日々是好日−つれづれよっぽブログ

ご訪問ありがとうございます。 日々是好日―いつも、きょうが一番よき日である、と信じ、感謝して生きる…茶道の師範だった亡き祖母が教えてくれたことばから命名しました!2016年3月、開設10周年を迎えたブログです。 「よっぽ」は、イタリアのおしゃれなねずみ“トッポ・ジージョ”からとった僕の幼い頃からの愛称です。只今、月に複数回程度の更新頻度となっています。※コメント大歓迎!(但し、記事と全く無関係なコメントは、予告なく削除させていただきます)

おくやみ

昨日、インフルエンザの予防接種も含め、無事通院できた帰りに、自宅ポストに悲しい知らせが届いていました。

東京在住の肢体不自由児学校小学部時代、1年生から3年生(1969年4月から1972年3月)まで、1組の学級担任として受け持って頂いた、H先生が、今年8月に95歳でお亡くなりになったことが、先生の姪御さんからいただいた喪中はがきでわかりました。

僕が、小学校1年生で担任のH先生と出会ってから、来年で50年となるところでした。
当時、先生は46歳でいらっしゃいました。
「せんせいは、いくつ?」と聞いたら、そのようにお答えになりましたので、きっとそうだったと思います。
先生は、学校給食に出たウインナーソーセージの皮を、全部剥いて召し上がりました。
その様子を、級友が面白がって、「先生は、ウインナーの皮をむいてたべます。」と作文に書きました。『さくら』『すみれ』『うめ』と花の名がついた謄写版印刷で先生手作りの学級文集が手もとに残されています。

東京の学校を離れてから40年余、先生とは、近年まで年賀状を交換させていただき、近況をお伝えしていました。

先生は、1980年代に学校を退職され、御自身既にご高齢でいらっしゃいましたが、お姉さんや妹さんの在宅介護を担っておられました。御きょうだいを相次いで見送られ、4年ほど前に、先生御自身が、介護付き高齢者ホームに居を移されました。時々顔を見せてくれる姪御さんの存在が先生の支えになっている、と伺っていました。
最後に頂戴したはがきにホームで生活されている先生から「もうそろそろ家に帰ろうと思って居ります。」とあり、そのメッセージが何だか切なかったです。

父の死後、先生から「君は、これからは一家の大黒柱として、しっかりするのよ。そして、お母様を大切になさい。」と、励ましのお手紙を頂戴し、心の奥に先生の言葉をおいて、生きてきました。何年経っても、あまりしっかりしないのを、先生は遠くからお見通しだったかも知れません。
思い出は尽きません。
先生、本当に長い間ありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします。

小学校時代の同級生、Mさんの訃報に接した。
彼女の母上が同じマンションに住んでおられ、偶然エレベーターに乗り合わせたうちの母が、その話を伺って、お慰めの言葉も持ち合わせずとても驚いた、と報告してくれた。来月初旬に四十九日だということで、まだ娘さんが亡くなられて日も浅い。お母さんは憔悴しておられたようだ。

43年前(1974年)の冬、父の仕事の都合で、東京から現在地に移り、市立小学校に転校した。6年1組に編入となった。
亡くなったMさんは、当時同じクラスで、小学校から自宅まで、両松葉杖歩行で片道40分かけて下校する僕に、ほとんど毎日付き添ってくれた複数の級友のうちの一人だった。
「道に慣れるまで、よっぽくんに付き添ってあげなさい」という担任の指示により、応じてくれたのだったが、歩行に時間がかかる僕の状態に、嫌な顔一つせず、歩調を合わせ、付かず離れず見守ってくれて、後ろから来る車に注意を払ったり、ワンワン吠えられる犬を遠ざけてくれたり、と、とても有難かった。

学校生活は、6年生の教室は4階、手すりのない階段を昇降、トイレは全て和式…といったバリアフルな状態で、教科書が変わり、勉強も難しい。もろもろ馴れぬ環境で、ひどく疲れる状態だったが、学校帰りの楽しい会話が、どんなに救いになったかわからない。

東京の肢体不自由児養護学校(当時)から、市立小学校への転校は、当初、市の教育委員会が介在して紆余曲折があり、スムーズな学校生活に漕ぎ着けるまでが大変だった。
詳しいことは、他のところに書いたり話したりしたことがあるので、この際、省略するが、振り返ってみると、障がいの有無によって、「学ぶ場を分けない教育」を実現させる端緒であった、と振り返ることができる。

