2016年06月05日

「新漫画党」オリジナルメンバーの謎

新漫画党の結成の経緯の記事のつづきですが、
「公式」とは何がどうほんの少し違うのでしょうか?

まず、ウィキペディアでのソースとして扱われている
藤子不二雄A先生の著書「トキワ荘青春日記」をひも解いてみましょう。

「新漫画党」が結成されたという1954年7月9日をみると、
確かに新漫画党の結成の事に触れられています。

引用しますと

名称 新漫画党
同人 五人 (寺田ヒロオ、藤本弘、森安なおや、坂本三郎、小生)
会費 暫定 百円
会計 責任者 寺田氏
会場 持ちまわり

と、ありますので「公式」のソースもたぶんこの記述から取ったと思われます。
ただ大きく気になる点がひとつあります。
そう、日記に永田竹丸先生の名前がなく、同人(党員)が五人となっている点です。

同じく藤子不二雄A先生の著作(正確にはF先生との合作でもありますが)
「二人で少年漫画ばかり描いてきた」にもこのA先生の日記は引用されてます。
しかし、その引用された1954年7月9日の日記には、
前述の「トキワ荘青春日記」とは記述が違っているのです。
そこには同人は六人と書かれていて、
永田先生の名前もちゃんとあるのです。

その他の出来事もこちら「二人で少年漫画ばかり描いてきた」のほうに
引用された日記のほうが「トキワ荘青春日記」に引用された日記よりも
その内容が詳しく書かれております。

これはつまり、当たり前といえば当たり前の話ですが、
A先生は自分の日記を原文そのままで本に載せたわけではなく、
自ら編集をした上で載せているので、多少記述が違ったのでしょう。

では、永田先生の党への加入についてはどちらの
「日記」の記述が正しいのでしょうか?

こちらは事実を元にしたフィクションですが「まんが道」でも
永田先生は新漫画党がトキワ荘で結成された時にその場にいますし、
普通に考えて「二人で少年漫画ばかり描いてきた」にあるように
7月9日に同人6名参加が正確だと、
豊島区の図録を担当された方もそう判断したのでしょう。

しかし、どうやらこれは「トキワ荘青春日記」に書かれているように
7月9日の時点では永田先生は参加してないのが正しいようなのです。

それを裏付ける資料は新漫画党が1961年に出した
機関紙「新漫画党」です。
そこに「しんまんがとうひすとりい青春群像」という連載がありますが
第三号にA先生の件の7月9日の日記が紹介されてます。

こちらの日記はカタカナと漢字まじりで、
細かい内容も前述の二冊とは異なります。
つまり同じ7月9日の藤子A先生の日記が
三種類もあるというややこしい状態という事になりますが、
これは推測ですが、たぶんこちらが原文に近いか原文ママなのかもしれません。

で、肝心の新漫画党員の人数についてこちらの日記には、

同人ハ五名(寺田ヒロオ、藤本弘、森安直哉、坂本三郎、安孫子素雄)

と、書かれていて、永田先生の名前はありません。
「トキワ荘青春日記」と同じという事ですね

では、永田先生はいったいいつ新漫画党に参加したのでしょうか?

その答えは次号の第四号の同連載に、
日記の引用という形ではないものの、きちんと触れておりました。

1954年7月24日、隅田川の川開きの花火大会があった日に
当時藤子不二雄両先生が下宿していた両国(森下)の二畳間で
新漫画党第二回の会合が開かれ、
「この日入会した永田竹丸が参加した」と書かれています。

また「この日は新漫画党第二回目の会合、
正式には全員初めて顔を揃えた第一回目の会合が行われていた」
とも、書かれてあります。
(この会合の様子は「まんが道」でも描かれてますが、
ストーリーの都合上か9月に変更され、そのせいか印象に強く残るだろう
花火のシーンはありませんでした)

この機関紙「新漫画党」は党の結成から7年後の発行で、
党員の記憶も新しく、記述の信用性が高い第一級の資料です。

つまり正確には新漫画党は7月9日にトキワ荘でまずは5名で結成。
それから少し遅れた(なぜ遅れたかご本人の証言がないので不明なれど)
7月24日に永田先生が入党して
新漫画党員は6名になったのですが、
党員はこの日の会合を正式な第一回目の会合と見なしていたようで、
それで混乱してしまった…という感じになったと思います。

ただ遅れて参加したとはいえ、
永田先生は結成前に党への勧誘をされているはずですし、
新漫画党の「オリジナルメンバー」には間違いないでしょう。
そのへんは劇画家のグループ「劇画工房」に遅れて参加した
松本正彦先生が工房のオリジナルメンバー扱いなのと同様の形ですね。

永田先生が参加した7月24日を「正式な結成」として、
7月9日結成というのはいわば「仮結成」だった…とみなす事もできますが、
その9日に「新漫画党」の名称や会費等がいっぺんに決まっていますし、
やはり従来通り新漫画党の結成は1954年7月9日のままでいいと思います。


