ヘルモゲネスを探して

錬金術書を読む Si hoc est quomodo est, si non est quomodo non est [Avicennae ad Hasen Regem Epistula de Re Recta, c.1]

プラトン『エピノミス(法律後書)』4


『ピカトリクス』の根を訊ねてプラトンに説かれる星辰信仰に到る

 

〔恒星〕

 [987 B 6 – C 3] ここで第八の神について語っておかねばならない。つまり天空(コスモス)と名指されるであろうものについて。これは諸他のすべての惑星に対して逆向きの行路をもち、こうしたことがらをあまり知らない人々にとっては、それらを導くもののように見える。しかしわれわれのようにそれを適切に知る者は、それについてこう言うべきである。神的思惟の小さくも正しい部分に参与(分有)する者として、その叡知(ソフィア)を明らかとなすために。[1]

 

〔火星、木星、土星〕

[987 C 3 – D 2] あと、よりゆっくりとうごく三つの惑星が残されている。ある者たちからクロノスと呼ばれている惑星、遅速においてこれにつづくゼウス。そしてこれにつづくアレスはすべての中で最も赤い色をしている。誰かこれらのいずれかを指し示すなら、観察に困難なものはない(容易に目に見える)。いずれにせよ、先述した通り、これらを識別できたなら、上述したように道理づけしなければならない。」[2]

 

〔ギリシャ人讃〕

[987 D 3-9] ギリシャ人なら誰でもこれについて十分勘案してみなければならない。われわれは美徳(アレテーン)に卓れたギリシャという土地に住んでいる。そして夏と冬の気候(風土)の間に認められる事実を評価する必要がある。われわれの夏の気候(風土)がそれらの土地(エジプトやシリア)のもの(夏)に劣るにしても。つまりわれわれにはこれらの神々の序列(秩序)の発見がより後になったにしても。[3]

[987 D 9 – 988 B 2] ギリシャ人たちは異邦人たちから学んだことを、より美しいものとなした。ここでの主題群についても同じことだった、あるいはこうしたことがらのすべてを発見することはたいへん難儀なことであったにせよ、異邦人たちに由来する伝統や崇拝よりも、ギリシャ人たちはその教育(パイデイア)とデルフォイの神託および諸法律によって定められた諸崇拝をもって、これをより美しくより義しく整えることとなるであろう。死すべき定めの者が神的なことがらに専心するようなことがあってはならぬにせよ、逆に神性は無分別(不条理、アフロン)ではなく、人性(人の自然本性)を無視することなく、神性はそれを知り、教えるものであり、人は神性が教えるところを追い、学ぶものゆえ、ギリシャ人なら誰も怖れることはない。[4]

 



[1] (諸恒星は諸惑星とは逆方向にうごく。あるいは西から東へ。原文は、これらが東から西へうごくと言う『ティマイオス』(36 C 4 – D 5)とは矛盾しているようにみえる。いずれにせよ、この矛盾はただ見かけのものである。『エピノミス』では、この仮説を主張するものは天文学の知識に乏しい者であるとされているから。この問題に関するより深い考察については、プロクロスStatus Qaestionis, 1.4. Proclo, pp. 19-29参照)


『いとも高貴なる神の賜』7


 

[13v]
(図)https://it.pinterest.com/pin/433612270358813820/

烏頭

透明な黒化

 

上なる自然本性は暗い霧であり、

諸霊であり、川である。水の上なるこの土は

別のうつわの中に下り、

うつわの底に三匹の蛆が生まれる。

 

[14r] 質料が徐々に濃密化して土と化すのが認められると、まずこの濃密なものは水の上に浮かび、これがあちこち移動しつつより濃密になり、徐々に水の中に土として沈み、うつわの底に溜まる。この土は黄、黒の滓(糞)で、これが腐敗による壊敗物と呼ばれる。

賢者たちが用いる窯炉の火にこれを近づけ、すべての質料を水の中に溶かす(液体化する)。つづいて弱火を持続し、その大部分が黒土と化すまで加熱をつづける。これは21日間つづけられる。

親愛なる息子よ、この知識は自然本性の最大の秘密に他ならず、大いなる業のすべては唯一のものからなっていることを知りたまえ。こうした賢者たちの言辞およびわれわれが苦労と才知をもって実見し、触れ得たところを明らかにしてみよう。この唯一のものとは白化する完全なものとして知られ、これは諸体躯が真に変成するうち完全をなすものあるいは完全な調整物の中以外には見出すことができない。

[14v] これはすべてを壊敗し、完全に黒化する。そのすべての諸相においてあなたは熱心に作業に努め、水の上に黒色の染めがあらわれ出るまで加熱をつづけたまえ。水の上に黒さが浮き上がるのが認められたなら、すべては黒化されたと知られる。つづいて闇黒の霧が孕まれ、生まれ出るまで弱火での加熱をつづける。賢者たちの意図するところは、すでに溶けて黒粉となった体躯(物体)が水の中に入り、すべてが唯一のものと化すことで、ここに水が水を受け入れるように、その自然本性そのものとなること。それゆえすべてが水に変じないなら、いかなる手法をもってしても決して完成には到らない。つまり太陽と月の体躯(物体)が賢者の生銀に溶けないならば。

 

プラトン『エピノミス(法律後書)』3


『ピカトリクス』の根を訊ねてプラトンに説かれる星辰信仰に到る

 

〔金星と水星〕

[986D4-E3] つづいて語るべきことは、それがいくつありどのようなものかということ。わたしは確言しよう。あらためて言うなら、八つの力能があり、この八つのうち三つはすでに語ったので、あと五つが残ってる。[1]

[986E3-9] 第四と第五の軌道運動は太陽とほぼ同じ速さをもっている。つまり一般にそれより遅くも速くもない。先の三つの星辰において、適切な知性をもつものが導きの役割を果たす。これらの力能は太陽の、朝の星辰の、そして第三のもの(後出:ヘルメス)である−これについてはことばをもって示し得ない。それはわれわれには知られておらず、最初にこれを観察したのが異邦人だったからである。[2]

 

〔ギリシャ天文学の淵源〕

[986E9-987A6] 往昔、最初にこうしたことを観察した者たちを助けた諸条件は夏の美しさにあった。これをエジプトやシリアでは適切に享受することとなった。つまりこの時期、彼らの目に見える天(コスモス)の帯域はつねに雲を吹き払われ、雨が降ることもなかったので、彼らは目に見える星辰のすべてを観察できた。これらの土地から、長い時間がかかったにせよ、遠隔の地にまでこれは伝えられた。[3]

[987A6-B1] それゆえこれらのことがらを律(法則)をもって敢て定める必要がある。−実際、そのあるものに神性の誉れを付与し、他には付与しないことは無分別であることは明らかである−それらに名辞がないのは、先述した理由(原因)によるものでなければならない。[4]

実際これは神々の名をとった。朝の星辰(エオスフォロス)は夕べの星辰(ヘスペロス)[5]と同一で、アフロディテと称するのはシリアの名辞によるところである。また太陽の速さと同じ速さで動く者はヘルメス[6]と称される。月と太陽と一緒に右へと動く軌道は(これらとは別に)三つある。[7]

 



[2] アテネの人は、ここで明らかに金星(ヴェヌス)、水星(メルクリウス)の運動について、これらを太陽の運動と関連づけて語っている。そしてそれらを第四、第五の運動と規定している。これらの境位についてはプラトンが他の著作(Timeo, 38 C 7 – E 3; Repubblica, X, 616 E 3 – 617 B 3)で語っているところを想起させる。そこでの諸惑星の序列は、大地、月、太陽、金星、水星、火星、木星、土星、諸恒星。ここで客人(アテネの人)は第四と第五の運動について語っており、彼は大地から算えはじめていると考えざるを得ない。いずれにせよ『エピノミデス』においては、大地は天界の八つの権能(力能、潜在力)のうちに挙げられることは決してない。つまり諸力能として勘案されるのは八つであるが、大地はそこから除外されている。ここで言及されている惑星、つまり金星と水星は、月から算える(この場合なら第三と第四となる)にしても、諸恒星から算える(この場合には第五と第六となる)にしても、第四および第五の位置を占めていない。)

*最初の三つを太陽、月、恒星天とするなら、第四、第五で問題はなく、ここは惑星の序列を述べたものではない、と考えるのが妥当ではないのか。

[5] (esperos: Iliade, XXII, 318; eosforos: Iliade, XXIII, 226),

[6] (Timeo, 38 D 2-3)


『いとも高貴なる神の賜』6


 

[12r](図)https://it.pinterest.com/pin/517069600955993598/

 


















賢者の腐敗

烏頭

 

透明に輝く黒化が

腐敗する諸物体に起こる。

そして黒土と化し、質料が黒化するなら

汝は悦びたまえ。これが実修のはじまりである。

 

[12v] はじめに黒色があらわれるならそれは讃えられるべきものである。われわれの金属を弱火と抱擁させる。卵の滋養がそこに体躯をかたちづくるように。そして染料を抽出する。ただしすべてを一緒に抽出してはならない。毎日少しづつ長時間にわたってそれを抽出する。

わたしは白の黒(*黒の白?)、白の赤、赤の黄である。もちろんわたしは真実[1]を語っており、嘘つきではない。業の物体(体躯)とはであると知りたまえ。これは夜の闇の中を、昼の明るさの中を翼なしに翔ける。その喉にある苦さは彩色を受けとり、その真の体躯は赤く、その背中は純粋な水を受け取る。つまりあなたは神の賜を受け取り、これを無知なる者たちから隠したまえ。それは諸金属の鉱脈に隠されているものであるから。その石は鉱物性、動物性であり、その色は至高なる山に、広い海に輝きを放つ

わたしはこれを数々の図の中に明かした。いずれにせよ最初それが浄化されることを業の鍵を得ると称する。これは黒化なしには起こらない。これはあらゆる体躯(物体)を染めるための染剤であり、

[13r] 人の体躯の中に魂があるように、金属の中に隠されてある。

それゆえ息子よ、あなたが業に携わるにあたり、まず黒色を得るよう努めたまえ。これによりあなたは腐敗を行い、正道を進みたまえ。われわれの大いなる業にとっては忍耐と遅延(遅延に関する忍耐)が欠かせない。幸いなる自然本性よ、汝のはたらきこそ幸いである。汝は黒さである真の腐敗によって不完全を完全となす。はじめに(*春に)[2]新たに異なったものどもを汝の緑(若々しさ)[3]とともに芽吹かせ、さまざまな色をあらわれさせよ。この大いなる業にとって性急さは悪魔の仕業である。

 



[1] Veridico viride(緑?)

