青く高き声を歴史に聴く

大学で歴史学の研究をしています。 専門は江戸時代から幕末維新にかけて。 このブログをやろうと思った動機は単純で、歴史学を少しでも面白くしたいからです。 今の歴史学は緻密で論理的ですが、何だか面白くない。 面白いって複雑だと思うんです。 歴史にはオタク的な要素も、実用的な有用性も、世界を批判する視点も、すべてある。 そんな歴史学ができればいいなあと思います。 このブログでは、研究をしていて思うことや、自分も含めた著作の紹介や、学会などにおける活動などを書いていこうと思います。 2018年4月19日                        吉岡 孝

 

 数年前「歴史学の現状は退嬰的」だとして、ミニシンポジウムと銘打って言語論的転回の名を冠した報告を企画したことがありました。歴史学の現状に鑑みると「壮挙」というより「やけっぱち」といった方がいいでしょう。後で「歴史学は退嬰的ではない」という「お小言」が書かれたお手紙を頂戴しましたが、なんかねえ(笑)。


 しかしその当時から実は自分は言語論的転回における極端な部分は理解できませんでした。それは言語決定論です。結局最終的にはすべての問題が言語に収斂されるという主張です。自分には言語のその向こうに「何か」があるような気がして仕方ありませんでした。言語を越えた向こうに、言葉はいらない、そんな世界が最も根底から人間を規定している気がしました。この西村ユミ『語りかける身体』を読むと、それは身体であるとの感を強くしました。



 この本は現在首都大学東京健康福祉学部看護学科教授にして看護師の著者が、所謂植物状態にある患者に接する看護師との交流を通じて、人間の本質に迫ったものです。自分が思うに看護師たちは確かに患者と「会話」をしている。しかしこの「会話」は言葉を用いないので傍の人には理解できない。身体同志の交流レベルにまで下りていかないと「会話」だと気付かない。彼女たちは「会話」ができるまでの身体の交流レベルを築くために、地道な努力を積み重ねるようです。そして「会話」を手に入れる。これだけで感動的なのですが著者はこのことを理論化しようとし、メルロ=ポンティを導きの糸とし、現象学的アプローチを試みます。「世界を見ることを学び直す」とはメルロ=ポンティの言葉だそうですが、身体の交流というレベルから世界を丸ごと捉え直そうという著者の態度には惹かれるものがあります。


 この本のなかで患者さんを亡くした看護師さんが、「手の感触」について語るところがあります。「〈手の感触〉が思い出されるうちは、まだ私の中でスーさん(亡くなった患者)はあのう、亡くなった人ではあるんだけれども、自分の中で、たぶん日常生活でなんらかの影響を与えてきそうな」。身体レベルの交流とはこのような〈感触〉を媒介にしたものなんでしょう。感性の共有化がまずあり、そして言葉によって情報化され、傍の人にも理解できるようになる。大切なのはその「流れ」なのであって、言葉ではありません。なぜなら言葉は「初めに言葉ありき」、理性的に倒錯されることも多いからです。言葉は身体の立場から常に捉え直す必要があります。そしてこの看護師さんはこういいます。「思い出せるうちは思い出しておきたい」。自分はこれが歴史の原初的形態だと思います。


 因みに自分がこの本を読んだ理由は徳川家茂のことを考えたかったからです。彼が身体で何を表現したかったのか。この点はいずれ論文に書くつもりです。

(講談社学術文庫、1100円+税)


 

 テレビを見ているとときどき「政局」という言葉が出てきます。この言葉を定義することは難しいのですが、政権闘争によって政治状況が一挙に流動化する時などに使用されるようです。つまりスキャンダルのような政治的本質とは無縁な理由で大きく政治が変わる。そんな場合に使われることが多いようです。それを政局とここでは定義しておきます。

 

 ここで取り上げた高澤憲治先生の『松平定信政権と寛政改革』は政局史の名著といえるでしょう。政局で大切な要素は人間関係です。ここでは定信をめぐる人間関係が微に入り、細を穿ち、実に丁寧に描かれています。定信は当時飛ぶ鳥を落とす勢いがあった田沼意次に対抗するために、三河吉田藩主松平信明や陸奧泉藩主本多忠籌等を同志として党派を結成します。定信はこの党派を背景に、当時の政界最大のフィクサー一橋治済や御三家・大奥の支持を得て、いきなり老中首座に就任し、中央政界にデビューします。しかし面白いのはその解任事情です。

