これが最後の記事です。

最後は、自分がなぜ協力隊に参加したのか、その動機や理由、経緯を書きたいと思います。

めっちゃ長い記事ですが、最後まで読んで頂けると嬉しいです。

ではでは。

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私は、協力隊に参加しようと思った31歳までほとんどJICAや青年海外協力隊について何もしりませんでした。

青年海外協力隊と聞いて、すごく考えて、井戸を掘りにいくやつ?って答える程度でした。


中学から英語が苦手で高校でも英語は欠点で、自分は一生国内で過ごして、外国に行く事はないと思ってました。


高校を卒業する時は、コンピュータの専門学校に入学し、資格を取ってサラリーマンになろうと思ってた。

親は大学に行くように言ったけど、親の姿を見ていて親のようになりたくなかったのと、学歴が高卒とか専門学校卒でも立派に社会でやっていけるところをみせてやりたかった。

勉強が好きではなかったし、大学に行きたいと思ったことも無かった。


コンピュータの専門学校にいってみると、、、さすがはコンピュータの学校。

メガネ率が90%!

そして、みんなオレにはわからない内容のアニメやゲームの話をしている。

可愛いなって思った女の子に声を掛けて話てみると、、

ガンダムとゴジラが好きって言われ、一緒に学校から帰る時にコスプレしてる人が舞台でダンスしてる店に連れて行かれ、あ~住む世界が違うなって思った。


正直、ずっとパソコンとにらめっこしてるのもしんどかった。


その時に楽しかったのがテニスのコーチのバイト。

それまで子どもが好きじゃなかったけど、子どもにテニスを教えてて可愛いなって思うようになった。


そこで、進路を変更して保育士の専門学校に入り直したのです。

まだ、保母から保育士に名称が変わったばっかりで、男性保育士がほとんどいない時代。

保育学科で男性を受け入れている学校も大阪府内で3校しかなかった。

だから、選択肢が少なく、家から一番近い学校に入学しました。


こんどは、メガネではなく女子率が95%!

とにかく、女子、女子、女子!!

コンピュータとは全く別世界。


学費の面で親に負担を掛けているので、ここでは本当に真面目に授業を受けた。

男性の就職も厳しく、更衣室がなかったり、女の子のトイレの扱いや、赤ちゃんの扱いで、まったく信用がなかった。

だから、成績は1科目だけ「良」で他は全部「優」。

成績順とかでなかったけど、たぶん学年で1番やったと思う。


その時に、就職を有利にするために、色々なボランティアをしました。


その中の1つが児童養護施設でのボランティアです。

この経験が自分の人生に大きな影響を与えてくれました。


「殺すぞ」と言って包丁を持って脅してくる子ども。

性的虐待を受け、5歳で下ネタばっかり言う子ども。

2歳の時に、親がポテトチップ1袋をおいて遊びに行き、排泄をたれながしでポテトチップで生き延びている所を保護された子ども。

学校から帰ってきたら親がいなくなっていた子ども。

などなど

他にもたくさんの子どもがいた。


日本にも本当にこんな現状があるんやって思ったし、めっちゃ衝撃を受けた。

自分は何て恵まれた家庭に育ったんやって思った。


そこの子どもたちと一緒に遊んだり話をしたりしてる中で、将来の夢をもってるけど、実際に叶えることができない事を子どもたち自身がわかっていたのが悲しかった。

施設をでた子どもは、土木、建築系の現場仕事とか、水商売とかが多いんじゃないかなって思う。


また、世界にはもっと過酷な環境で暮らしてる子どもたちがたくさんいると思った。

その時に、こういった子どもたちが夢を叶える手伝いがしたい!!児童養護施設で働こう!!って思った。


しかし、現実は厳しかった。


就職試験で児童養護施設を受けようとすると、男性は児童指導員で大卒が条件やった。

保育士は女性のみの募集。


働きたいところで働けない。

これはさすがにちょっとショックやった。

でも、これ以上、親に迷惑をかけることはできないので、内定をもらっていた私立の乳児保育園に就職しました。


保育士1年目は本当にしんどかった。

保護者には先生として扱われず、女の子の親からは、うちの子のオムツは変えないで欲しいと言われたり、

同僚の先生からは気分で怒られ、保育が全然楽しくなかった。

車に轢かれたらちょっとの間、仕事を休めるかなって何回も思いながら仕事に行ってた。


数人の良い先生がいたからオレは仕事を続けられたんやと思う。


その中の1人の先生が

「あなたがそこに座っているだけで仕事になっているのよ。あなたが居なければ誰かが代わりに入らないといけない。でも、あなたが居ればその必要がないし、座ってるだけでも子どもを見ることはできるでしょ。だから居るだけでいいの」