僕は、今、当時の級友らとの下校の光景を、まざまざと思い出している。
それにしても、Mさん、どうしたんや。
逝くのが早すぎるやないか。
僕は、あなた方のサポートがあったから、学校に慣れ、小学校卒業間際の3学期には、週に1度、6年生の他の人と同じように最高学年として、下級生の先頭に立った集団下校の班長を務めることができたのです。
Mさんは、憶えてくれていたかなぁ。
あの時は本当にありがとう。とても悲しく残念です。
Mさん、さようなら。心からご冥福をお祈りします。

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まつぼっくりが あったとさ
高いお山に あったとさ
ころ ころ ころ ころ あったとさ
おさるがひろって
たべたとさ

童謡「まつぼっくり」作詞広田孝夫、作曲小林つや江

小学校1年生(1969年)の頃、養護学校の古い講堂(体育館)で、童謡「まつぼっくり」の歌にあわせ、みんなでお遊戯をする輪の中に、先生に介添えをしてもらいながら手遊びをする、1年2組の小さなTちゃんの姿があった。

「Tちゃんって可愛いなぁ」
僕は、1年1組だったが、養護学校は一クラスの人数が少なく、別のクラスでも、学校に上がって、最初に友達になったのがTちゃんだった。

小学5年生(1973年)の頃には、2組で、Tちゃんと同じクラスになった。
算数の授業の立方体の学習で、工作用紙をはさみで切り抜いて、立方体を作ることを試みるのだが、僕も、隣の席のTちゃんも全く上手く行かない。「ねぇ、この箱みたいの、どうやってつくるのよ」と嘆いていたが、何回もやりなおして、ついに所定の立方体が出来上がった時の、Tちゃんの「やったー!」という嬉しそうな顔が思い出される。

僕は、父の仕事の関係で、東京の学校を離れたが、その後もTちゃんと文通したり、最近まで年賀状の交流は、毎年ほぼ欠かさず続いていた。

Tちゃんは、養護学校高等部を卒業後、一時期、金融機関に就職し、通勤していると聞いた事があった。
1980年代の後半、「障害者雇用促進月間」を扱ったNHKの福祉番組で、全く偶然、彼女が働く姿が紹介され、「頑張っているんだなぁ」と、とても励まされたことがあった。

そのような彼女ではあったが、30代が近くなる頃、かなりその持っている障害が重くなり、自動車の運転免許の更新ができなくなり、就労も断念して、施設入所を余儀なくされた。
そのことを風の便りに知った僕は、「施設生活は、さぞ窮屈なことだろう」と思い、彼女のいる関東地方の施設に宛てて、手紙を書いた。
その手紙が長文だったためか、彼女から「長〜いお手紙ありがとう、でも自分なりに施設の生活を楽しんでマース」と返事があった。
自分でかろうじて動かせるのは、ペンを持つ片方の手だけだ、と聞いていた。
それなのに、ある時は、困難の中から、「施設から、一泊旅行の機会があったから、ふと思いついて・・・」、と旅先で購入した素敵なグリーティングカードを贈ってくれたこともあった。

自分でできることが、だんだんと減っていった彼女は、さぞつらかったことと思う。

昔から、人を見る目が公平で、正義感が強く、自分の意見をはっきり言うTちゃんだった。
友達想いで、やさしく細やかな心持ちの彼女だった。


そのTちゃんが、8月6日の明け方に亡くなった。
共通の友人からのメールで、きのう(8日)、Tちゃんの訃報を知らされた。
Tちゃんの母上から、友人の所へ電話連絡があったという。

体調があまりよくないことは、人づてに聞いて、心配していたが、訃報は、全く突然で、まさか、と信じがたい思いである。

Tちゃん、46年間、仲良くしてくれて、本当にありがとう。
もう、あなたの体はつらくないね。よく頑張ってきたんだね。お疲れさま。

友人の長年のご交誼に深く感謝し、彼女の魂が安らかたらんことを祈っています。
                                                                合掌。

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吉本新喜劇の全盛期を支えた喜劇役者の花紀京さんが5日、亡くなった。
2003年頃から療養生活が続いていたという。

舞台でよく共演していた奥目の八チャン(岡八朗さん)、カバに例えられた原哲男さんも既に亡い。
それに続いての花紀さんの訃報だ。
花紀さんと同世代で、今も現役で舞台に立っている人は、新喜劇座員最高齢の桑原和男さんだけになってしまったなぁ。




花紀京さんと岡八朗さんの掛け合いを、もう一度見たかった。
それも既にかなわぬことだ。
新喜劇の舞台のTV中継を通じ、お腹を抱えて笑わせてもらったことを感謝し、花紀京さんのご冥福をお祈りします。