最後に結論をまとめますと

1954年7月9日トキワ荘にて
寺田ヒロオ先生、藤子不二雄A先生、藤子・F・不二雄先生、
森安なおや先生、坂本三郎先生のまずは五名で新漫画党は結成。

遅れて同年7月24日に両国(森下)の藤子先生の下宿にて
実質的な新漫画党第一回目の会合が開かれ、
永田竹丸先生も党に加入して、党員は六名になった。

と、これが残された資料からみる
「史実」になると思います。

…ですが、ご存命の当事者の先生方にお話をうかがうと、
また違った証言が出る可能性も考えられますね。


yota874harahara at 02:32コメント(2)トラックバック(0)トキワ荘の話 

2016年06月04日

「新漫画党」結成の経緯

坂本三郎先生の一連の記事には大きな反響をいただきました。
この一連の記事がきっかけとなって、
新たな坂本先生の情報が集まって、
そして再評価の声が高まっていく事を期待しております。

もちろん私のほうでも出来る範囲で坂本先生の事および
トキワ荘に関する事を調べていきたいとは思っていまして、
まずは「漫画少年」に寄稿する新人漫画家グループとして発足し、
のちにトキワ荘住人の漫画家たちの親睦グループとなった「新漫画党」について、
とりあえず今回はその結成の経緯を詳しく書いてみたいと思います。

ずいぶん前の話ですが、私はこの「新漫画党」の正式な
第一次解散時期と第二次結成時期について調べ、
(その記事はグーグルで「新漫画党」を検索すると2番目に出てしまうので
恐縮の至りです…)
「第一次と第二次は後に便宜的に分けて語る様になっただけで
明確な解散→再結成という流れは無かった」と、
私は推測したのですが、結局断定は出来ず仕舞でした。

戦後漫画史を語る上で避けては通れない「新漫画党」ですが
「新漫画党」イコール「トキワ荘」と同義に語られる事が多く、
トキワ荘の事を書いた本を色々通してみても、
いまいち分からない「謎」な部分が結構多いのです。
今回はその謎に再挑戦する第一歩という意味合いもあります。

長い前置きはこれくらいにして本題に入りますと・・・

そもそも新漫画党は寺田ヒロオ先生と藤子不二雄A先生との
出会いがきっかけとなって結成されました。

1954年6月28日に藤子不二雄両先生は郷里富山を出立し上京するのですが、
それよりちょっと前の同年春にA先生はひとり下見のために東京に訪れていました。

その時にトキワ荘に住む手塚治虫先生に会いにいったのですが、
手塚先生は仕事が忙しく、編集者にいわゆる「カンヅメ」に
されてしまったがためにA先生の相手はできませんでした。
そんな手塚先生が「すぐもどるから、一晩泊めてやってくれ」と、
同じトキワ荘の向かいの部屋に住まう寺田先生に
A先生をあずけたまま一週間もどって来なかったので、
丸々一週間A先生は寺田先生の部屋に泊めてもらっていました。

そこで二人は意気投合をし、
児童漫画家のグループをつくろうと決めました。
寺田ヒロオ先生の「トキワ荘青春物語」によるとA先生が、
機関紙「新漫画党」の第二号によると寺田先生が言い出したとあり、
どちらが言い出しっぺかはわかりませんが、
とにかくこの二人が出会った事で新漫画党は結成されるのです。

と、いう事でまず寺田先生とA先生。
そしてA先生の相棒の藤子・F・不二雄先生の三人はメンバーに決定しました。
では他のメンバーはどうやって選出されたのでしょうか?

寺田先生は前述の「トキワ荘青春物語」に寄せた回顧録に
「『漫画少年』の特集企画から誕生した新漫画党というグループ」
と書いています。

漫画少年の特集企画とは、
同年1月号から始まった新人漫画家の合同作品のことで、
その企画に参加したのは寺田先生の他には
山根赤鬼先生、山根青鬼先生、永田竹丸先生、坂本三郎先生の計5人。

つまり、自然に考えて寺田先生はこの企画に参加している
新人漫画家全員に声をかけたのでしょう。

しかしこの中で山根赤鬼先生と山根青鬼先生は
お父さんが反対したために新漫画党員にはなりませんでした。

ちなみに山根青鬼先生は近年トークショーに出演した時、
「新漫画党に入ったけど、父の反対ですぐぬけた」といった
発言をされております。

これはたぶん、勧誘を受けた時にOKをしたので、
それをもって「加入」として、父の反対で加入を撤回した事を「脱会」と
いうふうな感じではないのかな…と私は推測しますが、
この辺、山根先生に詳しくお聞きしないとわからないですね。

さて、ここに名前が無い新漫画党オリジナルメンバーの
森安なおや先生の新漫画党参加の経緯ですが、
先輩漫画家の古沢日出夫先生に寺田先生を紹介されてトキワ荘を訪ね、
そこで新漫画党の構想をきき参加するに至ったそうです。

