2009年05月22日
DiVa@白寿ホール
アンコールの3曲は圧倒的だった。それまでにも何度もハイライトがあった。というより、今夜はハイライトでないところがない。尻上がりに良くなってゆく。背筋に戰慄が走りっぱなしで、ついには涙が出てきた。その末でのアンコール。3人の完璧なコーラスで〈うたっていいですか〉がうたいおさめられ、俊太郎さんが「百三歳になったとき、アトムは……」と読みだして、ああ、今日はあのうたが聞けるのだ、とほっとした。百三歳になったアトムが、生まれたままの顔で、自分には魂があるのかと悩む、コミカルで哀しい詩から、賢作さんがおなじみのイントロを弾きだす。ゆっくりとゆったりと、高瀬さんがうたいだす。ホールの良さか、高瀬さんの調子が良いのか、声がハスキーにかすれてゆくところがきれいに聴きとれる。今日の高瀬さんの声はほんとうによい。伸びるときは伸び、うたが盛り上がって賢作さんが力いっぱい叩くときも、声量がピアノにまったく負けていない。けれど、この〈鉄椀アトムのテーマ〉は静かに、ひそやかといいたいくらいにうたわれる。ジャズとしてうたわれるとこのうたがどんなにすばらしいかはレコードでも十分思い知らされたが、今日のこれはどうだ。「はずむ心」をもち、「みんなのともだち」であるかもしれないが、百三歳になっても自分に魂があるか自信をもてない存在の悲しみが、ひたひたと流れこんでくる。アトムとはこんなにも悲しい存在だったのか。このうたはこんなにもその悲しみをストレートにうたっていたのか。DiVa がめざしているのはこういうことなのだろう。うたとしてうたうことで詩にひそむ、あるいは隠れた相をひきだし、聴き手の前に置く。詩はつねに隠れた相を備えている。隠れた相がないものは詩ではない。隠れた相によって詩は詩となる。隠れた相は、読む者にはもちろん、詩をうみだした本人も気づかないこともある。何度も読みなおし、あるいは書きうつして、わかるときもある。うたにうたわれると、詩は詩の平面から離陸し、解放される。隠れていた下腹が見えたりもする。同時にうたにも、音楽の方にも、なにかがプラスされる。おそらくは隠れた相がなにかをプラスする。今日の DiVa の音楽には、そのなにかがあふれていた。俊太郎さんの朗読との相乗効果もあった。とりわけ「うた」と「ごあいさつ」。大坪さんのウクレレやリコーダーの音のキレ。高瀬さんがあやつる各種のパーカッションの粋。賢作さんのピアニカの生意気さ。レコードに参加しているドラムスがいないことに、最初はちょっと残念な気もしたが、すぐにそんなことはまるで気にならなくなった。このトリオのうみだす音楽はユニークだ。そして最高だ。もっとライヴをみたい。(ゆ)