伊達輝宗と義姫『虎哉 宗乙』

2010年07月16日

片倉小十郎、政宗傅役となる。

小十郎景綱が十九歳のときに遠藤基信の推挙で九歳の政宗の傅役となった。

傅役に任じられたとき武士として最下級の俸禄四人扶持二両であった。

この頃小十郎は天下を決するという夢を持っていた。

天下を取れなくても自分が決めたい、関わりたいと思っていた。

現状ではその夢は実現は叶わない。

信長はいずれ滅びる。

後継争いをするのは羽柴秀吉、明智光秀のどちらかであると読んでいた。

安国寺恵瓊が信長の天下の目は無いと予想していた頃、奥羽の片倉小十郎もその予測をしていた。

すでに天下の情勢を見切っていたのだ。

情報を収集するうち、羽柴秀吉が時期天下人となる。

その秀吉に仕え天下を決したいと思うようになっていた。

ついに出奔を決意し最後の別れを姉喜多に告げるつもりであったが

その喜多は小十郎に向かいこう言った。

『幼君に背き他国へ行くのか』

喜多は小十郎に自分の考えをとくと述べた。

その結果小十郎は伊達家へ残り、迷う事なく政宗に忠誠を尽くすのであった。

この時に小十郎は主君伊達政宗を天下人にする。

その決意を胸に戦略を敷くようになったのである。

主君政宗はまだ若い。

秀吉の天下となるが、いずれは秀吉は死ぬ。

その後天下をもらい受ければ良いのだ。

その為には早く奥羽を束ね出来るだけ大きくならなくては成らない。

それが小十郎の使命。

政宗を天下人にする、そう決意をする小十郎であった。

しかし、予想よりもはやく豊臣秀吉は関東へ攻め込んできた。

もう待ったなしである。

絶妙のタイミングで秀吉に詫びをいれるのであった。

そして生き残る戦略を用意していた。

政宗白装束での参陣と千利休への接近。

これが功を奏するのであった。


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yoshidenki at 23:45│Comments(0)TrackBack(0)伊達政宗 | 片倉景綱

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