[2] Primieramente primavera

[3] Viridita’ virilita’(力能、男らしさ)

プラトン『エピノミス(法律後書)』2


『ピカトリクス』の根を訊ねてプラトンに説かれる星辰信仰に到る

 

〔天の八つの権能〕

[985D4-7] 完全に目に見える神々にとっては、こうした論議を敢てなし、また他の神々のように崇められることもなく、適切に讃えられることもないものたちこそが真の神々である、と言う者も邪悪なものとは映じないのだろううか。今日起こっているのはまさにこれである。[1]

[985D7-986A7] アテネ人:実際われわれが生まれると、太陽と月がわれわれをずっとその視線によって監督しているが、これについてはなにも知らせず、これを明かすこともできない一方、これらは褒めたたえることもなく、それを望むこともないが、考察を加えられ得るような目に見える場所にあるこれらに祝祭および供犠をささげ、それぞれに大小(長短)の尺度をもって時を定め、それぞれの周期を勘案することを邪悪とは言わないだろう。しかし汝ら自身あるいは他の者たちに向けられる視線はこうした状況にあるのではないか。

クリニア:客人よ、どうしてそれが邪悪なことだろう。

アテネ人:とはいえ、クリニアよ、まさにわたしがこの状況に窮しているのだ。

クリニア:どういう意味かな。[2]

 

〔太陽、月、諸恒星〕

[986A8-B3] 天のうちにある諸力能(デュナメイス)にはそれぞれ類似した八つ[3]がある。わたしはこれらについて観照してみたが、たいしたことを考えることができなかった。これを観照することは誰にとっても容易である。そのうちの三つは先述したとおり、太陽、月、諸星辰で、他に五つ[4]がある。[5]

〔諸星辰と人の関係〕

[986B3-C5] これらの力能のすべておよびそれらの中にあるものは、たとえ山車に運ばれているにせよ自ら動いており、われわれのうちには誰かこれらが神々であると考え、またそう考えない者もある。いったい誰が正嫡の息子であり、誰が庶子であるか、われわれにはいずれかを支持する権利すらない。われわれはみな兄弟であり、みな類同な宿命をもつものであると言う他にない。それゆえわれわれはこれらのすべてに同じ誉を授けなければならない。−いずれかにある年を、他のものにある月を捧げてはならないし、いずれかにある宿命を名指してもならず、その軌道を巡るところにある特定の時(点)を定めることもせずに−すべての中でもっとも神的なロゴスの秩序(序列)と協働しこれを補完するために、それ(ロゴス)はそれが目に見えるようにしたのだった。[6]

[986C5-D4] こうした観点に、幸いなる観察者はまず驚嘆する。そして人の自然本性にとって可能なことのすべてを理解したいという思いに駆られ、これによってよりよい生を送ることができると思い込み、死ぬ時には力能(徳)に捧げられた場所に赴くものと考え、完全に諸玄義に耽りはじめることとなる。一なる叡知(フロネーセオス)に参与する(を分有する)彼自身が一であり、そこで彼は残りの時を目で見ることのできるもっとも美しい現実の傍観者として過ごすことになる。[7]

 




[3] Cfr. Timeo (38 C-E) e nella Repubblica (X, 616 B – 617 A)

[4] 五惑星 (986 E 3-9; 987 B 1-6)


『ピカトリクス』のアドセンティンの方へ


 

Cfr. Moshe Idel, Magic Temples and Cities in the Middle Ages and Renaissance,

https://archive.org/stream/MosheIdelKabbalahInItaly/Moshe-Idel-Kabbalah-in-Italy#page/n349/mode/2up pp.344-349

 

Yohanan Alemanno, Sha’ar ha-Hesheq 『雅歌註解』

おそらくAbu al-Hasan ‘Ali al-Mas’udi, Muruj al-Dhahab『黄金の草地』(10世紀)によるものを典拠とした記述。これを14世紀のカスティリアのR. Shmuel ibn Zarzaは次のように註解しているという。

 

「古の驚異の事物についての書に、上位世界の形象に対する彼らの大いなる待望と地上からするその驚異について録されている。それによれば、ノアの子ヤフェトJafetは驚くべき神殿を東の果ての中国との境界に建立したという。その建物について、そこには七つの窓があり、それぞれの窓には七つの惑星の姿をかたどった立像が据えられた。一々の彫像は惑星に関係した石で、それぞれに相当する色で造られていた。黄金色は太陽、白は月、黒は土星、赤は火星、緑は木星、青は金星、そして水星にはさまざまな色が組み合わせられていた。彼(ヤフェト)はこの神殿をさまざまな形をもって設計し、そこから賢者ならだれでも上位なる諸形相の自然本性を理解することができた。いかに下位なる諸物体(体躯)は上位なるものに依拠しており、いかに上位なる諸物体(体躯)の運動、影響、閃光等々から(下位なるものたちがその)存在へともたらされるかについて。またわたしはあるギリシャ人が語るのを聞いた。彼は世界のはじめからおわりまで旅した文盲の男であったが、彼はその中国の神殿にも似たところを訪れたことがあると言った。われわれは賢者が語ったこととその暗示が確かなことであるか確かめるために彼に問うた。なにせそれらの驚異を知性の光に照らして見ることのない多くの者たちは、それが虚しいつくりごとだとみなしてきたから。」

 

アレマンノ(14章)はソロモンの神殿について想像的な対話を記した後、つづけて夢の対話者は言う。

「しかしあなたはこう言う。「賢者たちの目に隠されてきたことがらについてあなたはこの夢を弄んでおられるようだが、賢者たちはそれを知らずまたあなたが語ることの意味も分からないのではないか。彼らは「知性的な思索および突然来る洞察による合一において、叡知を到来させたまえ」と言っているのに。彼らは魔術的な作用、建物、うつわ、祈禱、虚しいことども、あるいは夢を介してそれを望んでいるのではない。これらは賢者たち、知性と理拠の人の目には根拠のないことであるから」。

 

これにアレマンノは答えて言う。

「しかしここでわれわれが語りあっているのは、実際に存在したものを知っていた古人たちの言葉であり、彼らが語ったのはそれら相互にどのようなつながりがあるか、上位なる諸物(天体)の影響を受け取るうつわの準備をどのようにするかということです。彼らにとってこれは大地をいかに耕すのかということ同様、彼らの叡知と体験からして明らかなことでした。植物を植え種を播く土壌の準備ができたなら、彼らはそこに降り注ぐ奇瑞を受け取ることに違いないと。これが農耕、耕作、植林、接木の手法を知らないものにとっては奇妙に見えるかもしれないように、神の光と神の善と慈悲がわれわれの中に力を生じさせ、セフィロトを受け取らせまた発するものであることを知らないなら奇妙に見えるようなものである。あなたが諸形相の師たちの諸規定を、副次的自然本性を、自然本性的な諸考案について学ぶなら、あなたの霊もわたしが語ったことに混乱することはないだろう。それは聖なることであるから」。

 

マイモニデス『迷える者への導き』XXIX; cfr. Howard Kreisel, Veridical Dreams and Prophecy in the Philosophy of Gersonides, Da’at 22 (1989), p.80 Hebrew

「彼らは神殿群を建て、そこにさまざまな彫像を据えた。そして諸惑星の力をこれらの彫像に向けて注がせ、これによって彫像群は語り、理解し、民に預言的な啓示を与え−つまり彫像群が−民に有益なことがらを教えた。また彼らは樹木についても語っている。それらはさまざまな惑星に宛てられ、ある特別な樹木がある惑星に指定され、これに向けて植えられ、これに特別な処置が施されると、惑星の霊はこの樹木に注ぎ、民に預言的啓示を与え、彼らが眠っているうちに語りかけるのだった。」

 

Book of Josiphon 十世紀の南イタリアのユダヤ史にかかわる書 1544 Venetii版で公刊された。Cfr. David Flusser, Introduction to Josippon, The Original Versionm Ms. Jerusalem 8.43280 and Supplements, Merkaz Dinur, Jerusalem, 1978

「マケドニアのアレクサンドロスは、大洪水の前に統治したエノスEnosの息子ケイナンKeinanという古の王の墓がある島を見つけた、と報じられている。この王は賢者で、さまざまな知識をもち、諸霊、ダイモーン、邪悪な霊たちを支配し、この島に大きな町をつくった。町には城壁をめぐらし、その中に大理石の大宮殿を造営した。彼はそこに大量の貴石や宝石、金銀の宝を納めた。そして彼の墓の上に彼を記念する塔をも建てた。これは七惑星の知識を基として魔術の業をもって建てられたので、その城壁に近づく者はたちまち死に、誰もこの町に入ることはできなかった。」

Keinanの町はJosiphonを典拠としたThe Book of Yasharに出る。またIsaac Abravanel, Commentary on Genesis,(Warsaw 1862, f.27a)にもJosiphonからの引用がある。

 

『いとも高貴なる神の賜』5


 

(図)https://it.pinterest.com/pin/523754631649466386/

 



















四元素から

この石を複合する。

 

ここに完全に・・・・・・・・・・永劫水をつくり

諸体躯を・・・・・・・・・・・・涙のような

われわれの生銀の・・・・・・・・白い(透明な)涙を

うちに溶かす。・・・・・・・・・・固着する。

 

[11r] 白あるいは赤の薬(媒介剤)の三分量を混合し、生きたメルクリウスつまりわれわれの水のうちに溶けるまで加熱する。この水が転じ乾くことで、賢者の窯炉のうつわの中のわれわれの石は完成する。この薬(媒介剤)が白化するとこれの発酵が起こる発酵素が必要となる。

