2015年05月07日

Bill Graham & The Rock & Roll Revolution

 グレイトフル・デッドを追いかけていると否が応なく顔を出すのがビル・グレアムだ。グレアムがとりしきったフィルモア・オーディトリアムとその後継である東西のフィルモア、それにウィンターランドは自他共に認めるデッドの「ホーム・グラウンド」だった。長いツアーから帰って、フィルモア・ウェストやウィンターランドで「ツアーの疲れを休める」こともあったらしい。それだけではなくて、グレアムが仕掛けたデッドのコンサートは数知れないし、それには様々な目的に向けての慈善公演も多数含まれる。例えば1972年8月27日、オレゴン州ヴェネタで行われたライヴで、ケン・キージィの牧場救済資金調達のために開かれたこのコンサートは映像としても捉えられ、《SUNSHINE DAYDREAM》としてリリースされている。グレアムは主催者としてあちこちに出てくる(灼けつくような天気のこの日集まった2万と言われる聴衆のほとんどは金を払っておらず、資金集めそのものは失敗し、デッドは自腹でキージィに寄付したそうだ)。


 

 そのビル・グレアムの初の大規模な回顧展がこのタイトルのもと、ロサンゼルスの Skirball Cultural Center で5月7日から10月11日まで開かれるそうだ。オープニングにはミッキー・ハートがライヴをする。

 上記サイトの該当ページでは1970年フィルモア・イーストでのオールマン・ブラザーズ・バンドによる〈Whipping Post〉のライヴ映像を見ることもできる。有名なライヴ盤収録とは別のヴァージョン。

 デッドが活動を始めた時にはすでに30代だったグレアムは、デッドがその中から生まれてきたハイト=アシュベリィ文化とは一線を画す。かれ自身はLSDやポットには手を出さない。フィルモアを「禁煙」にしてもいる。

 1931年、Wulf Wolondia (Wolfgang) Grajonza としてベルリンで生まれたかれは、1939年、ナチスを逃れてパリの孤児院に送られる。そこから徒歩、バス、列車でリスボンへ逃れ、さらにカサブランカ経由でダカール、そしてニューヨークへ辿りついたとき、出発時64人いた孤児は11人になっていた。ブロンクスでギャンブラーとして育ち、徴兵されて朝鮮戦争に従軍、ブロンズスターを1個受け、不服従で2度軍法会議にかけられた。アメリカとヨーロッパを放浪しながら役者になろうとして1950年代を過ごし、サンフランシスコに吹き寄せられる。演じる側から演じさせる側に入るのは、60年代前半、ラディカルな演劇集団 Mime Troupe のマネージャーになってからだ。グレアムが主催した最初のロック・コンサートは1965年11月6日、マイム・トループ所属の俳優たちの裁判費用を調達するためのもので、これがグレイトフル・デッドの公式デビューでもあった。展覧会はこのイベントの50周年とグレアム最大のイベントの一つ「ライヴ・エイド」30周年を記念する。

 面白いのは、グレアムは聴衆に対しても挑発的で、フィルモア・ウェストではヤードバーズの前座にセシル・テイラーをもってきたりしている。デッドの前座にチャールズ・ロイドを呼んでいるし、後にはマイルス・デイヴィスを呼ぶ。もっともこういう人選は、地元のミュージシャンたちの要望に積極的に耳を傾むけた結果でもあるらしい。ロイドはガルシアとレシュが求めたものでもあった。グレアムはプロモーターである前にまず音楽マニアでもあったのだろう。

 グレアムには自伝があり、邦訳もある。2004年に新版が出ている。(ゆ)


yosoys at 09:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック イベント