ヘルモゲネスを探して

錬金術書を読む Si hoc est quomodo est, si non est quomodo non est [Avicennae ad Hasen Regem Epistula de Re Recta, c.1]

リプレーの緑獅子 8


『達人の秘鑰』から

Johannis Segeri Weidenfeld de Secretis Adeptorum

 

「先述した諸物からわれわれの大いなる業をもって抽出されるものといっては賢者の石(いまだ固着しておらず揮発性のもの、あるいは経血の質料(素材))だけである。それゆえそれが新たにこの世に到来する時には、あなたはいかなる他の粉末をも、他の水をも、これに関係のない(調和しない)ものをもこれに加えてはならない。それどころかそれはそれのうちに生じ、それのうちに育つ。それが硫黄であり、これが天上の色(青?)の石を形成する。しかしあなたがそれ(石)を完全に抽出(蒸留)する前に、それの粘性、土性、壊敗性の病患つまりそれの自然本性に反するものどもを洗い清めなければならない。なぜといってこれらはそれの死であり、これらに包まれることによってそれの賦活する生気(霊)は苛まれ(滅ぼされ)るから」〔Theor, Test. Cap.7, T.C.p.20; Manget vol.1, p.714〕。ここで銘記しておくべきこととして、前述した二つの自然本性的諸原理(硫黄と生銀)のうちの一方(硫黄)、はすべての中で、それのすべての物体(実体)の中で、その内も外もより自然本性的であり、これによって金属の形相が純粋に結果する。他方(生銀)は非自然本性である。これの内は自然本性的であるが、外は反自然本性である。その内の自然本性的な部分はそれ自体の共自然本性的なものからできており、それ自身の自然本性に由来する。一方、外の部分は偶性によって付加されたものであり、それの壊敗(腐敗)の後にはそれから自然本性的に分離される。ここからするとそのような生銀は完全にそれの自然本性的実体(物体)としてあるのではなく、それが最初に受容される時には、それが業の巧妙さ(才覚)によって浄化されない限り、完全に浄化されることはない〔Codicilli, cap.5, p.10; Manget vol.1, p.881〕。

生銀あるいは緑獅子の浄化について、リプレーはこう言っている。「この水銀(メルクリウス)(一般のヴィトリオロの壊敗性の精気(霊))はライムンドゥスによれば自然本性に抗するわれわれの火と呼ばれている。にもかかわらず同じことがわれわれの火である諸他のもの(植物性メルクリウスあるいは緑獅子)同様、ある程度この水銀(メルクリウス)(ヴィトリオロの酸っぱさ(酸度))に対しても起こる。これら両者にとって、それはそれらの物体(コルプス)の中央あるいは中心に隠されている。つまり粘性の水と土性の粗大さの間に。とはいえこれらは大いなる賢者の才知(哲学的才覚)なしには得られるものではなく、われわれに得られるのはこれらの中間実体(物体)だけである」。ライムンドゥスの言によれば、われわれは第一諸原理ばかりか最終(?成果、原理)も取り出すことはできない。前者はあまりにも単純であるせいで、後者はあまりに粗大で汚れているせいで。それゆえただ中間のものだけが取り出される。これが不純な土性および粘った水を分離された染剤、真の油である。それゆえにライムンドゥスはこう言っているのである。「濡らす湿こそがわれわれの手にする生銀の質料(素材)に最も近いものである〔Pupillae Alchym. p.289〕。

生銀もしくは緑獅子は一般のヴィトリオロによって浄化される。つまり、「生銀はヴィトリオロの蒸気(ヴィトリオロの精気(霊))つまり鋭い水の中に置かれると、それはたちまちこれの鋭さによって浸透が起こり、たちまち溶解し、より強い土性ヴィトリオロの自然本性へと転じる。それはこの水が揮発した後、鋭い硫黄の土性から出た黄色さをもつ黄水晶のかたちに凝固するが、金属性をとるのでも、透明(明快)な天の形相をとる訳でもない。これは上述した不可分な水のうちに尺度を越えて混合しており、万有宇宙(普遍)の均一性と単純性をもつ。この単純性には先述の土性も、その光(明るさ)、輝き(透明)、滑らかさを暗さに変じることで結びついている云々〔Theor. Test. Cap.89, Theatrum Chemicum vol.4, p.141〕。

「息子よ、ヴィトリオロから産生される濃密なヴィトリオロの蒸気はたいへん鋭く、また架橋するもので、それゆえこれは浄化された硫黄および生銀の諸部分に浸透し、清められた質料(素材)に浸透してこれを染め、これをヴィトリオロ化された黄色い土性の蒸気へと凝集(膠化、凝固)する。

 




リプレーの緑獅子 7


『達人の秘鑰』から

Johannis Segeri Weidenfeld de Secretis Adeptorum

 

彼は言う。「息子よ、あなたは知らねばならない。われわれの浴槽であなたは(賢者の)生銀の自然本性を洗い清め、自然本性がなし得ないような風に、生銀を完全なエリクシールとなすことができる。しかし生銀と諸金属はその自然本性においてもあなたの実修にあたっても両極端にあり、その両極端の中間にある力能なしにはそれら自体で乗り越えることはできない(それらだけでは結合できない)。つまり生銀の柔らかさと金属の堅さの間にあるもの。自然本性の要請に応じて中間にあるもの、それこそ体躯(コルプス)と精気(霊、スピリトゥス)を結び合わせる原因であり、生成するすべてのものの中にある、あるいは生成するものの能力としてあるものである。自然本性にはさまざまな中間媒介がある。粘りがあるとともに塩にして石の自然本性である石性をもつのが緑のアゾート性ヴィトリオロ。息子よ、この卑しい質料(素材)こそがわれわれがこれほど探し求めるわれわれの石である云々」。

こうした中間媒介のまた別のものとしてCがある。これは石性の自然本性、サルペトロ、石の塩、ニトロで、ここではわれわれに関係ない。一方Dは必須である。つまりルルスのアドロプ樹脂あるいはアゾート性ヴィトリオロ。これについてはルルスの言を傾聴するに越したことはない。この賢者の書〔Theor. Testamenti, cap.59〕には次のように記されている。「息子よ、アゾート性の獅子つまりアゾート性ヴィトリオロは自然本性によって、金属がその鉱脈中につくられた時、一般の生銀の自然本性的な根である特殊な(奇異な)実体から造られた」。一般的な生銀によって彼は卑俗なものをではなく、賢者の生銀、金属および鉱物の自然本性的な根でもあるものを意図している。彼は言う。「われわれが一般の水銀(メルクリウス)という時、それは賢者たちが理解するところのものを謂うのであり、卑俗のという時、それは田野の人々に知られているもの、店頭で売られているものを謂う」〔Lib. Mercuriorum, cap.1〕。彼はこの水銀(メルクリウス)の同義語として、混沌(カオス)、自然本性(ナトゥーラ)、起源(オリゴ)、緑獅子、生銀、膏薬、油、牧草、たいへん価値ある液体、も挙げている〔Teor. Test. cap.45, p.75, Theatrum Chymicum vol.4; Manget vol.1, p.735〕。

この一般の生銀あるいは緑獅子は、そこからルルスのアゾート性ヴィトリオロあるいはリプレーのアドロプ樹脂を造る前に、まずその汚れ(余剰)から清められなければならない。「わが子よ、この知識の学徒よ、あなたは断固としてこれより他のものを探し求めてはならない。なぜといってこの業は数多の事物をもって完成されるものではないから。それゆえ、あなたにはこう断言しておこう。そのためにはただ一つの石つまり硫黄と、ただ一つの薬(媒介剤)つまり硫黄の複合物があるだけ。これになにも加えてはならない。土性および粘性の硫黄物質が取り去られなければならない。それらはわれわれの生銀から分離されなければならない。われわれの生銀は卑俗の生銀以上に人に共通な(よく知られた)ものであり、これにはより大きな価値、利益、また自然本性の強力な合一があり、ここからそれの最初の諸形相が生じる(まずそれが形成される)。そのためには周知の分離度数によって、諸金属の調和塩(サル・アルモニアク)に属さないすべてが分離されなければならない」〔Theor. Test. Cap.18, Theatrum Chemicum vol.4, p.33; Manget vol.1, p.719〕。

 




リプレーの緑獅子 6


『達人の秘鑰』から

Johannis Segeri Weidenfeld de Secretis Adeptorum

 

水銀(メルクリウス)は昇華され、粉末に還され、冷所の鉄板の上で欠損によって(?)溶解する。僅かばかりの燃える水を濾過した液分に注ぐと、水銀(メルクリウス)が緑油のかたちで上部へ泳ぐように昇り抽出される。これを分離してレトルトによって蒸留すると、まず最初に水が上昇し、つづいて濃密な油つまりメルクリウス油が分離する。つづいて別の受容器(うつわ)の中へ流体つまり石の水を蒸留する。この液分は白っぽく、これを適温で湯煎することで、ククルビタの底に溶けた松脂のような濃密な油性の物体が残る。この水を硝子に密封して保存する。最初に白い液体が昇ってくる時には十分注意し、この時、この元素のすべてが蒸留されるように別の受容器(うつわ)に取り換えねばならない。その黒い液油を二、三滴、葡萄酒の精気(霊)に落とし、解毒に用いる。この黒い液体物にわれわれの燃える水を加え、これをよく混ぜ合わせ、混合物を三時間放置する。そして液体を濾過し、これを新たに燃える水に注ぐ。この作業を三度繰り返す。そしてこれをあらためて弱火で湯煎にして蒸留し、これまた三度繰り返す。すると精留された人の血と名づけられるものが得られる。これこそ実修者たちが自然本性の秘密として捜し求めるものである。

こうしてあなたは二つの元素、水と気を第五本質(クィンテッセンチァ)の力能にまで高揚させた。この血を機会が来るまで保存する。ここで黒い液体物あるいは土に石の水を注ぎ、よく混ぜてその全体を蒸留する。乾いた黒い土の滓つまり石の土が残るだけになるまで。この油を水とともに機会が来るまで保存する。黒土を粉にして、上述した人の血を注ぎ、三時間消化させる。つづいて灰を十分強い火で蒸留し、この作業を三度繰り返す。これが精留された火の水と呼ばれるもの。ここにあなたは三つの元素、つまり水、気、火を第五本質(クインテッセンチァ)の力能へと高揚した。

つづいて還流器の底に残る渇いた黒い土を真っ白な石灰にまで灰化焼結する。そしてこれに火の水を混ぜ、最前のように強火で蒸留する。残った土をあらためて灰化焼結し、最前のように強火で蒸留、これを七度繰り返す。あるいは石灰の全体がアレンビクへと移るまで。ここにあなたは真の生命の精気(霊)の水を精留し終わる。つまり四元素を第五本質(クィンテッセンチァ)の力能へと高揚したこととなる。この水はあらゆる物体(コルプス)を溶解し、腐敗し、清める。これがわれわれのメルクリウス、われわれのルナリアであるが、これより他の水をそれとみなす無知な愚者には決して望みの効果は得られないだろう。

この経血は先の経血と同じ質料(素材)から造られる。緑獅子、アドロプ、賢者の鉛、アンチモニオ鉱、気性の黄金、メルクリウス等々は唯一同一な質料(素材)をあらわす同義語である。これは蒸留した酢に溶解され、あらためて樹脂状に濃密化されると、明礬(アルム)の味がする。リプレーによる以上の経血の記述は〔n.62〕ルルスの「アゾートのヴィトリオロVitriolum Azouqem」、『実践の証言(遺言)』vol.4, cap.9, p.159にあたる。また『化学の劇場』ではB, C, Dの経血を別記している。Bは上述した緑獅子もしくは一般の生銀で、どこにでも見つかり、卑俗の生銀よりも人にとってはより一般的なもの。Bは〔上掲『実践』p.153では〕生銀を意味しており、これはあらゆる壊敗性の体躯(コルプス)を構成する一般物質(実体)で、その性質をもつものとしてあらわれる云々。Cはニトロを意味している。Cは石の塩(Salt Peter)のことで、一般の(酢、酸)の自然本性をもっており、その強い(酢、酸)の自然本性によって生銀に似ている〔前掲書p.154.4〕。D緑獅子から造られるアドロプ樹脂のこと。Dはアゾート性ヴィトリオロを意味し、これは一般的な生銀の自然本性をもつもののすべてを壊敗するという。同箇所で、CDのどちらをも彼は純粋な媒介物と呼んでいる〔Theor. Test., cap.58, p.96〕。

 




リプレーの緑獅子 5


『達人の秘鑰』から

Johannis Segeri Weidenfeld de Secretis Adeptorum

 

63. セリコンの経血、リプレー〔Vade Mecum, 通称『親愛の書Bosom book』〕

 

アンチモニオのセリコンを三十ポンドとり、もしもよい酢を使うなら、そこからおおよそ二十ポンドの樹脂を得ることができる。そのセリコン各一ポンドを二度蒸留した酢二倍量に溶かす。その質料(素材)を日に何度か清浄な棒で撹拌し、短時日の間これを消化させて、液分を三度濾過する。こうして大いなる業に不要で余剰な(表面の)滓(糞)、つまり穢れた土を取り去る。濾過された液体を適温で湯煎して揮発させると、われわれのセリコンは緑の樹脂として膠化(凝固)する。これは緑獅子と呼ばれるもので、その粉末を燃やさないように、その緑色を壊さぬように気を配りつつ、この樹脂を十分乾燥させる。

そこでこの樹脂をとり、十分に泥を塗りつけた強化硝子レトルトの中に入れ、弱火で徐々に水を揮発させ蒸留する。白煙が立ち上りはじめたなら、それを十分な容量のある大きなガラスの受容器(うつわ)に移し、その口をレトルトの首としっかり接合して十分に泥封し、残りの煙が受容器(うつわ)から漏れないようにする。そこで徐々に火を強め、赤い煙が出はじめるまでつづける。そこで血の滴が垂れはじめ、もやは煙が出なくなるまで強火での加熱を持続する。そして徐々に火を弱め、受容器(うつわ)が冷えたらこれを取り外し、精気(霊)が逃散しないようにただちに蓋をする。この液体はわれわれの祝福された液体と呼ばれるもので、十分密封した硝子器の中に保たれねばならない。