って言ってくれた。

その言葉は、すごく自分の心に残って、仕事をする時の支えになった。


本当に、そういった人の助けが無かったら辞めていたかもしれない。



ちょうどその時、自分と専門学校が同じMさんと出会った。

Mさんは、自分より3つ年上で、めっちゃしっかりした女性だった。


Mさんの夢は20代のうちに自分の居酒屋を開く事。

その夢を叶えるために彼女はすごく努力をしていた。

保育士の仕事をした後、お酒の知識、接客、経営を学ぶために、居酒屋、BAR、料亭などで深夜までバイトをし、土日は調理師免許の勉強、それに加え、祖母の介護をするためにヘルパーの資格も取ろうとしていた。

毎日の睡眠時間は2時間くらいと言っていた。


彼女とは年に数回会っていたが、会うたびに着実に彼女の夢が実現に向かっているのがわかった。

本当に夢を叶える人って言うのはこういう努力をしているんだなと、彼女の姿から学んだ。


彼女と出会ってから数年の間に、自分は公務員になり、保育士としてのキャリアを積んできたけど、彼女の前で自分が努力してるとは一切言えなかった。

会うたびに、自分はまだまだやなーって感じた。


そして、彼女は宣言通り29歳で自分の店をオープンした。

経営も半年で黒字になっていたらしい。


彼女は努力して夢を叶えるということを教えてくれた。


今、彼女とは連絡がとれないけど、自分が1番尊敬してる人になっている。

自分の将来で困ったことがあった場合、彼女ならどうするか?って考えたりする。



それから数年後、自分にも大きな変化があった。

保育所の園児が亡くなったのだ。

原因はインフルエンザ脳症。


彼が亡くなる前日、私は彼を園庭で一緒に遊んでいた。

彼は元気に三輪車をこいでいた。


その次の日の朝、彼は目覚めてこなかったのだ。


信じられないくらい、突然の訃報だった。


通夜、葬式と参列したが、彼の死をすぐに受け入れられなかった。

しかし、棺桶に入った青白く血の気が無い彼の顔をみると涙が止まらなかった。


なんで彼は死んだんや。

たった3年しか生きていない彼の人生は何やったんや。

彼は何のために生まれてきたんや。


両親の気持ちは想像もつかなかった。


家に帰ってからもずっと彼と両親のことが頭から離れなかった。


そして、自分自身についても考えた。


自分は何のために生まれて、何のために生きてるんやろ?

これからの人生をどう生きるつもり?

そして、どうやって死んでいくん?


ずっと、考えているうちに、昔の自分の気持ちを思い出した。


自分は家庭環境に恵まれてない子どもたちが夢を叶える手伝いをしたかったんや!!


何で今、オレはそれをしてないんやろう。

自分もいつ死ぬのかなんてわからへんのに。


彼は、後悔しない人生を送ることを教えてくれたんや。

そう思った。


その時から自分の人生は恵まれない子どもたちのために生きようと決めた。

保育士としてのキャリアを活かし、世界の恵まれない子どもたちに夢を持って生きてもらう手伝いをしようと。

たとえ、たった1人の子どもでもいいから、オレと関わったことで、その子どもが夢に近づけて、幸せに生きる手伝いができれば、オレが生きてる意味があるんじゃないかと思った。

そして、その2年後、青年海外協力隊に幼児教育の分野があることを知り、応募したのです。


ここからの話はブログの最初に戻ります。



2013年11月20日にブログを始めてから約3年、これがちょうど750個目の記事です。

初めは誰にも教えず1人で始めたこのブログを、このように続けることができたのもみなさまのおかげです。

私自身は、協力隊としてカメルーンで大きな成果をあげるようなことは出来ていないと思います。

ですが、このブログが青年海外協力隊になろうとしている方や、アフリカ・カメルーンのことを知りたい方のお役に少しでもたてていれば嬉しく思います。

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とても感謝しております。長い間、本当にありがとうございました。

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