青く高き声を歴史に聴く

大学で歴史学の研究をしています。 専門は江戸時代から幕末維新にかけて。 このブログをやろうと思った動機は単純で、歴史学を少しでも面白くしたいからです。 今の歴史学は緻密で論理的ですが、何だか面白くない。 面白いって複雑だと思うんです。 歴史にはオタク的な要素も、実用的な有用性も、世界を批判する視点も、すべてある。 そんな歴史学ができればいいなあと思います。 このブログでは、研究をしていて思うことや、自分も含めた著作の紹介や、学会などにおける活動などを書いていこうと思います。 2018年4月19日                        吉岡 孝

 

 「北海道に住んでいる人が、二〇〇〇キロメートルも離れ、気候も正反対といってよいほど異なっている九州に住む友人のところに来ても、自分の家にあるのと同じように、玄関には引き戸があり、同じように靴を脱ぎ、それから上がり口を一段上がって部屋へ入り、同じように畳の上に座るといったような事態は、私には奇跡のように思われた。」

 冒頭近くで著者はこのように書いています。著者は1930年にパリで生まれ、ソルボンヌ大学で地理学を専攻し、1960年に来日したそうです。日本の民家研究で博士号を取っているそうですから斯界のプロということになります。

 この本が出版されたのは1996年。そのころと比べると日本の家屋は随分変わりました。かつては畳が敷いてあることが通常で、高級イメージに欠かせなかった床の間もみられなくなりました。伝統的な日本の家屋は、土台に載っているだけでしたので、移動も可能でした。「引く」と表現されました。とても重そうな土蔵が多くの人手によって引かれることもありました。こうなると最早イベントで地域で語り草になった事例も稀ではありません。

 現在の家屋はしっかり土台に固定されています。家屋を構造的に設計し、内部と外部を遮断します。その上で空気を機械装置を使用して取り入れたり、内部空間の温度や湿度を管理します。つまり居住性を高めるための機械装置を取り込んだものが現在の家屋です。10年前家を建てた時、建築屋さんは「ガンダム化」と言ってました。自分は「ガンダムと言ったってRX­78-02とRX­0じゃ随分違うじゃん」とも思いましたが、言わんとすることは実感できました。自分と同じ世代だったんですね。

 このように日本の家屋構造も劇的に変わりました。それ故日本の伝統的な民家構造を書物の上でもいいから後世に残す必要があるでしょう。そうしないとかつての日本人の感性が理解できなくなってしまいます。この本はそのことを理解する上で最適といっていいでしょう。

 では日本の家屋の特徴は何でしょう。よく「日本の家屋は夏向きにつくられる」という話を聞きます。夏は暑いので少しでも涼が取れるようにということです。しかしながら著者は冬の寒さも耐えがたいとしています。つまり日本の家屋は夏冬問わず住みにくい、居住性の悪さが特徴です。

 問題はなぜ居住性の悪さが矯正されなかったのかということです。それは日本人が自然を、「あるがまま」を内在化させて生きることを好んだからでした。欧米においては、そして恐らく中国においても家屋の内部と外部は別個の空間です。しかし日本においては連続する空間です。縁側や庇・障子など日本家屋の特徴とされるものは、内部と外部を截然と分割するツールではありません。段階を追って外部を内部に取り入れていく装置です。自然を取り入れることが安定的な家屋構造なのです。

 朱子学においても自然は倫理によって解釈されます。キリスト教においても神が天地を創造したわけですから、自然は被造物です。しかし日本ではそうではありません。倫理から自然をみるのではなく、自然から倫理をみる。そのような志向が近世後期には生じます。本居宣長など国学はそうですし、寛政朱子学派にしても倫理は自然のなかで生き抜く術でした。そのような文化空間のなかで日本の家屋は理解されるべきです。

 ではそのような居住性の悪さは何をもたらしたのでしょうか。それは繊細な身体性です。日本の家屋には囲炉裏はありますが、その暖房効果は極めて限定的であり、空間そのものを暖めようという志向はありません。要するに日本の家屋は死ぬほど寒い。ではどうやって凌いだのでしょう。

 江戸の人々は寝るときは一つの部屋に集まってみんなで暖め合って寝ました。お互いの体温を有効利用したわけです。当時の人々にとって親とは「冬寒い時に暖めて眠らせてくれた人」であって、儒教的な孝の対象というよりはもっと身体的な存在です。落語で亭主の悪口ばかり言っている長屋のおかみさんに「なぜ別れないのか」というと、「だって夜寒いんだもん」と言ったというのがありました。これはもちろん笑い話ですが、一緒に生活するリアルってこういうものですよね。生活する上で大切なのはこういった身体感覚なんじゃないでしょうか。それを共有できる空間があるというのはとても幸せなことです。日本の家屋の居住性の悪さはこのような身体性を育てたのでした。このような身体性は今は失われてしまいましたが、日本文化を考える上では重要な視点です。


(平凡社、加藤隆訳)


 吉原は教えるのが難しい。何といっても江戸文化の中心的存在であると同時に売春組織であることに間違いがありません。それを同時に教えるのはなかなか困難です。「事実を見つめる」ことは歴史学の基本ですが、問題は事実は無数にあることです。どの事実を選択するかによってその人の世界観が問われることになります。

 ただどのような事実を選択するにしろ、吉原に対する体系的な知識は知っていた方がいいでしょう。慶長年間に江戸日本橋近くの人形町で江戸で唯一の公娼が置かれた時、その相手として想定されたのは高級武士です。この時代は江戸の男女比率は極端で女性は少なかったのです。なおこの男女比率の歪さは1800年頃には解消し、男女の比率はほぼ等しくなります。