つづいてレトルトの首を調べると、そこに白くて固い氷(固形物)が見つかるだろう。これは蒸気あるいは頌化した水銀が凝固したもので、これを慎重に集めて保存する。これには大いなる秘密が含まれているから。つづいてレトルトから煤のように黒い滓を取り出す。これはわれわれの龍と呼ばれるもので、これ一ポンドあるいは望みの量を土壷、硝子あるいは賢者の窯炉で焼結灰化し、雪白の石灰となしてこれを清浄に保存する。これはこの業の基礎あるいは基本、火星(マルス)、われわれの固着された土、賢者の鉄などと呼ばれる。ここで滓の残分つまり黒龍をとり、これを大理石板あるいは他の石板の上に移し、その一端に生石灰で火をつけると、半時間のうちにこの火は滓のすべてを舐め尽し、それはたいへんみごとな(栄光の)黄色に焼結(灰化)される。この黄色の滓を蒸留した酢に溶解し、上述した方法で、これまた三度濾過する。この溶液を揮発させて樹脂となし、龍の血と呼ばれる経血を蒸留する。滓の全体あるいはその大部分をわれわれの自然本性の液分あるいは祝福された液分に還すまで、この業を反復する。この液体のすべてを最初の液体あるいは緑獅子の血と呼ばれる経血に注ぎかける。こうして液分をよく混ぜ、緑硝子の中で十四日間にわたり腐敗させる。

つづいて諸元素の分離に進む。この祝福された液分の中に、あなたはいまや滓の中に隠された石の火を手に入れた。この秘密はこれまでずっと賢者たちによって秘匿されてきたものである。さて、ここで腐敗したすべての経血を取り出し、適当な大きさのヴェネチア硝子の中に入れる。これにアレンビクを被せ、泥と卵の白味に浸した亜麻襤褸布とで密封する。受容器(うつわ)は生気(霊)が息つくことが(循環)できるように大きなものでなければならない。そして適温で諸元素をお互いに分離する。気の元素つまり油(上部に白油を僅かに含む燃える精気(霊))が最初に立ち上る。蒸留された最初の元素を、これにふさわしい他のうつわの中で精留(矯正)する。つまり、その中に浸した亜麻布が燃えるまで七度蒸留する。これがわれわれの精留(矯正)された燃える水と呼ばれるもので、十分密封して保存する。さもないとそれの最も精妙な精気(霊)は逃散してしまう。燃える水の精留において、気は白油の形相をとって水の上を泳ぎ上昇し、黄油は残る。こちらは強火で蒸留する。

 


リプレーの緑獅子 4


『達人の秘鑰』から

Johannis Segeri Weidenfeld de Secretis Adeptorum

 

緑獅子と呼ばれるこれらのものどもはまたアドロプとも解される。両者とも同じ質料をあらわす同義語である。リプレーは言う。「アドロプを採りたまえ。これは緑獅子である」と。ここで彼はアドロプについて以下のように言明する。「アドロプは見た目にはそうとはみえないが、力能(可能態)において黄金と銀である。これはラーシスが言うとおり。そしてわれわれの黄金と銀は気性のものであり、十分に発酵されることによって愛されるもの(一般の黄金)と結びつく(交接する)。これは賢者たちが言うとおり、アドロプそのものの深みは気性の黄金であり、アドロプそのものは癩病の黄金である。これらの言辞はギリシャの哲学者グイドの言うメルクリウス性あるいは経血性の精気(霊)〔緑獅子の霊もしくは血〕とも符合しているようにみえる。これは業によって自然本性的なアドロプから抽出されるものとされており、彼は以下のように記している。「それの精気(霊)は賢者の太陽の水、アルセニコそして月から抽出される太陽である」。また同箇所にはこう付言されている。「体躯(コルプス)とは精気(霊)の発酵素であり、精気(霊)とは体躯(コルプス)の発酵素であり、火の中にある土は乾き、含浸し(湿り)、水を固着する。また、そのうちに水がある気(諸元素の分離野理説に従って、気は水の中にあり、と読まれるべき)は土と火を洗浄し、染め、完成する」。グイドの言もまた、それらが染め完成する、と解されねばならない。なぜなら、石(アドロプあるいは緑獅子)から引きだされた経血)はそれだけでエリクシールを完成するに十分であり、そこに関係のないあるいは不均一な質料(素材)を加える必要はないから。それの諸部分は共に本質的であり、具体的(凝結物)である。なぜなら哲学者たちの意図は、自然本性が地下(土の中)で千年をかけてもほとんど完了しないところを、地上(土の上)で短期のうちに業を完了することにあるから。それゆえ、哲学者たちの見解によれば、グイドが言うとおり、彼らはわれわれの体躯(コルプス)を選択するにあたり、一般の銀や黄金から発酵素を得ようとする不手際を犯す、という訳である。そのうちに清浄で純粋な生銀があるような質料(素材)を自然本性によって完全に完成にもたらすことはできない(ほぼ、は過読か)が、グイドが言明するとおり、完全な浄化がなされれば、太陽の自然本性熱によって卑俗に加熱された太陽と月の体躯(コルプス)よりも千倍も善いものとなる(ルルスもグイドもp.323においてこれに一致している)。

某賢者が言うところ。彼はこのアドロプについて(アドロプと?)議論しに行った。その鉱脈から(白い)煙が立ち上り、これを正しく集めてふたたびその鉱脈の上に振りまくなら、そこに固着が起こり、短期間のうちに真のエリクシールがそこから産生するだろう。これらの液体もしくは生気(霊)つまり水銀(メルクリウス)の水と油(経血)なしに、この中立なアドロプであるこの錬金術的な物体(コルプス)は清められない。これが錬金術的な物体(コルプス)で癩病の体躯(コルプス)と呼ばれるもの。これは黒く(業のはじめにあたり)、これについてはヴィンケンティウスが『自然本性の鑑』において言っているように、見た目にはそうはみえぬが、力能(可能態)として黄金および銀である。その内奥(臓腑)は気性の黄金であるが、まずその不浄な体躯(コルプス)を清めるのでないかぎり、疑いもなくこの完全な白化なしには誰もそれを取り出すことはできない。それは自然本性の熱によって加熱焼結された一般の黄金や銀の体躯(コルプス)よりも千倍も善いものである。この癩病の体躯(コルプス)の第一質料は大地の内奥(臓腑)で濃密化された粘性の水である。ヴィンケンティウスの見解によれば、この体躯(コルプス)は赤と白のおおいなるエリクシールをなすもので、これの名はアドロプあるいは賢者の黒い鉛と呼ばれるもの。これについてライムンドゥスはわれわれにこれから金色の油あるいはそれに類したものを抽出するように指示している。ライムンドゥスはこれに付言している。「とはいえこの油は植物の業(つまり植物性の石の蜜蝋化)には必ずしも必要ではない、なぜといってそこでの溶解と凝固はたちまち起こるから。それにもしもあなたがそれからそれの粘液(フレグマ)を分離でき、その後に巧みにそれの秘密を見つけることができるなら、あなたは三十日のうちに賢者の石を完成することができるだろう。この油はあらゆる物体(コルプス)に浸透し合一し親和する薬(染剤)をなすものであり、この世にはこれ以上の秘密は他にない。〔『変成哲学の精髄』p.131

リプレーはここでアドロプのさまざまな同義語を挙げている。ここでしばし緑獅子をリプレーが以下のように説くところに導かれ、賢者の鉛の方途によって追跡してみることとしよう。「第一に理解されるのは、アヴィセンナが黄金と銀は可能態(潜在力)として鉛の中にあるというところ。それは見た目にそうである訳ではなく、自然本性によって生硬に半熟(半焼成)のまま放置されているので、自然本性によって不完全に放置されているところを業をもって完璧に補われねばならない。それは発酵法により生硬なまま残された部分を消化し焼結することによってなされる。それゆえ発酵のため、完全な黄金を採る。その固着実体(固着した体躯(コルプス))の僅かな部分が、いまだ完全な黄金や銀として固着されていない体躯(コルプス)の大部分を転換(変成)するだろう。このようにして業が自然本性を助け、土の下で千年かかっても果たされないことが、土の上で短時日のうちに果たされる。鉛がそのうちにこの業の大いなる秘密を秘めているということを、あなたはこの意味に理解しなければならない。それはそのうちに清浄にして純粋で、芳香のある生銀をもつが、それはいまだ自然本性によって完成されていない。この生銀こそわれわれの貴重な薬(媒介剤)の基礎にして基底的なはたらきであるとともに、金属へと同様に人体にも生命のエリクシールとしてあらゆる病患を癒すものである。つまり賢者が意図するところは、水銀の中にこそ賢者たちが探し求めるものがあり、これに魂、体躯、霊が由来し、染めがなされる(引き出される)、ということである。またこの水銀のうちには賢者の火があり、うつわの外ではなく、その中でつねに燃えつづける。またこれは溶解した太陽および月の中で大きな牽引(誘引)力をもち、これらを第一質料に還元する。この水銀によって完全な体躯(コルプス)の石灰(聖杯)も溶解され、上述した水銀の精気(霊)とともに凝固する云々」〔Pupilla, p.295〕。

しかしあなたは(一般の)鉛(サトゥルヌス)を用いないよう注意しなければならない。よく言われるように、腐敗した母の息子を貪ってはならない。多くの人々はサトゥルヌスのうちに彷徨うこととなる、と考えられている。アヴィセンナが言うことに耳傾けよう。サトゥルヌスはいつまでたってもサトゥルヌスである。その精気(霊)が消散してしまったサトゥルヌスの土をもって作業してはならない。最悪な硫黄を廃棄せねばならない。ただ水銀を凝固する煙だけを用いたまえ。愚者たちのようにではなく、賢者たちのようになすなら、あなたはよい結果を得ることができるだろう〔Phil. cap.2, p.188〕。その全組成(成分)をわれわれの鉛と呼ぶ。その輝きは太陽と月に発する。約言するなら、それらはわれわれの経血であり、われわれはこれを自然本性的な完全な体躯(コルプス)へと焼結する。それは唯一賢者たちが緑獅子と呼ぶものだけであり、太陽と月の染めを完璧となすものとゲベルスが言う〔Lib.42, portar. P.12〕ところのものである。それが七日(七惑星?)の一つであり、同時にまた、その体躯(コルプス)からは業をもって血および液質の蒸気が抽出されるということを、あなたははっきりと知っておかねばならない。これが緑獅子の血と呼ばれるものであり、ここから卵の白味、生命の水、五月の朝露等々さまざまな名で呼ばれる水が生じる〔Phil. cap.3, p.190〕。灰化された鉛あるいは賢者の鉱物(?最小物Minium)から緑獅子の血を抽出する方法については次章の通り。

 

リプレーの緑獅子 3


『達人の秘鑰』から

Johannis Segeri Weidenfeld de Secretis Adeptorum

 

60. アドロプ樹脂から造られる経血、リプレーによる

Libro accurationum, p.381.

アドロプつまり上述した緑獅子をとり、これを蒸留した葡萄酢に七日間にわたり、質料(素材)を入れたうつわを日に三回よく振って溶かす。そこで溶解した液体を空け、水晶のように透明となるまで糞(滓)を三度濾過する。そして葡萄酢を弱火で蒸発させ、鳥もちの濃さになり、その粘度のせいでかき混ぜられなくなるまで煮詰める。これを冷まし、うつわから取り出して保存する。この作業を繰り返し、この緑獅子あるいはアドロプを樹脂状にしたものが十二ポンドとなるまでこれを造りつづける。ここに土から抽出した土、土の兄弟をあなたは手にいれる。つづいてこの樹脂一ポンドを採り、これを樽ほどの大きさのある硝子器に入れ、アランビクの接合部を卵白の糊泥で(鶴首部と?)密封し、混合物(?)で満たす。『賢者のアドロプ論』(『化学の劇場』第六巻所収。これは偉大なるグイド・デ・モンテ(*ダ・モンタノール)[Quadrigae auriferae, p.845 leo viridis]の逸名の弟子の著作とされているが、リプレーの書に載るものつまりここで採りあげているAccurtationibus所収のもの、およびその大部分がカンタベリーの高名な大司教ダンスタンのものとされる『黄金の扉の鑰』に載るものと異ならない)に載るこの処方の意味するところはすべて同じであるが、その語彙は以下のように翻案した方がよいだろう。「ここで先述の樹脂を三ポンドとり、これを蒸留器に入れる。これはその二倍量を容れることができ、ランビキの上に据えられるようなもの。接合部をエール(?)、卵白、小麦粉を混ぜた泥で封じる」〔『化学の劇場』vol.6, p.552〕。これは『黄金の扉の鑰』の処方、「この(濃縮されたあるいは樹脂化された)乳を三ポンド硝子器に取る」〔p.257〕にも言明されているところ。これを砂の窯炉内で蒸留する。この砂はうつわの下の深さを二指分とし、さらにうつわの半分まで、あるいは質料(素材)の高さまでこれ(砂)で被う。これに受容器を取り付け、受容器を泥で封しないまま最初は弱火で加熱し、粘液質(フレグマ)を揮発させる。受容器に乳のように白い蒸気(煙)が見えてくるまでこれをつづける。ここで火を強め、受容器を替えて、もはや外へと揮発しないように密封する。徐々に火を強めると、血のように赤い油を得ることができる。これは気性の黄金、経血、胎児(悪臭を放つもの)、賢者の太陽、われわれの染料である燃える水、緑獅子の血、人の体躯の生命の最後の慰めであるわれわれの粘る体液(湿)、賢者の水銀、黄金の種は保ったままこれを溶かす溶解性の水、その他さまざまな名をもつもの。最初に白い蒸気(煙)があらわれたなら、外へ揮発しないよう密封したまま、加熱を十二時間つづける。

この経血は先のものとは違って、これの中で緑獅子は酢(酸)に溶けているが、その中で蒸留されるすべては生きている。いずれ両者とも十分明白に描写されているが、経血の質料(素材)は闇に包まれており、読者には知解し難い。それがなぜ緑獅子と呼ばれるのか、その四つの理由がリプレーの書に記されている。

彼は言う。第一に、緑獅子によって賢者たちは太陽を意味しており、その牽引力(誘引力)によって事物を緑となし、全世界を統率(支配)する。『賢者のアドロプ論』〔『化学の劇場』第六巻p.547その他〕には、「緑獅子とはその牽引力(誘引力)によってすべてを緑となし、大地(土)の臓腑から成長させ、冬の洞窟から立ち昇らせるもの。その息子はわれわれにとって最も歓迎されるものであり、エリクシールのすべてをなすにそれだけで十分なもの。またこれによって白と赤の硫黄に不燃性が賦与される。アヴィセンナが言うには、それは錬金術師たちがそれによって黄金と銀をつくるために手にし得る最良のものである。緑獅子を知り、入手するためには、賢い人には以上のことばで十分だろう〔『哲学精髄』p.139〕。

第二に、質料(素材)はいまだ生硬で未熟だから、なによりもまずと呼ばれる。つまりそれは自然本性によっていまだ固着されておらず、一般の黄金のように完成してもいない。それゆえ賢者の緑獅子とは緑黄金、生きている黄金であり、いまだ固着していないとはいえ自然本性によって未完成を免れている。それゆえにこそ、それはあらゆる物体(コルプス)を第一質料に還元する力能をもち、これらの物体(コルプス)を霊的で揮発性のものを固着することによって造りなす〔『賢者のアドロプ論』p.547〕。

