a17-429a9)

 

知り判断するとはなにも感覚(意味)について謂われるばかりでなく、理拠づけや論述的知性に関しても謂われる[1]そこでこれらの判断能力の間の相違とは何であるかを考察してみなければならない。これの探求は余計なものなどではなく、古の哲学者たちからも明らかに汲み取ることができる。実際、彼らは通常、感覚(意味)を理拠と同一視した。たとえばエンペドクレスはこう言っている。

「現在するところの(目の前にある)ものが人々の賢慮を増す(成長させる)」[2]

つまり感覚(意味)そのものが現在する可感的なものどもによって動かされる。またホメロスは、知性もそれを取り巻くものとともに変化と歪曲(変造)を被るとみなし、理拠の自然本性は物体的なものであると信じることで、どこか知性を感覚(意味)に縮減している。

「人々の知性とはこうしたものである。つまり地上の日々、人々および神々の父となろうと欲する」[3]

また彼らは、もすべての諸端緒原理から構成されている、と考え、それ(魂)は諸有(存在者)を類同の接触によって知るのであって、知性を物体に縮約するばかりで、知性そのものが知る諸物体とともに変化を被るのではない、と考えている。しかし彼らは、がどのように知るのか、つまり類同と接触することによって、と教えるにとどまらず、どのように誤りに陥るか、つまりこの愛着はさまざまな動物の中でももっとも特殊で、長く持続する、と教えるべきであった。[p.88] にもかかわらず彼らは、われわれはどのように知るのか、つまり類同との接触により(を介して)、と説く。しかしここでわれわれは誤解するのである。彼らの説明になにもつけ加えることなく、われわれが知る諸物はわれわれが誤解する(われわれを欺く)数多のことどもの中の最小部分に過ぎないということを省みることもなしに。ただ逆性を考えるだけでも、知識は一であり、誤りも一であるにせよ。実際、善が有用であることを知る者は、同時に悪は有害であることを知っている。二つの逆性の一方に欺かれるものは、他方にも欺かれる。それゆえ、われわれは逆性を知る時、同時に逆性に類同なものどもを知る、あるいは逆性に欺かれる時、同時に逆性に非同なものどもを知るのでなければならない。しかしこれら二つの仮説はいずれも不可能である。

 



[1] Cfr. tr. lat. III. IX p.291 ed.1542

[2] 31 B 106 Diels-Kranz; E. Bignone, Empedocle, p.475.

[3] Odissea XVIII 136-137,

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』47


 

[p.87] 以上の論議から、視覚の最初が瞳にあるのでもなく、聴覚の最初が耳にあるのでもなく、味覚が舌にあるのでもなく、最初の視覚も味覚も聴覚も嗅覚も触覚も第一の可感的な霊(プネウマ)のなかにある、ということは明らかである。われわれがすべての感覚は五つであると言うとき、感覚器官が五つであって、唯一の源泉としての可感的な霊(プネウマ)から諸器官を介して導かれる経路は五つであるが、これら諸器官を利用する本源的な感覚そのもの(固有の意味)は唯一である。要するに、五感は使者の役目をもつ一方、唯一の感覚固有の意味)は指示する(命ずる)者あるいは王の役割をもつ。実際、上に採用した比較にみるように、多くの者たちは使信の数々に言及するが判断するものは唯一であり伝達器官は数々あれどもあらゆる可感的なものどもについて判断を表明する有(存在者)は唯一である。この能力によって、われわれは視覚をもって見るものを、聴覚によって聴くものを認めるのである。実際、この能力によって諸能作(現勢)の相違を感得するのであり、これによって諸能作(現勢)そのものをも感得するのである。先にはそう見えたように、なにも視覚によって視覚を判断するのではなく、一々の感覚器官との関係(比率)において秩序づけられた唯一の能力によって判断するのである。以上の規定によって感覚(意味)についての論議は十分である。


テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』46


 

