ヘルモゲネスを探して

錬金術書を読む Si hoc est quomodo est, si non est quomodo non est [Avicennae ad Hasen Regem Epistula de Re Recta, c.1]

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 10


 

古ローマの宗教儀礼のうち厳密にヴェーダの儀礼に照応するもの

 

デュメジルは最古のラテン語にもrexdeusという語が認められ、インド・ヨーロッパ語族には共通の語幹をもつ語が見られるという。rexはケルト語のrix、ヴェーダのraj(an)に照応し、deusはヴェーダのdeva、ガリアのdevo-、アイルランドのdia等々にあたると[1]。つまり王位(威厳)や神性という観念はインド・ヨーロッパ語族の民に共通の遺産であり、たとえ忘却されているとはいえ、この語の用法の変容の基底には同じ観念が横たわっている。

この語族にあって、至高者−神官には共通関係がある。「ヴェーダ[2]raj(an)は族長よりもずっとその権威を拡げたもの。それはアイルランド語のriが社会的区分を超えたさまざまな価値をあらわしている。...riおよびドゥルイド神官のように、raj(an)は祭司階級の代表者、ブラハマーノbrahamanoとして生き、これのために勤めた」。ローマにおけるレクスrexとフラミニウス家の長子フラーメン・ディアリスの関係はri-druidoあるいはraj(an)-brahamanoのような関係であったものが、モナルキアが終わるとともにレクスの宗教的な機能が一人の神官に移され、神官団の序列の頂点を占めるrex sacrorumあるいはrex sacrificulusとなった。

 

人間社会には三つの基本的な役割の調和的な階層秩序の協働が必要となる。

1     至高者(至高性)、聖なるもの、ことば、知的活動のすべてにかかわる。

2     防衛、戦闘力の使用。

3     財の産生。

とはいえその階層秩序には厳密な対称性はない。

 

『ファスティ』[3]にも三様の儀礼が挙げられていた。フォルディチディアFordicidiaの儀礼(妊娠した雌牛vacche fordaeの生贄儀礼)、ヴェスタの火の儀礼、マトラリアMatraliaの儀礼(六月十一日に女神Mater Matutaに捧げられる儀礼)

 

フォルディチディアは四月十五日に女神テルスTellusを祝った祭りで、これは四月十二日から十九日に到るケレスCerereに捧げられた競技ludiの期間内のこと。テルスとケレスは播種祭feriae sementivae(一月後半に祝われた毎年日程の変じる祭)にも関連づけられる。(いずれGeorg Wissovaが証示したところによれば、隣接する祝日が三日を隔てて行われる場合、ここにはそれぞれで祝われる神性の間に関係性が認められ、同じ祭事に属する。)オヴィディウスが言うところによれば、ローマではフォルディチディア祭にあたり、三十頭の雌牛が生贄に捧げられたter denas curia vaccas accipit (F. IV 636)。それぞれのクリアに一頭づつ。儀礼はカピトリーノ丘の上のユピテル神殿arce Iovisで行われた

これは疑いなく大地の豊饒を祈願する生贄奉献で、オヴィディウスが語る儀礼の遠因(アイティオン)によれば、この儀礼を創設したのはヌマで、彼は神パンに深刻な大地の不毛の時期の治癒薬を見つけるための忠告を聞いた。この神はいつものように謎の返答をした。「汝はテッラ(大地)を鎮めねばならない。そのために二頭の雌牛、その一頭が二つのいのちを与えるものを生贄に捧げよ」。ニンフ・エゲリアは神のこの晦渋なことばを、孕んだ二頭の雌牛を生贄にするようにという要請であると正しく解釈してみせた。妊娠した雌の生贄は儀礼においては異常なことである。ヴェーダの儀礼においてこの類の生贄(astapadi: 八脚)が予定されるのは王位の認定儀礼(Dumezil, Op. cit. p. 327.)。孕んだ二頭の雌牛は大地とマルート[4]に捧げられた。この状況では神々の農夫たち(visah)とみなされている。

孕んだ雌牛の生贄奉献は儀礼に困った問題を引き起こした。胚(胎児)はいまだ完全に形成されておらず、不完全であり、生贄にふさわしくないから。

ローマの儀礼においても生贄は慎重に検討され、神々に捧げられる供物として完全であることを認める公認adprobatioを受けねばならなかった。つまり生贄からはあまり幼いもの、不完全なものは排除された。ヴェーダの儀礼においては、この問題は母体だけを生贄に捧げ、胎児は母胎の首から「脂質の汁」をとる生贄執行者によって取り出されるという方便をもって解消された。胎児は聖別のことばなしに、ここでは「神々の農夫」とされるマルートたちに捧げられ、神官が天と地に祈る頌歌の一句「この生贄を摂り、われわれに糧を満たしたまえ」を唱えるうちに、これは炭で被われる。

ローマの儀礼においては、胚(胎児)は生贄の一部となされず、その灰は別に取り分けられ、家畜群を清めるパリリエPalilieにおいて用いられる燻蒸剤suffimenに混ぜられた。ヴェーダの儀礼とローマの儀礼はよく符合しているが、この生贄が捧げられる祭儀は異なっている。そこからしてもローマでの孕んだ雌牛vacche fordaeの生贄が、本来、王の登玉儀礼に用いられたものであったかどうか明言することはできない。いずれにしてもローマでもインドでもこの儀礼には豊饒祈願の意味があった。インド人たちはこの生贄をマルートに捧げ、糧の収穫を願った。ローマ人たちは女神テルスに生贄を捧げ、いまだ胚の状態にある植物のすべてを成熟させてくれるよう祈った。ローマでも生贄は公的な善財にかかわる要請とともに捧げられた。ローマの民においては豊饒祈願はクリアごとつまりロムルスの伝説に遡る最古の地区ごとに分けられた。

 

ヴェスタの火の儀礼とヴェーダの聖なる火の儀礼の間には明白な類似は認められない[5]。ヴェーダの聖なる火の儀礼はたいへん古く、遊牧民の信仰を反映しており、特定の場所に関係してはおらず、屋外で火を用いて犠牲がささげられた。ヴェーダの儀礼の火は本来三つ用いられた。これに副次的な火が添えられることとなる。三つの日のうちの二つは西−東の軸線に沿って配置される。三つ目は南側に。これらの火には名があり、アタルヴァ・ヴェーダAtharva Veda[6]では特殊用語で呼ばれており、リグ・ヴェーダRig Veda[7]では暗示的に名指されている。

西に配された第一の火は「家の主(grhpatiあるいはgarhapatya)の火」と呼ばれ、一族とその財産をもって生贄を捧げる者をあらわしている。主(grhpati)の妻は生贄奉献の間、この火の傍らに連なり、摩擦によって、あるいは他の聖なる火、あるいは生贄を捧げる者が社会的に上位の階層のものであるにせよ、農夫vaisyaの家の火でこれを点さねばならない。これが消えたなら、生贄奉献は中断される。他のいずれかの火が消えたなら、これにあらためて火をつける。この火は大地をあらわし、大地をあらわして円形である。第二の火は第一の火の東に置かれ、「供物(ahavaniya)の火」と呼ばれ、これのお陰で人々からの贈物は煙のかたちで神々のもとにまで届く。この供物の火の傍らの平地では、目に見えぬ神々が生贄奉献を見守っている。そこには神官ブラハマンbrahamanもおり、彼は何もしてはならないが、彼が居ることが生贄奉献の正統性を保証する。

第二の火は天、大地とは別の世界をあらわしている。この火は四角形である。なぜといって枢要点に向かって配されているから。この脈絡からすると、天は宇宙論的な意味をもたない。四角形と円形の対立はただ大地が天から配向を得ることを意味しているだけである。

第三の火は生贄奉献の区画の境、南に据えられる。これは円でも四角でもなく、半円で、その象徴的な意味ははっきりしない。おそらく他の二つと区別するのが目的だろう。

邪悪な霊の攻撃が心配される方角に看守を置き、滅多に灌水を受けないようにする。ここから比喩的にこれは「飢えた火」と呼ばれる。これら三つの火は三つのはたらきにかかわる教えを反映したもので、「家の主の火」は農夫vaisya階級を代示し、供物の火はブラミーニbramini階級を、南の火は兵士の階級を代示している。あるいはこれらの火の配置を勘案するなら、これは万有宇宙の大地、気圏、天への三分をあらわしている。天においてはブラフマンの知識が三つの火つまり大地の火、擂霆、太陽を区別する。

ローマにおける聖なる火の実修もインドのものに類比できるが、それは見た目に明白なものではない。ローマは永遠の町と誇られるほどの定住者の町であり、インドのノマド社会とはまったく異なっている。ローマには信仰から生贄を捧げるための一定の場所があった。通常それは神殿の前であり、家の主の火は祭壇脇に置かれる携帯火炉(foculus)に灯された。これはもはやインドの「家の主の火」の主要な役割をもたない。ローマそのものが大きな住居のようなものであり、この町全体の「家の主の火」はヴェスタの館aedes Vestaeの火で、ローマの永遠性の証しとなっていた。

この聖なる館で燃える火は、主(grhpati)の火のように摩擦によって熾される。これが消えた場合には、別の火をもって着けなおすことはできない。この凶事が起こると、火を守るものたちであるヴェスタの巫女たち(ヴェスターリ)は大神官から鞭打ちをもって罰され、火は摩擦によって着けなおされねばならない。ヴェスタの館(アエデス)は円形の館で、「家の主の火」のように円形。館(アエデス)は建物(家)の意であり、聖なる建物ではあるが神殿templumとは呼ばれていない。神殿は矩形あるいは四角で、円形のものはない。神殿(テムプルム)あるいは預言の場所(locus effatus)の由来は幾つかの準拠点によって画される天の一部であった。枢要点の数々によって方向を定められた天のこの部分を過ぎる鳥たちによって吉兆が占われた。この占いには鳥たちが神殿の天空に入りあるいは出る位置(場所)が重要であった。

ローマの古い神殿群の正面(ファザード)は西向きになっていた。これは後にギリシャでもローマでも東向きとなされる。「家の主の火」のように、ヴェスタの館も生贄を捧げる者(この場合にはローマの町そのもの)と地上世界としての土との象徴関係をあらわしている。ヴェスタの儀礼において、唯一符合するのは神殿が円形であることと「家の主の火」が円形とされること。

オヴィディウスはこれに神学的解説を加えている−ヴェスタは天とはなんの関係もない。ヴェスタは地そのものである(Vesta eadem est ac terra F. VI 267)−。またシラクーサが陥落した後、アルキメデスの惑星の知識もマルケルスによってローマにもたらされ、大地は宇宙の中心と説明され、丸(球)ではないとされた。またこの女神について、オヴィディウスは古ローマとギリシャ由来の解釈を躊躇なく混淆し、この女神は彼に語りかけるがヤヌスのようにではない、と言っている(F. VI 251-256)。ヴェスタは火そのものであって非物体的(体躯をもたず)、人の相貌をもつものではなかった[8]。これが擬人化され、女神はサトゥルヌス(土星)およびオペ(両親)、ユーノー、ケレス(姉妹)と親族関係に置かれることになる。

とはいえオヴィディウスも古宗教に関し、ヌマは町の装剣の四十年後、ヴェスタを自らの館(アエデス)に祀ろうと考えた、と言っている。この情報はヴェスタの火の崇拝はローマ創建よりも古いという考えと矛盾するものではない。オヴィディウスは、ヌマがヴェスタの館をつくらせた(flammae custos aede recepta est F. VI 258)と言っているのであって、この信心を創案したと言っている訳ではない。遥かな前史時代からオヴィディウスの時代まで、ヴェスタは地上にローマが存することの保証であると得心されてきたが、これには火の観照をもととしつつ、ギリシャに由来する伝説が架乗された。ヴェスタの神殿には不可思議な護符(タリスマン)が幾つか保存されていた。これらは神々から直接ローマにもたらされた証し、地上のローマの永遠性の保証だった。オヴィディウスはこれらを「イリウム(トロイア)のヴェスタの抵当」pignora Iliacae Vestae (F. VI 365)と規定している。つまりここでもまたローマがトロイアに由来するという伝説に出会うことになる。この伝説はすでにローマが権勢を誇り、過去を必要とするまでになった前380年から前270年ごろに形成され流布した歴史物語である[9]

六月十一日に祝われたマトラリアMatraliaの儀礼において、儀礼の由来にかかわる神話の完全な喪失とギリシャ神話による簒奪の事例に出会うことになる。マトラリアは女神「朝の母」dea Mater Matutaを讃えるものだった。この名の背後には疑いなく「曙(アウロラ)」が隠されている。マトゥータMatutaは形容詞「朝のmatutinus」に由来する。つまり朝の母とは夜の闇を追い払い太陽をもたらすもの。オヴィディウスはその儀礼が善き母たちbonae matresのためのものであると言う。テルトゥリアヌスはそれが一夫の妻univiraeのこと、つまり高い地位にある貴婦人で一回だけ婚姻したもののことであると付言している(Tertulliano, De monogamia, XVII 4: Fortunae Muliebri coronam non imponit nisi univiris sicut Matri Matutae.。この儀礼は別々の二つの時期に挙げられる。一度目は、通常下層階級の人々が入ることが禁じられた神殿にひとりの婢女が導き入れられる。ただしそれも平手打ちと鞭打ちで暴力的に追い払われるためであった。二度目は、貴婦人たちが女神に自らの子らではなく姉妹たちの行く末を頼んだ。オヴィディウスの時代のローマ人たちは、一度目、二度目の儀礼行為の意味を完全に忘失していた。