第三に、それは獅子とも呼ばれ得る。なぜなら他のすべての動物は獅子にその地位を譲るから、すべての物体(コルプス)は生きた黄金つまりわれわれの水銀の力を獲得する〔『賢者のアドロプ論』p.548〕。

第四に、この高貴な幼児は緑獅子と呼ばれる。なぜならそれが溶解する時、それは緑色の外衣を纏うから。愚者の緑獅子(ヴィトリオロ)からは激しい火をもって、われわれが強水と呼ぶものが抽出され、その中で獅子はエリクシール化される、と言われる〔『哲学の精髄』p.139〕。

 

リプレーの緑獅子 2


『達人の秘鑰』から

Johannis Segeri Weidenfeld de Secretis Adeptorum

 

注記

これまでに、われわれは粘りある賢者の葡萄酒の精気(霊)に油性、乾いた油、油の乾、純粋な乾を調合した。そしてこれをさまざまな種類の植物の血に還元する。この経血についてはその比較を絶する嗅い、味、色について、すでに完璧に示した。これの中には音も泡も立てることなく諸物が永劫に溶解している。ここで順序(秩序)にしたがう。鉱物の経血と呼ばれるものは悪臭を放ち、酢(酸)あるいは壊敗性の味がする乳白色のもので、たいへん激しく諸物体(コルプス)を壊敗し溶解するばかりか、その基底である植物の経血同様、賢者の葡萄酒と同じ精気(霊)をもつので、それは永劫であり(に保たれ)、時のうちに壊敗するものよりもずっと良いものである。さまざまな鉱物塩の酸っぱさ(酸性)〔これによって経血の壊敗性あるいは酸っぱさ(酸性)は鉱物と呼ばれる〕は、葡萄酒の精気(霊)の自然本性ばかりか植物の経血の自然本性をも破壊することはできないが、腐食により乾いた物体(コルプス)の小部分(粒子)のそれぞれを賢者の葡萄酒の油性の精気(霊)と合一させるにふさわしくする。しかしその酸っぱさ(酸性)を取り去るなら、それは先の状態つまり賢者の葡萄酒の精気(霊)あるいは植物の経血に戻る。

植物の経血にわれわれが認める手法に近いものは鉱物の経血においても観察される。植物にあって、われわれは賢者の葡萄酒から強水を抽出し、そこからわれわれは循環によって葡萄酒の油あるいは本質(エッセンチア)を分離する。これが葡萄酒の精気(霊)であり、さまざまな方法でこれを作用させることによって、それに先立つ植物の経血の類に還元される。しかし鉱物については、われわれは賢者の葡萄果実からはじめる。それは賢者の葡萄酒の質料(素材)そのものであり、緑獅子、アドロプ等々と呼ばれるものである。ここはこの質料について論じる場所ではないが、われわれは処方箋にも、あるいはそれについて詳述されているところにもそれが明かされていないので、われわれはそれを秘しておくわけにはいかない。ここでこれについて解説し、それが何であるかを明らかにしておこう。この精気(霊)の使用と必要についてあなたに約束したように明確にするだけでなく、これの受胎、胚の生育〔実体〕、誕生等々にかかわる正しい知見を与えるために。

この処方を明らかとするため、この同じ質料(素材)にかかわる他の幾つかの処方を提示しておこう。それらを相互に比較することで、説明がより平明になるだろう。まず、緑獅子そのものからでなく、酢(酸)に溶解された緑獅子をある種の樹脂に還元して造られる経血について。

『ピカトリクス』、『ムー』に載っけていただきました


『ムー』八月号。


 

リプレーの緑獅子 1

『達人の秘鑰』から

Johannis Segeri Weidenfeld de Secretis Adeptorum

 

59. 緑獅子、リプレー Libro Accurt. Pag. 383.

賢者の葡萄酒からだけ取り出される単純な鉱物の血

 

(慣習に則って)葡萄酢で溶解していない緑獅子を採り、これを大きな土壷(レトルト)に入れる。これは耐火性で、あなたが強水を蒸留するのと同じ方法でそれを蒸留し、その下にうつわを置く。これらを泥で完全に接続し、外に気が漏れないようにする。そしてまず白い蒸気(煙)が出てくるまで弱火で蒸留する。そこで下のうつわを取り換え、これを密封してから、強水を蒸留するように強火で蒸留する。これを二十四時間続ける。そしてこれを八日間にわたり加熱しつづけるなら、下のうつわが白い蒸気(煙)で満たされつづけ、緑獅子の血があらわれるだろう。われわれはこれを秘密の水、いとも鋭い酢と呼ぶ。これによってあらゆる体躯(コルプス)はその第一質料に還元され、人の体躯(コルプス)は病患から守られる。これがわれわれの火であり、われわれの生命の水、われわれの沐浴、われわれの収穫、われわれの馬の腹で、これは自然本性のはたらきにおいて驚くべき効果(結果)をもたらす。またこれは鋭い水で、火をその胎の中に運び入れ、火の水となる。さもなければこれは物体(コルプス)をその第一質料に溶解する力をもたないだろう。これこそわれわれの業に用いられるわれわれの水銀(メルクリウス)であり、われわれの太陽にして月である。すると、あなたはうつわの底に石炭のように黒い糞(滓)を見出すだろう。あなたはこれを八日間にわたり弱火で焼かねばならない云々。

 

「緑獅子狩り」5


『英国の化学の劇場』から

 

そしてこれがあなたに明かす秘密、

いかにして増殖するかをあなたは知らねばならない。

それともあなたはあらためて業に着手する

大きな負担を望むのだろうか。[1]

そこでわたしが言い得ることは、ただ、

持続的に発酵をつづけることで、また増殖が起こる、と。

それこそが竟には称揚されることとなるだろう。

そして投影によってすべてがたちまち起こる。[2]

それゆえ火の中に発酵(物)を保ちつづけなければならない。

あなたの薬(媒介)が増殖しつづけるように。

処女が彼女の発酵素を保たないならば、

彼女の近親者たちは去らざるを得ない。[3]

あるいは、増殖する限りは留まるだろう。

貯えは苦痛ではない、という格言を思い出そう。

以上わたしはあなたに真実を説いた。

あなたが邪をはたらくなら、わたしのこころは萎れるだろう。[4]

神がそれを与えたまう時、あなたがそれを濫用するなら、

神は彼がそこに得る祝福を忘れない(?取り去りたまう)。

あなたが司牧者であるなら、

あなたはこの業のうちに真実を見出すに違いない。[5]

もしもあなたにその準備があり、

わたしの言うところが理解できないなら、

わたしの忠告を聞き、あなたの遊具(器具)を捨てるがいい。

それはこの高い哲学の

これほど大きな秘密に干渉するにしても、

いかなるlymmer loy(?泥合金)にも役立たないから。[6]

わたしの忠告を聞きたまえ。あなたはそこに真実を見出すであろう。

この獅子を追いかけるのは、

それをたちまちのうちに狩るものに任せておきたまえ。

その狡智によって多くの民を欺き、

それを貪り食い、それを放置するものに。

あなたには、気をつけろ、と言っておく他ない。[7]

この忠言は親しい友としてのあなたのためのもの。

ここにわたしの狩りは終わる。

われわれを創りたまうた神に、彼とともに天上に

住みたまうものをわれわれが見失うことないようにと祈りつつ。[8]

 



[1]    And heere a secret to thee I must shew,
How to Multeplie that thow must know,
Or else it wilbe over micle paine
For thee to begin thy worke againe:

[2] I say to thee that in noe fashion,
It's so well Multeplied as with continuall Firmentation:
And sure far it will be exalted at the last,
And in Projeccion ren full fast:

[3] Therefor in the fyre keepe Firment alway, [ferment firment]
That thy Medicine augment mayst aye;
For yf
the maid doe not her leaven save, (crave;
Then of her Neighbours sche must needs goe

[4] Or sche must stay till sche can make more,
Remember the Proverbe that store is no sore:
Thus have I tought thee a lesson, full of truth,
If thow be wicked therefore my heart is reuth: [rauch?]

[5] Remember God hys blessing he can take, [take away?]
Whan he hath given it, if abuse any you make,
For surely if thow be a Clerke,
Thow wilt finde trewth in thys werke:

[6] But if so be that thow be lay,
And understond not what I say,
Keepe Councell then and leve thy Toy,
For it befitts no Lymmer loy,
To medle with such grete secresie:

As ys thys hygh Phylosophy.

[7] My Councell take, for thow schalt finde it true,
Leave of seeking thys Lyon to pursue,
For hym to hunt that ys a prety wyle,
Yet by hys Craft he doth most Folke beguile,
And hem devour and leave hem full of care,
Wherefore I bidd thee to beware.

[8] And Councell give thee as my frend,
And so my Hunting here I end.
Praying God that made us we may not myss
To dwell with hym in hys Hevenly blyss.

「緑獅子狩り」4


『英国の化学の劇場』から

 

次の章ではあなたが真実を見出すことができるように

先述したところを見直してみよう。

われわれの主の慈悲を願いつつ、

誰もわたしの文書から

一語を除いたり一語を加えたりすることのないように。[1]

もしもそのようなことがなされるなら、

その者はわたしが語る真の意味に

またわたしがかならずしも精妙とはいえない言及をもって

賢者たちの意図についてなす

判断に対する邪しまさを証すこととなるだろう。[2]

では、全力を傾注して聞きたまえ、

いかにして正しい発酵の準備(調整)をなすべきかについて。[3]

 

神が録したまうたいとも高貴なる業の中の業よ、

あらゆる物がその生成に

ふさわしいものとなされる

高貴なる発酵よ。[4]

発酵とはこの業の端緒において

はたらくものでなければならない。

あなたがこれを正しく進めるなら、

白化の業の実修は果たされる。[5]

そこでわたしの指示(戒め)に従って

そこに留まるなら、あなたの望むようになる。

緑獅子の血をもって、

月そのものだけにはたらきかける。[6]

あなたがその端著になしたように、

あなたの磁石が完全に白くなるまで、

整然と(秩序正しく)力を獲得しつつ、

三を一なるもの(一つのもの)となす[7]

いたるところ、白と赤の発酵の

すべてがはたらくこととなるように。

獅子の血をもって、赤がそれ自身(赤)によって、

白もまたそのように(白く)なるように。[8]

あなたがわたしの規範に従うなら、

太陽は赤に、月は白に、

それぞれが自らしっかりとはたらき、

あなたの発酵も同時に起こることとなる。[9]

つまりここにあなたの発酵は準備され、

の消化にふさわしく、

彼の体質(体液複合)に適合した

肉の善い糧をもってを養う。[10]

もしも彼(王)が白色となることを望むなら、

輝く月を益々与える。

もしも彼の肉体が完全な赤となることを望むなら、

彼は太陽によって養われなければならない。[11]

あなたの磁石の中に入れられる

あなたの発酵(物)は四分の一でなければならない。

熱と冷の不和を越えて、

未熟なものを大胆に成熟させるため、

それを冷でなく微熱において結び合わせる。[12]

それゆえ、硝子器の中に微熱を込め、

最前のように密封する。

一度を増すごとに

それが勝利する(獲得する)まで循環(還流)をつづける。[13]

黒および白そしてまた赤(を獲得する)まで。

ここで火を怖れる必要はない。

それ(王?)が火を怖れることはなく、

あなたの望むままに留まるであろうから。[14]

 



[1]    In the next Chapter as erst I did say,
That soe the truth finde yow may,
Therefore of Charity and for our Lords sake,
Let noe man from my writings take
One word, nor add thereto,

[2] For certainly if that he doe,
He shall shew malice fro the which I am free,
Meaning truth and not subtilty;
Which I refer to the Judgement
Of those which ken the Philosophers intent:

[3] Now listen me with all your might,
How to prepare your Ferment right.

[4]    O noble Worke of workes that God has wrought,
Whereby each thing of things are forth aye broght;
And fitted to their generacion,
By a noble Fermentacion;

[5] Which Ferment must be of such a thing,
As was the workes begyning;
And if thow doe progresse aright
Whan thow hast brought the worke to whight;

[6] And than to stay is thy intent,
Doe after my Comandement;
Worke Luna by her selfe alone,
With the blood of the Greene Lyon:

[7] As earst thow didst in the begining,
And of three didst make one thing,
Orderly yeilding forth right,
Till thy Magnet schew full whyte;

[8] Soe must thow warke all thy Ferment,
Both White and Red, else were yt shent.
Red by yt selfe and soe the White,
With the Lyons Blood must be deight;

[9] And if thow wilt follow my lore,
Set in thy Ferment the same houre,
Of Sol for Redd, of Luna for White,
Each by himself let worke tight;

[10] Soe shall thy Ferment be ready edress,
To feed the King with a good mess
Of meates that fitt for his digestion,
And well agreeing to his Complexion;

[11] If he be of Collour White,
Feed hym than with Luna bright;
If his flesh be perfect Red,
Than with the Sun he must be fedd,

[12] Your Ferment one fourth parte must be,
Into your Magnet made evenly,
And joyne hem warme and not cold,
For raw to ripe you may be bold

Have disagreement soe have heate and cold:

[13] Therefore put hem warme into thy Glasse,
Then seale it up even as it was:
And Circle all till yt be wonne,
By passing degrees every each one:

[14] Both black and whyte, and also redd,
Than of the Fire heere have noe dread;
For he will never dreade the fyre,
But ever abide thy desire.

