青く高き声を歴史に聴く

大学で歴史学の研究をしています。 専門は江戸時代から幕末維新にかけて。 このブログをやろうと思った動機は単純で、歴史学を少しでも面白くしたいからです。 今の歴史学は緻密で論理的ですが、何だか面白くない。 面白いって複雑だと思うんです。 歴史にはオタク的な要素も、実用的な有用性も、世界を批判する視点も、すべてある。 そんな歴史学ができればいいなあと思います。 このブログでは、研究をしていて思うことや、自分も含めた著作の紹介や、学会などにおける活動などを書いていこうと思います。 2018年4月19日                        吉岡 孝



 この本の著者は澁澤榮一。言わずと知れた「日本資本主義の父」ですね。去年の大河ドラマの主人公でした。自分は大河ドラマはあまり見ないのですが、これはなかなか面白くみました。澁澤は武州血洗島の百姓の出ですので、藍玉農家の様子が描かれていて興味深かったです。

 この本は昭和12年(1937)11月11日に岩波書店から発行されました。自分はもちろん古本屋で買いました。「謹呈 澁澤敬三」という短冊が入っていました。もちろん栄一の孫で大蔵大臣になった人物です。民俗学でも著名です。網野善彦さんの本によく出てきていました。

 さて内容ですが楽翁とは松平定信の号です。当然彼の伝記が書かれています。澁澤榮一は明治初年に東京市養育院の責任者になりますが、この養育員の資金として定信が設置した町会所で積み立てたお金が使用されたのです。澁澤はそれで定信に興味を持ったようです。

 自分がこの本で一番興味を持ったのは以下の定信のエピソードです。定信は浄瑠璃・長唄を嗜む藩士には自分の前でそれを上演させて、どんなにうまくても追放したというものです。

 定信がぜいたくを嫌ったことは有名です。ぜいたくは奢侈とか風流とか言われました。風流は今日ではむしろ典雅な感じのする言葉ですが、定信は派手な流行のような意味で使用しています。風流踊りの風流ですね。定信はそれよりも質素倹約を尊んだわけです。

 今日江戸時代の藩主たちが質素倹約を尊んだことはよく知られています。しかしそれは当然のこととはいえないでしょう。荻生徂徠も質素を尊んだのですが、彼の場合は「良質な商品は少ない。粗悪な商品は多い。良質な商品は少数の身分の高い人間のもの。悪質な商品は多数の庶民のもの。このバランスが大事」と言っています。ですから徂徠の構想では質素倹約は庶民が行なえば良いことで君主は必ずしも行なう必要はないのです。17世紀は藩主クラスの身分的上位者はむしろ衒示的消費を行なって経済を廻すことを求められていたと言っていいでしょう。

 でもそれならばなぜ19世紀に近づくと定信のような君主まで質素を追求するようになるのでしょうか。これは愚問でしょうか。その答えは財政難の折、支出を削減しなければならないからに決まっているということになるからです。

 確かにそれは無視できないことです。ただ質素倹約以外に方法はなかったのでしょうか。今日のリストラのように藩士たちを次々に放逐してしまえば支出を削減できるのではないでしょうか。自分もすべての藩について知っているわけではありませんが、藩士の大量首切りは一般的とはいえないでしょう。各藩とも藩士の知行を半減するなどのことはよく行ないましたが、「解雇」はあまりなかったのではないでしょうか。

 これは藩の性格が変わったからです。江戸時代初期には藩主に忠誠心を持っている家臣はせいぜい下級武士までです。足軽のような武家奉公人や陪臣は藩主に忠誠心などは抱かなかったでしょう。「主の尊きは知れども、主の主の尊きは知らず」というところです。しかし19世紀には藩全体が主君に対する忠誠心を要求されました。忠誠心を要求される以上「解雇」はあり得ません。それが身分制社会です。

 藩全体が忠誠心を要求される以上、藩主の位置づけも変わってきます。全藩士の規範的存在として主君は存在することになります。当然全藩士の忠誠心の対象となれるような論理が要求されます。このような藩の変質をここでは「藩の身体化」といっておきます。

