メインサイト(「庶民の弁護士 伊東良徳のサイト」)で現在は「控訴の話(民事裁判)」とか「まだ最高裁がある?(民事編)」へのアクセスが多いことを反映して、控訴や上告の相談を受けることがわりとあります。
 1審は弁護士なしの本人訴訟だったり、別の弁護士に依頼してやったけど、敗訴して、そこで相談に来られるわけです。
 こういう相談の場合、私ができる対応にはいくつかのレベルがあります。
 第1に、判決文を読んで、判決をした裁判官が何をキーポイントにどういう理屈でこの結論に至ったかを読み取り、解説するという作業。これだけであれば、判決がとても専門性の高い分野の問題を扱っているとかとんでもなく分厚いのでない限り、30分とか1時間程度の相談でもできることが多いです。
 そして、意外にも、このレベルでも驚きまた結果的に納得する相談者が、私の経験上は多いのです。判決を受けながら、意外に内容を理解していない当事者が多く、さらにいうと弁護士に依頼していても判決の内容について十分な説明を受けていない当事者がけっこういるというのが私の実感です。
 判決文自体が理解できていない、読めていない人がけっこういます。確かに素人には取っつきにくい文章スタイルではありますし、素人が理解しにくい法律用語や論理構造が障壁となっている部分は多々あると思います。そのあたりは、1990年代から現在の「新様式」判決(もうすでに「新様式」という言葉が当てはまる時期ではないですが)が議論され採用される際に当事者が理解しやすいということが目的だったのに、十分ではなかったということでもあるのでしょうけど。それとともに、裁判官が結論を導くために重視するポイントと当事者が重視する(こだわる)ポイントは一致しないことが多いということが、当事者には判決の論理展開を見えにくくしているところもあると思います。当事者としては、結果(判決主文)と自分が大事だと思うポイントに目が行き、さらにいえば裁判を担当した弁護士も裁判の経緯がわかっているだけにその経緯へのこだわりというか先入観が働くことがあるでしょう。そういう担当した弁護士と当事者の先入観というか思い入れが判決の冷静な読みを妨げる要素があるので、第三者の弁護士が判決を読んで解説をするということは、それ自体意味があると思います。
 この判決の解説も、判決文だけで行うというレベルと、事件記録の引用部分を確認して行うというレベルがあります。判決では、当事者が争っている重要な事実認定ではどの証拠によって認定したか、その証拠をどのように評価して認定したかが記載されていることが多いです。事件記録の全部を相談の場面で読むことは不可能ですが、相談の際に事件記録を(整理して)持ってきてもらえば、判決で引用されている証拠を確認することで、より深いレベルの解説ができます。

 この判決の解説で、判決を書いた裁判官の事実認定、そのキーポイント、論理構造は説明できますが、それが裁判所に提出された主張と証拠全体から「正しい」あるいは「適切な」ものかは、別のレベルの話です。
 判決の解説から、論理的に、どこを潰せば(どんな証拠が新たに出てくれば)判断が変わりうるかという話は、出て来得ます。しかし、多くの場合、それは無い物ねだりになるでしょう。そんな証拠があれば、1審で提出しているのがふつうでしょうし、あるいは提出しても裁判官の琴線に響かないものだったということかもしれません。
 そうすると、1審で敗訴した相談者にとって、一番望ましいのは、既に提出されている証拠の中で新たな評価によって、あるいはいくつかの証拠の組み合わせやたいして重要ではないと考えて提出しなかった証拠との組み合わせで、有利に使える、判決の結論に影響を与えうるものがあるのではないかということです。
 しかし、それは判決の解説とはまったく異なるレベルの作業です。判決の解説をしながら、相談者にこの点に関する判決で引用されていない証拠はありますかと聞いて、そこで挙げられるものの評価までならできると思いますが、えてして相談者は何が自分に有利になるか(裁判官が、自分に有利な判断をしてくれる材料になるか)を適切に判断できないものです。
 判決の認定が「正しい」かとか、判決を覆す材料が(判決文で引用している範囲や相談者が挙げてその場で見せられる証拠の範囲以外で)あるかということになると、事件記録全体をきちんと読み込まなければ判断できません。しかも、そういう判断をハイレベルでやろうとすれば、読み流すレベルでは無意味ですので、その事件を担当していない弁護士にとってはかなりの労力になってしまいます。庶民の弁護士としては、事件記録を読むのにかかった時間分だけ1時間いくら(「タイムチャージ」っていいます)で支払ってもらうというわけにも行きませんし。

 そういうところで、控訴の相談について、多くの弁護士が思っているよりはやれる部分があると思っていますが、同時に限界も感じながらやっています。