日々是好日−つれづれよっぽブログ

ご訪問ありがとうございます。 日々是好日―いつも、きょうが一番よき日である、と信じ、感謝して生きる…茶道の師範だった亡き祖母が教えてくれたことばから命名しました!2016年3月、開設10周年を迎えたブログです。 「よっぽ」は、イタリアのおしゃれなねずみ“トッポ・ジージョ”からとった僕の幼い頃からの愛称です。只今、月に複数回程度の更新頻度となっています。※コメント大歓迎!(但し、記事と全く無関係なコメントは、予告なく削除させていただきます)

あの日あの時

もうすぐ新元号に切り替わると思えば、急に自分が年を取り、昔の人になるという感覚に。
令和から見れば、昭和生まれは昔の明治、大正と同じとらえ方だ。

平成の始まりは、大学院の研究室にいた。
学位論文を懸命に書き、学位を取得した。
その後、縁があって母校大学や、姉妹校である専門学校で非常勤講師として13年間勤めた。
何編か論文やエッセイを書き、福祉教育の一環として、学校講演や、研修会での講師もさせてもらった。
精一杯学び、働き、そして体調を崩した30年余だった。
このブログの開設は、平成18(2006)年の3月。
それも、周囲の人びとの支援あればこそと感謝している。
さよなら、平成。
これからの時代には、何が残せるだろうか。

武者人形


上の写真は、昨年(2018)の同時期に、用事があって出かけた「SENRITOよみうり」(豊中市)内にあるアートギャラリーに展示してあった五月人形の写真です。

この頃になると、端午の節句に向け、父方の祖父が買ってくれて自宅にあった小さな五月人形を、「そろそろ武者人形を出そうぜ」と、父が言って飾ってくれ、うれしかった子ども時代が思い出されます。
わが家の人形は、写真のものほど立派ではなかったけれど、キリッとした顔をしており、その人形をみると何だか強くなった気がしたものでした。
祖父も父も既に亡く、長く保存していた武者人形も、今は手元にありません。

例年にないゴールデンウイーク「10連休」が始まりました。
今年は、急に季節が逆戻りしたかのように寒くなったり、天気が変わりやすいため体調が安定せず、いささか心配ですが、平成から令和への改元をはさんだこの10連休を、何とか平穏に過ごしたいと願います。

小さい柏餅


柏餅とともに、お茶でもどうぞ。

今日は朝から腹や足腰が冷え、痛みや不快症状が出た。
6434人の人命が失われた阪神淡路大震災(1995年)から今日で24年。
干支が二巡する歳月が経過したことになる。
きょうも寒かったが、あの朝ももっと寒かった。
昨年6月に「大阪府北部地震」があったので、24年目の「1・17」は、昔のこと、というより、大地震が身近に迫るということが今まで以上にリアルに感じられている。
災害は、ふだんのくらしを切り裂いて、突然やって来る。その時の備えというのは、意外とできていない。

それにしても24年前のきょう、大きな揺れのため、寝ていたベッドからはずみで落ちて、どうにか体を立て直して、寝室からリビングに向かうと、大きな本棚が倒れたり、電話を置いていた台がバラバラになっていたりしたこと、電気は通じていたので、テレビのスイッチを入れたら、阪神高速神戸線が反転している衝撃の映像が目に飛び込んできて、それで改めて何が起きたのかを把握でき、恐怖で震えが来たこと、などを思い出した。

 当時、僕は、母校大学で教職にあり、震災の日の一週間後に、大学で担当していた社会福祉実習科目の合否判定を目的とした担当者会議が予定されていた。ご一緒に同科目を担当していた先生のお一人(故人)が、神戸にお住まいで、ご自宅で被災されたので、会議は中止され、三人の担当教員の合議を電話でやりとりして決めた。

 市内の私大に、神戸の自宅から通学していた僕の従妹は、震災の影響で、学年末試験に必要な通学が確保出来ないので、一週間ぐらいわが家に泊まって、家から学校に通ったこともあった。気を遣って、家のこともよくやってくれ、「にいちゃん、目玉焼きにする?」などと聴いて、簡単な朝食を作ってくれたりして助かったこともあった。