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オペラ歌手の中島啓江さん急逝(11/23、57歳)のニュースに接しました。 僕は、音楽が好きですが、オペラに親しむことはありませんでした。 25年ほど前だったと思いますが、ある時、テレビを見ていて、一人の女性オペラ歌手の、おそらく一度拝見したら忘れることがないような、大変大きなお体から発せられる声量に、まず圧倒され、そしてその持っている繊細かつ情感あふれる表現力に、魅せられる経験がありました。 その方が、中島啓江さんという歌手であることを知るのは、少し後のことでした。 当時、放映されていた朝日放送の夕方のワイド番組で、ゲスト出演された中島さんが、ご自分のコンサートイベントの告知を兼ねて、心を込めて生うたを披露されました。 その一曲が、「生きる者の歌」と題する、この時初めて耳にした情感豊かな曲でした。 オリジナルは、40年以上前の曲なので、永六輔さんが作詞し歌ったものであったことも、最初は知りませんでした(作曲:中村八大氏、故人)。 僕は、中島さんの歌声に感銘を受け、以来、彼女がテレビ・ラジオに出演されるたびに拝見・拝聴してきました。 学生の頃に中島さんが受けた壮絶ないじめの話や、最愛の亡きお母さんのエピソードなどもテレビで伺い、中島さんの歌の情感の源は、彼女の人生にあったのだな、と感じていました。 「歌をこころで伝えよう」というお気持ちが伝わってくるような歌手でした。 突然の訃報を大変残念に思います。心からご冥福をお祈りしております。合掌。
生きる者の歌 中島啓江(Youtube)
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2月18日に病気のため67歳で亡くなった叔父(母の末弟)の四十九日法要。

昨年の春ごろは、叔父が自分で炊いたという、関西の春を彩る「いかなごの釘煮」に、自作野菜、パン等持参して、わが家へ来てくれた。いかなごの釘煮は、味付けもほどよく、ご飯が進んだものだ。
本当に有難かった。

病気は、やっぱり残酷だなぁ、と、今さらのように思う。
しかし、叔父が、発病から数ヶ月間の厳しい闘病から解放され、今は穏やかな状態にあると、思ってみれば、少し気持ちが安らぐのだ。

母が伺ってきた、お寺のお坊さんの話では、天国に行くまでに、仏様になるためのいくつかの関門と修行があるという。
そのプロセスは、なかなか過酷で、また孤独でもあるから、生き残った家族らが、故人を偲び、思い出話をたくさんすることが、供養になるのだという。生き残った者にとっては、それが「喪の仕事」の過程と重なる。

母は、弟が二人いたのに、独りになった。
ベタベタした関係ではないが、互いを思いやる、仲の良い姉弟だったと思う。

叔父は、僕が生まれた頃は、まだ学生だった。
僕の幼い頃から、自分のあぐらの間に、僕の両足を入れて、つかまらせて立たせ、起立訓練に協力してくれたものだった。
神戸の祖父母宅の応接間で、そのようにしているモノクロ写真が、何葉か、わが家の古いアルバムに残っている。
1965(昭和40)年前後のことではなかったかと思う。

最近は、以前にもまして、昔のことを鮮明に思い出すことが増えた。今は、感謝のひと言に尽きる。

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母校大学の同窓会会報の最新号が届きました。
その中で、母校の大先輩であり、日本福祉大学教授も務められた、沢田清方先生(高齢者福祉論担当)が昨年12月にお亡くなりになったことを知りました。
先生とは、僕が委嘱を受け、非常勤講師として母校に赴いた1993年、「社会福祉応用実習」(当時)という科目を共同で担当し、いろいろご指導頂いたご縁がありました。

もうおひと方、同科目をご一緒に担当した大学院の第一期生の先輩でもあった先生と、お二人の大先輩の胸をお借りして、右も左もわからない、自分のよたよたした新人の教員生活がスタートしたのでした。

当初の二年間、概ね120名のクラスを、沢田先生は高齢者施設および社協や地域福祉分野、もうおひと方の先生は、医療福祉分野、そして自分は、福祉事務所等行政機関、そして児童及び障害福祉分野と、大まかに実習指導を分担し、持ち回りで教室に出るような体制を、当時はとっていました。

キャンパスの9号館と呼ばれる教室で授業をやっていたのですが、僕の車いすを教壇に上げてもらっても、教壇の奥行きが狭くて、車いすを前に向けて授業ができず、急ごしらえの簡単な教壇拡幅工事を、施設管理室に掛け合って下さったのも沢田先生でした。

先生は、静かな語り口で、受講学生に鋭い問題提起を、講義の中でなさっていたことが今も記憶にあります。
また、先生のゼミ生には、演習の導入として、一日大人用の紙おむつをつけて生活してもらい、その体験を、皆でフィードバックし合う、というような、実学的な教育実践をなさっておられると伺ったこともありました。