ヴェーダの讃歌二はこれの神話的解説がある。曙(アウロラ、Usas)あるいはアウロラたち−この神性は日の数とともに限りなく増幅する−は「敵、蛮族、悪魔憑き、不具、危険等々」[10]と同一視される夜闇を追い払う。夜(Ratri)の姉妹であるアウロラは、夜の息子である太陽を導き、昼となる(光をもたらす)。異文の幾つかによると、曙(アウロラ)は姉妹の夜と太陽に対する母性を分かち合っている。闇は否定的な意味で感得される一方、夜は宇宙の秩序rtaにおいてこの世の善なる部分と感得される。ここで曙Usasと夜Ratriはどちらも母と称されている。本来の神話から切り離された儀礼という空っぽの殻にギリシャ式の解釈が纏わされる。つまり、曙(アウロラ)はイノ・レウコテアIno Leucotheaと習合される。それは母方の叔母に育てられた姉妹と甥たちについて語るものがたりだったから。

 



[1] G. Dumezil, La religione Romana arcaica, Milano 2001, p. 32 (rex) e p. 43 (deus)

[3] 『ファスティFasti』は六書つまり六月で止まっている。一年の残りの月の儀礼については、ヴェーダの儀礼と他の二つの事例の照応関係が認められる。十月の馬Cavalloasvamedhaの生贄儀礼に相当し、ローマのスオヴェタウリリアsuovetauriliasautramani (善き被護者インドラ・ストラマンIndra Sutramanに捧げられる三種の獣の生贄)に相当する。

[4] Marutは嵐と気象の神々で、インドラの伴連れ。インドの第二機能の神で風に乗る。モンスーン(季節風monsoni)に擬される。

[5] cfr. Dumezil op. cit. pp. 277-289

[6] アタルヴァ・ヴェーダはヴェーダ第四部。アタルヴァンatharvanとは神話的な一族の名で、この文書はこの一族に帰されている。他の部分よりは後のもの。主要部分は詩と祈禱文(呪文)で、生贄奉献に直接かかわるものではない魔術的な性格のものもある。またリグヴェーダの第十マンダラのような思弁的頌歌も含まれている。

[7] ヴェーダの最古の部分で、詩編からなっている。リグヴェーダと呼ばれるのは、詩編が十のマンダラを構成しており、十の円輪はサムヒータをかたちづくるから。Cfr. http://www.emsf.rai.it/interviste/interviste.asp?d=443#intervista.

[8] しかし前一世紀にはこの女神の神像simulacrumが造られるようになる

[9] Dumezil, Op. cit. p. 392

[10] G.Dumezil, La religione arcaica dei Romani, Milano 2001, p. 61.

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 9


 

固定祝日Feriae statae, conceptivae, 指定祭日imperativae, Ludi

フェリアエ(祝日)のすべてが特定の日(statae)に固定されている訳ではなく、フェリアエ・コンチェプティヴァエferiae conceptivae、フェリアエ・インペラティヴァエferiae imperativaeもあった。feriae conceptivaeは神官たちがその都度定める可動日で、たとえば播種祭feriae sementivaeのようなもの。一方feriae imperativaeはある特別のことがらを祝うために行政官によって特別に指示されるもの

一年のうち、固定祝日feriae stataeはすべてイディ。これらの日はいずれもユピテルの祝日feriae Iovis。また三月、六月、十月の三朔日(カレンデ)。六月朔日は女神カルナCarnaの祝日に一致。十月朔日はtigillum sororium(戦場での兵士の暴力を贖罪する儀礼。この儀礼は三人のホラツィウスのひとりによる姉妹殺しの物語−クリアツィ一族の婚約者の死を悼んだ姉妹の殺害−に由来する。)にあたる。

七月のノーナ両日も固定祝日、ユーノー・カプロティーナ(カプリイチジク)の祝日だった。これら以外に、ワッロは35の固定祝日を挙げている。とはいえその他にも数々見過ごされている。ワッロが列挙している固定祝日は以下の通り。

 

1.  Dies Agonales per quos rex in Regia arietem immolat。このAgonという語彙は一月九日、三月十七日、五月二十一日、十二月十一日にも認められる。オヴィディウスはこの語の意味について一つならぬ解釈をしている。ここでも意味不明の説明が数々挙げられており、古人たちにもその意味は晦渋であったものとみえる。

2. Carmentalia nominantur quod sacra tum et feriae Carmentis

3. Lupercalia dicta, quod in Lupercali Luperci sacra faciunt

4. Quirinalia a Quirino

5. Furnacalia (Stultorum festa)

6. Feralia

7. Terminalia, quod is dies anni extremus constitutus

8. Ecurria ab equorum cursu: eo die enim ludis currunt in Martio Campo

9. Liberalia

10. Quinquatrus

11. Tubilustrium

12. Megalesia

13. Fordicidia

14. Palilia

15. Cerialia a Cerere

16. Vinalia

17. Robigalia

18. Vestalia

19. Dies Fortis Fortunae

20. Dies Poplifugia

21. Ludi Apollinares

22. Neptunalia

23. Furrinalia a Furrina

24. Portunalia dicta a Portuno

25. Vinalia rustica dicuntur ante diem XIIII Kalendas Septembres

26. Consualia dicta a Conso

27. Volcanalia a Volcano

28. Opeconsiva dies ab dea Ope Consiva

29. Volturnalia a deo Volturno, cuius feriae tum. Octobri mense Meditrinalia dies dictus a medendo, quod Flaccus flamen Martialis dicebat hoc die solitum vinum novum et vetus libari et degustari medicamenti causa

30. Fontanalia a Fonte

31. Armilustrium ab eo quod in Armilustrio armati sacra faciunt, nisi locus potius dictus ab his; sed quod de his prius, id ab ludendo aut lustro, id est quod circumibant ludentes ancilibus armati.

32. Saturnalia dicta ab Saturno, quod eo die feriae eius, ut post diem tertium Opalia Opis

33. Angeronalia ab Angerona

34. Larentinae, quem diem quidam in scribendo Larentalia appellant, ab Acca Larentia nominatus, cui sacerdotes nostri publice parentant e sexto die, qui ab ea dicitur dies Parentalium Accas Larentinas

35. Dies Septimontium nominatus ab his septem montibus, in quis sita Urbs est; feriae non populi, sed montanorum modo, ut Paganalibus, qui sunt alicuius pagi

 

つづいてferiae conceptivae:

1. Compitalia dies attributus Laribus vialibus

2. Latinae Feriae dies conceptivus dictus a Latinis populis, quibus ex Albano Monte ex sacris carnem petere fuit ius cum Romanis, a quibus Latinis Latinae dictae

3. Sementivae Feriae dies is, qui a pontificibus dictus, appellatus a semente, quod sationis causa susceptae

4. Paganicae eiusdem agriculturae causa susceptae, ut haberent in agris omnis pagus, unde Paganicae dictae

5. Novendiales: questa festa non era annuale ma veniva indetta solo in occasioni straordinarie, quando si verificava un portento, ad esempio una pioggia di pietre, che faceva presagire eventi luttuosi

 

マクロビウスは第三のフェリアエ、指定祝日imperativaeについて、quas consules vel praetores pro arbitrio potestatis indicuntと言っている。

また公的祝日以外にも私的祝日がある。クラウディアヌス家、アエミリア家、ユリウス家、コルネリウス家のような大氏族の私的な祝日。また誕生日や危難を逃れた記念日のような個人の祝日(feriae singulorum uti natalium fulminumque susceptiones) (Macr. Sat. XIV 7)

また遊戯競技Ludiも信心からする神々への奉納といった宗教的な意味を持ち得る。これはローマ人たちがエトルスク人たちから学んだもの。競技のあるものは年毎におこなわれるもの、特定の年間隔をもって催されるものがあった。最も古い競技として、ルーディ・カピトリーニLudi Capitoliniが記録されている。これはロムルスにまで遡り、前390年にカンピドリオの丘をガリア人たちの包囲から守った時の祝賀にはじまるという者もある。あるいは冥府の神性を讃えるルーディ・タウレイLudi Taur(e)i。これは尊大王タルクィニウスによって設けられたもの。タウレイの意味は不詳だが、エトルリア語で墓を意味するタウルtauruに由来するという説もある。大競技Ludi magniを設けたのはタルクィニウス・プリスクスとみなされている。これがローマ競技Ludi Romaniとなり、ユピテル・カピトリヌスに捧げられた。これは最重要な競技会となり、前366年以降、毎年行われた。このローマ競技と対称的にケレスに捧げられた平民競技Ludi plebeiがあった。これは民会edili plebei [1]が主催したもので、第二ポエニ戦争の危機的状況下で創設されたもの。前208年、アポリナレス競技Ludi Apollinaresが設けられ、前202年にはケリアレスCeriales、前191年にはメガレンセスMegalenses、前173年にはフロラレスFloralesが設けられた。スカエニチ競技Ludi scaeniciもエトルリアに由来するもの。これらの競技はガリア人の侵入による危機的状況の後にローマに拡がったものだった。

前一世紀の偉大なラテン著作家たちの書物を読むと、ローマ人たちの信仰がまったくギリシャ人たちの信仰と同じであったかのような印象を受ける。神々の名は異なるものの、その役割、帰属、神話の数々は同じである。じつのところこうした完全な照応関係は、前三世紀にはじまるギリシャの文化的植民地化の兆候であった。古の(アルカイック期の)宗教は個々に異なったものであった筈だが、ギリシャのものがローマの神々として解釈され吸収されることで消滅していった。

十九世紀末以降、二十世紀中頃まで、たしかにローマの古い宗教についての研究がない訳ではなかった。フレイザー『金枝篇』はそうしたものの一つとして格別の達成であった。これは魔術と宗教の研究書で、初版は1890年。人類学論考とみなされ、必ずしも古代史や古代宗教の研究から直接知見を汲み取ったものではない。その発端は「森の王rex nemorensis」。これはオヴィディウスが『祭曆(ファスティ)』でも述べている特殊で悲劇的な神官の姿で、神官の職責に就くためには彼の先任者を殺害せねばならない。いずれこの先任者も彼の地位を得るためにその先任者を殺さねばならなかったのだが。この記念碑的な論考の序で、フレイザーは彼の目的が野蛮で残酷に見える慣習の意味を理解することにあると言っている。彼が科学的方法と称するものは、原初の人間性における思惟様式は隔絶した場所と時にあっても同じであり、同じ文化的発展を遂げる、という考えが基礎となっている。もちろんその細部は相違しているものの、同じ模範に還元可能である、と。こうした展望において、遠過去の塵が人の文明構造を支える非理性的で魔術的な下部構造(基底)への魅惑的な旅の道具と化した。

「ヌマの宗教」−この定式によって当時の研究者たちは古宗教を意図していた−にかかわる諸研究が一義的にフレイザーの構想に追随するものだったとは言い難い。彼の論考がはかりしれない影響をもたらしたことに間違いはないが、時とともに彼の科学的方法は信用を失っていった。とはいえこの時期のローマ時代の宗教研究においては彼らの信仰を「原始的」とみなす傾向が広まっていった。たとえば古ローマ人たちには神の知見が欠けており、彼らの信仰感情は聖なるもの(ヌーメン)の観念によって表現され得るようなものだった、と。それはつまり通常慣習的にギリシャやローマの神々と考えられるような十分規定された力能と性格をもって擬人化された神ではなく、自然本性のアニミスム的な観念としての超自然的な力のようなものだった[2]。こうした境位に複雑であるとともに厳密な方法を提起することで決定的な一歩を踏み出したのがジョルジュ・デュメジルだった。『古代ローマの宗教La religion Romaine archaique』の1966年版の序で、神話史家文芸批評家がたまたま言語学と考古学の領野に「闖入」したのだったが、さまざまな学知の協働から古医宗教の一般的企図が溢れ出した、と彼は語る。欠落を完全に埋めることは不可能ではあるが、いずれ一般的な輪郭は明快となる、と。ファスティそのものを考えてみるに、ローマの宗教的発展を歴史的に再現することはできないし、その体系構造を規定することもかなわないにせよ、古宗教のインド−ヨーロッパ的性格を明かす段階とその方途を探ってみよう。そのために以下のような過程を提起してみたい。

 

・古ローマの宗教儀礼、そのうちでもヴェーダの儀礼と厳密に照応するもの。

Fordicidia (F. IV 629-676); Matralia (F. VI 473-648); Vestalia (F. VI 249-468)

・インド・ヨーロッパのイデオロギー的思惟構造、ローマの起源伝説に認められるもの。ロムルスとレムスの伝説:Ovidio, F. II 359-380ルペルカリアの創設におけるローマ式アイティオン:II 381-420。川に捨てられた双子と狼による救済のものがたり:II 490-449。ルペルカリアにおける浄化儀礼での形式のアイティオン:II 475-514。ロムルスの昇天、クィリヌス(F. II 515-530 愚者の祭[3])のように:III 1-75。マルスに暴行されたレア・シルヴィアRea Silviaのものがたり。双子にかかわる預言的な夢:III 189-234。ローマ人とサビーニ人の戦いと女たちの仲裁による両民の融合:IV 807-862。レムルスの死。

