コプト・グノーシス主義において、χαρακτήρという語は、神存在をあらわす幾何学的な図案を意味している。またより一般的に被造物をあらわすこともある(Schmidt, Kopt. gnost. Schr., p., 262, 263, 340, 341, 343, 358)。これらの図案はパピルス群やわれわれの球の謎文字によく似ている。『ピスティス・ソフィア』、遊戯の書の数々その他或る古い書にはこれに類した図案が溢れており、時に神的発出(τύποι)を、時に魂が諸天の権能の前に到達する時に署名せねばならない封印(σφραγίδες, p 261, 290, 322 etc.)を描いたものとされる。アプレイウス(273−1)も、イシスの諸玄義への入信儀礼に用いられた、この種のしるしに溢れる或る『聖なる書』について語っている。呪詛板(274−1)にも、魔術的な貴石その他のモニュメント(2)にも、錬金術師たちが秘蔵したアルファベート(3)にも、占星術師たちのアルファベート(4)にも、民衆的な医術(5)にも、ユダヤ教(6)にもこれは見つかる。その幾つかではこれらのしるしは秘密のアルファベートの類とされるが、それらには厳密な語義(発音)が帰属されず、諸ダイモーンに対する特別の力能だけが認められている。
それらのしるしのかたちから、おそらくに類の範疇に区分することができる。
⦁ 大きな球の頂点もしくは三角をしるす図案。その幾つかはギリシャ文字の形をとり、それぞれの頂点の魔術的力能を示している。こうした類の文字の中には、大量のZがみられ、つづいてN, τ, χ, Γ, A, γ, Γ, ω。しかしわれわれのモニュメントにみられるような文字は他にない。その他の事例としては、四角、三角、円、半円、小さな円や三角の数々といった幾何学的な図案がある。
⦁ 幾何学的図案−円、四角、破断線、特にzに近い形、錯雑した円孤の交錯等々。角頂のないもの。これらの図案は面をなす場合には通常等辺で描かれる。単純な線の場合には他の線分によって区画づけられている。われわれの球のしるしはおおむねこの範疇に類別できる。
これらのしるしの幾つかが異邦のアルファベートに由来するものではないのか、とすでに考えてみた。たとえばエジプト文字あるいはクレタのもののように用いられなくなった古アルファベート(1)。われわれのさまざまなしるし、四分された四角、上が開いた8等々はクレタのアルファベートに見つかる(2)。他にエジプト文字に見つかるものもあるが、これはどうやら純然たる偶然で、それではこれらの魔術的なしるしの淵源をばかりか意味−これは古ピタゴラス主義の幾何学において周知のものであった−を見出すこともできない。
これらの銘記やしるしが覆い隠している観念や教説の類型からみて、アテネの球は魔術的モニュメントの範疇に入るものである。まさに太陽崇拝−本来はギリシャの僅かの都邑に限られ、僅かな哲学体系からなっていたもの−こそ、この球が制作された時期にもっとも広まり流行していたものだった。ストア派の大きな影響力−知識階級(知的世界)にばかりでなく、民衆にも浸透したもの−のおかげもあり、ヘレニスム期の偉大な神性の多くは太陽神と化していった。ミトラ、アッティス、サラピス、ゼウス、オシリス、ディオニュソスはその個性を失い、いよいよ太陽と同一視されていくことになった。太陽崇拝は皇帝たち−アウレリアヌス、コンスタンス・クロレス、そして特にユリアヌスといったこれの宣揚者たち擁護者たち−のもとでさらにその威信を深めていくことになる。この時期のオルフィック教、ピタゴラス主義、プラトン主義の復活にあって、太陽はその宇宙誌および神学の中で、古代の宗教哲学体系におけるよりもずっと卓越した地位を与えられた。グノーシス派の多くにおいて、火の神性あるいはこの元素そのものの優越的な重要性が説かれた。そうしたもののひとつ、特にガリアやエジプトに広まったいわゆるヘリオグノースティ(太陽叡知(グノーシス)主義者たち)は、純然たる太陽崇拝を唱えた(1)。またミトラの諸玄義が東方世界からローマ世界までを征服し、ギリシャにも流行しはじめた。
