2011年11月12日
まじかよ!
ノーヒットノーランをつづけていたソフトバンク和田から中日の四番和田がホームランを打ち、たったの一安打で1対1の同点。これだけでも結構たまげていたのに延長10回に伏兵小池が逆転のソロホームラン。で、2対1の勝利!
なんてすごい勝ち方なんだ。
解説者の元ベイスターズ高木が「序盤の和田の投球を見て誰がこんな結末を予想しましたかね」と溜め息を漏らすのももっとも。びっくらしました。
僕も長年野球を見てきましたが、こんなジリジリした野球があんの?って思いますね。
あと吉見で一勝できるでしょうから、二勝は固い。優勝はネルソン、山井しだいか。
下馬評は圧倒的にソフトバンクでしたが、中日が自分の野球をやったら、ソフトバンクもかなわないのかも。
ノーヒットノーランをつづけていたソフトバンク和田から中日の四番和田がホームランを打ち、たったの一安打で1対1の同点。これだけでも結構たまげていたのに延長10回に伏兵小池が逆転のソロホームラン。で、2対1の勝利!
なんてすごい勝ち方なんだ。
解説者の元ベイスターズ高木が「序盤の和田の投球を見て誰がこんな結末を予想しましたかね」と溜め息を漏らすのももっとも。びっくらしました。
僕も長年野球を見てきましたが、こんなジリジリした野球があんの?って思いますね。
あと吉見で一勝できるでしょうから、二勝は固い。優勝はネルソン、山井しだいか。
下馬評は圧倒的にソフトバンクでしたが、中日が自分の野球をやったら、ソフトバンクもかなわないのかも。
2011年10月25日
先日殺されたガデフィ大佐ですが、名前の表記がバラバラですね。
ウィキペディアではカダフィQadhafi(ただし見出しは「カッザーフィー」)となっていて、日本のニュースもカダフィで統一しています。
しかし英語圏ではGaddafiです。 daにアクセントあって、ガデフィにきこえます。バナナの正確な発音がバネナにきこえるのといっしょです。
僕はガデフィでいきます。たぶんきくとイラッとくると思います。
※実際にはこんだけあるみたいです。
Qaddhafi (New York Review of Books), Qaddafi (New Republic), Gaddafi (Time), Kaddafi (Newsweek), Khadafy (Maclean's), Qadhafi (U.S. News & World Report), Qadaffi (Business Week), and Gadaffi (World Press Review).
ウィキペディアではカダフィQadhafi(ただし見出しは「カッザーフィー」)となっていて、日本のニュースもカダフィで統一しています。
しかし英語圏ではGaddafiです。 daにアクセントあって、ガデフィにきこえます。バナナの正確な発音がバネナにきこえるのといっしょです。
僕はガデフィでいきます。たぶんきくとイラッとくると思います。
※実際にはこんだけあるみたいです。
Qaddhafi (New York Review of Books), Qaddafi (New Republic), Gaddafi (Time), Kaddafi (Newsweek), Khadafy (Maclean's), Qadhafi (U.S. News & World Report), Qadaffi (Business Week), and Gadaffi (World Press Review).
2011年10月10日
きのう夜、今朝の朝食をあらかじめオリンピックで買っておいたのです。
朝、さあ食べようと思って袋を開くと、箸が入っていない。
そういえば、きのうの店員、新人の中国人だったものなあと思い、どうするか思案しました。
仕方なく近所のコンビニミニストップに行き、なにか適当なものを買って箸をつけてもらうことにしました。
なにを買おうか。弁当はすでにありますから、当然安い物一品です。
野菜棚を見回して、僕がチョイスしたのは100円のところてん。もずくにするか悩んだのですが、もずくは150円だったし、人生の中でもずくのが食べた回数がおおい気がしたので。
家に帰り早速お弁当といっしょに食べてみました。
これがうまい! 激うま。タレのすっぱみが最高に弁当にからみます。
おおげさかもしれませんが、食を通じて“幸せ”を味わった気がしました。
ぜひみなさんもコンビニのところてん食べてみてください。安くてうまくて低カロリー。食も進みます。おすすめです。
朝、さあ食べようと思って袋を開くと、箸が入っていない。
そういえば、きのうの店員、新人の中国人だったものなあと思い、どうするか思案しました。
仕方なく近所のコンビニミニストップに行き、なにか適当なものを買って箸をつけてもらうことにしました。
なにを買おうか。弁当はすでにありますから、当然安い物一品です。
野菜棚を見回して、僕がチョイスしたのは100円のところてん。もずくにするか悩んだのですが、もずくは150円だったし、人生の中でもずくのが食べた回数がおおい気がしたので。
家に帰り早速お弁当といっしょに食べてみました。
これがうまい! 激うま。タレのすっぱみが最高に弁当にからみます。
おおげさかもしれませんが、食を通じて“幸せ”を味わった気がしました。
ぜひみなさんもコンビニのところてん食べてみてください。安くてうまくて低カロリー。食も進みます。おすすめです。
2011年09月22日
落合監督退団。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110922-00000097-spnannex-base
まだ優勝を争っているのに、おかしいな。
次期監督は高木守道氏。
どうもこの二人は仲がいいらしい。とすると、落合が推薦して決まったと見るのが筋。一種の出来レース。
ここで気になるのが佐藤球団代表の発言。
「落合監督は球界の宝。当然あると思うし、中日が縛ることはない」
つまりどこかの監督をやる!
日ハムが怪しい。
日ハムならユニーホームを着たことがある。これは中日も同じ……。
結論。白井一幸横浜二軍監督、栗山英樹氏、新庄と名前が上がっているが、それらの御仁を飛び越して落合が日ハムの監督に就任する!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110922-00000097-spnannex-base
まだ優勝を争っているのに、おかしいな。
次期監督は高木守道氏。
どうもこの二人は仲がいいらしい。とすると、落合が推薦して決まったと見るのが筋。一種の出来レース。
ここで気になるのが佐藤球団代表の発言。
「落合監督は球界の宝。当然あると思うし、中日が縛ることはない」
つまりどこかの監督をやる!
日ハムが怪しい。
日ハムならユニーホームを着たことがある。これは中日も同じ……。
結論。白井一幸横浜二軍監督、栗山英樹氏、新庄と名前が上がっているが、それらの御仁を飛び越して落合が日ハムの監督に就任する!
2011年09月04日
テレビってやっぱ自分には向かないメディアだなときのう実感しましたね。
めったに見ないのですが、たまたまつけたらやっていたのが、カナダの凶悪犯罪のプロファイリング番組。残酷な殺人事件を再現ビデオで見せる内容なのですが、殺されるのが中学生の女の子。首を絞められる場面と実際の遺体を映すんですよね。見ていて最悪の気分になってきて消しちゃいました。
なんであんな番組をつくるんですかね。テレビって心底アホというか、胸糞悪いなあと思いました。
もうひとつ。これは昼だったかな。俳優がゲストでやってきて、ボランティア活動的なことを報じる番組でした。これは内容というより冒頭の俳優の台詞がおかしいと感じました。俳優はこういったのです。
「自分は幸せな人生を送ってきたから、これからひとのためになるボランティアをやりたい」
自分は幸せだからボランティアをやるというのはおかしくないですかね。ひとのためになることをやるのは自分が幸せで、それをおすそ分けするためにやるんですかね。
久しぶりにつけたテレビでこんなアホばかり見せられたら、そりゃテレビなんか見なくなりますって。なんで自分がテレビから遠ざかったかよくわかった日でした。
めったに見ないのですが、たまたまつけたらやっていたのが、カナダの凶悪犯罪のプロファイリング番組。残酷な殺人事件を再現ビデオで見せる内容なのですが、殺されるのが中学生の女の子。首を絞められる場面と実際の遺体を映すんですよね。見ていて最悪の気分になってきて消しちゃいました。
なんであんな番組をつくるんですかね。テレビって心底アホというか、胸糞悪いなあと思いました。
もうひとつ。これは昼だったかな。俳優がゲストでやってきて、ボランティア活動的なことを報じる番組でした。これは内容というより冒頭の俳優の台詞がおかしいと感じました。俳優はこういったのです。
「自分は幸せな人生を送ってきたから、これからひとのためになるボランティアをやりたい」
自分は幸せだからボランティアをやるというのはおかしくないですかね。ひとのためになることをやるのは自分が幸せで、それをおすそ分けするためにやるんですかね。
久しぶりにつけたテレビでこんなアホばかり見せられたら、そりゃテレビなんか見なくなりますって。なんで自分がテレビから遠ざかったかよくわかった日でした。
2011年08月20日
2011年08月15日
きのう内縁の夫を亡くして号泣する萬田久子の写真がニュースで流れていましたが、そのニュースの下のリンク枠だったか、なにかにヤフー知恵袋のリンクが貼ってあって、みたら、トンでもなくアホな質問&回答で、笑いが止まらなかったので、ここにリンクを貼っておきます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1268330842
ある意味、天才です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1268330842
ある意味、天才です。
2011年08月12日
2011年08月02日
昨夜、東海地方で起きた震度5の地震について、気象庁は、「東海地震との関連について、直ちに結びつくものではないとしている」とコメントしたそうです。
いい加減、頭の悪さを露呈するような表現は止めた方がいい。
この場合、「直ちに」は時間的な意味になるが、今回の地震が東海地震の予兆であるとか、そのものであるとか、因果関係のあるかないか、その事実にかんしては時間の問題じゃない。あるならあるし、ないならないだけ。「東海地震との関連性については調査に時間がかかる」というべきです。
いい加減、頭の悪さを露呈するような表現は止めた方がいい。
この場合、「直ちに」は時間的な意味になるが、今回の地震が東海地震の予兆であるとか、そのものであるとか、因果関係のあるかないか、その事実にかんしては時間の問題じゃない。あるならあるし、ないならないだけ。「東海地震との関連性については調査に時間がかかる」というべきです。
2011年07月24日
さっき居酒屋で飯を食った帰り、コンビニでアイスクリームでも買おうとぷらぷら歩いていたら、東京音頭がきこえてきたので、なんだろうと思い、音のする方へいってみると盆踊りをやっていたんですね。少々早い盆踊りですが、やぐらが組まれて、やぐらの回りでおばあちゃんたちが盆踊りを踊っていました。
見るとひとはまばら。子供の頃、記憶にある盆踊りというと、ひとがぎっしりいて、踊りたいひとも踊りの順番を待たねばいけないほど混雑していたものです。しかし、昨今の盆踊りは景気を反映してか、閑散としています。ただ東京音頭の大音響と、東京音頭が終わったあとの、ずんっずんずんずんどこが響いて、なんとなく夏の夜の空しさを感じるばかりです。
日本の景気回復はほど遠いようですなな。
見るとひとはまばら。子供の頃、記憶にある盆踊りというと、ひとがぎっしりいて、踊りたいひとも踊りの順番を待たねばいけないほど混雑していたものです。しかし、昨今の盆踊りは景気を反映してか、閑散としています。ただ東京音頭の大音響と、東京音頭が終わったあとの、ずんっずんずんずんどこが響いて、なんとなく夏の夜の空しさを感じるばかりです。
日本の景気回復はほど遠いようですなな。
2011年07月09日
いま北新宿のBOSSの自販機でコーヒーを買おうとして、500円玉を入れたら飲み込まれて、仕方なく、もう1回たまたまもっていた500円玉を入れたら、またしても飲み込まれた。
計1000円、さすがに頭にきたので、抗議の電話を入れようと、表示されている電話にかけたのだが、土曜日の10時過ぎということで出るはずもなく、月曜日に電話してやろうと思う。
もしBOSSの自販機を管理する人間がこのブログを見ていたら、オレに電話してこい! ふざけんな。
計1000円、さすがに頭にきたので、抗議の電話を入れようと、表示されている電話にかけたのだが、土曜日の10時過ぎということで出るはずもなく、月曜日に電話してやろうと思う。
もしBOSSの自販機を管理する人間がこのブログを見ていたら、オレに電話してこい! ふざけんな。
2011年06月30日
ワンさんと2年ぶりに再会してうれしかったと書きましたが、偶然にも古い再会がつづいていまして、別のひとからもきのう2年ぶりのメールをもらいました。
詳細はいえませんが、才能を評価してくれるひとがいて、頼りにされると、無償でもがんばろうって気になっちゃいますね。こういうときだととくにね。
こういうのっていい予兆だと思います。
詳細はいえませんが、才能を評価してくれるひとがいて、頼りにされると、無償でもがんばろうって気になっちゃいますね。こういうときだととくにね。
こういうのっていい予兆だと思います。
2011年06月27日
きょう、毎日のように通った居酒屋に2年半ぶりに行ったら、仲が良かった店員さんのワンさんがまだ働いていて再会、びっくりしたやら懐かしいやら、話が弾んでしまいました。ワンさんによれば、これまた懇意だったイケメン店長はどこかへ異動になったみたいらしいけど、ほかにも知ったひとが残っているみたい。再会がこれまた愉しみ。
また毎日のように飲みにいけたらいいなあ。ボトルを入れて、焼酎をひとりちびちび飲みながら、アイデアを絞っている時間が最高にハッピーな時間なのだ。こういう大人になりたかったぜ!
また毎日のように飲みにいけたらいいなあ。ボトルを入れて、焼酎をひとりちびちび飲みながら、アイデアを絞っている時間が最高にハッピーな時間なのだ。こういう大人になりたかったぜ!
