山城Love☆

お城とカメラが大好きな山城女子です^^
仕事と家事の合間を見つけ、体力の低下を感じながらも、デジイチ片手に気になる山城を見つけては登城しています♪
最近では、地形や古戦場、護衛艦など興味が拡大中ですw
城ガール隊の隊長として、城学と藪の中を邁進中~♫

信長公の東美濃侵攻を歩く~堂洞合戦編~

ぬはっす~流星☆です( -д-)ノ
さすがに連日更新は無理でしたぁ
その分、今回は気合い入れて綴っていこうと思います

 織田信長公による東美濃侵攻の舞台となった堂洞城
この時の戦いは、江戸時代に入ってから「堂洞軍記」「南北山城軍記」などで描かれました。
これらの軍記物と、信長公記を辿りながら、今回も旅を進めていきました

堂洞城は、加茂郡富加町にあります。
周囲にゴルフ場があり、その中にある尾根に城がありました
 富加町郷土資料館で、城までのアクセスが書かれた地図をもらうことができます
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 写真の貯水タンクが目印です
ここに2台ほど車を停めることができます
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貯水タンクの北側に城への入口があります(黄色の矢印
堂洞城へのアプローチは南からということになります
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獣除けに電流が流れている線が設置してあり、そこを通って進んで行きます。
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整備された尾根道があり、道なりに進んでいけば主郭に到着します
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主郭は、山頂を平坦にしただけのようにも感じました。
周囲に土塁が築かれたような感じもなく、虎口も見当たりませんでした
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堂洞城と関係あるのか不明な石碑。

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説明板は朽ちて読めなかった
加治田城みたいに、立派な説明板がコチラにもほしいところ

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主郭の手前には、堀切らしき部分があります

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ゴルフ場がよく見えます

主郭から南西方面を散策してみました。
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写真のような岩がゴロゴロしていました
礫岩の一種かと思われます
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自然地形で、ココから先は何もなそうな雰囲気だったので引き返しました

次は、主郭から北へ向かって散策
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一瞬、虎口かな?と思いましたが、後世の道だと思われます

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見晴らしは悪いですが、加治田城がある梨割山が木の隙間から見えます

堂洞城で城友さん達が気になることといえば…

二の丸入り口にある高い建物の上に太田牛一がただ一人で上がり、無駄矢もなく矢を射かけていたのを信長が見て、「小気味よい見事な働きである」と、三度も使いの者をよこした。称賛して、知行を増やしてくれた。     (信長公記より)

果たして、二の丸とはどこなのか…

余談:信長公記の著者である太田牛一氏は自身の著書である「信長公記」の中で3回登場するそうで、その中の一つがこの堂洞合戦でした。
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主郭の北側、やや小高くなった部分がありました。
現地では当初、ココが二の丸か?と感じました
この部分が、信長公がいたと思われる場所から見えるのでは?と思ったからです

しかし、信長公は堂洞城の北側にある加治田城を救援するべく出陣しています
信長公は猿啄城から、北へ向かって出陣しています。
となると、信長軍は堂洞城を南側から攻めたということになるため、この場所ではないということになります

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堂洞城の主郭へと向かう道の途中に、開けた空間がありました。
帰りにココを通りながら、「ここが二の丸なのかも」とみんなで話していました

この堂洞城、二の丸がどこにあったのかも謎ですが、私は「堂洞城がいつ築かれたのか?」という点も気になっていました

この堂洞城に入っていたのが、岸勘解由氏と息子の孫四郎だと伝わっています。
岸氏はもともと佐藤姓だったらしく、加治田城の佐藤紀伊守とは縁戚関係だったようです。
いつから岸姓を名乗ったのかは定かではありませんが、天文十三年の加納口の戦い後に道三公からいただいた感状では既に岸姓になっているそうです。