 



[1] 民会edili plebeiは前494年に設立された。これは市民法廷の創設と同時だった。クリア集会edili curuliつまり高貴な家系の者たちの議会はやっと前366年になって創設される。

[2] C. Bailey, The religion of ancient Rome, London 1907 (Progetto Gutenberg)

[3] Stultorum festaはフォルナカリアの祭Fornacalia。これは女神フォルナチェ(竈)Fornaceの祭で、クィリナリアQuirinaliaの祭と同じ日に祝われた。この祭日の一致はフォルナクスFornax Quirinusが同じ第三機能をする神々であることを証している。フォルナカリアの祭は愚者の祭stultorum festaとも称される。これはそれぞれのクリアで違う日に祝われたから。その日程は公表されたが、多くの者たちはそれがいつのことだったか忘れてしまうのだった。

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 8


 

神へのさまざまな宣誓Variorum iura dierum

 

オヴィディウスは法的言語に関してそれが毎日同じことを意味する訳ではないこと、日々その法があることを比喩的に語っている。たとえばファスティの日々とネファスティの日々の間に中間的な範疇の日々がある。これらをエンドテルチーシendotercisiの日々、つまりその日の何時間かはファスティで、他はネファスティである日々。

nec toto perstare die sua iura putaris:

qui iam fastus erit, mane nefastus erat (F. I 49-50)

石碑に記された暦の数々からすると、より分節化された類別も認められる。これらの暦にはわれわれの暦のように、月の日が右側に縦に並べられ、大文字AからHABCDEFGHとしるされている。これらの文字はinternundinum tempusをあらわしている。つまり市(nundinae)の立つ日から次の市の日までに経過する日々を。市は七日毎に開かれたが、文字は八つ。これはローマ人たちが出発点から到達点までを算える慣いだったから。そこで八つの文字が循環的に反復される。マクロビウスは、一時期、市(nundinae)は平日(フェリアエ)であったが、後にファスティの日dies fastiとみなされるようになったという。なぜなら、郊外の田野から市にやってくる平民(農夫)たちplebeは、この時を利用して司法判断をも受ける必要があった。それゆえこの日には法務官がその職責を勤めることができなければならなかったから。

第一欄の傍らに大文字が書かれた第二蘭があり、これらは日の義iusを指示している。この欄の略称は、Ffastus)、Nnefastus)、Eendotereisus)つまりこれはintercisus(中間日)すなわち部分的にファストゥス、部分的にネファストゥスの日の古形。そしてC(民会comitialis)つまり民会を招集するにふさわしい日。民会の日はファスティであったが、ファスティの日のすべてに民会が開かれた訳ではなかった。

NPという記符は不明。最も可能性があるのは、Nefas Feriae publicae(公的忌日)で、生贄奉献、宴会、遊戯競技に捧げられた日であって、司法判断をなすにふさわしくない日。あるいはNPNefastus Purusと解釈されてきた。これは部分的に凶Nefastus Parteあるいは先(はじめ)が凶Nefastus Principioの意だが、あまり説得的ではない。

Q, R, C, FQuando Rex Comitiavit Fasを意味し、ただ三月二十四日と五月二十四日にのみ用いられる。ワッロの『ラテン語について』ではこれを次のように説いている。rex comitiavit fasとは、生贄を捧げる王rex sacrificulusが民会に出向くことを謂ったもので、この間、この日はネファストであるが、その後はファストとなり、民会は通常通りに司法判断をなすことができる。

Q. St. D. FQuando Stercus Delatum Fasを意味している。ワッロの解説によると、この日にヴェスタ神殿の汚物(糞)が掃き清められ、カンピドリオの丘から特定の場所へと下ろされる。汚物を神殿の床に積み上げて放置するというのは原初の時代だけのことであった筈だが、ローマ人たちの保守主義により、神殿が毎日入念に清められるようになってからもこの定式が残されたものだろう。

第三欄には、カレンデのKal、ノーナのNon、イディのEidEidusの略)が記される。

固定祝日(feriae statae)の数々が曆(カレンダリオ)に記される。たとえば一月九日の傍らにはAGON=Agonalia、二月十一日の傍らにはCARCarmentaliaと。

その他にも石碑暦にしるされていない別の二範疇の日があった(dies religiosidies atriが、いずれ迷信的なものだった。

レリギオーシの日々dies religiosiとはこの日には俗事も宗教儀礼も何をも為さぬようにと勧められる忌まわしい日(凶日)。ある特定の日がこうした否定的な性格を持つものと定められた基準はどこにあるのだろうか。それには迷信誕生にかかわる体験をもとに答えることができるかもしれない。前477718日、ファビFabi人たちがクレメラCremera川近傍で皆殺しにされた。前390718日、アリアAllia川近郊で敗北。これが718日が凶日dies religiosusと考えられることとなった理由だろう。このレリギオーススの日には、忌日(ネファスティ)のような厳密な禁止が課されることはなかった。それは警告、勧告であって、禁止ではなかった。

アトリの日々dies atridies postriduaniつまり文字通りある特定の日に「後続する日々」。特に、カレンデ(朔)、ノーナ、イディ(中日)に直続する日々。これらの日々が不運(災厄)の日々とみなされていた理由は、レリギオーシの日々と類同だったろう。

 

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 7


 

吉日Dies fastiと忌日nefasti, 祭日festiと平日profesti

ワッロによればファスティの日(吉日)とは、「法務官がなにを言ってもよい日」quos praetoribus omnia verba sine piaculo licet fari (Varro, ibidem VI 4.)。一方、ネファスティの日(忌日)とは法務官(プラエトル)には「与える」、「言う」、「捧げる」と言うことが禁じられていたVarro, VI 4: Contrarii horum vocantur dies nefasti, per quos dies nefas fari praetorem "do", "dico", "addico"; itaque non potest agi.。−オヴィディウスは「ここで三語が黙され」(F. I 47)と記している。じつのところファスティの日には司法判断を下す(義を行使する)ことができたが、忌日(ネファスティ)にはこれは禁じられた。祝日(フェスティ)とは神々に捧げられた日、プロフェスティとは人々が公私の活動をするために授けられた日だった(Macr., Sat., I 16, 1)。フェスティの日々(祝日)には生贄が捧げられ、宴会が催され、遊戯競技が行われた。フェリアエ(平日)つまりプロフェスティ(フェスティ前)には民会(コミツィアーリ)が開かれ、審議延期者が招集され(審議延期(コンペレンディヌス)の日とは法廷が定めた出廷期限)、吉兆のもと開戦を定めた日として兵士たち(プラエリアレス)が招集された。デュメジルはファスティの日dies fastiフェスティの日dies festiとの相違について、前者にはfasの観念が、後者にはferiaeの観念がみてとれる、と啓明的な解説をしている。つまり「fasとは神秘的な層(集会)であり、これなしには義iusの行使も不可能となるような目に見えないもの。この層(集会)こそ義によって規定される目に見える態度や関係性のすべてのもととなるもの...」。

要するにFasは人の行為の正当性(義)を保証するものとなる宇宙の正しい秩序(序列)という観念を要請するものとなるのだが、その規範となるものの基礎を理解することは不可能である。古ローマ人たちは、プロフェストゥスあるいはネファストゥスの日を特定するよりも、ファストの日の特徴を識別しようと努めた(cfr. Dumezil, La religione arcaica dei Romani, Milano 2001, pp. 127-28

一方、フェリアエの本来的な意味は「聖なる時」、人々からする宗教的な行為の存否にかかわらず、神々に預けられた(ゆだねられた)時の意だった。これがのちに祝い(フェスタ)の意味をも得ることになる。休日(フェリアトゥスferiatus)は休息、失業をも意味し得るもので、聖性の暈のすべてをうしなうこと。フェスティの日々は必然的にネファスティである。じつのところ、聖と俗を混ぜることは正しくないし認めがたいのだが、プロフェスティ(フェスティ前)の日々のすべてがファスティである必要はない。プロフェスティの日dies profestusとは人々に任された一日ではあるが、決して儀の行使(軍隊)に好意的であると謂われている訳ではない。「諸他の神秘的な道理、神的な特性とは異なるものの数々が人にある日になにごとかをなさせることを勧めないこともあり得る」Dumezil, op. cit. p. 479

 

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 6


 

神に起因する日と人に起因する日Dies deorum causa istituti, dies hominum causa instituti

 

ワッロは『ラテン語について』第六書劈頭で場所の語彙(vocabula locorum)について語った後、時の語彙(vocabula temporum)に移るにあたり、時の定義から始める。時とは宇宙の循環(連関)であり、太陽と月の軌道をもととした二つの小さな輪によって分かたれる。

Varro, De lingua latina, VI 2: Dicemus primo de temporibus, tum quae per ea fiunt, sed ita ut ante de natura eorum: ea enim dux fuit ad vocabula imponenda homini. Tempus esse dicunt intervallum mundi motus. Id divisum in partes aliquot maxime ab solis et lunae cursu; VI 3: Ad naturale discrimen civilia vocabula dierum accesserunt. Dicam prius qui deorum causa, tum qui hominum sunt instituti.

自然界(自然本性)において、まず時とは何であるかを説明せねばならない。なんといっても自然界(自然本性)は人の導きであり、諸物に名を与え、人が社会生活において用いる語彙の数々は自然本性的区分(自然界のさまざまな区別)を忠実に敷き写したものである。

『ラテン語について』は文法学書で、特殊な問いに向かい、語の類比(アナロギア)、異常性(アノマリア)、語源(エチモロギア)について論じている。その無味乾燥な記述にもかかわらず、この書でも時の論議は宗教的なものとなっている。時の計測、時に与えられる名辞は人に宇宙の秩序配置を見出させ、人の次元と神の次元を繋ぐものである。そこには神によって設けられたdeorum causa istituti日と人によって設けられたhominum causa istituti日とがある。

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 5


 

朔日Kalendae, 九日Nonae, 中日あるいは十三(十五)日Idus

ローマ人たちはひと月の日々をわれわれのように第一から30あるいは31まで算えた訳ではない。それぞれの日を三つの準拠点との位置関係で定めた。一つは固定されたカレンデ(朔、新月)、他の二つは可変で、ノーナ(第九)とイディ(中日)。

イディは満月(望)の月相に、カレンデは月によってイディに13日あるいは15日先立つ新月(朔)の月相に対応していた。ノーナは月によって5日あるいは7日に相当する満ちる月(半月)の相に。

マクロビウスが語るところによれば、ファスティの一覧が公表される前には、毎月神官集団の副次的な神官が天を眺めて新月の始めを見極めていた。新月は月が太陽と合することにより目に見えず、月は太陽の光に覆われて一緒に昇り、一緒に没する。大神官は天にある月が完全に「消える」この時を入念に眺めた。

これが起こると、彼は生贄を捧げる王rex sacrificulusにこれを報せ、二人で生贄儀礼を執り行った。そして大神官はカラブラの行政区(クリア)の民を招集し−マクロビウスとワッロは市民だけでなく郊外の農民たちまで含めてと言明している−ノーナまであと何日であるかを告げた。ノーナが5日にあたるなら大神官は五回カロー(召集する、calo[1]と言い、7日にあたるならこれを七回告げた。つまりノーナに到達するために逆算されるこの5あるいは7日目がカレンダエ(朔、kalendae)と呼ばれた。

ノーナはこの日からイディ(中日)まで9日にあたるひと月の中の一日。その日から算えはじめ、この日に終わるように(両日を含んで)算える。ロムルス曆における30日からなる月々(アプリーレ、ジューニョ、セスティレ、セッテムブレ、ノヴェムブレ、ディチェムブレ)にあっては、ノーナは月の5日目にあたり(nonae quintanae)、イディは13日目にあたる。31日からなる月々(マルツォ、マッジョ、クィンティレ、オットーブレ)では、ノーナは月の7日目(nonae septimanae)にあたり、イディは15日目となる。

ひとたびイディに到達したなら、月末までの残りの日々の計算はつづくカレンデ(朔)との関係でなされる。それゆえ30日の月々ではノーナは5日目、イディから次の月のカレンデまでは17日(15日から算えはじめ、1日までを含む)、31日の月々ではノーナは7日目、イディから次の月のカレンデまでは18日。

ヌマの暦の29日の月々(ゲンナイオ、アプリーレ、ジューニョ、セスティレ、セッテムブレ、ノヴェムブレ、ディチェムブレ)では、ノーナは5日目、31日の月々(マルツォ、マッジョ、クィンティレ、オットーブレ)では、ノーナは7日目、どちらの場合も次の月のイディまで[2]17日。

カエサルは、月年(太陰暦の一年)に付加される10日を、ノーナの前にも、イディの前にも、イディの後にも置かず、予定される最後の祝日の終わりに置いたne Nonarum aut Iduum religionem, quae stato erat die, novella comperendinatione corrumperet (Macr. Sat. XIV 8)。これによって予定された祝日の序列を変じることなく、神官たちの信仰の鋭敏さを阻害せず、市民の迷信的な考えをも損なわないように。

カレンデ(朔)とイディ(望、中日)は常に祝日。その最初の祝日の日々はユーノーに捧げられた。この女神は誕生と出産の守護者であり、最初の日々はヤヌスが監督し、第二はユピテルに捧げられる。マクロビウスによればユピテルは光の神であることはその呼称の数々からも証される(サリ族はこれをルケティウスLucetiusと呼び、またディエスピテルDiespiterとも称される)。またここで満月にあたり、日中の光は夜の光よりも長くなるようにみえる。デュメジルはこの古の解釈を以下のように論駁してみせる。ルケティウスは「閃光を発する者」の意味で、擂霆の光を暗示しており、イディがユピテルに捧げられるのはこの神が至高なるものであるからであろう。「ユピテルは神の序列の頂点であり、それと同じ序列秩序をもって偉大なピラミッドのように世界を観念した」[3]。イディは満月とともに月の頂点をなす。

 



[1] ?「五回降る」つまり五度夜が来るという意味で?