2011年06月21日
バイトが忙しくて、ブログを更新できませんでしたっていう言い訳からはじめるのがこういう場合、セオリーです。はい。
しかしね、人生って思い通りにいきませんね。なんででしょう。
思い通りにいかないと、後悔ばかりが浮かびます。あのときこうしておけばよかった、人生が変わっていたなんて。
太宰じゃないですが、後悔のおおい人生を送ってきましたってところですか(いうまでもなく太宰の場合は恥ね)。
しかし、この後悔、とどのつまりは、煎じ詰めると、山気なんですよね。後悔の99パーセントは山気です。だから、人生が好転すれば、この後悔は意識から消えます。消えない後悔は1パーセントくらいかな。
スランプに陥っている打者の一番の薬はヒットといわれるようにまずはヒットを打つこと、これしかありませんね。とりあえずがんばります。
しかしね、人生って思い通りにいきませんね。なんででしょう。
思い通りにいかないと、後悔ばかりが浮かびます。あのときこうしておけばよかった、人生が変わっていたなんて。
太宰じゃないですが、後悔のおおい人生を送ってきましたってところですか(いうまでもなく太宰の場合は恥ね)。
しかし、この後悔、とどのつまりは、煎じ詰めると、山気なんですよね。後悔の99パーセントは山気です。だから、人生が好転すれば、この後悔は意識から消えます。消えない後悔は1パーセントくらいかな。
スランプに陥っている打者の一番の薬はヒットといわれるようにまずはヒットを打つこと、これしかありませんね。とりあえずがんばります。
2011年06月03日
2011年05月24日
結局なにも起きませんでしたが、5月21日に「審判の日がやってくる」というアメリカのキリスト伝道師の主張がメディアに取り上げられ話題となりました。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2801612/7248673
似たような現象は11日にローマでも発生しています。
http://www.cnn.co.jp/fringe/30002728.html
同時多発テロが起きた9.11と東日本大震災が起きた3.11から6月11日がやばいとする説は現在進行形です。
6月11日はたしかに数字的にはなにかありそうな気がして、好奇心を駆り立てられはしますね。どちらも3の倍数月の11日と符号があって、連想が働きやすいからですね。しかし、僕はこの種の予言にさいして、いつも思うのです。
なぜ予言者は予言するか。大地震や火山の噴火など起こるなら起こるし、起こらないなら起こらない。決まってます。
不愉快なのは予言者がたいていそこに終末論や、最近では環境問題を絡めることです。つまり、人間は驕っているから罰が下るんだというロジックです。
予言者の心理とはどんなものでしょう。
まずはっきりいえるのは予言者は人生を楽しんでいないひとたちであるということですね。まちがいありません。
というのも、予言者というのは運命論者で、確実に「こうなるのにはすべて意味がある」といいたがるひとたちですが、この発言の裏には自分で自分の人生を引き受けられない弱さ、幼稚さ、愚かさが隠れており、その弱さ、負け犬根性、社会にたいする不満、責任転嫁のために暦や日付のようなあいまいで、都合のいいデータを引っ張り出してきて、予言するわけですから。
たしかに6月11日になにかが起こる可能性は否定できません。なにせあした大地震があってもおかしくない世の中ですから起きて不思議はありません。が、6月11日になにかが起きてもそれは単なる偶然にすぎません。徹頭徹尾単なる偶然で、運命なんてものはありません。それが本質ってものです。
にもかかわらず予言するのは自分で自分のことを生まれてきた価値のないクソ人間だということを認めているからであり、ゆえにふた言めには「こうなるのにはすべて意味がある。それは天罰だ」といいたがり、同時多発テロとと東日本大震災が起きて日付を引き合いに出し、運命を語ってしまうのです。
つまり、「いっそこの世が滅んでくれれば!」という幻想をそのまま予言として実現しようとする。運命という言葉で説明しながらその実は当てずっぽう。アメリカのキリスト伝道師の例はその典型です。運命論の根拠は薄弱で、外れるのもこのせいで、それはみんなわかっているのですが、人生に嫌気がさしている人間がおおく、いっそそうあってくれればと思っているひとの支持が集まるので、事がおおきくなるのです。
そして当たったら当たったで自分は英雄になる、この賭けも予言者の心理です。予言が当たって6.11大地震を的中させた人間としてメディアが大騒ぎします。いままでつまらなかった人生は一変して、神扱いになります。そんな夢を見てしまう人間なら狼少年になる博打を打ってでもいっちょやったろうかという気になるかもしません。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2801612/7248673
似たような現象は11日にローマでも発生しています。
http://www.cnn.co.jp/fringe/30002728.html
同時多発テロが起きた9.11と東日本大震災が起きた3.11から6月11日がやばいとする説は現在進行形です。
6月11日はたしかに数字的にはなにかありそうな気がして、好奇心を駆り立てられはしますね。どちらも3の倍数月の11日と符号があって、連想が働きやすいからですね。しかし、僕はこの種の予言にさいして、いつも思うのです。
なぜ予言者は予言するか。大地震や火山の噴火など起こるなら起こるし、起こらないなら起こらない。決まってます。
不愉快なのは予言者がたいていそこに終末論や、最近では環境問題を絡めることです。つまり、人間は驕っているから罰が下るんだというロジックです。
予言者の心理とはどんなものでしょう。
まずはっきりいえるのは予言者は人生を楽しんでいないひとたちであるということですね。まちがいありません。
というのも、予言者というのは運命論者で、確実に「こうなるのにはすべて意味がある」といいたがるひとたちですが、この発言の裏には自分で自分の人生を引き受けられない弱さ、幼稚さ、愚かさが隠れており、その弱さ、負け犬根性、社会にたいする不満、責任転嫁のために暦や日付のようなあいまいで、都合のいいデータを引っ張り出してきて、予言するわけですから。
たしかに6月11日になにかが起こる可能性は否定できません。なにせあした大地震があってもおかしくない世の中ですから起きて不思議はありません。が、6月11日になにかが起きてもそれは単なる偶然にすぎません。徹頭徹尾単なる偶然で、運命なんてものはありません。それが本質ってものです。
にもかかわらず予言するのは自分で自分のことを生まれてきた価値のないクソ人間だということを認めているからであり、ゆえにふた言めには「こうなるのにはすべて意味がある。それは天罰だ」といいたがり、同時多発テロとと東日本大震災が起きて日付を引き合いに出し、運命を語ってしまうのです。
つまり、「いっそこの世が滅んでくれれば!」という幻想をそのまま予言として実現しようとする。運命という言葉で説明しながらその実は当てずっぽう。アメリカのキリスト伝道師の例はその典型です。運命論の根拠は薄弱で、外れるのもこのせいで、それはみんなわかっているのですが、人生に嫌気がさしている人間がおおく、いっそそうあってくれればと思っているひとの支持が集まるので、事がおおきくなるのです。
そして当たったら当たったで自分は英雄になる、この賭けも予言者の心理です。予言が当たって6.11大地震を的中させた人間としてメディアが大騒ぎします。いままでつまらなかった人生は一変して、神扱いになります。そんな夢を見てしまう人間なら狼少年になる博打を打ってでもいっちょやったろうかという気になるかもしません。
2011年05月20日
2011年05月15日
今朝、一時帰宅をする福島第一原発周辺の住民と駅のホームですれ違う夢を見ました。なぜ僕がそんな夢を見たのかさっぱりわかりません。帰宅も報道ではバスですから、なぜ駅なのかもわかりませんが、この夢にはさらに不思議なことがありました。
一時帰宅を許可されたひとたちはみな防護服を着なければなりません。夢の中でも着ていました。だからこそすれ違ったひとが福島第一原発周辺住民だとすぐわかったわけですが、その中になぜか防護服を着ていないひとがいるのです。
あれ、放射能を浴びちゃって大丈夫なのかな。当然僕は思うわけです。防護服を着たひとに手を引かれ歩く防護服なしのひとに尋ねると、彼らはこういうのです。自分たちは末期ガン患者で、余命が幾日もないから浴びてもいいんだと。
僕はああ、なるほどと納得。そのまますれ違います。
残念なことに夢はそこで覚めてしまうので、その先はわかりません。彼らの希望はかなったのか知る由もありません。ただ覚えているのは防護服を着ていない末期ガン患者のひとたちがとてもニコニコしていたことです。
夢から覚めた瞬間、寝ぼけていたせいもあって、僕はこんなことを考えました。
末期ガン患者の避難住民は自宅で死にたがっているにちがいない。放射能なんてどうでもいいから家に帰してあげるよう政府にいわなきゃ。しかも夢のまどろみの中でその判断はすこぶる正しいのだとしばらく思っていました。
完全に目が覚めていまこうしてブログに書いてみると、この発想、夢がどれだけ無茶苦茶な話かわかります。いくら末期ガン患者でも無理です。余命がないからといって、ひとりで家に帰ってもしょうがないですからね。そもそも政府が許可するはずがありません。
しかしながら末期ガン患者の夢をかなえてあげなきゃいけないんだという正義感が切実で、まどろんでいたとはいえ、僕には妙にリアルに感じられたので、ここに書きとめておきます。ひょっとしたらそう思っている患者がいるのかもしれませんし。
一時帰宅を許可されたひとたちはみな防護服を着なければなりません。夢の中でも着ていました。だからこそすれ違ったひとが福島第一原発周辺住民だとすぐわかったわけですが、その中になぜか防護服を着ていないひとがいるのです。
あれ、放射能を浴びちゃって大丈夫なのかな。当然僕は思うわけです。防護服を着たひとに手を引かれ歩く防護服なしのひとに尋ねると、彼らはこういうのです。自分たちは末期ガン患者で、余命が幾日もないから浴びてもいいんだと。
僕はああ、なるほどと納得。そのまますれ違います。
残念なことに夢はそこで覚めてしまうので、その先はわかりません。彼らの希望はかなったのか知る由もありません。ただ覚えているのは防護服を着ていない末期ガン患者のひとたちがとてもニコニコしていたことです。
夢から覚めた瞬間、寝ぼけていたせいもあって、僕はこんなことを考えました。
末期ガン患者の避難住民は自宅で死にたがっているにちがいない。放射能なんてどうでもいいから家に帰してあげるよう政府にいわなきゃ。しかも夢のまどろみの中でその判断はすこぶる正しいのだとしばらく思っていました。
完全に目が覚めていまこうしてブログに書いてみると、この発想、夢がどれだけ無茶苦茶な話かわかります。いくら末期ガン患者でも無理です。余命がないからといって、ひとりで家に帰ってもしょうがないですからね。そもそも政府が許可するはずがありません。
しかしながら末期ガン患者の夢をかなえてあげなきゃいけないんだという正義感が切実で、まどろんでいたとはいえ、僕には妙にリアルに感じられたので、ここに書きとめておきます。ひょっとしたらそう思っている患者がいるのかもしれませんし。
2011年05月13日
政府は夏の電力不足解消ため各家庭にたいして、クーラーではなく、扇風機を使用するよう求めていく方針を固めたそうです。節電効果は50パーセント。
この報道をきいて思い出したのが、第三次世界大戦で使用される武器はなにかと問われたさいの、アインシュタインの有名な言葉。
「第三次世界大戦についてはわかりませんが、第四次大戦ならわかります。石と棍棒でしょう」
第三次世界大戦が起きたなら、核戦争に違いないから、人類は第四次世界大戦のとき、石器時代に戻っているって意味ですね。
人類の退歩のはじまりが原子力がらみである点を予測し、指摘したって意味では的中といっていいのではないでしょうか。
ただ厳密にこうなるはずですが。
「(クーラーの次にくる暑さ対策の装置をきかれて)クーラーの次になにがくるかはわからないが、その次ならわかる。氷だ」
この報道をきいて思い出したのが、第三次世界大戦で使用される武器はなにかと問われたさいの、アインシュタインの有名な言葉。
「第三次世界大戦についてはわかりませんが、第四次大戦ならわかります。石と棍棒でしょう」
第三次世界大戦が起きたなら、核戦争に違いないから、人類は第四次世界大戦のとき、石器時代に戻っているって意味ですね。
人類の退歩のはじまりが原子力がらみである点を予測し、指摘したって意味では的中といっていいのではないでしょうか。
ただ厳密にこうなるはずですが。
「(クーラーの次にくる暑さ対策の装置をきかれて)クーラーの次になにがくるかはわからないが、その次ならわかる。氷だ」
2011年05月12日
10年以上風俗業界で仕事をしたことがある人間の中で公娼制度復活といっているのは僕だけですかね。
みんななにも考えてないですよね。無責任ですよね。
選択肢としては3つありました。
1 現状ママ
2 売防法廃止
3 公娼制度復活
たぶん圧倒的多数が現状維持派、自然消滅なのでしょう。
では、なぜ僕が公娼にこだわるかというと、それはひとえに日本人のモラルの意識に深くかかわっているからです。日本を救うのはこのモラルの意識の改革以外にありえないと思っているから。
僕は風俗礼賛主義者なのです。風俗は国をあかるくします。暗くもしますけどね、でも功罪でいえば、功の方が圧倒的におおきい。
しかし、本音をいわせてもらえば、ソープはね、なんというか、以前から、もうずっといってきましたが、法改正してもっと遊廓っぽくしてもらいたいんですよね。「千と千尋の神隠し」の家みたいな、おおきな古い銭湯のような、いまみたいなんでなく、あんな威厳というか、風格のある道後温泉みたいなつくりにしてもらいたい。
できませんかね。きっとできませんね。でもいずれみんな僕の主張が正しかったとことを知るでしょう。僕はたぶん死ぬまで公娼復活といいつづけます。たとえひとりになっても、大久保通りの路上で野垂れ死んでも。
みんななにも考えてないですよね。無責任ですよね。
選択肢としては3つありました。
1 現状ママ
2 売防法廃止
3 公娼制度復活
たぶん圧倒的多数が現状維持派、自然消滅なのでしょう。
では、なぜ僕が公娼にこだわるかというと、それはひとえに日本人のモラルの意識に深くかかわっているからです。日本を救うのはこのモラルの意識の改革以外にありえないと思っているから。
僕は風俗礼賛主義者なのです。風俗は国をあかるくします。暗くもしますけどね、でも功罪でいえば、功の方が圧倒的におおきい。
しかし、本音をいわせてもらえば、ソープはね、なんというか、以前から、もうずっといってきましたが、法改正してもっと遊廓っぽくしてもらいたいんですよね。「千と千尋の神隠し」の家みたいな、おおきな古い銭湯のような、いまみたいなんでなく、あんな威厳というか、風格のある道後温泉みたいなつくりにしてもらいたい。
できませんかね。きっとできませんね。でもいずれみんな僕の主張が正しかったとことを知るでしょう。僕はたぶん死ぬまで公娼復活といいつづけます。たとえひとりになっても、大久保通りの路上で野垂れ死んでも。
2011年05月11日
いま世間を一番にぎわせているのはテロでも原発でもなく、ユッケの方だそうです。日本人は食にうるさく、以前からこの主の問題がもちあがると、しつこく取り上げていましたからね。わからないでもないのですが、それにしてもバランス感覚が悪い気がします。
テロは他人事なのでしょうか。標的はアメリカだから大丈夫と踏んでいるのか。どうなんでしょう。福島第一を見れば、原発は格好のターゲットです。が、いま自衛隊なり武装したセキュリティチームが原発を守っているという噂はききません。テロリストの最優先のターゲットはむろんアメリカでしょうが、セキュリティが弱い日本は狙い目ですね。
