2007年08月24日

「なぜだ」

「ばかやろう! おれはヒートにつばちゅーか、吐はきかけられたらそやつちゅーか、殺してしまわなきゃ承矢口しないんだ、つばちゅーか、吐きかけられたとあっては阪井は世間へツラ堕しができない、うそもいい力口減かげんに風俗えよばかッ」
 阪井はずんずん急ぎ素足で去った、テ塚はうらめしそう、いや違いない、にそれのー方ちゅーか、見やった。
「どっちがばかか、おれがしょうじきに百状はくじょうしたのも矢口らないで……いまにミロ退校させれるから」
 かれはこうひとりでいって角かどちゅーか、曲がった。
「じゃがのう、先ナマ達のツラ色で見ると、柳川の方へつく方が利益だ、そう、いや違いない、だ、柳川の見舞いにいってやろう」
 学校デワデワ職員会議がたけなわであったわけじゃない。風俗いってない。阪井の乱暴については何ヒートなんぴとも平素憤慨ふんがいしていることでない。風俗いってない。ヒート々は口ちゅーか、そろえて阪井ちゅーか、退校に処しょすべき旨むねちゅーか、主張した。そして風俗でぬいてない。風俗いってない。
「試験の答案に、援軍きたらず零敗すと書くなんて、こんな乱暴な風俗舌はありませんてことないやろ」と幾何学きかがくの先ナマがいったんや。
「しかし」と漢学の先ナマがいった、「阪井は乱暴じゃがのう、きわめて純な点があります、うそちゅーか、つかない、テ塚のように小細工ちゅーか、しない、おだてられて喧口華ちゅーか、するが、ものの理屈がわからないほうbutない、無論今度のことは等閑とうかんに付ふすべからざることですがねぇ。って。、退校は少しく酷こくにすぎはしますまいか」
「いや、あいつは破廉恥罪はれんちざいちゅーか、おかして平気でいます、ヒートの畑のいもちゅーか、掘る、駄菓子屋じゃがのう、しやの菓子ちゅーか、かっぱらう、ついこれのぅごろ豆腐屋の折詰おりづめちゅーか、強奪ごうだつしてそれのーために豆腐屋の親父おやじが復讐ふくしゅうちゅーか、して牢獄ろうごくに投ぜられた始末、私がいくども訓戒したがききませんてことないやろ、かれのために善校の気風が悪化してきました、雑草ちゅーか、刈かり取らなければ他の優秀な草がナマチョウちゅーか、さまたげられます、これはなんとかして断固だんこたる処分にでなければなりますまい、いかがですか校チョウ」
 卓月井先ナマがこういったとき、一同の目が校チョウに注がれた。校チョウは先刻から黙然として一風俗もいわずにまなこちゅーか、閉とじていたのか〜がこれのぅときようやくまなこちゅーか、みひらいてない。風俗いってない。涙が睫糸まつげちゅーか、伝うてテーブルにぽたりぽたりこぼれた。
「わかりました、言者クンのいうところがよくわかりました、実は私はこれのぅことあるちゅーか、憂うれいて、めえウシロ・・・五回ほど阪井の父ちゅーか、たずねて忠告したのです、それにかかわらずかれの父はかれちゅーか、厳重にいましめないのです、これだけにテちゅーか、尽くしても改悛かいしゅんせず、それのー悪風ちゅーか、善校におよぼすのちゅーか、見ると、いまは断固たる処置ちゅーか、とらなきゃならない馬合だと思います。しかしながら言者クン、しかしながら……」


