われわれは可能知性であるかもしくは能動知性である。ところで、可能態および現勢態において(知性によって)複合(構成)された諸有(存在者)のすべてはこの個人の本質とは異なるとすると、わたしはわたしの本質とは異なることとなるだろうわたしの自己は可能態および現勢態からなる(複合する)知性である一方、わたしの自己の本質は現勢態(能作)からなって(構成されて)いる。わたしが考えるもの、わたしが記すものの様相を、可能態と現勢態の複合した知性が記述する。こうしたものの記述は可能態にあるのではなく、現勢態にある(ものとして記述される)。これらが知性に現勢態としてはたらく(知性を能作させる)。能動知性が不可分に与えるものどもが可能知性に不可分に受け入れられることはできないとしても、なにも驚くべきところはない。実際、体躯(物体)の中で質料は諸性質を不可分に受け取るのではない。諸性質はそれらに固有の観念的本質に従って分割することは不能であるにもかかわらず、質料はこれまた不可分な白さを分割されたもののように受け取る。それは動物が動物の本質と異なるように、動物の本質が動物の依存しているように、わたしもわたしの本質とは異なっている。つまり、わたしの本質はに依存しているが、のあらゆる種に依存しているのではない。それは可感的に依存しない。というのもすでに述べたように、これは想像力の質料(素材)であるから。また想像的魂に依存するものでもない。というのもこれまたすでに述べたように、これは可能知性の質料(素材)であるから。また可能知性に依存するものでもない。というのもこれまたすでに述べたように、これは能動知性の質料(素材)であるから。それゆえ、わたしの本質は例外的に能動知性依存している。というのもすでに述べたように、これだけがまさに固有の意味で形相である、つまり諸形相の形相であるから。一方、の諸他の種は同時に基体であり形相である。すでに述べたように、自然本性は下位なる諸有(存在者)にとっては諸形相として昇る一方、上位なる諸有(存在者)にとっては質料となる(として降る)。その最終的にして極限的な形相がこの能動知性であり、自然本性はこの限界に到達すると停止(固着)する。なぜなら、能動知性の基体として与えられ得るようなより上位なるなにものかはもはや何もないから[1][p.101] とするとわれわれは能動知性であり、とするといったいなぜわれわれは死後、この世で思惟したことがらを想起することがないのか、とアリストテレスが問いを立てていることには十分な理由がある。この問いの解決は、ここであるいは先に知性についてなした言明、つまり能動知性は非受動である一方、受動的な知性は壊敗的である、に見合ったものとなるだろう。

 



[1] cfr. tr.lat. III.XXVII, p.304 ed.1542: Solus enim intellectus agens proprie & maxime censendus est forma, imo vero forma formarum: inferiora autem caetera modo subiectorum loco, modo formarum habentur. Sane ordo naturae & processus hic est, ut respectu inferiorum superioribus vice formarum utatur, respectu superiorum inferioribus loco materie. Summam vero & supremam formarum intellectum agentem constituit, quo simulatque progressa est, receptui canit, in eoque finem quasi extremam manum imponit, utpote quae nullam formam superiorem aut nobiliorem haberet, cui loco materiae subiiceret intellectum agentem.