ヘルモゲネスを探して

錬金術書を読む Si hoc est quomodo est, si non est quomodo non est [Avicennae ad Hasen Regem Epistula de Re Recta, c.1]

アヴィセンナの神秘的物語三題

アヴィセンナ「サラーマーンとアブサールのものがたり」要説 4


Recital of Salaman and Absal, in Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, tr.eng. W. R. Trask, New York 1960.

 

〔ナシーラディン・トゥーシーによる要約〕

***

「ものがたり

サラーマーンとアブサールは母を同じくする義兄弟だった。アブサールの方が若く、彼は母に育てられた。成長とともに彼はいよいよ美しくなり、また知的になった。彼は文芸および知識(学知)に秀で、純潔で勇敢だった。そんな折、サラーマーンの妻が熱烈に彼を愛することとなった。彼女はサラーマーンに言った。「彼にもっと頻繁にあなたの家族を訪ねるように言ってください。そうすればあなたの子供たちは彼からいろいろ学ぶことができるでしょう」。そこでサラーマーンは彼にそのように誘ったが、アブサールは婦女と交わることを絶対的に拒んだ。そこでサラーマーンは言った。「君にとってわたしの妻は母親の類だろう」。こう説得されてアブサールは兄の家を訪れた。

若い妻は彼を熱烈に見詰めた。後に彼女は密かに彼に自分の気持ちを伝えた。アブサールは困った様子をみせ、彼女は彼が期待に答えてくれはしなさそうだと感じた。そこで彼女はサラーマーンに言った。「あなたの弟をわたしの妹と結婚させましょう」。サラーマーンは彼に彼女の妹を妻として与えることとした。そうこうするうち、サラーマーンの妻は妹に言った。「わたしがあなたをアブサールと結婚させるのはなにも彼をあなただけのものにするためではない。つまりわたしは彼をあなたと共有したいのです」。そしてついに、彼女はアブサールに言った。「わたしの妹はたいへん慎ましい娘です。日中は彼女のもとへ行かないでください。あなたに慣れるまで彼女と口を利かないでください」。婚姻の夜、サラーマーンの妻は妹の床に潜り込み、そこにアブサールがやって来た。彼女はもはや自分自身を抑え切れず、自らの胸をアブサールに押しつけた。アブサールは疑念を抱いて自問した。「慎ましい娘がこのような振る舞いに出るだろうか」。その時、諸天は濃い雲に覆われた。そこから閃光が煌めき、その光が女の顔を照らした。アブサールは彼女を激しく押しのけ、部屋を去り、逃げ出した。

彼はサラーマーンに言った。「わたしはあなたのためにすべての土地を征服したい。わたしにはその力があるから」。そこで彼は軍隊を率い、幾つもの民と戦い、非難を受けることもなく、陸と海を彼の兄のために征服していった。アレクサンドロスより遥か昔、彼は大地のすべての主となった。彼が郷里に戻ると、かの女はもはや彼のことなど忘れているだろうと思ったのだが、彼女は昔の熱情をとり戻し、彼を抱擁しようとした。しかし彼はこれを拒み、彼女を押し戻した。

敵軍があらわれ、これに対してサラーマーンはアブサールとその軍隊を派遣した。するとサラーマーンの妻は軍隊の指揮官たちに、アブサールを戦場に放置するようにと言って大金を分け与えた。そして彼らはそのようになした。敵軍は彼を打ち負かし、彼を傷つけた後、彼が死んだものとみてその血の海の中に放置した。ここに子を養う野生の獣が来て、その涙から彼に乳を与えた。こうして彼は完全に治癒するまで糧を与えられることとなる。そこで彼はサラーマーンを探すと、兄は敵軍に攻囲され、弟の死を嘆いているところだった。アブサールは兄を見つけると、武器庫から武具を取り、敵軍に襲いかかった。彼は敵軍を引きずり出し、その御方を捕虜にした。そして彼の兄を王に挙げた。

サラーマーンの妻は調理人と執事を呼び立て、両者に大金を渡し、アブサールに毒飲料を出させ、これを飲んだ彼は死んだ。彼は血筋ただしい忠実な友で、砂漠で行動する技量にも優れていた。彼の死を兄はたいへん悼み、王位を棄てて同盟者の一人にこれを譲った。そして隠遁生活に入り、主との対話に勤しんだ。主は彼に何が起こったか真実を発いた。サラーマーンは彼の妻、調理人、執事に彼らがアブサールに与えた毒飲料を飲ませ、三人は死んだ。」

 

アヴィセンナ「サラーマーンとアブサールのものがたり」要説 3


Recital of Salaman and Absal, in Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, tr.eng. W. R. Trask, New York 1960.

 

王は愛に対する頑迷な抵抗から結局なにも得ることがなかった。

〔ジャーミーJami(十五世紀)の美しいぺルシャ語詩で主題化されることとなるのはまさにこの点にあたり、ワーミクWamiqとアズラーAzraの愛。これがまたアッタールAttar(十二世紀末)の鳥たちがシモルグの館でのみ体験するところ。

ワーミクは言った。「わたしの望みはアズラーとともに砂漠で自由になること。わたしの生地で孤独のうちに、泉の傍らに天幕を立て、友からも敵からも離れ、魂とからだともに静穏に過ごすこと」。...そして二性(対性)は合一へと向かう〕

そして、二人の不遇な愛人たちはお互いに手を取り合って海に身を投げる。王は水の霊的実体に命じ、サラーマーンを救うため救援隊を送る。一方、アブサールは溺死した。アブサールが死に、自分だけが助けられたことを知ったサラーマーンは深く嘆く。そこで王はやっと自らの手筈が間違っていたことを理解する。彼はどうすべきか、ふたたび賢者アクリクラスに相談する。彼の唯一の息子は狂気のうちに死ぬ定めなのか。賢者には遠大な計画があった。

〔ジャーミーは賢者の口を借りてこう答えている。「数日のうちにわたしは彼を癒し、アブサールを彼の永遠の伴侶としてみせましょう」。謎に満ちた矛盾した約束。それこそ入信儀礼(秘儀参入)の果実。賢者は若者に問うた。「サラーマーンよ、あなたはアブサールとふたたび一緒になりたいか」。「それ以外に何を望むことがありましょう」。「では、わたしと一緒にサラペイオンの洞窟へ行き、そこで四十日を過ごしましょう。そうすればアブサールはあなたのもとに戻されるでしょう」。サラーマーンは肯い、彼らは一緒にそこへ赴いた。そこで賢者は三つの条件を出した。第一、サラーマーンはアブサールのものと同じ外套を纏うこと。そして賢者がなしてみせることを、すべて彼もなすこと。ただし賢者は四十日断食をつづけるが、サラーマーンは七日毎に断食を中断する。最後に、彼は生涯にわたりアブサール以外の女を愛さない。「賢者よ、わたしはそのすべてを承認する」とサラーマーンは誓った。

そこで賢者は祈禱をはじめ、四十日間にわたりヴェヌスを召喚しつづけた。そして毎日、サラーマーンはそこにアブサールの姿があらわれるのを見た。彼女は彼の傍らに坐し、愛おしそうに彼に語りかけた。彼は彼が目にしたことのすべてを賢者に語り、アブサールの幻視が彼にもたらされたことを感謝した。四十日が完了するにあたり、そこに驚くべき姿が顕現した。その不可思議な姿はあらゆる美を先取りする驚くべき美であった。それはヴェヌスの姿そのものだった。サラーマーンはたちまち彼女に心奪われた。その激しい愛情は、彼にアブサールの愛を完全に忘れさせるほど大きかった。「賢者よ、もはやわたしはアブサールを望まない。この姿のうちに、わたしをアブサールの伴侶とすることに逆する「しるし」が見つかったから。わたしはこの姿より外のものを望まない」。しかし賢者はこれに応じて言った。「あなたはアブサールより他のものを決して愛さないという条件を肯ったではないか。いまやアブサールが帰って来て、あなたに戻される時も近い。それがわれわれの祈禱の成就ではないのか」。「賢者よ、助けたまえ。わたしはこの姿より他を望まない」。