そこで発酵素一分量と赤薬(媒介剤)三分量をとり、生きたメルクリウス三分量と混ぜ賢者の卵の中に入れ、窯炉に入れて赤エリクシールを完成させる。また白発酵素を一分量の白薬(媒介剤)と三分量の生きたメルクリウスと合わせ、卵の中、窯炉の中で白エリクシールを完成させることにより、四元素の諸自然本性を転じることであなたの求めるものが見出されるだろう。自然本性の転化とはわれわれの大いなる業において体躯を霊となすことである。まず粗大なものを微細にし、体躯(固体物)を水(液体)にし、ここに乾を湿とし、つづいて水を体躯(物体)とし、ここに物体を非物体となし、非物体を物体とする。つまり下なるものを上なるものとする

[11v] またその逆をなす。溶かされた諸体躯(物体)は霊の自然本性に還され、水が水と混ざるようにもはや互いに分離することはない。すべての業と規範にとっては、その中に必要とされるもののすべてをもつ永劫水だけが必要となる。

それゆえこの水をそのさまざまなはたらきとともに、白によって白化し、赤によって赤化すべく監督調節する。これには魂が、大鍋、灰、その中の四元素が含まれており、その他には自然本性(自然界)に探し求めるべき他の諸元素ははにもない。

 

プラトン『エピノミス(法律後書)』1


『ピカトリクス』の根を訊ねてプラトンに説かれる星辰信仰に到る

 

〔アイテールと気の生きもの〕

[984E3] これら二つの生きもの、つまりアイテールのそれと気のそれはそれぞれ総体としてあり、感得不能で−実際、それが近くにあるにしてもわれわれには見えない−信じ難い叡知を分有(に参与)している。これらは容易に習得する種の一部をなし、よい記憶をもっているので、われわれの思惟のすべてを知っているとも言えよう。そしてわれわれの間にあって、善なる者たちに強く結びつき、たいへんな善であって、痛みを分有する(に参与する)邪悪を憎む。一方、神は神的宿命(摂理)の完成(完徳)をもち、これらのものあるいは痛みと歓びを超えており、十全なる思惟と知解を得ている。[1]

[985B3] 天には生きものが満ちている。その中にあってこれら(ダイモーンたち)は相互にまた上位なる神々および他のすべての存在の仲介媒介をなす。これらは生きものたちの間にあるので、巧みに跳躍して地から天のうちへと移ることができる。[2]

〔水〕

[985B4-C1] 第五種として水の生きもの(水棲のもの)がある。これを正しくあらわそうと思うなら、半神として表現しなければならない。これは時に目に見えるが、時に隠されて目に見えない。これがそれらの曖昧なあらわれの驚くべき原因(動機)である。[3]

〔三種の中間媒介のあらわれ〕

[985C1-5] これら五種の生きものは完全に存し、われわれはこれらにさまざまに出会うことになる。あるいは夢においては、眠り(オネイロポリア)の中で、それとも健常なるものも病んだものもあるが、いわゆる預言のものがたり、あるいは臨終の者の語りとして。[4]

 




[3] 生きものの第五類として、これら水からかたちづくられたものが半神的自然本性をあらわしたものであることについて、われわれは過たないようにしよう。その由来(起源)を記述するにあたって、これらは時に目に見え、時にわれわれの視界から身を隠し消えるものであるので、その暗い姿にわれわれは驚く他ない。→『ピカトリクス』II.5 [5]

[4] じつのところ生きものには、われわれとの接触のあり方、あるいは眠りの中の夢(オネイロポリア)あるいは預言や予見の在りよう−つまり健常なる者がものがたるところ、病んだ者それとも臨終の者がかたるところ−によって五類がある。

オネイロポリアという語はプラトンの著作に三度あらわれる。(Repubblica, VII, 534 C 6; Timeo, 52 B 3; Leggi, X, 904 D 3).

『いとも高貴なる神の賜』4


 

(図)https://it.pinterest.com/pin/419397784040095586/

 



















諸元素の四つの自然本性を探しに行こう。

それらを蟻たちが(Formicole、それらの小さな形相を)土の胎から引き出す。

 

賢者たちが・・・・・・・・・・・・・・・・・・溶解により

ここからはじめる・・・・・・・・・・・・・・われわれのものは

銀。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生きる。

 

われわれの

[9v] 石は痛みを感じることのない体躯。打っても響かず、苛まれ(殺され)、蘇り生きる。われわれの石の中には唯一のものだけを据え、決して逆性のものが入らぬように注意する。

下僕を香りのよいそのと結び合わせることで、それらの間から業は生起する。白い女が赤い夫と結婚し、お互いに抱擁し、抱擁したまま合一するように。それらは自ら溶け、自ずから腐敗する。そしてこれら二つの体躯が一つだけになる。

完全な色は三つだけであり、その他(の色)はこれらからその端緒(原理)をとる。第一は黒、第二は白、第三は赤。その他にも色があるが、それらは白化の前にすべて消える(解ける)ので、気にかけることはない。そこで二つの体躯の結合がなされ、われわれの大いなる業にとってはこれが欠かせない。これらの一方だけしかわれわれの石の中にないなら、一切染色は与えられず、それゆえこれら二つの結合が欠かせない。これら二つが結合し、石の結合の中に受け取られると、石は風の胎の中に孕まれる(で含浸する)。これについて賢者は言う。

[10r] 風はそれをその胎の中に運ぶ」。明確なのはこの風が気であり、気は生命であり、生命は魂つまり油と水であること。世界の諸円環の上に挙げられたわたしは、唯一の側(面)に四つの顔を見た。その一つは山の中、もう一つは気の中、もう一つは石の中、もう一つは洞窟の中にある。

二つの体躯つまり太陽と月の結合はまず、一緒に溶融し、つづいて精妙に削られ、これが二つの部分に分けられて、その一方に十分に浄化された生銀12を合一させ混合する。また他半の二つの体躯が結合し哲学的[1]に封じられたものを賢者の窯炉に入れて、鶏が卵をすだく位に微弱に調節した火の熱を与える。四十日間慎重に調温をつづける。これらの質料の発酵はこれの一分量を生銀12分量と混ぜて行われ、一分量の月(銀、ルナ)と16分量の生きたメルクリウスをもって赤から白への変化が認められる。これら二つの卵を先のように調温した窯炉に据える

[10v] 発酵物の四分の一部分と三分量の生きたメルクリウスを混合し、これが生きたメルクリウスのうちに溶けるまで加熱する。

 



[1] Filosofici hermeticamente

プラトンの星辰魔術書『律(法則)』とは何の謂いか


 

『ピカトリクス』II.12 [59] に「賢者プラトンは魔術の大著作つまり大と小を著した」とあり、プラトンの魔術書としてよく『法律』という名が引かれるのだが、どうも通常の『法律』とは別物のようにみえる。

Kitab al-Nawamisはおそらく9世紀アラビアの偽書でガレノスの著作に擬されたもの。これは1213世紀にスペインで羅訳された。アラビア語表題はギリシャ語のノモス(法律)の音綴で、プラトンの『法律』を註解したものとされ、これが羅訳時にAneguemis(このブログでは『雌牛の書』としてその第一部を訳出済)と写された。これがオーヴェルニュのグリエルムス(De legibus c.12)ではNeumichあるいはNeumachと書され、プラトンの法律の書とされている。

ここでプラトンの『エピノミデスEpinomide』後半の知識論というか学問論を眺めてみよう。そこには後に魔女の夜宴を指して用いられる「夜の会合」という不可思議な語もあらわれる。

 

『いとも高貴なる神の賜』3


 

(図)参考図:https://it.pinterest.com/pin/375135843952155582/

 





















その父が乙女(童貞)である者・・・・・母は懐胎しない

 

わたしの愛する女よ、来たれ、・・・・・あなたのもとへ赴きましょう

抱擁しよう。そして・・・・・・・・・・息子を迎える準備は

両親に似たところのない・・・・・・・・調っています。その子は

新たな息子を生みたまえ・・・・・・・・この世に比類のない者。

 

王、その頭は赤く、眼は黒く、脚は白い。大いなる業。

彼は山々にある二本の樹木のうちに生まれるだろう。

 

[8v] この質料つまり石は粗雑(濃密)な水である。銀はこの水を凝固する熱あるいは冷である。

なにより動物から生じる石こそもっとも貴重(高貴)なものである、と信じたまえ。われわれの鉱物から生まれる緑の液体のドゥエネク[1]なしには、いかなる石も調整できない。

息子よ、山の高みにあるもの(高く積み重なったもの)を観照したまえ。山を左右にしながら登ると、そこにわれわれの石が見つかる。この山中にはあらゆる色と種があり、石や鉱物がある。この実修に欠かせない石は生命あるもの(魂を賦与されたもの、動物性)[2]である。これは平地にも山にも水の中にもどこにもみつかる。これは貧者も富者ももっている卑しくまた高価なもので、肉と血とともに(をもって)成長する。それを知る者にとってはどれほど貴重なものであることか。その幸いなる緑色からはすべてが生じる。幸いなる自然本性よ、汝のはたらきが讃えられてありますように。汝は不完全を完全となすから。それゆえそれが

[9r] 清められ、純粋、生で、ここちよい土、真率で正しい自然本性より他をとってはならない。さもなければ喜びはないだろう。

 



[1] ぺルネティ『神話−ヘルメス学辞書』Pernety, Dictionnaire mytho-hermetique, p.119緑ドゥエネクDuenechあるいはアンチモニオは同一。錬金術師のある者たちによれば、黒化した質料の名とされ、白化されるべきラートナLatonaと呼ばれる。

[2] animata

ペルネティ『エジプトとギリシャの寓話...』21


ヴルカヌス

 

この神についてはすでに第一書でエジプトの神々のひとりであったことについては語った。ここではギリシャ人たちのヴルカヌスについて見てみることにしよう。ヘシオドスによれば、ヴルカヌスはユーノーの息子だった。

「ヴルカヌスをユーノーは愛の結合によって生んだ。」

Vulcanum peperit Juno conjuncta in amore.

ある著作家は、彼女はこの神を男との接触なしに孕んだ、と言っている。しかしホメロスは、この神がユピテルとユーノーの子であったと首肯している。ただしその醜さのせいで天から放逐され、レムノス島に墜ちた。

 

Me quoque de coelo pede jecit Jupiter olim

Contra illum auxilium misero, ut mihi ferre pararem.