テロとエネルギー問題には共通点があります。それは必敗です。
なぜかというと、どちらにも終点がないからです。終わりがあるとすると、それは負けたとき。なので、必然的に敗北するのです。
この期に及んで原発推進派もしくは過去に推進派だったひとが浜岡を停止したことに文句をいっています。
「浜岡が危険だといわれたのは、東海地震の震源の真上にあって、原子炉が地震で破壊される(あるいは制御できなくなって暴走する)のではないかということ だったが、これについては東海地震で想定されているよりはるかに大きな今回の地震で、福島第一の原子炉は無事に止まった。浜岡も国の安全審査では、東海地 震に耐えられる(これは首相も問題にしていない)」
http://news.livedoor.com/article/detail/5539629/
こんな稚拙な論点でいいのか。こういうひとたちはまたしても想定外というのでしょう。
僕の結論はというと、とりあえずできることとして、停止よりセキュリティの充実だと思います。テロと災害が起きたさいの、安全の壁を五重どころか、七重にも八重にもする。そういう方向性しか当座はない。津波がきたらこう、直下型がきたらこう、テロならこうという具合にして対応する。この種の議論はまだすくないように感じられます。
テロは他人事なのでしょうか。標的はアメリカだから大丈夫と踏んでいるのか。どうなんでしょう。福島第一を見れば、原発は格好のターゲットです。が、いま自衛隊なり武装したセキュリティチームが原発を守っているという噂はききません。テロリストの最優先のターゲットはむろんアメリカでしょうが、セキュリティが弱い日本は狙い目ですね。
テロとエネルギー問題には共通点があります。それは必敗です。
なぜかというと、どちらにも終点がないからです。終わりがあるとすると、それは負けたとき。なので、必然的に敗北するのです。
この期に及んで原発推進派もしくは過去に推進派だったひとが浜岡を停止したことに文句をいっています。
「浜岡が危険だといわれたのは、東海地震の震源の真上にあって、原子炉が地震で破壊される(あるいは制御できなくなって暴走する)のではないかということ だったが、これについては東海地震で想定されているよりはるかに大きな今回の地震で、福島第一の原子炉は無事に止まった。浜岡も国の安全審査では、東海地 震に耐えられる(これは首相も問題にしていない)」
http://news.livedoor.com/article/detail/5539629/
こんな稚拙な論点でいいのか。こういうひとたちはまたしても想定外というのでしょう。
僕の結論はというと、とりあえずできることとして、停止よりセキュリティの充実だと思います。テロと災害が起きたさいの、安全の壁を五重どころか、七重にも八重にもする。そういう方向性しか当座はない。津波がきたらこう、直下型がきたらこう、テロならこうという具合にして対応する。この種の議論はまだすくないように感じられます。
2011年05月06日
ビンラディン容疑者殺害のニュースが世界を駆け巡ると、アメリカ国民は狂喜乱舞した。世論調査によれば、アメリカ国民の93パーセントが殺害を支持した。
死刑制度を廃止している州がたくさんあるお国柄でなぜ処刑がかくもやすやす容認されるのか。
理由はいろいろつけられる。生かしておけば釈放を要求したテロが起こる。あるいは、9.11はアメリカ人にとってそれだけ衝撃的で、首謀者を殺害せねば気が済まない、といった理由がそれだ。
しかし、どんな理由があろうと、相手がテロリストだろうと、裁判をうける権利があるし、これを担保しないなら、アメリカの行為は正義ではない。
“Justice has been done.”とはオバマ大統領が任務達成後の演説で述べた言葉だが、裁判が行われないならJusticeではない。それが現代司法のコンセンサスだ。
いったいアメリカはどうしてしまったのだろう。
僕の分析では、アメリカは一種の躁鬱状態にある。9.11以来、テロと戦いつづけてきたアメリカ国民は一種の中毒状態にある。なんの中毒か。おそらくはテロ中毒だ。
テロとの戦いはスリルをともなうゲームであり、国民全員参加のニンテンドウゲームなのである。
ビンラディンが潜伏する建物を特殊部隊が襲撃する映像をホワイトハウスがライブで眺めていたとき、彼らはゲームをしている感覚になった。が、この場合、彼らの感覚はほとんどゲームなのではなく、ゲームそのものなのである。
テロリストを駆逐するゲームは今後もつづくことになるだろう。アメリカ人はテロに備えて日々過ごす。テロを待ち、テロが起こったら容疑者を探し、見つけ出し、また処刑する。このパターンを繰り返すのである。
これはアメリカ人が幼児化してしまったことをも意味するが、ひとを殺してゲームをクリアした瞬間のように歓喜する姿は子供のように無邪気とはいえないだろう。
アメリカ人が、テロリストも人間だということに気づくにはあとどれくらいかかるだろうか。第二次世界大戦後、人類学が大ブームを巻き起こしたとき、一種標語のようにいわれたことは、未開社会はヨーロッパ文明よりすぐれた宇宙をもつだった。ヨーロッパは自分たちの驕りに気づき、反省し、未開社会の優れた素質を研究し、新たな思想的パラダイムを創造した。
テロリストに宇宙があるとは思えないが、彼らの心にだって良心があり、人間としての感情だってあることを知るべきだ。
死刑制度を廃止している州がたくさんあるお国柄でなぜ処刑がかくもやすやす容認されるのか。
理由はいろいろつけられる。生かしておけば釈放を要求したテロが起こる。あるいは、9.11はアメリカ人にとってそれだけ衝撃的で、首謀者を殺害せねば気が済まない、といった理由がそれだ。
しかし、どんな理由があろうと、相手がテロリストだろうと、裁判をうける権利があるし、これを担保しないなら、アメリカの行為は正義ではない。
“Justice has been done.”とはオバマ大統領が任務達成後の演説で述べた言葉だが、裁判が行われないならJusticeではない。それが現代司法のコンセンサスだ。
いったいアメリカはどうしてしまったのだろう。
僕の分析では、アメリカは一種の躁鬱状態にある。9.11以来、テロと戦いつづけてきたアメリカ国民は一種の中毒状態にある。なんの中毒か。おそらくはテロ中毒だ。
テロとの戦いはスリルをともなうゲームであり、国民全員参加のニンテンドウゲームなのである。
ビンラディンが潜伏する建物を特殊部隊が襲撃する映像をホワイトハウスがライブで眺めていたとき、彼らはゲームをしている感覚になった。が、この場合、彼らの感覚はほとんどゲームなのではなく、ゲームそのものなのである。
テロリストを駆逐するゲームは今後もつづくことになるだろう。アメリカ人はテロに備えて日々過ごす。テロを待ち、テロが起こったら容疑者を探し、見つけ出し、また処刑する。このパターンを繰り返すのである。
これはアメリカ人が幼児化してしまったことをも意味するが、ひとを殺してゲームをクリアした瞬間のように歓喜する姿は子供のように無邪気とはいえないだろう。
アメリカ人が、テロリストも人間だということに気づくにはあとどれくらいかかるだろうか。第二次世界大戦後、人類学が大ブームを巻き起こしたとき、一種標語のようにいわれたことは、未開社会はヨーロッパ文明よりすぐれた宇宙をもつだった。ヨーロッパは自分たちの驕りに気づき、反省し、未開社会の優れた素質を研究し、新たな思想的パラダイムを創造した。
テロリストに宇宙があるとは思えないが、彼らの心にだって良心があり、人間としての感情だってあることを知るべきだ。
2011年05月02日
たまたま先日、テレビを見ていたら、元経済企画庁長官堺屋太一氏が出演していまして、おもしろいことをいうので見入ってしまいました。
堺屋氏いわく、関東大震災のとき、後藤新平が創設した帝都復興院のような、中央官庁の権限と自治体の区域を越えた強力な権限をもつ復興院を設け、東北州の原型となるような新しい東北をつくれというんですね。なぜこんな大胆なことをいうかというと、そもそも「東日本大震災は、日本にとって「第三の敗戦」である」しかるに、「過去2回の敗戦で、日本はそれ以前よりずっと素晴らしい国になった。それは「それ以前の日本」に戻そうとしなかったからだ」というロジックなんですね。
だからなし崩し的に道州制へもっていこうって展開は強引な気がするのですが、道州制の是非はともかく、僕としてはこの堺屋氏のロジックを支えている「第三の敗戦」という認識がどうなのかなと思います。
堺屋氏の説明によれば、第一の敗戦は維新前夜における武士の敗戦、第二の敗戦は第二次世界大戦の大日本帝国の敗戦を意味します。これらの敗戦によって日本人は新しい国をつくった。それに倣って、東日本大震災を敗戦と位置づけ、「私たちは今、これまでの体制とか、その根本にある倫理観とかを捨てて、まったく新しい国づくりをしないといけない」というんですね。
しかしこれをきくと、東日本大震災は敗戦なのか、という疑問がすぐ浮かびます。僕はこの認識自体がかなり怪しいという気がします。というのも敗戦したのは東電であり、原子力の安全神話であり、日本の体制とか日本人の倫理観ではない。そこまでは覆っていない。
つまり堺屋氏は「敗戦」といいますが、幕府や大日本帝国の敗北と今回の震災はまるっきり質が違います。黒船がきて西洋文明の力におののいて、富国強兵だ殖産興業だといって政府をつくり、議会をつくり、憲法をつくった時代、さらには大東亜共栄圏と称して中国大陸に進軍、日本は負けないと信じて我慢したが、東京は焼け野原、一晩で十万人も死んだあげく、長崎広島に原爆を落とされ、ぐうの音も出ないくらいに叩きのめされた時代とでは比べようもありません。先のふたつの敗戦はやはり西洋文明という外敵が厳然といて、また西洋的価値観、西洋的生活様式というものと相対していて、それを受容しながらも葛藤していたわけです。だから覆った。ぜんぜんプロセスが違う。
僕の予測では、ここに至ってなお日本人の認識は甘く、なにも起こさず、なにもせずだらだらいってしまうでしょう。せいぜい電気はどうするって議論だけ。沸騰するのはエネルギー問題だけでしょう。なので、エネルギー元年とか、孫正義氏がいう、「自然エネルギー財団」の方がまだ説得力があり、現実味があります。たぶんひともついてくるでしょう。孫氏には金もあることですし。
また、もうひとつ、「第三の敗戦」という言葉がいまいち信用できないのは、バブル崩壊後も似たようなことをいうひとがいて、「第二の敗戦」とずっといわれてきたにもかかわらず、失われた十年が過ぎ、さらに十年が過ぎて、失われた二十年となってしまった、いわばこの言葉にまとわりつく、使い古された安っぽい感覚でしょうか。敗戦とか戦後とか開国とかもううんざりって感じです。何年同じこといってんのって思います。
バブル崩壊、冷戦崩壊。しかしあの時手当てをしていれば、まだ間に合った。にもかかわらずなにも手を打てなかった。たぶん、敗戦とか開国とかそんな言葉にはだれも耳を貸さないわけです。
じゃあ、どうすればいいのか。僕にもそれはわかりませんが、ドイツが冷戦崩壊後、東西統一のハンデを跳ね返して見事に復活して、EUをリードしている様を見ると、底力の差を感じずにはいられません。
堺屋氏いわく、関東大震災のとき、後藤新平が創設した帝都復興院のような、中央官庁の権限と自治体の区域を越えた強力な権限をもつ復興院を設け、東北州の原型となるような新しい東北をつくれというんですね。なぜこんな大胆なことをいうかというと、そもそも「東日本大震災は、日本にとって「第三の敗戦」である」しかるに、「過去2回の敗戦で、日本はそれ以前よりずっと素晴らしい国になった。それは「それ以前の日本」に戻そうとしなかったからだ」というロジックなんですね。
だからなし崩し的に道州制へもっていこうって展開は強引な気がするのですが、道州制の是非はともかく、僕としてはこの堺屋氏のロジックを支えている「第三の敗戦」という認識がどうなのかなと思います。
堺屋氏の説明によれば、第一の敗戦は維新前夜における武士の敗戦、第二の敗戦は第二次世界大戦の大日本帝国の敗戦を意味します。これらの敗戦によって日本人は新しい国をつくった。それに倣って、東日本大震災を敗戦と位置づけ、「私たちは今、これまでの体制とか、その根本にある倫理観とかを捨てて、まったく新しい国づくりをしないといけない」というんですね。
しかしこれをきくと、東日本大震災は敗戦なのか、という疑問がすぐ浮かびます。僕はこの認識自体がかなり怪しいという気がします。というのも敗戦したのは東電であり、原子力の安全神話であり、日本の体制とか日本人の倫理観ではない。そこまでは覆っていない。
つまり堺屋氏は「敗戦」といいますが、幕府や大日本帝国の敗北と今回の震災はまるっきり質が違います。黒船がきて西洋文明の力におののいて、富国強兵だ殖産興業だといって政府をつくり、議会をつくり、憲法をつくった時代、さらには大東亜共栄圏と称して中国大陸に進軍、日本は負けないと信じて我慢したが、東京は焼け野原、一晩で十万人も死んだあげく、長崎広島に原爆を落とされ、ぐうの音も出ないくらいに叩きのめされた時代とでは比べようもありません。先のふたつの敗戦はやはり西洋文明という外敵が厳然といて、また西洋的価値観、西洋的生活様式というものと相対していて、それを受容しながらも葛藤していたわけです。だから覆った。ぜんぜんプロセスが違う。
僕の予測では、ここに至ってなお日本人の認識は甘く、なにも起こさず、なにもせずだらだらいってしまうでしょう。せいぜい電気はどうするって議論だけ。沸騰するのはエネルギー問題だけでしょう。なので、エネルギー元年とか、孫正義氏がいう、「自然エネルギー財団」の方がまだ説得力があり、現実味があります。たぶんひともついてくるでしょう。孫氏には金もあることですし。
また、もうひとつ、「第三の敗戦」という言葉がいまいち信用できないのは、バブル崩壊後も似たようなことをいうひとがいて、「第二の敗戦」とずっといわれてきたにもかかわらず、失われた十年が過ぎ、さらに十年が過ぎて、失われた二十年となってしまった、いわばこの言葉にまとわりつく、使い古された安っぽい感覚でしょうか。敗戦とか戦後とか開国とかもううんざりって感じです。何年同じこといってんのって思います。
バブル崩壊、冷戦崩壊。しかしあの時手当てをしていれば、まだ間に合った。にもかかわらずなにも手を打てなかった。たぶん、敗戦とか開国とかそんな言葉にはだれも耳を貸さないわけです。
じゃあ、どうすればいいのか。僕にもそれはわかりませんが、ドイツが冷戦崩壊後、東西統一のハンデを跳ね返して見事に復活して、EUをリードしている様を見ると、底力の差を感じずにはいられません。
2011年04月29日
最近の調査によると、若い世代はテレビをあまり見ないそうです。なぜ見なくなったのか。インターネットやスマートフォンの普及、つまりマルチメディアの進歩によって情報発信媒体が多様化したため、テレビ依存度が下がったというのが基本でしょうが、僕は違った見方をしています。
簡単にいってしまえば、コンテンツの問題なのですが、厳密にはちょっと違って、テレビ番組がくだらなくなったということではなく、むしろ番組なりコマーシャルがもっている商業的な性質、暴力性が嫌われているからではないかと踏んでいます。
いままでは番組やコマーシャルの商業性というものに疑義をはさまず、視聴者はそれを受容して、むしろその誘惑に乗って商品を買ったり友達との会話の話題にしたり、とくに疑いを抱かず広告戦略に乗っかってきました。むしろそうしないと自分は流行の乗り遅れており、取り残されているという感覚、強迫観念に縛られてきたわけです。
しかし、こういう強迫観念が実は商業的なものであり、なんら自分のライフスタイルとは関係がないんだということがわかってきた。いわばしらけたわけです。
見方を変えると、流行を追いかけることに疲れているのかもしれません。番組やCMの商業的性質がコンテンツそのものとは別に露呈したいま、刺激に反応することに疲れており、わざわざ反応することをばかげていると考えるようになった。
これはしかし、番組やCMの内容の問題ではありません。テレビ、CMそのものの構造的な性質の問題です。