時系列までは詳しくわからないのですが、
もしかしたら山根兄弟が参加しなかったかわりみたいな感じで
寺田先生は訪ねて来た森安先生を誘ったのかもしれません。
まあそれは推測の域をでませんが…

ともかく、こうして
寺田ヒロオ先生
藤子不二雄A先生
藤子・F・不二雄先生
永田竹丸先生
森安なおや先生
坂本三郎先生
計6名の若手漫画家がそろい、
同年7月に新漫画党は結成されました。

豊島区が出した図録「トキワ荘のヒーローたち〜マンガにかけた青春〜」には
7月9日にこの6名で結成されたと描かれてます。

豊島区が出している以上、これが「公式」となるのでしょうが、
いくつかの資料を調べてみると…
これがまたこの「公式」とはほんの少し違ってくるのです。

長文になりましたので以下の記事は次回に書かせていただきます。



yota874harahara at 23:52コメント(0)トラックバック(0)トキワ荘の話 

2016年05月27日

父親としての坂本三郎先生

最後に、
ご家庭で父親としての坂本先生はどんな方だったのでしょうか?

坂本先生はとにかく寡黙な方で、
そうした事からか、ご長男は「怖い」という印象を
父・坂本先生に抱いていて、
よく話す様になったのは高校に入ってからだったそうです。

ただお姉さん(ご長女)からみると父・坂本先生は
母(奥様)や弟(ご長男)に甘いというふうに見えていたそうです。

一人称は「僕」で、物腰が穏やかだったので
職場の人は怒った所が想像出来ないと言っていたとの事。

坂本先生は案外と茶目っ気もある方だったそうで、
怖い絵を描いて机の引き出しに入れておいたり、
寝ている隙にその絵をふたりの子供の
枕の隣においたりするイタズラをしたり
玄関の向かいにリアルなゴキブリの絵を描いては
お客さんをおどろかせたりする事もあったとか。
「まんが道」に描かれた寡黙で真面目な坂本先生の
イメージが変わる微笑ましいエピソードですね^^

「まんが道」といえば、ご長男は友人に藤子先生のファンがいたので
「まんが道」に父・坂本三郎先生が登場している事は
その友人に教えられて知ってはいました。

ネットで「謎」とか書かれていたり
「アニメーター坂本三郎と漫画家坂本三郎は別人説」が
流れている事も知ってはいたのですが、
レスしても「ソースを出せ」と返されるだけだろうと
今までスルーをしていたそうです。

ある時、ご長男が父・坂本先生に
どうすれば絵が上達するか質問した事があるそうですが
そうしたら坂本先生は
「同じものを毎日100回描きなさい」とアドバイスしたそうです。
100冊をこえるスケッチブックに動物デッサンを描いた
坂本先生らしい凄まじいアドバイスといえます。
そしてそのアドバイス通りに、ご長男は同じものを100回描いたという
事ですからまたそれも凄まじい話です。

坂本先生の動物デッサン画こちらの画像はご長男が保管されている
坂本先生の動物デッサンの一部です。

漫画家時代に描かれた絵ではないそうですが、
つのだ先生が証言されたとおりの
本当に正確で精密な
動物デッサン画に圧倒されます!
この素晴らしい絵をナマで拝見できるなんて!





坂本三郎先生は50代の時に一度胸にガンを患われておりました。
その時は手術は成功して、それから検診もしていたのですが、
ある時から今度は腰や背中が痛み出しました。

しかし検査してもわからない状態がつづき、
最終的には立ち上がる事ができなくなり入院。
そこで再検査すると腰より少し高い箇所に
ガンが転移しているのがみつかりましたが、
すでに手の施しようがありませんでした。

坂本先生は抗がん剤を使っての延命治療は選ばず、
痛み止めの処置のみの緩和ケアを選択し、
ホスピス病棟に入院しました。
病院へは漫画家時代・ピープロ時代の友人永田竹丸先生も
お見舞いにきたことがあったそうです。

入院中は寝たきりになりながらも、
ご長男が坂本先生をはげますために持ち込んだノートと色紙を
備え付けの机は小さいため、まるでスケッチブックのように、
若き日に上野動物園で動物デッサンをしていた時のように
手にもって絵を描きました。

看護士やケースワーカーにもその絵をプレゼントしていたので、
しばらく病院にも坂本先生の絵が飾られていたそうです。
(現在も飾られてるか、保管されてるかは不明)
そしてノートには日記やアニメの技法の他、
自分が亡くなった時にその事を知らせる人のリストと、
「葬式不要」という「遺言」が書きのこされました。
その「死亡通知」リストに書かれた名前は9名のみでした。

ひねくれたく坊ノートに最後に記された絵…つまり坂本先生の「絶筆」は
漫画家時代の代表作「ひねくれたく坊」のイラストと
そしてこの「漫画」でした。

「アニメーター」坂本三郎先生が最期に描かれたのが
「漫画」だったという事実を知って私は鳥肌がたつほどの衝撃をうけました。
アニメーターになってからは完成しなかった絵物語を描いた事はあっても
「たく坊」の漫画を描いたのは、
およそ40年ぶりの事ではないでしょうか?
坂本先生は最期は漫画家であろうとしたのでしょうか?