 定信の場合それは「誠」だったようです。誠は朱子学の四書の一つ『中庸』で強調された概念で「誠は天の道」とされます。例えば孝という行為も誠がなければ真の孝にはならないとされます。まあ、真心のようなものですね。

 ですから誠は誰にでも実践可能です。定信は誠を実践しているかどうかを質素倹約を行なって、風流奢侈に陥っていないことで判断したようです。とてもわかりやすいですね。上記のように誠は朱子学の影響が大きい言葉ですが、「藩の身体化」によって始めて朱子学は支配イデオロギーとしての背景を備えたといっていいでしょう。

 それで質素倹約ですが、定信は領民統治にも用いていました。所謂風俗取締令です。臣下と領民を同一な基準で統治しようとしたことはもっと注目されていいことです。定信は江戸時代で定められた領民の統治理念を可能な限り積極的に位置づけました。「仁政」を最大限拡大させたわけです。これは封建君主として評価されるべきことです。

 一方民衆が自己の生活空間を快適化させていこうという主体的な行為はまったく認めませんでした。それは風流な行為と認識したからです。彼は錦絵などただの奢侈としか認識していません。後世の美術史家からみればまったくの無知です。民衆の主体的な活動は自分が認めている「誠」に基づいているかどうかが基準だったのです。ですから風俗取締令は今日からみると庶民文化弾圧令のように感じるのです。

 話を戻すと浄瑠璃や長唄など今日の目からみればとても情緒的なものに思えます。定信も心は良く理解しています。何しろ源氏物語の大ファンですから。しかし源氏物語の恋は誠の感情で理解できます。人間の本質の問題と捉えることができるわけです。
しかし浄瑠璃や長唄の恋はもっと不条理です。近松の作品は経済原理か人間原理かで悩み、自滅していく人間の業の深さを描いています。定信にいわせれば人間原理に決まっていて悩む必要などないわけです。そうすると浄瑠璃の下世話な部分だけが印象に残るわけです。それがあることは事実です。つまり浄瑠璃や長唄の作品は「商品」です。定信はそのいやらしさを認めなかった。

 自分は定信は市民社会に形式を与えた人物だと評価しています。それまでの支配者は民衆統治の場合、公法的な民衆、つまり成人男子の家長をターゲットにしていました。しかし彼が展開した風俗取締令は女性や子どもも対象になります。これはもちろん否定的な評価ですが、統一的に対象にしたことは事実です。このことは近代国民国家を考える場合逸すことができない事実です。しかし定信は民衆生活とは何かということは遂に理解できなかった人物なのです。


 

 自分が若い時にはどの社会にも左翼の「怖いおじさん」がいて、若者は叱られてばかりいました。自分もかつて「選挙の投票にはいつも行っている」といったら、左翼のおじさんに「お前はブルジョア民主主義を認めるのか」とひどく立腹されました。
 

 でも自分は思い出しました。このおじさんはかつて「右翼と組んで選挙運動をやったことがある」と語っていたのでした。そもそも右翼と組こと自体どうかと思ったのでしたが、そこはおいて、かつて選挙運動をしながら投票を批判するのは矛盾ではないかと指摘しました。しかしそのおじさんは「矛盾はない。なぜなら自分は選挙運動は行なったが、投票には行かなかったからだ」と答えました。
 

まあ、そういわれればそうですが。その候補者は落選したそうですが、このおじさんが投票していたらもしかしたら勝ったかもしれないのに。間抜けですよね。でもあまりにも間抜けなので少し左翼が好きになりました。落語の登場人物みたいで愉快と思ったのですりたいとは思いませんでしたが。
 

近年ではこんな「怖いおじさん」も絶滅したようですが、今考えると無茶苦茶なことも多かったのですが、常に批判的視点から物事を捉えるという人がいると緊張感があってよかった気もします。またそういう存在を許容するということの大切さも教わったような気がします。

ここで取り上げた池上彰佐藤優さんの『日本左翼史』三部作は戦後左翼運動の興隆と挫折を論じたものです。そこには今後に活かすべき教訓があるということです。さすがに著名な二人の対談だけあって大いに裨益させられました。
 