というのも、僕が確信したのは震災後企業CMが自粛されて公共広告機構のCMだけになったときで、金子みすずのいい詩が引用されて別に内容自体は問題ないのに、うんざり、やめてくれという声がおおきくなって、公共広告機構は叩かれた。
つまり、内容の問題というより番組なりCMが発する暴力というか、力が問題なんですね。内容が暴力的なのではなく、番組・CMそのものの暴力性。ここにテレビ離れの理由がある。
ならばインターネットだって携帯だっていっしょじゃないかと思えるんですが、たぶん選択はずっとしやすいはず。避けやすい。ですから媒体が多様化したという側面の裏面として、一方通行のテレビがもつ暴力性にたいして、もううんざりという気持ちがあって、それがテレビ離れを生んでいるのではないかと分析するわけです。
ということは、今後もテレビは視聴率を下げるでしょう。内容の問題ではなく、テレビの性質として。じゃあどうすればいいか。非商業ベースの公共広告機構の金子みすずの詩ですら叩かれるわけですから、相当な配慮がいると思います。が、やり方としてはこれしかありません。内容でテレビ・CMの暴力性を取り払う。これを僕はコンテンツのメタ化と呼びます。
簡単にいってしまえば、コンテンツの問題なのですが、厳密にはちょっと違って、テレビ番組がくだらなくなったということではなく、むしろ番組なりコマーシャルがもっている商業的な性質、暴力性が嫌われているからではないかと踏んでいます。
いままでは番組やコマーシャルの商業性というものに疑義をはさまず、視聴者はそれを受容して、むしろその誘惑に乗って商品を買ったり友達との会話の話題にしたり、とくに疑いを抱かず広告戦略に乗っかってきました。むしろそうしないと自分は流行の乗り遅れており、取り残されているという感覚、強迫観念に縛られてきたわけです。
しかし、こういう強迫観念が実は商業的なものであり、なんら自分のライフスタイルとは関係がないんだということがわかってきた。いわばしらけたわけです。
見方を変えると、流行を追いかけることに疲れているのかもしれません。番組やCMの商業的性質がコンテンツそのものとは別に露呈したいま、刺激に反応することに疲れており、わざわざ反応することをばかげていると考えるようになった。
これはしかし、番組やCMの内容の問題ではありません。テレビ、CMそのものの構造的な性質の問題です。
というのも、僕が確信したのは震災後企業CMが自粛されて公共広告機構のCMだけになったときで、金子みすずのいい詩が引用されて別に内容自体は問題ないのに、うんざり、やめてくれという声がおおきくなって、公共広告機構は叩かれた。
つまり、内容の問題というより番組なりCMが発する暴力というか、力が問題なんですね。内容が暴力的なのではなく、番組・CMそのものの暴力性。ここにテレビ離れの理由がある。
ならばインターネットだって携帯だっていっしょじゃないかと思えるんですが、たぶん選択はずっとしやすいはず。避けやすい。ですから媒体が多様化したという側面の裏面として、一方通行のテレビがもつ暴力性にたいして、もううんざりという気持ちがあって、それがテレビ離れを生んでいるのではないかと分析するわけです。
ということは、今後もテレビは視聴率を下げるでしょう。内容の問題ではなく、テレビの性質として。じゃあどうすればいいか。非商業ベースの公共広告機構の金子みすずの詩ですら叩かれるわけですから、相当な配慮がいると思います。が、やり方としてはこれしかありません。内容でテレビ・CMの暴力性を取り払う。これを僕はコンテンツのメタ化と呼びます。
2011年04月27日
葬儀で流された遺言のテープをきいて、感じたのは世の中には生命力学があるなってことでした。
どういうことかというと、読みとしては「せいめいりょくがく」でも「せいめいりきがく」でもどっちでもいいのですが、ひとは本質的に生命力の弱い、短命なひとほど神経が繊細にできていて、生命力に富んでいる、長寿なひとほど神経がずぶとくできているって仮説。
昔からこれを感じるんです。世の中残酷にできていて、夭折するひとは繊細だから余計に神経をすり減らして、寿命を縮めていってしまう。反対に生命力に富んだ人間は「憎まれっ子世にはばかる」じゃないですが、無神経で、ひとを傷つけるのも平気だから長生きする。
つまり、弱いひとはより弱く、強いひとはより強くなる法則が世の中にはある。これってひところ流行ったネオコンの思想ですね。強者が勝たねばならないって思想。
僕はこれがどうしても納得いきません。
競争原理からすると、当然生命力に富んだ人間の方が残らねばならないのでしょう。大嫌いなダーウィニズムの原則からすれば、そうなります。しかし、見方を変えれば繊細な人間の方が優良種です。世の中への貢献度はたかいはず。
まあ、もっとも僕は夭折が悪い、残念だとはさらさら思いません。長生きをして100年生きたとしても、平気でウソをつき、平気でひとを傷つける人間の人生がいいはずがありませんからね。そんな人間はクソですから。
※ あくまで生命力学は仮説です。
どういうことかというと、読みとしては「せいめいりょくがく」でも「せいめいりきがく」でもどっちでもいいのですが、ひとは本質的に生命力の弱い、短命なひとほど神経が繊細にできていて、生命力に富んでいる、長寿なひとほど神経がずぶとくできているって仮説。
昔からこれを感じるんです。世の中残酷にできていて、夭折するひとは繊細だから余計に神経をすり減らして、寿命を縮めていってしまう。反対に生命力に富んだ人間は「憎まれっ子世にはばかる」じゃないですが、無神経で、ひとを傷つけるのも平気だから長生きする。
つまり、弱いひとはより弱く、強いひとはより強くなる法則が世の中にはある。これってひところ流行ったネオコンの思想ですね。強者が勝たねばならないって思想。
僕はこれがどうしても納得いきません。
競争原理からすると、当然生命力に富んだ人間の方が残らねばならないのでしょう。大嫌いなダーウィニズムの原則からすれば、そうなります。しかし、見方を変えれば繊細な人間の方が優良種です。世の中への貢献度はたかいはず。
まあ、もっとも僕は夭折が悪い、残念だとはさらさら思いません。長生きをして100年生きたとしても、平気でウソをつき、平気でひとを傷つける人間の人生がいいはずがありませんからね。そんな人間はクソですから。
※ あくまで生命力学は仮説です。
2011年04月26日
比較的好きな曲です。
「きらきらひかる」の挿入曲でしたね。
このドラマを見て、松雪泰子のファンになったんです。
「きらきらひかる」の挿入曲でしたね。
このドラマを見て、松雪泰子のファンになったんです。
2011年04月23日
報道によれば、2004年にキャンディーズの番組を収めたDVDボックスが発売されたさい、スタッフから再結成の声が挙がり、3人に交渉をしたそうです。しかし3人は誘いを固辞した。
なぜこんなにもキャンディーズはかたくなだったのか。
解散のさい、たしかランちゃんが人気がなくなって廃れたキャンディーズを見たくないという主旨の発言をしたと記憶します。第一にキャンディーズはデビューから解散までのキャンディーズであって、それ以外ありえないという強い信念があったのだと思います。ではその信念を支えていたのはなにか。
あくまで僕の想像ですが、キャンディーズの3人は全共闘と自分たちをだぶらせていたんじゃないか。そんな気がしてなりません。
なぜかというと、もともと解散宣言を出したのは前年なのですが、解散コンサートは78年の4月。これはちょうど全共闘が盛んだった68年の10年後です。
そして、キャンディーズの親衛隊は全キャン連と呼ばれました。これはいうまでもなく全学連のパロディです。
さらにランちゃんこと伊藤蘭は日大の芸術学部出身(厳密には中退)。日大は全共闘のきっかけを作った大学のひとつです。日大闘争とは「1968年5月27日、20億円を越える大学側の経理不正問題の表面化をきっかけにして、それまでの学生弾圧体制に対して学生が立ち上がった」闘争です。ランちゃんがこれを知らないはずはありません。
キャンディーズの意識には全共闘があった。つまり、権力と戦うという意識ですね。これが事務所に相談もなく自分たちで解散を決め、コンサート中にいきなり発表するという重い決断を3人にさせた。
ということは必然的に再結成はありえない。報道によれば、3人のうちミキちゃんがとくに再結成に反対といわれますが、再結成を拒む一番の砦はランちゃんの決意だからです。ランちゃんはキャンディーズの経験をひとつの歴史的出来事として評価している、この決意に後戻りはなりえないわけです。この信念はランちゃんの意識と誇りを支えているからです。
ファンもはっきりとはしないが、それをどことなくわかっている。ファンはだれもが再結成はないと思っている。これはやはりキャンディーズという事象が単なる大衆イベントではなく、歴史的な事象であるという認識を無意識のうちに共有しているからです。
実際、キャンディーズを境にして大衆のエネルギーがむかうテーマが政治からポップカルチャーにおおきくシフトした気がします。こういう側面にたいする評価みたいなものがキャンディーズのその後のアイドルとは違う、特異性を決定づけていると思われます。
なぜこんなにもキャンディーズはかたくなだったのか。
解散のさい、たしかランちゃんが人気がなくなって廃れたキャンディーズを見たくないという主旨の発言をしたと記憶します。第一にキャンディーズはデビューから解散までのキャンディーズであって、それ以外ありえないという強い信念があったのだと思います。ではその信念を支えていたのはなにか。
あくまで僕の想像ですが、キャンディーズの3人は全共闘と自分たちをだぶらせていたんじゃないか。そんな気がしてなりません。
なぜかというと、もともと解散宣言を出したのは前年なのですが、解散コンサートは78年の4月。これはちょうど全共闘が盛んだった68年の10年後です。
そして、キャンディーズの親衛隊は全キャン連と呼ばれました。これはいうまでもなく全学連のパロディです。
さらにランちゃんこと伊藤蘭は日大の芸術学部出身(厳密には中退)。日大は全共闘のきっかけを作った大学のひとつです。日大闘争とは「1968年5月27日、20億円を越える大学側の経理不正問題の表面化をきっかけにして、それまでの学生弾圧体制に対して学生が立ち上がった」闘争です。ランちゃんがこれを知らないはずはありません。
キャンディーズの意識には全共闘があった。つまり、権力と戦うという意識ですね。これが事務所に相談もなく自分たちで解散を決め、コンサート中にいきなり発表するという重い決断を3人にさせた。
ということは必然的に再結成はありえない。報道によれば、3人のうちミキちゃんがとくに再結成に反対といわれますが、再結成を拒む一番の砦はランちゃんの決意だからです。ランちゃんはキャンディーズの経験をひとつの歴史的出来事として評価している、この決意に後戻りはなりえないわけです。この信念はランちゃんの意識と誇りを支えているからです。
ファンもはっきりとはしないが、それをどことなくわかっている。ファンはだれもが再結成はないと思っている。これはやはりキャンディーズという事象が単なる大衆イベントではなく、歴史的な事象であるという認識を無意識のうちに共有しているからです。
実際、キャンディーズを境にして大衆のエネルギーがむかうテーマが政治からポップカルチャーにおおきくシフトした気がします。こういう側面にたいする評価みたいなものがキャンディーズのその後のアイドルとは違う、特異性を決定づけていると思われます。
2011年04月21日
元キャンディーズのスーちゃんこと女優の田中好子さんが亡くなったそうです。
キャンディーズの大ファンとずっといってきた僕はめちゃショックです。
スーちゃんのことで記憶に残っているのは78年後楽園のファイナルコンサートでバイクのヘルメットをぶん回しながら唄ったときの印象です。なんかイメージが違うと思ったものです。
ホント残念です。3人が揃っていてもファンの心情としても、解散の仕方からしても、再結成は絶対にないわけですが、しかしファンはどこかでやっぱもう一度キャンディーズを見たいなとも思っていたわけで、これでホントに再結成が不可能になってしまいました。
しっとりした大人の女の「年下の男の子」をきくのが僕の夢でした。
合掌。
キャンディーズの大ファンとずっといってきた僕はめちゃショックです。
スーちゃんのことで記憶に残っているのは78年後楽園のファイナルコンサートでバイクのヘルメットをぶん回しながら唄ったときの印象です。なんかイメージが違うと思ったものです。
ホント残念です。3人が揃っていてもファンの心情としても、解散の仕方からしても、再結成は絶対にないわけですが、しかしファンはどこかでやっぱもう一度キャンディーズを見たいなとも思っていたわけで、これでホントに再結成が不可能になってしまいました。
しっとりした大人の女の「年下の男の子」をきくのが僕の夢でした。
合掌。
2011年04月14日
特定募金制度があってもいいのでは。
特定募金とは特定財源のパクリ。
特定財源とは使用制限が設けられている財源のことで、揮発油税などがそれに当たる。揮発油税の税収は道路特定財源としてのみ支出が認められる。
要するに特定募金とは利用の目的を制限する募金のことである。
例えば、きのうテレビでやっていたのだが、津波で流された漁船がいまだ陸に打ち上げられたままになっており、国道を塞いでしまっている。これをどかすには莫大な費用がかかる。その船を廃船にするか再利用するかでも金額がかわってくる。たいした損傷がなく、再利用される場合、1億円以上かかる。そのため所有者はどかすにどかせない状況になっているのだそうだ。
現在、募金は赤十字を通して分配されているが、募金の使途は赤十字に任せられているので、募金者にはそのお金がどう使われるかわからない。これでは募金のモチベーションがいまひとつあがらないのではないだろうか。ならばこれを従来と同じ一般募金と使用を制限する募金にわけてみてはどうかというのが特定募金のアイデアだ。
つまりは、募金者がこのひとのために寄付したいと思う相手に使用を制限すれば、使用目的が募金者にはっきりわかるので、募金するひとのモチベーションがあがり、募金が増えるという計算である。
このアイデアどうだろう。
特定募金とは特定財源のパクリ。
特定財源とは使用制限が設けられている財源のことで、揮発油税などがそれに当たる。揮発油税の税収は道路特定財源としてのみ支出が認められる。
要するに特定募金とは利用の目的を制限する募金のことである。
例えば、きのうテレビでやっていたのだが、津波で流された漁船がいまだ陸に打ち上げられたままになっており、国道を塞いでしまっている。これをどかすには莫大な費用がかかる。その船を廃船にするか再利用するかでも金額がかわってくる。たいした損傷がなく、再利用される場合、1億円以上かかる。そのため所有者はどかすにどかせない状況になっているのだそうだ。
現在、募金は赤十字を通して分配されているが、募金の使途は赤十字に任せられているので、募金者にはそのお金がどう使われるかわからない。これでは募金のモチベーションがいまひとつあがらないのではないだろうか。ならばこれを従来と同じ一般募金と使用を制限する募金にわけてみてはどうかというのが特定募金のアイデアだ。
つまりは、募金者がこのひとのために寄付したいと思う相手に使用を制限すれば、使用目的が募金者にはっきりわかるので、募金するひとのモチベーションがあがり、募金が増えるという計算である。
このアイデアどうだろう。
2011年04月10日
東京都知事選は、現職の石原慎太郎氏が4選を果たした。
正直、この結末はがっかりだ。
東国原前宮崎県知事は、人柄はやることなすことあざとくて好きになれないが、一応実績を積んだし、橋元大阪府知事とのパイプは魅力的。東京、愛知、大阪のホットラインができあがれば、国政にも影響を及ぼす力になることはまちがいなかった。なぜ都民がこれを拒んだのか理解に苦しむ。
東国原氏にとっては決して不利な戦いではなかったはず。選挙運動ができないことは知名度があるから関係ないし、震災も、むしろプラス要因と僕は読んでいた。