一々の感覚(意味)はそれ固有の感覚器官の中に据え置かれている、とは繰り返し語って来たところであり、これによって可感的対象を識別され、そこにある相違が識別される−この論議の端緒に戻り、より細かく検討してみよう。われわれは白を黒と違うものとして感得するだけではなく、白が甘さと異なるものであることも感得する。[p.85] では、白と甘さの相違を識別する能力とは何であろうか。それは視覚ではない。これは甘さを感得しないから。また味覚でもない。これは白を知らないから。要するに、それはある感覚(意味)を判断するところのものでもあるのでなければならない。可感的なものどものさまざまな差異も可感的なものどもであるから。先に触覚は肉の中にあるのではないようにみえ、肉は単に触れられるものと触覚という感覚器官の能力の中間(媒介)としての有(存在者)であるようにみえたにせよ、なにも不思議はない。もしもこの名辞(触覚)を肉に与えようと思うにせよ、ただ触覚という能力をもつ第一の(最初の)器官であるということは排除するという条件においてである。この論議を先に進めるなら、これはなにも肉に関わる現象であるだけでなく、その他の感覚諸器官にも関わる現象であることが分かるだろう。つまりたとえば、瞳や内耳へと通じる導管。ここで話をすこし戻してみなければならない。白が黒とは違うと判断する能力は唯一であるように、甘さが熱とは違うと判断する能力も唯一であるべきであろう。実際、諸能力はあれこれ分離されたり接合を切られたりすることはできず、あるものをこの可感性(感覚されるもの)、他を別の可感性(感覚されるもの)として感得しつつ、われわれはこれあれの可感的なものが同一物ではないと判断する。こうした場合、わたしがこの可感的なものを感得し、あなたが他を感得するなら[1]、これらの可感的なものはお互い相違しているということになる。しかしそれはあり得ず、それは唯一の有(存在者)であるが、両者(ふたつ)ともに可感的なものとして感得しつつ、両者が唯一同一のこと(もの)ではないと言う訳で、ここで白と言われる有(存在者)は甘いと言われる有(存在者)と同一ではない。つまり同一の有(存在者)が二つの可感的なものに関わる言明をかたちづくるとともに、二つの可感的なものが感得されている。唯一の有(存在者)について両者(ふたつ)の可感的なものが言明されるかたち(定言命題)が考察されると、それらが感得される(これらの感得もふたつとなる(二重化される))。その判断は唯一の有(存在者)についてなされるばかりか、その判断作用(はたらき)も同時になされる。誰か蜂蜜は黄色で甘い、あるいは雪は冷たくて白いと感得する時、白という性質と冷という性質をそれぞれ別々の時に感得しているのではなく、同時に両者の性質を感得しているのであり。二つの可感的なものの一方は異diversoであると言うときには、二つのうちの他方も異であると言明される。ここで「とき」というのは偶性的な時ではない。実際、わたしは「いま」哲学者プラトンがシチリアへ出発したと言うことができるが、それは「いま」わたしが(それを)語っているという意味であって、「いま」彼が出発したという意味ではない。しかし「いま」言明した白と冷の相違を判断する能力において、「いま」という言明はそれとは異なっている。つまり同時にというのは、そこで能力そのものが一であるばかりでなく、一時にはたらいているような場合である。ところで一つ以上の感覚器官がさまざまに異なった伝達(知見)をもたらし終える(名辞化する)感覚能力は唯一であると言う。しかしこれまた不可能である。実際、この能力それ自体不可分な有(存在者)であるが、なにより不可分な時間のうちに同時に幾つもの運動をうごく。なぜ「幾つもの運動」と言われるのか。おそらく逆性の運動をも含んでのことだろう。