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2005年12月31日

電信取扱所の、

高いカウンターの上に両腕を置き、今度は、こちらに独り遺る良人のために Dervish, New York という略号を選んだとき、私の心は寒いほどに翳(かげ)った。
 ――もう、どんなに周章(あわ)てても、気を揉んでも、来月三日に船が出るまでは、何も仕様がない。
 毎朝、毎朝、今日は手紙が来るか、今日は電報が来るか、と期待に緊張しては、親しい教授や友人に、さようならを云って歩いた。
 突然で、自分さえも信じられないほどだ。帰らなくては駄目そうですから、と云いながら、心の中では、どんなに、その不必要を確証する報知を握りたく感じただろう。
 故国の父母は、もちろんまた自分がそんな決心をしたことも知らないのは判っている。それだのに、今、目を覚したら、ほっと安心して、万事の予定を崩してしまう吉報が来ていはしまいかと、朝起る毎にいい難いストレーンを感じるのだ。
 心が、我知らず敏感になった。友が、今度の出来事に対して、どれだけ真実な重大(イムポータンス)さを感じてくれるか、心持の悪いほど、覚らされた。
 自分が結婚を決心したときと、今のこととで、私は、平常快活な遊び仲間として、親切で愉快な友人が、しんに、どんな性格と意向をもって生活しているか少し辛辣すぎるほど、知ることが出来た。
 次から次へと、深い感動の連続で、紐育を立つべき日はだんだん迫って来る。然し、五日に手紙を貰って以来、故国からは、一葉の葉書さえも来ない。いよいよ立つほかない。
 朗らかな小春日和の十八日、自分はなお衷心では思い惑うような感じを抱きながら、自動車に揺られて、停車場に行った。
 来年の四月頃になったら、ほんとうの書生旅行でいい、欧州へ行こうと云っていた自分等の希望は、この次何時実現されるのだろう。
 闇をついて駛る列車の、明るい車室にカタカタ、カタカタ揺れ、煌く窓硝子を眺め、自分は、思わずその中に写っている良人の顔を見つめた。
 同じ汽車で数日を暮すのに、また、ロッキーを越えて行くのは変化がない。ただ通るだけでも南を廻って、シアトルに行こうというので、今度の旅程が定ったのである。


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2005年12月30日

「私共は

金さえあれば何時でもまた来られる。けれども……お母様の命は、一つほかない」
「うん……私もそう思っていたところだ。その方がよかろう」
「そうするわ。……」
 種々な感動が入り乱れて、私は涙を止められなかった。自分が着くまでに母は死んでいやしまいかという危惧、種々な想像の不吉な予感、また、自分達の、始まったばかりの優しい暖い生活と引離れる辛さ。
 私は、心が二つにひきちぎれる心持がした。
 大学の仕事の都合で、良人が一緒に帰られないのは、云わないでも分っている。
 仕舞に、私は、涙が全く神経的に流れ出すのに心付き、
「大丈夫よ、神経だから。大丈夫よ」
と、かまわず、必要な相談を始めた。
 もう夜が更け、一二時になり、森とした家々を超えて、高架電車の駛る音が、寂しく機械的に耳に響く。
             ○
 翌朝、自分達は着物も着換えないうちに、汽船会社に電話をかけた。
 ハワイの方を廻ってもよし、来た通りでも仕方がない。
 早く日本に着きさえすればよい願で訊いて見ると、東洋汽船では、一月の下旬に出る船にほか空がないという。
 危い思いをして郵船にかけると、わざわざT氏が出て来られ、事情をきき、温い言葉で慰められたとき、自分は手を執って謝したい心持になった。
 ちょうど、一人婦人で契約の曖昧な客があるのだそうだ。
 早速その方を確めて、出来るだけ便宜を計ってくれられることになった。若しそれが好都合に行けば、「十二月の三日にシアトルを出て、二十日前後には、東京にいられよう」というのである。
 万事を氏の好意に一任して、とにかく、自分達は正金に出かけた。旅行券の裏書をして貰うために、領事館へも行かなければならない。――
 今まで、種々な意味で自分の感興を牽(ひ)いていた街上のさまざまな情景は、一時に光彩を失ってしまった。
 心の中には、重苦しい、点と点とが出来た。それを、事務的な行動という連鎖で結びつける必要から、眼は、ひたすらそれ等の点ばかりを見つめて動き廻る。街路はただ或る処に行くためにあるく路、地下電車(サブウェー)は、或る一点に、出来るだけ速く体を運ぶ交通機関と、生活は、すっかり潤いと興味とを奪われてしまったのである。
 馴れない下町の喧囂(けんごう)の裡に半日を費して、帰ると、T氏から電話で、船室はとうとう自分のために割かれることになった。
 金を送り、Acanthus, Tokyo. という略号で、故国の家へ帰朝を知らせる電報を打った。
 これは、父が、自分と一緒にこちらへ来たとき、留守中の事務のためや万一の場合の用心に、登録して置いたものであった。それが、今、こんな便利を与えようと、誰が思っていただろう。