その心境はもう亡くなられた今となってはわかりません。
ただご長男は「漫画自体に思い入れがあったというよりは
たぶん青春時代の思い出としてたく坊を描いたのでは?」と仰っていました。

坂本先生の最期の言葉は、
病院に泊まり込んだご長男にかけた一言
「もういいから寝なさい」でした。

1996年2月23日
坂本三郎先生は家族全員に看取られて、
穏やかにこの世を去りました。

没年60歳。
奇しくもその没年は手塚先生や石ノ森先生と同じでした。

坂本先生の絶筆最後に絶筆となった「ひねくれたく坊」のイラストを
再度貼ります。

画像が小さくわかりにくいと思いますが、そこには
『(ひねくれたく坊)雪ダルマをつくって
病床の作者をなぐさめるの図』
と書き記されてあります。

了。





yota874harahara at 00:26コメント(2)トラックバック(0)トキワ荘の話漫画家に関する話 

2016年05月26日

坂本三郎先生のアニメーター時代

漫画家を引退した後の坂本先生の
アニメーターとしてのキャリアの正確なスタート時期は
はっきりとはわかりませんが、
漫画家・うしおそうじ(鷺巣富雄)先生が中心となり設立した
アニメ・特撮会社「ピー・プロダクション」に在籍し
1964年制作の「0戦はやと」に参加。
この「ピー・プロ」では新漫画党で一緒だった永田竹丸先生も在籍していました。
そして前回のブログで前述したように、ここで出会った女性と結婚。
のちに一女一男に恵まれます。

そして1967年、坂本先生が憧れていた山川惣治先生が自ら
出版社「タイガー書房」を興し、絵物語雑誌「WILD」を創刊。
そこに坂本先生ご本人ではなく、奥様が持ちこみに行き、
それを受けて坂本先生はもともと描きたいと思っていた絵物語を
描きはじめるのですが、作品が完成する前にタイガー書房は倒産(1968年)
「WILD」も廃刊し結局作品は完成しませんでした。

歴史に「もしも」は許されないという常套句を無視して語らせてもらうと
もしも雑誌がつぶれていなかったら、
もしも絵物語というジャンルが廃れずにいたら、
坂本先生の人生は大きく変わっていたかもしれません。

ちなみにサンライズに在籍する前の坂本先生は
自らアニメスタジオをたち上げ、
その頃から低賃金だったアニメーターの待遇を改善しようと
給料を多く支払っていたら、資金繰りが苦しくなったので
畳んでしまったという事もあったそうです。

アニメの仕事は基本自宅でやっていて、
打ち合わせ等、必要な時にしか会社に行かず、
制作進行やその助手が坂本先生のお宅まで
原画を受けとりに来ていたために会社の人でも
坂本先生の顔をしらないという人もいたそうです。

土日関係なく、ほぼ休み無く机にむかい、
ひとつのアニメが終って、次のアニメが始まる間の
「休養期間」も動物画など趣味の絵を描いていたとの事。
漫画家時代の動物デッサンも勉強という意味もあったのでしょうが
「それよりもまず、好きだから描いていたのでは?」とご長男の言。

取材等、メディアへの露出は苦手で遠慮しており、
依頼がきても基本断っていたので、
「漫画関連の取材も特に漫画だったから断ったというわけではないでしょう」
と、ご長男は推測しています。
トキワ荘関連の依頼を断った時には、
奥様が坂本先生に「受ければよかったのに」と言っていたそうですが、
それがCOMの「トキワ荘青春物語」の依頼なのか
NHKのトキワ荘同"荘"会の依頼なのかは定かではありませんが、
その両方とも坂本先生は参加していません。

さて、寺田ヒロオ先生が坂本先生に「漫画少年史」を贈呈したというエピソードですが、
その「漫画少年史」にも坂本先生はコメントを寄せてはおりません。
寺田先生は坂本先生にもう一度漫画を描いてほしいと
希望している内容の手紙も出していたそうです。
坂本先生は寺田先生が酒浸りで引きこもっているという話を聞いて
心配をしていたそうです。

漫画関連だけでなくアニメ関連の取材も断れる限りは断っていたそうなので、
ここまで第一線で活躍していたアニメーターとしては
取材記事や寄稿が少ないのも、こうして理由を知ればうなずけます。
それが故に後年「謎が多い」と評される事にもなるのですが…