この唯一の能力が何であれ、瞳や舌が黄色や甘さを伝えるだけではなく、われわれが書物の文字を目にしている時のように瞳そのものが白や黒を伝える。ここでわれわれは可感的なものを二つとも、つまり黒と白を感得している。それはなにも異(諸差異)としてばかりでなく、異(諸差異)を超えて逆性として感得されている。この能力は唯一でありつつ、同時に逆性運動へとうごいているのだろうか。[p.86] このような大きな困難は異なる(その他さまざまな)諸感覚(の間)にもたらされることはない。異なった感覚の場合、伝達される可感的なものどもは異であるが、逆性ではない。たとえば甘さと黄色のように。一方、唯一の感覚、唯一の感覚器官において起こるところは遥かに矛盾しているようにみえる。あるいは、この能力はいったいどのように同時に逆性の可感的なものを感得し得るのだろうか。それを知るためには、感覚諸器官のあらゆる報知を伝達する可感的能力は数および基体substratoとしては一であるが、本質においては一以上であるのかどうか、という論議に訴えるだけで十分である。多くの場合、この論議はさまざまな困難を解消してくれる。この能力は一方で分割され、他方で分割不能なものである可感的なものどもを分割して感得する。それは本質においてあるいは形相において分割されるが、場所と数において分割不能なものである。あるいはこの困難を説明するのにこれでは十分ではないかもしれない。実際、同じ有(存在者)が可能態において冷・熱、白・黒であることで分割可能であるとともに不可分であるにしても、なにも不思議はない。しかし同じ有(存在者)が逆性の両者を同時に能作(現勢)させることは不可能であるが、時間に関してあるいは能作(現勢)する諸有(存在者)に関して異なった能作(現勢)が分割されることは必然(当然)である。つまり同じ有(存在者)が同時に逆性の諸形相を迎え入れることができないとは、諸情動(感覚)や諸知解intellezioneを構成する愛着において、つまり可感的なものどもおよび可知的なものどもintelligibiliの諸形相を受け取るところに見定められる。しかしより道理を伴った様相で仮説をかたちづくることができるかもしれない。可感的能力は点、つまり円周の中心に似ている。ここに円周(周縁)から発出するすべての光線が帰着する。この点は一であると同時に一以上である。円周(周縁)の中心として一であり、さまざまな直線の終点(帰着)として一以上である。点は同時に不可分であるとともに分割可能である。このようにして、本来可感的とか、本来感覚とか称される能力も規定される。それは一でありつつ一つ以上の器官に帰結する(において名辞化される)。それは一にして不可分なものとしては、判断を行使することにおいて一にして同時である。一方、数々の器官に分割される帰結(名辞)としては、それらが数多に分離した可感的なものどもと判断されることを妨げるものではなく、かといって一であることを妨げるものでもないような、この唯一の能力が多能力と化す。それは同時に一にして多である。それどころか、何度も繰り返し述べてきたように、それ自体が同時に白・黒、冷・熱となることはない。さもなければこれは矛盾と化すから。しかし一々の感覚器官はさまざまに固有な差異を伝達し、能力は本質において非物体的であり、本来可感的な霊(プネウマ)のうちに(場所的に)ある(局在している)ので、ここから泉が湧きだすようにすべての感覚器官が発出し、この中に可感的なものどもに由来する伝達のすべてが混じ、白は黒とは異なる、白は甘さとは異なる、と判断し言明することとなる。それは逆性の同じ愛着を被るからではなく、可感的な逆性を観照することによる。可感的な逆性を同時に判断することは矛盾ではないし、あれこれの逆性の論議をなす人が文言(命題)を同時に発語することすら矛盾ではない。ただ逆性の愛着を同時に被ることこそが矛盾である。