[2] ?「イディから次の月のカレンデまで」?

[3] G. Dumezil, La religione Romana arcaica, Milano 2001, p.170.

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 4


 

月の名

数々のラテン暦のなかには、この好戦的な民を代表するようにマルティアリス(マルスの)月があった。マルスの子であるロムルスは父の名を採ったこの月を一年の始めにしようとした。他の月々の名の語彙は不確かである。

第二の月アプリーレはヴェヌスに捧げられた。オヴィディウスはその名の第一仮説として、アプリーレはヴェヌスのギリシャ語名に由来するものとしているSed Veneris mensem Graio sermone notatum / auguror; a spumis est dea dicta maris (F. IV 61-2:アフロディテAfroditeの語幹aphros (ギリシャ語で「海の泡」の意)が変形してafrilisという形が得られ、これがaprilisとなった、と)。ワッロも幾人かの年代記作者たち(フルヴィウス・ノビリオーレスやユニオ・グラッカヌス)に言及しつつ、それらの説が根拠のないものであると説いている。なぜなら、古の文書群二この女神の名がギリシャ語でもラテン語でも見つからないから(ヴェヌスがローマで盛名を獲得したころには、すでにローマはアエネアスの末裔たちによって創建されたという伝説が流布していた。そこでこの女神の名はアエネアスの親Aeneadum genetrixとなった。このころにはすでに「ローマは強大な勢力となり、過去(歴史)を創りだした」(G. Dumezil, La religione Romana arcaica, Milano 2001, p. 392), これは前380270年頃のこと)。それゆえ別の仮説をとる方がよいだろう。たとえば、アプリーレは動詞aperire(開く)に由来する、と。この月に自然界は花開くから(Varr. De lingua latina, VI.)

第三月の語義はより曖昧で、copiaque ipsa nocet (F. V 6)とオヴィディウスは註し、三人のムーサイに三つの異なった語義を語らせている。五月(マイウス)はmaiestas(偉大)あるいはmaiores(大きな)、それともマイアに由来する、と。このうち最初のものはローマ帝国を称賛するものとしてのオヴィディウスの創案で、蛮勇をではなく、道徳と文化を涵養するものを含意してのことである。第二と第三は伝統的なもの。オヴィディウス自身、第二の仮説を第四書で説いており、そこで六月(イウニウス)も五月(マイウス)同様由来は不詳であるとしている。ロムルスは民を年に応じて老若の、賢者と兵士の二つに分割したIunius est iuvenum; qui fuit ante senum (F. VI 88)。しかしこの場合も説明は一義的ではない。なぜといってオヴィディウスは、ローマ近郊のラテンの町に暦が掲げられており、そこにイウノニウス月iunonius (F. VI 59-64)の記載があるところを参照しつつ六月(イウニウス)の名に女神ユーノーの誉れを宛てているから。いずれを採るべきかについては立場を明らかにせぬままオヴィディウスは三つ目の語義解釈をも挙げている。イウニウスはunire(合する)の語幹に由来するものかもしれない、と。

ロムルス暦の第五の月以降の月の名は数の序列から採られている。クィンティリスQuintilis、セクスティリスSextilis、セプテムブレSeptember等々。これらの名はヌマの曆、ユリウス・カエサル曆でも守られることになる。ただクィンティレの月は執政官M.アントニウスの法によりカエサルを讃えてユリウスIuliusと呼ばれることとなった。一方、セクスティリス(旧六月、八月)は前23年の元老院議会でオクタヴィアヌスを讃えてアウグストゥスと呼んだ。マクロビウスは他にも幾つかの月の名が変じたことを録している。セプテムブレ(旧七月、九月)は短期間ではあるがカリゴラによってゲルマニクスという名で呼ばれ、オクトーブレ(旧八月、十月)はディオクレチアヌスの名で呼ばれたOctobrem suo nomine Diocletianus invaserat (Sat. XII 36)が、長くはつづかなかった、と。ディチェムブレ(旧十月、十二月)はヌマによって付加された二ヶ月によって後退することとなった。ゲンナイオはヤヌスの名から採られたが、この神は最初のものを見守る神であるところから年の始めの月となった。フェブライオは古ラテン語で贖罪あるいは供物を意味するフェブルアfebruaに由来するfebrua Romani dixere piamina patres (F. II 19)

 

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 3


 

挿入された日

"Quidam veterum rettulerunt non solum mensem apud Romanos verum etiam diem intercalarem fuisse" (Sat. I 13, 19)

ここでいう挿入日とは、じつのところある特定の日の変動のこと。

こうした日の由来に関して、マクロビウスは毎月朔日と九日目(ノーナ)は市が立たない日dies nundinis addictusであったが、朔日は一年の始まりの日が災いの日(忌日)とされたことにより、九日目は民によって王たちが放逐された後、セルヴィウス・トゥリオの誕生日を祝ったが、その誕生月が分からず、誕生日が九日であることしか分からなかったことによるものだという。

 

ユリウス・カエサルは前63年に大神官となり、前46年にローマ暦の改変を宣言した。

 

「一年を太陽の運行に合わせて三百六十五日とし、それまでの閏月を廃止し、四年ごとに一日の閏日を設けることにした。この太陽暦が新しい年の一月一日から将来にかけて、季節の正しい推移と、いっそうぴったり符合するように、前の年の十一月と十二月の間に、二ヶ月をはさむ。このように調整されたその年は、それまでの慣例上、この年のために設けられていた一ヶ月の閏月も加えて、ついに一年が十五ヶ月となったのである。」スエトニウス国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上、岩波文庫 p.48.

annumque ad cursum solis accommodauit, ut trecentorum sexaginta quinque dierum esset et intercalario mense sublato unus dies quarto quoque anno intercalaretur. quo autem magis in posterum ex Kalendis Ianuariis nouis temporum ratio congrueret, inter Nouembrem ac Decembrem mensem interiecit duos alios; fuitque is annus, quo haec constituebantur, quindecim mensium cum intercalario, qui ex consuetudine in eum annum inciderat. (Svetonio, De vita Caesarum, I 40)

 

カエサルは天文学的な知見についてはアレクサンドロスのソシゲネスの尽力を仰ぎ、また祝日の序列と日付が変わらぬように月年と太陽年を適応させたのが書記のM.フラヴィウスだった。追加された10日はヌマの曆における29日からなる7カ月のうち、一月五月十二月には2日づつ、他の四カ月つまり四月六月九月十一月には1日づつ分配された。これら追加された10日はファスティと称され、市民生活に有用な日の員数となされた。

この新暦が公布され、文字が読める者ならだれでも利用できるようになされた。実際ローマばかりか、ローマの近郊の町でも公共の場所に張り出された石版の曆の断片が発見されている。

この改訂曆にあってはもはや挿入月を探す必要はなかった。365日に余る分数部分は四年に一度、一日を挿入するだけで十分だった。この日は先に挿入月を加えたのと同じ位置、つまり二月二十三日と二十四日の間に据えられた。というのも二月二十四日はante diem sextum Kalendas Martias(三月朔日の六日前)で、挿入された日はante diem bis sextum(閏日)となる。ここからbisestile(閏)年という名が由来する。

新暦に入る前の年には、67日を延長して神官たちの恣意によって積み重なった過ちを補正する必要があった。前47年は23日の月を挿入する年にあたり、この年は445日となった。

新暦採用の後、計算法応用の誤り(四年に一日でなく三年に一日を加えた)から、短時日のうちに曆が先に進んでしまった。この計算の過ちは36年間つづいた。この間に12日が挿入されてしまった。実際には9日が挿入されれば十分だったのだが。アウグストゥスの統治下、この過ちに気付き、つづく12年にわたり日の挿入が略された(Macr. Sat. XIV 14-15)

 

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 2


 

挿入された月 (mercedonius mensis)

オヴィディウスが典拠としたのはワッロ、ケンソリヌスの『誕生日占いDe die natali』、マクロビウスの『サトゥルナリア』、そしてオヴィディウスと同時代の文法学者ヴェッリウス・フラックス、フェストゥス・ポンペイウス、パウルス・ディアコヌス。

ケンソリヌスとマクロビウスからは、前三世紀末にはじまる(チンチウス・アリメントゥスからシッラの時代のヴァレリウス・アンジアテスが知らせるところまで)さまざまな曆の知見が得られる。たとえば、リキニウス・マクロスは太陰暦の一年を十二カ月としている一方、ヴァレリウス・アンツィアテスはそれが本来十ヶ月であったと主張する。なぜならアルバーニの暦がそうしたもので、ローマ創建者たちは彼らの末裔だったから(Cens. De die nat. XX)。それにもまして不一致なのは、暦に月が挿入された時期にかかわる知見[1]。とはいえケンソリヌスとマクロビウスはワッロやヴェっリオ・フラックスを異論の余地ない典拠として、すでにアウグストゥス時代には幾つか問題は解決されていたとみている。

1 ロムルスによれば、太陰暦の一年は十カ月で304日。実際、一年十ヶ月のうち六カ月は30日、四カ月は31日だが、これは太陽の周回に符合せず、月の暦にも符合せず、時に夏の季節が冬の収穫期にあたったりすることになる。こうした不都合に対し、古ローマ人たちはその時期を名指すことなくsine ullo mensis nomine (Macr. Sat. I 12)ふたたび自然周期と符合するようになるまで時が過ぎるのを忍耐強く待った。

2 ヌマはロムルスの暦に二カ月をつけ加え、一年を354日とした。彼によればこれは太陰暦の十二カ月に相当する。つけ加えられた50日に、六カ月のそれぞれから一日づつを引いた6を加えて得られた56日を28日からなる二カ月に分ける。これが前153年にはじまる暦となる。執政官たちは第七月の中日(十五日、idi)に任官され、第一月の朔にこの職務に就いた。これらがゲンナイオ、フェブライオつまり一年の第一の月、第二の月となる。またゲンナイオにはピタゴラスに先立って謂われた自然本性の発出(産生)の秘密である奇数を讃えてin honorem disparis numeri, secretum hoc et ante Pythagoram parturiente natura (Macr. Sat. XIII 5)一日がつけ加えられる。つまりヌマはピタゴラスより以前に自然本性の奇数に対する偏愛を理解しており、そのゆえに一年の全日数も各月の日数も奇数でなければならないと定めたという訳である。ヌマの暦によれば、ゲンナイオ(一月)、アプリーレ(四月)、ユーニョ(六月)、セスティーレ、セプテムブレ、ノヴェムブレ、ディチェムブレは29日、マルツォ(三月)、マッジョ、クィンティーレ、オクトーブレは31日。フェブライオ(二月)は28日で、他の月々よりも短く、唯一偶数日からなる月とされる。ここからこの月が死者たちの祝日をもつ月とされる。

3 太陰暦の一年を伸ばして太陽暦の一年と符合させるという問題は、これら二つの暦の位相の相違が自覚されるようになった時にはじまった。マクロビウスは古代にあってはエジプト人たちだけが太陽年を過つことなく算えることができたが、ギリシャ人たちも太陽が獣帯を完全に一周するのに要する時が365日と1/4日であることを知っていた(Sat. XIII 9 quoniam apparet de solis cursu, qui trecentis quinquaginta quinque diebus et quadrante zodiacum conficit)(マクロビウスはこれが知られた時期については記していない)。月曆による一年354日はこれより11日と1/4日短いことになる。毎年11日と1/4日を補正するのは困難なので、この位相の相違を修正するためにギリシャ人たちは8年の間に90日を、30日からなる三カ月として挿入する算法を案出した(8 x 11..25 = 90)。ローマではこの90日が四カ月に分けられ、8年の間に22日と23日の月として交互に挿入された(月年355日の二年ごとに22日あるいは23日が交互に追加された)。しかしギリシャ人たちの算定法は、奇数を讃えて加えられた日のせいでローマ暦に完全に適用できるものではなかった。ローマ人たちがこの問題に気づいたとき、彼らは90日の分割補正に彼らの暦では8日余計に補正を加えねばならなかった。最も都合のよい解法はすべてを八年三度毎に一度に24日補正するものだった。この挿入月は「支給月mercedonius mensis」と呼ばれ、不足分の俸給が清算された。

4 挿入月は一年の何処に付加されることとなったかというと、フェブライオ(二月)の中だった。マクロビウスはこの選択を、フェブライオが一年の最後の月で、これまたローマ人はギリシャ人の範例(補正月を一年の最後の月に置いた)に従ったものだという。実際、フェブライオはロムルスの時代からマルツォにはじまり前153年までつづいたラテン暦の一年の最後の月でありつづけた。前153年には執政官たちが一月一日に着任することとなり、この時、ゲンナイオが一年の最初の月となった。オヴィディウスはフェブライオを古の一年の最後の月として記している。(Sed tamen, antiqui ne nescius ordine erres, / Primus, ut est Iani mensis et ante fuit. / Qui sequitur Ianum veteris fuit ultimus anni (F. II 47-49)いずれにせよ、ギリシャ人たちはこの月を挿入して補正し、ローマ人たちはこれをフェブライオの中に含めた(正確を期すなら23日と24日の間に)。Terminalibus peractisつまり神テルミヌスTerminusの祝祭が終わった後、regifugium(ローマの三人の王の追放を祝う祭り、この日からこの月の残りの四日がつづく)の前に。この選択の理由はまた宗教的なものであった。いずれマルツォはフェブライオにつづくもの。

 




星辰魔術再考 4


ステパヌス・ミカエル・シュパケルス『錬金術の業と自然本性の鏡の謎解き(カバラ)』

Stephanus Michael Spacherus, Cabala speculum Artis et Naturae in Alchymia, 1654.