寛政改革は必ずしも成功とはいえない改革ですが、しかし定信が解任されたのはその成否からではありません。本多忠籌は自分は小大名に過ぎないという劣等感から定信に反発したようですし、松平信明も田沼を倒し、老中になった上はいつまでも定信に従う義理はないという感情的な理由で定信に反感を覚えたようです。一橋治済は成長し、定信と反りが合わなくなった我が子にして将軍の徳川家斉のことを慮って定信更迭に踏み切るようです。すべて感情的な理由です。それが政策的な理由でなかったことは、定信辞任(事実上は解任ですが)の後を受けて成立した信明たちの所謂「寛政の遺老」たちの幕閣が、寛政改革と同じ政策基調であったことによっても明らかです。つまり定信解任という歴史上の大事件は、政治的理由というより政局的理由によって行なわれたといした方がふさわしいことになります。

 

 もちろん定信は大政委任論の採用といった政治上の大事も実行しています。多くの研究者はこのような大事を中心に「政治史」の論文を書きます。「政局史」は感情のような不確定な要素を多く含み込むため、科学的客観的態度をよしとする学会では評価されない傾向にあります。しかしそれでよいのでしょうか。現実の政治は直接的には「政局」レベルで展開するのではないでしょうか。もちろん政策・政治的本質も大切です。しかし一流の政治家は「政局」を巧みに利用して理想を実現していくのではないでしょうか。「政局」しか理解できない政治家は三流の政治家ですが、政策しか理解できない政治家は政治家とはいえないでしょう。このような視点から考察すれば定信は一流でも三流でもなく、二流の政治家ということになります。「政局」は政治の随伴状況ではありません。不可欠なものです。本書のような「政局」史の傑作がもっと生まれることを期待して已みません。

(清文堂、11,500円+税)



 

 少し前の文化史だと上方中心の元禄文化と江戸中心の化政文化が二つの頂点であり、次第に文化の中心が東へ移っていったという文化東漸論が主流でした。しかしこの視方だと18世紀がスッポリ抜け落ちてしまいます。また元禄文化も化政文化も町人文化です。つまり「俗」の文化であって、「雅」の側面が江戸時代の文化から捨象されてしまうことになります。このために18世紀の「雅」にアクセントを置いた文化史研究が必要になります。この点を重視した中野三敏は2016年に文化勲章を受章しました。18世紀の「雅」と「俗」のあり方が問われているといえるでしょう。

 現在丸の内の出光美術館で行なわれている「江戸絵画の文画-魅惑の18世紀」展は、この点をコンセプトにした美術展でした。華やかな琳派も文人画の範疇で捉えようとしています。一番印象に残っているのは与謝蕪村の「夜色楼台図」。多くの人がそうでしょう。まあ、国宝ですしね(笑)。図録の解説を読むと明の古文辞学派李攀龍の格調高き七言律詩を典拠にして画かれているそうです。でも風景は中国ではなく京都。「雅」と「俗」の調和を企図したということでしょう。山の稜線などは「俗」というよりこどもが画いたよう。でも素人が画く素朴な線が文人画の理想なんですって(宋末元初の銭選の言葉)。そうだとするとこの絵は間違いなく文人画。自分は黒の使い方にとても魅かれました。黒って本当にいろいろな色を表せるんですね。

 もう一枚挙げるとしたら、勝川春章の「美人鑑賞図」。これまた図録解説によれば、六義園で11人の美人が狩野探幽の竹鶴図を鑑賞するという構成。でも猫が座敷の中央で布に戯れかけて大きな音でも出したのでしょう、多くの美人がそれを見つめた一瞬を切り取ったもの。美人の着物は色や模様がそれぞれ違って、いろいろなタイプの美人を競わせたかったのかと「ラブライブ!」的なねらいを想像しましたがそうではないようです。最初は11人の視線がうるさかったのですが、猫を視ずに掛けられようとしている寿老人の掛け軸を視ている二つの強い視線に気がつきました。ほぼ同じ高さにあって多分これがこの絵の中心線。この絵は春章のパトロンだった大和郡山藩主で、安永2年(1773)に隠居した後は六義園に住んだ柳沢信鴻の古稀の祝として画かれた可能性が高いそうです。寿老人を視ていることも納得できます。因みに六義園を創った徳川綱吉の側用人柳沢吉保は信鴻の祖父に当たります。吉保といえば成り上がりのイメージが強いですが、本人は冷泉派の歌人であり、六義園も文学的古典を形象化した「雅」な庭園です。その典画な庭園で美女たちが絵画を鑑賞するという「俗」が描かれる。雅俗が調和した秀でた作品といえるでしょう。


この展覧会は12月16日まで。



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