さようなら 若杉 弘先生

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去る7月21日、日本を代表する指揮者のお一人
だった 若杉 弘先生がご他界された。
今日は、新国立劇場での「若杉先生のお別れの会」
に出かけてきた。
まだ、73歳だったそうだ。お若い・・・
体調を崩され入院した後も、新国立劇場の
芸術総監督としてベッドから采配を揮って
いたそうだ。
オーケストラや合唱の指揮も素晴らしかったが、
なんと言っても、本当に優れたオペラ指揮者であり、
心からオペラを愛して止まない先生だった。
現在、新国立歌劇場(新国)でN児が稽古を重ねている「オテロ」も、
11月にN児が出演させていただく「ヴォツェック」も
若杉先生の企画だった。

個人的には何だか色々忘れられないご縁が沢山あった。
初めて直接お会いしたのは大学1年か2年生の時、
代々木のバーだかスナックだか・・・
大学の恩師が「電車無くなったから車で迎えに来て〜」と、
夜中に無茶なリクエスト、当時はそんな師弟関係がまだあったのだ。
そのお店は、代々木に二期会の稽古場があった頃、
歌手や舞台関係者の溜まり場みたいなお店だった。
薄暗い店内に入ると、恩師を初め何人かのオペラ歌手の
輪の中に若杉先生がいらっしゃった。
当時はまだお元気で、ヨーロッパと日本を行き来しながらの
大活躍をしていた若杉先生、グラスを片手に熱心に
オペラ談義を展開していた。
先生は、日本初演の演目を数多く指揮したことでも有名だった。
今思えば、あの時は「ヴォツェック」日本初演に向けての稽古中で
関係者と練習後に寄り道をしていて遅くなっていたのだ。
なんと言う偶然だろう・・・
そして結局、その日は深夜に師匠と若杉先生を車にのせて
ご自宅まで送ったのであった。

その後、先生とは何度もご一緒に演奏させていただいた。
学生時代にはベートーヴェンの「第九」やワーグナーの
オペラ合唱曲。とても細かく、音楽的な含蓄に富んだ練習は
魅力的で、現在の自分の合唱指導にも先生の教えが
多分に生きている。
そして先生の姿を通し指揮者への憧れはより強いものになった。

大学を出た後も、二期会や他の団体のエキストラの仕事で
何度も先生の指揮で歌わせてもらった。
ワーグナーの「ローエングリン」や、「神々の黄昏」、
ブリテンの「カーリューリバー」などは忘れられない名舞台だった。

いつもバリッとスーツを着て、英国風(?)のネクタイなどを
素敵に着こなすジェントルマンだった。
しかし、しかし、練習中怒り出すと手が付けられず、
一度癇癪を起こすと、何人もの歌手が血祭りに上げられるのを
目撃したこともある。いい加減な練習は許さなかった。
それだけ勉強し、オペラを大事にされていたのだ。
確かワーグナーの大作オペラをやっている時、本番を終えて
体も耳も限界に近いクタクタのはずなのに、なんと
先生が楽屋に入ったとたん、中からヴェルディの「椿姫」を
がんがんピアノで弾きながら歌うのが聞こえてきた。
本当に三度の飯より何より音楽が好きだったのだろう。
先生のお父さんは外交官だったそうで、
育ちの良い先生はバリバリの慶応ボーイで大学に進み、
経済を学びお父さんに続くことを目指していたそうだが、
音楽に対する憧れを捨てることができず、
慶応を中退して芸大の声楽科に入り、さらに指揮科に入り直したそうだ。
すごいなぁ〜〜

ここ数年幸いにも先生と一緒に仕事をさせて頂く機会が多かった。
まずは、私が講師を務める桐朋学園の合唱の授業。
二年目から、先生が特任教授として合唱の授業を一緒に
担当することになった。
その時すでに、体調は思わしくなかったが、学生相手の
熱のこもった授業は忘れられない。
先生が二年間演奏会を指揮してくださり、三年目の準備をする時、
「加藤さん、何か学生たちに歌わせる良い曲があったら推薦
してください」と言われ、三善 晃「詩篇頌詠」を挙げた。
先生はその曲を含めた壮大なプログラムを作ってくださり、
さぁ練習を始めるというところでご入院されてしまった。
結局、その演奏会は私が代役を務め指揮をすることになり、
何とか、実りの多い貴重な体験となるコンサートに仕上がったが、
残念なことに先生は学校に復帰されることは叶わなかった。