「緑獅子狩り」3


『英国の化学の劇場』から

 

あなたが獅子を太陽と月とともに(によって)養い(悦ばせ)、

彼らの寝台に横たえるなら、[1]

それらは安逸な(弱い)熱を失うことなく、

お互いに接吻しあう。

それらはそれらを皮膚のうちに包み込む。

あたかも卵黄が卵の中にあるように。[2]

そこであなたはそこから否みようのない

義しく善き秘密を取りださねばならない。

それがあなたの善をなす(はたらく)ために用いられる

獅子の血である。[3]

王が死から蘇った時、彼は

まさにこれによって養われねばならない。

ただしそれには長い時間を要するだろう。

さもなければ彼の死が汝をも襲うことだろう(まのあたりにする)。[4]

そしてあなたは長い不眠をすごし、

彼のうちに黒色を見ることとなる。

それをとともに動かすことなく

安逸な(弱い)火のうちに留めるよう、気を配る。[5]

それが罵倒されるその卑しい土から

離れる(分離される)のが見られるまで。

溶融した物体にも似て

それは黒く光るだろう。[6]

その中央(中途)のあなたの磁石が

明るく白い色であることは確か。

これらすべてをあなたがまのあたりにする時、

あなたの火を一度増す。[7]

あなたの質料は乾のうちに育つ。

それはたちまちのうちに

糞尿を取り去る。

この幼い子供を寝かせるため、[8]

眩しく輝く寝台を調える。

そしてそこにこの子だけを横たえる。

その子が完全に乾くまで。

その時こそ、わたしの思惟(決断)の時。[9]

この乾燥の後、この子に飲料を与える。

ここで明らかにする真実は、

古の哲学者たちの

大いなる秘密の業である。[10]

含浸(吸収同化)については決して明言されず、

マグネシアの調製を彼らは気にかけていない。

これは彼らの諸書に言明されているとおり。

しかしそれ(その子?マグネシア?)の誕生の後、

どのように整える(命ずる)べきか、哀れな人々には慰めもない。[11]

多くの人々が完成(完徳)を得たものと考えているが、

彼らは彼らの投影においてなにも見出すことができない。

彼らは最前造りなしたものを造るだけ、

彼らは錬金術についてもはやこれ以上をなし得ない。[12]

老父たちはそれについて司牧者から隠した。

そこには精妙な業のすべてが含まれていたから。

あなたはわたしからそれを知ろうという訳である。

わたしは過ちなく真実を明かすだろう。[13]

あなたのうつわを密封する前に、

あなたの純粋な質料を硝子器の中に入れる。

あなたの獅子の汗を一分量を

それに貪らせねばならない。[14]

そしてそれらを一緒に土中に埋める。

それらがどちらも消え去り、白くなるように。

そこであなたは硝子器を密封する。[15]

そして窯炉の中にそれを据え、

あなたはそこでそれらを乾かす。

あなたは熟達した自然学者のように

正しくそれを成し遂げねばならない。[16]

また別の含浸(吸収同化)について。

その子が飲んだ物のすべてが乾くのを

常に見つづける。その傍らになにも近づかぬように。

もしもその子に自由に飲ませるなら、

あなたの作業(業)にはより長い時間を要することになる。[17]

またもしもあなたがその子が渇くままに放置するなら、

渇きにあなたの子は死んでしまうだろう。

そこでは過剰な湿と過剰な焼結の

中庸が保たれるべきである。[18]

あなたはこの含浸(吸収同化)を六度なす。

七度目には残されたサバオトを取りだす。

八日間(目)には六日(目)同様に、

湿を乾かし、それ(サバオト?子?)を固着する。[19]

そして九回目には硝子器の封印をとり去り、

六週間にわたりそれ(子?)をそれぞれに扱う(?)。

その黒さが白く成長する(なる)ように

それ(子?)の熱を正しく保つ。[20]

ここであなたの望む発酵が起こるには、

まだそれ(子?)には第七週が残されている。

もしもあなたが白化の発酵を望むなら、

ここであなたは大きな利益を得ることはできない。[21]

とはいえあなたは怖れる(乾かす?)ことはない。

火をもってすべてが赤く進捗するまで。

かえってあなたは古の賢者たちがなしたように

純粋な黄金の発酵の準備をするべきである。[22]

それはたいへんな秘密であるけれども、

あなたに真にそれを伝授したい。[23]

 



[1] In that whych I have said of thee before,
Wherefore lysten and marke well my lore.
   Whan thow hast they Lyon with Sol and Luna well fedd,
And layd them clenly in their Bedd;

[2] An easie heate they may not misse,
Till each the other well can kisse;
And that they shroude them in a skin,
Such as an Egg yelke lyeth in:

[3] Than mus thow draw from thence away,
A right good secret withouten any nay:
Wych must serve to doe thee good'
For yt ys the Lyons Blood:

[4] And therewith must be the King fedd,
When he ys risen from the dead:
But longe tyme it wilbe,
Or ere his death appear to thee;

[5] And many a sleepe thow must lack,
Or thow hym see of Collour black.
Take heede yow move hym not with yre [air?],
But keepe hym in an easy fyre;

[6] Untill you see hym separate,
From hys vile Erth vituperate;
Wych wilbe black and light withall,
Much like the substance of a fusball:

[7] Your magnet in the midst wilbe,
Of Collour faire and white trust me;
Then whan you you see all thys thing,
Your fire one degree increasing;
Untill yow well may se thereby,

[8] Your matter to grow very dry:
The yt ys fit wythout delay,
The excrements be tane away;
Prepare a Bed most bryght and shine

[9] For to lodge this young Chylde in:
And therein let hym alone lye,
Till he be thoughly dry;
Than ys tyme as I doe thinke,

[10] After such drouth to give him drinke:
But thereof the truth to shew,
Is greate secret wekk I know;
For Philosophers of tyme old,

[11] The secret of Imbibition never out tould;
To create Magnesia they made no care,
In their Bookes largely to declare;
But how to order it after hys creacion,
The left poore men without consolacion;

[12] Soe many men thought they had had perfeccion,
But they found nothing in their Projeccion:
Therefore they mard what they had made before,
And of Alchimy they would have no more.

[13] Thus do olde Fathers hide it from a Clearke,
Because in it consisteth the whole subtill warke;
Wych if ye lift of me to know,
I shall not faile the truth to shew.

[14] Whan your pure matter in the glasse is fitt,
Before that you your vessell shitt;
A portion of your Lyons sweate
Must be given it for to eate:

[15] And they must be grounded so well together,
That each fro other will flee now whither;
Then must you seale up your Glasse,

[16] And in hys Furnace where he was,
You must set them there to dry.
Which being done then truly,
You must prepare like a good Phisitian,

[17] For another Imbibition:
But evermore looke that you dry
Up all hys drinke, that none lye by,
For if yow make hym drink too free,
The longer will your workeing be,

[18] And yf you let hym be too dry,
Than for thirst your Child may dye;
Wherefore the meane to hold is best,
Twixt overmoyst and too much rost [roft];

[19] Six tymes thy Imbibtions make,
The seaventh that Saboath's rest betake:
Eight dayes twixt ilke day of the six,
To dry up moist and make it fix;

[20] Then at the nynth tyme thy Glasse up seale,
And let him stand six weeks each deale:
With his heate tempered so right,
That Blackness passed he may grow white;

[21] And so the seaventh weeke rest him still,
Till thow Ferment after thy will;
Which if thow wilt Ferment for Whyte,
Thereby thow gainst noe greate prifitt;

[22] For I assure thee thow needest not dred,
To proceede with fire till all be Redd;

Than must thow proceede as did Philosophers old
To prepaire thy Ferment of peure Gold,

[23] Which how to doe though secret that it be,
Yet will I truly teach it thee.

「緑獅子狩り」2


『英国の化学の劇場』から

 

高貴なる赦しの師よ、わたしはあなたに願う、

わたしは切望する秘密に

十分近づいてきており、

そこにはまさに兄弟たちがいる、と考えるゆえ。[1]

わたしが平明に記したように、

そこには一切疑いはないだろう。

しかしどうやらわたしはより注意深く

別様に筆を進めねばならないようだ。[2]

この高貴な同輩(仲間)について

祝福のことばを語るために。

わたしがこの獅子について知るところを

これによって感得できるように。[3]

 

しかしこの知識に関してわたしは書記(司牧者)でなく、

この業の実修に努めてきたものでもない。

あなたがわたしの言うことに耳傾けるなら

それが真であることを否めないだろう。[4]

あなたがそこに見出すであろうことは、

あなたの思惟をも十分に満足させるだろう。

それがあなたに信憑を与えるかどうかわたしには請けあえないが、

賢者であればこの中に証拠を見出すこととなろう。[5]

わたしが語るであろう真実ではあるが、

わたしには巷間に語られるほどの技巧はない。

巷では、われわれの獅子とは

一般の水銀である。しかしじつのところ彼らは誤っている。[6]

このためにはもはや過つことはなく、

それの意志のはたらきに期待されるところ、

それの渇きを癒すことはほとんどできない。

なぜならそれはたちまち翔け去るのだから。[7]

つまりそれはあなたが着手する前に逃散する、

わたしの意味するところをあなたが十分に知る前に。

あなたのためにと思ってわたしが言うことについて

あなたが語る以上にあなたがなす時には。[8]

最前あなたにわたしが語ったことに

十分耳傾け、わたしの知見を銘記するがいい。

 



[1]    O noble Master of pardon I you pray,
Because I did well-neere bewray
The secret which to me ys so deare,
For I thought none but Brothers were here:

[2] Than schould I make no doubt,
To have written plainley out,
But for my fealty I must keepe aye,
Ile turn my pen another way,

[3] To speake under Benedicite
Of thys noble Company:
Wych now perceives by thys,
That I know what our Lyon ys.

[4]    Although in Science I am noe Clerke,
Yet I have labour'd in thys warke:
And truly wythouten any nay,
If you will listen to my lay:

[5] Some thing thereby yow may finde,
That well may content your minde,
I will not sweare to make yow give credence,
For a Philosopher will find here in evidence,

[6] Of the truth, and to men that be Lay,
I skill not greatly what they say.
For they weene that our Lyon ys
Common Quicksilver, but truly they miss:

[7] And of thys purpose evermore shall fayle,
And spent hys Thrift to ltle availe,
That weeneth to warke hys wyll thereby,
Because he doth soe readely flie;

[8] Therefore leave off ere thou begin,
Till thow know better what we meane;
Whych whan thow doest than wilt thou say
That I have tought thee a good lay,

「緑獅子狩り」1


『英国の化学の劇場』から

Hunting of the Greene Lyon [Theatrum Chemicum Britanicum, p. 278ss]

 

高貴なる同輩諸君

聖なる錬金術の真の徒輩諸君、

神秘の言辞に秘密の数々を包みつつ、

尊い実修について伝授する者たちよ。[1]

どうかあなたの名誉にかけて

わたしの愚かな知見に耳傾けたまえ。

かつてわたしが目のあたりにした

緑獅子狩りについて。[2]

きっとわたしが言うことの真実を

あなたも認めてくれるであろうから。

わたしがこの緑獅子についてよく知っていることを

あなたも得心してくれることだろうから。[3]
わたしが短い知見を語りおわるまで

あなたの忍耐をお願いしたい。
わたしの尊い師がその在世中、

わたしに対しても秘したまうたところ。[4]

その死にあたり、師はわたしに誓わせた。

わたしがすべての秘密を

群れなす者たちにも、誰にも告げず、

またわたしのことばを書きとめることもなく、[5]
この業を望む者が

十分(善い)理拠をもって

公正に規範を守る者であるかどうか見極め、

狂った者の手から守ることを誓う、と。[6]

ある者は殺し、他の者は燃やし、

あるいは執拗にどちらをもなす者。

彼らが緑獅子狩りをなすにあたり

そのようにする者たちをわたしは見た。[7]

あなたの智慧がよく知るように

それの色は疑いもなくそうではない。

緑色の獅子から四フィートの距離に

それを見る者は誰も生きてはいられない。[8]

われわれの獅子は成熟を望み、

その未熟さからと呼ばれている、ということ。

それはいまだ迅速に駆けることができ、

たちまち太陽に追いつく(を襲う)ことができる。[9]

もしも両者を塔の中に閉じ込めたなら

突然それ(太陽)を貪ることもできる。

その日蝕はたいへん眩しく

その赤を白くする。[10]

その獰猛さの力能によって

またそれの中にある未熟な気質(湿)によって、

それは太陽を貪ることで

その熱を得ようと欲する。[11]

それは自然本性の導きによる以上に

太陽はそれをますます完璧となす。

この獅子は太陽をその姉妹である月と

たちまち合するように据える(固定する)。[12]

驚くべき結婚式をもって、

この獅子は太陽を王に挙げる。

じつに奇妙なことに、この王の糧は

この獅子の血に他ならない。[13]

これはこの王の父と母以上の

真実である。

獅子と太陽と月、

これら三つは一つのことをなす。[14]

獅子は祭司、太陽と月は結婚するもの(新郎新婦)。

とはいえ両者とも獅子の寝床で生まれたものであるばかりか、

この王は他ならず、

太陽と月、兄妹から生まれたものに他ならない。[15]

 



[1] ALL haile to the noble Companie
Of true Students in holy Alchimie,
Whose noble practice doth hem teach
To vaile ther secrets with mistie speach;

[2] Mought yt please your worshipfulnes
To heare my silly soothfastnes,
Of that practise which I have seene,
In hunting of the Lyon Greene:

[3] And because you may be apaid,
That ys truth, that I have said;
And that you may for surety weene,
That I know well this Lyon Greene:

[4] I pray your patience to attend
Till you see my short writt end,
Wherein Ile keepe my noble Masters rede,
Who while he lived stoode me in steede;

[5] At his death he made me sweare hym to,
That all the secrets I schould never undoe
To no one Man, but even Spread a Cloude
Over my words and writes, and so it shroude,

[6] That they which do this Art desire,
Should first know well to rule their Fyre:
For with good reason yt doth stand,
Swords to keep fro mad Mens hand:

[7] Least th'one shoul, kill th'other burne,
Or either doe some fore shroud turne:
As some have done that I have seene,
As they did hunt thys Lyon Greene.

[8] Whose collour doubtles ys not soe,
And that your wisdomes well doe know;
For no man lives that each hath seens
Upon foure feete a Lyon colloured Greene:

[9] But our Lyon wanting maturity,
Is called greene for unripenes trust me,
And yet full quickly he can run,
And soone can overtake the Sun:

[10] And suddainely can hym devoure,
If they be both shut in one towre:
And hym Eclipse that was so bryght,
And make thys redde to turne to whyte:

[11] By vertue of hys crudytie,
And unripe humors whych in hym be,
And yet wything he hath such heate,
That whan he hath the Sun up eate,

[12] He bringeth hym to more perfection,
Than ever he had by Natures direccion.
This Lyon maketh the Sun sith [fith] soone
To be joined to hys Sister the Moone:

[13] By way of wedding a wonderous thing,
Thys Lyon should cause hem to begett a King:
And tis as strange that thys Kings food,
Can be nothing but thys Lyons Blood;

[14] And tis as true that thys ys none other,
Than ys it the Kings Father and Mother.
[
Dobbs, The Foundations of Newton’s Alchemy, p.28]
A wonder a Lyon, and Sun and Moone,
All these three one deede
have done:

[15] The Lyon ys the Preist, and the Sun and Moone the wedd,
Yet they were both borene in the Lyons Bedd;
And yet thys King was begott by none other,
But by Sun and Moone hys owne Sister and Brother.