この岸氏については、よく知られていないそうです。
この辺りにある「蜂屋」という地名に居住地があったと伝わっています。
「堂洞軍記」や「南北山城軍記」を読むと、『堂洞城主 岸勘解由』と冒頭から登場します。そのため、堂洞城というのが元々あったように捉えてしまいがちです。
反信長の盟約を結んだ長井氏は関城(または金山城)、佐藤紀伊守は加治田城の城主なのに、岸勘解由氏も城主でないと変だとも感じます。
長井氏は、佐藤紀伊守や岸氏よりも立場的には上なんでしょう。となると、岸氏がどこかの城主でなくてもおかしくない。岸氏は蜂屋という地域の土豪で、堂洞城を築いた際にそこに入ったというのが自然なのかな

もし、堂洞城が以前から存在した場合、立地的に謎な点が出てきます。
加治田城と堂洞城がとても近すぎだと思うのです。
堂洞城が加治田城の出城ならともかく…ですが、私が加治田城の出城を築くなら、堂洞城がある位置ではなく加治田城がある梨割山の西尾根先に築くかな
また、岸氏が城主となるのなら、もっと蜂屋の中心部に築いた方がいいのでは?とも思いました。

堂洞城を実際に訪れてみて、伊木山城と同じく居住性を感じませんでした。
曲輪らしいものは主郭のみで、長期間生活するための空間はありませんでした
加治田城を攻めるためだけに築かれた付城という気がしました

反信長の盟約を結んだにも関わらず、斎藤家に勝ち目はないと時代を読んだ佐藤紀伊守が信長公に内通します。そのため、佐藤紀伊守の居城である加治田城を長井氏が攻める。その間に岸氏らが加治田城を包囲するための砦を築く…それが堂洞城なのではないかと思いました。
長井氏と岸氏に囲まれ窮地に陥った佐藤紀伊守が、信長公に救援を要請したことで「堂洞合戦」へとつながっていく…という感じでしょうか

信長公は佐藤紀伊守だけでなく、岸氏にも調略を試みたようです。
しかし、岸氏の斎藤家に対する忠義は厚く、調略にきた信長公の使者の前で幼い孫を手にかけたと軍記物では書かれています
また、岸勘解由氏の息子へ嫁いでいた佐藤紀伊守の娘を竹槍で刺し、丸山に立てかけたという悲しいエピソードも書かれています
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資料を参考にして、地図を眺めたところ「長尾丸山伝承地」はこの辺りではないかと…

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加治田城からは、本当に目と鼻の先です

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加治田城の主郭からも、この辺りはよく見えます。
最愛の娘の悲しい最期を、この場所から見た佐藤紀伊守の心情が辛い…

佐藤紀伊守の家臣が、夜に姫の亡骸を取り戻し龍福寺に弔ったと伝わります

堂洞城はというと、信長公の命により松明を投げ入れられ城は焼崩れました。
息子の孫四郎は討ち取られ、勘解由氏と妻は自刃したと伝わっています。

先日、美濃加茂市・富加町・坂祝町が、この信長公の東美濃攻略をPRするべく漫画を出版されました
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『夕雲の城』というタイトルで、信長公と佐藤紀伊守の内通に従事した崖 良沢氏(岸良沢、梅村良沢などの名前で登場する史料もあるとのこと)を主人公にして描かれており、堂洞合戦ももちろん登場します
マンガなのでとても分かりやすい
さらには登場する人や城の説明、史料に基づく解説などが掲載されており、とっても勉強になる1冊です
ハードカバーで頑丈なのに、定価500円とはお得すぎる

美濃加茂市役所などで購入可能だそうですが、数に限りがあるようなので気になる方はお早めに

念願だった堂洞合戦の舞台に立てて、感動しました
そして、皆さんと歩くことで新しいことも浮かび上がったりと楽しい旅になりました

でも、この旅記録はまだまだ続きます 

※記述内容は、個人的見解ですのでご理解のほどよろしくお願いいたします。

旅メモ

堂洞城


岐阜県加茂郡富加町夕田1016
駐車場:給水タンク横 トイレ:なし

富加町郷土資料館

岐阜県加茂郡富加町夕田212
駐車場:あり  トイレ:あり
開館時間:9時~16時  休館日:月曜日
入館料:無料だった気がする

信長旅日:平成29年4月1日


 