Ast ego cum coelo, Phaeboque cadente ferebar;

In Lemmum ut cecidi vix est vis ulla relicta. [Iliade, I][1]

 

この詩人は別の機会に、ヴルカヌスがオリンポスから追い払われたこととこれが同じ事であったとユーノーに語らせている。

「彼はわたしから生まれた足萎えのヴルカヌス、

わたしが生んだものを海へ投げ入れた。

ネレイデスの娘テティスは彼が海へ投じられると

これを兄弟として養った。」[アポロン讃歌]

Ipse meus natus Claudus Vulcanus ego ipsa

Hunc peperi, manibus capiens et in aequora jeci.

Filia mox cepit Nerei Thetis alma marini,

Germanasque adiit, quibus hunc portavit alendum. [Inno ad Apolo]

 

ヴルカヌスはこの対決を忘れることなく、復讐のために黄金の椅子をつくった。それには座ったものを縛める仕掛けが施されており、ひとたび縛められると決して解くことができないようになっていた。これを母に贈物として与えると、これに座った途端これに捕えられてしまった、とプラトンの『共和国』第二書にある。

また著作家たちのある者はヴルカヌスを火の案出者とし、他の者は根拠もなしにヴルカヌスはプロメテウスであったとまで言っている。ヘロドトスによると、エジプト人たちのもとではこの神は神々の中でもっとも古いもの、ギリシャ人たちによれば敬われることのなかったものということになる。この神は鋳掛屋たちの父とみなされ、彼自身、鋳掛屋だったと考えられてきた。ユピテルの雷霆その他、神々の武具をつくったのも彼だった。また青銅(ブロンズ)製の犬をつくり、これに命を与えてユピテルに贈った。ユピテルはこれをエウロパに与え、エウロパはプロクリスに、そして彼女は花婿のケファロスに与えたが、最後にユピテルがこれを石に変じた。ユピテルはヴルカヌスにパンドラのうつわをつくるように命じ、プロメテウスが天から奪った火の代わりに人々に与えようとした。この足萎えの神はユピテルのためにつくった武具の数々またその他の報償としてミネルヴァを花嫁にくれるようにとユピテルに願った。しかしミネルヴァは彼の要請を受け入れず、彼の愛顧に背きつづけた。

ヴルカヌスには獅子が捧げられたが、これはこの獣の火性に起因している。この神の鋳造作業の伴連れはブロンテス、ステロペス、ピュラクモン。ヘシオドスはこれら三人とも天と地の息子であったと言っているが、他の者たちはネプトゥーヌスとアンフィトリテーの息子たちであるとしている。ヴィルギリウスは彼らについて『アエネアス』第八書v.425で触れている。

アルダロスとブロテオスはヴルカヌスの息子たちで、前者はトレゼネスTrezeneのムーサイたちの神殿大広間をつくった。ブロテオスはその醜さのせいで人々の嘲笑の的となり、これを恥じて生き永らえたくないと火中に身を投じた。

ヴルカヌスはヴェヌス以外にも、アグライアーつまり三美神の一人を二人目の妻としている。この名は光輝、美を意味しており、ヘシオドスによるとユピテルとエウリュノメーの娘であった。

ヴルカヌスは通常、火の神と考えられてきた。古の神話学者たちはこれを自然界(自然本性)の火とみなしていたが、俗人たちは窯炉や厨房の火と見て、この火を誤ってヴルカヌス神とし、自然界の火とみなしていた訳ではなかった。こうした過ちは寓意ものがたりにも貢献したところがあり、詩人たちはこの神についてさまざまに語り、この神崇拝の象徴儀礼にも援用されたのだった。

エジプト人たちのもとでは、ヴルカヌスは神々の中でも最古にして最大の神であった。なぜといって、火は生成(誕生)の能動原理であるから。彼らの崇拝のすべては祭司の秘密の業を暗示して構成されたものであり、火はこの業の実践における唯一の原理であった。メンフィスの壮大なる神殿の名はオーパスOpasで、彼らはこの神を守護神とみなしていた。しかしギリシャ人たちは実修者たちによりも業(オペラ)そのものの美しさに注目し、ヴルカヌスをエジプト人たちほどには重くみなかった。レムノス島から出土する豊富な硫黄に驚嘆し、また硫黄を火の質料(素材)あるいは原理と考え、彼らはヴルカヌスがこの島に居すものと虚構した。一方ローマ人たちはこの神の窯炉をエトナ山の地下に定めた。

ネーレイスたちによってほどこされたヴルカヌスの教育から、この火の自然本性がいかなるものであったか、またこの神の由来について、かなり明快になる。しかし庶民はこうした寓意を真実とみなし、十分に状況を勘案することもなくものがたりに語られるところを文字通りに理解した。一見したところ、一般の火はたしかに水によって養われるとは認めにくい。かえって水は火を覆い消すものであるから。にもかかわらず、水はある意味で火の糧である

エジプト人たちは賢者の火を意図していた。ヘルメスの弟子たちにとって、この火は異なった種(スペキエス)のものである。これについてアルテフィオは詳細に巧みに語っている。「われわれの火は鉱物性の同等(均一)に持続する火であり、これを激しく掻きたてるのでない限り決して沸騰しない。これには硫黄が参与する。そして質料(燃料?)以外には他に何も採らない。この火はすべてを破壊し、溶解し、凝固し、灰化する。これを見出しこれを用いるには技巧(アルティフィチオ)が必要となるが、費えはかからないかほんの僅かである。それにまたこれは湿、蒸気性、消化、変成、浸透、精妙(希薄)、気、暴力的でなく不燃性あるいは燃やさず、縺れ、抑圧的で唯一である。これは生命の水の泉でもあり、王と王女の沐浴の場所を取り囲み閉じている。この湿った火はこれだけで業のすべて、その端緒、展開、完成に十分である。業のすべてはこの火によって行われる。また自然本性の火、自然本性に反する火、まったく燃やすことのない非自然本性の火というものもある。またこれを補足するものとして、熱、乾、湿、冷の火がある」。この著者はまた、燈火の火、灰の火、賢者の水の自然本性的な火という三つを識別している。ここ最後の火が自然本性に反する火であり、業の経過のすべてに必要となるものである。一方、他の二つの火は必ずしも必要ではない。リプレーは『十二の門』でこれらの火を列挙した後、次のように結論している。「汝の硝子のうつわの中に火をともし、これによって元素的な火で有効に燃やしたまえ」。

ライムンドゥス・ルルス、フラメル、グイ・ド・モンタノール、デスパーニェその他すべての哲学者たちは、十分明快ではないにせよおおむね同様の方法を記している。デスパーニェは元素的な火つまりわれわれの厨房の火は自然本性の僭主であり兄弟殺し(フラティチダ)と呼ばれるものであるが、これを逃れるようにと勧告する。他の者たちは、実修者は決して指を火傷せず、指先を炭や煤に染めることもない、と言う。ここから推測するに、彼らの金貨を炭と替える者たちは灰と煙以外のものを期待できず、これ以外の変成をなし得なかったもののようである。こうした鞴吹きたちはヴルカヌスあるいは賢者の火を知らなかった。

ヴルカヌスがすくなくとも業の推移のある時点で欠かせないヘルメス的な火であるとするなら、われわれはなぜこの神が天から追い払われ、ネーレイスたちに育てられたと寓話が語るのか、その理由を知らねばならない。ここまで論じてきた賢者の天、地、海について注意深く読む者なら、これを窺うのはさほど難しいことではないだろう。ヴルカヌスがつくった神々の武器の数々やユピテルの雷霆がどのようなものであったかを見てみるならば。純粋を不純から分離することは、巨人たちに対する神々の勝利によって明白にあらわされている。この自称鋳掛師だけがユピテルの笏杖、ネプトゥーヌスの三叉、マルスの楯を、またハルモニアの首飾りやプロクリスの青銅の犬をつくる職責を負うことができた。この青銅(ブロンズ)の犬は石に変じさせられたが、これはヴルカヌスが第二の業の能動原理であり、彼だけが賢者の青銅を賢者の石になし得るからである。

業のこの段階における質料の固着性は、ヴルカヌスがユーノーに贈った黄金の椅子のつくり話によってあらわされている。休息のためにつくられた椅子が、揮発性蒸気であるユーノーが黄金に固着するあるいは賢者の固着質料と化すこととして休息に疑されたのも自然である。ヴルカヌスの母に対するこの悪戯は彼女が彼を天から追い出し、レムノス島に墜したことに対する意趣返しであった。賢者たちの火性の土は、上述したような蒸気によって揮発し、うつわの上部に滞留した後、底に落ちて海の中にある島のようなものをかたちづくる。この種の島は賢者の土のはたらきで、水性ばかりか土性の諸他の質料のすべてにその力を伝える。ヴルカヌスの息子ブロテオスが墜ちたのもここであった。

この神の伴連れたちの単純な名は、雷光、雷鳴、火を意味するものであり、質料の硫黄性や火性を指し示している。ところでヴルカヌスの第二子アルダロスはムーサイたちの神殿を造営した。これは賢者の火が質料にはたらき、これを蒸気として揮発させ、ふたたび雨のように降らせる。ムーサイたちの神殿を造営したアルダロスの名はαρδω=irrigo(潤す)に由来し、ムーサイたちも水性、揮発性であるから。そしてヴルカヌスが跛であるのは、彼が自らだけでは足りない火を象徴しているから。

 



[1] 呉茂一訳I. 584:「オリュンポスの御主は、まったく抵抗しようといっても、厄介な骨の折れるかたですから。もうそら、いつぞやも、私がしきりに加勢をしようといたしましたら、足をひっとらえて、神々しいお空の閾からほうり出されました。それでまる一日じゅう、空を飛んでいって、太陽がちょうど沈む頃に、レームノス島に落っこちましたが、その時はもうほとほと息も絶えそうでした。」

『いとも高貴なる神の賜』2


 

[6r]

大いなる知識の図解はじまる

 

最初にわれわれの緑獅子、この色の真の質料をとる。これは真のアドロプAdropあるいはアロクAroch、ドゥエノクDuenochである。[Adrop vel Azoth, Etopo, Duenech]