[1] Cfr. tr. lat. III. VII p.289 ed.1542”Nam si diversae vires sunt, quarum altera hoc, altera illud possit, utique nullum discrimen inter sensilia ea constituere poterunt”.

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』45


 

現勢(能作)している聴こえるものと能作して(はたらいて)いる聴覚は同じことであるとするなら、諸感覚は均衡(比例関係)proporzioniと称される(その意味は対応している、と言える)。ここから明確になること。正しい比率(均衡)proporzioneで混合された可感的なものどもは、混合されていないものよりもわれわれにとってはつねに甘美で(甘く)ある。諸音の調和、味の混合、色の混合比率のように。それゆえ音楽、絵画、香料の調合、調理の業は両極にあるものの混合とその比率がその対象となる。一々の混合は比率(均衡)である。可感的なものが現勢(能作)すると、これは感覚(意味)と同一化する。要するにどうみても、感覚(意味)は均衡(比率)である。実際、感覚(意味)は均衡(比率)と同一視される。混合されていない音、単純な味はそれ自体過剰あるいは欠乏であり、感覚(意味)を動かすことはなく、それらを破壊したり苦痛を与えたりする。実際、それらは均衡(比率)になく、正しい混合でもなく、調和してもいない。

 

エウジェニオ・ガレン「さまざまな「選択」と占星術の問題」8


 

それは時間と空間の諸関係を特定する複雑な計算を意味するばかりでなく、個人の相貌(アスペクト)や或る人の秘密とそれに関連するものであり得る諸形象の結びつきの探求でもあり得る。より正確を期すなら、占星術は二つの関係性の秩序を検討するものである。一つは、諸星辰の位置とある瞬間のできごとから導出される算術的図式の数々の間にある形相(形式)的諸関係。もう一つは、天界の諸形象の中に表現されている諸特性−力能や権能(潜在力)−と、地上の諸有(存在者)のうちなる深みにある愛着の数々の間に存する内的な諸関係。いまだ書かれていない占星術の一章、そこではある瞬間におけるすべての天体の放射の諸関係をある特定の点からみた配置として特定しようとするかなり複雑な算術計算に、生命の深みを見出そうとする別の探求を合し、これを時と場所と図式に従って類別してみせることとなる。そこには更新する同じ力が到るところを循環しており、それにさまざまな形相formeを配し表示することができ、こうした範型の数々は超越的な水準に配される、という確信がある。いずれにせよここで強調しておくべきは、万有宇宙の権能(潜在力)はさまざまな形相を超えて、必然的な規定(限定)を超えて、深みにおいてあらわれるものであり、占星術はまさにあらゆる規定を超えて、その前に、こうした隠された意味、注入(影響)、探るものである、ということ。

もしも現実が純然たる理拠的(理性的)な諸関係に還元され得るものなら、占星術は純粋に厳密な知識となることだろう。たとえそれに限度があるにせよ、いずれたいへん厳格なものとなるだろう。さまざまな形相のもとに(またそれらの彼方に)賦活された生命流が、諸注入(影響)の隠された諸力能の複合体が循環する(円運動する)ように、占星術もまた天と地の、人と宇宙の間の、諸形相の元あるいはこれらを超えたそれらの諸力の循環(円運動)の研究である。そればかりか、第一の意味(受容)において、諸関係は数および幾何学形象であり、第二の場合にはそれは生命のことであり、魂のこと、またこれらがあらわす諸力と諸注入(影響)のことであって、これは幾何学や算術の言語ではなく、石や植物や動物のような生きており賦活された(魂を付与された)形象によるものである。占星術的な宇宙は謂わば深く厚い織物、数を付され、あらゆる領野の存在(もの)が刺繍され鏤められた驚くべく奇想を凝らしたつづれ織りのようなものである。その中を生命の力能が永劫の流れのように過ぎつつ浸し、そこにさまざまな形象を映じながらそれらの輪郭に従って流れを凝固させ、またそれらを破砕しつつ。

占星術師は最初に一つの点として定められた或る算術的瞬間を秩序立った配列の中に定める(座標に配置する)。そこで彼は卒然と、この瞬間の深みの流れとその運動を探ることとなる。それは魔術の業をもって、諸形象の反映によって生命流そのものから生まれるある配列を変えようと試み、あることがらが(その支配のもとに)据えられてある形象の秩序を被る代わりに、別のある形象のもとに配するためである。ラテン語版『アリストテレス神学』には、諸星辰の注入(影響)はsunt similes bannis terrarum civilibusとある[1]。ただしここでも、cuius regio eius religioは有効である。ここで或る法則(律)、或る形相を別のかたちにつくることで取り去る(逃れる)ことができる。というのも、宇宙の現実はこれを抽象(濾過)したとしても、幾何学的な組み合わせに還元することはできないから。

ここで占星術は自ずからその主題群の多様性、重層性、そしてその部分として他ならず誕生および異なる歴史を明らかにする。その淵源に遡らず、そのより発展した一段階をとってみるなら、「質問interrogationibus」や「選択electiones」の特殊な観点の幾つかが明らかになる。これらはさまざまな占星術の具体的実践において個別に明らかにされる。

 



[1] Theologia, p.644.