石原氏のあの天罰発言があって、ダブルスコアでの大勝と思っていた。
敗因はなんだろう。単純に石原氏が強いということなのか。ちょっとわからない。
正直、この結末はがっかりだ。
東国原前宮崎県知事は、人柄はやることなすことあざとくて好きになれないが、一応実績を積んだし、橋元大阪府知事とのパイプは魅力的。東京、愛知、大阪のホットラインができあがれば、国政にも影響を及ぼす力になることはまちがいなかった。なぜ都民がこれを拒んだのか理解に苦しむ。
東国原氏にとっては決して不利な戦いではなかったはず。選挙運動ができないことは知名度があるから関係ないし、震災も、むしろプラス要因と僕は読んでいた。
石原氏のあの天罰発言があって、ダブルスコアでの大勝と思っていた。
敗因はなんだろう。単純に石原氏が強いということなのか。ちょっとわからない。
2011年04月07日
『蛹』につづいて『切れた鎖』を読了した。
この作品は第21回三島由紀夫賞を受賞している。
まず率直な感想をいうと、つまらない。『蛹』はおおくの作家がやろうとして失敗している試みに果敢に挑戦した実験性が評価されるが、この作品にはそれもなく、表現もかなりわかりづらい。しかも、わからいづらいだけでなく、比喩も当たっておらず、不用意。なぜ三島由紀夫賞なのか理解に苦しむ。
ストーリーは山口県の西の突端の小さな漁村に暮らす代々コンクリート屋として財をなした桜井家の娘三代にまつわる呪いのような話。桜井家の裏に教会があって、夫が教会の女とやってしまって隠し子をつくったあげく、失踪してしまう。当然、母親はその隠し子に、娘、孫娘を会わせたくない。だから教会の悪口をいう。
よって没落していく桜井家と教会との肉の関係。これがストーリーの骨格をなしていることになるが、ストーリーがつまらないのはまだ我慢できる。落ちがないのも気にはならないが、表現がわかりずらく、情景がイメージしずらい上、時間軸もわかりづらい。とても完成された作品とはいえない。ならば実験性があるかといえば、そうでもない。『蛹』はこの実験性に救われたが、それもないのだから、なぜ高い評価をうけるのかわからない。純文学だから大衆無視でいいとはならない。それなりに文学に精通している人間でもわからないのだから。
決定的にわからないのは桜井家の没落と骨肉の倫理がまったく関係しておらず、いわば桜井家の没落が自然死のように描かれてしまっている点がひとつ。そして、骨肉の倫理がいわば癌細胞のように摘出されて、その象徴的存在となる、桜井家の隠し子を育てる場所が、なぜ教会なのか。山口県の西の突端にある漁村の教会である必然性がいまいちつたわらない点だ。
隠し子の男が大人になって桜井家に聖書を売りにくる場面で、男が「父はどこにでもおられます、我々が望む時と場所に」と意味深な発言をし、ある呪詛となって桜井家を呪うが、失踪した父親の呪いが桜井家を襲うならそれが桜井家の没落とどうリンクするか、読者にどこかで暗示しておかねばならないが、そもそもどこもリンクしていない。単なる自然消滅なのである。だから劇的でない。劇的でないだけなら許せるが、必然性がないのはまずい。小説として成り立っていないということである。
妻が発狂して、あるいはどこかおかしくなって健全経営だったコンクリート屋の経営がままならなくなるとか、娘、孫娘を虐待するとか、生々しくなくていいから、そういう病的な意味あいの場面をもっと入れるべきだった。あるにはあるのだが、わざわざ小説として描かなくてもいいであろうレベルの病的性に止まっており、それが桜井家の没落と関連づけられないので、読んでいる方ははなはだ困った。
全否定はしないが、評価はさほどできない作品だった。
この作品は第21回三島由紀夫賞を受賞している。
まず率直な感想をいうと、つまらない。『蛹』はおおくの作家がやろうとして失敗している試みに果敢に挑戦した実験性が評価されるが、この作品にはそれもなく、表現もかなりわかりづらい。しかも、わからいづらいだけでなく、比喩も当たっておらず、不用意。なぜ三島由紀夫賞なのか理解に苦しむ。
ストーリーは山口県の西の突端の小さな漁村に暮らす代々コンクリート屋として財をなした桜井家の娘三代にまつわる呪いのような話。桜井家の裏に教会があって、夫が教会の女とやってしまって隠し子をつくったあげく、失踪してしまう。当然、母親はその隠し子に、娘、孫娘を会わせたくない。だから教会の悪口をいう。
よって没落していく桜井家と教会との肉の関係。これがストーリーの骨格をなしていることになるが、ストーリーがつまらないのはまだ我慢できる。落ちがないのも気にはならないが、表現がわかりずらく、情景がイメージしずらい上、時間軸もわかりづらい。とても完成された作品とはいえない。ならば実験性があるかといえば、そうでもない。『蛹』はこの実験性に救われたが、それもないのだから、なぜ高い評価をうけるのかわからない。純文学だから大衆無視でいいとはならない。それなりに文学に精通している人間でもわからないのだから。
決定的にわからないのは桜井家の没落と骨肉の倫理がまったく関係しておらず、いわば桜井家の没落が自然死のように描かれてしまっている点がひとつ。そして、骨肉の倫理がいわば癌細胞のように摘出されて、その象徴的存在となる、桜井家の隠し子を育てる場所が、なぜ教会なのか。山口県の西の突端にある漁村の教会である必然性がいまいちつたわらない点だ。
隠し子の男が大人になって桜井家に聖書を売りにくる場面で、男が「父はどこにでもおられます、我々が望む時と場所に」と意味深な発言をし、ある呪詛となって桜井家を呪うが、失踪した父親の呪いが桜井家を襲うならそれが桜井家の没落とどうリンクするか、読者にどこかで暗示しておかねばならないが、そもそもどこもリンクしていない。単なる自然消滅なのである。だから劇的でない。劇的でないだけなら許せるが、必然性がないのはまずい。小説として成り立っていないということである。
妻が発狂して、あるいはどこかおかしくなって健全経営だったコンクリート屋の経営がままならなくなるとか、娘、孫娘を虐待するとか、生々しくなくていいから、そういう病的な意味あいの場面をもっと入れるべきだった。あるにはあるのだが、わざわざ小説として描かなくてもいいであろうレベルの病的性に止まっており、それが桜井家の没落と関連づけられないので、読んでいる方ははなはだ困った。
全否定はしないが、評価はさほどできない作品だった。
2011年04月06日
フリージャーナリスト上杉隆氏が「世界標準の言論の自由がある場所でなければ、そこで仕事をする必要はない」として、ジャーナリズム活動の無期限休止を宣言した。
記者クラブの廃止を訴えたり、コンスタントにスクープを飛ばしている、実力は折り紙つきのジャーナリストなので、今後良し悪しについて一定の議論があると思う。
僕は共感する。理由は思想で動く人間が好きだから。
並みのジャーナリストならむしろ記者クラブが廃止されるまで絶対にやめないというはずで、むしろバカっぽく、思想的にチープに感じられるが、上杉氏は「フェアな仕事のできない日本のメディアに関わることは(中略)犯罪に加担していると疑われる」と述べている。
制度論を宙吊りにし、内側に意識をむけている証拠で、考えがある人間だということだ。自分で考えて判断できる人間なら、復活して、将来日本の腐ったジャーナリズムを改善してくれそうな気がする。
無期限なのでいつまでなのかはわからないが、この活動休止宣言は評価されるべきだ。
記者クラブの廃止を訴えたり、コンスタントにスクープを飛ばしている、実力は折り紙つきのジャーナリストなので、今後良し悪しについて一定の議論があると思う。
僕は共感する。理由は思想で動く人間が好きだから。
並みのジャーナリストならむしろ記者クラブが廃止されるまで絶対にやめないというはずで、むしろバカっぽく、思想的にチープに感じられるが、上杉氏は「フェアな仕事のできない日本のメディアに関わることは(中略)犯罪に加担していると疑われる」と述べている。
制度論を宙吊りにし、内側に意識をむけている証拠で、考えがある人間だということだ。自分で考えて判断できる人間なら、復活して、将来日本の腐ったジャーナリズムを改善してくれそうな気がする。
無期限なのでいつまでなのかはわからないが、この活動休止宣言は評価されるべきだ。
2011年04月05日
時間があったので、以前ひとに勧められた川端康成賞受賞作田中慎弥『蛹』を読んだ。
カブトムシを擬人化した作品だが、童話ではなく、純文学。
ストーリーのようなものはない。卵として生み落とされ地中で蛹化するカブトムシが地上を見上げながら思うことをつらつらと書いている。
まず文章が非常に読みづらいのが難点。そのため情景がイメージしづらい。またなにも起こらない。蟻が通ったり、成虫のカブトムシが通ったりするだけである。なので、おもしろみもない。
ではなぜ川端康成賞を受賞できたのか。ひとえに挑戦的だからだろう。
この種の作品はおおくの作家がチャレンジしては失敗するかなり高度な文章テクニックを必要をとする作品であり、百あって、いや千あっても大半が駄作になる。それをじょうずにやり切った点だろう。
これを成功させたのは「これも誰かの手違いだろうが彼にはそういう想像力や神経が生まれながらに与えられていた」の一文である。
見事だったが、目が覚めたら体が害虫になっていたではじまるカフカ的な不条理小説的転換法ではなく、ボードレールの散文詩に近いはずである。不条理小説として読むと、蛹が引きこもりのメタファーになってしまう。そんなチープな暗喩で片づけられては作者がかわいそうだ。
大衆小説にかぶれた人間にはつまらない作品だが、この作品として成功させた実力はかなりのものだとやはりいわざるをえない。
カブトムシを擬人化した作品だが、童話ではなく、純文学。
ストーリーのようなものはない。卵として生み落とされ地中で蛹化するカブトムシが地上を見上げながら思うことをつらつらと書いている。
まず文章が非常に読みづらいのが難点。そのため情景がイメージしづらい。またなにも起こらない。蟻が通ったり、成虫のカブトムシが通ったりするだけである。なので、おもしろみもない。
ではなぜ川端康成賞を受賞できたのか。ひとえに挑戦的だからだろう。
この種の作品はおおくの作家がチャレンジしては失敗するかなり高度な文章テクニックを必要をとする作品であり、百あって、いや千あっても大半が駄作になる。それをじょうずにやり切った点だろう。
これを成功させたのは「これも誰かの手違いだろうが彼にはそういう想像力や神経が生まれながらに与えられていた」の一文である。
見事だったが、目が覚めたら体が害虫になっていたではじまるカフカ的な不条理小説的転換法ではなく、ボードレールの散文詩に近いはずである。不条理小説として読むと、蛹が引きこもりのメタファーになってしまう。そんなチープな暗喩で片づけられては作者がかわいそうだ。
大衆小説にかぶれた人間にはつまらない作品だが、この作品として成功させた実力はかなりのものだとやはりいわざるをえない。
2011年04月04日
読売新聞によれば、「東日本大震災や東京電力福島第一原子力発電所の事故に対応するため、民主党と自民党が連立政権を組む方がよいと思う人は64%に上った」らしいのですが、僕はこの大連立について、危惧します。
そもそも大連立の発端は9条の改正でした。
僕は9条にかんしては、さほど信念・ポリシーがなく、問題なのは決め方のみと思っていました。というのも、日本が軍隊を持とうが持つまいが、結果は同じだという予想・見込みを立てているからです。
要するに、アジアの中の日本、日米同盟が日本外交の軸なわけで、これにかんして、日本は端からイニシアチブをもっていない。例えばアメリカは日本が軍国主義化することは嫌うでしょうが、保持にかんしては、どちらにも対応するでしょう。
軍隊の保有はそれ自体が問題なのではなく、軍隊の扱い方が問題なので、それはいわば良識は万人に与えられているが、使い方が問題だといったデカルトの言葉に準じます。
僕が改憲派なのは9条よりむしろ1条です。これを変えるべきだと思っています。どう変えるかはかなり複雑な話しなので、ここでは述べません。
ところで、きのうの読売新聞の世論調査で、なにがむかつくって、大連立に64パーセントもの人間が賛成している事実、そしてそれがどういう意味の支持なのかよくわからないまま結果が報じられていることです。
僕は憲法改正に反対しない立場ですが、もしこのような非常事態に等しい状況で大連立が成立し、それがそのまま憲法改正へとなだれ込んでしまうのであれば、大反対です。そんなどさくさまぎれで、日本政治史上最も重要な問題が決定されてしまうとなると、民主主義が成り立ちません。中曽根大勲位は時限付き大連立にすべきといっているみたいですが、ちょっとしたわなにきこえなくもありません。
連立した法が法案の成立がスムースなのかもしれませんが、いちいち連立しなくてもできるはず。なぜ連立にこだわるのか。裏でタカ派の改憲派が跋扈してないか心配です。
そして、菅内閣の支持率。同じ読売新聞の世論調査で31パーセントに回復したそうです。
僕の回りはだれにきいてもけちょんけちょんで、この結果は到底信じがたい。そもそも震災後の菅総理の対応は最低です。震災対策の組織的な連続性は重要ですが、それがそのまま支持率に跳ねかえる理由がよくわからない。ひょっとして裏で数字を操作されてやしまいかなと疑いたくなります。
菅総理がただ辞めたくないという理由で連立を組み、それがなし崩し的に維持され、憲法改正にまでいっていまうようなことがあったとしたら、これは大問題です。それだけは避けた方がいいでしょう。
そもそも大連立の発端は9条の改正でした。
僕は9条にかんしては、さほど信念・ポリシーがなく、問題なのは決め方のみと思っていました。というのも、日本が軍隊を持とうが持つまいが、結果は同じだという予想・見込みを立てているからです。
要するに、アジアの中の日本、日米同盟が日本外交の軸なわけで、これにかんして、日本は端からイニシアチブをもっていない。例えばアメリカは日本が軍国主義化することは嫌うでしょうが、保持にかんしては、どちらにも対応するでしょう。
軍隊の保有はそれ自体が問題なのではなく、軍隊の扱い方が問題なので、それはいわば良識は万人に与えられているが、使い方が問題だといったデカルトの言葉に準じます。
僕が改憲派なのは9条よりむしろ1条です。これを変えるべきだと思っています。どう変えるかはかなり複雑な話しなので、ここでは述べません。
ところで、きのうの読売新聞の世論調査で、なにがむかつくって、大連立に64パーセントもの人間が賛成している事実、そしてそれがどういう意味の支持なのかよくわからないまま結果が報じられていることです。
僕は憲法改正に反対しない立場ですが、もしこのような非常事態に等しい状況で大連立が成立し、それがそのまま憲法改正へとなだれ込んでしまうのであれば、大反対です。そんなどさくさまぎれで、日本政治史上最も重要な問題が決定されてしまうとなると、民主主義が成り立ちません。中曽根大勲位は時限付き大連立にすべきといっているみたいですが、ちょっとしたわなにきこえなくもありません。
連立した法が法案の成立がスムースなのかもしれませんが、いちいち連立しなくてもできるはず。なぜ連立にこだわるのか。裏でタカ派の改憲派が跋扈してないか心配です。
そして、菅内閣の支持率。同じ読売新聞の世論調査で31パーセントに回復したそうです。
僕の回りはだれにきいてもけちょんけちょんで、この結果は到底信じがたい。そもそも震災後の菅総理の対応は最低です。震災対策の組織的な連続性は重要ですが、それがそのまま支持率に跳ねかえる理由がよくわからない。ひょっとして裏で数字を操作されてやしまいかなと疑いたくなります。
菅総理がただ辞めたくないという理由で連立を組み、それがなし崩し的に維持され、憲法改正にまでいっていまうようなことがあったとしたら、これは大問題です。それだけは避けた方がいいでしょう。
2011年04月02日
去年ディザスター小説を書くといって騒いでいたのを覚えている方もいらっしゃると思います。
正直に告白しますと、今回の震災で自分の想像力の欠如に愕然としました。