第二と第三は賢者の銀の物体(コルプス)を溶解したものとわれわれのメルクリウスの水。これを唯一の新しい物体(コルプス)になす。

第四は賢者の腐食。これは現下見られない、

[6v] われわれの硫黄である。

第五、われわれのこの水の大部分が黒い腐臭のする土と化したもので、これについては賢者たちがさまざまに語っている。

第六、この黒土がはじめ水の上に浮かんでいたものが徐々にうつわの底に沈む。

第七、この土があらためて水に溶けて油の色となる。これが真の賢者の油である。

第八にが生まれ、そのメルクリウスを食べて自らを殺す。そしてこれが沈むと水は白化する。これがエリクシールである。

第九、水は完全にその黒さを清められ、乳色となる。黒色の中にさまざまな色があらわれる。

第十、うつわの水の上にあった黒い霧がその物体(コルプス)のうちに下り、そこを出る。

第十一、その

[7r] 灰が滑らかな白大理石のようになると、これがエリクシールであり、胎児(?)は灰である。

第十二、この白さが紅玉(ルビー)の透明な赤に変じる。これが赤エリクシールである。

 

すべての実修をあなたがよく理解しようと思うなら、各部を読み継ぎ、驚異をまのあたりに見るといい。わたしはこれらを実見した。もしも自分の目で見ていなければ、これほど正確に記し描くことなどできかなっただろう。わたしはこの実修に属し、必要なことがらのすべてを語らなかった。人にとっては語るべきでないこともあるから。わたしはその完遂までを描画した。このような業はこれまで目に見られたことも描かれたこともなかったし、典拠(権威)を添えられたこともなかった。これは神からあるいはこれを教える師から知らされるのでなければ、知ることは不可能であるから。道は長い。それゆえ忍耐をもってわれわれの大いなる業の遅延を見守らねばならない。

[7v] 卑俗の黄金から飲用金をつくることができると言い張り、これによってあらゆる病を治癒する最良のものであると信じる狂人や盲人がある。また金貨を水の中で煮立て、これが最良の薬であるという医者もある。彼らを敬うにかわりないが、これが飲用金であるといわれることにわたしは反対する。卑俗の黄金もその他の金属も治療のためにはよいものではなく、かえって飲むことは有害である。

調合薬(錠剤)を買って医者に支払いをする方がいい、と言っておく。盥にドゥカート金貨を満たして病人に見せる方がよい。黄金を見ることは彼を快活にするから。しかし真の賢者の黄金とは完全なエリクシールであり、この飲用金は見た目にではなく、実際に(潜在力として)最良の薬であり、人体の余剰を取り去るばかりか諸金属の余剰をも取り去る。これは不完全な金属すべてを真の黄金に転じ、癩病その他を病んだ金属のすべてを清めるとともに、人の体躯のすべてを清めることは確かである。

これが賢者たちすべての意図するところである。しかしこれを卑俗の黄金と考える者は盲人以上に盲目である。

[8r] 卑俗の黄金はその完璧さを他に与えると、自らはかえって不完全になるから。

 

『ピカトリクス』のゆくへ

おお、ありがとうございます。
ツイッターにまで手が出せなくて...今頃知りました。

八坂書房Twitterから

【ご挨拶】2017年小社売上ナンバーワンは『ピカトリクス  中世星辰魔術集成 』でした。 来年も変わらぬご愛顧のほどよろしくお願いいたします。皆様よいお年をお迎え下さい

 https://twitter.com/yasakashobo/status/946287311729209345

ペルネティ『エジプトとギリシャの寓話...』20


マルスとハルモニア

 

ホメロスから他の詩人たちまですべて、戦いの神マルスをユピテルとユーノーの息子としている。ヘシオドスも同様。ラテン詩人たちだけは、ユーノーと関わりなしにミネルヴァをこの世に産んだユピテルに意趣返しをするために、ユーノーはフロラが指し示したある花の咲く野に触れることでマルスを孕んだ、という寓話を広めた。

マルスのものがたりには戦いと姦通の話が満ちている。この神がヴェヌスと姦通を犯したことについてはあらゆる詩人が謳っているところ。女神たちの中でももっとも美しいヴェヌスは、神々の中でもっとも醜い上に工匠でしかなかったヴルカヌスと結婚したことを早々に嫌悪し、その愛をマルスへと向けた。ヴルカヌスはその現場に踏み込み、触れ得ず解き得ぬ紐で二人を縛り、太陽が昇ると彼らを告訴した。

神話学者たちは、マルスがエジプトの十二神のひとりであるという。詩人たちはこの神を熱胆汁(熱い怒り)に満ち、殺人の熱狂に駆られる者として描出している。しかし古人たちにとって、この神は火の力能(徳)の象徴であるとともに、混合によっても劣化しない性質の象徴としてきた。つまり激しい火の攻撃にも抗する能力として。それゆえ賢者のヴェヌスをこのマルスと一緒に寝台に入らせるあるいは火に耐えるうつわに容れて、目に見えない鎖で結びつけるとは、ヴェヌスの章で語ったような気からハルモニアと呼ばれる美しい赤子が生まれることを示している、とミカエル・マイアーは『アルカナ・アルカニッシマ』第三書に記している。それは調和的(ハルモニア的)に構成される、つまり賢者の重さと長さ(尺度)において完璧に構成される。

ヘシオドスは『神統譜』v.932に、ハルモニアがこの姦淫から生まれたことを次のように表現している。

「...マルスは楯(クリュペオ)・・・

… Marti Clypeos atque arma secanti

Alma Venus peperit pallorem, unaque timorem,

Qui dare terga virum armatas jussere phalangas

In bello tristi: quam Cadmus duxit, at inde

Harmoniam peperit Marti Cytherea decorem.

 

ディオドロス・シクロスは、ハルモニアはユピテルとアトラスの娘の一人であるエレクトラとの間にできた娘であるという。

詩人たちはさまざまにハルモニアの美しさを謳っており、古人たちは彼女を守護の神性とみなしてきた。彼女はアゲノールの息子でフェニキアの王カドモスと結婚した。この婚姻を画策したユピテルは結婚式にも参列し、すべての男神女神を招待して花嫁に贈物を贈った。ケレスは小麦を、メルクリウスは竪琴を、パラスは首飾りと衣裳と縦笛を贈った。この首飾りはヴルカヌスがつくった傑作だった。アポロンは結婚式で竪琴を奏でた。この結婚は当初の光輝を保つことができず、さまざまな試練の後、カドモスとハルモニアは龍に変じた。著作家たちの中には、カドモスの仲間たちを貪り食った蛇もまたヴェヌスとマルスの息子であった、という仮説を立てる者もあった。

これらのものがたりは、男神、女神、英雄たちのすべての出自によく呼応しており、このつくり話をつくった著作家たちはこれを史譚としてではなく、寓話として想像し語り伝えたものと思われる。

ハルモニアは業の実修の最初の帰結としての質料であり、カドモスと結婚(結合)する必要がある(カドミアはこのカドモスに由来する名である)。ヘルメス的なすべての神々はこの結婚式に贈物をもって参加している。アポロンはユピテルが巨人たちを打ち負かした勝利を謳った時のように竪琴を奏でた。カドモスとハルモニアはついには一匹のにあるいはバシリスクに変身する。賢者たちが言うように、業の帰結は業そのものを取り込んで、バシリスクに記される力能(徳)をも獲得する。『賢者の薔薇園』はこう記している。「汝が吾の自然本性および吾が妻の自然本性の一部を抽出し、これらを合一させることでわれわれを死なしめるなら、われわれは唯一の体躯のうちに蘇るだろう。そしてもはや死ぬこともなく、驚くべきことどもをなすであろう」。リプレーは賢者のエリクシールについて語りつつ、これがカドモスとハルモニアから、つまり夫と妻から構成されることについては後述するが、彼はこれについて「この業によってすべては天の石に変じる。これの火の力能はたいへん強力で、われわれはこれをわれわれの龍、われわれのバシリスク、たいへん貴重なわれわれのエリクシールと呼ぶ。なぜならバシリスクが一瞥で殺すように、われわれのエリクシールはこれがメルクリウスの上に投じられると、たちまち生のメルクリウスを一瞥で殺す。これは太陽と月の完全な染めによって、すべての物体を染める。われわれの油は第二、第三月(経血)の婚姻をなし、われわれはこれをバシリスクの自然本性に還元する」と言っている。マイアーもまた、「バシリスクは卵から生まれ、毒ある視線を投げ、生きものたちを殺すが、これと同様にわれわれの染めも賢者の卵から生まれ、その力能によってメルクリウスを含むすべての金属と軽々と接触する。そして染めはメルクリウスを愚かにし、殺し、そこから可燃性の硫黄を脱がせる」と言っている。

これについてなにかより厳密なことが言えるだろうか。引用した文書には花婿と花嫁の名、カドモスとハルモニアの名が欠けている。また、ヴルカヌスの地レムノスにはマルスに捧げられた神殿があったことにも留意しておこう。

狼、犬、鶏、ハゲタカはこの戦いの神に捧げられてきた。狼とハゲタカはその貪慾さから、犬と鶏はその警戒心からこれにふさわしいものであると神話学者たちは言う。しかしわれわれが本書第一書でアヌビスマケドニアについて説いた理由を耳にしたら、きっと衝撃を受けたことだろう。つまりこれらの動物は賢者たちの大いなる業の内容(素材)の象徴として捉えられる。わたしは貪慾で飢えた狼である、とバシリウス・ヴァレンティヌスは「第一の鍵」で言っている。わたしはコラシェーネの犬、アルメニアの子犬であるとアヴィセンナは『正道De re recta』で言う。また、わたしは雄鶏であり汝は雌鶏であると『コンシリウムConsilium』で太陽は月に言う。汝はわたしなしには何もできないし、わたしは汝なしには何もできない。わたしは山の高みで叫びつづけるハゲタカである、とはヘルメスが『七章』で言明するところである。

 

『いとも高貴なる神の賜』1


ゲオルゲス・アウラク『高貴なる神の賜』1475

Bibl. Accad. Lincei, Fondo Verginelli-Rota 18

 