メディア露出こそは極端に少ないものの
ファンは大切にしていて、作品をあげてしまう事もしばしばあり、
そのお礼などでファンから作品(同人誌?)が送られてくる事も当然あるわけですが、
その中には後に有名な作家になった方が参加していた本もありました。

坂本先生はキャラクターデザインの設定画に忠実に作画し、
自分の絵柄を出す事は無かったのですが
「暖かみのある絵」だとアニメファンから評されています。

その実力はサンライズ周囲でも評価が高く、
「イデオン」のキャラクターデザインを担当した湖川友謙氏は
当時のサンライズ第一スタジオの力量に不安を感じたので
坂本先生に「イデオン」への参加を要請しています。
その時の事は「頼まれたから移動した」とだけ坂本先生ご本人が
ご長男に話していたそうです。

「イデオン」「ダンバイン」「ザブングル」と
最終回の作画監督を務めたのも、
富野由悠季監督の信頼が厚かったからでしょう。

後年はサンライズを離れてフリーになり、
アニメ制作会社「ライフワーク」が制作協力をしている
「ちびまる子ちゃん」や「少年アシベ2」等
ファミリー向けのアニメ作品の作画監督を勤めます。

坂本先生は自分の関わったアニメ作品を
テレビでチェックする事は特になかったそうですが、
ディズニーアニメは好きでよく観ていたそうです。

若き日は雑誌「ディズニージャーナル」に
イラストを投稿して掲載された事もあるそうです。
(こちらはネット情報)

続く








yota874harahara at 19:47コメント(0)トラックバック(0)トキワ荘の話漫画家に関する話 

2016年05月24日

坂本三郎先生の漫画家時代

坂本三郎先生は1935年5月22日に東京で誕生しました。
戦争中は疎開をしていて、東京に帰ると
家は空襲で焼けてなくなっていたそうです。

母は早くに亡くし、きょうだいは上に早世した歳のはなれた姉がいて
兄がふたり(一郎・次郎)がいたとの事。
坂本先生はその名前からわかるとおり三男でした。

入谷に現存するアパート「金嶺荘」にいつまで住んでいたか、
ご長男も坂本先生から聞いてはおらず不明ですが、
たぶん兄と一緒に住んでいたのではないか…と推測されます。

もともと坂本先生は山川惣治先生に憧れて絵物語作家を志してましたが
当時新人漫画家の投稿を奨励していた伝説の雑誌「漫画少年」に投稿するも落選。
そこで「なにくそ!」と奮起して漫画家になったそうです。
ご長男曰く「一度決めるとそれに真面目にとりくむ人でした」

坂本先生は寡黙な方でしたので自分の事は聞かれない限りは語らず、
隠していたわけではないのですが元・漫画家だと自ら話す事はありませんでした。

ご長男が父が元・漫画家だと知ったきっかけも
家に藤子先生から年賀状が来てるのを不思議に思って質問したら
「お父さん昔漫画家だったんだ」と答えて、それで初めて知ったとの事です。

坂本先生はアニメ制作会社ピー・プロの同僚の女性と20代後半で結婚しました。
当時としては晩婚のほうなので、もちろんご長男はアニメーターとしての父しかしらず
漫画家時代のこともあまり聞かなかったので、
その当時の話はご長男もご存知ない事が多いそうです。

「思えば性格的になぜ父が新漫画党に入ったかがわからない」と
ご長男は不思議に感じつつも
「たぶん漫画家として駆け出しだったので不安だったのかもしれません」
とも推測されていました。

ここで「新漫画党」結成の経緯を書きますと…

新漫画党は1954年、本格的に上京する下調べの為にトキワ荘に訪れた
藤子不二雄A先生が寺田ヒロオ先生と意気投合し、
若手漫画家を集めてグループをつくろうと話した事がきっかけで
同年7月に寺田ヒロオ先生を党首として結成されました。

メンバーは他に藤子不二雄A先生、藤子・F・不二雄先生、
森安なおや先生、永田竹丸先生、そして坂本三郎先生の6名。
その時代の話は藤子A先生の「まんが道」で詳しく描かれています。

前述通り漫画家時代の事はご長男もあまり聞いておらず、
坂本先生がなぜ脱退したかもわからないのですが、
遅筆だったので自分の作品だけでもいっぱいいっぱいで
「漫画少年」で連載されてる「新漫画党合作」を描くのが
もしかしたら辛かったのかもしれないとご長男は推測していました。

新漫画党結成前、坂本先生は「漫画少年」に「漫画家訪問」を連載していて、
福井英一先生や田中正雄先生の他、憧れてた山川惣治先生、
そしてのちアニメーターに転身した時に在籍する「ピー・プロ」創設者
うしおそうじ先生も訪問しております。

もちろん手塚治虫先生も訪問しており、それがきっかけかはわかりませんが、
手塚先生の手伝い(今で言うヘルプアシ)もした事があるそうで、
その時、手塚先生は「あとは任せた」と言い残し逃走したとの事。

