2017年08月08日

シニフィアン・シニフィエ@公園通りクラシックス、渋谷

 久しぶりのシニフィアン・シニフィエ。昼間のふーちんギドとはまあ百八十度とはいわないが、九十度は異なる。もっとも表面的には違うにしても、底流のコンセプトは案外近いかもしれない、とハシゴをして思う。もっと言えばきゃめるなんかとも通底するところがある。細部まできっちりアレンジされながら、最後はミュージシャンのその日の調子、聴衆の反応、天候などに左右される。アレンジをしている分、音楽の「ハプニング」の部分が顕わになる。うまくいかないという部分も含めての「ハプニング」だ。

 うまくいったところだけでなく、うまくいかないところも音楽の一部、不可欠の一部なのだ。そこに人間が現れる。ミスをするから人間なのだ。ミスは人間の証拠であり、音楽を人間がやっていることの証拠だ。うまくいかなかったところはうまくいったところを輝かせる。そしてうまくいったところはうまくいかなったところを好ましく見せる。

 もう一つ。演る側はうまくいかなかったと思ったところが、聴く側では基準から外れたゆえに面白く感じられることがある。

 ふーちんギドとシニフィアン・シニフィエが共通するところは、やってみようという実験精神が動機になっているところだ。チューバとドラムスだけでやったらどうなるのか。そこに、鍵盤ハーモニカを入れてみたらどうなるか。このリズム、あのビート、とにかくやってみる。クラシックを作曲家指定の編成から外したらどうなるか。クラシックではありえない編成でやってみたらどうなるか。後者がシニフィアン・シニフィエのコンセプトだが、このバンドがバッハと現代曲をレパートリィとするのは、主宰の shezoo さんの嗜好もさることながら、そういう実験がまずやりやすい、というのは効果がわかりやすいだからではないか。そこにはバッハと現代作家、ここではペルト、ジョン・ケージ、リゲティ、ショスタコヴィッチ、あるいはバルトークなどだが、両者に似たところが多いこともあるだろう。おそらくは、意識するしないとは別として、現代作家たちがバッハをエミュレートとしている。少なくとも手本としているのは、ベートーヴェンやシューベルトやブラームスではない。どうみてもバッハだ。言い換えれば、現代作家たちの曲を裸にしたときに現れるものは、バッハのものに似ている。

 今回の「新曲」はメシアンの「世の終りのための四重奏曲」で、これを6人でやる。もっとも原曲を構成する10曲のうち、とりあげたのは3曲で、それを全部全員でやるわけではない。最も印象的だったのは「鳥たちの深淵」で、これはクラリネットのための名曲のひとつとされるが、土居氏のクラとゆかぽんのマリンバのデュオでやる。

 ゆかぽんのマリンバはマリンバとしては最大のもので、5オクターヴある。以前、横浜のエアジンで「マタイ受難曲」をやったときの楽器も大きく見えたが、これはそれよりもさらに一回り大きいらしい。となると音も大きい。響きが深い。これはかなり強力な楽器だ。木の板をマレットで叩くわけで、金属の線をハンマーが叩くピアノとは当然音は違うが、響きの深さではピアノはマリンバの敵ではない。するとマリンバは広い空間をうみだす。原曲がオケのためのものだと、このマリンバのつくる空間が粋な効果を生む。おそらくはこの最大サイズの楽器で初めてマリンバは本領を発揮するのだろう。ゆかぽんはもともとマリンバ専攻なのだが、あんな真剣な表情で演奏するのを見るのは初めてだ。「マタイ」のときはほとんど斜め後ろからで顔は見えなかった。

 土居氏はふだんはばりばりジャズをやっているそうで、どうしてこのバンドに参加しているのか、不思議なところもあるが、ジャズをやるのとは別の面白さがあるのだろう。原曲があり、アレンジも決められているところでやる面白さ、俳句や短歌のような制限があるところでうまれる自由だろうか。shezoo さんによれば、土居氏の演奏はジャズ出身者らしく、思いきりのいい、歯切れのいいもので、そこがこのバンドにはふさわしい。クラシック出身のクラリネット奏者だとどうしても音の出が遅れるのだそうだ。これは伝聴研の傳田さんがしつこく言っていることと同じことなのかしらん。たぶん同じことは壷井さんのヴァイオリンや水谷氏のコントラバスにも言えるんじゃないか。

 対照的に加藤さんはクラシック出身なのだが、音の太さと出せる音の種類が豊冨なのが面白い、と shezoo さんは言う。サックスはクラシックでは冷や飯を喰わされてきたから、それでもサックスでクラシックをやろうという人は、独自のものを創る傾向が強いのかもしれない。オーケストラに入れないことが、かえって有利に作用することも、今ではあるだろう。サックスでアイリッシュのダンス・チューンをものの見事に演奏してみせた山崎明さんの例もある。〈ゴールドベルク〉をこれまたものの見事に換骨奪胎してみせたクローバー・サクソフォン・カルテットの例もある。


SAXELT サクセルト
山明
TOKYO IRISH COMPANY
2015-03-22


ゴルトベルク変奏曲
クローバー・サクソフォン・クヮルテット
キングレコード
2014-10-22



 現代曲はなぜか演る方も聴く方も緊張する。一瞬も気が抜けない。否応なく引きこまれる。漫然と聴けない。これが同時代性ということか。われわれが生きている世界と直接つながっている。その本質をつきつけてくるからか。それでもジョン・ケージの〈ドリーム〉はこうして演奏されるとほんとうに美しい。マリンバがまるでガムランだ。それにやはりアルヴォ・ペルトは shezoo さんの好みということもあるが、あたしはオケ版よりも楽しめる。小編成であることと相俟って、曲との距離が近づく。楽曲のポイント、おいしいところ、聴き所がはっきりする。それに今回の〈ルダス〉もそうだが、shezoo さんならではの遊びの気分がいい。

 それがバッハになるとなごむ。一気にゆるむ。ほとんど癒しだ。バッハの楽曲がとりわけゆるく作られているとも思えない。癒しを目指していることもないはずだ。これはやはりバッハの音楽がわれわれの生きているこの時空とは一度切れているからではないか。言ってしまえば関連性、英語でいう relevance が無いのだ。普通は関連性が無くなると聴けなくなる。つまらないからだ。バッハは聴いて面白い。関連性が無いのに面白いところが、古典ということなのだ。古典を聴く、あるいは読むのが肥やしになるのは、同時代から離れることができるからだ。ふだんどっぷり漬かって身動きもならないところから離床することができる。関連性があるものだけでは自家中毒になるし、ないものばかりでは栄養失調になる。両方必要なのだ。

 「マタイ」をこのバンドでやると楽しいのは、原曲が歌のものを器楽でやるからでもある。メロディの美しさ、面白さがよくわかる。今回は加藤さんのバリトン・サックスが大活躍。澄んで豊かにたっぷりとうたうその音色もバッハがなごむ大きな要因かもしれない。

 などということも、このバンドを聴いていると湧いてくる。ここでとりあげられた楽曲も聴いてみたくなる。shezoo さんのプロジェクトの中ではライヴの回数が一番少ないものだが、これはもっと聴きたいし、これこそは録音を出してほしい。年内にどうやらもう一度がライヴがあるらしい。(ゆ)

シニフィアン・シニフィエ
shezoo: piano, arrangements
壷井彰久: violin
土井徳浩: clarinet
加藤里志: saxophones
水谷浩章: contrabass
ゆかぽん: percussions, marimba



yosoys at 10:34|PermalinkComments(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック イベント