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』44


 

可感的なものの能作(はたらき)と感覚(意味)の能作(はたらき)は一にして同一である。しかしそれらの本質は同一ではない。つまり現勢(能作)している聴き得るもの(聴かれているもの)と能作している(はたらいている)聴覚は同じ、現勢(能作)している見られるものと能作している(はたらいている)視覚は同じであるが、見られるものは視覚なしには現勢(能作)へと翻案されることはない。逆に、可能態(潜在力)として聞き得るもの(聞かれる可能性のあるもの)と可能態(潜在力)にある聴覚はそれぞれ分離され得る。[p.84] 実際、ある存在が聴覚をもちつつ聴かないことは可能であり、聴かれ得るものとしての或る有(存在者)が聴かれず、ただ音としてあることもあり得る。一方、聴く能力をもつものが聴き、聴かれる可能性のある者が聴かれると、聴覚は現勢し(はたらき)、聴かれ得るものの能作(はたらき)も同時に生まれる。これらのどちらも聴覚の中にある。つまり一般に、はたらきうごく能力をもつものの能作(はたらき)は、これを被るもののうちに実現される。これはすでに自然学[1]において論証されたところ。つまり可感的なものの能作(はたらき)は感覚器官の中にあり、ここから明らかになるのは、動くもののすべてが必然的に動かされる訳ではないということ。可感的なものどもが諸感覚を動かすのが本当であるとしても、それらはしばしば不動のままにとどまる。これは特に視覚において明らかである。実際、色は視覚を動かすが、色そのものは不動にとどまる。触覚についてもこれとほぼ同じことが言える。実際、冷は肉もしくは肉の前に(に先立って)ある感覚器官の中に変化を生むが、それ(冷)自体は何の変化もしない。つまり変化が生まれる時、それはなんの変化もしない。幾つかの場合(事例)においては、二つの能作(はたらき)は二つの名辞をもっている。つまり二つの能作(はたらき)の、可感的なものの能作(はたらき)と感覚能力の能作(はたらき)との。たとえば、音を生む対象物の能作(はたらき)を反響(共鳴)と名指し、聴く能力の能作(はたらき)を聴覚と名指すことができる。あるいは二つの能作(はたらき)のうちの一方が名辞(呼称)をもたない場合もある。見る能作(はたらき)は視覚と名指されるが、色の能作(はたらき)には名辞がない。味わう能力の能作(はたらき)は味覚と称されるが、味の能作(はたらき)には名辞がない。先の生理学者たちは、視覚なしに色は存せず、味覚なしに味は存しないと主張することで過誤を犯している。実際、見えるものどもおよび味のするものどもという二つの語の意味をみてみるなら、現勢(能作)している見えるものどもとは視覚なしには存しえないということである一方、可能態にあるとは見えるものどもが可能態(潜在力)のうちにあるということである。実際、視覚なしにも白は存することが可能である、と。しかし一方だけの語の意味から謂われているのではないことを一義的に語る者たちのこのような道理づけは批判されねばならない。

 



[1] Aristotele, Fisica III, 3.