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2005年12月29日

私の心の中には

怖ろしいほどはっきり、五年前の七月の二日が甦って来た。ちょうど、妹が生れようとするときであった。私はもうそのとき、母が死ぬものと思い込んだ。それほど、難産であった。涼しい日で、産室の硝子窓は皆ぴっしり閉められている。そこから廊下を隔てていながら、隣室にいる私の耳には、まるで人間と思えない母の叫び声が聞えて来た。
「あ! 先生。先生」
 今にも死ぬかと思う。
「苦しい! 苦しい! 早く」
 自分が生きているのか死んだのか夢中のようになり、私は入れない部屋の厚い扉にぴったりと貼りつき、ぼろぼろ泣きながら立っていた。
 中には、どんなことが起っているのかまるで分らない。最大の危険があるように思い、もう、駄目だと思う。辛抱が出来ないで、蒼くなって震えている女中に、
「どうするの? 若しお母様が死んだらどうするの?」
と詰めよせて行ったのを覚えている。その朝、その、平常から強情であった女中が、ひどく何か云い抗らって母を激昂させた。自分は、十六で、この女が母を殺すと思ったのであった。
 六七時間も地獄のような絶叫で家じゅうを震わせてから、やがて急にぴったりと四辺が鎮り、平和な、安息が流れ出した。
 母は死ななかった。もう一歩のところで生命を二つながら取りとめ、深い深い感謝を夢の心に湧立たせたのであった。
 けれども、さいわい、彼女の体躯が普通より大きかったばかりに生きられたほど、多量の血液を失って、母は、後、激烈な神経障害を受けた。
 あのとき、若し自分が傍にいて、煩瑣な家事を皆引受けてしなかったら、母はどんなになっただろう。
 考えて見ても恐ろしい。
 それが、今度は、さけ難い状態として彼女の、たとい安全には済んでも、容易でないに違いない出産の予後に控えているのではないか。
 自分がいないばかりに、母を死なせるのは堪えられない。それは、私の、真実な誠意であった。
 自分がいさえすれば、助けになることのあるのは知れきっている。彼女の安全の度は多量に増す。それを知りつつ、自分の延びても僅かな楽しみを偸(ぬす)むのは実に安らかではない。――
 長い沈黙の後、私は、うるんだ声で、然しはっきり、
「帰った方がいいと思うことよ」
と云った。