信長公の東美濃侵攻を歩く~加治田城~

ぬはっす~流星☆です( -д-)ノ
連日更新は難しそうですが、記憶が曖昧にならないうちに綴っておこうと思います

美濃国は、斎藤義龍氏が急死。
その後を龍興氏が継ぎました。しかし、国政を顧みず遊びふけっていたとのこと。
そのため、長らく仕えていた西美濃三人衆は愛想をつかして離反したと伝わります。
「堂洞軍記」にはそのことが記述されており、次いで東美濃の連中は反信長の盟約を結んだと書かれています。反信長の盟約を結んだといわれているのが、斎藤道三公の弟でもある長井隼人氏、そして岸勘解由氏、佐藤紀伊守忠能氏の三人です。 
道三公、義龍氏と代々従って戦ってきた三人、斎藤家に対する忠義はとても厚かったのでしょう。
そんななか、信長公と内通していたのが佐藤紀伊守忠能氏です。

佐藤紀伊守が信長方へ与したことで、信長公の東美濃侵攻は一気に加速したと思います。
また、「堂洞軍記」として描かれる堂洞合戦が幕を開けることになりました。
この堂洞合戦については、後日まとようと思います。

今回は、佐藤紀伊守が城主を務めていた加治田城を訪れました
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―加治田城 遠景―

富加町の梨割山の尾根にある加治田城
山の麓にある清水寺に車を停めて登っていきます

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風情ある山門の手前に、登城道を示す案内板がありました。

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案内板に従って林道を歩いて行くと、砂防ダムに到着します。
砂防ダムの脇にある階段を登っていくと、山に入ります。
(この砂防ダムまで車で行けそうな気がしましたが、車両通行禁止のようでした)

山の中を歩いていくと、あちこちで岩盤が露出していました
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この辺りは、岩山が多いのでしょうか

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チャート層は、石垣のようにも見えます

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隣を流れる沢を眺めつつ、所々ある案内板に従って進んで行きます。
すると、分岐点に到着しました。
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城の西側から回り込むルートと、北側から直登するルートに分かれます。
私たちは、近道の直登ルートを選択しました
登山道に幾つかある丸太の橋は滑りますので、ご注意を)

城の西側で両方のルートは合流しました。
ココから主郭を目指して、東へ登って行きます。
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岩がゴツゴツしていて、歩きにくい部分があります
また、そこまでちゃんとした登城道もありませんでした

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二段の平坦地があり、ご丁寧に「曲輪」と書いてあるのを見つけました

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虎口っぽい

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主郭には立派な説明板が設置されていました。

主郭のさらに東側にも平坦地が築かれていました。
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主郭の下の段には、「石積」という看板とともに石積みがありました
この部分は虎口のようです
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城への導入路は、クランクしています
コチラ側が大手にあたるのだろうかと感じました

この虎口部分から下は、かなりの切岸でロープを伝って斜面を下りました
そして、南側と東側に竪堀が設けてありました。
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―竪堀―

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先ほどと同様に「竪堀」という案内板が設置されていました
東側の方がなだらかな山になっているようです。
そのため、竪堀を複数設け、さらに高い切岸で防御性を高めているのだろうと感じました

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また、加治田城がある梨割山は富加町で標高が一番高いそうです
城の南側には、敵となった堂洞城を見下ろすことができます。
この距離感には、思わずゾクゾクしました

山の麓に、佐藤紀伊守屋敷跡があるということで探してみることにしました。
「上之屋敷」という地名があり、現在は公民館となっていました。
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もともとは加治田小学校が建っていたようで、石碑がありました。

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小学校跡の石碑脇に、佐藤紀伊守居館伝承地という案内板がありました。
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廃校跡だったのがよく分かります。
奥の方には遊具が設置してあり、地元の子供たちが元気よく遊んでいました

この周辺を歩いたら加治田城があった頃の町割りや、城下町の名残が感じれるような気がしました。
今回は時間の都合でじっくり散策することができなかったので、いつか再訪しようと思います

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また、麓には永禄10年に佐藤紀伊守が創建したと伝わる龍福寺があります
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佐藤家の菩提寺でもあり、佐藤紀伊守の肖像画などを所蔵しているそうです。
また、佐藤紀伊守のお墓があると聞きました。
みんなで探しましたが、見つけることができませんでした