 Pictura Quarta

4.    End: Multiplication.・・・・・・・Finis: Multiplicatio.

Fons vitae.

 

星辰魔術再考 3


ステパヌス・ミカエル・シュパケルス『錬金術の業と自然本性の鏡の謎解き(カバラ)』

Stephanus Michael Spacherus, Cabala speculum Artis et Naturae in Alchymia, 1654.

 3
.    Mittel: Conjunction,・・・・・・・Medium: Conjunctio.

Tinctura, Coagulatio, destillatio, putrefactio, solutio, sublimatio, Calcinatio.

 

星辰魔術再考 1


ステパヌス・ミカエル・シュパケルス『錬金術の業と自然本性の鏡の謎解き(カバラ)』

Stephanus Michael Spacherus, Cabala speculum Artis et Naturae in Alchymia, 1654.

https://digital.slub-dresden.de/werkansicht/dlf/2560/21/

 
Interpretatio eorum qua Germanice Picturis inscripta sunt.

Pictura prima Tractatuli quasi titulus.

1.    Spiegel der Kunst und Natur.・・・Speculum Artis & Naturae/

Natur.・・・・・・・・・・・・・・Natura

Kunst.・・・・・・・・・・・・・・Ars

Cabala und die Alchimen・・・・・Cabala & Alchymia, summam tibi exhibent Medicinae, insuper etiam Sophorum Lapidem qui unicum existit fundamentum, quemadmodu in hisce Figuris videre licet.

Ach Gott・・・・・・・・・・・・・Faxit Deus ut grati pro praestanti & maximo hoc dono simus, Deus siquidem cum aliqui mentem & corda aperis, ut hic ad hoc praeparandum opus perficiatur, illi omnem sane largiris fortitudinem.

Heiss・・・・・・・・・・・・・・Calidum, frigidum, siccum, humidum, Terra, Aqua, Aer, Ignis.

 

星辰魔術再考 2


ステパヌス・ミカエル・シュパケルス『錬金術の業と自然本性の鏡の謎解き(カバラ)』

Stephanus Michael Spacherus, Cabala speculum Artis et Naturae in Alchymia, 1654.

 
Pictura Secunda.

2.    Anfang Exaltation.・・・・・・・Principium: Exaltatio.

Natura, Salarmoniacum, Tragaganthum, Acetum, Cinnabaris, plumbum, Sanguis Deaconis, ferrum, Color operis, Gradus ignis, caput corvi, cuprum,

 

オヴィディウス『祭曆』考−デュメジルから 1


 

陰暦から太陽暦へ

Dies fastiとはなにか。

オヴィディウスは共通認識とまではいかないものの、伝統をとりこみ、ロムルスがローマの最初の曆をつくったとする一年が十回の月の満ち欠けからなる暦を採ってみせる。

十ケ月は人の妊娠期間にあたり、数を算えるのも十本の指、十進法、元老院は十人ずつの十グループからなり、百卒隊(レギオーネ)は十人からなる三グループ(10 hastati, 10 principes, 10 pilani o triarii三十人からなっている。つまり一年を十カ月とすることは完璧に見える。

一方、一年を十二カ月としたのはニンフ・エゲリアとサモサタの男(オヴィディウスは名指していないが、誰もがヌマとピタゴラスの協力をそこに見た。じつのところヌマはピタゴラスより百年ほど前の人)の示唆を得たヌマ・ポンピリウスだと言われる。いずれにしてもヌマの計算にも過誤がなかった訳でなくerrabant etiam nunc tempora (F. III 155)、やっとユリウス・カエサルの改訂によって、太陽暦の基礎が据えられ、太陰暦よりも精確な曆となった。

ille moras solis, quibus in sua signa rediret, / traditur exactis disposuisse notis. (F. III 161-62)

 

イシスとオシリス再考 6


 

船、航海とは何の謂いか。

 

(Iliade 2, 484-494) Ora ditemi, Muse che avete dimora in Olimpo, – voi siete dee, siete ovunque e tutto sapete, mentre noi ascoltiamo solo la fama e nulla sappiamo – ditemi chi erano le guide e i capi dei Danai; della moltitudine non parlero ne diro i nomi, neppure se avessi dieci lingue o dieci bocche, voce infaticabile e cuore di bronzo nel petto: solo le Muse d’Olimpo, figlie di Zeus egioco, potrebbero ricordare quanti vennero sotto le mura di Ilio; io diro tutti i condottieri e tutte le navi

「オリンポスに宿るムーサイたちよ、語りたまえ。−汝らは女神であり、何処にも居り、すべてを知る。一方われわれはただその声望を耳にするばかりで何も知らない−ダナエたちの導きにして首なるものたちとは誰のことか。その多性ゆえに、その名の数々を挙げることはしない。たとえ十の言語、十の口をもち、疲れを知らぬ声、青銅のこころをもち得たとしても。オリンポスのムーサイたち、唯一なるゼウスの娘たちよ、いったい幾人がイリオの壁のもとへと来ることができようか。すべての将軍たちすべての船が、と私は言おう。」

 

イシスの玄義がはじまるとルキウスは自らの郷に戻るpatrium larem revisurus。しかしその滞在は短かったdeae potentis instinctu (Met. 11, 26, 1)

「やっと神殿に別れを告げ、長い間離れていた故郷の家に、そのまま真直と帰ってきました。すると数日ならずして、至高の女神の御教示を受けたので、矢も楯もたまらず、大急ぎで荷造りをすませ、便船に乗じて、ローマを目指して出発しました。」

そしてマルスの野のイーシス神殿(Isis Campensis)へと一年ほど日参するうち、新たな入信儀礼が必要とされるという夢告に驚かされる(Met. 11, 26, 4)

いずれにせよ、人の姿のもとコリントにはじまった旅は、テッサリアのヒュパタで驢馬の姿に変じ、コリントとケンクラの岸辺で人の姿に戻され、神秘的な状況に到る[1]

そしてコリントでの第一のイシスの玄義への入信儀礼につづきローマで第二の入信儀礼となる。これはオシリスの玄義。

ルキウスの夢に亜麻の法衣sacratis linteisを纏い、左脚を引き摺る男があらわれる(Met. 11, 27, 4-5)。彼はアシニウス・マルケッルス[2](二世紀中頃の執政官にこの名の人物がある)[3]

オシリスの玄義(Met. 11, 27-28)

第三のイシスのオシリス両者の入信儀礼teleta (Met. 11, 29-30)

テオフラストゥスの呪言(人さまざま)(16, 11)の迷信的な人の月一度のオルフィック教玄義。

「こうした入信儀礼の反復には曖昧ながらパロディーの意図がある。いずれ物語作者の娯楽的な創作とは言い切れない」[4]

これは司教の拝金主義として非難されるところでもある(Persio (2, 70: in sancto quid facit aurum?) Giovenale (6, 541: corruptus Osiris) )。

 

(Met. 11, 28, 6) quaesticulo forensi nutrito per patrocinia sermonis Romani:.

「私は恵み深い運命の順風にのって、法廷に立ち、ローマの言葉でもって、弁護人の仕事をなし、なにがしかのものを稼いでいました。」

 

異邦人のローマにおける境位についてはすでにMet. 1, 1, 4で語られていた。

 

Mox in urbe Latia advena studiorum Quiritium indigenam sermonem aerumnabili labore nullo magistro praeeunte aggressus excolui. En ecce praefamur veniam, siquid exotici ac forensis sermonis rudis locutor offendero117

「それから間もなくローマの都へと学問をしに罷り出ていろいろと苦労し、手引きをしてくれる師匠もなしに、地つきのラテンことばを勉強しにかかったという次第なのです。さればこそ、私としたことが異国のしかも公の場所の言葉づかいに、もしやはしたない物言いでもして失礼申し上げました折には、ひらに御容赦おきくださるよう予てお願いだしておきます。」

 

奇瑞を祈った(invocato hilaro atque prospero Eventu)ものの果たされなかったことはすでにMet. 4, 2, 3で語られていた。驢馬のルキウスは葉叢に覆われた森に居ることに気づく。これを彼はヴェヌスとグラツィアの光Veneris et Gratiarum lucusの悦楽の園locus amoenusの細密画のように眺める。その緋色の花を遠目に救いの薔薇かと眺めつつ、近寄るとそれは致命的なlaurineの薔薇。これは先行する物語群から採られた委細ということになる[5]

 

そして第三の入信儀礼(Met. 11, 29, 1)

エジプトの神性たち(至高神に添えられたさまざまな添え名で示されるようにMet. 11, 30, 3: deus deum magnorum potior et potiorum summus et summorum maximus et maximorum regnator Osiris「最高の神々の中でも最大の、そして最大の神々の統治者におわしますオシリースが、正真正銘のお姿でもって... )は人々から遠くにある訳ではなく、地上での富と救済を授けるものでもある。それはプルタルコスが言う善ダイモーン、或いはアプレイウスの『ソクラテスの神』のダイモーンの媒介権能のようなはたらきをなす。またアプレイウスは人が神に似たことをもなすことができると言う(Plat. Theaet. 176 b 1のように)

実際、オシリスは中間媒介的な権威の隊列図式から出て、第一の把握しがたい神となる(『黄金の驢馬』だけでなく、『ソクラテスの神』や『プラトンとその教義』に明らかなように)。神の介入については演劇的なdeus ex machinaからの借用として、ルキウスのものがたりの中のプシュケ譚にもみられる。

ドニーニDonini 2002による仮説。三一の規定Apul. De Platone 1, 6, 193 (primae quidem substantiae vel essentiae primum deum esse et mentem formasque rerum et animam)は、三つの不壊の実体への段階的参与をものがたるものとされる。

第一の入信儀礼。世界魂(イシス)への上昇。第二は知性および観念(オシリス)への参入。第三は「アプレイウスによる完全な闇への放置」、至高神への上昇。

(Apul. De deo Socratis 20, 167) nihil est deo similius et gratius quam vir animo perfecte bonus, qui hominibus ceteris antecellit, quam ipse a diis immortalibus distat,

「完璧に善なるこころを持つ人ほど神に歓迎され、神に似た存在はなく、人々と不死なるものたちの懸隔ほどにも他の人々を凌駕している。」

 



[1] M. Zimmerman, Les grandes villes dans les Metamorphoses d’Apulee, in Pouderon, Crismani 2005, 29-41.

L. Graverini, Le Metamorfosi di Apuleio. Letteratura e identita, Ospedaletto (Pisa), Pacini, 2007, 187-232.

J.G. Griffiths, The Great Egyptian Cults of Oecumenical Spiritual Significance, in A. H. Armstrong (a cura di), Classical Mediterranean Spirituality: Egyptian, Grrek, Roman, New York, Crossroads, 1986, 39-65.

[2] Marangoni 1974-1975

[3] Scivoletto 1963, 222-253 (Antiquaria romana in Apuleio).

[4] Fredouille 1975, 13.

[5] S. Frangoulidis, Witches, Isis and Narrative, Berlin – New York, de Gruyter, 2008. 175-203.

イシスとオシリス再考 5


 

イシスからオシリスへ、コリントからローマへ

代名詞の語頭反復および二人称を形容する語の反復によるPriamel Formula [praeambulum]

 

(Met. 11, 25) (Tu sancta et humani generis sospitatrix perpetua / ne momentum quidem tenue tuis transcurrit benefi ciis otiosum / Te superi colunt ... / Tibi respondent sidera ... / Tuo nutu spirant fl amina ... / Tuam maiestatem perhorrescunt aves ... ferae ... serpentes ... belvae)

「おんみは、げにも聖なるおんみは、常に変わらぬ人類の救主、おんみは死すべきものに惜しみなき慈悲を垂れたまい、哀れなる身の上に母のごときやさしい愛を恵み給う。おんみの御守りなくて、一日といえども、いや瞬く間といえども、すぎて行くこと能わず。おんみは海と陸とを問わず、そこに住む人間を救いたまい、彼らからこの世の風を追い払い、彼らに救いの手を差しのべ、彼らに執念深く絡みつく運命の糸を、解き放ちたまう。おんみは、彼らのために、運命の暴風雨を宥め、天体の不吉な運行を逸らしたまう。おんみは天上の神々からも尊敬され、地獄の神々からも畏服されたまう。おんみは地球を巡らし、太陽を輝かせ、この世を統べ、黄泉の国を足元に踏みたまう。おんみの命ずるままに、星座は従い、四季は巡り、神々は悦び、要素はかしずく。おんみの頷一つで、風は生気を帯び、雲は漲り、種は芽生え、芽は伸びる。威厳あるおんみの前には空飛ぶ鳥も、山駆ける獣も、陽に身を隠す蛇も、海を泳する魚も、怖れ戦く。」

 

 

Apul. De deo Socratis 3, 124 (Quorum parentem, qui omnium rerum dominator atque auctor est, solutum ab omnibus nexibus patiendi aliquid gerendive, nulla vice ad alicuius rei munia obstrictum, cur ergo nunc dicere exordiar, cum Plato caelesti facundia praeditus, aequiperabilia diis inmortalibus disserens, frequentissime praedicet hunc solum maiestatis incredibili quadam nimietate et ineffabili non posse penuria sermonis humani quavis oratione vel modiceconprehendi, vix sapientibus viris, cum se vigore animi, quantum licuit, a corpore removerunt, intellectum huius dei, id quoque interdum, velut in artissimis tenebris rapidissimo coruscamine lumen candidum intermicare?). cfr. Plat. Tim. 28c.