 

〔ここでフナイン文書は曖昧さを残しつつ途絶している。

ナシーラディン・トゥーシーによる要約では、「賢者がこの霊的実体の姿(顕現)に請願し、この姿はつねにサラーマーンを訪れることとなった」。一方、フナイン文書では、サラーマーンはこの姿からも遠ざかるもののようにみえる。いずれにせよその帰結については述べられていない。トゥーシーの註によれば、天上のヴェヌス=アフロディテへのサラーマーンの愛は、明確に彼の王の息子filius regiusへの変容をあらわしている。「彼は彼女への激しい愛に陥り、その姿は永遠に彼とともに留まることとなった。一方、アブサールの姿は彼から消滅し、これから離れることが彼を王の尊厳にふさわしいものとなした」。

 

〔*コルバンがここで付記しているエピローグ譚は、直接この物語に付されたものではなさそう。錬金術板の伝説を直接引いたもので、註にBidez-Cumont, II, 338; II, 319, n.8; II, 324, n.12; Ruska index, s.v.とある。これは後でみてみることにしたい。〕

 

「サラーマーンは玉座に登り、はかりしれない声望を得た。彼の命により、彼のものがたりは七枚の黄金の板に記され、また別の七枚の黄金板には諸惑星への祈禱詞が書かれた。これらの板はピラミッドのなか、彼の父の石棺の枕元に収められた。水と火の二つの大洪水の後、神のごとき賢者プラトンがあらわれた。尊い知識と高貴な宝がピラミッドの中に隠されている、と彼は聞かされた。彼はそこを訪ねる旅をした(Bidez-Cumont, II, 210, n.11)が、当時の王はそれを発くことを許さなかった。彼は弟子のアリストテレスにこれを入手し、その霊的知識を学ぶように遺言した。アリストテレスはアレクサンドロス大帝が東へ派兵する機会を利して、彼と一緒にピラミッドに赴き、アリストテレスはプラトンから遺言で伝えられた秘密の力によってその閾を開いた。アレクサンドロスはサラーマーンとアブサールのものがたりを書き留めた板の数々を取り出すことができただけだった。その後、その扉は閉じられ...」

 

アヴィセンナ「サラーマーンとアブサールのものがたり」要説 2


Recital of Salaman and Absal, in Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, tr.eng. W. R. Trask, New York 1960.

 

こうしたたいへん賢明な勧告に納得することもないままサラーマーンは黙していた。彼はアブサールにこの会話を繰り返してみせた。すると彼女はこう言った。「その人の言うことは捨て置きなさい。彼はあなたの現在の歓びを奪おうとしているのです。大方虚しい約束のために。わたしはあなたの魂を歓ばせる答えのできる女です。もしあなたが知性的で確固たる人であるなら、王のもとへ赴き、わたしたちの秘密を明かしなさい。あなたはわたしを棄てることができる人ではありません。もちろんわたしとてあなたを棄てません」。この決意を面と向かって告げるなどしない方がいいに決まっていた。そこで彼は高官の一人にこれを伝える役目を委ねた。いまや状況は絶望的だった。王は激しく後悔した。王の諫言は以前同様、聞き届けられることもなかった。「サラーマーンの時間を二つに等分し、一方を賢者のもとでの修養に、他方をアブサールにあたえる」という妥協策が講じられ、そのようになされた。しかしながら、サラーマーンが所定の時間、必要な知識の習得に努めた後も彼は王のために務めを果たさねばならないことを知った。彼にはただ一つ、アブサールのもとへ戻って彼女と戯れたい、という想いしかなかった。王はふたたび敗北感に塗れた。彼は賢者たちに相談した。アブサールを退けるためには彼女を殺す他ないのか、と。しかし高官は断固これに反対した。「自ら樹てることのできないものを壊させるような傲慢をはたらいてはなりません。もしも王がこれをなすなら、その住居の基礎そのものが崩され、彼の自然本性をなす諸元素(要素)の構成が解消されてしまう恐れがあります。これは彼にケルビムの合唱を聴く途(つまり魂の癒しは破壊を目的とするものではなく、可感的自然本性の昇華による)を開くことにはならないでしょう。「子供」は自らがなすべき務めを徐々に自ら見出していくのでなければなりません」。

お節介な密使がこの対談をサラーマーンに報じると、彼はすぐさまこれをアブサールに伝えた。彼らは王の裏をかくにはどうすればいいか画策し、西の海を越えて逃げようと考えた。王は彼らの様子について報告を受けると、降霊術的な図案で飾り、七つの風土(気候)に対応する七つの穴をあけた黄金の二本の葦をとりだした。これらの穴の一つを吹き、ここに一摘みの灰を据えて炎の中で砕くことで、これに照応する風土(気候)でなにが起こっているかを知ることができた。こうしてヘルマノスは、サラーマーンとアブサールが身を隠した場所を探り出した。彼はまた、彼らが流浪ghurbaの悲惨を忍苦していることをも知った。彼はこころ動かされ、彼らに僅かばかりの救いの手を伸べた。しかしサラーマーンは自らの意志による流浪をつづけ、ヘルマノスの怒りの矛先は彼らの情熱の霊的内実ruhaniyatの方へと転じ、これを破壊すべく努めることとなる。二人の愛する者たちにとってはこれこそ最も耐えがたい苦痛であり、もっとも忌まわしい拷問だった。彼らはお互いを見つめ合い、激しい欲望を掻き立てられたが、結ばれることができなかった。サラーマーンは彼らに起こっている事態が彼の父親の怒りに起因するものであることを理解した。そこで彼は立ち上がり、赦免を求めて王のもとへと赴いた。王は最後の力を振り絞るようにして、彼の息子がアブサールと一緒になると同時に玉座に就くことは不可能であることを説いた。王座かアブサールか。彼が玉座に登るにあたり、アブサールは彼の足に縛りつけられた枷となり、天球の玉座に就くことを阻むこととなるだろう、と。王は二人の愛人を曖昧な立場に据えたままにしてきた自らの体験から、そのことばを言明した。黄昏時、彼らは告別した。

 

アヴィセンナ「サラーマーンとアブサールのものがたり」要説 1


Recital of Salaman and Absal, in Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, tr.eng. W. R. Trask, New York 1960.

Cfr. 森下信子「アラビア語版『サラーマーンとイブサール物語』の写本研究−古代末期からイスラームへの文化伝播に関する文献学的考察−」2013, 第三章

http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/57388

 

〔*アヴィセンナのオリジナル文書は現在に伝わらない(とされる)。コルバン上掲書の時点では、森下さんが研究される偽フナイン訳写本はみつかっていなかった。森下さんの論考全文の公刊が待ち遠しい。以下はトラスクによるコルバン英訳にみるいわゆるフナイン版摘要から〕

 

〔フナイン版〕

***

往昔、火の大洪水の前、ヘラクルHeraqlの息子ヘルマノスHermanos[1]という名の王がいた。彼はビザンツ帝国を海浜の地に拓いた。これはギリシャ諸都市およびエジプトの地を包摂した。ピラミッドと呼ばれるあの広大なる降神術の(魔術的)建築物を建てたのも彼だった。それは諸元素[2](個人の力?)によっても百卒隊数千人をもってしても凌駕し得ない(克服し得ない)ようなものだった。この王は深遠な知識と膨大な権力をもっていた。彼は諸星辰の注入(影響)にも精通しており、さまざまな自然本性を熟知し、降神術の業をも実修した。彼の忠臣に神的な賢者アクリクラスAqliqulasがあり、この人が彼を隠秘知識へと導いたのだった。この神的な人はその生涯をサラペイオンSarapeion[3]と呼ばれる洞窟で霊的実修に努めた。その糧(滋養)としては四十日毎に僅かばかりの薬草を摂っただけだった。彼の生涯は三周期(?)に及んだ。