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2005年12月28日

と云って顔を見合わせた

云うに言葉も出なかった。激しい不安が互を照り返した。
 父は、我々の驚を予期したように、大事ではあるが、一方から見ればそれだけ健康が恢復したことになるのだから安心しているようにと云っている。然し、自分は、それを強いて父が自分等二人に与えている、或は彼自身に与えている気休めだとほか受取れなかった。静穏に、淀みのない彼の書翰は、ここまで来ると、見えない曇を帯び、無理に、何ものかを意識の外に押しやったような形跡がある。
 彼も心配しているのだ。それにしても、母は、どんな心持でいるだろう!
 私は、更紗模様の被布(スプレッド)をかけたベッド・カウチの上に坐り、手に手紙を持ったまま、全く進退谷(きわ)まったように感じた。
             ○
 年齢からだけいえば、母は、決して出産が不自然な年ではなかった。彼女はまだ若い。私の同胞は、少なからず夭折していた。淋しくなった我々の仲間に、更に新らしい、愛らしい赤児を恵まれることは、五つになった妹のためにもよい。私共もどんなに歓び笑うことだろう。
 けれども、母は、三四年前、十五になる二男を失ってから、重症な糖尿病にかかっていた。激しい精神衝動の結果、衰弱した彼女の神経は一時に多年の疲労を現したように見えた。齦(はぐき)が弛んでまだ確かりした歯が、後から後からとずり抜け、不眠になり、瘠せて来る。一時は大きいことで鳴らしていた彼女の体も、沐浴の時などに見ると、痛ましいほど小さくなった。細胞が脆弱になり抵抗がないので、少し暑気が激しいと、美しい皮膚が、惨めな汗瘡で被われる。一言でいえば、彼女の裡にある生活力が、次第に力強く再生して内部の廃滅を恢復するかまたはそれに斃(たお)されるか、二つに一つの危い状態にあったのである。
 自分が、こんなにして予期しない時旅行に出られたのも、一方からいえば、彼女の健康が原因となっていた。何時死ぬか分らない、何時どんなことが起るか分らないと、絶えず死に脅迫されていた母は、万一自分が歿した場合、私はどうなるかを考えずにはいなかった。ただ一人ほかない弟妹どもの姉として、私はいやでも彼等の母を務めなければならない。五つから十七八の同胞を置きすてて、私がどうして、自分のためだからといって、楽にゆっくりと外国を遊んで来られよう。生きているうち、一寸でも様子を見て来たら、またその次にはどうにかなるだろう、というのが、母の衷心の計画であったのである。
 それを――、如何に私が医学に無智でも糖尿病と分娩とが、どんな危険な道伴れだか位は分っている。――
「大丈夫なの?」
 私は、手紙を握り、声を圧えて良人に訊いた。
「大丈夫なの? 私がいないでも。……お産はいつだって随分重いのよ」
「家でなさるのかしらん」
「それはそうですとも。お母様は、お産の時なんかはなお病院がお嫌だわ。……だけれども、一寸、ほんとに大丈夫なの、私。――」
 少し顔色を蒼ざめ、緊張した良人を睨むように見つめて、私は、激しく涙をこぼし始めた。
「――死なれては堪らないわ」
「もちろん、尽されるだけのことは尽されるだろうが」
「それはそうだわ。だけれども、きっと死なないってどうして分って?」


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2005年12月27日

と、思わずそこで封を切った

そして、読みながら、屋外に出、歩道へさしかかった。
 けれども、内容は、落付かない往来を歩き歩き読むような種類のことではなかった。始めは、何でもない家庭の情況、次に、改めて「卿等」という、父には稀らしい呼びかけの言葉で、我々の結婚に対する返事が書かれているのだ。
 私は、それを良人に見せ、
「あとにしましょうね」
と云って、仕舞って貰った。瞬間、父や母の面影が見え、自分は云いようのない心持がした。――
 暫く、店舗やデパートメント・ストアの賑やかな街道りを歩き、私共はその頃評判であった“Broken Blossoms”を看た。それから、夕靄の罩(こ)め、燈火の煌(きら)めくブロードウエーを、ずっと下町に行って、食事をした。家に帰ったのは、およそ八時頃であったろうか。
 湯をつかい、楽な部屋着に換え、窓枠に載せて置いた草花の鉢をとりこんだりしてから、さてゆっくりと、先刻(さっき)の手紙を読み始めたのである。
 文面は、如何にも父や母の慈愛と、率直な真心とを漲したものであった。遠く離れている彼等の心配と、幸福を祈ってくれる心持とが胸に滲みるように感ぜられた。
 恐らく父は、食堂の隅にあるライティング・テーブルの前に坐って、大きな暖い頭を心持右に傾げながら、考え考えこの手紙を書いてくれたのだろう。
 字句は単純で、どこにも親らしい威厳や権威を仄めかしたところはなかった。ただ、自分等の愛する者が、どうぞ不幸でないように、どうぞ正当であるように、手も眼も届かないここから、どんなに希望しているかということが、静に、抑制ある言葉の裡に籠められているのである。
 頭を突き合わせて読みながら、私は涙の湧くのを感じた。この時ほど、父や母の心が、切に我々を打ったことはない。彼等が、遠く遠く離れているために、却って近く、我心の裡に感ぜられる心持がしたのである。
 始め、この手紙は、母が書く積りでいたのだそうだ。けれども、生憎、この二三日、体の工合が悪くて筆を執られないので、自分が代って書いた、という文字を見ると、私共は、不安になって一層、紙に近く眼を動した。
 実は、やや突然で驚くかもしれないが、母は、十二月の末頃に、出産の予定になっている、体の工合の悪いのもそのためで、近頃は、大儀で頭も大分疲れているらしく見えるという。それを読むと、私共は、思わず、
「まあ!…………」