まず電気。阪神淡路大震災で一番早く復興したのが電気だときいていたので、作中の想定マグニチュードを9.2としていたにもかかわらず、インフラの中で一番早く復旧したのは電気という前提でストーリーを進めていました。
そもそもわかってなかったのが、周派の長い横揺れと周派の短い縦揺れとではまったく特徴が違うこと。阪神は周派の短い縦揺れ、東日本大震災は周派の長い横揺れだったそうです。ですので、今回は地震での家屋の倒壊は少なかったそうです。こんな基礎知識も知らないようでは、お話しになりません。
津波は想定していました。小説では津波が押し寄せ、名古屋の市街地に海水が流れ込み、家屋の倒壊、津波、火事によって30万人が死んだといしてしまいました。これも死者数の見積もりがむちゃくちゃ。
しかし、一番はなんといっても原子力です。こんなにやわだったとは。いわゆる五重の壁を完全に信じきっていました。無傷としてしまいました。情けないかぎりです。
正直に告白しますと、今回の震災で自分の想像力の欠如に愕然としました。
まず電気。阪神淡路大震災で一番早く復興したのが電気だときいていたので、作中の想定マグニチュードを9.2としていたにもかかわらず、インフラの中で一番早く復旧したのは電気という前提でストーリーを進めていました。
そもそもわかってなかったのが、周派の長い横揺れと周派の短い縦揺れとではまったく特徴が違うこと。阪神は周派の短い縦揺れ、東日本大震災は周派の長い横揺れだったそうです。ですので、今回は地震での家屋の倒壊は少なかったそうです。こんな基礎知識も知らないようでは、お話しになりません。
津波は想定していました。小説では津波が押し寄せ、名古屋の市街地に海水が流れ込み、家屋の倒壊、津波、火事によって30万人が死んだといしてしまいました。これも死者数の見積もりがむちゃくちゃ。
しかし、一番はなんといっても原子力です。こんなにやわだったとは。いわゆる五重の壁を完全に信じきっていました。無傷としてしまいました。情けないかぎりです。
2011年03月31日
南直哉さん、ブログしか読んでないのに悪口を書いてごめんなさい。
今度、本を読ませてもらいます。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4770041055/
そしたら感想を書きます。
偽善なんて書いて、ほんとうにごめんなさい。
今度、本を読ませてもらいます。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4770041055/
そしたら感想を書きます。
偽善なんて書いて、ほんとうにごめんなさい。
2011年03月30日
ここ数日のブログの流れからすれば、当然ここに行き着くわけです。
実はこの問題、僕にとって震災後の問題ではありません。ずっと考えてきたことです。このテーマがなければ、とっくに足を洗っています。
考えはずいぶんまとまってきました。書けることもいろいろあるのですが、公表しないでおきます。これはもったいぶっているのではなくて、文章力が未熟なせい。また勉強しなければならないことが山ほどあって、追いつかないせい。
「勉強している暇ではないんですね」(佐藤ゆかりの国会での発言)ってところですか。
たしかに、勉強している暇じゃありませんな。
僕が雑誌を辞めるとき、最後の編集後記になんて書いたかご存知でしょうか。知らないですよね。
まあそういうことなのです。このテーマは申し訳ないですが、またいずれ。
実はこの問題、僕にとって震災後の問題ではありません。ずっと考えてきたことです。このテーマがなければ、とっくに足を洗っています。
考えはずいぶんまとまってきました。書けることもいろいろあるのですが、公表しないでおきます。これはもったいぶっているのではなくて、文章力が未熟なせい。また勉強しなければならないことが山ほどあって、追いつかないせい。
「勉強している暇ではないんですね」(佐藤ゆかりの国会での発言)ってところですか。
たしかに、勉強している暇じゃありませんな。
僕が雑誌を辞めるとき、最後の編集後記になんて書いたかご存知でしょうか。知らないですよね。
まあそういうことなのです。このテーマは申し訳ないですが、またいずれ。
2011年03月29日
ポスト・モダンがアイデンティティという概念を嫌ったのはそこに全体主義的な匂いがあるからでしょう。
しかし、いまにかぎってはポスト・モダンにとっても日本人であることが心地いいようです。最近、哲学者の東浩紀氏がニューヨークタイムスに「たまには日本人であることを誇りに思う」を寄稿しました。これは良し悪しは別にして注目に値すると思います。
いま「日本人である」という事実が日本人の心の拠り所として機能している。日本人は危機に直面してアイデンティティに避難して、ちょっとホッとしたり誇りを感じている状況です。
それはそれでいいのですが、しかしアイデンティティが実体としてはつかめておらず、配給所で整列しているとか、暴動が起きないとか、通行人の邪魔にならないように座るとかそんな現象として理解されている点はどうなのか。このあいまいさはいいのか。僕にはわかりません。
思うに、もっと深いはずです。単純に現象としてキャッチされるようなものではなくて、精神として共有されるべきもののはず。だから、世界から絶賛されている一方で、日本人のアイデンティティは揺らいでいるようにも感じられます。
グローバリゼーションによって問われる予定だった「日本人であること」が未曾有の災害で問われることになって、いま拠り所として機能し、奇しくもポスト・モダンの思想家までもが「日本人であることを誇りに思う」と発言するまでに至った中ではたしてこのあとどうなるのか。いずれにせよこの「誇り」を築き上げてきたのがポスト・モダンでもなければ、おそらくナショナリズムでもないことは知っておくべきでしょう。
しかし江戸時代に戻るわけにもいかず。
ニューヨーカーがこの日本人のアイデンティティの揺らぎをうまいこと表現しています。
http://www.newyorker.com/online/blogs/newsdesk/2011/03/cover-story-christoph-niemann-japan-earthquake.html
しかし、いまにかぎってはポスト・モダンにとっても日本人であることが心地いいようです。最近、哲学者の東浩紀氏がニューヨークタイムスに「たまには日本人であることを誇りに思う」を寄稿しました。これは良し悪しは別にして注目に値すると思います。
いま「日本人である」という事実が日本人の心の拠り所として機能している。日本人は危機に直面してアイデンティティに避難して、ちょっとホッとしたり誇りを感じている状況です。
それはそれでいいのですが、しかしアイデンティティが実体としてはつかめておらず、配給所で整列しているとか、暴動が起きないとか、通行人の邪魔にならないように座るとかそんな現象として理解されている点はどうなのか。このあいまいさはいいのか。僕にはわかりません。
思うに、もっと深いはずです。単純に現象としてキャッチされるようなものではなくて、精神として共有されるべきもののはず。だから、世界から絶賛されている一方で、日本人のアイデンティティは揺らいでいるようにも感じられます。
グローバリゼーションによって問われる予定だった「日本人であること」が未曾有の災害で問われることになって、いま拠り所として機能し、奇しくもポスト・モダンの思想家までもが「日本人であることを誇りに思う」と発言するまでに至った中ではたしてこのあとどうなるのか。いずれにせよこの「誇り」を築き上げてきたのがポスト・モダンでもなければ、おそらくナショナリズムでもないことは知っておくべきでしょう。
しかし江戸時代に戻るわけにもいかず。
ニューヨーカーがこの日本人のアイデンティティの揺らぎをうまいこと表現しています。
http://www.newyorker.com/online/blogs/newsdesk/2011/03/cover-story-christoph-niemann-japan-earthquake.html
2011年03月28日
ポスト・モダンは政治とどう接触したか。すぐ浮かぶのはマルクス主義である。
例えばデリダは80年代後半(90年代前半かも)、あっさり自分はマルキストであることをカミング・アウトした。しかし伝わってくるのはイラク戦争、死刑制度に反対していたことくらいだった。
ドゥルーズはマルクス主義を意識していたことは明白だったものの、公言していたかどうかは知らない。もともとマルクス主義というよりはポスト・実存主義だった。日本で出版された追悼特集の中にドゥルーズ自身の自分は実存主義者だったとの告白文が載ったのを読んだときは、ああやっぱりと思ったものである。
日本はどうだったかというと、僕の知る限り政治的接点はほとんどなかった。せいぜい文化的影響を与えたぐらいである。オタクと宗教のファッション化である。この結末はあえていわないでおく。
思えば、先日から触れている南直哉はポスト・モダン的事件のあと登場しているが、にもかかわらず、ポスト・モダンの言説の限界をしめすのではなく、ポスト・モダン的言説を繰り返しているから不思議だ。つまり中沢新一的な失敗から学習して、未知の実態のわからない新興宗教には手を出さず、恐山のように既存で、基礎体力のある宗教団体に帰依し、後発だから自分は無実というような顔をして身の安全を図り、リバイバルで売っているわけだ。南直哉はもちろんお坊さんであって、思想家ではないわけだけど。
ポスト・モダンは政治にたいしてなにをなしえたのか。結局のところ反ファシズム運動の推進力としてはおおいに機能したが、21世紀になって完全に尻すぼみし、失速した。もはや新しい時代を動かす推進力はない。「最小不幸社会」というモダンの幻想を打ち砕いたのは原発だった。
例えばデリダは80年代後半(90年代前半かも)、あっさり自分はマルキストであることをカミング・アウトした。しかし伝わってくるのはイラク戦争、死刑制度に反対していたことくらいだった。
ドゥルーズはマルクス主義を意識していたことは明白だったものの、公言していたかどうかは知らない。もともとマルクス主義というよりはポスト・実存主義だった。日本で出版された追悼特集の中にドゥルーズ自身の自分は実存主義者だったとの告白文が載ったのを読んだときは、ああやっぱりと思ったものである。
日本はどうだったかというと、僕の知る限り政治的接点はほとんどなかった。せいぜい文化的影響を与えたぐらいである。オタクと宗教のファッション化である。この結末はあえていわないでおく。
思えば、先日から触れている南直哉はポスト・モダン的事件のあと登場しているが、にもかかわらず、ポスト・モダンの言説の限界をしめすのではなく、ポスト・モダン的言説を繰り返しているから不思議だ。つまり中沢新一的な失敗から学習して、未知の実態のわからない新興宗教には手を出さず、恐山のように既存で、基礎体力のある宗教団体に帰依し、後発だから自分は無実というような顔をして身の安全を図り、リバイバルで売っているわけだ。南直哉はもちろんお坊さんであって、思想家ではないわけだけど。
ポスト・モダンは政治にたいしてなにをなしえたのか。結局のところ反ファシズム運動の推進力としてはおおいに機能したが、21世紀になって完全に尻すぼみし、失速した。もはや新しい時代を動かす推進力はない。「最小不幸社会」というモダンの幻想を打ち砕いたのは原発だった。
2011年03月26日
17日のブログ「南直哉「大地震」偽善」に戦後、理性の限界はさんざんいわれてきたと書きましたが、しかし、政治が古典的なモダンの幻想を抱きつづけてきたのは事実です。
現代ヨーロッパ思想ではとっくに打ち砕かれたモダンの幻想が政治の世界では相変わらず効力を発揮しつづけてきた。
この問題を考えるにつけ思い出すのは菅総理がつねづねいっていた「最小不幸社会」です。人間の幸福は数値化できて、それを支配できるという考え。
なぜ戦後、そういう思考が幻想だということがいやっていうほどいわれてきたのに政治はポスト・モダンへ移行できないのか。
これはポスト・モダンが政治的な存在でないということなのかもしれません。
南直哉は「17・18世紀ヨーロッパ近代発のアイデア、我々もそれに乗ってここまで邁進してきた 道のりに、完全に限界がきたということです」とポスト・モダン的言説を繰り返しましたが、実はそうでなくて、これはモダンの限界であるばかりでなく、ポスト・モダン的批判の限界でもあるのかもしれません。
僕は1998年で哲学の勉強を止めてしまったので、その後の西洋思想のリアルな動向を知りませんが、南直哉が指摘するようなモダンの限界としてではなく、ポスト・モダンの政治的限界として、現在の政治を捉えなおす視座が必要であるように思われます。
現代ヨーロッパ思想ではとっくに打ち砕かれたモダンの幻想が政治の世界では相変わらず効力を発揮しつづけてきた。
この問題を考えるにつけ思い出すのは菅総理がつねづねいっていた「最小不幸社会」です。人間の幸福は数値化できて、それを支配できるという考え。
なぜ戦後、そういう思考が幻想だということがいやっていうほどいわれてきたのに政治はポスト・モダンへ移行できないのか。
これはポスト・モダンが政治的な存在でないということなのかもしれません。
南直哉は「17・18世紀ヨーロッパ近代発のアイデア、我々もそれに乗ってここまで邁進してきた 道のりに、完全に限界がきたということです」とポスト・モダン的言説を繰り返しましたが、実はそうでなくて、これはモダンの限界であるばかりでなく、ポスト・モダン的批判の限界でもあるのかもしれません。
僕は1998年で哲学の勉強を止めてしまったので、その後の西洋思想のリアルな動向を知りませんが、南直哉が指摘するようなモダンの限界としてではなく、ポスト・モダンの政治的限界として、現在の政治を捉えなおす視座が必要であるように思われます。
2011年03月25日
「日本を、なめんなよ。」に決定しました。
もちろん「東北を、なめんなよ。」でもOK。
なぜこれにしたかは、説明していると、きのうみたいに長くなりそうな予感がして恐いので、止めておきます。
そもそも地震が起きてから考えることがおおすぎて、脳ミソの中がかなり混乱しております。あれもこれもって感じですね。
書きはじめたらもう収拾がつかないことになりますね。寝食忘れて熱中しちゃうかもしれません。
自分がやるべきことをやるというのが基本でしょうから、ま、ブログ書きというか、考えすぎというのも意味ないかな、と思っております。
いずれにせよ、当面は、「日本を、なめんなよ。」です。しかし、これをいうのは時期尚早かな。
週刊朝日が表紙に使ったあの瓦礫の谷間で泣いている女の子の写真を見たら、もうどうしようもない。
もちろん「東北を、なめんなよ。」でもOK。
なぜこれにしたかは、説明していると、きのうみたいに長くなりそうな予感がして恐いので、止めておきます。
そもそも地震が起きてから考えることがおおすぎて、脳ミソの中がかなり混乱しております。あれもこれもって感じですね。
書きはじめたらもう収拾がつかないことになりますね。寝食忘れて熱中しちゃうかもしれません。
自分がやるべきことをやるというのが基本でしょうから、ま、ブログ書きというか、考えすぎというのも意味ないかな、と思っております。
いずれにせよ、当面は、「日本を、なめんなよ。」です。しかし、これをいうのは時期尚早かな。
週刊朝日が表紙に使ったあの瓦礫の谷間で泣いている女の子の写真を見たら、もうどうしようもない。
2011年03月24日
「がんばれ東北」という言葉がいま東北の被災者を励ます言葉として特段の配慮もなく頻繁に使われています。「がんばれ」は時として逆効果だといわれて久しいにもかかわらず、みな安直に使っている。
もともと「がんばれ」という言葉が物議をかもしたのは、たしか不登校や鬱病のひとにたいしては、それが却ってプレッシャーになるだけだからというのが理由だったと記憶します。日本人は以来、それなりにこの言葉に配慮するようになったと思います。が、東北大震災では、かつての疑問がウソのように堰を切ったように「がんばれ」を乱発しています。