ある日、王はこの賢者に後継ぎ(息子)がないことを嘆いた。いずれにせよ、ヘルマノスは婦女を愛することがなく、誰も彼を婦女に近づけることができなかった。賢者の忠言にもかかわらず、彼は婦女との交渉を拒みつづけた。賢者には後一つしか解決策が残されていなかった。占星術的観察から適切な「昇機(アセンダント)」を定めてマンドラゴラを掘りだし、これに王の精液を僅かに混ぜ、賢者はこの混合物を作業にふさわしい環境に据えた。これがそれを司る魂を受け取る準備ができ、完全に人の姿となるまで。これは実行され、この変成術的作業によって生まれた赤子はサラーマーンと名づけられた。

この赤子のために乳母が選ばれた。たいへん美しい十八歳の娘で名をアブサールといい、彼女が赤子の世話をすることとなった。ヘルマノスは賢者に、報謝の念あらわすために何をしたらよかろうか、と問うた。賢者は彼に忠言した。水にも火にも毀たれることのない巨大な建物を建ててはどうか、と。賢者は諸元素の叛乱を予見していた。この建物は七つの物語をもつこととなるだろう(歴史を閲するだろう)、と。そこには賢者たちだけが知る秘密の扉があり、彼らにとっては確かな隠れ家となるだろう。たとえ全人類が天変地異によってすべて滅びるようなことになろうとも。こうした慎重な配慮を受けて、王は二つの建物の造営に取りかかった。一方は賢者のため、他方は彼らの知識と死後の体躯の保管とともに宝物庫として。こうして二つのピラミッドが建てられた。

小児サラーマーンが生長すると、王はこの子をアブサールから引き離そうとした。彼女にたいへんなついていた少年の絶望は深かった。そこで王は少年が成長するまで彼らを一緒にさせておいた。こうしてサラーマーンのアブサールに対する愛着は愛情に変わり、少年は彼女の虜となり、彼女を情熱的に愛するようになり、しばしば王のための勤めを疎かにした。王は息子を召喚してはいつものように譴責した。彼が逆上して残忍な様子をあらわにしたのはヘルメス的な賢者の前でだけだった。彼は言った。「人というものはつねにより高き光の世界を手繰り寄せようと努めなければならない。それは諸他の光以上に輝き渡るものであり、それらの(光の)真の住まいである。一方、可感的諸物の住まいは最下の状態をあらわしている。「勝利の光」[4]を観照するものとなった人がその中間の度合いに属するものとなる。これより高い段階は、万物の観念的な(理想的な)現実haqa’iqの知識にある。それゆえ、サラーマーンはアブサールを捨てねばならない。彼には彼女は必要ない。至高なる目的に向け、彼女は彼を援けることはできない。彼を男として行動させ、孤独において強壮なる者となそう。ヘルマノスが花嫁を、彼と永遠性において永遠に結ばれることとなる天界の処女を見つけるまでは。そして彼をこの世の主となそう」。

 



[1] Hreaqlはビザンツ王ヘラクレイオスHeracleiosのことか。Haraqielは水星天の天使の名でもある。コルバンはこれが「ヘルマイオス、ヘルメスの息子」の音綴の訛伝ではないかと示唆している。

[2] 後段に「火にも水にも毀たれない」、という一節がある。

[3] あるいはテオドシウス一世のもと、389年に破壊されたセラペウム神殿か。

[4] al-Anwar al-Qahira、これはスフラワルディーに特徴的な語彙となる。

アヴィセンナ『鳥の物語』3


Recital of the Birds

 

結語

兄弟たちはわたしに王の美について語るようにと催促した。わたしはそれを簡潔に描写してみたが、いまだことば足らずである。聞きたまえ。汝のこころに、一切醜悪の混じていない美を思い浮かべてみたまえ。一切欠陥のない完璧について想像してみたまえ。それがわたしの眼前に認められる王である。真の意味で、彼のうちにあらゆる美が実現されている。比喩的な意味でもいかなる不完全も彼からは消失している。あなたが観照し得る相貌の美のすべてが彼にあらわれている。彼の寛大さはあらゆるものを授ける。彼に近づく者は誰も至福を得ることになる。彼から離れる者は誰でもこの世界を、また来たる世界を喪失する...

...わたしのものがたりを聞く耳もたない兄弟たちは言うかもしれない。「あなたはどこかずれているというか、少々狂っている。飛ぶのはあなたではない。あなたの理拠(理性)の方が飛んで(逸脱してしまって)いる。あなたの摘み取ったものは空しい。人が飛ぶだと。鳥が喋るだと。あなたの体液は胆汁(癇癪)の過剰で、脳が乾きすぎている、と言われるが落ちだ。断食して、タイムを焼いたものを飲み、頻繁に水浴するがよい。温水を頭から浴び、睡蓮の精油を吸引するがよい。つづいて軽い断食に移り、遅くまで起きていることを避け、思惟に耽り過ぎない(精神集中し過ぎない)ように。以前、あなたはいつも理拠的(理性的)な人、公正な判断のできる人だった。わたしたちがあなたの状態をたいへん気遣っていることは神がご存知である。あなたの惑乱をまのあたりにして、われわれの方が病気になりそうだ」。

なんという無駄なことば。なんという哀れな結語か。人々が勝手にするお喋りのうちでも最も無駄なものだ。わたしの安らぎは神のうちにある。愚かな人々から解放されて。これと異なった理説を唱える者は来たる世の生をばかりか、この世の生をも失こととなろう。「これを攻撃するものたちは、自らが転覆したものによってそのうちに転覆させられ斃れることとなろうから」。
 

アヴィセンナ『鳥の物語』2


Recital of the Birds

 

ものがたり

真実の兄弟たちよ、狩人の一団が砂漠へと赴いた。彼らは網を広げ、おとりを仕掛けて、藪に潜んだ。わたしは、鳥の群れの中の一羽だった。狩人たちがわれわれを見つけると、彼らはわれわれを拐かすようにたいへん愉快な口笛を吹いて、われわれを引き寄せようとした。われわれは心地のよさそうな場所を見た。われわれの傍らには仲間たちがおり、われわれは一抹の不安も感じておらず、そこを飛び立たせるような疑念もなかった。われわれがそこに留まっていると、われわれは突然罠にかかった。網罠がわれわれの首を絞め、網紐がわれわれの羽根に絡みつき、縄綱がわれわれの脚を縛り上げた。もがけばもがくほど捕縛は強まり、身動きが取れなくなった。そしてわれわれは諦めた。各々は自らの苦痛を思いみるのみ、誰も兄弟に想いを致すこともなくなった。自分が罠を逃れる方策を探るだけ。果ては、われわれになにが起こったのかすら忘れ去った。そして紐縄をも拘禁された籠をも意識することなく、その状況に沈潜しているだけだった。

ある日、網目からぼんやり外を眺めていると、仲間の鳥たちが頭と翼を籠から突き出し、飛び去ろうとしているところが見えた。まだ紐がその足に絡まっており、飛び去ろうとするのを妨げるでもなく、かといって完全に静穏で乱されない生活に戻ることを許すほどでもなかった。彼らを見ているうち、わたしは自分の最前の状態を想い出した。それについてわたしはまったく自覚を失っていたのだが、つまり、往昔、親しい仲間がわたしの在り様(現状)の惨状をわたしに感じさせた時のことだった。その折、わたしは考えた。わたしはこの痛恨の過剰さによって死んでしまうのではないか、彼らの出立を目にしたなら、わたしの魂は音も立てずに体躯を滑り出してしまうのではないか。

わたしは籠の底から彼らに大声で呼びかけた。「来てくれ。近くに。どうやったら解放されることができるのか、その方策を教えてくれ。お願いだ。もうわたしには僅かな力も残されていないのだから」。しかしそれは彼らに狩人の奸策を思い出させるだけだった。わたしの叫びは彼らを怯えさせ、慌ててわたしから遠ざかるのだった。わたしは永遠の友情、錆つくことない同胞愛、破られることのない盟約にかけて、彼らのこころから疑念を振り払ってくれるように哀願した。彼らはふたたびわたしに近づいて来た。