「(神々の父)万物の主であり制作者である彼らの父が、いかなるはたらき(役割)の実修にも強制されることなく、受動と能動のすべての絆から解放されているなら、どうして汝は彼に語りかけはじめるのか。プラトンがその天上の雄弁をもって、不滅の神々にふさわしい弁証をもって、この信じ難い威厳(存在者)について人の言語の貧しさにもかかわらず何度も語ってみせるのはなぜだろう。賢者たちはかろうじて自らの思惟において、可能な限界にまで体躯から離れた魂において、この神を知解することができるのだろうか。暗闇に一瞬煌めく光のような間歇的な方法をもって。」

 

イシスとオシリス再考 4


 

神秘的体験

 

(Met. 11, 23, 6) Nec te tamen desiderio forsitan religioso suspensum angore diutino cruciabo. Igitur audi, sed crede, quae vera sunt. Accessi confinium mortis et calcato Proserpinae limine per omnia vectus elementa remeavi, nocte media vidi solem candido coruscantem lumine, deos inferos et deos superos accessi coram et adoravi de proximo .[1]

「今度は皆さんの方が、敬虔な熱望を抱いて何となく落ち着かないままに、いろいろと取り越し苦労なさるでしょう。そうなると私も辛抱できません。一つはなしを聞いてください。でもこの話はみんな真実だと思ってください。私は黄泉の国に降りて行き、プロセルピナの神殿の入口をまたぎ、あらゆる要素を通ってこの世に還ってきました。真夜中に太陽が皓々と輝いているのを見ました。地界の神々にも天上の神々にもまのあたりに接して、そのお膝元に額ずいてきました。」

(Met. 11, 23, 7) Ecce tibi rettuli, quae, quamvis audita, ignores tamen necesse est. ergo quod solum potest sine piaculo ad profanorum intellegentias enuntiari, referam 102 .

「こういったところが私の話です。皆さんはお聞きになられた今でも、何のことやら、ちんぷんかんぷんでしょう。でもそれはみんなみなさんのせいです。それはともかくとして俗界の皆さんに打ち明けても、神罰を受けないで済むようなお話をお聞かせしましょう。」

 



[1] Vd. per es. Griffiths 1975, 294 ss.; Bergman 1982; Merkelbach 1993; Takas 2008; Keulen 2015. Anche chi e propenso a credere vere le affermazioni del testo, non manca di sottolineare generiche affinita con altri riti misterici.

イシスとオシリス再考 3


 

イシスの儀礼

イシスの夜間の顕示。三様の表現。

1)        五月朔日(カレンディ・マッジョ)。春の祭典として。(Met. 11, 7)[1] → Met. 2, 1(テッサリアの最初の日の曙、ルキウスは変身させられる)に対する反語的用法として

2)        準備 (Met. 11, 8)

3)        イシスの航海Navigium Isidisの祭りの行列(Met. 11, 9-12)

 

(Met. 11, 7, 3: tantaque hilaritudine praeter peculiarem meam gestire mihi cuncta videbantur, ut pecua cuiusce modi et totas domos et ipsum diem serena facie gaudere sentirem)

「これらの人達はみんな、私一人の幸福のために、大いに囃したち、歓喜しているようで、いいえ、人間ばかりか、すべての家畜も家々までも、それに空気さえも晴朗と私に微笑しているようでした。」(11. 7. 3

 

アプレイウスはケンケラエCenchreaeの岸辺に典型的な語を重ねる(夜の闇と霜を払う太陽の光、鳥たちの歌、柔らかな風、新緑を渡る風、鎮まった水)。これは悦楽の園のヴァリエーションで、美しい風景と聖なる儀礼、静穏な環境と主人公の蘇り(再生)の調和をあらわしている。

 

1)  儀礼に参与する者を偽装すること

行列の先導(Met. 11, 8).

「そのうちいよいよ荘厳な神霊〔行列〕の出発となりました。先ず露払いとも云うべき仮装行列が、それぞれの意匠と趣味を生かし、見ても楽しそうな服装でゆるゆると近づいて参りました。あるものは剣帯をつけて兵士の姿をまね、他のものはギリシア風の兵服と、サンダルと猪槍とを身にまとって、狩人に変装し、或いは金箔を塗った喜劇役者の短靴を穿き、贅沢な装飾を施した絹の着物をまとい、頭に義毛をつけて女に化けて嫋々たる足どりでやって参ります。或いは脛当、楯、兜、剣をつけて、どこか剣闘士の学校からでもやってきたような扮装です。そのすぐ後からは儀仗□と紫紅の官服とで気取った地方総督、それから古風なギリシアの外套と杖と絹の靴とおまけに山羊の長い顎鬚をつけた偽哲学者。ついでそれぞれの芦に黐や釣針をつけ、黐竿にみせた鳥屋と、釣竿に似せた太公望がつづきます。次によくなついた大熊が貴婦人のように着飾って、舁床に載せられて参ります。猿がお祭用の編帽を冠りプリュギア風の黄色い上着をまとい羊飼ガニュメーデースの姿よろしく、手に金盃をもってきます。膠で羽をつけて貰ったろばが、老衰した年寄りに曳かれて、まるでベッレロポーンとペガッススとでも云いたい、それにしては滑稽千万な一組が参ります。」(Met. 11, 8).

 

イシスの祭りの行列の多様性はヴェルトゥムヌス(変身の神)を想起させる。

Properzio 4, 2,から、ヴェルトウムヌスは「変化(逆転)」vertereの神、或いは「変身」の神と分かる。彼は自らのうちに地上のあらゆる存在を包摂している。

 

 

(Met. 11, 10, 1) tunc influunt turbae sacris divinis initiatae, viri feminaeque omnis dignitatis et omnis aetatis

「それからこの宗教の司祭と呼ばれる位の高い人達が、...きました。」

そして三種の獣たち、星辰神話(ガニュメデス、ペガサス、カリスト)が滑稽な変身を暗示しつつつづく[2]

こうした民衆的な娯楽的な行列(inter has oblectationes ludicras popularium)につづいて、イシスの祭りの行列となる。

 

(Met. 11, 9-11) 「救世主女神のお祭り特有の行列が動き出しました。先ず婦人たちは純白の着物も眩しく、さまざまの装飾品を附け春の花環に身を埋めて、それは華やかなものでした。」

イシスを崇拝する者たちが集まるケンケレアCenchereaeの浜辺。イシスの夢に、逆運に対する勝利のしるしである薔薇の冠が捧げられる (Met. 11, 12, 1-2)

 

(Met. 11, 13, 2) Tunc ego trepidans, adsiduo cursu micanti corde, coronam, quae rosis amoenis intexta fulgurabat, avido ore susceptam cupidus promissi devoravi

「私はもう万感胸にせまり、喜びに動悸も震わせ、その奇(あや)に編みなせる薔薇の輝かしい花環に、夢中で噛みついたのです」。

 

これはフォーティスがで語っているところMet. 3, 25, 3 (「薔薇の花をたべるだけでもって、ろばの形からすぐさま、元どおりのルキウスさまになれるんですもの」rosis tantum demorsicatis exibis asinum statimque in meum Lucium postliminio redibis)、またイシスのことばMet. 11, 6, 2 (「司祭の手に接吻するように見せかけて、その薔薇を捥ぎ取るのです...お前の呪わしい獣の皮は、見る見るうちに剥ぎ取られてしまうでしょう」clementer velut manum sacerdotis osculabundus rosis decerptis ... belvae istius corio te protinus exue).

 

(Met. 11, 6, 5) Plane memineris et penita mente conditum semper tenebis mihi reliqua vitae tuae curricula adusque terminos ultimi spiritus vadata. Nec iniurium, cuius beneficio redieris ad homines, ei totum debere, quod vives.

「お前の身は今後、生ある限り最後の息を引き取るまで、私に捧げられてしまったものだということを、お前は私の恩恵によって、人間の仲間入りを許されたのだから、お前が生きて行く限り、私に恩返しするというのは当然すぎることです。」

 

(Met. 11, 15, 5) da nomen sanctae huic militiae, cuius non olim sacramento etiam rogaberis, teque iam nunc obsequio religionis nostrae dedica et ministerii iugum subi voluntarium. Nam cum coeperis deae servire, tunc magis senties fructum tuae libertatis

「この聖なる義勇兵に汝の名前を連ねるがよかろう。その宣誓については、つい昨晩、お前も女神から強く要望されたところである。さあ早速今から、われわれの宗教の戒律にお前の命を捧げてくれ。むしろ自分から進んで聖職の軛の下に服して欲しい。きっとお前もわかるだろうが、女神の奉仕に加わると、忽ち自由の恩恵をいっそうしみじみと味うことだろう」。

 

ここにはオヴィディウスの『変身譜』最終巻のピタゴラスの聖なる論議(魂はそのままでありながら、すべてはさまざまな姿に変じる)のようなものはない。

 

Met. 11, 15, 1 (「今迄はお前の生まれも品位もその上、花と咲き誇る学識さえも、お前に何ら役立たなかった。それどころか、お前は血気盛りの年頃によくありがちな誘惑に負け、惨めにも快楽に耽溺してお前のその宿命的な好奇心に苦々しい罰を受けたというわけだ。」nec tibi natales ac ne dignitas quidem, uel ipsa, qua flores, usquam doctrina profuit, sed lubrico uirentis aetatulae ad serviles delapsus curiositatis inprosperae sinistrum praemium reportasti) con Met. 3, 19, 5 (in servilem modum addictum atque mancipatum); vd. Sandy 1974; Penwill 1975.

 

この下界の無秩序にあって、イシスは静穏と救済をもたらすものであり、この女神に仕えるものservitiumは忌まわしい原因を知ることはない。盲目のフォルトゥナの支配から予言者としてのフォルトゥナの女神(イシス−テュケー)の権能への移行がおこり、無信者にこの女神の摂理(予言的)の力能を証してみせる(Met. 11, 15, 2-4)

イシスの薔薇はルキウスに人の姿を取り戻させ、新たな生のはじめをしるす。その裸の姿に善良な信者から外套を掛けられ、イシスの航行Navigium Isidisの行列と儀式に連なる。これはローマの皇帝と民衆に大変崇められた祭りであるとともに、冬が終わり、航海がはじまるしるしでもある(Met. 11, 16-17)

 

 

(Met. 11, 16, 2) Felix hercule et ter beatus, qui vitae scilicet praecedentis innocentia fi - deque meruerit tam praeclarum de caelo patrocinium ut renatus quodam modo statim sacrorum obsequio desponderetur.

「あの人は、今日至高の女神の御慈悲によって、人間に生まれ変わったのだ。まったく運のいい男だ。三度も祝福された男[3]だ。きっとあの人の前世に於ける清浄潔白と信心深さが、天上の御心に通じ、そのため、あんなに光栄な御加護を給うに到ったのだ。それであの人も、新しく生まれ変わった今では、どんなことをしても、聖職に身を捧げるだろう。」

 

 

 

司祭ミトラスと共通するルキウスの星辰の運命 (Met. 11, 22, 3)

 

(Met. 1, 22, 2-3) noctis obscurae non obscuris imperiis evidenter monuit advenisse diem mihi semper optabilem, quo me maximi voti compotiret, quantoque sumptu deberem procurare supplicamentis.

「或る暗い真夜中のこと、その暗闇を際立たせるほどの明々白々たる御声でもって、はっきりとこう命令したまうたのです。お前の熱烈な誓いをかなえてやれる日が、とうとう来たのです、お前が一日千秋の想いで待っていた日がついに来ました。」

 

司祭ミトラスもまた、夢を通してルキウスに語る。

 

(Met. 11, 22, 5-6) O – inquit – Luci, te felicem, te beatum, quem propitia voluntate numen augustum tantopere dignatur ... Adest tibi dies votis adsiduis exoptatus, quo deae multinominis divinis imperiis per istas meas manus piissimis sacrorum arcanis insinueris.