大震災は、当時、自分の身辺でもいろいろな影響を及ぼしたのである。

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カップ&ソーサー1


きょうは、お世話になった方から思いがけない誕プレ(12月)&X'masプレゼントが届きました。

その女性の、昨年亡くされた母上が生前に札幌に行かれた際に、陶器の作家の作品に惚れ込んで焼いてもらったオリジナルなカップ&ソーサーだそうです。

こちらの親娘さんには、うちの母はもとより、僕が幼かった頃からたいへん可愛がっていただきました。
約40年ほど前の夏、長野県・八ヶ岳原村のペンションに誘っていただき、当時ご存命だったパパさん(お父上)ともどもご一緒したことも、大切な思い出です。

カップ&ソーサー2


プレゼントの品物については、「このカップ&ソーサー、よっくんに似合うと思って!、よっくんがコーヒーを飲んでいる姿が浮かんだのよ。母が買ったけれど使わずじまいだったから良かったら使ってやって!」と、メッセージがありました。
「よっくん」とは、僕の幼少時からの愛称の一つです。
現在は、僕のことをそう呼んで下さる方も、少なくなってしまいました。

亡き方の温かいお気持ちも、しかと受け止めました!
心から感謝申し上げます。
この軽くて持ちやすいカップ&ソーサーを大切に使わせていただきます。本当にありがとうございました。

年賀状 DVD-ROM イラスト10500 2018年版 (インプレスムック)


年賀状 DVD-ROM イラスト10500 2018年版 (インプレスムック)


来年(2018年)は戊年。
それに向けて、年賀ハガキのデザインを考えようと思い、取り寄せた。

年賀状 DVD-ROM イラスト10500 2018年版 (インプレスムック)

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和風総本家の歴代豆助の画像も収録されている。

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年賀状の素材集などは、例年はほとんど購入しないのだが、「豆助」を戊年の年賀状に生かせないかと思い、購入した。

前回の戊年年賀状(2006年)は、その年の春を以て自身の退職を周囲に知らせる形となった。
自分の中で、大変寂しい思いで作成したことを記憶している。
それから干支が一巡しようとしている。

体調を崩して、母校大学の教職を退くことを決め、最後のゼミ生の卒業論文指導を、その評価作業を残してほぼ終えた頃に、そのハガキを準備した。

退職を決めた頃は、「オレの人生、これで終わりだな…」などと考えるほど落胆していた。
以来12年、定まった職業にこそ就いていないが、自身の「生活を創る」ことにかけては、「終わり」だなんて思わずに向き合うことが出来てきたように思う。それは、周囲の支援あってのことである。

だから、次の年賀状は、何とか明るく、前向きなものにしたい、と願っているのだ。

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南天のど飴(常盤薬品)
きょう、外出の帰りに、最寄りのドラッグストアで見つけて購入した。
のどが少し痛いから、舐めようと思う。
写真の商品は、黒糖シナモン味だそうです。

この商品を口にすれば、それは実に30数年ぶり。
寮生活を送った学生時代、同室の先輩がこののど飴を持っていて、2つくれた。
当時存在した学生寮から、ちょっと裏道に入ったひなびた薬局に売っていた。

もう店の名前も覚えていないけれど、こののど飴を見たら、懐かしくなった。

その時の缶は、「キティーちゃん」ではなくて、もう少し地味な感じの缶だったなぁ。

【第3類医薬品】南天のど飴U 54錠
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小学校時代の同級生、Mさんの訃報に接した。
彼女の母上が同じマンションに住んでおられ、偶然エレベーターに乗り合わせたうちの母が、その話を伺って、お慰めの言葉も持ち合わせずとても驚いた、と報告してくれた。来月初旬に四十九日だということで、まだ娘さんが亡くなられて日も浅い。お母さんは憔悴しておられたようだ。

43年前(1974年)の冬、父の仕事の都合で、東京から現在地に移り、市立小学校に転校した。6年1組に編入となった。
亡くなったMさんは、当時同じクラスで、小学校から自宅まで、両松葉杖歩行で片道40分かけて下校する僕に、ほとんど毎日付き添ってくれた複数の級友のうちの一人だった。
「道に慣れるまで、よっぽくんに付き添ってあげなさい」という担任の指示により、応じてくれたのだったが、歩行に時間がかかる僕の状態に、嫌な顔一つせず、歩調を合わせ、付かず離れず見守ってくれて、後ろから来る車に注意を払ったり、ワンワン吠えられる犬を遠ざけてくれたり、と、とても有難かった。

学校生活は、6年生の教室は4階、手すりのない階段を昇降、トイレは全て和式…といったバリアフルな状態で、教科書が変わり、勉強も難しい。もろもろ馴れぬ環境で、ひどく疲れる状態だったが、学校帰りの楽しい会話が、どんなに救いになったかわからない。