[1r] 自然学の業、大いなる知識の真の知解を会得しようと望む者は、この小著を丹念に眺め、何度も読み返すことで、期待を凌駕してその望みをかなえることができるだろう。

古の賢者たちの息子たちよ、わたしがここに声高らかに公にするところに耳傾けたまえ。

人の様態(ありさま)を、秘中の秘を、この世界の宝を、格別あなた方に拓くこととしたい。偽りなく、嘲笑を込めてでもなく、確かな善意からそれを明らかにしよう。わたしの謂うことを聞こうとするあなた方はわたしの教えから大いなる業を獲得することとなろう。もちろんわたしはこの目で見たこと、この手で触れたことを確かな証拠とすることで、労苦と費えばかりで何も得られず、哀れな帰結を迎えたぺてん師たちに追随する多くの者たちよりも慎重にこれをなそう。

練達の者にも未熟な者にも、公然と語ることにしよう。

[1v] この大いなる業についてなにごとかを理解できるように。誰にも冒瀆できないように。古の賢者たちは、古のいとも高貴な業について決して詐くことに同意している訳でも、探求者たちを混乱させようとしている訳でもないのだが、いまだ十分理解していないことをたいへん晦渋に混乱した文体で記したばかりであるから。

わたしは欺きなく、晦渋さもなしに、わたしの実体験をあなた方に提示しよう。賢者たちの感知したことをも適宜込めて、論じるところがより明瞭になるように、より容易に理解されるように。まずもって、これを逸れて実修する者はすべて欺かれており、必要ないことに骨折るばかりである、と言っておこう。

人からは人しか生まれず、獣からは獣しか生まれない。類同なものがそれに類同なものを産することは確かな真実である。自らもたぬものを好みのままに他から得ることはできない。つまり、誰も才能の貧しさに欺かれ、悲惨に戻るために自らの金銭を費やすものではないし、

[2r] まして他人をまで欺き、悲惨に陥らせることはできない。

それゆえ、まず膨大な費用を準備することなくして、この業に着手してはならない、と忠告しておこう。これを発見するのはたいへん困難で、多くの者たちが愚行に走る。しかしその発見には数多のものを要せず、費えも必要ない。なぜといって石は唯一であり、薬(媒介剤)も唯一、うつわも唯一、統御法(手法)も唯一、準備配置(装置)も唯一であるから。この業はまことに真なるものである。たしかに賢者たちは、自ら見て触れたところを別に、色や順序についてさほど相違を表明していない。自然本性を外れて無駄骨を折った者たちは欺かれたまま、他者をも欺くこととなる。

さて、汝らの実修は自然本性のうちにあり、意図するところを手に入れることとなるだろう。われわれの石は動物性、植物性、鉱物性のものであるから。汝の期待するところはつねに自然本性の業(はたらき)の中にあり、ある時にはこれある時にはあれといろいろ試みることのないように。なぜといってわれわれの業は諸物の多様性(多量)を成就するものではないから。

[2v] どのような名でそれが呼ばれるにせよそれはつねに唯一同一である。自然本性はその自然本性をもってでなくては矯正されることはないから。

賢者たちの中には、それはたいへん卑しい(唯一の)ものである、と言った者もある。全(すべて)を創った天と地の創造者に祈願する。あなたがつくられたものは安価なものではない。能動と受容は唯一同一のことであるが、男と女のように種は異なっている。唯一の類のうちにあるとはいえ、それらの間には質料と形相の間にあるのと同様、異なった作業がある。質料は能動を受容し、形相は質料を自らに類同なものとするから。当然ながら女が男を味わう(悦ぶ)ように質料は形相を味わい(悦び)、恥じらいなくその体躯を抱擁しその(*男の)完全に到達する。それゆえ、

[3r] 自然本性の根(*原理)を知ることで、あなたの業をよりよく成し遂げることができる。わたしは名指すことにおいて、われわれの石とは別の質料を表現することはない。いずれその根をあらわす語[1]によってわれわれは公然と同じものを名指すこととなる。こうして真の賢者の石はそれに由来あるいはそれの中にあるもの、その完成のために必要なあらゆるものの名をもって呼ばれる。

われわれの石は四元素からなるものであり、富裕な者も貧しい者もこれをもち、どこにでも見つかり、あらゆるものに似ており、体躯と魂と霊からなり、その最終完成に到るまで自然本性から自然本性へと転じる。

われわれの石は唯一のものからかたちづくられるというのは真実である。大いなる業のすべてはわれわれの水によってなされる。これはあらゆる金属の性液(種子)であり、すべての金属をその内に溶かすことは見られる通り。不完全な心臓(クオレ*中核)は、

[3v] まず水に転じ、この水がわれわれの水と結びつくことで透明な水となり、自らの中にある一々の必要なものを清める。これは高価であるとともに卑しく、これによって、これとともにわれわれの大いなる業は完成へともたらされる。体躯を溶かすのは、無知な者たちが考えるように卑俗な溶液をもってなされるのではなく、これによって体躯は雲の水に変じる。真の賢者の溶解によって、体躯は洗浄され溶かされ、この水により(から)体躯は灰に変じる。このよくある体験は火の量にかかわる秩序(度数)を明かしている。溶解においては火はつねに弱く、昇華においては中火、凝固にあたってはよく調節された火、白化にあたっては持続的な火、赤化においては強火で。しかし無知によってこれを過つなら、何度もその結果と労苦に涙することとなる。

あなたは実修に執心する必要がある。業は才知によって援けられ、才知は

[4r] 業に援けられるものだから。なにより全(すべて)は全(すべて)を完遂させる。そこで哲学者[2]は「諸金属の錬金術の技巧に優れた賢者たちも、まず第一質料への還元がなされなければ変成はできない。それがこれになされたなら確かに変成が起こる。なぜといってこれが原理(端緒)であるから」。業(の技巧)においても自然本性においても、あるものの壊敗は他のものの生成である。業は自然本性を模倣し、あるものを矯正し、また超える。患者の自然本性を医者の技術が援けるように。

それゆえ尊い自然本性を用い、われわれの石とは自然本性を異とする関係のない粉やその他のものを混ぜないように。ここからこれ(石)以外のものが生じることのないよう二。もしも関係のない何かを混ぜるなら、たちまち壊敗し、望みのものはできないだろう。そのためにも一つ注しておこう。加熱する前に諸物が類同となるまで水のうちに還されないなら、業は進捗しない。それゆえわたしはこれを学ぶ者たちに、

[4v] このいとも貴重な秘鑰を伝授しよう。無用な労苦をしなくてもよいように。この玄義は生銀(と硫黄(欠))の加熱による結合に他ならない。うつわが十分密封されて生銀が消失しないようにされているなら生銀は硫黄を燃焼から守り、硫黄は燃やされることも損なわれることもない。ここで生銀こそがわれわれの明るく輝く水である。通常の水の中にあるものは激しい火にも燃やされることなく留まるが、水が消尽するとうつわの中のものはすべて燃やされる。それゆえ賢者たちはうつわが十分密封されるようにと指示している。われわれの祝福された水が蒸散することなく、うつわの中にあるものすべてが燃え尽くすことのないように守るため。これらのものとともに詰められた水は火に燃えるのを妨げる。これらは火に煽られるほど、水はこれらをその内に隠し、火の熱がこれらを傷つけないようにする。水はこれらをその胎内に受け入れ、これらから火の炎を遠ざける。

またすべての探求者が、はじめは弱火で、

[5r] 水と火が親和するまで加熱し、水が固着して、火以外になにも上昇しなくなり、唯一の濃密な体躯に化すのが認められるまで忍耐強く待つように、わたしは指示しておこう。それ(火)によって物体(体躯)を非物体とし、非物体を物体となす

最後に諸金属の自然本性について語っておこう。水とは白化しつづいて赤化するものの。水とは殺し、生かすもの。水とは燃やし、白くするもの。水とは腐敗させ、また新たにさまざまなものを芽吹かせるもの。

息子よ、あなたに忠告しておこう。焼を迅速に進め、成果を得るまで屈託しないようにしたいなら、水にだけ配慮し、それ以外の無駄なことは気にしないように。緩慢に加熱し、色が変わる間は腐敗を進め、完璧な色と化すのを注視する。最初はそのの花を燃やさないように気をつけ、完成を急がないように。

[5v] 内容物が揮発して消散することのないよう、あなたの扉が完全に閉ざされていることを確かめる。神の援けを得て、完成が得られるだろう。

自然本性はそのはたらきを徐々になす。しかしわたしとしてはあなたが自然本性に従ったあなたの想像力によって大地の胎の中に生じる諸物体について観察するのではなく、空想によってではなく真の想像力によって想像するように、と勧めておく。また諸体躯(物体)を焼する熱の強弱に注意し、あなたの実修を通して完璧な知識を見出すように。

水はその作用に応じて用いるように。白は白化し、赤は赤化するものだから。

要するに、完全なエリクシールとなす前に、われわれの石を二つの物体の自然本性からとりださねばならない。エリクシールが黄金や銀よりも清められ消化されるように。その完成(完全さ)が足りないと、これを賢者の黄金と賢者の銀に転じることができないから。それの完全さを他に与えると、これのせいでそれは不完全となるであろうから。

[5v?] 自らの白さによってしか何も白化することはできないし、自らの赤さによってしか赤化することはできないのであって、それの広がり(染め幅)においてでなければ染められないから。これがわれわれの石の直接的なはたらきであり、その染めをその自然本性以上に改善するには、賢者たちの寓意に従ってさらにそれをエリクシールとなす。透明な種(形相)の複合物、調合剤、解毒剤、あらゆる体躯(物体)の薬、真の月化(ルニフィチオ)および真の太陽化(ソリフィチオ)へと清め変じる。

 



[1] 「根が告げることば」

[2] ここはアリストテレスのことだろう。ただしつづく言辞はいわゆるアヴィセンナの『鉱物論』加筆部分とされるところ。

アレクサンドリアのステパノス『黄金製造法』8


 