太陽崇拝の影響がもっとも著しいのは魔術的文書群やそのモニュメント群だった。太陽はそこで第一の地位を占め、時にアポロンと、時にセラピス、ミトラ、オシリス、ホールス、アドン、セツ−テュポン等々と同一視され、あるいはその星辰のすがたで崇められた。パピルスの祈禱詞や魔術的召喚詞の多くはこれに向けられている。栄光の讃歌は彼に向けられ、そこに詳述される魔術実修の大部分は彼に関連したものとされている。ミモウ、ベルリン、ライデン・パピルス、パリ・パピルスの大部分はその神性を祝い、その創造の権能、世界の司としての権能を招請し、その意志的統率を祈願したものである。同様に、鰻足に雄鶏の頭(アブラクサス)、太陽蛇(クノウビス)、獅子、スカラベ、ホーロス、セラピス、セツ、オシリス等々、あれこれのすがたを取って彼は描出される。これらはグノーシス主義的貴石の多くに刻まれ、呪詛板に明瞭に記されてきた。
つまり、われわれの球もパピルスがその処方を載せ、護符(アムレト)とされた貴石に刻まれたものと同類の魔術的モニュメントの一つである。もちろん、これが私的な護符(アムレト)でないことは明らかで、館あるいは公的建築物の安寧を恃むためのφυλακτήριον(経札)であり、パピルスの書写者たちが記しているような魔術的実修のためのものであった。Wunschが検討しているペルガモンの魔術的器物の数々、三角の板、円板、釘、小板等々もこれに類したものであった。ライデン・パピルスの処方のひとつW, p.179, 15は、魔術師たちが召喚し、出現させあるいは行為を強要しようとする神のすがたを描出するだけでは満足せず、自らその帰属象徴を身につけることがその特別な魔術的力能を獲得するために有用であると考えていたことを示している。
έχε δε και εκ ρίζης δάφνης τον συνεργοΰντα 'Απόλλωνα γεγλυμμένον, ώ παρέστηκεν τρίπους καΐ Πύθιος δράκων γλύψον δε περί tόv Απόλλωνα το μέγα όνομα Αίγυπτιακώ σχήματι, επί του στήθους τούτο το άναγραμματιζόμενον Βαινχωωωχωωωχνιαβ, και κατά τοΰ νώτου του ζωδίου το όνομα τούτο Ίλιλλου Ίλιλλου Ίλιλλου, περί δε τον Πύθιον δράκοντα και τον τρίποδα ιθωρ μαρμαραυγη φωχω φωβωχ.(月桂樹の根も「微笑むアポロン」の共謀者で、ピュティアの龍の彫刻がアポロンをめぐるようにエジプトの偉大な名をもってあらわされ、その胸にアナグラム、バインコオオコオオクニアプ、そしてしるしの南側にイリロウ、イリロウ、イリロウ、ピュティアの龍の周り、三脚ithor marmaraugiにフォコ、フォボク(火よ、火よ)が記される)。
このモニュメントが発見された場所は、エジプトの魔術の流布にかかわる興味深い知見を提供してくれる。魔術的パピルス群は、この類の貴石の多く同様に、エジプトからもたらされた。これらの文書群やモニュメント群がギリシャ−エジプトの教説をもとに形成された宗教的折衷主義を示している。エジプトからこの魔術類型はローマやアジア−フェニキア(貴石)、小アジア(ペルガモンのモニュメント群からキプロスの呪詛板等々)、北アフリカ、イタリア、ガリア、ゲルマニア(呪詛板)へと広まった。どうやらギリシャそれも特にアッティカはこうしたものの浸食にかなり抵抗したようである。このアテネの球の発見は、どうやらこうした実修および教説がその地でも知られていなかった訳ではないことを示している。しかしこの孤立したモニュメントからあまり一般的な結論を引き出さないように注意する必要がある。この球はディオニュシオス劇場にその所有者によって据えられたものであったかもしれない。パピルス銀に記されたさまざまな魔術的実修のうちには、舞台の成功(Pap. Br. Mus. 46, 39)、競技会の成功(Pap. Mimaut, 20)をあてにしたものもある。運動選手や役者たちは迷信深いものだった。ミモウ・パピルスに載る魔術儀礼(v. 41)はこの同じ劇場(スタジアム)に由来するもの。この球はこの種の実修に用いられたと推測されるだろう。つまり劇場の中に隠されあるいは発掘された場所に埋められ、一種の土地の所有の証、勝利の保障とされたものだったのだろう。