おととしでしたか、フェイスブック上で、沢田先生から「友達リクエスト」を頂戴し、「再会」していました。ツイッターへのつぶやきも合わせ、先生には進取の気性がおありになったのではないでしょうか。
ご趣味で続けておられた各所の山登りへの挑戦や、先生の玄人はだしの絵画を何点か披瀝された、神戸のご自宅でのガレージ個展の様子を書き込まれていたのも、最近の事のように思え、訃報には驚きと悲しみの気持ちで一杯です。

なお、この記事を書くにあたり、先生の著作について正確を期すため、先生のお名前でインターネット検索をかけたところ、先生は、昨年12月の富士登山の途上で亡くなられた旨のニュース報道がいくつかあがってきました。
この点を改めて確認した次第です。

最後に、内容はつまびらかに致しませんが、十数年前、キャンパスの研究本館・第一教員控室で交わした、沢田先生との静かな、しかし熱い対話を忘れることができません。
それは、当時30代半ばの若造で、拙い、ただあたふたした授業を繰り返していたに過ぎなかった僕を、大きく励ますものでした。

沢田清方先生、本当にありがとうございました。先生にかけていただいた言葉を忘れません。心からご冥福をお祈り申し上げます。
 
注)本記事は、フェイスブック内の非公開グループ「日本福祉大学社会福祉学会」に向け、予め投稿したものを、一部改稿の上エントリーしました。文責は筆者にあります。

社会福祉への招待 (MINERVA福祉ライブラリー)

18日に、叔父(母の末弟)が亡くなった。67歳だった。
昨年から消化器系の疾患で闘病中で、検査入院を経て、在宅医療を選択し、療養していた。家族から病状を聞き、予後は大変厳しいものと推測できた。
病気と向き合い、生きることを全うした叔父だった。

この数年間、叔父は折に触れ、家庭菜園で、自ら畑を開墾して自作した、ゴボウ、椎茸など自然の野菜などを持参して、わが家を定期的に訪ねてくれていた。
そして、やはり持ってきてくれた美味しいパンなどで、ランチを囲むのが、叔父との楽しい語らいの時間となっていた。

最後に来てくれたのは、昨年の4月28日だった。
その時の、いつもと変わらぬ元気な様子から、病の兆候は全く汲み取れなかった。
「まあ、ボチボチやってちょうだい!」と僕の肩に触れ、「ほんならな!」と玄関で手をふって帰っていった、叔父の姿が思い出される。
手の振り方が、普段より、いくぶん長かったのが、強く心に残っているが、叔父の永い別れの挨拶だったのだろうか。

母には、弟が二人いたが、すぐ下の叔父も十数年前に病没しており、これで一人になってしまった。
「姉弟は、何も言わなくとも目をあわせただけで、だいたい考えていることが分かるものだ」と母が言う。
その弟が亡くなった。どんなに寂しいことだろうか…。

おっちゃん、ほんまに長い間、有り難う。体、しんどかったのに、よう頑張ったな。

おっちゃんの家族の歴史より長く、50年間、何かと気にかけてくれ、可愛がってくれてほんとに有り難かった。
おっちゃんは、姉ちゃんのことが心配やったろうけど、頼りない息子やけれど何とか支えていくから、心配せんといて。
そして、皆のことを見守ってな。

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このところ芸能著名人の訃報が続いている。
100歳の現役最高齢映画監督だった新藤兼人さん(5月29日)、「また逢う日まで」の歌手尾崎紀世彦さん(5月31日)、「情熱の花」や「恋のバカンス」等のハーモニーが耳に残る、双子のデュオ、「ザ・ピーナッツ」(1975年引退)の姉、伊藤エミさん(6月15日逝去)、そして、タレントの小野ヤスシさん(6月28日)、俳優で、”チイチイ”の愛称でも親しまれた地井武男さん(6月29日)・・・。

新藤兼人監督は、「午後の遺言状」や遺作となった最近作「一枚のハガキ」など反戦、平和、人間の視点で貫かれた作品を多く残された。

尾崎紀世彦さんのあの歌声と、トレードマークの長いモミアゲは、長く人々の記憶に残ることでしょう。

「ザ・ピーナッツ」のお姉さんの訃報は、最初、古館さんの報道ステーションの「お天気コーナー」のBGMに「スター・ダスト」が流れ、「星になったピーナッツひとつ・・・合掌」と字幕スーパーが流れたことから知った。