「ルキウスよ、お前はなんという幸せものか。こうして尊い女神の御心にかない、輝かしい恩恵を給わるとは。こうなったからには、もうぐずぐずしておれないぞ。お前が心に誓っていつも待っていた日が到来したのだ。今日こそお前は、いろいろの御異名を持たれるあの女神の神聖な御指図を受け、そしてこの私の手に導かれもっとも敬虔な秘儀にあずかるのだ。」

 



[1] ここちよい場所(悦楽の園)locus amoenusについては以下参照。E. Curtius in poi, vd. A. Pennacini, Amore e canto nel locus amoneus (1979), in Pennacini 2002; De Biasi 20042 ; Paschalis, Frangoulidis 2002; Puccini Delbey 2003; Mattiacci 2001; Konig 2013. Ampio materiale in Schonbeck 1964.

[2] Cfr. Gianotti 1986, 80-94

Harrison 2012

Wlosok 1969

[3] 祝福が倍加されることに関しては、(per es. terque quaterque beati dice, in Aen. 1, 94, Enea dei Troiani morti a Troia), またここではルキウスの三度の入信儀礼を予告しているのかもしれない。cfr. infatti le parole di Osiride in Met. 11, 29, 4-5: Nihil est – inquit - quod numerosa serie religionis, quasi quicquam sit prius omissum terreare. Quin adsidua ista numinum dignatione laetus capesse gaudium et potius exsulta ter futurus, quod alii vel semel vix conceditur, teque de isto numero merito praesume semper beatum. [...] Quid felix itaque ac faustum salutareque sit, animo gaudiali rursum sacris initiare deis magnis auctoribus.「なんでもないのだ、お前はこのように献身の儀式がつづいて起こるからといって、まるでお前の方になにか手落ちでもあったように心配しているが。それどころか、こんなに度々、神々の恩寵に預かるというのは、お前にそれだけの資格があるからだと考え、むしろ大いに喜び元気を出すがよい。他人にはほとんど一度だって許されないようなことが、お前には三度も与えられた、ということに誇りを感ずるのだ。この三という数字から、それにふさわしい永遠の浄福を期待するのだ。今度おこなわれる密儀は、お前にとって絶対に必要である。というのも、まあ考えてみるがより。もしお前がかつてテッサリアで着たあのオリュンピアの法衣を、あの神殿に預けたまま、ずっと置いてきぼりにしておいたら、お前がこのローマの市で、女神のお祭りを迎えても、祈りを捧げることもできなければ、また、女神の御命令を受けた時、あの至福の衣裳に身を飾って人々に見て貰うこともできまい。されば、お前の幸福と公営と息災のため、今度も悦ばしい魂でもって、密儀に与るべきだ。これが偉大な神の忠告である。」

イシスとオシリス再考 2


 

イシスの幻視

(Met. 11, 5, 1: En adsum tuis commota, Luci, precibus)ルキウスよ、私はお前のお祈りに大変心をうたれてここに参りました。」

アプレイウスの『ソクラテスの神』には、至高なる神はあらゆる情熱にも無縁で、ダイモーンたちdivinae mediae potestatesの存在(オシリスもそのひとり)も語られている。これらが万有宇宙の両極の媒介を保証している。

 

Apul. De deo Socratis 12-13, 147: debet deus nullam perpeti vel odii vel amoris temporalem perfunctionem et idcirco nec indignatione nec misericordia contingi, nullo angore contrahi, nulla alacritate gestire, sed ab omnibus animi passionibus liber nec dolere umquam nec aliquando laetari nec aliquid repentinum velle vel nolle. Sed et haec cuncta et id genus cetera daemonum mediocritati rite congruunt. Sunt enim inter nos ac deos ut loco regionis ita ingenio mentis intersiti, habentes communem cum superis inmortalitatem, cum inferis passionem. Nam proinde ut nos pati possunt omnia animorum placamenta vel incitamenta, ut et ira incitentur et misericordia fl ectantur et donis invitentur et precibus leniantur et contumeliis exasperentur et honoribus mulceantur aliisque omnibus ad similem nobis modum varient.

「神は束の間の愛憎をあらわすことはないし、侮蔑や慈悲に観じることもなく、苦悩したり熱狂したりすることもあり得ない。神は一々の情動から解き放たれており、一瞬たりとも神が苦慮したり悦んだりすることはないし、なんらかのことがらを望んだり拒んだりするようなこともない。一方、こうした類のことがらのすべてはダイモーンたちによる媒介条件と符合する。実際これら(ダイモーンたち)はその不死性において上位諸存在と、受動主体として下位諸存在と思惟(メンティス)(という自然本性ingenio)において、われわれと神々の間にある。われわれ同様それらは情動animoの緩和と緊張のあらゆる形をとり得、怒りを激発させたり、慈悲に動かされたり、賜に誘惑されたり、祈りに鎮められたり、冒瀆に怒ったり、報償に阿ったり、その他すべてに鋭敏となる。これはわれわれと同様である。」

 

中期プラトン主義者プルタルコスの『イシスとオシリス』にみられるように、そこには善ダイモーンたち(ダイモーネス・アガトイ)の本源的自然本性が認められる。天と地の間にはたらくダイモーンの力から観て、イシスが下界にあらわれることはすくなくとも夢において可能であり、人の経緯に介入するものとなる。

ここからするなら女神のことばMet. 11, 5, 4: 「今迄のお前の不幸に同情し、お前の味方となり慰めて挙げようと思ってやってきたのです。Adsum tuos miserata casus, adsum favens et propitiaにも驚くことはない。イシスの顕現aretalogia[1]は二つの定式に分けられる。後続する多称召喚polynymia sacraは伝統的な諸女神のすべてをもって万有宇宙を支配する神の一性を祝うもの[2]。讃歌の調子で神々が召喚される(いささかルクレティウス式に)。

 

イシスは次のように語る。

(Met. 11, 5, 1) rerum naturae parens, / elementorum omnium domina, / saeculorum progenies initialis, / summa numinum, / regina manium, / prima caelitum, / deorum dearumque facies uniformis, / quae caeli luminosa culmina, / maris salubria flamina, / inferum deplorata silentia / nutibus meis dispenso.

「私は万物の母、あらゆる原理の支配者、人類のそもそもの創造主、至上の女神、黄泉の女王、天界の最古参にして、世界の神々や女神の理想の原型。そして私は輝く蒼穹と海を吹きわたる順風と地獄の恐しい沈黙を、意のままに統御できます。」

 

これにつづき、イシスはさまざまな相貌においていたるところで崇められる唯一の神性であることが言明される。さまざまな儀礼、さまざまな名において(cuius numen unicum multiformi specie, ritu vario, nomine multiiugo totus veneratur orbis)。フリギアでは神々の母ぺシュヌンテ(キュベレCibele)として、アッティカではケークロピアのミネルヴァとして、キプロスではパポスのヴェヌス、クレタではディアーナ・ディクティンナ、シチリアではプロセルピナ、エレウシスではケレレと。他にユーノー、ベッローナ、ヘカテあるいはネメシスと呼ばれるが、エチオピアとエジプトではその真の名王女イシスをもって呼ばれ祝われる。

(Met. 11, 5, 3)[3]

 

エジプトのギリシャ語パピルス(三世紀)には、オデュッセウスがアテナに呼びかけたことばのうちにイシスに由来する折衷主義がしるされている。

 

「栄光の砦よ、神々の中でももっとも偉大な者よ、/ 頭から生まれたパラスよ、天の芽吹きよ、/ 武装した女神、忌わしい視線の女神、ゴルゴンを殺した女神、/ 光の盾をもち、蛇のしるしを胸にして、右手に槍をもつ女神よ、/ 美しく武装した、男のような視線の、踝には着物を結んだ女神よ、/ 花婿をもたぬ女神よ−婚姻なしの場所に宿る汝−/ 処女から生まれた処女よ、/ 汝は全能の巨人の光線を / 汝の頭のうちに光輝を / 汝の神々しき頬に月の円盤を、/ 汝の両腕のうちに世界をもつ。/ 汝は万有宇宙である。汝のお陰でわたしは生命の光を見る。/ 汝とともにあることで、わたしは神々の怒りをも免れる。」[4]

 

神々の添え名の多重性は、女神の神話の要約、物語における特徴性質によるばかりでなく、アテナの姿の特徴を太陽の、宇宙創造神の神学として万有宇宙の神性にまで拡張してみせたものであり、これはまたイシスをエジプトの宗教、アプレイウスのものがたりから展開してみせるものでもある。

ここで聖なる諸玄義に参入したルキウスの女神に向けられた連禱を先にみておこう(Met. 11, 25, 1-6: Tu quidem, sancta et humani generis sospitatrix perpetua etc.)ここで自己表現の語彙にとどまるなら、イシスがたちまちの解放を約束しているのが分かる。iam tibi providentia mea inlucescit dies salutaris. ルキウス−人の蘇りはイシスの航海(ナヴィギウム・イシディス)[5]の祭日に相当するその翌朝に起こるだろう。この日の儀礼について。

 

(Met., 11. 6.) meo monitu sacerdos in ipso procinctu pompae roseam manu dextera sistro cohaerentem gestabit coronam. Incunctanter ergo dimotis turbulis alacer continuare pompam mea volentia fretus et de proximo clementer velut manum sacerdotis osculabundus rosis decerptis pessimae mihique iam dudum detestabilis belvae istius corio te protinus exue.

「一人の司祭が私の指図に従い、お祭の行列の中心を歩み、右手には振鈴(シストルム)に絡ませた薔薇の花環を持っています。それでお前は少しも臆することなく、群衆を押し分けて、決然とその行列に近寄り、私の恩寵を信じきって、丁度その司祭の手に接吻するよう見せかけて、すぐ側から儀礼正しく、その薔薇を捥ぎ取るのです。」

 

とはいえ人に戻ることは元の状況に帰ることに限られない。来たるべき幸福な条件を求める代償として入信儀礼が必要となる。そこに行動的な生と観照的な生の総合可能性というプラトン主義的省察が、エジプトの宗教という文脈の中で語られる(Met. 11, 5-6)

 

ここで夢解釈とエジプトの神性の顕現について伝統的な理説を見ておこう。すでにピタゴラス派の文法学者アレクサンドロ・ポリイストーレAlessandro Poliistore (I sec. a.C.)は次のように言っている。

「気のすべては魂に溢れている。ダイモーンたちエロイたちを崇めたまえ。彼らこそ人々に夢を送り届け、奇瑞を起こす者たちである。」

Alex. Polyhist fr. 1a DK. Vd. Guidorizzi 1995.

中期プラトン主義における「デモノロギア」においては万有宇宙を媒介する諸力という主題が発展する。夢と幻視(ヴィジョン)はこうした力を伝える知識(装置)で、ダルディのアルテミドロスArtemidoro di Daldiの『夢解釈Onirocritica』(二世紀の皇帝社会の夜の事情をあらわしている)はエジプトの神性にかかわる夢の世俗的解釈としてもみることができる。

「セラピス、イシス[6]、アヌビス、ハルポクラテスはその神性そのものあるいは彫像によって、神殿の祭壇で崇められる神々のその玄義および神話を、その危難、脅威、困難を告げるとともにそこからの救済への期待も果たされる。実際、これらの神性は常に救い主たち(ソテーレス)とみなされてきたものである。」(2, 39)

 



[1] Sulla nozione di aretalogia e i principali documenti isiaci vd. Reitzenstein 1906, 11 ss.; Kiefer 1929; Muller 1961; Bergman 1968; Longo 1969; Mora II, 1990, 47-70. Sui rapporti con la narrativa vd. Weinreich 1931; Merkelbach 1994; Beck 1996.

[2] Vd. Griffi ths 1975, 137 ss., in particolare sulla compresenza di sincretismo politeistico e di orientamento monoteistico. Vd. altresi Versnel 1990. Per le divinita egizie dai molti nomi vd. Bricault 1996

[3] [Met. 6, 4, 1-3, のプシュケのユーノーへの祈り参照。 (Zygia, Lucina. Sospita)]

[4] cfr. Gianotti 2005. このパピルス文書 (PKoln VI 245) はまた、トゥスコロに出土したモザイクについても考えさせてくれる。(現 Sala a Croce Greca dei Musei Vaticani蔵、三−四世紀のもので、ミネルヴァと月の諸相が描かれている (cfr. Boitani 2013, fi gura 23; passi apuleiani che qui interessano compaiono a p. 101 e in n. 40 di p. 522)。また、ルキアノスの『シュリアの女神』Lucian. De dea Syria 32では、アタルガティスAtargatisがヘーラー、アテナ、アフロディテ、セレーネ、レア、アルテミス、ネメシスと同一視されている。.

[5] イシスの航海の祭日については以下の文献を参照。Merkelbach 1963, 39 ss.; Malaise 1972, 217 ss.; Dunand 1973, 223 ss.; Griffiths 1975, 31 ss. In generale vd. Bricault, Versluys 2010 e 2014; Bricault 2013.