彼らの境位(状態)についてわたしが問うと、彼らはこう言った。「われわれもあなた同様に苦しむ囚われの身。われわれも悲しみ、苦しみ、痛みには慣れてしまっている」。そして彼らはわたしに処置をほどこし、首から紐縄を外し、翼から縛めを取り去ってくれた。そして籠の扉が開かれた。彼らは言った。「この期を利して外へ出るがいい」。しかしわたしは彼らに哀願をつづけた。「わたしの脚に絡みついているこの紐縄をも解いてほしい」と。彼らは言った。「それはわれわれの力に余る。われわれはまず自分の脚に絡まるものを取り去らねばならない。いったい病者が病者を癒せるだろうか」。わたしは籠から出て、彼らとともに飛び上がった。

彼らは言った。「あなたの遥か前方にある土地がある。あなたとそこを隔てるすべての行程(距離)をあなたが過ぎるまで、あなたは危難を避けることができないだろう(あらゆる危難があなたを襲うだろう)。それゆえわれわれの跡に従いたまえ。われわれはあなたを援け、あなたの望みの目的地へとつづく正しい道を先導しよう」。

われわれの飛翔は二つの山の間を通り、緑の肥沃な渓谷を過ぎ、狩人の口笛も聞こえずすべての罠を過ぎ去るまで快適につづいた。そしてわれわれは第一の山の頂に到着し、そこからは他の八つの山々の頂が臨まれた[1]。それらはあまりに高く、視線が届かないほど。われわれはお互いに言い合った。「急ごう。これらの山を越えるまで、われわれはまったく安全だという訳ではないのだ。そのそれぞれにわれわれにとっての誘惑がまち構えている。それらに捕えられ、そうした歓びとそれぞれの地の静穏の蠱惑に留められるなら、われわれは決して到達することはできない」。

骨折りつつ、われわれはひとつひとつ六つの山を越えて、第七の山に到達した。この境界を過ぎると、われわれのうちの誰かが言った。「そろそろ休みませんか。たいへん疲れました。いまや狩人たちからもはるかに隔たり、随分と長距離を飛んできました。僅かばかりの休息はきっと目的地に到達するに役立つでしょう。これ以上疲労すると、われわれは斃れてしまうでしょう」。そこでわれわれはある山の頂で休息した。そこには緑の庭、美しい館の数々、魅力的な楼閣の数々、果樹やら清流のせせらぎやらが見えた。われわれの眼はこれらにたいそう癒された。その美しさにわれわれの魂は混乱し、われわれのこころは惑乱していた。われわれは愛らしい歌を、恍惚とするような奏楽を聴いた。いかにすばらしい龍涎香も乳香も及ばないよい香りを吸った。果物を集め、清流で渇きを癒し、われわれは完全に安息を得るまでそこを離れがたく感じていた。われわれはお互いに語り合った。「先を急ごう。偽りの安寧ほど危険な罠はない。慎重な配慮より他、安全はない。疑いをもって警戒するより他、われわれの保塁はない。われわれはすでにあまりに長くここに留まっている。長逗留は危険だ。われわれの敵はわれわれ見つけ出そうと迫って来ている。さあ行こう」。

われわれはそこを離れた。そこはあまりに快適だったが、救いはより重大だった。われわれは出発に合意し、ここを離れ、八番目の山に到達した。その頂は恒星天に届くほど高かった。鳥たちはその斜面に棲みついていた。わたしはこれほど恍惚たる音楽を聞いたことがなく、これほどすばらしい色彩を、これほど優美なかたちを見たことがなかったし、これほど甘美な仲間に出会ったこともなかった。われわれは彼らの間に降りたち、彼らの蠱惑と繊細さに出会った。その丁重さは筆舌に尽くし難かった。われわれが彼らと完全に親しむと、われわれは彼らにわれわれが耐え忍んできた苦難を語った。それは彼らの共感を呼び、彼らは大いに気配りしつつ言った。「この山を越えると、至高なる王が住まわれる町がある。もし憂慮に圧し潰される者があるなら、彼の庇護を願い、彼にすべてを委ねるといいだろう。不当と苦難のすべてから王は解放してくれるだろう」。

彼らのことばを信じ、われわれは王の町へ向かう決意をした。われわれは彼の宮廷に到着し、彼の接見を待ちわびた。ついにこの新参者たちに引見が赦され、われわれはその城に導き入れられた。そこはじつに広大だった。われわれが歩みを進めると、われわれの前の幕が上がり、光輝く広大な広間があらわれた。それはわれわれに先の広間を忘却させるほど比類なかった。そしてついにわれわれは王の居室に到達した。最後の幕が引き上げられると、われわれの眼前にはかり知れぬ美しさの王があらわれた。われわれのこころは魅了され尽くし、哀願のことばを発する暇もなく呆然としていた。彼はわれわれの脆弱を受けとめて慇懃に応対し、われわれに語るよう鼓舞したまうた。彼は言った。「あなたの脚を拘束している束縛を取り去ることができる者は、それを結んだ者以外にはない。では彼らに使者を遣わし、あなたの拘束をとり除き、あなたが満足できるようにさせよう。行きたまえ。きっと幸福に満足できることになろう」。

そしてわれわれはその途上にある。われわれは神の使者を伴連れとして旅の途次にある。

 



[1] 総計九つの山頂、これは九天球に相当し、すべて合わせてクァフ山をなしている。

アヴィセンナ『鳥の物語』1


Recital of the Birds, in Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, tr.eng. W. R. Trask, New York 1960.

 

序 わたしの兄弟たちのなかにはわたしに耳傾けるものは誰もいない。いったいわたしの悲しみを彼に打ち明けることなどできようか。しかし彼こそはわたしの重荷を分かち合うことができる者。良くも悪しくも友の友情というものは、彼がこれの汚れを清め尽くさぬ限り真実(の幸福)ではない。しかしそのように純粋で誠実なものを友のうちに見出すことができようか。友情は取り引きと化し、友を必要とする時には彼は踵を返し、必要がなくなるとかえって友に対する気がかりも消え去ってしまうのではないか。あなたに不運が訪れるまで訪ねることのない者はもはや友ではない。なんらかの機会にあなたのことを想起する以外思い出すことのない者は友ではない。神的な関係性で結ばれた兄弟たちがおり、これと同じ頻度でまみえる友たちがいる、というのは真実である。彼らは内的視覚をもって真の現実を観照する。彼らは彼らのこころの深みを疑念の錆から清める。そのような兄弟団はただ神的な召命の先触れによってのみ集められ得るもの。彼らはこのようにして集められたものだったのだろうか。彼らにこの証言(遺言)を授けよう。

真実の兄弟たちよ、汝らの秘密を分かち合いたまえ。お互いに集まり、兄弟の前でお互いにそのこころの奥を隠す薄紗をもちあげ、お互いに教え合い、お互いに完成成就(完徳)を成し遂げられるように。

真実の兄弟たちよ、ヤマアラシが退却するように隠棲せよ。孤独の中で隠されてあるものをあらわし、顕れているものを隠せ。神がわたしを見守ってくれますように。あなたの隠されたものをあらわし、あなたの顕れたものを消してくれますように[1]

真実の兄弟たちよ、蛇がその皮を脱ぎ捨てるようにあなたの皮膚を剥きたまえ。蟻のように誰にもその足音が聞えぬように歩みたまえ。蠍のように尾の末端に到るまでその武器を見せてはならない。悪鬼は背後から人を脅しにやって来るから。あなたが生き残れるように毒をとりたまえ。あなたが生きつづけられるように、死を愛したまえ。飛びつづけ、巣に留まることを選ぶんではならない。巣とはすべての鳥たちが捕えられることになる場所。あなたに翼がないなら、翼を盗み取り巧みに身につけよ。最良の照明とは飛翔の力を授けるものゆえ。燃える石を嚥下する牡蠣のように。硬い骨を飲み込むハゲタカのように。自ら容易に大胆に炎に包まれるサラマンドルのように。日中外に出ることのない蝙蝠のように。なるほど蝙蝠は鳥たちの中でも最良のものである。