ジョン・ディーの『聖刻モナド』について 8


(承前)

変成の普遍的原理の名辞およびこれの象徴にモナスつまり本質的一性(あるいは英語の名辞として彼の造語a unit)をディーが選んだ理由の特定を試るなら、誰か「エメラルド版」のuna res(一なる事物、唯一の事物?)を思い出すかもしれない。しかしおそらくより直接的な典拠はネッテスハイムのヘンリー・コルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学De Occulta Philosophia』第二書第三章[1]にみいだされることだろう。この章は「一性とその段階De unitate, & eius scala」。この章の終り、一性の段階scala unitatisが原型的、知性的、天上的、元素的、小世界的、冥府的諸世界における本質的一性の表象(あらわれ)として表示されている。そこで賢者の石lapis philosophorumは元素的世界mundo elementaliの一性を表象するものとして提示される。 これはまた表示の中では、「主題的であるとともに自然本性の力能および自然本性間の力能すべての道具的一性unum subiectum & instrumentum omnium virtutem naturalium & transnaturalium」と定義されている。この表示を補いより明快に解こうと試みる本文は、元素的世界における一性の原理を詳述しているが、そこには賢者の石にかかわる記述はない。ただしそれ(一性)は、賢者のメルクリウスにより直接的にはたらく能作者(試薬)として記述されている。しかしながらすでに述べたように、錬金術師たちにとっては、賢者のメルクリウスとは錬金術過程における質料、方法、結果の謂いであり、これら二つの間に本質的な相違はない。ディーのモナス同様、ネッテスハイムのアグリッパの元素的世界における一性に関する知見も、メルクリウス性の変成そのものの原理を指し示している。以下に挙げるその定義は、一切変更なしにディーの観念の一つとして用いることができそうなものである。

 

「神によって創造された一なる事物una resこそ地上および天界のすべての驚異の主体である。これの能作(はたらき)のうちに動物、植物、鉱物がいたるところに見出される。これについてはほんの僅かの者にしか知られておらず、またこれにふさわしい名辞をもって呼ばれたこともなく、数、形象、謎語に覆われて表現される。これなしには錬金術も自然魔術も成就されることはないだろう。」[2]

 

本質的一性あるいはモナス−諸数の構成要素であるがそれ自体は数ではない[3]−は、ディーのメッセージの錬金術的内容の数々をさまざまな数の象徴主義的逸脱、特にピタゴラスのテトラクテュスや魔術的寓話に溢れる幾何学的および文芸的象徴主義と繋ぐ知見である。そのうちの幾つかについて例示してみることにしよう。モナスの理説は具体的な諸数(整数?)をつくるものであると言われる。つまり、物体的なものからその形相的諸性質を分離することによって、マグスは具体的に示されることのない手段をもってこれを利用してみせる[4]。幾何学においては、モナドの原理は点によってあらわされる。直線と円は諸他の表象がその淵源とするところであるが、モナド的な点が能作することで産生されることなくしては理解(感得)不能である[5]。メルクリウスの一般的象徴の下部をなす十字は、ディーのモナド象徴においては太陽の円環と白羊宮のしるしの間にあるが、これは日本の直線とその交点の三つ組(特に、体躯、霊、魂の三つ組)を意味するとともに、四つの直角からなっているので四つ組を、また一点から発する四つの線に触れる八つの辺(秘密の八つ組)をもなすものであると言われている。それゆえ三つ組と四つ組の組み合わせからなる十字はまた七つ組をもあらわしている[6]。モナド象徴があらわすプロセスの「反復的(機械的)魔術」においては、十字の四つ組は、中心から滴り流れ落ちるものとして湧きだす四元素を意味するもの、と理解される[7]。四つ組の数的諸要素(一、二、三、四)からは十組(デナリ)が得られ[8]、これは一なる事物una res[9]をあらわすものと説かれる。またこれの力能(virtus, 性質)はこの論考ではテトラグランマトンと結びあわされている[10]

太陽と月はモナドの中に含まれ(包摂され)ており、そのうちに火によってのみ分離される強い十組(デナリ)の比があるそれらの要素(元素)を欲する[11]、というディーのどこか不可解な結論からすると、どうやらこれらを錬金術と関連づけるのには無理があり、そこには論理的な欠陥が認められることになる。

テトラクテュスおよびこれから導出される十組(デナリ)にかかわるディーの錬金術的解釈に類比した解釈が、ディーと同時代のドイツ人でパラケルスス主義者の錬金術師ゲルハルト・ドーンの論考に見つかるのは興味深い。彼もまたモナスの知見を援用している。ドーンによれば−またネッテスハイムのアグリッパによれば−一性とは自然本性のあらゆる驚くべき効果を引きだす力能(性質, virtus)である。三つ組と四つ組は、数一の再生産として、モナスをより高い水準へと到らせ、十組(デナリ)へと導いていく。これらの水準の間には、上昇ascensusおよび下降descensusを介した連続的な変換(交換)が起こる[12]

ネッテスハイムのアグリッパ、ゲルハルト・ドーンそしてデイーは、彼らのモナドのヘルメス的解釈およびそれがマグスにもたらす影響にかかわる観念を、ヨハンネス・トリテミウス(1462-1516)から引きだしのかもしれない。いずれにせよ、彼らの観念の間には著しい親近性が認められ、それらにはトリテミウスの二通の書簡が暗示されている。これらの書簡はいつ抄録されたものか不明ながら、Iac. Gohorii De Usu & Mysteriis Notarum Liber, Paris, 1550, ff.H[iv]-I[iv]v[13]で師が学生に魔術を教える一節に引用されている。トリテミウスはこれらの書簡の第一のもの(ヨアキムと呼ばれる神聖ローマ帝国選帝侯に宛てられている)の中で、弟子の教育について語っている。

 

「...三つ組の矯正により二つ組を介して一性に到る。わたしはこれを書きものによってより明快に説明することはできないし、そうしようとも思わない。それにまた、彼(マグス)は万有宇宙の分割(区分)および下位世界と上位世界における一から三つ組のなかにある四つ組への上昇と下降の秩序(序列)について、知らねばならない。それは度数、数、流出、流入、存在および非存在、一と三に相当する。これらはいずれもたいへん難解で、自然魔術および超自然魔術の驚くべき諸効果の根にして基礎である。」[14]

 

第二の書簡は”ad amicum quendam”に宛てられたもので、モナドとテトラクテュスが土の元素の上昇、つまりまず天上の水の圏域へ、そして天使たちの圏域である火の中へ、そして最後に「一なる単純つまり世界魂unum simplex, id est anima mundi[15]への上昇と関連づけられている。世界魂およびモナドの本質的一性は神ではなく、人の思惟(こころ)のイマジネimagoであり、生きているのでも死んでいるのでもないが、最も力能溢れるものである、と言明される[16]

 

「この純然たる単純性にして単純なる純粋性の知識によって昇華された者は、あらゆる自然本性的知識および隠秘知識を達成するだろう、と言おう。」[17]

 

モナドへの上昇は「火と愛によって」実現される[18]。この体験(実験)と知識なしには、マグスが罪を犯さずに図像(イマジネ)の数々に力能を分与することはできないし、それなしに変成術師は自然本性を模倣することはできず、霊たちに命ずるspiritus compellereこともできない、とトリテミウスは言う。予言もまた不可能であり、巧妙な実験を支配する法(律則)を理解することもできないだろう[19]。またこの書簡でトリテミウスは上昇と下降の過程を同時に要約して、次のように記している。

 

「モナドの進捗により三つ組および四つ組に到るように、十組も完成される。また数の一への減少によってそれ(モナド)にいたる。同様に四へと昇り、モナドへ下る...このモナドの原理を知らぬ者は三つ組に進むことも、聖なる四つ組を得ることもできないだろう。」[20]

 

どうやらこうした諸観念が、「気を通して火の中へin Ignem, per Aquam[21]上昇する土の元素であるというディーのモナスの理説に明確に語られている万有宇宙の変成の象徴に、霊感を与えたものであったようにみえる。

太陽、月、白羊宮のしるしおよび諸元素の十字(つまり直線および円周の一部から導出されたモナド象徴の構成諸部分)は、残りの五つの惑星の構成成分でもある。それらのかたちはまた諸金属の記号(鉛、錫、鉄、銅、水銀)でもあり、錬金術的暗示に満ちた象徴の分析主題となされねばならない[22]が、本稿の著者にはその技量が欠けている。メルクリウスの古い象徴と伝えられるもの(半円に十字)が導入され、これによって賢者のメルクリウスと「同胎の兄弟」であるメルクリウスが月の類であり、それが錬金術過程において発するものであることが示される。サトゥルヌス(土星)、ユピテル(木星)、月および月の類のメルクリウス(水星)の象徴は幾何学的に混合されて一つとされ、第五の象徴(半円と十字と半円を二つ並べたもの(白羊宮のしるし))のうちに混じている。これについてディーはなにも註していない。しかしそこに太陽の象徴が欠けていることを除いては、モナドの象徴と同一である[23]。この論考のさまざまな錬金術的な句節同様、この文脈においてはある種の「周回」が語られており−全部で四回転(あるいは七回?)であることは明確−これについて十分な解説がなされている訳ではないが、どうやら錬金術過程の諸段階について言ったもののようである[24]

また変成過程において用いられる神秘的なうつわに関する慎重に覆いをかけられた記述にも、なんの解明もほどこされていない。これはディーが彼のモナド象徴の上と下の部分に据えられたアルファとオメガとしての解釈として導出しているもの[25]。神秘的な照応について表示した銘記は、モナド象徴をアルファ、十字、オメガから構成されたものとする考察の帰結である[26]が、それは翻案されぬまま放置されている。モナド象徴に関連するものと思われるが、より分かりにくいまた別の表示−ここでは他の二箇所[27]同様、不可思議に逆位地で配置されている−についてはテトラクテュスの宇宙論的、錬金術的解釈がなされている。

『聖刻モナド』の主たる謎文には次のように述べられている。本稿の論者はトマス・タイムがディーの論考への短い序の末尾に付している註釈の試み以上の結論を呈することはできない。

 

「以上簡略にわたしの推測を示してみた。誰かより明かしてくれる者があるならわたしはそれを学ぶに吝かではない」。[28]

 



[1] Henry Cornelius Agrippa von Nettesheym, De Occulta Philosophia, Cologne, 1533, pp.ciii-civ. ディーはLugduni 1550版を蔵していた。

[2] Una res est a Deo creata, subiectum omnis mirabilitatis, quae in terris, & in coelis est, ipsa est actu animalis vegetalis & mineralis, ubique reperta, a paucissimis cognita, a nullis suo proprio nomine expressa; sed in numeris[2] figuris & aenigmatibus velata, sine qua neque Alchymia, neque naturalis magia, suum completum possunt attingere finem.

[3] Cfr. H. Billingsley, The Elements of Geometrie of … Euclide, London, 1570, f.2.

[4] Monas, f.5v.

[5] Ibid., f.12. cf. Nicomachi Geraseni Pythagorei Introductionis Arithmeticae Libri ii, ed. R. Hoche, Lepzig, 1866, p.84 (II, vi, 3) ; Anicii Manlii Torquati Severini Boetii de institutione arithmetica libri duo, ed. G. Friedlein, Leipzig, 1867, p.87. l.13:”Est igitur unitas vicem obtinens puncti, intervalli, longitudinisque principium.”

[6] Ibid., f.12v.

[7] Ibid., f.13.

[8] Ibid., f.13.

[9] Ibid., f.5v.

[10] Ibid., f.23. cf. Johanes Reuchlin, De Verbo Mirifico, Lugduni, 1552, cap.xxi, pp.209-224. ディーはこれのCologne 1532版を所蔵していた(MS Ashm. 1142, f.23)。

[11] Ibid., f.13v.

[12] Cf. Gerhard Dorn, De Spagirico Artificio Io. Trithemii Sententia, Theatrum Chemicum, vol.I, Strasburg, 1659, pp.390-391. ; ibid., p.396.この論考はJohannes Trithemius1462-1516)による一性に関する命題 ”Unarius non est numerus, & ex ipso numerus omnis consurgit.” の註釈となっている。

Cf. Henry Cornelius Agrippa von Nettesheym, De Occulta Philosophia, Cologne, 1533, pp.126-127, lib.III, cap.xiii, De Decade & eius Scala.

[14] Gohory, loc.cit., f.H[iv] : “… per rectificationem a ternario in unitatem per binarium divisum: Clarius declarare tibi literis non possum nec velim. Deinde necesse est ut universi divisionem sciat, & totius tam inferioris quam superioris ab uno usque ad quaternarium in ternario quiescentem, noveritque ordinem ascensus & descensus, gradum, numerum, fluxum, refluxum, esse & non esse, unum & tria. Quod scire difficillimum est, & omnium mirandorum effectuum radix est fundamentum in magia tam naturali quam supernaturali.”

この書簡は150566日の日付で、Ioannis Tritemii Abbatis Spanheymensis de Septem Secundeis, id est Intelligentiis … Libellus, Coloniae, 1567, pp.99-116.に最初に印行された。

http://digital.slub-dresden.de/werkansicht/dlf/162362/5/0/

 

[15] Gohory, f.I-Iv.

[16] Ibid., f.Iv

[17] Ibid.: “Et dico quicunque huius purae simplicitatis & simplicis puritatis notitia sublimatus est, in omni scientia naturali & occulta consummatus erit.”

[18] Ibid.

[19] Ibid., f.IIIv.

[20] Ibid., f.IIII-IIIIIv : “Ad ipsum a ternario & quaternario, id est monadem progressus est, ut denarius compleatur, per ipsum est numero regressus ad unum, simul ascensus cum quatuor, & descensus ad monadem … Omnes hoc monadis principium ignorantes, nihil in ternario proficiunt, & sacrum quaternarium non pertingunt.”

この第二の書簡は1503510日付で、”Ioannes Vuestenburg Comes”に宛てられている。Ioannis Tritemii Abbatis Spanheymensis de Septem Secundeis, id est Intelligentiis … Libellus, Coloniae, 1567, pp.81-100にはじめて公刊された。またこれに類した観念は”Germain de Ganay宛ての1505824日付書簡にも表明されている。Ioannis Tritemii Abbatis Spanheymensis de Septem Secundeis, id est Intelligentiis … Libellus, Coloniae, 1567, pp.89-94.

[21] Monas, f.6v.

[22] Ibid., ff.13v-14v.

[23] Ibid., f.14.

[24] Ibid., ff.14v, 27.

[25] Ibid., ff.22-23.

[26] Ibid., f.23.

[27] Ibid., ff.20, 27, 27v.