たしかに被災者は不登校や鬱病とは違います。精神的に健康なひとが物理的な被害に合っている。「がんばれ」を不登校者や鬱病患者のようにプレッシャーには感じないかもしれません。しかし、やはり使わない方がいい言葉なのです。ちょっと長くなりますが、理由を述べます。
言葉というのはつねに発言者が意図する意味と受け手側が解釈する意味の二つの意味を持ちます。この二つは通常の会話では一致しておりますが、ずれる場合があります。政治家が失言をして、「そういうつもりではなかった」なんて言い訳するのはその典型的な例です。
なぜこのずれが生まれるのか。発言者の立場やいい方、また受け手の置かれた状況によって、受け手の意味の汲み取り方が違うからです。
例えば、今回阪神淡路大震災の被災者だったひとたちが東北関東大震災直後すぐ被災者にむかって、メッセージを発信するビデオをつくり、その動画を発信しました。この中で阪神の経験者はみなこぞって、「がんばれ東北」「がんばろう東北」と呼びかけました。
これを被災している東北のひとたちが見たとき、どう感じるかというと、津波で家は流され、ひどい場所は町ごと流され、死者・行方不明者が多数おり、懸命の捜索をつづけている段階なのにがんばれといわれてもどうやってがんばるんだ、こんな風に感じます。
もちろんメッセージを発信した阪神の被災者の意図は、同情、共感、悲しみの共有であり、それでも立ち上がろうという励ましであり、なにより同じ被災した経験者として、だれより痛みがわかる。だからいまこそ自分たちがメッセージを発信しなければという思いであるはずです。そこに悪意がないことは東北のひとたちも知っています。しかし復興の「ふ」の字もなく、まだ被災が現在進行形であるいま、がんばれといわれてみても、その意味を素直にうけとめ、正確に理解することはできないでしょう。
最悪のケースはこう解釈されます。
「がんばれ東北(阪神だって苦労したんだ)」
つまり嫌味に取られてしまいます。親族を亡くし悲嘆に暮れている被災者をメッセージの意図とは逆に深く傷つけることになります。
これはどういうケースなら「がんばれ」がいい意味で効果的になりうるか分析してみれば、もっとはっきりします。
例えば、野球部のメンバーが監督から1キロ走を命令されたとしましょう。部員は順番に走っていく。走っている友達・仲間にたいして見守っている同じ部員が「がんばれ」と声をかけるのはOKでしょう。同じ境遇にあるからです。
あるいは主治医がガンと戦っている患者さんにむかって、「今度の薬は副作用が強いのですが、乗り切れば先が見えます。がんばってください」というのもOK。お医者さんは患者さんの快復の一番の実効的な協力者ですから。
すなわち、「がんばれ」という言葉は同じ境遇にある人間が励ましあうか、実効的な協力を実際にしている人間が使う場合は有効です。したがってこれと反対のケース、同じ境遇になく、とくに協力もしていない人間が安易に使うと、まったく別の意味に解釈されてしまうとうわけです。
もっと極端に「(大変だね。まあせいぜい)がんばれ(オレはあったかい場所でうまい飯を食っているから)」なんて意味に解釈されることもあるでしょう。
阪神の被災者のメッセージの場合、同じ境遇を経験したひとたちのメッセージなのだと、良心的に解釈すれば、かろうじて意図を汲むことができます。ですので、まだ救いがありますが、西日本のとくに同じ経験をしたことのない人間がいえば、確実に意味は歪んで伝わります。
なぜ「がんばれ」という言葉にはこういう性質があるのか。ここが肝心です。ほかにもこういう性質をもっている言葉があるかもしれませんが、それはこのさい置いておいて、「がんばれ」に限って述べます。「がんばれ」という言葉はそもそも労いの言葉ではなく、どちらかというと叱咤のニュアンスを含んでいるからです。やや突き放すニュアンスです。
ですので、野球部の先生や部員が仲間にむかって使うとか、お医者さんが患者さんにむかって使うなら構わないのですが、震災のような状況で被災していない者が被災者を激励するために使うと、冷たくきこえます。突き放されたような、寂しい、みじめな感覚です。被災者に余計つらい思いさせることになるでしょう。
では被災者を応援したいとき、なんといえばいいのか。これはもう具体的な行動を優先するしかありません。「応援しています。物資を送りました」「1万円寄付しました」「ボランティアとして参加するつもりです」など。それでも「寄付だけか」と思われるケースがあるかもしれません。正直なところどんな言葉がベストかはわかりません(別途考えてみます)。
とにかく、これだけは覚えておいた方がいいでしょう。「がんばれ」という言葉は励ましの言葉としてはいくらか冷たく、相手を突っぱねた、他人事的、あるいはスパルタ的意味があり、相手に立ち上がれるだけの余力なり、協力者なりがいる場合でないかぎり、使わないほうがいい。あなたにその意図がなかったとしても、相手を傷つけてしまうことがある。かつて不登校や鬱病のひとに使うのは控えた方がいいと識者がいったのとは意味が丸っきり違います。
「がんばれ」は相手を突き放した冷たい言葉です。
もともと「がんばれ」という言葉が物議をかもしたのは、たしか不登校や鬱病のひとにたいしては、それが却ってプレッシャーになるだけだからというのが理由だったと記憶します。日本人は以来、それなりにこの言葉に配慮するようになったと思います。が、東北大震災では、かつての疑問がウソのように堰を切ったように「がんばれ」を乱発しています。
たしかに被災者は不登校や鬱病とは違います。精神的に健康なひとが物理的な被害に合っている。「がんばれ」を不登校者や鬱病患者のようにプレッシャーには感じないかもしれません。しかし、やはり使わない方がいい言葉なのです。ちょっと長くなりますが、理由を述べます。
言葉というのはつねに発言者が意図する意味と受け手側が解釈する意味の二つの意味を持ちます。この二つは通常の会話では一致しておりますが、ずれる場合があります。政治家が失言をして、「そういうつもりではなかった」なんて言い訳するのはその典型的な例です。
なぜこのずれが生まれるのか。発言者の立場やいい方、また受け手の置かれた状況によって、受け手の意味の汲み取り方が違うからです。
例えば、今回阪神淡路大震災の被災者だったひとたちが東北関東大震災直後すぐ被災者にむかって、メッセージを発信するビデオをつくり、その動画を発信しました。この中で阪神の経験者はみなこぞって、「がんばれ東北」「がんばろう東北」と呼びかけました。
これを被災している東北のひとたちが見たとき、どう感じるかというと、津波で家は流され、ひどい場所は町ごと流され、死者・行方不明者が多数おり、懸命の捜索をつづけている段階なのにがんばれといわれてもどうやってがんばるんだ、こんな風に感じます。
もちろんメッセージを発信した阪神の被災者の意図は、同情、共感、悲しみの共有であり、それでも立ち上がろうという励ましであり、なにより同じ被災した経験者として、だれより痛みがわかる。だからいまこそ自分たちがメッセージを発信しなければという思いであるはずです。そこに悪意がないことは東北のひとたちも知っています。しかし復興の「ふ」の字もなく、まだ被災が現在進行形であるいま、がんばれといわれてみても、その意味を素直にうけとめ、正確に理解することはできないでしょう。
最悪のケースはこう解釈されます。
「がんばれ東北(阪神だって苦労したんだ)」
つまり嫌味に取られてしまいます。親族を亡くし悲嘆に暮れている被災者をメッセージの意図とは逆に深く傷つけることになります。
これはどういうケースなら「がんばれ」がいい意味で効果的になりうるか分析してみれば、もっとはっきりします。
例えば、野球部のメンバーが監督から1キロ走を命令されたとしましょう。部員は順番に走っていく。走っている友達・仲間にたいして見守っている同じ部員が「がんばれ」と声をかけるのはOKでしょう。同じ境遇にあるからです。
あるいは主治医がガンと戦っている患者さんにむかって、「今度の薬は副作用が強いのですが、乗り切れば先が見えます。がんばってください」というのもOK。お医者さんは患者さんの快復の一番の実効的な協力者ですから。
すなわち、「がんばれ」という言葉は同じ境遇にある人間が励ましあうか、実効的な協力を実際にしている人間が使う場合は有効です。したがってこれと反対のケース、同じ境遇になく、とくに協力もしていない人間が安易に使うと、まったく別の意味に解釈されてしまうとうわけです。
もっと極端に「(大変だね。まあせいぜい)がんばれ(オレはあったかい場所でうまい飯を食っているから)」なんて意味に解釈されることもあるでしょう。
阪神の被災者のメッセージの場合、同じ境遇を経験したひとたちのメッセージなのだと、良心的に解釈すれば、かろうじて意図を汲むことができます。ですので、まだ救いがありますが、西日本のとくに同じ経験をしたことのない人間がいえば、確実に意味は歪んで伝わります。
なぜ「がんばれ」という言葉にはこういう性質があるのか。ここが肝心です。ほかにもこういう性質をもっている言葉があるかもしれませんが、それはこのさい置いておいて、「がんばれ」に限って述べます。「がんばれ」という言葉はそもそも労いの言葉ではなく、どちらかというと叱咤のニュアンスを含んでいるからです。やや突き放すニュアンスです。
ですので、野球部の先生や部員が仲間にむかって使うとか、お医者さんが患者さんにむかって使うなら構わないのですが、震災のような状況で被災していない者が被災者を激励するために使うと、冷たくきこえます。突き放されたような、寂しい、みじめな感覚です。被災者に余計つらい思いさせることになるでしょう。
では被災者を応援したいとき、なんといえばいいのか。これはもう具体的な行動を優先するしかありません。「応援しています。物資を送りました」「1万円寄付しました」「ボランティアとして参加するつもりです」など。それでも「寄付だけか」と思われるケースがあるかもしれません。正直なところどんな言葉がベストかはわかりません(別途考えてみます)。
とにかく、これだけは覚えておいた方がいいでしょう。「がんばれ」という言葉は励ましの言葉としてはいくらか冷たく、相手を突っぱねた、他人事的、あるいはスパルタ的意味があり、相手に立ち上がれるだけの余力なり、協力者なりがいる場合でないかぎり、使わないほうがいい。あなたにその意図がなかったとしても、相手を傷つけてしまうことがある。かつて不登校や鬱病のひとに使うのは控えた方がいいと識者がいったのとは意味が丸っきり違います。
「がんばれ」は相手を突き放した冷たい言葉です。
2011年03月22日
だれにでも簡単手軽にできる意識改革があります。開き直りです。
考えてみると、結構おもしろい。分析してみれば、意識改革というものの本質が見えてくるかもしれません。
でも単純にいって、いい開き直りとわるい開き直りがありますよね。
東電は開き直っていいのか。これはまずいでしょう。きょう副社長をはじめとした幹部が避難所に謝罪に行ったらしいのですが、万に一つ「好きにしてください」的態度が出たら、ますます被災者を怒らせることになります。東電は開き直っちゃいけません。
東電はともかくとして、難局を打破しようとするとき、意識を変える、上向かせるのは重要。その中で一番、簡単手軽な意識改革が開き直りなわけです。ですから、これを分析して、なにか一般的な法則が導き出せれば、開き直り以外の意識改革の簡単な方法が見つかるかもしれません。そうすれば、例えば社長さんが社員のコスト意識を変えようとしたとき、張り紙や説教なんかしなくても済むかもしれません。
興味深いテーマです。無駄かもしれませんが。
考えてみると、結構おもしろい。分析してみれば、意識改革というものの本質が見えてくるかもしれません。
でも単純にいって、いい開き直りとわるい開き直りがありますよね。
東電は開き直っていいのか。これはまずいでしょう。きょう副社長をはじめとした幹部が避難所に謝罪に行ったらしいのですが、万に一つ「好きにしてください」的態度が出たら、ますます被災者を怒らせることになります。東電は開き直っちゃいけません。
東電はともかくとして、難局を打破しようとするとき、意識を変える、上向かせるのは重要。その中で一番、簡単手軽な意識改革が開き直りなわけです。ですから、これを分析して、なにか一般的な法則が導き出せれば、開き直り以外の意識改革の簡単な方法が見つかるかもしれません。そうすれば、例えば社長さんが社員のコスト意識を変えようとしたとき、張り紙や説教なんかしなくても済むかもしれません。
興味深いテーマです。無駄かもしれませんが。
2011年03月21日
震災のあと、漁港が相当やられたので、これは魚介類の値段があがるかもしれないと思って、すぐに被災した漁港の特徴を調べたんですよね。
「八戸の水産業は、日本一のイカの水揚げ基地である八戸漁港を擁し、加工施設及び冷凍冷蔵施設の充実等を背景に発展を続け、常に全国上位の水準にあります」
http://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/8,186,16,31,html
これを読んで、ああ、イカの値段が上がるなと思って、ブログに書こうとしたんですけど、ひょっとしたらすぐに復興するかもしれないから、ごく親しい友人にイカの値段があがるかもよといったらくらいで、止めていたんです。
そしたら、案の定「全国3位の水揚げ量がある青森県八戸市の八戸港から21日未明、東日本大震災後、初めてのトロール(底引き網)船団11隻が出港した」とのニュース。
http://www.asahi.com/national/update/0321/TKY201103210259.html
あかるいニュースですね。いまの日本経済を支えているのはこういう力です。
もっとも僕はイカは嫌いで、回転寿司でも食べたことありませんけど。
「八戸の水産業は、日本一のイカの水揚げ基地である八戸漁港を擁し、加工施設及び冷凍冷蔵施設の充実等を背景に発展を続け、常に全国上位の水準にあります」
http://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/8,186,16,31,html
これを読んで、ああ、イカの値段が上がるなと思って、ブログに書こうとしたんですけど、ひょっとしたらすぐに復興するかもしれないから、ごく親しい友人にイカの値段があがるかもよといったらくらいで、止めていたんです。
そしたら、案の定「全国3位の水揚げ量がある青森県八戸市の八戸港から21日未明、東日本大震災後、初めてのトロール(底引き網)船団11隻が出港した」とのニュース。
http://www.asahi.com/national/update/0321/TKY201103210259.html
あかるいニュースですね。いまの日本経済を支えているのはこういう力です。
もっとも僕はイカは嫌いで、回転寿司でも食べたことありませんけど。
yoshiwara_watcher at 23:25
2011年03月20日
読売Gは結局東京ドームの売り上げしか考えていないのか。なぜ別球場、デーゲーム開催ができないのか。
僕は、25日の段階で電気が使えるようになっている可能性はゼロではないから、開催前提で動いて、もし条件が整わなかったら、球場、開始時間をずらして開催と予想していました。これだけ節電が叫ばれている中、まさか正義ナシに自分のところの利益だけでドーム強硬開催なんて大それたことをいわんだろう、いくらクズといわれる読売にだってそれくらいの良心や正義感はあるだろうと信じていたからです。ところが、読売はドーム開催にこだわっていた。読売新聞というのは究極的なアホ会社です。
僕が開催にこだわる理由は、そもそも消費が冷え込んでいたところに震災があって、破局的に消費が冷え込むのは確実となっている。買いだめは消費を控えようという動きの典型的な前兆です。そこへ停電不況が発生し、スーパーや飲食店は大打撃、危険な状態にあるのに、さらに畳み掛けるがとごく不謹慎という言葉を振りかざして、消費粛清が行われると、日本経済にドミノ倒しが起こるという危惧をもったからです。