もう一つ、これは生涯の宝ともいえる大切な思い出。
昨年の1月にN児と、東京都交響楽団と三善先生の「響紋」を
共演させていただいたことだ。
「響紋」をN児が演奏するということ自体、合唱団的には
悲願達成であった。そして、これが昔からN児を可愛がり、
大切にしてくれた先生との最後の舞台であり、先生の生涯で
最後の児童合唱との共演だった。
車いすに乗った三善先生が、オーケストラとのリハーサルにいらしての
若杉先生との真剣白刃のやりとりは、
知られることはないが、日本の音楽史に永遠に刻まれるほど
価値のある時間だった。
そこに、児童合唱指揮者という責任のある立場で同席させて
頂いたことは私の音楽人生史の輝く一ページだ。
そして、その演奏も永く人々の心に刻まれるものであった。

まだまだ、書き足りないほど思い出がある。
どれもが今後、私が音楽と関わっていく上での貴重すぎる財産だ。
11月のヴォツェックが共演できないことが本当に残念。
でも、新国の舞台の上には誰よりもオペラを愛した
先生の気が満ちていると信じ、その気をN児のメンバーと
思いっきり体中にあびて素敵な演奏を目指したいと思う。

先生、長い間お疲れ様でした。
そして本当にありがとうございました。
                                    合掌

びわの木

今回は音楽とちょっと関係のない話し。
それもちょっと悲しい…

先週、父方のおじさんが他界した。親父は五人兄妹で、
無くなったおじは末っ子。
日本がまだ愚かな戦争をしていた頃、疎開先の秋田で生まれた。
昭和21年生まれだというから、まだ63才… 若い…。
何だか変わった楽しいおじで、そういえば私が物心ついた頃は、
自衛隊員で、幼い私が自衛隊の帽子を被せられ、敬礼を
している写真が実家にあった。
私が幼い頃、おじは親類の中では若く、よく遊んでくれた
思い出がとても懐かしい。

おじの家は埼玉のある町にあり、実はそこは私が生まれてから
小学5年生まで生活をしていた家でもある。
祖父の具合が悪くなり、長男だった親父が面倒を見るために
東京に引っ越す時におじに譲ったのだ。

週末、通夜の席で、訃報を聞いて久しぶりに埼玉の家を訪ねた親父から、
「おい、ビワの木でかくなり過ぎて、お向かいのAさんから苦情が
来たみたいぞ。」と言われた。
Aさんの名前もとても懐かしかったけど、「ビワの木」と言われ
一瞬、なんとも言えない切ないような嬉しいような、変な感傷に襲われた。

今でもはっきり憶えているあのビワの味。
私が何年生の頃か忘れたが、恐らく来客か、近所からの頂き物か、
家に初めて見る薄いオレンジ色の果物らしきものがあった。
母に尋ねると、「ビワ」という果物らしい。味を知らないので、何となく
不安げに手に取り、薄い皮をむきエイっと口に入れたときの感動は
今でも憶えている。
質素に育てられ、家で食べる果物と言えばミカンかリンゴの味位しか
知らない私にとって、あのみずみずしい上品な甘さはあまりに
衝撃的だったのだ。
我が家にとっては贅沢なものだったようで、たしか一つか二つしか
食べさせてもらえなかった。食べた後、じっと皿の上に残った
種を見つめ、「ねえ、お母さん、この種うめたら、またビワ出来るかなぁ?」
すると母はこともなげに「そりゃ、種だもんいつかはなるでしょ〜」と
気の無い返事。
しかし、次の瞬間私は自分と弟の皿の上の種をつかみ、一目散に
外に駆け出していた。
小さな我が家には庭などは無く、僅かに玄関脇に草木を植えるスペースと
両隣の家との合間に僅かに土のゾーンがあるのみだった。
私は、夢中になって土をほじくり家の周囲の何箇所かに種をうめた、
初めての農作業!? 気分は上々、胸は高鳴り、頭の中では
ビワの木に登り、たわわに生ったビワをもぎり、満足げに甘い実を
ほうばる自分の姿が描かれていた…

しばらく日が過ぎ芽が出た時は本当に興奮した。
「出た〜〜っ!!」と歓声を上げて家に飛び込んで、
母には「うるさい」と叱られるほどだった。
しかし、そこからが長かった…
待てど暮らせど実はならないのである。
しまいには、やっと自分の背丈より大きくなった木も、
物置を作る際に邪魔だと、一本を残して切られてしまったのだ。
さらに時は流れ、東京に越す日がやって来た。
ビワの木は軒の高さ位まで大きくなったけど、結局
実を付けることはなかった。
東京に向かうトラックの窓から、おじとおばに
「ビワがなったら食べに来るから教えてね。」と告げて
埼玉の家を後にした。