さて、また別の大いなる論議がある。わたしは数多ことを書ききすだろう。すべてを耐え、また燃やされたこのエテシアン[1]石の色となる。なにものかを結びつけるエテシアン。焼いた後、これを神的な水と呼ばれる神的な湿、溶解油につけて焼き入れする。それは葡萄酒の濃さになり、弱火で湯煎にして四十一[2]日間放置する。その物質(質料)は硫黄水によって玄妙に、神聖に、完全に破壊される。こうしたことどもをなすものこそがこのである。それは四つの力能つまり嗜好、保持、増強、変質をなし、これによってわれわれは処女の硫黄水をつくる。血はすべてを染めるが、そのためにはひとつ道具を要する。つまり胃の傍らにある肝臓の一片。これはこれをもつ体を温めるばかりか、二つの硫黄のどちらをも燃やす。肝臓の中にある黄色い乳(黄胆汁)は植物となる以上に血となる。そしてこの純粋なはたらきは腎臓内で泡を除去し、種子をつくり、再生する。業においてもまた、白と黄の業に準じて僅かばかりの馬の堆肥による綜合(合成)をなす。これが業による泡(浮滓)の除去、再生の種子であり、僅かばかりの時のうちに汝は汝が求める形と色と大きさのものをつくりなすこととなる。これが業である。それは諸元素によるもので、彼らがそれは女と男とから生まれると考えるならば、そこに生まれるものは完璧となされる。

業におけるおよび固着しないままにとどまる霊(精気)の誕生についてより精細に観てみることとしよう。これを誤ると、病患の予兆、女の冷、運動の遅鈍、失敗となる。子宮、好色(?)、処女、男の座androkathistria(男性器?)のいずれも望みはたちまちtaxeionかなえられ、これは悦び、愛、哄笑の催淫(媚薬)的(アフロディシアック)象徴である[3]。溶融した黄金もまた、彼らが言うところによれば「哄笑する」[4]。ここで彼らはエジプト人たちの方法に則ってこれを投影に用いると諸物質(質料)は壊敗し、うまく扱うならエテシアン石そのものがはたらくように、われわれもなすことができる。もしも数多の石とさまざまの石の種(形相)が一つとなり、またそう言われるにしても、疑問に思う必要はない。ムーサイを養い美しいものを育てる者たちが動物やガラスや染料をつくり、さまざまな種(形相)から唯一の石をつくるのを、汝は見たことがないか。特に彼らがをつくり、それが青銅のようになり、彫刻をも欠かさない(?)のを。そしてこの有益な石が数多の石からエテシアン石と呼ばれる唯一の石をつくるのを。このエテシアン石に彫る銘記graphen[5]を準備しなければならない。先に言ったように、焼し、焼き入れし、それを腐敗させ、彼らは単純な硫黄から神的な処女の水をつくる。これがエテシアン石である。これはさまざまな名で呼ばれた。たとえばポルフュリイ(ポルフュライト)[6]。これは紫色の鉱物の中に見つかるもので、錫からなる紫色の物体である。あるいはマケドニアン等々、語られ書かれるいかなる名であれ、神的なものとして寓意的に象徴されるものは皆それである。もしも書き記されたものが何ものかを意味するにしても、それは数多のものを寓意する。これがエテシアン石。ヘルメス[7]によれば数多の色をもつもの。『小さな鑰Kleidon[8]ではあらゆる色のために用いられ、銅とともに配列され、ファノス油[9]によって蘇る。エジプトびいきの者たちまたエジプトの預言者たちに彼の書はよく読まれた。灰に還され焼されたこうした物質には、質料素材を不可燃性となすはたらきがある。

またこうした業におけるエラエオシスelaeosis[10](これはすべてのものに特にはたらく)に関して彼らは、白い複合物を白化した後、さまざまな方法で灰をつくる。まず最初に太陽と朝露[11]、海の塩水[12]あるいは尿[13]あるいは酢塩水[14]をとり、何日も太陽の力で乾燥させ、陶片を多量にすり潰し、また彼らはイオシスiosis[15]を水銀とともに粉砕し、これを乾燥した粉に吸収させる。これにエラエオシスをほどこし、彼らはこれを太陽で熱しつつ器具装置の中で一日含侵させ、これを乾燥してからあらためて粉砕し、湿らせる。これをふたたび乾燥させて、彼らはオクシメルoxymel[16]をくわえ、これを三日間加熱し、彼らが生きている間、彼らは壮健である(?)。これをふたたびすり潰し、葡萄酒あるいは油の濃度にして、たいへん弱い火で四十一日間[17]腐敗させる。これを粉砕して銀−液[18]と硫黄、月桂樹(ローレル)[19]その他すべてを混ぜ、彼らはこれを加熱して、これをよく清めた銅の上輝く硝子とナトロンとミシイ[20]をのせたところに投じる。

 



[1] Aithos etesiosはピュライトのようなものかあるいは酸化銅aes ustum。どちらも赤紫。Pizimenti: “ut quidam coruscans aethesius”.

[2] malista, ma=41, Pizimenti: “pr quadraginta dies”

[3] Pizimenti”Lullus in codicillo 149 in cap. [L: in BCC, I, 897] Quid sit materia lapidis.”を参照と指示している。

[4] Cfr. Diplosis of Eugenios (Berthelot, Coll., ii. 39.9) その処方には「焼いた銅三分量、黄金一分量を溶融し、アルセニコを投入する。これを焼(灰化)するなら脆くなる。これに酢を加えて、六日間にわたり太陽光の下で擂り潰す。これを乾燥させ、溶融銀をkai gelasan...」。この最後の語は「それは哄笑する」とも訳し得る。これは古の書写生の過ちのようにも見えるが、ステパノスの才知を表現したものかもしれない。

[5] Pizimentiはこれをbaphenと読んで「染剤tincturam」と訳している。

[6] Porphyry 錬金術書ではあまり見かけない。

[7] parermos, par erme, Pizimenti”apud Hermes”と訳している。

[8] ヘルメスのこの書『クレイディオン』は現存しない。

[9] Phanos, Pizimentiはラファノと訳している。ラディッシュ油、elaion paphaninonという名辞が本書中にある。

[10] elaioseos. これは錬金術書にしかあらわれない特殊用語。ゾシモスのテオドラヘの手紙(Berthelot, Coll., ii, p.215.1):「エテシアン石について...他の色をあらわす処方の一つはケロタキスkerotakisによるもの、もう一つはエラエオシスによるものがある」。おそらくelaeosisと音綴するほうがPizimentiのようにcreatioと訳すよりもよいだろう。

[11] Cfr. Papyrus Holmiensis; DemokritosBerthelot, Coll., ii, 45,22 ; 155,6,10; Zosimo (ibid., 113, 18).

[12] alme, 塩水はデモクリトスおよびこれに由来する書にしかあらわれない。

[13] ouron

[14] oxalme

[16] Oxymele. 酢と蜂蜜を混ぜたもの。

[17] 前註参照

[18] Argyrozomionとはシトロン。

[19] Daphnon, おそらく三酸化アルセニコ、水銀あるいは白硫黄の偽名。

[20] Misy, ピュライトの自然酸化に由来する鉄と銅の硫化物

ペルネティ『エジプトとギリシャの寓話...』19


パラス

 

ユピテルはまずメティと結婚したが、この女神がサトゥルヌスにある飲み物を与え、これが貪り食った小石と息子たちを吐き出させた。一方、ユピテルはこの最初の妻、オケアノスの娘が孕んでいる時にこれを呑み込んだ。するとたちまちユピテルは男神でありつづけつつも、女になった気分になった。出産したいところだったが、産婆役のヴルカヌスの助けなしには産むことができない。この火の神は荒々しく彼の頭を斧で撃つと、その傷口から美しく若い娘があらわれた。娘は頭から足まで全身武装していた。こうしてパラスユピテルの頭から母親なしに生まれたのだった。ホメロスはパラスをアラルコメニアAlalcomeniaと呼ぶ。それはアラルコメニアの民がこの女神が彼らの町で生まれたと主張していたから。ストラボンも同じ考えで、彼の『地誌』第十四書で、ミネルヴァはユピテルの頭から生まれた時、ロードスに黄金の雨が降った、と言っている。

多くの者たちはパラスとミネルヴァは別であると考えているが、カリマコスは逆で、その父ユピテルはすべて彼女の望みを満たしたと付言している。

「パラスが言うことはすべて完全に

かなえられた。ユピテルから生まれた

ミネルヴァが父に代わって何でもなしたように。」

[パラスの沐浴の讃歌]

Annuit his dictis Pallas, quodque annuit illa

Perficitur. Natae Jupiter hoc tribuit

Ipse Minerva uni, quae sunt patris omnia ferre.

ヘロドトスは彼女をネプトゥーヌスの娘と言い、リビア人たちはこれをトリトンの湖の娘とし、後にユピテルに与えられた(ユピテルの子とされた)と言う。しかし一般にはパラスとミネルヴァは同一で、ユピテルの娘とされてきた。彼女が古い女神であったことは、エジプト人たちが彼女を彼らの神々のうちでも最も古い神であるヴルカヌスの妻とみなしていたことからも分かる。ギリシャの神話著作家たちがエジプトから移入されたこの観念を保存したことに間違いはない。なぜと言って、彼らはヴルカヌスとパラスを同じ祭壇に祀っていたから。エジプトのミネルヴァにあたるオッガOggaという名がビザンツのステパノによってエウフォリオンと関連づけられている。またエシュキウスがこれをオンカOnkaと呼んでいるのも同じ理由によるもののようにみえる。ジェラール・ボッシオを信じるなら、彼はテュポンのものがたりを説明しつつ、オグOgはオッガOggaに由来し、ussit, ustulavit(焼く、火傷)の意味であると言っている。

それはさて、エジプトのサイスでは、ケクロプスよりもずっと前から、ミネルヴァがたいへん崇められていた。ケクロプスはギリシャで崇拝されることとなり、これによってものがたりも変じ、ここにアルカディアのアリフィラAlifiraのものがたり、ミネルヴァはこの町に生まれここで育ったという話が嵌入されることとなる。

ギリシャ人たちのもとでは、パラス、ミネルヴァ、アテナは同じ神性であったが、ただミネルヴァだけが諸技芸および知識の女神とみなされ、パラスは戦争の女神とされた。この(?)女神は処女を守りつづけ、この女神がイッポクレネの泉で裸で沐浴しているところを見ようとしたティレシアを盲目にした。ヴルカヌスですら彼女を自分の欲望に引き込むことができなかった。パラスがテッラ(大地)の息子である怪物エギエイデスEgieide(アエギエイス、火男)を殺すと、これは大きな火を吐き、タウロスからリビアまでの森を焼き尽くし、その歩みとともにフェニキアとエジプトを壊滅させた。