節電が叫ばれている最中に東京ドームで煌々と灯かりをつけて野球を開催するなど愚の骨頂ですが、不謹慎に押されて延期したら、それはもっとまずい。野球をやれる状態じゃないと抜かす選手会の、この精神が日本を滅ぼすということです。
たぶん4、5月くらいまではまだいい。菅さんはもう駄目でしょうから選挙になる。そのあとでしょう。あの想像を越える津波を目の当たりにしたあとで、なぜ想像を越えた被害が日本を襲うとだれも予想しないのか僕にはまことに不思議でなりません。
僕は、25日の段階で電気が使えるようになっている可能性はゼロではないから、開催前提で動いて、もし条件が整わなかったら、球場、開始時間をずらして開催と予想していました。これだけ節電が叫ばれている中、まさか正義ナシに自分のところの利益だけでドーム強硬開催なんて大それたことをいわんだろう、いくらクズといわれる読売にだってそれくらいの良心や正義感はあるだろうと信じていたからです。ところが、読売はドーム開催にこだわっていた。読売新聞というのは究極的なアホ会社です。
僕が開催にこだわる理由は、そもそも消費が冷え込んでいたところに震災があって、破局的に消費が冷え込むのは確実となっている。買いだめは消費を控えようという動きの典型的な前兆です。そこへ停電不況が発生し、スーパーや飲食店は大打撃、危険な状態にあるのに、さらに畳み掛けるがとごく不謹慎という言葉を振りかざして、消費粛清が行われると、日本経済にドミノ倒しが起こるという危惧をもったからです。
節電が叫ばれている最中に東京ドームで煌々と灯かりをつけて野球を開催するなど愚の骨頂ですが、不謹慎に押されて延期したら、それはもっとまずい。野球をやれる状態じゃないと抜かす選手会の、この精神が日本を滅ぼすということです。
たぶん4、5月くらいまではまだいい。菅さんはもう駄目でしょうから選挙になる。そのあとでしょう。あの想像を越える津波を目の当たりにしたあとで、なぜ想像を越えた被害が日本を襲うとだれも予想しないのか僕にはまことに不思議でなりません。
2011年03月19日
広瀬隆がマスコミは想定外を繰り返すが、これは津波の被害予測を低く見積り、安全性をないがしろにしてきた東電をかばうロジックにすぎないと指摘しています。
「マグニチュードが当初8.4→次に8.8→最後に9.0に修正されてきたことが、疑わしい。原発事故が進んだために、「史上最大の地震」にしなければならない人間たちが数値を引き上げたのだと思う」
http://diamond.jp/articles/-/11514
あとで訴訟問題になったとき、津波被害を予想できたか否かが争点になる可能性がある。そのとき、想定外の大地震とした方が東電には有利になる。あるいは、有利とは違うが、存在価値を問われるような機関はほかにもおおくある。そういうひとたちが想定外を主張するために数字を操作し、マグニチュードを引き上げたということのようです。
たしかに一利あります。
「マグニチュードが当初8.4→次に8.8→最後に9.0に修正されてきたことが、疑わしい。原発事故が進んだために、「史上最大の地震」にしなければならない人間たちが数値を引き上げたのだと思う」
http://diamond.jp/articles/-/11514
あとで訴訟問題になったとき、津波被害を予想できたか否かが争点になる可能性がある。そのとき、想定外の大地震とした方が東電には有利になる。あるいは、有利とは違うが、存在価値を問われるような機関はほかにもおおくある。そういうひとたちが想定外を主張するために数字を操作し、マグニチュードを引き上げたということのようです。
たしかに一利あります。
2011年03月18日
プロ野球の開幕を中止・延期したら東京の中小企業はドミノ倒し式に連鎖倒産するでしょう。
プロ野球の下請けだけのことをいっているのではありません。「不謹慎」の概念にだれも逆らえなくなり、ありとあらゆる経済活動が困難になるためです。
まちがいありません。
野球なんかやっている場合ではないというひとがいますが、この不謹慎主義は三次災害となって東京、関東、いや日本の中小企業を直撃し、日本経済に大打撃を与えるでしょう。
そしたら、被災者は復興債務を背負った上に職がなくなります。政府の補助だけでは到底復興はのぞめなくなるでしょう。
読売グループは大嫌いですが、ここはなんとしてでも踏ん張ってもらって開幕してもらいたいと思います。
これ以上被害を拡大させないために、経済活動をどんどん再開させていきましょう。
プロ野球の下請けだけのことをいっているのではありません。「不謹慎」の概念にだれも逆らえなくなり、ありとあらゆる経済活動が困難になるためです。
まちがいありません。
野球なんかやっている場合ではないというひとがいますが、この不謹慎主義は三次災害となって東京、関東、いや日本の中小企業を直撃し、日本経済に大打撃を与えるでしょう。
そしたら、被災者は復興債務を背負った上に職がなくなります。政府の補助だけでは到底復興はのぞめなくなるでしょう。
読売グループは大嫌いですが、ここはなんとしてでも踏ん張ってもらって開幕してもらいたいと思います。
これ以上被害を拡大させないために、経済活動をどんどん再開させていきましょう。
2011年03月17日
南直哉というお坊さんがいます。
見た目は若いふつうのお坊さんですが、早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店で勤務、その後19年間の修行生活を経て、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代に就いた、変わった経歴の持ち主で、発言をきくと、これがなかなか切れ味鋭い。西洋哲学を勉強していることがよくわかる、合理的な論弁を振るいます。僕はブログなんかもちょくちょく見て、好感をもっていました。
しかし、3月15日に更新された南直哉のブログは首を傾げたくなります。
東北大地震が発生したとき、霊泉寺にいたらしいのですが、テレビをつけて、車が津波に飲み込まれる瞬間を目撃した。このときなにを感じたか南直哉はこう告白しています。
「このとき私が思っていたことは、なぜ、彼はあそこで運転していて、自分はそれを畳の上でただ見ているのだろうか、ということでした。逆になぜ、彼がここにいなくて、自分があそこで運転していないのか。この違いは何なのか、何がそうさせているのか」
僕はこれを読んだとき、戦後、空襲や戦争を生き延びた人間がよく口にした台詞を思い出しました。「なぜアイツが死んで、オレが生きているのか」
この台詞は戦後生まれの人間が戦争体験者の口からきいた言葉の中でも頻度が最も高い台詞だったような気がします。
僕はこれをきくたびに、生き延びた人間にどんな特権があると思って、こんなことをいうのかといつも不思議でした。戦争体験という自分にはない体験なので、とりあえずそんなものかとやり過ごして済ましてきました。
しかし、今回は違います。すくなくとも東日本の人間はほぼ全員被災者です。「なぜアイツが死んで、オレが生きているのか」なんて問いはありません。津波に飲まれたか飲まれなかったか、この差は単なる偶然です。そんな高尚な問いはないと僕は感じます。選ばれて生きているのではなく、たまたま生きているのだと、それが僕の思想です。
南直哉はこのあと、ご丁寧にこの台詞が自分自身の体験に由来するものであることをイクスキューズとして述べます。小学校の4、5生の頃、ナイジェリアの内戦をテレビで見たとき、「どうしてぼくはテレビのこちら側で、あの中にいないのだろうと思っていました。目の前のおやつと彼らの飢えの違いは、いったい何なのか」と思ったというのです。
南直哉は1958年生まれだそうなので、たぶん違うのではないでしょうか。これは戦争体験者の台詞の刷り込みでしょう。
そしてさらに、こういう大惨事が起きて、諸行無常を感じた南直哉はそらみたことかとヨーロッパ合理主義の批判に走ります。
「もう一つ考えたことは、地震「予知」とか原発「制御」とか、「想定内」の事象などというような言葉に象徴される、あらゆる対象をそれぞれに思いどおりに操 作することが、人間にとって可能で意味ある、善いことなのだという、17・18世紀ヨーロッパ近代発のアイデア、我々もそれに乗ってここまで邁進してきた 道のりに、完全に限界がきたということです」
これまた戦後さんざんいわれてきたことです。西洋哲学を勉強した人間ならだれでも知っていますが、ファシズムを体験したヨーロッパの哲学者は戦後、こぞってヨーロッパ啓蒙思想の限界を浮き彫りにしてみせたのです。
未曾有の大災害に見舞われ、ここでこそどんな発言をするのか問われる重要な局面で、戦後耳にタコができるくらいきいた台詞、批判をしかいえないのか、ガッカリです。
もうすこし頭のいいお坊さんかと思っていました。
見た目は若いふつうのお坊さんですが、早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店で勤務、その後19年間の修行生活を経て、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代に就いた、変わった経歴の持ち主で、発言をきくと、これがなかなか切れ味鋭い。西洋哲学を勉強していることがよくわかる、合理的な論弁を振るいます。僕はブログなんかもちょくちょく見て、好感をもっていました。
しかし、3月15日に更新された南直哉のブログは首を傾げたくなります。
東北大地震が発生したとき、霊泉寺にいたらしいのですが、テレビをつけて、車が津波に飲み込まれる瞬間を目撃した。このときなにを感じたか南直哉はこう告白しています。
「このとき私が思っていたことは、なぜ、彼はあそこで運転していて、自分はそれを畳の上でただ見ているのだろうか、ということでした。逆になぜ、彼がここにいなくて、自分があそこで運転していないのか。この違いは何なのか、何がそうさせているのか」
僕はこれを読んだとき、戦後、空襲や戦争を生き延びた人間がよく口にした台詞を思い出しました。「なぜアイツが死んで、オレが生きているのか」
この台詞は戦後生まれの人間が戦争体験者の口からきいた言葉の中でも頻度が最も高い台詞だったような気がします。
僕はこれをきくたびに、生き延びた人間にどんな特権があると思って、こんなことをいうのかといつも不思議でした。戦争体験という自分にはない体験なので、とりあえずそんなものかとやり過ごして済ましてきました。
しかし、今回は違います。すくなくとも東日本の人間はほぼ全員被災者です。「なぜアイツが死んで、オレが生きているのか」なんて問いはありません。津波に飲まれたか飲まれなかったか、この差は単なる偶然です。そんな高尚な問いはないと僕は感じます。選ばれて生きているのではなく、たまたま生きているのだと、それが僕の思想です。
南直哉はこのあと、ご丁寧にこの台詞が自分自身の体験に由来するものであることをイクスキューズとして述べます。小学校の4、5生の頃、ナイジェリアの内戦をテレビで見たとき、「どうしてぼくはテレビのこちら側で、あの中にいないのだろうと思っていました。目の前のおやつと彼らの飢えの違いは、いったい何なのか」と思ったというのです。
南直哉は1958年生まれだそうなので、たぶん違うのではないでしょうか。これは戦争体験者の台詞の刷り込みでしょう。
そしてさらに、こういう大惨事が起きて、諸行無常を感じた南直哉はそらみたことかとヨーロッパ合理主義の批判に走ります。
「もう一つ考えたことは、地震「予知」とか原発「制御」とか、「想定内」の事象などというような言葉に象徴される、あらゆる対象をそれぞれに思いどおりに操 作することが、人間にとって可能で意味ある、善いことなのだという、17・18世紀ヨーロッパ近代発のアイデア、我々もそれに乗ってここまで邁進してきた 道のりに、完全に限界がきたということです」
これまた戦後さんざんいわれてきたことです。西洋哲学を勉強した人間ならだれでも知っていますが、ファシズムを体験したヨーロッパの哲学者は戦後、こぞってヨーロッパ啓蒙思想の限界を浮き彫りにしてみせたのです。
未曾有の大災害に見舞われ、ここでこそどんな発言をするのか問われる重要な局面で、戦後耳にタコができるくらいきいた台詞、批判をしかいえないのか、ガッカリです。
もうすこし頭のいいお坊さんかと思っていました。
2011年03月16日
震源が南下することにより、いまや東北関東大震災ではなく、列島大震災となりつつあります。
いやすでに列島大震災と呼ぶべきしょう。昨晩の東海地震でもう揺れていない地域はないでしょうから。
そして、いま注目しなければならないのは震源の位置。東北が海底だったのにたいし、昨晩のは陸。震源が海底か陸かで恐れるものが違います。海底なら津波、陸なら火山。
富士山は爆発しませんでしたが、このまま震源が南下して九州に行ったとき、位置が陸なら桜島が噴火する可能性は十分あります。そしたら、被害は甚大。
しかし、こうやって恐ろしいものを考えると切りがありません。津波や火山よりさらに恐いものがあります。感染症です。津波や火山は物理的現象ですが、感染症は病気なので、死者の数は1万人とか2万人のレベルじゃ済まなくなる可能性があります。
さらには夏になり、去年のように暑くなれば日射病だって恐い。電力が不足して、クーラーが使えなくなるなんて事態になれば、たぶん熱射病による死者が続出するでしょう。
これに大雨による洪水、逆に干ばつによる作物被害なんかが加わろうものなら、ディザスタラスな状況になります。
地震、津波、火山、感染症、日射病、洪水、干ばつ。この中で一番恐ろしいのはなんでしょうか。
人間の心にひそむ闇なんてものもあります。
それにはなにより計画停電、交通の混乱、株価の下落、あるいは増税により不便が生じても、愚痴をいったり、ひとを恨んだりせず、いま被災地で困難に直面しているひとたちのことを思いやれるかどうかが鍵になるでしょうか。自分の身の上に降りかかる不幸ばかりを考えていると、イライラして心の闇に飲まれてしまいます。
正気を保つためにも思いやりが一番です。
いやすでに列島大震災と呼ぶべきしょう。昨晩の東海地震でもう揺れていない地域はないでしょうから。
そして、いま注目しなければならないのは震源の位置。東北が海底だったのにたいし、昨晩のは陸。震源が海底か陸かで恐れるものが違います。海底なら津波、陸なら火山。
富士山は爆発しませんでしたが、このまま震源が南下して九州に行ったとき、位置が陸なら桜島が噴火する可能性は十分あります。そしたら、被害は甚大。
しかし、こうやって恐ろしいものを考えると切りがありません。津波や火山よりさらに恐いものがあります。感染症です。津波や火山は物理的現象ですが、感染症は病気なので、死者の数は1万人とか2万人のレベルじゃ済まなくなる可能性があります。
さらには夏になり、去年のように暑くなれば日射病だって恐い。電力が不足して、クーラーが使えなくなるなんて事態になれば、たぶん熱射病による死者が続出するでしょう。
これに大雨による洪水、逆に干ばつによる作物被害なんかが加わろうものなら、ディザスタラスな状況になります。
地震、津波、火山、感染症、日射病、洪水、干ばつ。この中で一番恐ろしいのはなんでしょうか。
人間の心にひそむ闇なんてものもあります。
それにはなにより計画停電、交通の混乱、株価の下落、あるいは増税により不便が生じても、愚痴をいったり、ひとを恨んだりせず、いま被災地で困難に直面しているひとたちのことを思いやれるかどうかが鍵になるでしょうか。自分の身の上に降りかかる不幸ばかりを考えていると、イライラして心の闇に飲まれてしまいます。
正気を保つためにも思いやりが一番です。
杉本彩がブログで先に紹介した動物愛護団体エンジェルズに不穏な噂が流れており、自分のところに誹謗中傷が渦巻いていることを告白、なぜエンジェルズの活動を支援するのか理由を述べております。
僕は杉本彩を支持します。
http://ameblo.jp/sugimoto-aya/
僕は杉本彩を支持します。
http://ameblo.jp/sugimoto-aya/