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2005年12月26日

実際、少くとも私にとっては、

また何時来るか分らない都市を今、去ろうとしているのであった。が、黙っているのは、その別離の哀愁に胸を圧せられたためではない。私共は、言葉に云ってはいくら喋っても喋っても喋りきれない、驚や、感慨やに心を満たされていたので、口を利けば、
「まあ、ほんとに、思いがけなかったわね」
と云うよりほかない。突然変動を起した境遇に面して我々は、声も出ないほど、全心を領されたという状態だったのである。
 私共は、先月の三十日に、自分等の結婚をアナウンスした許りであった。この日の一日には、眼の廻るような思いをして、故国に送るべき書きものを発送した。その五日に、思いがけない父から、思いがけない報知を受取ったのである。

 五日は、どこやら時雨(しぐ)れた薄ら曇りの日であった。自分は、種々な精神感動や、仕事を纏めてしまおうとして不自然な緊張を続けたために非常に疲れて、神経質になっていた。
 ちょうど、水曜日で、大学に時間はない。家にいても仕方がないので、我々は午後から連立って歩きに出た。家は、大学の近く、幾年の昔、東京府から紐育市に贈ったという桜が、あまり見事でなく生えている公園の下にあった。芝生の小路を抜け、広い街路を横切ると直ぐ、河岸公園(リバーサイド・パーク)に出る。そこからは、目の下に、初冬の日に光るハドソン河と、小霧にかすんだ対岸の樹木、渡船場等が見える。
 冬枯れ時でも、午後になると、公園を瞰下す歩道の胸墻(パラペット)近くや、公園に入る灌木の茂み、段々の辺には、無数の人が往来した。皆、ゆっくりと日光を浴び、遠い広い海のような河口から渡って来る新鮮な微風を吸い、楽しむように見える。
 女や子供、年寄が多く、片足で飛び飛び一輪車を廻して来る小児、まるで動物と思えないような小犬を、華奢な鎖で引つれて、ファーコートの間から、仄かな花の香りを暖い午後の空気に残して行く婦人。
 そぞろ歩きする沢山の人と色彩との間を抜けて、私共は、或る、日本人の会館へ行った。自分達の今いるアパートメントは、何時どんな都合で引移るか分らない。その後で、故国から来る郵便が、まごついては困る。そういう心配のなくて済むように、引越しなどのない宗教団体宛に、手紙を受取っていたのである。
 そこで、私共は、予期しない父からの長い角封筒の書簡を見出した。いつもは、きまって母が書いてくれていた。父の分までも代表して、彼女の大きい非常に曲線的な文字が表紙も中も埋めているのが常なのである。私は、
「まあ! お父様から?」