東京の肢体不自由児養護学校(当時)から、市立小学校への転校は、当初、市の教育委員会が介在して紆余曲折があり、スムーズな学校生活に漕ぎ着けるまでが大変だった。
詳しいことは、他のところに書いたり話したりしたことがあるので、この際、省略するが、振り返ってみると、障がいの有無によって、「学ぶ場を分けない教育」を実現させる端緒であった、と振り返ることができる。

僕は、今、当時の級友らとの下校の光景を、まざまざと思い出している。
それにしても、Mさん、どうしたんや。
逝くのが早すぎるやないか。
僕は、あなた方のサポートがあったから、学校に慣れ、小学校卒業間際の3学期には、週に1度、6年生の他の人と同じように最高学年として、下級生の先頭に立った集団下校の班長を務めることができたのです。
Mさんは、憶えてくれていたかなぁ。
あの時は本当にありがとう。とても悲しく残念です。
Mさん、さようなら。心からご冥福をお祈りします。

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「タナカのふりかけ」(田中食品)
個包装ミニパック90袋、53%offで1000円。
おとくなクーポンサイト「くまポン」(GMO)で取り寄せました。

東京から現在地に転居してきた40数年前、当時、近くで営業していた「ロイヤルストアー」という商店で、初めて購入したのが、「旅行の友 」というふりかけでした。まだ小学6年だった頃です。
わが家には、なつかしい味です。

ご飯のおともとします。

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旅行の友 大袋 50g
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10月21日の新聞に、20世紀フランスを代表する詩人、ルイ・アラゴンの『フランスの起床ラッパ』のことが載っていた。
(記事引用写真は、『しんぶん赤旗』10月21日付9面「文化の話題」)

「教えるとは (共に)希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと」

(ストラスブール大学の歌)

「社会」や「人間」に対する見かたや考え方に目覚めた学生時代、学生寮の先輩を含む友人たちが、大島博光訳『フランスの起床ラッパ (1980年) (新日本文庫)』を僕に贈って、輪の中に迎えてくれた。
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その中に冒頭の一節があった。
教職を目指して学んでいた僕には、心に刻まれる言葉だった。

大学の教員として、母校に赴いていた頃は、教室で机を並べる学生たちと、共に励みたいと、この言葉を念頭において取り組んできた。自分の力不足を奥歯で噛みしめるような日々だったけれど、学問が、「共に希望を語」り、「誠実を胸にきざむ」よすがになったか、今もときどき問い直している。

14歳(1976年)の時に、現在は閉院した療育センターで、右股関節の骨切り術等、複数個所の手術を受けた。
きょう、9月8日は、その日から40年になる。

朝一番の手術で、ストレッチャーに乗せられ、病棟の小さな人たちに「おにいちゃん、頑張ってな!」と見送られ、励まされながら、手術場に向かった光景が、今でも記憶に残っている。

右股関節脱臼は、最初の手術から3年(17歳、1979年)で再手術となり、リハビリを積み重ねて、その後、高校、大学以降の生活を送り、今日まで来た。

21歳(1983年)で整形外科外来で診察を受けた際、股関節のレントゲン写真を見ながら、「関節を、ちょうど入れ歯のように、人工関節にするなら、60歳を過ぎてからにしいや」、と医師に言われた。

「なぜ60歳を過ぎてから?」と問えば、「その年齢で手術をして、寝たきりになっても、もう不足はないやろうから…」と脅かされた。

人間の平均的な寿命は、この30年でうんと延びたし、いくら当方に障がいがあるからと言って、何歳になって手術したら、寝たきりになっても不足はなかろう、なんて、とんでもない。

人の生活、とくにQOL(Quality of Life=「生活の質」・・・当時そうした概念もまだなかったと思う)なんて、当時の医師は、これっぽっちも考えていなかったようだ。

爾来、関節に負担をかけるようなことは避ける、ということは、いつも胸において、暮らしてきた。
自身の移動手段は、幼少時に必死で習得し、20代前半まで続けた、両松葉杖での歩行から、この間に、車いす使用へと変化した。

こうして、股関節に関しては、現在まで今のところ、大きな異変もなく、大きな痛みも生じずにいることは、とりあえず有り難い。

松葉杖で歩いているときは、股関節への負荷が課題になったが、車いすで座位が多い生活の現在では、腰椎への負担が課題になる。

「障害」研究は社会モデルが中心だが、個へのアプローチでは、こうした医学的側面も、実は大事である。

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