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しかし、ここに岩村城主だった丹羽氏の末裔の墓地があるのは知りませんでした

龍福寺も、合わせて再訪しなければ…と思います

加治田城を訪れてみて、佐藤紀伊守は時代も地形も読める人だったんだろうなぁ~というのが率直な感想でした

余談ですが、この日の夜はご一緒した城友さん達と恒例のギフナイト☆
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現地を訪れたうえでの考察や、織田信長公について、熱く語りました
他にも伊勢参拝、富士山信仰のねらいなど、幅広いテーマが飛び出し話は尽きませんでした
浪漫溢れる会話と城友さん達と過ごす時間の楽しさを、改めて感じるのでありました…

次回の記事では、「堂洞合戦」について自分なりにまとめてみようと思います


信長旅メモ

加治田城


岐阜県加茂郡富加町加治田
駐車場:あり(清水寺) トイレ:駐車場にあり

佐藤紀伊守屋敷伝承地

岐阜県加茂郡富加町加治田755
駐車場:あり

龍福寺

岐阜県加茂郡富加町加治田135-1
駐車場:あり

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酒の肴は、胡瓜が必須‼

信長旅日:平成29年4月1日

 

信長公の東美濃侵攻を歩く~猿啄城~

ぬはっす~流星☆です( -д-)ノ
前回から「信長公による東美濃侵攻」関連地を巡った旅記録を綴っています

美濃入りし伊木山城に陣を構えた信長公、次に狙ったのは猿啄城でした

猿啄城は、標高265mの急峻な山で、木曽川と迫間川に囲まれています。
また、麓には東山道が走っており交通の要衝でもありました。

麓の駐車場に車を停めて、30分程度ひたすら山登りです
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トイレの奥に登山道入り口があります。
(ちなみに、山頂にトイレはないので麓で済ませておきましょう
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 案内板に沿って進んでいきます
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麓には河尻肥前守の碑がありました。

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 猿啄城がある山は松茸が取れるみたいで、9月15日~11月15日は入山禁止みたいです
メッチャ山城シーズンやん

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 傾斜はあるものの、登山道は整備されています。
ちょっと道幅が狭い部分がありますので、すれ違う際は注意してください
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途中で二手に分かれる部分があります。
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右側(黄色の矢印)は階段道、左側(赤色の矢印)は比較的なだらかな坂道でした。
(私は初めてだったので右から登り、左から下りました。左側から登った方が楽だと思います)

分かれてた道も再び合流し、平坦地に出ます。
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 ちょうど北西に位置しており、二段の曲輪がありました。
ここからさらに登って行くと、主郭に到着します
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現在、主郭には展望台が設置されています。

 展望台からの眺望は素晴らしく、疲れが一気に吹き飛びます
きっと、この景色が見たくて登ってくる人も多いんだろうなぁ~
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 御嶽山が綺麗に見えました
現在でも噴煙が上がっているように見えます
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 遠くには白山も眺めることができました

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 反対側は遠くに名古屋の高層ビル群、そして伊木山城や小牧山城もしっかり見えました
 
周囲の平野を見渡せることができる猿啄城、攻略しようとした信長公の気持ちが理解できた気がしました 。

しかし、この急峻な山に築かれた猿啄城を、信長公はどのようにして攻略したのでしょうか

信長公記によると、『猿啄城、飛騨川へ付きて、高山なり。大ぼて山とて、猿啄の上には、生茂りたる嵩あり。或時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上させられ、水の手を御取り候て、上下より攻められ、即時につまり降参、退散なり。』という記述があります。

「大ぼて山」とは、どの山をさすのだろうか
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 先日、富加町で開催された講演会を拝聴した際、「大ぼて山は猿啄城より高く、西の方にある」と講師の方が仰ってました。
写真は、猿啄城から西側にある山の風景です。
一番左側の山、ぼてっとしていて「大ぼて山」っぽいですね 

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 よ~く眺めてみると、縦走ルートが見えたので進んでみることにしました
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 主郭の法面には、石垣も残っていました