僕は、ザ・ピーナッツが歌う、心の窓にともし火を・・・という曲が大好きです。



心の窓にともし灯を ザ・ピーナッツ 歌詞情報 - goo 音楽




ザ・ピーナッツ_心の窓にともし灯を_The Peanuts(youtube)

「スターどっきり(秘)報告」の司会が頭に浮かぶ小野ヤスシさんは、ザ・ドリフターズの初期メンバーだったんですね。小野さんがコミックバンド「ドンキーカルテット」のリーダーだったことを知っている人はもう年配の域に入っている人でしょうね。

それから、僕は関西なので地井さんの街歩きの番組「ちい散歩」(テレビ朝日)は見たことがなかったけれど、味のある温かい人柄が描く絵にも出ています。




地井さんといえば、やっぱりドラマ『北の国から』の中畑のおじさん役が記憶に残る。

特に同作シリーズ最終話北の国から 2002 遺言 の地井さんの名シーンは忘れられないなー。





ああ、どの人も「昭和テイスト」の得がたいスターだったなー。合掌。

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今朝方、遠戚の訃報を受け取った。亡き父の従弟。
自宅で気分が悪くなり、自ら救急病院へ足を運び、妻にも自分で連絡ができたらしいが、その後容態が急変、帰らぬ人となったという。急逝の知らせに驚いて言葉も出ない・・・。

みんなから「こうちゃん」と呼ばれていたこのおじさんは、脱サラして東京都心郊外で、長く洋食店を経営していた。以前には女性向け雑誌にもグルメ情報のような店のレポートが掲載されたことがあるらしく、一時は結構人気を博した、と聞いていた。
数年前、高齢の実母の介護などのため、店をたたんで、生まれ故郷に帰ったが、昨年この実母、そして妹夫婦が相次いで他界して、落胆していたのではないだろうか、と想像する。誕生日を迎えていたら71歳。少々早すぎる・・・。

27年前、亡き父の葬儀後、部屋の片隅に「こうちゃん」の姿があった。
会葬者らから頂戴した御香典の袋がバラバラにならぬように、袋の隅っこに穴を開けて、それを紙縒りで綴じる作業を、黙々と続けてくれていた。家族や親戚の誰も、混乱の中で、そのようなことに気を配れる者はいなかった。

父の死後、母も用事で外出したわが家に、ある日突然アポなしで、このおじさんがやってきた。
留守番の僕は、大変だから満足にお茶を出すこともできないで、とても困ったが、家に上げない訳にも行かず、とりあえず上がってもらった。日頃余り接触もなかったので話題に困った。朴訥な人だが、何しろ話が続かない…。

そのうちに、この人が「よっくん、君はお父さんが居なくなっちゃったのだから、学校を出てからの進路をちゃんと考えておきなさい。そして、お母さんを早く楽にさせてあげないといけないよ。困ったことがあったらオジさんに相談するんだよ」と、当時大学生で、卒業後の進路も確かに課題になっていた自分に説諭してくれた。
会社員になる気はあるのか・・・などその後もいろいろなことを聞かれ、進路を考えていないわけではなかったが、話を一方的に聴くうちに、頭がとても混乱した。福祉の勉強と会社員とは、当時はどうしても結びつかず、このおじさんの言質から「堅実な、食える仕事」へのプレッシャーを感じ、僕は今はじめて告白するけれども、このおじさんに「帰ってほしいオーラ」全開だったと思う。

その気持ちを知ってか知らずか、おじさんはおもむろに、その辺に転がって、断線しかかっていたコタツか何かのソケットのねじを、マイナスドライバーが見当たらないからと、小さなナイフの先端を使って開けて、同じく断線しかかっていたコードのニクロム線部分も、それで巧みに黙々と修理してつなぎ、「これで大丈夫。そのまま通電してショートしたら危ないから・・・、」と笑顔を向けて帰っていった。
とても優しい人なのだろう、しかし不器用に映る人だった。
それは、ご自身が非常に若くして父を亡くし、母と二人の妹と、肩を寄せ合って生きてきた証だったと思う。

父を亡くした後も、母が働いて家計を支え、学校を出してくれた。大学院を経て、母校の非常勤講師を十数年続けたものの、少なくとも経済的自立とは程遠い生活を送ってきた。勉強と仕事しかしてこなかった僕の人生だ。今もって、母を「楽にする」事など、到底覚束ない。「こうちゃん」おじさんには、何だか顔向けができない。

若い頃には、突然の来訪への戸惑いとともに、「人の気も知らないで、いったい何を諭す」と内心反発したが、今、感謝の念とともに、「こうちゃん」おじさんを巡る前述の二つの光景が鮮やかに思い出されてならない。ご冥福をお祈りしています。

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