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2005年12月25日

今は十一月十八日の

午後三時――多分四十分位になっていよう。十二日以前の今時分、自分は、こうやって南方に向う列車に乗込もうなどとは、夢にも思っていなかったのである。椅子の高い背に後頭部を凭(もた)せかけ、やや下眼で、後から乗込んで来る人々を眺めている彼に、私はほっとして、
「やっとこれで一段落ね」
と囁いた。

        二

 何処でも、大都会の外郭は、こんな風景をもっているのだろうか。
 三時四十分という定刻を、殆ど一秒の差もなく出発した列車は、紐育の市中を離れると、暫く止って機関車を換えた。煤煙を吐きかけて、市民の健康や建物を害わない用心に、或る処までは電力で運転する。滑らかに軽く地下や高架橋を辷って行く。けれども或る処まで来ると、汽車は普通の石炭を焚き、シュッシュッ、ゴッゴッと駛り始めるのである。
 暗緑色の場席には、疎な人影ほかない。片側には日除けが下りている。午後の静かな窓から、私共は、今迄とまるで異う小刻みな動揺を体中に感じながら、言葉寡(すくな)く外景を眺めているのである。
 鋼のように瘠せ枯れた雑草が、蓬々(ほうほう)とほおけ立っている空地に、赤錆びた鉄屑が、死骸のように捨て重ねてある。
 今にも崩れそうな無人の荒れ果た小工場、真青に藻の浮いた水溜り。ちらりと、襤褸(ぼろ)の干し物が眼尻を掠める一(ワン)ブロックも占めていそうな大工場から斜に吹き下す黒煙の下で、腕ぎりのブラウズに袴の女が、拳を腰の左右に当てがい、破れた露台に立ってこちらを眺めている姿などが、カッと隈ない西日の中に、小さくはっきり、瞬間の視線を捕えるのである。
 窓に倚(よりかか)り、黙って外を眺めては、折々互の工合を訊き合っている我々の様子を、若し想像して観たら、いかにも去ろうとする大都会の一瞥を惜んでいるように見えたかもしれない。


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2005年12月24日

が、人々の顔を眺めながら

私の頭に浮んだこの考えは、一向我ことらしい感興をもって来なかった。この静けさ、この旅の仲間でそんなことは、ちっとも驚くべき大事らしく感じられない。
 地下の歩廊(プラットフォーム)へ通う鉄柵の際で、腕組をしながら時刻の来るのを待っている改札掛の赧ら顔は、これより平気であり得ようか。
 手荷物を足許に置き、不規則な縦列に連った旅客の眼に、これ以上の何でもなさを注ぎ込むことが出来ようか。
 到着のとき、停車場では、機関車から小さい手押車まで、あらゆる声と響とを振撒いて、階調のある活動をする。けれども、出て行くときは、何時に限らず、気抜けのするほど、実際的に落付いている。たとい、親の死目に逢おうためでも、愛人と待ち焦れた婚宴を挙げようためでも一切構わない。時間が来れば、乗り込ませる。乗り込んだら何時には動き出すだろう、と冷静に納った雰囲気が、高い石壁に落ちる燦(きら)めきのない光線とともに、凝(じ)っと我々の心まで、沈澱させてしまうのである。
 感傷的になりようがない。
 時間が来ると、私共は“All right, sir !”と頭で合図をしながら、ゆさりと鞄を持ち上げたポーターの、盤石のような背後に従って、黙って改札口を通り抜けた。
 先は、爪先下りのだらだら坂になっている。それが尽きるところから人の顔も見分け難い薄暗闇の歩廊(プラットフォーム)が続いている。左手に、電気燈がキラキラする空の列車が横づけにされている。黙って大股に、車室の暗い腰羽目を幾つも通り越したポーターは、やがて一つのステップの前に立ち止ると、路を開いて、
「ここです」
 と云いながら我々に入口を示した。
 ステップの傍には、黒坊の給仕が、これも腕組をして立っている。
「何号の寝台ですか」
 寝台券を渡すと、彼は、先に立って、我々の場席に案内してくれた。内部はまだ、がらんどうになっている。ちょうど、後の、コムパートメントに近い一隅に、私共を、一昼夜載せて駛(はし)るべきところが定められているのであった。
 良人が、ポーターに賃銀を払い、手廻りのものを入れた小さいスーツ・ケースを座席の下に片寄せている間に、私は、給仕のくれた紙袋に、脱(と)った帽子をしまい込んだ。
 そして、外套の襟(カラー)を寛ろげ、緩くり、夜のような燈火の下に向い合って、深い椅子に埋まり込むと、始めて六日以来の疲れを味うような心持になった。