真実の兄弟たちよ、勇敢な者とは明日に立ち向かうもの。最大の卑劣漢とは自らの成就(完徳)に逡巡するものである。

真実の兄弟たちよ、天使が邪悪を避けるとしてもなにも驚くことはない。獣が邪悪をはたらくにせよ、天使には壊敗する器官はなく、獣は知解のための器官をもたないのだから。かえって驚くべきは人間存在で、自らの邪悪を克服するべきところ、それは知性の光の中にありながらもかえって自らそれらに屈するのである。しかし断固として邪悪な欲望に抵抗する人こそ、天使となる。その力が彼を嘗める邪悪な欲望を追い払うに十分でないと、人は獣の境位(水準)にすら到達することができない。

さて、ここにわれわれのものがたりを語り、われわれの悲しみを説くこととしよう。

 



[1] 顕れているものを隠し、隠れているものを隠す。ta’wilの業。

アヴィセンナ『ハイイ・イブン・ヤクザーン(覚知の息子である生命)の物語』6


Tr. eng. by W. R. Trask from fr. Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, 1960

 

22 「この風土(気候)を出る道を教えられ、この脱出を完成することを援けられた者は、天の諸球圏を超えていく出口を見出すだろう。そこで彼は一瞬のうちに、原初の創造を後継する者たち、王として統率するものおよびこれに従うものたちを識ることになる。

その第一の区画には至高なる王に親しい者たちが住んでいる。彼らは王に近づくため、熱心にはたらきつづけている。彼らはもっとも純粋な民であり、決して貪食、色欲、暴力、嫉妬、怠惰に流されることはない。彼らの勤めは帝国の城壁の警護であり、彼らはそこに留まっている。彼らは町中に聳え立つ城、豪壮な館に住んでいる。その質料素材はたいへん慎重に混合されており、あなたの風土(気候)のもとにある泥土とは似ても似つかないものである。これらの館は金剛石(ダイヤモンド)よりもヒヤキントスよりも硬く、いつまでも磨滅することのないものでできていた。この民には長生が授けられていた。彼らは死の定めを免れており、たいへん長い時を経るまで死が彼らに訪れることはない。彼らの生命の規範は、彼らに与えられた命令(指示)に服し、城壁を守ることにある。

彼らの上には王により親しい民があり、不断に王に仕えつづけている。彼らはこの務めを果たすことを恥じることもない。彼らはいかなる攻撃に対しても、彼らの務めを変じることがない。彼らは親密な者として選ばれ、至高なる館を観照する力を享け、自らそこに留まる。彼らには王の顔を観照しつづけることが保証されている。彼らはその自然本性に甘美で繊細な優美(賜)を受け取り、その思惟に叡知の善を浸透させる。それはすべての知にかかわる最終項(目的的名辞)としての恩典である。彼らには輝く相貌、讃嘆に震えが生じるような美しさが授けられ、その身丈も完全である(輝くように美しい完璧な彫像?)。彼らのそれぞれには各個に固有な限界、神的に定められた度数に準じる一定の位階があり、他のものがそれを襲うことはできず、そこにおいては伴連れもなく、諸他のものたちはこれより高い位階にあるか低い位階にあるかのいずれかとなる。その中には王にもっとも近い一位階があり、この位階は諸他のものたちの「父」であり、諸他のものたちはその子あるいは孫である。彼を通じて、王のことばおよび王の命令(指示)が彼らに伝えられる(発出する)。その他の驚異として、時の経過にあっても彼らは決して老衰せず衰弱を示さない。それらの「父」はその継続においてもっとも古くからのもの(最長老)であるが、他にもまして強壮であり、その相貌はいよいよ若さに輝いている。それらは砂漠に住んでおり、彼らは住居や隠家を必要としない」。

23 「それらにもまして、王はもっとも孤独のうちに引きこもっている。彼と連接しようとする者は根本(本源)的に誤っている。彼にふさわしい称賛を捧げようとする者は益体もないお喋りに過ぎない。王にとっては彼を規定しよう(性格づけよう)という賢慮も効力を失う。なにごとかを彼に較べようとするなどというのは慢心である。彼にはそれを分かつ部分などない(分割されるような四肢はない)。彼はその美の相貌であり、寛容の手である。彼の美は諸他の美の痕跡をすべて消し去る。彼の寛容さは諸他の寛容の価値を失墜させる。彼の広漠さをとり巻いてあるものたちの誰かが彼を瞑想するなら、彼の眼は呆然とまたたき、眩暈に飲み込まれることだろう。彼に視線を向ける前から、すでにその眼は剥奪されてしまうかのように。じつに彼の美は彼の美の被いであり、彼のあらわれは彼の掩蔽の原因であり、彼の顕現は彼の隠匿の原因である。とはいえども、被いすらもが太陽がよりよく観照されるためにあるのであって、逆に太陽の顕現そのものはその輝きの激しさによって損なう。太陽は眼には拒まれてあり、その光はその光の被いに過ぎない。じつに王はその美を王のものである者たちの地平(線)にあらわす。そうした者たちに対し、彼はその幻視をあらわすに吝嗇である訳ではない。彼を観照することができないのは、その能力の悲惨な状態に起因している。彼は柔和にして慈悲深い。彼の寛大さは溢れるばかり。彼の善ははかりしれず、彼の賜は圧倒的である。彼の宮廷は広大で、彼の好意はあらゆるところ(万有宇宙)に行きわたる。彼の美の痕跡を感得する者は誰でも、永劫にこれの観照から離れられない。たとえ瞬きする間であろうと、決してこの者をそれ(観照)から離れさせることはできなくなる」。

24 「時に孤独者は人々の間から彼(王)の方へと移行する。その体験の甘美さは、そうした者たちを彼の典雅(賜)の下に屈させる。彼はあなたの地上の風土(気候)の卓越について、かえってその悲惨さを自覚させることになる。こうした者たちが彼の館から戻ると、彼らはこうした神秘的な賜に呵責することになる」。

25 そして賢者ハイイ・イブン・ヤクザーンはわたしに言った。「あなたにお話ししたのはなにも王のことをあなたに知ってほしかったからではない。わたしはあなたのためにではなく、彼のために務めを果たさねばならない。さて、もしもあなたが望むなら、わたしに着いて来たまえ。わたしとともに彼のもとへと。平安のありますように」。

 

アヴィセンナ『ハイイ・イブン・ヤクザーン(覚知の息子である生命)の物語』5


Tr. eng. by W. R. Trask from fr. Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, 1960

 

18 「東へ向かってまっすぐ進むなら、あなたは悪魔の二つの軍団(二本の角)の間に太陽が昇るのを目のあたりにする。悪魔は二つの軍団(二本の角)をもつものだから。一方は飛び、他方は歩む。歩兵隊は二つの部族からなっており、一方は獲物をとるのに残虐な輩たちであり、もう一方は四足獣の獣たちである。これら二集団の間には不断の戦いが行われており、どちらも東の左側に棲んでいる。飛ぶ悪魔たちは東の右側の区域にいる。皆が同じ体格をしている訳でもない。それどころか、それらは個々に特殊な体格をしており、飛ぶ者であったり、蛇頭の蝮であったり、あるものは二つの自然本性からなっており、他のものは三つの自然本性から、また別のものは四つの自然本性からなっている。あるいはただ半分の人、掌だけ、足だけ、あるいはある動物の部分だけといったように、あるものは半分の自然本性から、他のものは自然本性の断片からなっている。画家たちが描いてみせる複合形象の数々はこの風土(気候)に由来するものだ、とみなす者があるかもしれない。