[28] MS Ashm. 1459, p.481. A Light in Darkness末尾

ジョン・ディーの『聖刻モナド』について 7


(承前)

扉頁および本文の図にあらわれるモナドの象徴(記号)は、基本的に錬金術および天文学のメルクリウス(水銀・水星)の記号☿に獣帯の第一区分白羊宮(アリエス)の一般記号を下に加えたものである[1]。メルクリウスの一般的な象徴(記号)の上部をなす半円と円は交差して描かれており、月と太陽の合の観念を呼び覚ます[2]。その上、半円は三日月(満ちる月)のように膨らまされており、円には中点が付加されて、モナド象徴のこれら上部の要素群が月および太陽の一般記号として完全に特定できるようになっている。太陽の円の中心点はまた、太陽、月および諸他の惑星が周回する大地(地球)をも象徴している[3]。これこそディーがモナドの地上の中心と呼ぶところのものである。

メルクリウスの象徴の下部の十字に付された白羊宮(アリエス)の記号はディーの意図にふさわしく変形されている。これは占星術師たちが火の元素に指定する獣帯の最初の三つの記号、所謂火の三角(白羊宮、獅子宮、人馬宮)の第一のもの。これがモナドの象徴に付加されたのは、ディーが公言しているように、彼のモナドの実修(著作)in huius Praxi Monadisにおいては火の助けが欠かせないことを意味している[4]

ディーがモナドの観念に混乱したまま纏わせることとなった副次的な解釈のすべて、洗練のすべてを脇に置くなら、その象徴が運ぶ最も一般的で明瞭な観念は錬金術過程にかかわるものだろう。メルクリウスつまり賢者のメルクリウス(水銀)は錬金術的な火Ignis ille Arietinusによって活性化されるものとみなされる[5]。卵型の楯の中に描かれたモナドの象徴は、惑星メルクリウスに想定される卵型軌道[6]をばかりでなく、賢者の水銀(メルクリウス)を昇華して賢者の石とするヘルメス的なうつわ(密封容器)あるいは賢者の卵をもあらわしている[7]

メルクリウスの象徴は錬金術においては質料、方法(手段)、錬金術過程の結果をあらわしている[8]。ディーのモナドに見られるような改変されたメルクリウスの象徴は、ヘルメス的な実修に関わるディーの知見における主体、方法、最終成果をあらわしているのだろう。彼にとってはそれは最も拡張された解釈を、つまり変成の原理そのものをあらわしている。その原理としてメルクリウスは普遍能作主体(普遍薬)であり、メルクリウス−人つまりそうした影響を適切に受け取る真の錬金術師あるいはマグスこそがその最も高貴な主体(主題)である。ディーが賢者のメルクリウスを小世界(ミクロコスモス)に、そしてアダムに見立ててみせるわれわれの文書の一節に認められるように、この光のもとで人が主体(主題)となるばかりでなく変成過程の能作主体(試薬)ともなる。

 

“Et, (Nutu Dei,) iste est Philosophorum Mercurius ille Celeberrimus, Microcosmus, & Adam.”[9]

 

つまりトマス・タイムは、彼が公刊準備していた『聖刻モナド』の英訳に添えた「献呈書簡Epistle Dedicatorie」の中で、ディーの「目的および趣意は☿に錬金術における優越を、業におけるαにしてωを与えることにある」[10]、と正しく観察しているが、ディーがこのメッセージによって、変成術(化学)的性格を語ったのでなはく、霊的卓越を付与しようとしていたことにはまったく気づいていなかった。

ディーの象徴の錬金術的解釈に関して、人は無益にどこまでも展開し得るであろうし、その本文からディーのヘルメス的理説の実践への、魂論(心理)としての応用への知見を導きだすことだろう。しかし彼(ディー)は出発点の数々を提供しているばかりでなく、「その内側に天に由来する火性の息吹を強く掻き立てる者たち」[11]に、その有効性の結論的証拠(最終的成就の証)をも提示してみせる。彼の婉曲語法、暗示、逸脱に満ち、固有の水準でその知見を伝える本文総体は、すくなくとも錬金術師たちの口伝から切り離されてしまった現在の読者のその中心的秘密への接近を周到に拒むことになっている。とはいえ、それは『聖刻モナド』が仮説としても、詐欺的な韜晦あるいは学識を振り回した悪ふざけの類であるなどということは不可能である。ディーの言語の厳粛な真率さ、彼の性格の高潔さ、この論考がマクシミリアヌス王に献呈された状況、ディーがその後半生においてこの論考に寄せた重要性、これらすべてがそのような想定をはっきりと覆す。

とはいえ、本文中に彼の理説における象徴の実践的適用法が示されている。テオレマXXIII[12]では、モナド象徴の算術的構成が入念に教授されている。その各部分は他の諸部分と厳密な数比をもって繋ぎ合わされねばならない。そこに特徴的なのは(魔術的しるしらしく)、これらの規則に関わる理拠が何も示されていないこと。

 

「...もしもあなたにここで提起されている諸比率に関してその理拠(われわれがもつところ、われわれが捕えられているところ)を、あるいはこの小論考を通して示したところ以上に、つまりより公然とわれわれの描図の諸原因を提示するなら、それは賢明にもわれわれに定められた境界を越えることになりかねない。」[13]

 

これらの教えはモナド象徴を「指輪や印章その他の方法で」[14]用いようとする読者たちに脾益することを意図したものである。それらはこうした装具を作る工匠技術(メカニクス)つまり彫金師や版画家刻印家たちに宛てられたものである。献呈辞[15]に述べられているディー自身の「ヘルメスのロンドン印章」はきっとこれに則って彫られたものであろう。ここに述べられている象徴使用の「他の方法」とは、護符(タリスマン)あるいは魔術的印象(シシル)としての有効性を想定したものでもあろうか。ディーは『プロパイデグマタ・アフォリスティカ』(London, 1558; 1568)のアフォリスム52で、カトプトリケーという業つまり反射(像)[16]の利用により、熟達者は選ばれた星辰の影響をいかなる素材(質料)にも自然本性がなすよりも強く印刻することができるだろう、と述べ、付言して、この業は古の賢者たちにとって自然魔術の格別な領野とみなされていた、と語っている。このアフォリスム集の次の命題で、ディーは下位世界の天文学astronomia inferior(つまり錬金術)について述べている。明らかに彼はここで、恒星の諸影響に関わる知識の尊厳(公理)だけが僅かにそれを超える修練として、これに隣接する主題について語っている。こうして彼のモナド象徴を偉大な錬金術師としてのゲラルド・メルカトールに推奨してもいる(本書はこの人物に宛てられたものだった)。つまり、ディーがこの象徴に他の魔術的しるし(カラクテール)に類した力能を帰していることが、道理をもって想定される。それらは占星術的に適切な時に金属あるいは他の素材に刻まれると、善あるいは邪悪な星辰の影響を永劫に保持することになるものと想定されたものだった[17]

ディーのモナドおよび数に関する諸観念の主要典拠を往昔の著作家の誰かに特定することはできない。プラトン、ゲラシアのニコマコス、スミルナのテオン、プロクロス・ディアドコス、ミカエル・プセッルスの諸著のいずれにも、ディーの思索に影響を及ぼしたかもしれない句節が見つかる。しかし彼は彼の諸観念に対する哲学的、数学的関連性を曖昧なままに放置しており、誰もそれを彼が1583年に所蔵していたプラトンの著作群、テオンやプロクロスやプセロスの数学論考群の公刊本(MS Ashm. 1142, ff.1v, 6, 116v)を指摘し推測を巡らす以上のことはできない[18]

 



[1] ヘルメス−メルクリウスに羊が添えられた図像表現は古典古代期から知られている。Cfr. Pausanias, Description of Greece, tr. J. G. Frazer, London, 1898m vol.v (commentary), pp.87-90.: vol.ii (translation), book II, ch.3; book IV, ch.33; book V, ch.27; book IX, ch 22.; Ioannes Pierius Valerianus, Hieroglyphica, Basle, 1556, book X, p.78.

[2] Monas, f.12v.

[3] Ibid., f.12.

[4] Ibid., f.13v. 春の最初のひと月、太陽が白羊宮にある時が錬金術師の実修に特にふさわしい。Cfr. MS. Ashm. 1445, V, i : E. Ashmole, Theatrum Chemicum Britannicum, London, 1652, p.305, 380.

[5] Monas, f.21v.

[6] 図版参照

[7] Ibid., f.17v.

[8] Cfr. Turba Philosophorum, in Theatrum Chemicum, vol.v, Strasburg, 1660, pp.3-4.

[9] Monas, f.14v.

[10] MS Ashm. 1459, p.469

[11] Monas, f.23.

[12] Ibid., ff.23v-25.

[13] Ibid., f.23v.

[14] Ibid., f.24v.

[15] Ibid., f.4.

[16] Cf. John Dee, Preface to H. Billingsley, The Elements of Geometrie of … Euclide, London, 1570, f.10v. そこでCatoprikeは眺望論(光学)の一部で「ガラスの数々によってなされる」ものと規定されている。「ガラス」とは「この業において光線を跳ね返す(反射する)ものの総称」。

[17] Cfr. Thebit ben Corat [Thabit b. Qurra], De Tribus Imaginibus Magicis, Feankfurt, 1559

https://books.google.it/books?id=g25jAAAAcAAJ&pg=PT4&lpg=PT4&dq=De+Tribus+Imaginibus+Magicis&source=bl&ots=RADQu_Siv0&sig=4NeJLttzE9Eh2hGGDXcshaByNaM&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwijz8WZzd3UAhVkLcAKHXH_B-sQ6AEILTAC#v=onepage&q=De%20Tribus%20Imaginibus%20Magicis&f=false

Theophrasti Bombast, ab Hohenheim, Dicti Paracelsi, Operum Medico-Chimicorum sive Paradoxorum, Tomus Genuinus Undecimus, Frankfurt, 1605, pp.135-136. Liber Tertius Archidoxis Magicae ;

Henrici Cornelii Agrippae ab Nettesheym … Opera, Lugduni, 1531. De Occulta Philosophia lib.I, cap.33, pp.44-46, lib.II, cap.22, pp.174-184 ;

J. Gaffarel, Unheard of Curiosities Concerning the Talismanic Sculpture of the Persians, London, 1656.

 Gaffarel

[18] ディーのカバラに関わる知識の典拠の一つは、Ioannis Cheradami Alphabetum Linguae Sanctae, mystico intellectu refertum, Paris, 1532であったかもしれない。

https://books.google.it/books?id=d9plAAAAcAAJ&printsec=frontcover&dq=Ioannis+Cheradami+Alphabetum+Linguae+Sanctae&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjVvr6n1t3UAhWMBsAKHf8XChAQ6AEIIzAA#v=onepage&q=Ioannis%20Cheradami%20Alphabetum%20Linguae%20Sanctae&f=false

この大英博物館蔵本の書き込みはディーのものではないかとJostenは推測している。

ジョン・ディーの『聖刻モナド』について 6


 

IV. 解釈のためのさまざまな示唆

 

ディーの論考には謙遜で慇懃な言葉遣いと過剰な自尊心の表現が奇妙に混じている。マクシミリアヌス王への彼の贈物は小さいものだが、稀に見る性質のものである[1]。彼の希少性(珍奇)の図式つまり「希少性の樹Arbor Raritatis」において、彼は自著を哲学の最下部に置き、ここから僅かでも上の水準にいつでも昇ることができるようにと待望している。また同じ文脈で、千人の誠実で献身的な哲学者のうちでも、自然本性の知識(自然学)の基礎的諸真実を予見すること以上を成し得る者はただ一人、また自然本性的事物の知識、それも特に天文学や占星術の知識を通して上天の力能(徳)および形而上学的効果(影響)を洞察するに到るのは百万人に一人だろう。一般的な運命に服する十億人の人々の中で自らの孤立を見出すような「おそらくただ唯一の英雄だけ」[2]、それをディーは自らの理想(理念)としてだけでなく、いくらかの躊躇とともに想像において彼自身と同一視している。明らかに彼は自ら哲学者として−正しくも−彼の時代に得られる最良の自然本性にかかわる知識を手に入れることができると主張しており、特に数学、天文学、占星術の知識については彼は権威とみなされていた。と同時に彼が形而上学に強く憧れる哲学者であったことは否めない。それは『聖刻モナド』のほぼすべての頁からみてとられるところでもある。彼は自然学および数学の分野における自らの著作の価値を疑ったことはなかった。とすると彼は自身がどれほど同時代の多数者から、それがいくら学識を積んだ者たちであっても、彼らから遥かに遠くまで登った者であるかを公然と主張することを良識的に憚っただけのことであったかもしれない。『聖刻モナド』は文法学者たちの諸観念を矯正するだろう[3]。讃嘆される算術家たちは数に関わる新たな知見を伝授されることとなるだろう[4]。幾何学者たちは彼らの知識が不十分にしか表現されていないということを知るだろう。道具を使いあるいは作る者たち−音楽家、天文学者、光学者−は、『聖刻モナド』の理説それ自体が彼らの道具の数々をうごかすものであることを学ぶ時、彼らの仕事が時代遅れとなるだろうことを知るだろう[5]。カバラ学者たちは彼らの業が普遍的なものであり、ユダヤ人の言語に固有のものである訳ではないことを解するだろう。書かれたものあるいは言われたことに対するいわゆる世俗的なカバラ解釈を別に、『モナド』に例示されるような「リアルな」カバラは新たな業と方法による創造総体を探求するための神の賜である[6]

ここまで論じてきたディーは、彼の『聖刻モナド』を魔術的寓話と呼ぶ[7]。彼がこの論考を書いた真理状況(魂の境位)そのものが彼の知的大胆さと孤独を示唆しているが、そこで彼の思惟が多くの者から留保されるようにとの期待へと彼を引き戻すこととなる。そしてただ諸理念がその応用よりも重要であると考える人、つまり学識深い人々を見出そうとする稀なる内省力をもつ人だけに向けて。そしてもちろん庇護者にだけ向けて。この論考の主目的はこうした人々の関心と共感を引き起こすことにある。ひょっとしてマキシミリアヌス王がそれにふさわしい人ではなかったとしても、そのメッセージはこうした人々には届くだろう。いずれディーの魔術的寓話の解読鍵はただ彼らにだけ宛てられたものであった。

プラトン主義者ディーにとって、彼自身が創案した宇宙象徴の力は天文学者たちの仕事(著作)を皮相なものとなすだけでなく、マクシミリアヌス王への献呈書簡の一節が明らかにしているように、惑星および獣帯諸象徴を伝統的なかたちに戻すとともにそれらに期待されるわれわれの予見を闡明するものとなす、と言っている。ここでは彼が旧来の実修を修復しようとしているのか、新たな実修を据えようとしているのかはっきりしない[8]。換言するなら、彼は想起(アナムネーシス)によって自らのうちに過去を発見する。あるいは、彼の霊的先行者たち、古の賢者たちが望んだであろうところから、彼に可能な思惟を発展させるような内省の水準に到達する。彼にとってはこれが諸他の素材と差異があるようには見えない。実際、真のプラトン主義者の対象とするところは、ある理念的(イデア的)な真実へと接近することにある。それは秘密なものとしてあり、多かれ少なかれ完璧で、まさに人の思惟(心)の深みを明瞭に映すものであり、それは荒廃した現在にではなく、知識の黄金時代により近い尊い過去の跡のうちに見出されることになるだろう。