アジア・太平洋戦争後に労働運動が高揚し、それを前提に左翼運動も高まっていくわけですが、当時組合運動を支えていたのは組合運動が「明るくて楽しい」という印象を与えていたからだという指摘は大変秀逸です。
 

自分の母は1946年皇居前広場で行なわれた「米よこせメーデー」にも参加したそうですが、その時の話を聞くと楽しそう。労働運動というよりクラブ活動にでも参加していた感じです。直接の動機は弁当が出たからのようですが(笑)。
 

戦後になってレクリエーションという言葉が取り入れられ、組合ハイキングやバレーボール大会なんかを催したそうです。明治の自由民権運動結社も運動会などを主催しましたから、それ以来の伝統だったのですかね。
 

 ですから労働運動といっても暗いものではなかったということですね。しかし1972年にあさま山荘事件が起きると、まったく印象が一変します。この事件に関係した運動家たちは理念の化け物のような人たちで、まったく人間らしい身体を持っていない。というよりもそういう身体を排除しようとしたことが「内ゲバ」に繋がっていったように自分には思えます。
 

 とにかく70年代からは左翼運動は漂流し始め、盛んだった労働運動80年代になると国鉄解体もあってそれも衰退していきます。決定的だったものはソ連の解体です。日本の左翼は必ずしもソ連ベッタリの派閥だけではなかったのですが、結局左翼はスターリニズムを脱構築できず、ソ連とともに沈んでいったというのがこの本の見立です。表面的なスターリン批判に留まらず、本源的なスターリン批判が必要だったのにそれができなかったということですね。このあたりはとても刺激的な指摘です。歴史屋はなかなか唯物史観を脱構築できないので他人事ではありません。
 

 それから80年代になると組合でレクリエーションをするより、恋人同士、友人同士楽しみたいという「娯楽の多様化」が始まったことも組合の衰退には大きかったようです。
 

 でもこの本の最後には「大きな物語」はやっぱり必要ということで終わります。自分もこの点は同意見です。左翼であろうがなかろうが、人間には「大きな物語」が必要なのです。そういった生き物として人間を捉えるべきです。

 

(講談社現代新書、『真説』は900円、『激動』が920円、『漂流』が880円、いずれも税別)



 この本で取り上げられた思想家は山崎闇斎・伊藤仁斎・荻生徂徠・貝原益軒・石田梅岩・本居宣長・平田篤胤。頂点的な思想家も入っていますが、そうでない人のいることは指摘しておきます。

 著者の提起は近代科学観の超克にあります。「近代科学とは、文字や数値で一義的に確定された客観的事実を透明な形式論理でつないで「実証的」に確定していく」。このような志向の問題点は何でしょうか。それは「近代科学に人間の内面の問題が抜け落ちている」という指摘に鑑みるとわかると思います。

 では「人間の内面」とは具体的にはどのような視点を指しているのでしょうか。この本を読むと「テキストの身体化」という言葉が何回も出てきます。テキストを頭で理解するのではなく身体で理解する。どういう空間でテキストを理解したのか。それを重視するということですね。

 「山崎闇斎は禅宗寺院で若年期を過ごし、伊藤仁斎は京都の上層町衆の文化世界の空気を吸って成長し、荻生徂徠は日記を漢文で書く訓練を受け、農村で独自自習をおこなった。貝原益軒は和文の出版書を独りで読み、商家の奉公人だった石田梅岩は町の講釈を聞き廻り、本居宣長は歌会の日常を生きた」と筆者は書いています。

 作者論の立場に立てば読者がどのような空間でテキストを読むかなんかどうでもいいことです。しかし読者論の立場に立てば違います。どのような空間かを知るには論理ではなく、感性が重要です。感性は身体で体感しますから「テキストの身体化」といっているわけですね。