それから一体何年たってか、東京に遊びに来たおじが
「ひろちゃん、ビワなったよ。」と教えてくれた。
その後、どうしてもビワが見たくて埼玉の家を訪ねた。
木は、見違えるほど大きくなり、小さく黄色い実を
沢山付けていた。
期待と不安で実を口に入れると、とても渋く「あの味」
ではなく、少し落胆した記憶がある。
それも、一体何年前のことだったろう・・・

通夜の席で、ビワの話しを聞いて胸が一杯になった。
おじは、家を改築する際に狭い敷地にのび放題に
なって邪魔なビワの木を、「ひろちゃんが残念がるから」と
切らずに残してくれたそうだ。
一体いつ来るかも知れない私のために。
今では、幹は20センチほどの太さにまで成長したらしい。
ちょうどビワの時期だし、近いうちに訪ねてみよう。
せっかくおじが残してくれたのだから、
木に登り、自慢げに自分が植えたビワをほうばるという
何十年来の夢を実現しに行こうっと!
きっとおじも笑顔で迎えてくれるだろう。

でも、渋いんだろうなぁ〜〜〜 あのビワ

いきなり「カルメン」!

前略!突然のブログ再開。というよりも、新規オープン。
動機はさておき、慌しい音楽生活のなかで見聞した
ことへの喜怒哀楽を全部流してしまわないよう、
思いつくままに書き留めることにした。
ほんの少しでも読んだ人の役に立てばいいなぁ・・・

記念すべき第一話は「カルメン」。
指揮者の佐渡裕プロデュースにより神戸で
行なわれていた人気のオペラ公演が、
今年は、兵庫、愛知、東京の三都市で
行なわれるビッグ・プロジェクトに!
で、我がN児のメンバー21名は東京での
4公演に出演させていただくことになっている。

「カルメン」の話題をブログ第一話にしたのは
この公演の演出家、
ジャン=ルイ・マルティノーティ(以下、ジャン・ルイ)が
とても素敵な人物だったから。
彼は、現代のフランスを代表する演出家の一人だが、
稽古場で見た第一印象は「怪しいフランスのおっちゃん」だ。
でも、舞台を作る時や、子どもを見る時の目は優しく、温かで
そしてどこまでも情熱的な光に満ちている。
演出助手の飯塚レオさんの話では、若い頃教員も
やっていたらしい。

「怪しいおっちゃん」攻撃には普段、私の練習で十分に
鍛えられているN児軍団も、最初は彼のフランス語による
つっこみや、マジな目をした大胆なギャグに目を
白黒させていたが、数日も経てば形勢逆転!
さすが、普段「怪しい〜!」「変〜んっ!」日本代表の
ダブルK先生に仕込まれたパワー全開で
ジャン・ルイを追い掛け回し、突っつくわ、お腹をなでるは・・・
世界の演出家なのに・・・

今回の演出は、実に細かい。へたな映画や、テレビドラマ
よりずっとリアルな演技が要求される。
特に4幕冒頭などは、児童合唱がその成功の可否の
鍵を握るほど重要な役割を果たしている。
これは、私も初体験のジャン・ルイ独自の演出アイデア。
はっきり言って、大人のソリストや合唱団たちはその細かさに
やや閉口気味だが、ジャンは全く意に介せず全開モード。
正直、児童合唱団の指導者としては殆ど舞台経験、
ましてや「演技」なんて知らない子供たちには荷が重いかなぁ…
とヒヤヒヤだが、なんのことは無くN児チャンたちは大喜びで
舞台を走り回り、体当たりで演じていく。
時には、思うように芝居ができず、ダメ出しに涙する子もいたり、
一方ジャンも我々に対しては「ここに来る以上、出来てあたりまえ!」
という姿勢…
やはり、舞台は厳しい!大人も子供もないのである。
でも、そんなことは知らず大舞台で弾けているN児は
ホントに幸せだと思うし、責任の重い合唱団だ。

普通じゃ体験できないことが出来るのだから
当然、普通以上の努力が必要なんだな〜!
ガンバレ、N児!!

本番は7月17日から。乞う後期待!!!

carmen

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