ディーのこの再構築、外在世界の現象およびその作用に無関心であるとともに、彼の時代に通有の霊的達成の機会に対する懐疑的な視線は、彼の錬金術に関わる諸見解に確認できる。錬金術師たちつまり諸金属の変成に携わる者たちは惨めで経験不足の詐欺師として誹謗されている[9]。文脈からすると、錬金術的変成の主体とは人であって金属ではない、と言うのが正しい理解であるということが示唆されている[10]。とはいえ、錬金術的な問いが完全に霊的領野に属するものである、と明言している訳ではない。人こそ変成の第一主体であるにせよ、変成を果たした人は外在世界において賢者の石を産生することができるだろう。すくなくともこれが、ある神秘的なうつわ(テオレマ22に晦渋に語られている)について語られるディーの錬金術観念の唯一の解釈であろう。それは実修過程で必要となる普通のうつわで、その形と素材については論じる必要もない[11]、と彼は言う。また別の一節、賢者の水銀(メルクリウス)を暗示するとともに、これを太陽つまり黄金によって置き換えるところで、ディーはこの作業(つまり諸金属の変成における最終段階)は過去に偉大な熟達者たちがなしてみせたようには、現在ではもはや果たされ得ないと言う。実際、それは火の調節(ars pyronomica)の業によって身体から隔離(分離)された魂によって作業が統率されない限りは不可能である。これは火と硫黄の煙のせいでたいへん困難であるとともに危険な業である[12]。この一節は明快な解釈を拒絶しているようにみえるが、すくなくとも、外在世界における錬金術的成就はこの世が時を経過するとともに、霊的暗黒時代に降下するとともに減少してきたのであり、それが可能であるとしてもそれは常ならぬ危険な作業によって補完されることなしには果たされないだろう、というディーの観念が示されていることに疑いはない。誰か、この危険な冒険において身体から分離された魂が人の魂(あるいはその一部)だと考えるなら、この業が実修されるに要する火の業(ars pyronomica)とはなによりまず霊的錬金術、ディーが象徴として選んだモナドにかかわる下位世界の天文学(astronomia inferior)と化すだろう。この実修に要する火と硫黄の煙は、こうして毒性蒸気というよりも霊的あるいは心理的な危険という含意を得ることとなる。また別の一節には、モナドとして象徴化される実修過程で変成される主体は術者あるいはマグス自身であり、そこで神秘的な意味において彼の魂がそのからだから分離されることとなる。モナドの地上における中心(ここで中心とは人のからだを意味している)が、太陽や月の性質という上位からの影響と永劫に結びつくと、モナドはもはや「生来の土壌の上で糧や水を与えられ」得なくなる。そしてこれに糧を与える者それ自体が変容を蒙ることとなる。その結果彼は自らの眼で見ることは稀となり、モナドは賦与する力をもっているという理説を説くマギの不可視性を愉しむこととなるだろう[13]。つまりこれこそが、ディーがこの論考の中で表明するとともに秘匿しようとしている秘密の修養の目的であるようにみえる。星辰および上天の諸影響の直接分与によって実在を変容する選ばれた僅かな者たち、自然本性を司ることができ、からだの中の一般的な生の瑣末な諸限定を免れている実在。一方、彼の時代の錬金術師たちはほぼ黄金産生を試みることもない。それゆえ彼にとってそれらの者たちは詐欺師であり、彼らがほとんど理解していないばかりか彼らの理解を越えている理説にふさわしくない相続人たちである。こうした観点からするなら、彼の論考が主要に論じる霊的変容過程に彼が錬金術という名辞を決して与えていないにしても、なにも驚くには足らない。それに彼はなにも古の錬金術伝承に異を唱えている訳でもなく、当時の霊的錬金術師たちの慣用を拒絶している訳でもない。

 



[1] Monas Hieroglyphica, Antwerp, 1564, f.2.

[2] Ibid., f.2v.

[3] Ibid., ff.4-5v.

[4] Ibid., f.5v.

[5] Ibid., f.5v-6.

[6] Ibid., ff.6v-7.

[7] Ibid., f.7.

[8] Ibid., f.3v.

[9] Ibid., f.17v.

[10] Ibid., f.18.

[11] Ibid., f.22v.

[12] Ibid., f.14v.

[13] Ibid., f.7-7v.

ジョン・ディーの『聖刻モナド』について 5


 

(承前)

ペトルス・ボングスの著作Petrus Bongus, Mysticae Numerorum Significationis Liber, Bergamo, 1585, vol.I, pp.38-39にはディーの『聖刻モナド』の一節がパラフレーズされ、その典拠が示されている。1618年にパリで印行された後版では、巻頭の引用者一覧に”Ionannes Deae Londinensis”と記されている。これは初版にはなかったもの。

これにつづく『聖刻モナド』の歴史上のできごととしては、この書の1591年フランクフルトでの再版”apud Ioannem Wechelum & Petrum Fischerum consortes刊行がある[1]。ディー自身がこの第二版を手にしたかどうかは分からない。これの本文は信頼できるが、図版はかなり雑な再現となっている。モナドが卵型の楯模様の中、四元素および太陽と月に囲まれている扉頁の図は、初版よりもずいぶん簡略化されている。巻末の紋章図案は省略。

どうやらこの第二版はアンドレアス・リバヴィウスの『自然学二論考』(Andreas Libavius, Tractatus duo physici, Frankfurt, 1594, p.41)にみられる侮蔑的な記述を惹起することになったものかもしれない。つまりそこでは、ニッダのヨハンネス・ピストリウス[2]、コルネリウス・ゲンマ[3]の著作、そしてディーの『聖刻モナド』の図式が、愚劣ineptiaeと侮蔑的に批判されている。その理由は、そこに大地から天界へと昇るカバラ的なヤコブの梯子が想定されており、ピストリウスによればそれは四段階、つまり自然、時(現世)の地平、永遠の地平、上位世界の地平(natura, horizon temporis, horizon aeternitatis temporalis, horizon mundi supersupremi)、これについてデイーの諸段階においては永遠の地平と時(現世)の地平だけが述べられている[4]

リバヴィウスの非難については、1595年にディーがカンタベリー大司教に書いた手紙A Letter, Containing a most brief Discourse Apologeticall, with a plaine Demonstration, and fervent Protestation, for the lawfull, sincere, very faithfull and Christian course, of the Philosophicall studies and exercises, of a certaine studious Gentleman: An ancient Servant to her most excellent Majesty Royal, London 1599に於いて反駁されている。そこで彼は次のように苦言を呈している。

 

「...わたしはちょうど最新著作『永遠の地平De Horizonte Aeternitatis』を公刊し、アンドレアス・リバヴィウスが昨年公刊した著書で、わたしの『聖刻モナド』の一節を不当に論じていることについて明示しておいた。彼はこの題材に対する未熟さから誤って、そこ、著作全体の中で最も主要なる部分の一つでわたしの適切な応用を理解するに至っていない。本著作は(神の助けと好尚により)王女に献呈されるべきもの。この論考は三巻からなっており、第一巻は「算術と自然学の地平De Horizonte liber Mathematicus & Physicus」、第二巻は「永遠性について、神学、形而上学、算術の書De Aeternitate: liber Theologicus, Metaphysicus & Mathematicus」、第三巻は「永遠の地平について、神学、算術、聖なる業についてDe Horizonte Aeternitatis: liber Theologicus, Mathematicus & Hierotechnicus」と表題される[5]。」

 

この一節からは、『聖刻モナド』公刊から30年を経過しても、ディーにとってこの著作のメッセージがその重要さを失っていなかったことが分かる。いずれにしても、「永遠の地平について」という論考については、これまでのところ著された形跡が見当たらない。

『聖刻モナド』はあらためて『変成術の劇場Theatrum ChemicumUrsellis, 1602, pp.203-243に再掲された。しかしこの版はかなり誤植が認められるとともに、図表にも過誤がある[6]。この誤植は『変成術の劇場』ストラスブール版[7]でも繰り返されている。

またトマス・タイムによって英訳が志されていた。彼は1575年から1620年の没年までサッフォークのハスケトンで講読師を勤めた文筆家兼翻訳者であった。彼が訳書の巻頭に付そうとした「庇護者」トマス・ベーカー[8]への「献呈辞」はエリアス・アシュモレーによって書写された稿本中に保存されている[9]。アシュモレーはタイムの「読者への序」も写している[10]。また彼の『聖刻モナド』序は「闇の中の光」と題され、「付録解説」とともにトマス・タイムによるディーの『聖刻モナド』巻末に付されている[11]。散逸したタイムの翻訳はどうやら1602年かそれ以降になされたもののようである。これは彼の序(「闇の中の光)」p.222, 223, 228にある通り、「ラテン語劇場」つまりこの年に印行された『変成術の劇場Theatrum Chemicum』初版に納められた『聖刻モナド』を底本としたものであったことが分かる。

ディーのモナドの象徴(記号)がすでに錬金術師たちによって彼らの紋章として抜き書きされていたことを示唆する証拠が幾つも存する。これは1644年にヴェンチェスラウス・ホラー[12]が銅版画に起こした錬金術師ヨハンネス・バンフィ・フニャデス(父)(c.1576-1646[13]の肖像画を巡る楕円形装飾の下部にみられる。またアメリカの錬金術師であり錬金術書蒐集家ジョン・ヴィンスロープ(子)(1606-1676)、コネチカットの初代知事はディーのモナド象徴を蔵書票に使い、彼の息子ウェイト・スティル・ヴィンスロープ(1638-1707)と孫のジョン・ヴィンスロープ(1681-1747)もこれを用いている[14]。また[Johann Valentin Andreae,] Chymische Hochzeit: Christiani Rosencreutz. Anno 1459, Strasburg 1616の第一詩編Erster Tag[15]の欄外にもディーのモナド象徴があらわれる。あるいはThe Clavis, or Key. Or An Exposition of some principall Matters, and words in the writings of Jacob Behmen, … Written in the Germane Language, in March, and April, Anno. 1624. By Jacob Behemn, London, 1647, pp.9. 10.およびpp.18-19に挿入された図表、[p.31]の正誤表にもみられる[16]

ディーの象徴をエジプト化した折衷図がアタナシウス・キルヒャーの『パンフィリ家のオベリスクObeliscus PamphiliusRome, 1650, p.375に見られる。ディー(Deenus)の名も本文中に引かれている(ibid., p.373)が、このモナド象徴の創案者として名指されている訳ではない。著者キルヒャーはこれについて彼の考えを開陳し(p.376)、あるいはエジプトのcrux ansata(輪つき十字)の解釈の要約のうちに彼自身のこの象徴の理解について論じている(pp.364-379)。

その他にも、ディーのモナド象徴を改良したものが、Johann Christoph Steeb, Coelum Sephiroticum, Mainz, 1679に添えられている。そこには「ヘルメス・トリスメギストスの印章Sigillum Hermetis Mercurii Trismegisti」と銘記がある。

この書とこの象徴の歴史的な最後の影響形態−おそらくなにか未見の資料からより敷衍されるに違いないが−は、184124日、ロンドンの考古ソサエティーでなされた講演だろう。これはHalliwel-Phillipps1820-1889)につづいてJames Orchard Halliwellによってなされたものらしい。ハリウェルはThe Private Diary of Dr. John Dee, and the Catalogue of his Library of Manuscripts, Camden Society, vol.xix, London, 1842, p.3, n.1.に、考古ソサエティーで読んだ論考に触れ、そこでディーの『聖刻モナド』の「本性」を解説することに努めた、と付記している。残念ながらこの論考は印刷されることなく、エジンバラ大学図書館にハリウェルが残した手稿群の中にも見つからない。

 



[1] Cfr. Allgemeine Deutsche Biographie, vol. xli, Leipzig, 1896 s.v. Wechel, pp.364-368. この印刷所から同年の1591年にGiordano Bruno, De Monade Numero et Figuraが公刊されている。いずれにせよこの書とディーの論考には直接関係は認められない。

[2] Johannes Pistorius, cfr. Archangelus Burgonovensis, Cabalistarum Selectiora, Obscurioraque Dogmata, ed. Hohannes Pistorius de Nidda, in Artis Cabalisticae … Tomus I, Basle, 1587, p.816. ここにはヤコブの梯子の四段階に関する記述がある。

[3] Cornelius Gemma, De Naturae Divinis Characterismis, Antwerp, 1575, pp.140-144. ここでは質料と神の間の五段階が示されている。

[4] Dee, Monas Hieroglyphica, Antwerp, 1564, f.27.

[5] Loc.cit., ff.B2r-v.

[6] Cf. J. Ferguson, Bibliotheca Chemica, Glasgow, 1906, vol.ii, p.439.

[7] Theatrum Chemicum, Strasburg, vol.ii, 1659, pp.178-215.

[8] 不詳

[9] MS Ashm. 1459, pp.469-471; MS Ashm. 1819m art.15.

[10] MS Ashm. 1459, pp.472-479.

[11] MS Ashm. 1440, pp.170-171.

[12] Cfr. Ambix, vol.v n.1/2 (Oct. 1953), Plate I, Ib.

[13] Cfr. F. Sherwood Taylor – C. H. Josten, Johannes Banfi Hunyades, Ambix, vol.v, n.1/2 (Oct. 1953), pp.44-52; id., Johannes Banfi Hunyades, A Supplementary Note, Ambix, vol.v, n.3/4, (Oct,.1956), p.115.

[14] cfr. Ronald Sterne Wilkinson, The Alchemical Library of John Winthrop Jr. (1606-1676) and his Descendants in Colonial America, Ambix, vol.xi, n.1 (Feb. 1693), pp.39, 48, 50.

[15] Cfr. repr. Hermann Barsdorf, Berlin 1922, p.2.

