「参院のドン」と言われた男も小沢氏からは「しょせん秘書」

20100516-00000053-san-pol-view-000「既成の政治家で、ある意味やりやすい相手だった」

 民主党の小沢一郎幹事長(68)が自民党の青木幹雄前参院議員会長(75)引退の報を聞いてこう語った。一時は「参院のドン」と呼ばれた青木氏はミニ集会の途中でろれつが回らなくなり、軽い脳梗塞と診断されて参院選出馬を断念。小沢氏の青木評は、政治家としての格の違いを強調するものだった。

 青木氏は早大雄弁会のつながりもあり、地元・島根で竹下登元首相の秘書となり、六七年から八六年まで県会議員も務めた。一方の小沢氏は六九年に国会議員となり、青木氏が参院議員に転じた八六年には既に自治相を経験し、竹下氏が田中角栄元首相に反旗を翻した「創政会」クーデターの中心人物になっていた。

「九二年の竹下派分裂で青木氏は竹下氏側で参院の取りまとめに尽力し、小沢氏と道を異にした。とはいえその時も、『参院には手を出さないと紳士協定したじゃないか』と小沢氏が詰(なじ)ったのは、竹下氏。青木氏のことは眼中になかった」(政治部デスク)

 小渕恵三氏が首相になった九八年、青木氏は参院幹事長から官房長官、小沢氏は連立相手の自由党党首だった。小沢氏は当時の実力者、野中広務氏を牽制する意味もあって青木氏との関係を重視した。旧小渕派関係者は「この頃から青木さんは『経世会をつくったのは竹下、小沢と私だ』と、小沢さんとは対等だと言い出した」と証言する。

 自自連立が破綻し、小渕氏と竹下氏が相次いで死去すると、青木氏の権勢はますます大きくなった。永田町TBRビルの竹下事務所を「竹下・青木事務所」として竹下氏のイスに座り、政治資金も引き継いだ。最終目標は参院議長。だがその夢は三年前、参院選で民主党に第一党を奪われて潰える。その指揮をとったのが、小沢氏だった。

 そして今年の参院選では、青木氏を標的にした。小沢氏に三十歳代の元アナウンサーを立てられた青木氏は十数年ぶりの地元密着活動で、過労が積み重なっていた。倒れる数日前の集会では「小沢さんとは長年同じグループ。個人的には今でも親しい」と青木氏は漏らしたが、小沢氏は「青木さんは時代的な役割は終えた」と素っ気無い。「小沢さんにとって、青木さんはいつまでたっても『しょせんは竹下さんの秘書』だったということ」(自民党幹部)。

 青木氏は結局、息子に後事を託して政界を去る。