手塚先生らしいエピソードですねw

「まんが道」では新漫画党脱退(ちなみに坂本先生が脱退したのは1956年5月)
と同時に漫画家も辞めてるような描き方をされていますが、
実際はそのあとも漫画家を続けていたようなのです。

漫画家を辞めた詳しい理由も坂本先生はご長男に語ってはおりません。
ですが、ご長男が母(坂本先生の妻)や姉(坂本先生のご長女)から
聞いた話を総合すると、
石ノ森章太郎先生が「マンガ家入門」にかいた事でほぼ間違いはないそうです。

ここでは、その詳しい内容は書きませんが、
気になる方は「マンガ家入門」は文庫にもなってますので
そちらを参照されて下さい。


それで嫌気がさして辞めたのは確かなのでしょうが、
「漫画そのものに愛想がつきたわけではないと思う」と
ご長男は仰っておりました。

漫画家時代の坂本先生は毎日の様に上野動物園に通いつめて、
正確な動物デッサン画を何枚も描いていましたが、
漫画家引退後もそれはつづけていたそうで、
その頃に藤子A先生と坂本先生は上野動物園で偶然再会した事があると
A先生も証言されています。
そのエピソードは(脚色もあるでしょうが)
「まんが道」続編「愛…知りそめし頃に…」にも描かれています。

ちなみに、つのだじろう先生が
「百冊をこえる恐ろしく正確な動物デッサンのスケッチブック」
と印象的に「トキワ荘青春物語」に描いた
この坂本先生のスケッチブックの行方ですが…

「残っていません。たぶん引っ越しの時とかに父が処分したのだろうと思います」
と、ご長男の言。

…今も残っていたらもの凄く貴重だったのに残念です。

続く。



yota874harahara at 20:22コメント(0)トラックバック(0)トキワ荘の話漫画家に関する話 

2016年05月23日

ご長男の綴る父・坂本三郎伝

5/22奇しくも坂本三郎先生がご存命ならば81歳のお誕生日に、
私は坂本先生のご長男であるKさんとお会いし、
(ご本人がブログ上では匿名を希望されてるので以下は「ご長男」と書かせていただきます)
色々と貴重なお話を伺わせていただきました。

まずお会いする前にご長男からはメールにて
ご尊父・坂本三郎先生の略歴をまとめて送っていただいておりました。

坂本先生と面識の一切無い私の聞き書きよりは、
まずはご長男自ら書かれた文を紹介したほうが、
より「坂本三郎像」が伝わると思い、
ブログでの発表は差し控えてほしいという箇所は除き、
ご長男承諾の上でこちらにその略歴…「坂本三郎伝」を転載させていただきます。

以下『』内の文章がご長男の文章(編集は私、原田高夕己)になります。
(※)での注釈は私の文章による「補足」です。
文中の「自分」はご長男。「父」が坂本三郎先生。
「母」が坂本先生の奥様で「姉」が坂本先生のご長女の事です。


『坂本三郎(1935.5.22〜1996.2.23)

厳しい、怖いという印象は自分一人だけで、
他の人達は寡黙、温厚、勉強家でだいたい共通している。
趣味は絵、読書(小説ではない)。貰い物以外の漫画やアニメの本はない。

もともとやりたかったのは絵物語で好きな作家は山川惣治さん(代表作は少年王者)。
動物のデッサン(※注1)を好んだのは少年王者の影響が大きい。
漫画は楽勝と思っていたのに最初の投稿で落選したため
ムキになったとのこと。

漫画家を辞めた後に母が父の絵を山川さんの雑誌(※注2)に持ち込んだ所、
次は作品(漫画ではなく絵物語だと思う)が見たいとなったが
作品が完成する前にその会社だか雑誌だか無くなってしまったそうな。

仲が良かったのは竹丸さん(※注3)で、父の見舞いにも来てくれている。
寺さん(※注4)からの手紙(メモ)に今でも漫画描いてほしいというような事が書いてあったが、
当時の仲はよく知らない。
寺さんを心配していた記憶はある。
石ノ森さんとはあまり面識ないはずだが彼の作品にトキワ荘に暮らす
イラストレーター坂本三郎というキャラが登場したり、
父が漫画辞めた理由(※注5)に詳しかったりする。
アニメ009で作画監督していた時にハガキを送ってくれたりはある。
藤子さんたちも年賀状や本を送ってくれていた。
奥さんやお姉さんの話も聞いているので新漫画党抜けたっきりではなさそう。
基本的にこっちから聞かないと話さないため、
自分のよく知らない人の話は聞いた事がない。

代表作は「ひねくれたく坊」になるのかな?
割り箸で描いてみたと聞いた程度。
ちなみに漫画辞めてからも画材は持っており、
ペン先だけでも特殊な物や高価な物が多々あったので
いろいろ試すのは好きそう。
ペンは使うが趣味で漫画を描くことはなかった。