[16] ベーメ独語版集成Amsterdam 1682にはみられない。

ジョン・ディーの『聖刻モナド』について 4


 

(承前)

ディーは『完全なる航海術にかかわる一般的および特殊事項の記録』(London, 1577)に付された「読者へ」において、十二年ほど前に『聖刻モナド』が公刊された時、彼が批判にさらされたことを想起している。いかに彼のような英国の哲学的著作家は「不親切で敬意のない田舎紳士の侮蔑」を受けるか、また「...王女は(わたしが耳にした通り)尊い機知をもって聖刻文字のようなたいへん奇妙な者に対し給う」[1]たことを録している。

15848月、ディーは彼の霊媒にして同遼であった錬金術師エドワード・ケリーに付き添われてプラハに到着した[2]815日、ある降霊術会において、ひとりの天使がディーに皇帝ルドルフ二世に宛てて手紙を書くようにと促した。つまり天使がディーに手紙を書くように霊感を触発したのだった。その目的はこの皇帝との接見の場を設けること、そこでディーは皇帝に、主の天使があらわれて皇帝の罪の数々を譴責するようにと告げること。もしも皇帝が自らの邪悪を革めるなら、かつてないほど偉大な君主となり、悪鬼も彼の奴隷となることだろう。この手紙は1584817日、ディーによってラテン語で書かれており、その全文が残されている。以下の一節は、彼が手紙とともに贈った『聖刻モナド』刷本に言及した部分である。

 

「わたしが若かった頃、二人の高名な皇帝の伴をさせていただいた。つまり常勝のカルロス五世(1549年ブラバンのブリュッセルで)と、その弟君フェルディナンド(貴殿の帝国のいとも高貴なる祖父殿。1563年、ハンガリーのプレスブルクで)。そしてわたしは貴皇帝陛下の父君マクシミリアヌス殿をお慕い申し上げはじめたのです。その方は不滅の栄光にふさわしく、同63年プレスブルクでトルコの僭主の意向に反するかたちでハンガリー王として戴冠されました。その折、わたしはこの方の稀にみる高徳に義しく報いるため、また後の者たちのためにそれを正当に讃えようと、聖刻文字にかかわる著作を献呈いたしたのです。これを著すにあたり(欄外註:二十年以上前に刊行された小著『聖刻モナド』テオレマ20に)アウストリアの家系の他の人物がいと高き希望をかなえ、彼のうちに清浄なキリスト教に益する偉大なることがら(あるいは、賢者の石)が実現されるであろうという予見がすでに記されています。それゆえわたしは、アウストリアの最も高貴な家系に出る第四代ローマ皇帝としての現下の貴殿の勲を、わたしのものでもある四番目の文字、三つ(の言語、ヘブル語、ギリシャ語、ラテン語)のいずれにおいても四番目にあたる文字をもって証するのです。[3][4]

 

皇帝に必要とされるところを晦渋に示唆してもって終わるこの手紙は、もしも親展と言う秘密が守られたとするなら、ディーから皇帝へと密かにその真意を伝えることとなったものかもしれない[5]

 

その一週間後、1584824日にディーはこの手紙に『聖刻モナド』一部を添えてプラハのスペイン大使[6]に送付するとともに、手紙と書冊を皇帝に渡してくれるよう大使に依頼した。この日の手紙で、これは大変有益な真実を扱ったものではあるが、これを信じる者は僅かであり、理解する者はより僅かであるゆえ、ディーは大使にこれを秘密裏に行ってほしいと嘆願している。

ルドルフ二世が諸玄義に、特に錬金術的な玄義の数々に夢中であったことはよく知られている。

『聖刻モナド』本文に付されたこの手紙は皇帝一族に偉大な達人(アデプト)の到来を示唆したもので、彼の望んだ効果を挙げないはずはなかった。1584113日の午後2時頃、ディーは直ちに城に伺候するようにとの招待状を受け取った。その1時間後ディーは、「私室の卓上にわたしの『モナド』と手紙を載せ、銀の高座に坐した皇帝」と接見している。

 

「恭しくわたしが彼に近づくと、彼は慇懃に快くわたしを迎えたまうた。

わたしは陛下のもとに大胆にも手紙と(彼の父上に献呈した)『聖刻モナド』を送ったことの許しを請うた。いずれにしても彼の父マクシミリアヌスにそれを献呈したのも、殿下のもとに捧げたのにも、他意なくわたしの真率な善なる意志からであった。それにもまして、全能なる神が陛下にあらわしたまうた好意の証をわたしは得ることができた。彼はわたしに父上に献呈された書冊にかかわる謝意を述べられ、陛下に対するわたしの親愛を信じる、と語られた。また大使から耳にした、この世の学識者たちに対するわたしの尊敬の念について、陛下に対する熱烈な思いについても。また『モナド』の書を賞賛されたが、陛下にとっては難解すぎる、と言われた。そして、きっと「それの有用性についてQuod esset pro sua utilitate」わたしがなにか助言できるであろうとスペイン大使が言った、と付言された。

そこでわたしはこの部屋に他に誰かいるかどうか振り返ってみたが、われわれ二人だけであるのを見て、わたしは返答した。」[7]

 

ここではその時、ディーが皇帝に伝えた天使のメッセージについて論じたい訳ではないので、ディーは好意のしるしを見落とし、この接見が「長時間におよび」、対話の終わりでは皇帝の方がもはや耐えらぬというように「またの機会に、その折にはきっとよりよく理解できるようになるだろう」と言われた、ということを述べておけば十分だろう[8]

占星術師ウィリアム・リリー(1602-1681)が1667年頃に自伝[9]に録している不確かな情報によれば、ディーとケリーが「帝国の境界、英国の商人たちが数多く住む町にいた時、『聖刻モナド』の著作真正性について逸名修道士が難癖をつけたという。ディーがケリーと1588年に別れることとなったという周知ではあるが信憑性が保証されていない状況記録[10]は、史実とは一致しない。ディーの死後二世代にわたり好奇の的となったディーとケリーの記憶の奇妙で魅惑的な記述として、それをここに引いておこう。

 

「...彼(ディー)は変成術(キミストリー)に造詣深く、これに熟達していたが、彼の召使あるいは同輩ケリーが彼をエリクシールあるいは賢者の石へと逸脱させた。これについてはケリーもディーも自らの才知によって得ることができなかった。ケリーがこれを得たのは以下のような次第による。これはわたしがある老官吏から聞いたところであり、彼はまたそれをケリーとディーが当時居住していたドイツの町の英国人老商人から聞いたものであるという。

ディーとケリーは皇帝領の境にある、英国人商人たちが多く住む町で彼らと親しく暮らしていた。ある時、老修道士がディー博士の住居の扉を敲いた。ディーが下階を窺ううち、ケリーは老人にわたしが不在であると告げた。ケリーがそう言うと、この修道士は、彼に会うためまた来ます、と言った。その数日後に彼は再訪したが、ディーはケリーに、もしも同じ人物だったらあらためて拒むように、と言った。彼がそうすると、老修道士はたいへん怒り、あなたの主人に伝えたまえ、わたしは彼のためを思ってきたのだと、彼は偉大な学者であり高名であるが、いま彼が公にし皇帝に献呈された『聖刻モナド』には彼の不見識無理解が認められる。わたし自身そこに書いたところ、そして他のより深いことがらの幾つかについて、彼に教授しに来たのである。貴君ケリーがわたしとともに来るなら、師ディーより以上に貴君を有名にしてあげよう、と。ケリーはこの修道士にたいへん共鳴して、突然ディーのもとを去った。そして完全にこの修道士に就き、すでに準備済みのエリクシールをもその完璧な調整法をも得て、自ら実修した。憐れな修道士はそれから僅かばかり生きることができただけだった。それが自然死であったのか、ケリーによって毒を盛られたのか分からない、と商人はこれを語ったが、今となっては委細不明である。」[11]

 



[1] L.c., f.e.j.r-v.

[2] Cf. M. Casaubon, A True & Faithful Relation …, London, 1659, p.212.

[3] “Ambiverunt me (Juvenem) Illustrissimi Imperatores duo: Victoriosissimus ille Carolus Quintus, & ejusdem Frater Ferdinandus, vestrae Caesareae Majestatis Magnificentissimus Avus. Hic, Posonii, Hungariae, ille vero, Bruxellae, Brabantiae. Hic, An. 1563. Ille autem, Anno 1549. Ast clementissimum Imperatorem Maximilianum, Caesareae vestras Majestatis Patrem (Immortali gloria dignum) jam tum Hungariae coronatum Regem, (invitissimo quidem ipso Tyranno Turcico) eodem in Posonio, eodemque, Anno 63. in deliciis habere cospi: illiusque rarissimas virtutes, cum fideliter colere, tum posteritati easdem reddere commendatissimas, opere quidam conabar Hieroglyphico. Quo etiam in labore exantlando, animus mihi praesagiebat [in marg: Libelli Monadis Hieroglyphicae Theoremate 20. jam ante 20. annos editi], Austriacae familiae; alium fore aliquando aliquem, in quo maxima mea spes, & publico Christianorum statui, Res, confirmaretur, (vel confirmari poterit,) Optima, Maximaque, Vestras igitur Caesareae Majestati, Imperatorum Romanorum (ex Austriacorum Principum nobilissima familia) mea aetate florentium, QUARTO: Adsum, & ego, Triplicis Alphabeti, litera Quarta.”

[4] Casaubon, A True & Faithful Relation…, p.218.

[5] Ibid., “Vestrae sacrae Caesareae Majestati, soli, si haec aliquandiu constare patiemini (neminique detegere velitis) rem facietis valde necessariam.”

[6] “Don Wilhelmo de St. Clemente.”

[7] Ibid., pp.230-31.

[8] Ibid., p.231. 二週間とすこしの後、天使ウリエルがケリーに語った伝言(p.243)により、ディーは皇帝に手紙を書いた。その中で彼は、賢者の石をつくることができ、また皇帝の手元に遅滞なく秘密を伝える準備をしている、と書いている。

“… In Dei Nomine, & ad ejus laudem, honorem, & gloriam: & ut vestrae serenissimae Caesareae Majestatis satisfaciam desiderio Heroico, De lapide illo Benedicto: (Philosophorum vocato lapide) in infallibilitor videndo, possidendo & utendo: Assero vestrae sacra Majestati, lapidem eundem me (auxilio favoreque Divino) conficere posse … Hiis literis ore & corde polliceor, sancteque coram Deo Omnipotenti voveo: Opus illud philosophicum, Omnibus suis numeris pefrectum, in manus vestras Caesareas, (& sine sumptibus vestris ad illud opus perficiendum requirendis) ac brevissimo, quo fieri poterit, tempore (Nutu Dei) me daturum.” Ibid., p.246.

この手紙は1584106日にルドルフ二世に届けられた(ibid., p.255)。ディーの意向が受け入れられたかどうかは不詳。

[9] MS Ashm. 421, ff.178v-222v, 224. この文書はエリアス・アシュモレーに宛てられており、William Lilly, His History of his Life and Times, London. 1715に不正確に印行されている。

[10] Charlotte Fell Smith, John Dee (1527-1608), London, 1909, pp.190-200.

[11] MS Ashm. 421, ff.220v-221. リリーがものがたるところを、165221日にエリアス・アシュモレーがスワローフィールドのウィリアム・バックハウスから聞いたというこれに類似したものがたり(MS. Ashm. 1790, ff.60-61)と較べてみなければならない。バックハウスのものがたるところにも、修道士がケリーにエリクシールを提供したとあるが、『聖刻モナド』の著者に関わる告発はない。20年ほど後、アシュモレーはこのものがたりについて、彼が入手できたディーの手稿群により「完全に論駁される」と記している。

ジョン・ディーの『聖刻モナド』について 3


 

III. ディーの文書およびモナドの後代への伝播

 

エリアス・アシュモレーの『英国化学の劇場』(London 1652p.334には14行の詩節「ジョン・ディー博士の証言(遺言)」として内容目録を載せている。その表題は「至高なる哲学者ヨハンニス・ディーからヨハンネス・グゥインへ1568年に遺贈」とある。ディーのこの詩編は『モナド』に触れるとともに、その錬金術的含蓄を覆いのかかったことばで要約している。これがジョン・グゥイン[1]1568年に送られた、錬金術を主題とした三本の手紙のうちの第三のものである、と特定することはできていない。

 

「これはいとも高貴な徳(力能)について貴殿の要請に応え、

わたしが書こうと思った第三にして最後の手紙。

貴殿の嘆願書およびわたしがそこに読み込もうと努めた

諸方法に留保し、貴殿がそれから逸れないように。

それを三部に分かつ。それらは自然本性によって一となるだろう。

これのみによってそれは射貫く(真相を穿つ)に十分である。

そこで砕かれた(poudred?)太陽(太陽の囲みpounded?)を

時の長さをもって二つに切り分け、あらためて傷を癒す。

また同じ太陽を同じ種類のおなじ基礎(ground)の

新しい小刀で二度以上傷つける(二つ以上に分ける?)。

われわれのモナドは自然法則に準じてこのように用いられる。

成熟と未熟とに応じて、つまり結び解くように。

それゆえ、われわれの唯一の導き手である神に感謝したまえ。

全てはこれで十分であり、この潮(干満)には他に何をも要しない。」

 

アシュモレーはこの詩編を「ディー博士自筆草稿から」写した、と『英国化学の劇場』に自ら挿入した紙片に注している[2]

これと同じ年、1568年、ディーはロンドンで刊行された『プロパイデグマタ・アフォリスティカ』第二版で、『聖刻モナド』に注意を向けている。

H. ビリングスレーの翻訳『メガラの最古の自然学者エウクリデスの幾何学原論』に付された「ジョン・ディーによる数学的序論」(157029日記、とされている)のはじめの大きな頭文字Dには、ディーの家紋(後足で立ちあがる獅子)が上のデルタと下のモナドの象徴の間に付されている。
 

この有名な序文に、われわれはモナドという語に関するディーの定義を見出すことができる。そこで彼はこの語の新しい訳語として「単元(ユニット)」[3]を挙げる。

 

「語彙注。Unit、ギリシャ語のモナドMonasを表現するものであって、これまでわれわれが慣用してきたUnitieを指してはいない。」[4]

 

この文書には数および量にかかわる数学的知見を規定した欄外註が添えられている。数とは「Units(諸単元)の算術的総和のこと」である。

 

「また、Unitは数学的にその性質の類同性の分与により不可分のもの。一つと算えられるものは何でも、道理をもって一(あるもの)と呼ばれ得る。われわれはUnitを算術的なものとみなすのであって、それは数ではない。これが不可分であるのはこれが質料素材であるから。基本的に数とは数学的なものからなっている。」[5]

 



[1] John Gwyn, (Gwynn, Gwynne, Wynn)(1574)

[2] MS Ashm. 972, p.334.

[3] これは英語におけるunitという語彙の初出箇所でもある。Cfr. A New English Dictionary, vol.X, part i, ed. W. A. Craigie, Oxford, 1926, p.237.

[4] f.2 preface

[5] Cf. Theonis Smyrnaei Philosophi Platonici Expositio Rerum Mathematicarum ad Legendum Platonem utilium, ed. E. Hiller, Leipzig, 1878, p.18, l.3 – p.21, l.19 ; Procli Diadochi in primum Euclidis Elementorum Librum Commentarii, ed. G. Friedlein, Leipzig, 1873, p.92, l.26 – p.93, l.7. *→Francesco Barocci ?

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