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』43


2  (425b12427a16)

 

われわれは見ていることに気づき、聴いていることに気づくことから、必然的に見ていることが視覚そのものによるものであるか、視覚を判断する別の感覚(意味)によるのかに気づくこととなる。もしも見ることが視覚によるのではなく、他の感覚(意味)によるものであると認めるなら、同じ可感的なものに二つの感覚(意味)があることとなるだろう。つまり色については本来色を見るものである視覚と、視覚に気づく感覚(意味)と。この二つ目の感覚(意味)は、これが見られることが知ることではないとすると、見る視覚から確認され得るものではない。視覚にこれを判断する別の感覚(意味)が必要であるとすると、判断する感覚(意味)にまた別の感覚(意味)が必要となり、またこれに別の者が必要となり、無限後退に陥るのではないか。もし誰かこの困難を予見して、視覚を判断する感覚(意味)が自らをも判断できるものであると認めるなら、なぜこの能力を視覚そのものに認めることがないのだろうか。そこで視覚が自らそのものを判断することを認めるとする。視覚に感覚されるものは色である。つまり視覚は色を得ることになる。「視覚によって感得する」ことはなにも唯一の受容を謂ったものではないことは確かである。実際、われわれが見ない時も、見るのとは別の様相で視覚によって光と闇を識別している。あるいは、この同じ感覚(意味)によってわれわれは見ていないことに気づくとするなら、この同じ感覚(意味)によってわれわれは見ていることにも気づき、この感覚(意味)が視覚であることとなるだろう。視覚がある様相で色づけられていると認めることも矛盾ではない。感覚器官とは可感的なものを質料なしに受け取る受容器である。それゆえ、可感的なものどもが遠ざかっても、それらの諸情動(感情)や諸像(イマジネ)が器官内に残りつづける。これが可感的なものどもの可知的諸形相、感覚(意味)が集めた諸形相であり、外部の諸対象がもはや眼前になくなっても、ある期間にわたり残留する。われわれが視覚によって見た色が黄色であることを認め、つづいて同じ感覚(意味)によって見るもの一般に気づかないというのは矛盾である。ただし、両方の事実に同じ視覚によって気づくにしても、同じ様相においてではない。われわれが見ている色は黄色であると視覚によって知るのは、視覚が色の能作(はたらき)を被ることである。視覚が愛着を感得する限りにおいて、われわれは見ていることに気づく。

 

テミスティオス『アリストテレスのデ・アニマ釈義(パラフラーシ)』42


 

ここまで語ってきたところからすると、諸感覚(意味)は五つに限らないようにみえる。[p.83] ひょっとすると誰か、なぜ唯一の感覚(意味)だけではないのか、と問う者があるかもしれない。それだけで音、味、その他すべて可感的なものどもを感得できるような。それがおそらく、可感的なもののすべてにとって唯一の感覚(意味)があるにしても、共通(一般)の可感的なものどもが共通(一般)のものとして知られ得ない理由である。共通(一般)の可感的なものどもが幾つもの感覚(意味)に応答するという事実は、それらが唯一の感覚(意味)に属するものではないということを証示している。これが共通(一般)の可感的なものどもを識別するのが難しいということの十分な理由(原因)である。つまり幾つもの判断を調和させる必要がある。それにここまで述べたことの帰結として論じるべき別のことがある。もしも唯一の感覚(意味)しかないなら、唯一の感覚器官だけしかないだろう。これは不可能である。実際、感覚器官は感覚(可感的なもの)に対して可能態(潜在力)としてある。しかしすべてに対してすべてが可能態(潜在力)としてある訳ではない。無色が色に対するように、無音が音に対するように、自然本性的に(自然界において)或る有(存在者)ならなんでも或る有(存在者)にはたらく準備ができている訳ではなく、或る有(存在者)ならなんでも或る有(存在者)のはたらきを被るという訳でもない。これについては以上で十分に証示された。

 

エウジェニオ・ガレン「さまざまな「選択」と占星術の問題」7


 