新漫画党を抜けた理由は聞いた事がないので知らない。
漫画辞めてからも毎日のように上野動物園で動物デッサンしていた。

ピープロ(※注6)で一緒した鈴木さん?(自分は知らない)は漫画家時代の知り合い。(※注7)
ゼロ戦ハヤト(字は違うかも)という作品をやっていた。(※注8)
東映や東京ムービー、タツノコなどピープロ以外も会社や系列またいで仕事しており、
当時を知る人によれば「とても器用な人でどんな絵柄も描けたからどの会社も仕事頼めた」とのこと。

wikiにある手掛けたアニメ作品は実際の半分もない。
懐かしのアニメでよく見る「フランダースの犬」最終回なんかも父。

ファンは大切にするらしく、お礼のハガキや作品(同人誌のようなもの)が送られてきていた。
その中にはプロで有名になった人もいる。アニメの話はキリないので省略。
メディアを極端に嫌う(というより遠慮する)ため写真や証言はとても少ない。
家族や友人、仕事仲間でも知らない事(本人以外から聞いて知る事)が多い。
謎が多いとされるのはこのため。
欲しがる人には作品を平気であげてしまうため、
特に仕事上の作品は昔から手元にはあまりない。

名前使用だけをケチるとも思えないので、
ドラマで坂木四郎となったのは、(※注9)
そもそも肖像権使用うんぬんの話するアポをとれなかったのだと思う。

職場の人は怒った父を想像出来ないと言う。
漫画をモメて辞めたにも関わらず頑固と言われないのはこのためか?

父の意志により死亡通知は数名(親戚含む)にしか出さなかったため、
業界の人は自分を探していたとのこと。

他人の作品について何も言わない(そもそもあまり漫画を読まない)ため、
どう見ていたかは知らない。
漫画業界についても同様だが嫌っている感じはなかった。

最後に描いたのは「ひねくれたく坊」。(※注10)

あと何だろう?
父の漫画作品は自分も家にあった漫画少年に載っていたものしか知らず、
その漫画少年も人にあげたらしくて…(どうも少ないと思った)
新漫画党s30年頃の作品だと太郎鬼になるのかな?』



注1…坂本先生が上野動物園に通い、動物デッサンをスケッチブックに
大量に描いていた事は新漫画党の仲間うちで特に印象に残ってたらしく
藤子A先生やつのだ先生らが証言をしています。

注2…山川惣治先生が自ら興した出版社「タイガー書房」から
昭和42年8月〜43年6月まで出した絵物語雑誌「WILD」の事。
この時期、すでに坂本先生はアニメーターになっていました。

注3…永田竹丸先生。坂本先生とは第一次新漫画党メンバー同士でした。

注4…寺田ヒロオ先生。新漫画党党首。のち「漫画少年史」を寺田先生が
出した時、坂本先生は文章等の寄稿はしなかったが、本は贈呈されています。

注5…石ノ森先生の名著「マンガ家入門」にてその事は詳しく書かれています。

注6…アニメ・特撮制作会社「ピー・プロダクション」の事。

注7…新漫画党のメンバー鈴木伸一先生とは別人。
この鈴木某氏の事をご存知の方がいればご一報いただけると有難いです。

注8…「0戦はやと」辻なおき先生原作の
1964年に放映されたピープロ初のテレビアニメ作品。

注9…藤子不二雄A先生の名作「まんが道」を原作に
NHKで1987年にドラマ化された「銀河テレビ小説・まんが道青春編」で
基本実名の漫画家仲間のなかで、坂本三郎先生は坂木四郎と仮名で
登場しています。演じた俳優は田中隆三。

坂本先生の絶筆注10…坂本三郎先生が「漫画少年」にて発表した
ブラックユーモア作品で、漫画家時代の代表作。
画像はご長男が保管されている貴重な坂本先生の絶筆。
絶筆とは思えないしっかりしたペンタッチで
描かれているのには驚きました

アニメーター坂本三郎先生が最期に描いたのが
自身の漫画作品のキャラクターという所が非常に
興味深く思えます。




その他、ご長男から伺ったその他のエピソードは
また後日、当ブログに書かせていただく予定です。

いままでネット上および他のメディアでも情報がほぼ皆無で
謎とされた坂本先生の略歴がこうして明らかになった事は、
漫画史上でも貴重な事だと思いますので、
私はだいぶ興奮しております。






yota874harahara at 01:57コメント(2)トラックバック(0)トキワ荘の話漫画家に関する話 

2016年05月22日

アニメーター坂本三郎先生の「まんが道」

坂本先生登場シーン「まんが道」を読まれてる方や、80年代サンライズアニメのファンの方は
「坂本三郎」という漫画家・アニメーターの名前をご存知だと思います。

特に「まんが道」や続編「愛…知りそめし頃に…」で登場する坂本先生は
寡黙で落ち着いている理知的な白面の青年として描かれており、
「プライベートなことは一切ベールに包まれて、
いつもミステリアスなイメージだった」
とも藤子A先生は書いております。