サイスにはパラスの堂々たる神殿があった。これについてヘロドトスはその第二書に詳細を伝えている。ギリシャではパラスを祀る祝祭をパナテナイア祭(パナテネエPanatenee、パン・アテナ)と称した。この祭りにあたって催された公式行事には、ヴルカヌスやプロメテウスの祭り同様に、松明をもって駆ける競技があった。その他の競技は後に導入されたものである。

古人たちはみな、パラスを賢慮と慎重さのことであると認めていた。それは彼女がユピテルの頭から生まれたからで、頭は判断の場所であり、賢者たちの業と呼ばれた大いなる業ほど困難ではないにせよ、難解な論議もこれなしにはなし得ないから。つまりそれは秘中の秘であり、神が偏愛する者にだけ明かすもの、これを公にする者は冒瀆者とみなされる。神(ユピテル)を知り、守るためにはパラスの賢慮をもつ必要がある。それゆえソロモンは『集会の書』19(?)にこう記している。「賢者は古人たちの叡知を学び、預言をなす。また慎重に高名なる人々の論議を保存し、寓話の精妙さを洞察する。その隠された意味を暴き、箴言に込められた秘密を明かす。慎重な賢者は知識の秘密を広めることはない」(箴言1012)。

ヘルメス学者たちはソロモンのこの忠告をこころにとめ、彼らの秘密を寓意、謎、寓話、象形文字に覆い包んだ。彼らは自らの導きに女神パラスを選びとり、その教えに従うことに努めた。それゆえ寓話においてはこの女神はつねにヘラクレスとウリッセの勲功に好意を示し、これを助けた。これについてはひきつづき見ることにする。

この女神はティレシアスを盲目にしたとされるが、これは無謀にも沐浴する彼女の裸を覗き見ようとしたからで、ディアーナがアクタイオーンを鹿に変えたのと同じ理由からだった。これはヘルメス的な実修者たちが守るべき節度、慎重さを示唆するものであるとともに、これら二人の無謀さをみて同じような災厄を避けるようにとの戒めである。

ユピテルからのパラスの驚くべき出産を知ったユーノーは憤激して、怒りに震えながら強く大地を踏み打つと、たちまち怪物たちの父テュポンが生まれ出た。またアポロンはこの女神をユピテルの食卓に遣わした。彼女はそこで野生のレタスを食べ、石胎だったものが懐胎してヘベを生んだ。そしてヘベはユピテルの酌係となる。そしてヘベはマルスとヴルカヌスの妹となり、後に英雄ヘラクレスの死後、その妻となった。

 

ピカトリクス淵源

ティンティンス、トゥムトゥム...『ピカトリクス』III. 6 [4]参照

 http://mecollectibles.com/en/books/141-iran-islam-persian-farsi-temtem-e-hendi-talismans-pictorial-book-on-summoning-jinns-demons-dark-angels-best-seller.html

 

アレクサンドリアのステパノス『黄金製造法』7


同ステパノスによる質料世界についての第三講。神のご加護を得て。

 

この(世界は)どのように形成され、十分に清められたそれの神的な部分は上へと翔け、いかにそれがより上の諸水準へと引き上げられるのか(この世界はどのように編成組織され、その中で平面がより平坦とされることでどのように神的諸部分は浄化されるのか)[1]。神秘的変成術の方法はΩ象徴[2]からなっており、そこで要請されることはこの方法によって作用する。金属性の諸物体もまた逆性の自然本性によって変じられ、方法のある水準においてアイテール性となる。種子は銀の土に播かれ、それは黄金となり(に成就され)、神的な業によるなら灰[3]とカドミアと白ポプラの灰からこれがなされる[4]。硫黄性諸物が灰化されると、ふたたび硫黄性のものとなり、この灰から再生のための触れることのできない[5]神的な水[6]がつくられる。多くの者たちとは違い知解に長けた者は、灰−特にさまざまな染色にかかわる大きなはたらきをするもの、白墨、石灰、石膏、またタルタルと呼ばれるもの、アフロセレノン(月の泡)その他燃えて白灰と化す種−は染色によって硝子にも大理石(真珠?)にも治癒と彩色のすばらしい効果を果たす。無知に逃げ込むのでない汝はヘルメスが言うところに耳傾けるがよい。「すべてが灰と化すところを確認できたなら、汝はそれがうまく調整されたことを知る。灰にはすばらしい力能と徳能(潜在力と現勢力)がある」[7]。灰汁とされ不燃となる木は、燃え尽きて灰となる。これが黄金液と混じられるともはや燃えず、大理石、硝子、石、木、皮等々すべて溶融性の物体に対するさまざまな種類の染剤としてはたらく。燃えて灰とされることでそれらは数多の神々しい業をなし、さまざまな色に染め(鉛[8]から、あるいはリサージや砂から灰に還され)、目に見えるところからその自然本性そのものへと還す。それらは活動的な(能作する)物体である一方、別の文脈では活動的な(能作する)力である。彼が言うところの、燃やされ灰化された物質からつくられるこうした物質(もの)は熟達した医師が用いるところである。そのように再生してくるpalingenesian物質(もの)は業においては容易に把握される。特に一般の樹木の灰をそうしたものとともに加熱し、灰と硝子とそれらを一緒に溶かしてみせる者にとっては。それゆえこれらの物体のすべてを燃やして灰にすることについて、不安を抱く必要はない。それらは確かな力能を得て再生し[9]、全宇宙および諸元素そのものの模倣的自然本性(全一および諸元素を模す自然本性)を採る。それらはある種の霊(精気)と合一して蘇り、霊的質料により実在にもたらされる。人のように銅もと霊(精気)をもつ[10]。こうしてこれら溶融した金属物体は、灰と化して、火と結びつき、火がそれらにその霊を授けることでふたたび霊となされる。それらは明らかにそれを気から採り入れることで万物をつくりだす。まさにそれが生命の霊(精気)とをあたえることで人その他の万物をつくりだすように。溶融可能な諸物体もまた、金属性の諸物体が灰に還されることで、たしかにそれらのをうけとり、火の類縁のものとなる。またすべての元素は相互に創造され、破壊され、変成し、復元される。これと同様に、銅も燃やされ、薔薇油[11]に憩い(とともに還元され)、浄化されることを何度も繰り返されると、錆もない黄金よりも善いものとなる。しかしこれは、未染、染色中、既染の三重に捉えられなければならない。染剤によってそれは神的にあるいは治癒の途を通して復元される。染められることにかかわる問いは、燃え殻と灰の染色力が可能態から現勢態[12]へと復元されることとして理解される。再生されるものはいろいろ知られている。彼が言うには、真の業の雨水[13]は燃やされ、火に逃散するが、火を蒙ってこれと交錯して[14]も溶けることはない。エジプト人たちに従うなら、投影物の焼において、彼が用いる薬は染めにおいても溶けることはない。これは批判的な師や指導者としての自然学者も言うところ。誰か彼を傷つけることばを吐く者も(投げつけられたものは投げつける者の力次第の帰結を生じることとなる)、そのようにすることでその人の傷が癒されるもの[15]。しかしそれをもつ者はそれが誰であれ、実際にそれを果たすだろう。灰そのものは永劫に染め、染剤の不滅の原因となる。薬は逃散性であり、それの両親(それに親近したもの)の腹の中で親しい(近接した)火と気に溶ける。

 



[1] Pizimenti: “quae plane planiores ducuntur”. Pereira訳ではピタゴラス主義的平面と物体の立体性の対比として説かれている。

[2] IdlerはこれをΩと解釈している。これはouranos、つまり天のしるしであり、獣帯のしるしとしては天秤宮にあたるCfr. Catalogue des Manuscrits Alchimiques Grecs, VIII, Alchemistica Signa, Zuretti, 1932, signs 1267, 1313, pp.23-4.

[3] Tepra, Spudosはどちらも錬金術書では「灰」の意で用いられているようにみえる。一方、skoriaは主として鉱物性の産物の意。

[4] ゾシモスが引く散逸したヘルメスの著作(Berthelot, Coll., ii, 189)。

[5] Athiktos. ギリシャ錬金術で慣用される語。一般には「不触、処女、触れ得ない、聖なる」といった含意。錬金術書では主として硫黄に付され、「純粋で穢れない」の意。

[6] Hydor theion athiktonは金属染色用の「処女硫黄の水」。

[7] これに類する句節は他の引用例を確認できない。Cfr.ゾシモスCAAG, II, iii, 28, p.194:「灰はマグネシアの物体(コルプス)と呼ばれることはなく、非物体である」。

[8] Idlerkrokou(サフラン)と解しているが、kronon(サトゥルヌス)とも読める。

[9] 灰からの植物生成は1617世紀にはpalingenesis(再生)として論じられる

[10] 諸金属の擬人化(魂を賦与された生きもの)については、「ゾシモスの幻視」およびマリアやヘルメスの句節、特に『クラテスの書』を参照。

[11] 初期錬金術書には認められない語。マリアはナトロン油を類同の目的で用いている。一方、ヒポクラテスは薔薇油に頻繁に言及している。これはおそらくオリーヴ油に薔薇のエッセンスを加えたもので、蒸留薔薇水のことではない。

薔薇油Rodostagmaという名で後代の錬金術書(11世紀以降)語られる。たとえばConstantinus PorphyrogenetesTheophanes Nonnus参照。

[12] Energeinは通常の錬金術的な意味において「力能」としても「現勢」としても用いられている。 アリストテレス哲学におけるdunamis(可能態)との対比として用いられる「現勢態」としての実在という意味もある。

[13] 象徴記号(39を合わせたような)であらわされており不詳だが、hydor uetou(雨水)と解しておく。Pizimentiはトゥツィアtutiaとしている。

[14] 『ピカトリクス』の燻蒸法にある「十字」と関係あるか?

[15] 「誰かそれを損なうにせよ(...)人の場合のようにその損ないは取り去られる」?

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