この風土(気候)の諸事を司る権威は運搬者たちのために五本の大路を敷いた。この路には王国を護るため数多の防壁が設けられ、そこには護衛の兵士たちが駐屯している。この世界の住民がそこに姿をあらわすと、護衛の兵士たちは彼らを捕えて軟禁する。彼らは囚人たちがもっていた荷物を精査した後、彼らを警護主任のもとへと運ぶ。これは五人の護衛の兵士たちをとりまとめ、この風土(気候)の閾の守りを固める者である。捕囚がもたらした報知およびこの者によって運ばれてきた知見は手紙(文字)に移され、それに封印が押される。警護主任がこの手紙の内容を知ることもなく。この警護主任の努めは、この手紙を某管財官に送り届けることで、管財官がこれを王に届ける。囚人の身柄を引き受けるのもこの管財官である。その重責を軽減するため、彼は囚人たちの身柄を別の管財官に託す。あなたの世界から囚人を捕える度に、それが人であっても獣あるいはその他の被造物であっても、それらの姿(形相)を保存するべく交わったり、流産によって生じるものをも合わせ、これらは増殖していく」。

19「時として、これら悪魔の二つの軍団の一方はあなたの風土(気候)にまで出向き、人々を驚かす。そして彼らの胸の奥底に忍び入る。歩兵隊の方は生贄の獣たちに似ており、誰か人が僅かな過ちを犯すのを横たわって待つ。そして彼のうちに公正な光に照らすなら最悪の行為、殺害、切断、破壊、受苦を見せつけ、撹乱する。それは密かに彼の心(心臓)に憎しみの念を養い、苛み破壊するようにと彼を唆す。二つの歩兵隊の一方は、罪を、不等な行為を、益体もない行いを美化し、人の内心に囁きつづける。それは彼にこうしたことをなしたいという欲求を起こさせ、こうしたことを実行させようとする。彼がそれに靡くまで、これを執拗につづける。飛行隊の方は、人に自分の眼で見たもの以外はすべて嘘であると言い張らせる。讃えられるべきものは自然本性のはたらきと人によってなされたことだけである、とそれは彼を説服する。この地上の生命の後には別の世界への誕生などなく、つまるところ善悪の区別もなく、天の王国を永遠に支配するものなどなにもない、と彼の心(心臓)に囁きつづける」。

20 「これら二つの悪魔の軍団から隔たって、これに隣するある風土(気候)の境界へと赴くものたちもある。そこには地上の天使たちが棲んでおり、これらの天使の導きにより、彼らはまっすぐな道を見出す。こうして彼らは悪魔たちの逸脱(横道)を離れ、霊的(気息的)天使たちの道を選ぶ。これらのダイモーンたちは人々と交わっても彼らを壊敗させることも道を誤らせることもない。それどころか、それらは彼らに純粋さを取り戻させる援けをなす。これらは「精霊たちperi」であり、アラビア語でジンjinn、ヒンhinnと呼ばれる者たちである」。

21 「この風土(気候)を去る者は天使たちの風土(気候)に入る。そのうちの一つは大地とともに動き、この風土(気候)には地上の天使たちが棲んでいる。この天使たちは二つの集団からなっている。一方は右側を占め、彼らは知り命ずる(指示する)天使たちである。これに対し、左側を占める集団はこれに従い(服従し)行為する天使たちである。時としてこれら二つの天使の集団は人々や精霊たちの風土(気候)まで降り、また天界に昇る。それらのうちには人が委ねられている二群の天使たちがあると称され、「守護者たち、および高貴な書記たち」と呼ばれ、一方は右に、他方は左にある。右側にあるものは命ずる(指示する)天使たちに属し、これは口授する。左側にあるものは行為する(はたらく)天使たちに属するもので、これは書写する」。

 

アヴィセンナ『ハイイ・イブン・ヤクザーン(覚知の息子である生命)の物語』4


Tr. eng. by W. R. Trask from fr. Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, 1960

 

13 わたしは彼に哀願した。「西の境界区分とは何であり、西の方がわれわれの町からは近いのかどうか」。彼はわたしに言った。西の終端には広大な海がある。これは神の書で熱(泥)海と呼ばれているところ。太陽が沈むのはこの部分である。この海に流れ込む潮流は人の住まぬ土地に由来するもので、その広大さについては誰も画定することができない。そこには誰も住民がいないと言ったが、他の地域から卒然とそこに到達する異邦人たちがない訳ではない。この圏域(土地)は永劫の闇に支配されている。そこに移された者たちは、太陽が沈む時毎に閃光を享ける。その土壌は塩の砂漠である。そこに定着し、これを耕そうとする度に、それは拒まれる。これはそうした者たちを放逐し、また別の者たちが遣ってくる。そこに作物は育つのだろうか。否。そこに建物は建つのだろうか。否。こうした者たちは永劫に諍いつづけ、致命的な闘いをつづけるばかり。より強い集団が他の者たちの住居や財産を簒奪し、負けた者を放逐する。彼らは定住を試みるが、損失と損害を得るばかり。それが彼らの慣いであり、彼らはこれを免れることができない」。

14 「その地にはあらゆる種類の動物や植物があるが、彼らがそこに定住し、この草を食べ、その水(液汁)を飲むと、突然彼らは奇妙な姿を纏う。その地では人は四足獣の皮に被われ、彼の上に草が濃密に生い茂る。他の種のものたちも同様である。この風土(気候)は荒廃の場所、塩の砂漠であり、戦争、論争、暴動に満ちている。その地の歓びと美は遠隔の地からもちきたらされたものばかりである」。

15 「この風土(気候)とあなたの風土の間には諸他の風土がある。しかしあなたの風土を越えると、諸天の柱の領域がはじまる。その風土(気候)は幾分かはあなたの風土と似ている。まず、それは平たい砂漠で、遠隔地から遣ってきた異邦の民だけが住んでいる。また別の類似として、その風土(気候)は光を外の源から採っているが、ここまで論じてきたさまざまな風土(気候)よりも光の窓に近い。それに、この風土(気候)は諸天の基礎をなしている。これは先述した風土がこの大地の座をなしているのと類同である。また、別の風土(気候)の民がこの地の定住者をなしている。ここに来て定住した異邦人たちの間には争いはない。彼らが力づくで他人の家や財産を簒奪することはない。それぞれの集団は所定の領地をもち、そこを他の集団が暴力的に襲うことはない」。

16 「あなたにとってもっとも近いその風土の土地に住む者たちは背が低く、動きは素早い。その町は九つある。

この領域につづいて王国があるが、その住民はそれ以上に小さく、歩みは鈍い。彼らは、書写の業、諸星辰の知識、救済論、魔術を熱烈に愛し、精妙な仕事や深遠な業に通じている。その町は十ある。

この領域につづく王国の住民はたいへん美しく魅惑的である。彼らは歓楽や祝祭を愛し、なにも心配事はない。彼らは楽器に鋭敏な趣味をもち、さまざまな楽器を奏する。ひとりの女性がその民に君臨している。彼らは自然本性的傾向として善と美とを好む。一方、邪悪で不快なことを耳にすると嫌悪にとらわれる。彼らの町は九つある。

つづく王国の住民はたいへん背が高く、美しい顔をしている。彼らの自然本性の特徴として、彼らは離れた者に対しては利益をもたらすが、直近の者たちには災厄をもたらす。彼らの町は五つ。

つづく王国の住民は大地に破壊をもたらす者たちである。彼らは損傷、殺害、切断を好み、これを愉しみとしている。彼らを支配するのは赤い人で、彼はつねに損ない、殺し、殴打しようとする。彼らの年代記作者たちが語るように、この人は先述した美しい王女の誘惑に遭い、愛の情熱を燃え立たせる。彼らの町は八つ。

この領国につづいて広大な王国がある。その住民は公正、正義、叡知、慈悲にたいへん優れ、万有宇宙のすべての部分に必要なる善(財)を付与する。彼らは近隣の者たちにも、遠隔の者たちにも慈しみに満ちた友情を保つ。彼らはその善を知る者にも知らぬ者にも拡げる。彼らはたいへん美しく聡明である。彼らの町は八つ。