 そして日本という国から儒学を考えた場合、その「身体化」はどう考えればいいのでしょうか。その場合大切なことは日本には科挙がなかったということです。科挙がないため官僚にはなれない。そのため儒学は統治のためというよりも現実に直面して苦悩する人間がよりよく生きるための知として希求されることになります。もっとも概ね19世紀には武士の間に儒学が普及し、儒学の政治的側面も求められるようになりますが。

 朱子学者山崎闇斎は、朱子学のなかでも「持敬静座」を重視しました。物事を理詰めで考えていく「格物致知」ではなく、身体的に悟っていく座禅みたいなものですね。闇斎は朝鮮の大儒李退渓の『自省録』に感銘をうけました。朱子の肉声を聞く思いだったのがその理由です。つまり闇斎は身体レベルで朱子学を理解したのでした。

 この点は伊藤仁斎も変わりはなかったのでした。変わっていたのは仁斎は闇斎に「人間性を損ない不仁に向かう」可能性を感じ取ったのでした。これも身体性を重視した帰結の一つでしょう。闇斎先生の講釈を聞いていた弟子は講釈が終わると蘇生する思いだったといいます。先生が怖かったんですね。

 仁斎の学問的課題は「いま眼の前のその人といかに正しく交わるか」です。「人倫日用」の学ですね。仁斎の基盤にあったのは京都文人のサロン的空間です。自著の出版にもさほど拘らず、この空間で生死することを望みました。

 徂徠はお父さんが今の千葉県に流されてしまって独学に近い形で学問をしました。白話体(会話体)で漢文を読む訓練を自得し、感性的にテキストを読むことを身体化しました。徂徠にとっては大切なことは「持敬静座」でもなく、「人倫日用」でもなく、「道」は先王の作為としたことです。

 闇斎も仁斎も最後は内面的な「心」に行き着くのですが、徂徠の「道」は「社会総体の側から発送する思考枠組の斬新さ」があります。彼は内面から解放されたわけです。それが彼に経世論への道を開かせ、以後の歴史に巨大な足跡を残したのでした。

 徂徠は独学に近い形で自分の学問を形成したために仁斎のような「仲間」がいないわけです。「仲間」のなかに「自己」を見出すことができなかったところが仁斎と違います。ですから徂徠はテキストそのものに「自己」を見出していくわけです。古代中国の言語を獲得すれば古代の聖人を理解することができるという徂徠の信念は、聖人しか「仲間」がいなかった徂徠の「個人史」に由来します。

 貝原益軒を象徴する言葉は「民生日用」。彼は仁斎とさほど違わないところにいたのですが、仁斎は「人間同士の関係性」に着目したので道が分かれたのでした。この時期は文化的中間層が形成され、彼らは知的教養、実用的知識を求めたのでした。このような階層は市民社会には必要なものです。

 「民生日用」を文化的中間層より下位の民衆を対象に実践したのが石田梅岩です。彼は声と語りによるマスローグを実践し、その弟子手島堵庵は石門心学を組織化していきます。文化的中間層の下にも「民生日用」がもたらされたことは社会的安定化に貢献したといっていいでしょう。

 このような石門心学は寛政期には為政者も着目しました。「寛政の改革は政策対象としての「民心」を「発見」したことに画期的意味があった」との表現は素晴らしい指摘です。また「儒者たちのそれまでの講釈(教化)には、社会秩序からはじかれ行き場を失った民衆の心を惹きつける力がなかった」との指摘も秀逸です。それができたのは石門心学と民衆宗教だったわけです。

 本居宣長は「人間には善悪の判断を越えて、抑えがたい「ヤムニシノビヌ」人情がある」と考えていました。これは儒学の倫理観を越えています。そしてそれを知るには古代日本の言語を知らなければならないとしました。この辺は徂徠と似ています。そしてその背後には「一定の共同性を持った「国家」」があります。

 要するに江戸時代は儒学という外国の学問を身体化し、その結果として石門心学や国学などの新しいジャンルを生んだのでした。現代社会は「知の身体化」ではなく、「知の外部化」が進行しています。このことの意味を考える前に「知の身体化」とは何かという疑問を解決しておく必要があります。


(880円+税、岩波新書)

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