 徳川直参の高級武士ももちろん存在しましたが、諸藩の高級武士も存在しました。江戸での彼等の待遇は武士階級全体の問題だったわけです。おまけに当時は梅毒が流行していました。結城秀康・加藤清正・浅野幸長など枚挙に遑がありません。当時の医学知識では梅毒から完全に免れることは難しいでしょうが、遊女の出自を限定して、客層を限れば、比較的安心とはいえるでしょう。

 そのため吉原の遊女の奉公は人身売買ではなく、契約関係です。今日の感覚からすれば十分奴隷契約ですが、当時の同時代的意識ではそうはいえないでしょう。ですから遊女は奉公の年季を終えると自由の身になれたのでした。

 旧吉原では客は昼に遊びに来て夜は泊まらずに帰るのが基本でした。武士は、特に当主は外泊は禁止でした。武士は「常在戦場」が建前ですから、夜の軍事動員にそなえなければならなかったのです。この吉原の規定はそのことに対応しています。高級武士が相手なので、旧吉原の遊女たちには教養が要求されました。知的で洗練された会話も接客業の重要な要素です。ですから初期の遊女たちは売春婦であることに間違いはありませんが、それのみで切り捨ててしまうのも事実と違うでしょう。

 そのような遊女の地位が低下していくのは早くも明暦2年の浅草への移転から夜の宿泊を許されたので変化の兆しが出ているといえます。しかしやはり享保期に入り、武士階級の顕示的消費が失われ、元禄期の紀伊國屋文右衛門のような豪商による顕示的消費も失われ安定的成長期に入ったのが大きいのでしょう。吉原のビジネスモデルは永遠に失われ、太夫は失われ、揚屋も喪失し、18世紀後半には私娼と変わらないようになっていきます。

 ですから吉原をイメージする場合、17世紀初頭をイメージするのか、19世紀をイメージするかでまったく異なるといえるでしょう。19世紀にはお歯黒ドブと呼ばれる堀の周辺には「鉄砲」と呼ばれる下級遊女が密集していました。性病に当たれば命がないから「鉄砲」。歌麿が「鉄砲」の遊女絵を画いていますが、鬼気迫るものです。彼はきれいな遊女ばかり画いていたわけではありません。

 もう一つ吉原は日常の秩序が反映されないというイメージがあります。この本はこの点を執拗に批判しています。役者や穢多・非人は客としては認められませんでした。つまり吉原は日常の秩序が忘れられた「夢の国」ではなく、遠く隔たっていても日常と地続きな「辺境の悪所」だということです。この点も吉原を考える時には欠かせないでしょう。


(吉川弘文館、9500+税)


 著者は日本人で唯一ダーウィン・メダルをもらった、つまりイギリス王立協会が認めた唯一人の日本人生物学者として有名です。中立進化論というのが著者の代名詞です。

 中立進化論を理解するためには生物の個体と分子レベルは別物という視点をもたなければなりません。分子レベルで起こる突然変異は個体が生存するためには大して不利ではありません。中立だという主張ですね。だから分子レベルの突然変異は個体に蓄積されて子孫に伝わっていく。そして何か環境変化が起きた時には、その分子レベルの隠されてきた突然変異が表面化する。それが進化ですね。

 この中立進化論はとても魅力的です。歴史学にも応用できそうです。時代は常に変わっていく。でも分子レベルの突然変異は潜在化する。しかしそれが積み重なっていってプールされて、やがて歴史環境が変化した時一挙に顕在化する。とても魅力的な歴史理論だと思うのですが。

 意外なことに経済学者の岩井克人さんが『経済の宇宙』(日経ビジネス文庫、2021)という本のなかで著者との思い出を語っています。1989年に著者が岩井さんに面会を申し込んだそうです。それは岩井さんが『現代思想』のインタビューで今西錦司を批判した記事を著者が読んだからでした。

 今西錦司(1902~1992)、この人は探検家や霊長類研究家として有名です。人間的魅力もあり、人気絶大。「棲み分け理論」で知られる京大の名物教授。この人が有能な観察者であったことは事実で、それがしばしばダーウィン理論と食い違う。この場合のダーウィン理論とは1940年代の新ダーウィン的総合です。

 だから今西理論は新ダーウィン的総合に対しては正しく批判していたわけです。しかしその後今西は理論的探究を軽視し、進化論を放棄し、全体論を主張したのでした。この点を岩井さんは突いたわけです。

 著者はそれが嬉しかったようです。つまり今西が明らかにした観察は中立進化説で説明できるわけです。しかし日本では今西説が人気があって中立進化説はあまり顧みられなかった。三時間近くも岩井さんと話したということは忸怩たる思いがあったのでしょう。

 木村資生は三島市にある国立遺伝学研究所の名誉教授、日本学士院会員、文化勲章受章と学会では最高の評価を得たといっていいと思いますが、日本国内の知名度は今西に劣ったという事情があったのでしょう。

 それは学者の功名心というのではありません。大きな理論が破綻した時、実証に逃げ込むというのは学者として不見識です。大きな理論が崩壊した時、緊急避難的に実証に逃げ込むというのは理解できますが、それは一時的なもののはずです。いつまでもそれではいけない。

 皇国史観はもちろん、唯物史観も崩壊したことを率直に認め、しかし大きな理論を放棄することなく、実証的成果をトータルに位置づけられる理論を歴史学も希求すべきです。この本を読むと、そうとしか思えません。

 ですからこの本は有益な本ですが、最後に述べられている優生学の主張だけはいただけない。長い歴史からみれば何が優生で何が劣勢なのかは相対的なものです。つまり優生学という思考自体が成り立たない。


(岩波新書・900円+税)

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