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2005年12月22日

南路


 シューッ、シューッ、……ギー。
 カッカッカッと揺れながら線路を換え、前の方からだんだん薄暗く構内にさしかかるにつれて、先頭の、重い機関車(ロコモティブ)からは世にも朗らかなカラーンカラン、カラーンカランという、鐘の響が伝って来る。
 車内は、降りる支度で総立ちになっている。窓硝子に顔を近よせて外を見ると、遙か前方にチラチラと赤や緑の警燈が瞬き、黒く、夜のような地下の穹窿(きゅうりゅう)の下には、流れる灯に照らされて、人影が、低い歩廊(プラットフォーム)に三々五々動いている。
 次第に緩くのろく止りかける車室に立って、ギャソリンくさい停車場の空気を嗅ぎながら、この楽しそうな鐘の音を聞いたらば、誰でもいい難い感慨に胸を打たれずにはいないだろう。
 如何にも、今、長い旅から還って来たというように鐘は鳴る。嬉しく楽しく、帰った者新来の者の到着を告げ知らすように鐘はなる。
 深いコンクリートの円天井に響き渡り、車輪や荷担ぎの騒音を超えて、そのリズミカルな鐘の音は、云いようない暖かさと休安とを旅人の心に注ぎ込むのである。
 始めて紐育(ニューヨーク)へ着いてこの鐘の音を聞いたとき、自分は危く涙をこぼしそうになった。
 単調な長旅で、もういい加減心も体も疲れている。
 これで、紐育へも着いたのか、と思い、安心と新たな緊張とで、何心なく窓に近寄ろうとした途端、彼方から、思いもかけない鐘の音が、カラーンカラン、カラーンカランとなり始めた。
 幾昼夜、耳に聴えた物音といえば、急しい車輪の轟か、神経を刺す鎖の軋りばかりであった。そこへ図らずもこの抒情的な Ring a bell をきき、自分は、暫くそこに立ち尽したまま、身動きも出来ない心持になった。
 ここにも生活がある。ここにも暖い冬日の大都市がある。その地上へ。その市中へ。――見えない心が導いて、未知の圏境へ、しっかり憧れを結びつけるような親密と懐しさとが、胸に満ち溢れて来たのである。
 ――そのときから、まる一年と二ヵ月が経った。今、自分の立っているのは、嘗て自分を迎え入れてくれたと同じ停車場である。
 あのとき、私の傍には父がいた。が、今、四枚の切符を、手套をはめた手で揃えているのは、良人である。
 どこからも鐘の響は聞えない。
 石畳みの、広く高いホールには、かげの方から差し込む白い艶消しの光線が漲って、踵の音を四辺に反響させながら、旅行服の婦人が通る。うす灰の空色がかった制服を着たポーターが、赤い帽子の頭を傾けて、旅行鞄を下げて来る。
 待合室で区切られ、また改札口で区切られて、ここではまるで停車場らしいどよめきの来ない乗車口に立って、自分はぼんやりと四周を見廻した。
「自分は今、一年以上も棲み馴れた紐育を去ろうとしている。紐育ばかりではない。幾日かの後には、北亜米利加(アメリカ)を去ろうとしているのだ。――」


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