2

上に分析を試みた文書の中でフィチーノが努めているのは、魔術的−占星術的な観念における思惟の基礎付けの可能性を明らめる一方で、これを了解しつつさまざまな技法を解説することだった。では、生命の万有宇宙的循環の観念、および精妙な体躯つまり諸霊spiritusの媒介による万有宇宙の魂(世界魂)のはたらきという観念がさほど注目すべきものではないとすると(これはプネウマ・プシュキコス、魂の星辰的乗り物(手段)の教説で、プロクロスも説いていたもの)、より重要なのは形相formaあるいは像immagineという主題。これは無形のうちへの消散解消に対置され、ある力能もしくは上位の魂を負う(充溢させる)もの。この形相formaすなわちここでは形象figuraと、これを張りめぐらしこれにはたらく諸力の間の関係については、魔術的−占星術的主題としてばかりでなく、十五世紀から十六世紀にはかなり集中的に論じられることになる。占星術的象徴群の慣用にはさまざまな意味が込められている。思惟し想起する普遍的な(万有宇宙の)業の数々においてそれらが引き受ける秩序づけや召喚の意味、これがある種の力を誘惑(誘引)し閉じ込める形象figureという観念と結びついたものであることに疑いはない[1]

また『エンネアデス』第四の別の箇所−これは『アリストテレス神学』に再録される−で、プロティノスは効果的な形象の数々について解説している。これは魔術師たちが用いるもので、「まさに万有宇宙の一性において唯一の中心にはたらくように、騒音もなしに自らに注入(影響)を引き寄せる」。これに付言して、「じつのところこのような魔術師は万有宇宙の外にあろうと欲するのであり、そこで彼は自分がなす妖術や召喚にかかわる教唆を実践することも、懇願(悪魔払い)をすることもできなくなる。ここで彼はなんのはたらきもなさず、謂わばこの世とは異なる場所にあって、生きる者の胸中であるものを別のものへと移す方途を知り、これを引き寄せることができるものとなる。

もちろんプロティノスは、魂を誘惑しに来るものが純粋な思惟ではなく、he alogos psicheである、と厳密を期している。注入(影響)の戯れに入り込むのは全の秩序の中にある諸星辰そのものではなく、理拠的有(存在者)の数々でもなく、万有宇宙の諸部分(諸分割)にかかわるものだけである。別言するなら、この「親和simpatia」、この「共在convivenza」だけが万有宇宙の活力(生命)の帯域内に相互の注入(影響)を増殖させ、ここに諸星辰の注入(影響)が魔術的蠱惑fascinatioと結びつく、とは『アリストテレス神学』が強調するところである[2]

魔術と占星術の関係はじつに緊密である。魔術実修はその条件として天界の状況の特定を含みもっている。いずれにせよ、そこで想定される観念は占星術の具体的(特殊な)手法の数々である(となった)ばかりか、まさにこうした観念から生起したものである。厳密な知識としての占星術の出発点は、個人あるいはできごとと天界の状況あるいは宇宙の状況との関係の特定にある。しかし違反不能の諸法則(律)に導かれた理拠的現実という厳密な出発点からしてすでに、さまざまな運動および諸物体の複雑さおよび、観念にさまざまな図式を準備する(に配列される)諸力が再現することにより、つねに図式そのものが越境されつづける。たとえプロティノスが諸星辰はそれ自体愛着をもたないと確言するにしても、結局のところ、諸星辰のなかにはそれらがその個別化において、たとえそれが精妙で隠秘なものであるにせよ、万有宇宙の調和から「非受動性」を分有していることが識別されると認めている(「たとえ諸星辰からなにかが流出しているにせよ、その溢出は感得不可能であり、たとえなにかが流入しているにせよ、それは隠秘な流入である」)。『アリストテレス神学』の本文、ルネサンス期のラテン語訳異文には、天と地の間で交換される運動について強調されている。これこそまさに、諸天界から決定されることの傍ら、われわれがさまざまに選択して記述する図像の数々のうちに、地から諸天へ向けられる運動があることを示すものとなっている。

 



[1] Cfr. Paolo Rossi, Clavis universalis. Arti mnemoniche e logica combinatoria da Lullo a Leibniz, Milano-Napoli 1960.

[2] Enn. IV, 40; Theologia Aristotelis, tr. Lewis, p.137 (ed. lat. di P. N. Castellani, in Aristotelis opera, Lione 1580, vol.III, p.643sgg.)

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