つづく領国の住民たちは難解な思考の持主たちで、邪悪な傾向がある。しかし、彼らが善に傾く時にはこれまた極端に走る。彼らが軍隊を襲う時には直接襲うのではなく、奸策で誘惑する。彼らは決してことを急がず、長時間待つことをも否まない。彼らの町は八つ。

つづいて数多の邑をちりばめた膨大な王国がある。その住民は夥しい数にのぼる。彼らは隠棲し、町に住むことはない。彼らはなにも生育しない平らな砂漠に住んでいる。それは十二の領域に分けられ、二十八の宿を含んでいる。どの集団もそれに先立つ集団がその住居から撤退しない限り、他の宿を支配しようとするようなことはない。もしもそのようなことが起こるなら、それに置き換わる。ここまで述べてきたような王国内の生地を離れる移住者たちは、この王国を旅し、その発展に貢献している。

こうして歩みつづけると、これまで誰も語ったことなく、今日までその境界に到達した者もない王国がある。そこには町も邑もない。肉眼に見える者には避難する場所もない。その住民たちといえば、みな霊的な天使たち。人は誰もそこに到達できず、そこに住むこともできない。そこから神の命令および宿命がこれよりも下の段櫂を占める者たちに降って来る。そこを越えるともはや住む者のある土地はない。約言するなら、諸天と大地にそれぞれ繋がる二つの風土(気候)が万有宇宙の左側にある。これが西である」。

17 さて、あなたが東に向かって進むなら、まず最初にあなたが遭遇するのは住民のいない風土(気候)である。そこには人がいないばかりか、植物も鉱物もない。それは荒漠たる砂漠、氾濫する海、監禁する風、燃え熾る火。これを越えると、そこにあなたは不動の山々の聳え、水が流れ、風が吹き、雲から雨が降る風土(気候)を見るだろう。そこには黄金、銀、貴重なあるいは卑賤なあらゆる鉱物が見出されるが、生長するものはなにもない。これを越えると、あなたはすでに語ったような諸物に溢れた風土(気候)に到る。そこにはあらゆる種類の植物、草や果樹その他の木があり、果実や種子を得ることができるが、鼻を鳴らしたり啼いたりする獣は見つからない。これを過ぎると、あなたは別の圏域に入り、あなたはここまでに語ってきたすべてを見つけるだけでなく、泳ぐもの、這うもの、歩むもの、羽根を打って飛ぶもの、滑空するもの、湧くもの、孵化するものなど理拠を授けられてはいないあらゆる種類の生物を見出すことになる。ただ人だけが見当たらない。ここを逃れ出てこの世界に戻るなら、あなたはあなたの目と耳をもってそこに含まれるもののすべてを知る者となる」。

 

アヴィセンナ『ハイイ・イブン・ヤクザーン(覚知の息子である生命)の物語』3


Tr. eng. by W. R. Trask from fr. Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, 1960

 

9 わたしは賢者に、旅の道案内をしてくれるように尋ねた。わたしが彼自身のなしてきたような旅に出立できるように。わたしはそうなしたいと切望する者のようにこれを彼に問うた。彼はわたしに答えて言った。「あなたばかりかあなたのような状況にある者はすべて−わたしがつづけているような旅に出立することはできない。それはあなたには禁じられている。あなたの幸運な宿命があなたの出立を、同輩たちとの別れを援けない限り、あなた方には道は鎖ざされている。別れにはいまだ期が熟していない。出立の時宜はあなたが自ら前倒し(先取り)できるようなものではないのだから。今のところは、あなたは逡巡と無為によって旅を中断したまま留まることに満足せねばならない。あなたは今、途上にあるのであって、今はこれらの同輩たちと交わるがよい。汝が独りになり、完全な飢渇とともに旅に出る時にはわたしはあなたとともにあり、あなたは彼らと別れることになる。一方、あなたが彼らに追随し、彼らのもとに戻る時、あなたはわたしから離れる。あなたが彼らと完全に別れることになる時まで、それはつづくことだろう」。

10 そして対話は彼が旅をした諸風土(気候区分)のそれぞれにかかわる問いへとわたしを導くこととなった。そのすべては彼の知識に含まれており、彼はそれに精通していた。彼はわたしに言った。「大地の境界区分(外接部)は三重になっている。一つは東と西の間。これは周知の事実であり、これにかかわる知見はあなたにも届き、あなたは正しく理解しているだろう。この風土(気候区分)に含まれる驚くべき事物の数々についての知見もあなたに届いているだろう。しかし、他に二つ奇妙な境界区分(外接部)がある。一つは西の彼方。もう一つは東の彼方。これらのいずれも、この世界からそこへと到ることは障壁によって妨げられている。ただ人々の中で、本来、人の自然本性に属するものではない強さを得た選ばれた者以外にはそこに到達することができる者は誰もいない」。

11「この強さを得るための援けとなるのが、永劫の生命の泉[1]の近くに湧く泉の水に自ら浸ること。巡歴者がこの泉への道へと導かれ、その中で自らを清め、その甘い水を飲むと、手足に新たな力が湧きあがり、広大な砂漠を横切る力を与えられる。この砂漠も彼の前からたち消えるかのように見える。彼はもはや大海の水に沈むこともなく、困難もなしにクァフ山Qafに登り、その護衛のもの(警吏)たちも彼を冥界の奈落へ墜とすことができなくなる」。

12 わたしは彼によりはっきりこの泉について説明してくれるように問うた。彼は言った。「あなたは永劫にわたり極を支配する闇について耳にしたことがあるだろう。毎年、立ち昇る太陽はそれを照らし、時を定める。闇に向かい(闇と闘い)、困難を恐れて躊躇することなくそこに飛び込む者は、広大で境界なく、光に満たされた空間に出る。彼が最初にまのあたりにするのは、バルザフbarzakhを流れる川の水のような湧水。この泉に浸かる者は誰でも、水上を歩くことができるほど、疲れを知らず高山の頂に登ることができるほど身軽になり、ついにはこの世界を截断している二つの境界区分の一方に到る」。

 



[1] アラビア語’Ayn al-Haywan, ペルシャ語Chashmah-e Ab-e Zendegani.、羅語aqua permanens, aqua vitae, aqua divinaCfr. E.A.W.Budge, The Life and Exploits of Alexander the Great, II, 246ff.

アヴィセンナ『ハイイ・イブン・ヤクザーン(覚知の息子である生命)の物語』2


Tr. eng. by W. R. Trask from fr. Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, 1960

 

5わたしたちの会話は途絶えることもなくつづいた。わたしは彼に困難な諸知識について問うてみた。それらの晦渋さをいかに解消するか、さまざまな領野について学びつつ、話題は遂に観想学(フィジオノミア)に到った。この知識に関する彼の洞察と賢慮のほどは、わたしを瞠目させた。観想学(フィジオノミア)およびこれにかかわる様々な事実に関しては、彼が率先して語った。彼はわたしにこう言った。「観想学(フィジオノミア)の知識はさまざまな知識のなかでも格別、たちまち直接的な利益をもたらすもので、各人が秘めている自らの自然本性をあなたに発いてみせる。これによってあなたは個々人に向かって自由にふるまうべきか慎重にふるまうべきかの程度(比率)を知り、状況を利することができる。

6「観想学(フィジオノミア)は、卓越した被造物の諸類型および泥土の混合物や不活性な(魂のない)諸自然本性について、一気にあなたに発いてみせる。これはあなたが何処から来たり、何処へと行くかを指し示してみせる。あなたにこれへと向かう正道と業が開示されると、あなたは純正純粋となる。しかし詐欺師があなたを誤った途へと誘うなら、道を踏み誤ることとなる。あなたを取り巻き、決してあなたを去らない同輩たちは邪な同輩たちである。彼らがあなたを誘惑し、あなたが彼らの束縛に捕われることを怖れるがよい。神の守護があなたに届き、彼らの邪悪からあなたを守ってくれぬ限りは」。