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 そして、見事な堀切です
猿啄城より西側にある山々からの侵入を防ぐには、とっても重要です

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 ゴツゴツした岩が露出した山の斜面を登って行きます
この岩、チャートだろうなぁ~
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 登ってみたら、完全に猿啄城を見下ろす位置に
ココに敵方の旗が並んだら、猿啄城の人達は戦意喪失するのでは?と思える 
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 遠くには富加町が見え、東美濃侵攻の舞台ともいえる堂洞城、加治田城も分かります

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 猿啄城獲ったなり~
この山が「大ぼて山」ではないかと、現地に立ち感じました(個人的見解です)

この時に猿啄城にいた多治見一党は、堂洞城へ退散したと伝わっています。
そして、猿啄城を攻略したことは幸先がいいということで、信長公はこの城を「勝山城」と名付けたそうです。そして、河尻秀隆氏をこの城に入れました。(だから、麓に河尻殿の碑があったんですね)
「勝山」という地名が現在でも残っていました。

そして、気になるのが「水の手」です
このチャートで形成された岩山に、果たして水の手があるのだろうか?というのが素直な感想

そして、山の上で同行した城友さんが推理した結果、「大ぼて山に登り、水の手を断って攻めた」のではなく、①大ぼて山を占領する、②水の手を断つ、という2つの手段を用いて猿啄城を攻めたのではないかと…
さらに『水の手を御取り候て…』との文章から、『御取り候』⇒信長公が水の手を取ったのではないかとも…

となると、水の手がどこにあるのか非常に気になる
『美濃雑事記』にある絵図には、城の南側に「水の手」という文字がありました。
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(地図アプリ GMapTools使用)

絵図を参考に、現在の地図を眺めてみると南側に沢らしきものがありました。
もしや、これが水の手だろうか…

また、「美濃雑事記」には『山七合目二古井戸アリ』という記述があるようです。
この岩山を掘って水を引くのは難しいのでは…
どちらかというと、岐阜城のように岩盤を伝って雨水を溜める井戸に近いのでは?と思いました 
その井戸が水の手なのかも…

何はともあれ、昔の記述を参考に現地であーでもない、こーでもないと語るのが醍醐味ですね
本当のことは誰にもわからないと思うけど、だからこそ楽しいというか
それでも、昔の記述に登場する描写が、現代でも感じることができるのは素敵なことだと思います

いい趣味と仲間を見つけて良かったなぁ~と素直に感じた旅になりました
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 なんか、完結した文章の感じですが、東美濃侵攻巡りはまだまだ続きます

 
城旅メモ

猿啄城

岐阜県加茂郡坂祝町勝山
駐車場:あり(第1、第2とあります) トイレ:あり(登山道口にあり)
標高265m(比高200m)
  
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―手乗り猿啄城―

信長旅日:平成29年4月2日 
史跡☆写真館
  • 信長公の東美濃侵攻を歩く~堂洞合戦編~
  • 信長公の東美濃侵攻を歩く~堂洞合戦編~
  • 信長公の東美濃侵攻を歩く~堂洞合戦編~
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  • 信長公の東美濃侵攻を歩く~堂洞合戦編~
livedoor プロフィール
ようきてくんさった♫
  • 累計:

自己紹介♫
城旅開始 2011年1月より


2017年の初訪城 34城

2017年の総訪城 49城



今までの訪城 449城

複数回の訪城含めると677城

(2017年4月2日現在)



日本百名城 69/100城

(2017年2月12日現在)

岩村城 13訪城



【流星☆プロフィール】

城ガール隊 隊長

(北陸東海支部長)



城友会(軍師)



サイガ塾



ブラタモ部 ST部



城郭数寄者



古事記倶楽部



週末城旅人

愛する城:岩村城

好きな城:琉球のグスク

好みの傾向:実際に戦った城

※塹壕、仕寄、土塁線に萌える傾向あり



岐阜県ファンクラブ会員

岐阜県の城にたくさん行きたい!でも、単騎できない小心者

岐阜県の城歩き、いつでもご一緒します♫
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