自然学は諸偶性の知見から何性quidditasの知見へと遡ることは決してできない。なぜといって、実体がそれ自体可感的であることは決してなく、可感的であるのはつねに諸偶性であるから。
Buridano, De anima, I, 6, f.3va : substantia non est per se sensibile, sed per accidens.
自然学者は諸事物をその変移によってのみ考察する、つまりそれがどのように動くか、どのように生起するか、そしてなぜ壊敗するか、あるいはなぜこのように動くことにおいて成りまた壊敗するのかを考えるが、これらはいずれも定性的理拠〔何性の根拠〕ではない。
Buridano, In metaphys., VI, 1, f.33rb : Physicus enim non considerat de rebus nisi secundum quod sunt transmutabiles vel in ordine ad transmutationes ut quomodo movent vel moventur quomodo generantur et corrumpuntur … vel propter quas sic movent vel moventur, fiunt aut corrumpuntur, et ille non sunt rationes quidditative.
つまり自然学的説明というのは諸事物の特殊個別な性質の記述であって、それらの実体的あるいは定性的〔何性による〕規定ではない。
Ibid.: Sed tales descriptiones non sunt diffinitiones simpliciter quidditative.

一方、幾何学もまた特殊学であり、測ることのできるかぎりでの大きさ、かたちを扱うものである。それゆえ、「角度とは何かquae res est angulus」とか「三つの等しい角が二直角となるものは何であるか(三つの角が二直角に等しいものは何であるか〔ではなく?〕)quae res est habere tres angulos aequales duobus rectis」を知るものではない。
また数学者は、量、大きさ、数が何であるのかを考察することはない(つまり大きさとはなんらかの実体であるのか、数的に列挙されるものと数は別であるのか、と問うたりしない)。

天使angelusとは角度angulosのことであったのだろうか
以前、アラヌス・デ・リラの小論の不明な一節をそのまま放置したことがありました。(カテゴリー欄『可知的球体について』22の項参照)
またフィオレのヨアキムの『十玄琴』は三位一体の三角形の一辺を区分して人と九天使を振り分けたりもしています。