7「あなたの前を歩み、あなたに勧告する同輩は嘘つき、浅はかなお喋りである。彼が讃美するところは嘘偽り、虚構である。彼はあなたに命じるでもなく、彼について問わせるでもなく、さまざまな知見をもたらす。彼はそこに真偽をとり混ぜ、真実を過誤で汚すのではあるが、にもかかわらず彼はあなたの秘密の眼であり、あなたを照らす者である。彼を通じてあなたの隣人にとっては見知らぬ知見、あなたのいる場所には不在の知見があなたに届けられる。それはあなたに良貨を悪貨から分けさせ、さまざまな嘘のなかから真実を拾わせ、さまざまな過誤のなかから義を取り出させる。彼なしにはあなたはこのすべてをなすことができない。時として神の援けがあなたの手をとって導き、行くあてのない彷徨から救い出してくれることがあるかもしれないが、時にはあなたは逡巡と驚愕のうちに立ち尽くすことになるかもしれず、また時にあなたは偽りの証言に誘惑されるかもしれない。

「あなたの右にいる同輩はたいへん横暴である。ひとたび彼が怒りに立ち上がると、彼を止める手立てはない。彼を慇懃に取り扱ってもその憤激を鎮めることはできない。彼は枯木を捕える火のよう、高みから落ち来る激流のよう、酩酊した駱駝のよう、子を殺された雌獅子のよう。

「そして、あなたの左にいる同輩は不精で貪食で好色。大地より他にその腹を満たすものはなく、泥や粘土以外にその嗜食を満たすものはない。彼は舐め、味わい、貪り、さらに欲する。彼は飢え、汚物のなかに放された豚のよう。憐れ、あなたが見出すのはこうした邪な同輩たち。祖国を去る(追放される)より他に、あなたには彼らから逃れる術はない。彼らのような者たちが踏まぬ土の鄙へとあなたを運ぶためには。しかしいまだ祖国を去る(追放される)時は来たらず、いまだあなたは鄙へと到ることもできない。なぜと言ってあなたは彼らと離れることができず、あなたのもとを訪れる彼らから逃れる術があなたにはないのだから。それゆえあなたには彼らを率い、彼らにあなたの威厳を振りかざしてみせるより他にない。彼らにあなたの手綱を握らせず、あなたに端綱を掛けさせず、あなたは体験を積んだ師のように彼らを圧倒しなければならない。正道を離れないよう、力づくで彼らを導き、つねにあなたの力を見せつけて。彼らを屈服させるのはあなたであり、もはや彼らがあなたを圧服するものではない。彼らを組み伏せるのはあなたであり、もはや彼らがあなたを組み伏せるのではない。

8「こうした同輩たちに対しあなたが恃みとすることのできる方策として、怠惰で貪食な同輩たちを暴力的で邪悪な者の援けを借りて征し、それらの者たちを退却させる、というものがある。その一方、癒し難い怒りの衝動を優しく宥める同輩の誘惑によって徐々に緩和するという他の方途があるだろう。まだ第三の方途として、つくり話のうまい同輩のことばに注意し、彼があなたに神からの重大な証言をもたらすのでない限り信用しない、というものもある。もしもそうであるなら(神的啓示をもたらすならば)彼のことばに信頼し、彼があなたに語るところを受け入れるがいい。ただし、彼のことばのすべてを猜疑とともに勘案し、たとえ彼がそこに真偽を綯交ぜにするにせよ、あなたにもたらされる新しい知見に耳を塞がないよう、注意が必要である。つまり、そこには受け取るべきなにごとか、尋ねるべきなにごとかがある筈であり、傾聴すべき真実の幾分かがある筈である」。

彼がこのようにわたしに同輩たちのことを語った時、わたし自身、彼が言うことを受け入れるに吝かでなく、彼のことばが真実であることを認めた。わたしの同輩たちを試みにかけ、彼らを観察してみたところ、ここに語られたことが体験から確かめられるのだった。いまやわたしは彼らを矯すに努めるばかりでなく、彼らに従うことともなった。時にわたしが彼らに卓越することもあり、彼らの方がわたしよりも強いこともあった。善き隣人愛をもってこれらの同輩たちと過ごすことを神はわたしに赦したまうたのだった。とはいえそれもわたしが彼らのもとを離れる時が来るまでのことではあったが。

 

アヴィセンナ『ハイイ・イブン・ヤクザーン(覚知の息子である生命)の物語』1


Tr. eng. by W. R. Trask from fr. Henry Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, 1960

 

1兄弟よ、わたしが『ハイイ・イブン・ヤクザーンの物語』を語らぬと決意したにもかかわらず、これを語るようにというあなたの執拗な求めに軍配が上がった。それによって、わたしの逡巡も解消したことであるし、準備は整った。われわれに神の援けと加護がありますように。

2わたしはこの町に住居を定めると、偶々わたしは同胞たちとこの街中にあるここちよい場所の一つに出かけた。われわれが先後するうち円陣をなすと、ふいに、遠くに賢者があらわれた。彼は美丈夫で、神々しい栄光に輝いていた。たしかに彼は老いており、長い歳月が彼を経過していた。にもかかわらず、彼は若者のように溌剌としていた。その立ち居振る舞いには衰弱は認められず、そのからだには品のよさを損なうところはなにもなかった。つまり、老賢者の堂々たる挙措を除くと、彼には一切老年のしるしが認められなかった。

3この賢者を見たとき、わたしは彼と話をしてみたくなった。わたしの胸の奥から、彼と親密になりたいという想いが湧きあがった。そこで、わたしは同胞たちと彼の方へと歩みを進めた。われわれが近づくと、彼は率先して言った。彼はわれわれの平安を祈り、恭しくわれわれに挨拶してみせた。そして、微笑みつつ、われわれのこころに甘美に響くことばを告げた。

4彼は何に専心しているのか、どのような生を送っているのか、専門とするところはなにか、彼の名と出自と郷里をわたしが彼に問うに到るまで、われわれは多くを語りあった。彼は答えた。「わたしの名は「生きる者Vivens」。わたしの出自は「番人(不眠の者、覚知者)の息子filius Vigilantis[1]」。わたしの郷里は「いとも高貴なる住処al-Bait al-Muqaddas」。わたしの専門は永劫の旅。万有宇宙を旅し、そのすべての状況(条件)を知ること。わたしの顔はわたしの父へと向けられる。わたしの父は番人(不眠の者、覚知者)Vigilans。わたしは彼からあらゆる知識を学び、彼はわたしにあらゆる知識の鑰を授けてくれた。彼はわたしに万有宇宙の境界端へと続く途を示し、それ以降わたしの旅はそのすべての輪を包摂することとなり、わたしの前にそのすべての風土の地平のすべてが示されるように思われた。

 



[1] ヤクザーンの謂い。

アヴィセンナの神秘的物語三題


cfr. アンリ・コルバン・黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム哲学史』岩波書店 昭和49, pp.205-6

 

「『ハイイ・イブン・ヤクザーンの物語』(vivens filius vigilantis眼醒めている者の生ける息子。エノクの書のエグレゴロイと対比せよ)は、照明を行う天使と連れだった、旅への誘ないについて述べている。

『鳥の物語』はこの旅を実際に行なっているが、この作品はファリード・アッタール(123世紀)の讃嘆すべきペルシャの神秘的叙事詩にその頂点を見出すことになる作品群の端緒となっている。

最後に《サルマーンとアブサール》は、『指示の書』(‘Isharat)の最終部で語られる物語の主人公である。」

 

Cfr. H. Corbin, Avicenna and the Visionary Recital, 1960, I. Avicennan Cosmos and Visionary Recital, i. Avicennism and Philosophical Situation.

 

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六年目、ということでまたプロフィル欄を更新しようと思ったのですが、もうその欄に触れられなくなってしまっていました。 さて、これからどこへ行くのか。 あと探しものといえば、Sanioris Medicinae。
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  •  ハリーポッター展の魔術パピルス
  • デッラ・ポルタに見つけた『ヒュプネロートマキア』挿図
ピタゴラス派−オルフィックのロゴスへ... 2012年9月、デザインを変えることで、やっと旧メアドを削除できた。
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