[6] 夢におけるイシスの治癒的なはたらきについては、cfr. Diod. 1, 25 を、エジプトの伝承については= S. Sauneron, Les songes et leur interpretation, Paris, Seuil, 1959, 15-61. ; M. C. Barrigon Fuentes, Les dieux egyptiens dans l’Onirocriticon d’Artemidore, ≪Kernos≫ 7, 1994, 29-45. 参照

イシスとオシリス再考 1


 

Cfr. GIAN FRANCO GIANOTTI, Tra Platone e Iside: per una rilettura dell’undecimo libro delle Metamorfosi di Apuleio, Acc. Sc. Torino, Atti Sc. Mor. 148 (2014), 51-103

https://www.accademiadellescienze.it/media/1053/download

 

アプレイオス『黄金の驢馬』第十一書

 

『黄金の驢馬』最終書は海岸の夜景からはじまる。人群れから離れ、獣−人はこの二重の異様な自然本性を免れる方策を宇宙という大劇場のどこに探るべきか分からない。夜、怖れに卒然と目覚める。聖なる恐ろしい玄義mysterium tremendumの閾に。ルキウス−驢馬は波濤から満月が輝き昇るのを見る。

 

(Met. 11, 1, 1: Circa primam ferme noctis vigiliam experrectus pavore subito, video praemicantis lunae candore nimio completum orbem commodum marinis emergentem fluctibus) [1]

「それは最初の夜番の頃でしたでしょうか。私が突然の恐怖から目を覚ますと、丁度その時満月が皓々と輝いて、海の波間から昇ってくるところでした。」呉茂一・田原吉之助訳(以下同)

 

古代にあって、満月はひと月のうちにあって重要な宗教祭儀のための日だった[2]。しばらくあとでこの次の日がmare clausumの冬の休息の後の航海からの帰還を祝う大きな儀式があることを知らされることになる。ただ、それだけではない。アプレイウスが『ソクラテスの神についてDe deo Socratis (1, 116-118)に記しているように、太陽と諸星辰とともに、月も目に見える神々の隊列の一員であり、これらの背後に知性によってのみ感得される諸神性(古典的なオリンポスの神々)がある。そしてすべてに卓越して人知をもってしては表現できかねる至高なる神があるnon posse penuria sermonis humani quavis oratione vel modice conprehendi。いずれにせよ、満月は『ソクラテスの神について』に親しい驢馬にとっては祝祭のしるしであり、卓越した神の力能の実体本性(ヒュポスタシス)であり、これは聖なる信仰によってばかりか哲学的文芸[3]や祈禱によってのみ名指されるもの、人生に対する義なる神の摂理でもある(Met. 11, 1, 2: res ... humanas ipsius regi providentia)。アプレイウスによれば、これはイシスの摂理と同じであり、エジプト人たちにあってオシリスは太陽(ヘリオス)で、「イシスは月(セレネー)に他ならない」(Plutarco, De Iside et Osiride 372D)。いずれにせよ、月への祈りの前に、驢馬−人は清めの灌水を果たす。

 

(Met. 11, 1, 4) alacer exsurgo meque protinus purificandi studio marino lavacro trado septiesque summerso fluctibus capite, quod eum numerum praecipue religionibus aptissimum divinus ille Pythagoras prodidit.

「私は素早く蕩すような眠気を蹴散らし、猛然と跳ね起きて体を清めたい一心で、海水の沐浴を行い、七回ほど頭を波の中に浸し込みました。七回というのも、その数字があの神の如きピュータゴラースによると、儀式に一番適しいということでしたから。」

 

ここに準備のために清めの沐浴が七度繰り返される。神々しいピタゴラスによればあらゆる宗教儀礼にふさわしい回数[4]。...清めが済むと、天の王女としてデメトラ−ケレス(alma frugum parens originalis)に、アフロディテ−天上のヴェヌス(この世に最初にアモルを生み、両性の相違をつくり、人の類を子孫を通して繁殖させた)に、アルテミス−ディアーナ(誕生の守護者)に、ペルセフォネ−プロセルピナ(冥府の女主)に擬される女神として讃えられるセレーネ−月の祈禱がはじまる。これはルクレティウスの節回し[5]。ここで女神たちの名の一覧はギリシャ−ローマの神々として呼ばれるが、そこにエジプトの大母神の主要性格があらわれている。驢馬の体から解放されるための祈りをなす前にルキウスは「いかなる称号、いかなる儀式、いかなる姿でもって呼びかけられても、すべて正しいと思われます。quoquo nomine, quoquo ritu, quaqua facie te fas est invocare (Met. 11, 2, 3).と言っている。名、儀式、姿。この定言は祈禱で召喚される神性の不確かさからなされる反復にも見える(ピタゴラス式の灌水の多価性のように)。しかしじつのところこれは宗教的折衷主義のポリオニュミアpolyonymiaの予兆である[6]。ここでのさまざまな儀礼、いろいろな表現の主は女神イシスである。祈禱は人の姿への帰還の要請とともに終わる。獣の姿には死こそがふさわしいから。

 

(Met. 11, 2, 4) tu meis iam nunc extremis aerumnis subsiste, tu fortunam collapsam adfirma, tu saevis exanclatis casibus pausam pacemque tribue; sit satis laborum, sit satis periculorum. Depelle quadripedis diram faciem[7], redde me conspectui meorum, redde me meo Lucio, ac si quod offensum numen inexorabili me saevitia premit[8], mori saltem liceat, si non licet vivere.

「おんみよ、私に御手をかして、今や極まれる苦脳から救い給え。おんみよ、破滅に瀕している私の運命を挽回して給われ。おんみよ、むごたらしい苦難に打ちひしがれてきた私に、今こそ平和と休息を与えて給われ。これ以上の心労と危険は真平でございます。この呪わしい四つ足の姿を抹殺して、本来の私の姿に立ちかえらして給われ。元のルキウスにして給われ。もしも私が神々の逆鱗に触れ、苛酷な苦難を受けているものなら、よし生は許されなくともせめて死でも与えて給われ。」

 

月に向かってなされる祈禱はイシスによって迎え入れられることとなる[9]。月の円盤には可視的なヒュポスタシスがあり、ヒュパタHypataの夜の魔術的実修の失敗を癒す救済論的な力能をもつ。月が水から昇る(Met. 11, 3, 2: 「少しづつ、全身が浮かび上ったと思うと、その御姿を燦然と輝らし、海水を振り落としながら、私の前に静かに立ち給うたのです。」paulatim toto corpore perlucidum simulacrum excusso pelago ante me constitisse visum est)ように、ルキウスは夢に女神の像のあらわれを見る。これは一人称(主人公以上に著者としての)で語られるすばらしいヴィジョン...

 

(Met. 11, 3, 3: eius mirandam speciem ad vos etiam referre conitar, si tamen mihi disserendi tribuerit facultatem paupertas oris humani vel ipsum numen eius dapsilem copiam elocutilis facundiae subministraverit).

「ああ、その驚くべき光景を何とかして皆さんにもお知らせしたいものです。しかし人間の貧しい詞藻をもってしては、所詮それを物語る手段もなく、そのうえ残念なことに、その女神御自身私に雄弁術のあり余る豊富な才能を賦与されていなかったもので致し方ございません。」

 

...言辞に尽くせないという表現は他にも認められる。

la descrizione del gruppo scultoreo di Diana al bagno e della metamorfosi di Atteone presente nell’atrio di Byrrhena (Met. 2, 4, con allusione alla sorte imminente di Lucio); la descrizione del palazzo di Cupido e delle splendide fattezze del dio svelate dalla lucerna di Psyche (Met. 5, 1-2 e 22), la scena e gli attori della pantomima nel circo di Corinto (Met. 10, 31-32: giudizio di Paride)72.

ここではイシスの姿が詳述対象となっている。長く美しい髪crines uberrimi prolixiqueから花冠(月の円盤の紋章(エムブレマ))、これを飾る毒蛇と麦の穂、亜麻の長衣、「時には白光のように輝き、時にはサフランの花のように橙色に、時には深紅のバラのように燃えていました」nunc albo candore lucida, nunc croceo flore lutea, nunc roseo rubore flammida、そして、「刺繍のある縁飾りに、外衣の地と同じような星が鏤められて輝く」漆黒の外衣palla nigerrima、「それらの星の真中に焔の色の満月が皓々と照って」いた。また女神はその右手にまさにイシスをあらわす振鈴(シストルムaureum crepitaculumをもち、左手に黄金のシンビウムcymbium aureum[10]つまり舟型の黄金の小箱)を垂らしている。これはつづく「イシスの航海navigium Isidisの祭礼(carro navale)」を暗示している。そしてその足には棕櫚の草履(サンダル)を履いている(Met. 11, 4)

エジプトの宗教としてのイシス−月崇拝について、その図像研究は E. A. Arslan, Iside. Il mito, il mistero, la magia, Milano, Electa, 1997、オヴィディウスの影響についてL. Nicolini, Uno sguardo ecfrastico sulla realta: modi dell’infl uenza ovidiana in Apuleio, in M. Carmignani, L. Graverini, B. Todd Lee (a cura di), Collected Studies on the Roman Novel. Ensayos sobre la novela romana, Cordoba, Brujas, 2013, 157-178.参照。

 



[1] 最終書にかかわる研究論考としては、

De Jong 1900; = K.H.E. De Jong, De Apuleio Isiacorum Mysteriorum Teste, Lugduni Batavorum, Brill, 1900 (Nabu Press 2012).

Medan 1925; = P. Medan, Apulee. Metamorphoses, livre XI, diss. Paris 1925.

Berreth 1931; = J. Berreth, Studien zum Isisbuch in Apuleius’ Metamorphosen, Diss. Tubingen 1931.

Marsili 1964; = A. Marsili, Apuleio. Metamorfosi, libro XI, Pisa, Colombo Cursi, 1964.

Witt 1971; = R.E. Witt, Isis in the Ancient World, Ithaca (NY), Cornell University Press, 1971. 

Harrauer 1973; = Chr. Harrauer, Kommentar zum Isisbuch des Apuleius, Diss. Wien 1973.

Marin Ceballos 1973; = M.C. Marin Ceballos, La Religion de Isis en las Metamorfosis de Apuleyo, ≪Habis≫ 4, 1973, 127-179.

Fredouille 1975; = J.C. Fredouille, Apulei Metamorphoseon Liber XI. Apulee, Metamorphoses, Livre XI, Paris, PUF, 1975.

Griffiths 1975 (sintesi in Griffi ths 1978); J.G. Griffi ths, Apuleius of Madauros. The Isis-Book (Metamorphoses, Book XI), Leiden, Brill, 1975.

Merkelbach 1993; = R. Merkelbach, Die Isismysterien nach dem XI. Buch der Metamorphosen des Apuleius, in H. Kessler (a cura di), Gefahren und Chancen des Wertewandels. Abhandlungen mehrerer Beitrage, Mannheim, Verlag der Humboldt- Gesellschaft, 1993, 226-240.

Egelhaaf-Gaiser 2000; = U. Egelhaaf-Gaiser, Kultraume im romischen Alltag: das Isisbuch des Apuleius und der Ort von Religion im kaiserzeitlichen Rom, Stuttgart, Steiner, 2000.

Keulen, Egelhaaf-Gaiser 2012; = W. H. Keulen, U. Egelhaaf-Gaiser (a cura di), Aspects of Apuleius’ Golden Ass, III, The Isis Book, Leiden, Brill, 2012.

Keulen et alii 2015. = W.H. Keulen, S. Tilg, L. Nicolini, L. Graverini, S.J. Harrison, S. Panayotakis. D. van Mal-Maeder, Apuleius Madaurensis. Metamorphoses. Book XI. Text, Introduction and Commentary, Leiden-Boston, Brill, 2015.

[2] Vd. in generale Preaux 1973; Lunais 1979.

[3] ここにはエジプト式の本性が垣間見られるにせよ、月およびこれと関連する金星(ヴェヌス)の力能に帰されるもので(De deo Socratis, Florida, Apologia)、アプレイウスはルクレティウスからこれを借りているところもあり(『事物の自然についてDe rerum natura』はヴェヌスの讃歌からはじまる)、プラトンの『饗宴』の余韻も認められる。vd. per es. Marangoni 2005-2006. = C. Marangoni, Sui modelli della Venus uulgaria di Apuleio, apol. 12 (con un appunto su Iside-Luna, met. XI 1), ≪Incontri Triestini di Filologia Classica≫ 5, 2005-2006, 273-283.

https://www.openstarts.units.it/bitstream/10077/2301/1/18.pdf

 

[4] 七という数に関連する儀礼についてはvd. Griffiths 1975, 113-114

[5] Vd. Zimmerman 2006. = M. Zimmerman, Awe and Opposition: the Ambivalent Presence of Lucretius in Apuleius’ Metamorphoses, in AA.VV. 2006, 317-339.

[6] これはアプレイウスの『世界についてDe mundo370にすでにあらわれる主題「至高なる神は一であるがその名は多であるcum sit unus, plurimis nominibus cietur 」で、ここではイシス崇拝に到達することとなる。

[7] Vd. in Met. 11, 6, 2 イシスのことば: 「すると、私がこんなに長い間憎んできたお前の呪わしい獣の皮は、見る見るうちに剥ぎ取られてしまうでしょう。pessimae mihique iam dudum detestabilis belvae istius corio te protinus exue.」驢馬はセツ−テュポンの獣であるところからして、イシスにとっては憎悪すべきもの。

[8] プシュケとクピドのものがたりには神の怒りという叙事的主題が認められる。これはヴェヌスのプシケに対する無益な敵意(死すべき定めの乙女の不当な美しさに対する)としてあらわれる。ここではここまで黙されてきた主題として、ルキウスは最終的な解決を述べる前に、叙事詩的伝統(とくにオデュッセア)に対する讃美として来たるべきことをものがたる。

[9] Vd. Boscolo 1986; Domingues 1994.

[10] ?呉訳では「黄金の燭台」

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