編集者と衝突し、漫画家の筆を折った事は
「まんが道」作中でも印象的に描かれてますが、
その後、坂本先生はアニメーターに転身。
80年代には一連の富野由悠季監督作品
「伝説巨神イデオン」「戦闘メカザブングル」「聖戦士ダンバイン」と
3作品つづけて最終話の作画監督を担当されるなど活躍されており、
アニメファンにはよく知られた存在でした。

漫画黎明期の児童漫画家と
サンライズのロボットアニメの作画監督。
あまりにもかけ離れたこの二つの経歴。
そして坂本先生ご本人の証言が一切みつからないことから、
一時期ネット上で「漫画家・坂本三郎」と「アニメーター・坂本三郎」は
同姓同名の別人説まで流れておりました。

ただ、坂本先生がアニメ雑誌等に寄稿した際に
簡単に(おそらく編集者によって)かかれたプロフィールによって、
現在は両者は同一人物だということは判明しております。

しかし、ご本人の漫画家時代の証言は全くと言っていいほど存在せず、
アニメーターとしても、ここまで第一線で活躍された方としては
極端に証言や寄稿された文章やイラストは少ないため、
「謎のベールに包まれた存在」という印象を
藤子A先生ならずとも、ついつい抱いてしまいます。

坂本先生は伝説の漫画雑誌「漫画少年」で漫画家デビューをしています。
その「漫画少年」を中心に執筆する若手漫画家のグループ
「新漫画党」の第一次党員でもありました。

代表作はブラックユーモア漫画「ひねくれタク坊」
そのセンスと絵のうまさで仲間うちでも評価が高かったそうです。

「新漫画党」はメンバーに「トキワ荘の住人」だった先生らが多く、
自然に「会合」もトキワ荘で開かれる事が多かった為に
「新漫画党」イコール「トキワ荘グループ」として語られる事が多いです。

しかし、第一次結成時はまだトキワ荘の住人は
党首の寺田ヒロオ先生ひとりのみで、
(後に藤子両先生や森安なおや先生もトキワ荘の住人となる)
東京出身の坂本三郎先生は(あと永田竹丸先生も)
いわゆる「通い組」といわれる存在で「トキワ荘の住人」ではありませんでした。

とはいえ「トキワ荘前史」上、最重要人物であることには変わりません。

しかしあまりにも情報が少なく、その経歴もあやふやで
ウィキペディア情報も鵜呑みにしていいかわからないと…
「トキワ荘」および「新漫画党」を調べるにあたって、
「クロスワードで解けない鍵」みたいな感じでありました。

私も別にライターではなく、
漫画史研究家というワケではない、
一介の漫画の歴史好きな兼業漫画家にすぎませんし、
積極的に取材をグイグイするタイプではありません。

このブログにおいて色々漫画の歴史について調べた記事もありますが
だいたいはネットや本、あるいは漫画家さん本人のトークイベントに
おいて質問して伺ったお話がソースとなっております。

そんなやり方では、「坂本先生の謎」に迫る事は
かなり難しいと思います。
ですから今まで誰かが調べてくれないかな?
なんて考えでおりました。

そんなある日、私はひょんな事から
昭和30年前後に坂本先生が住まわれていたと思われる
アパート「金嶺荘」が現存している事をつきとめました。

…と、それについては当ブログにて
詳しく記事にしておりますので
興味ある方はぜひ参照されてみて下さい。
http://blog.livedoor.jp/yota874harahara/archives/2015-11-08.html

こうして思いがけず坂本先生の旧居をさぐりあてる事が出来、
俄然坂本先生の謎の人物像について迫りたい!なんて思い始めましたが、
前述通り、私はグイグイ取材するタイプではありません。

ただ、永田竹丸先生が坂本先生と親しく、
最後まで交友があった…という情報は掴んだものの、
それから永田先生にお会いする機会もないまま、
「金嶺荘」の記事をアップして半年間、何もできないでおりました。

しかし、このたび「山」は大きく動きました!

何と私の記事をみた、坂本先生のご長男の方から連絡があり、
坂本先生の思い出話を聞かせていただいたり、
残された貴重な遺品も拝見させていただくという僥倖に巡り会えたのです!

ご子息からみれば当然ながら
坂本先生は「父親」であり「謎の人物」などではないので、
「謎」呼ばわりは本当に失礼とは思いますし、
坂本三郎という人物のベールの向こう側に
私が入りこむのも僭越かとも思いますが、
このブログにて、ご子息ご本人の書いた
「坂本三郎伝」と
直接私が伺った「坂本三郎の人物像」について
まとめて書かせていただこうと思います。

前置きが長くなりましたが、
本編は次の記事にて。




yota874harahara at 23:29コメント(0)トラックバック(0)トキワ荘の話漫画家に関する話 

2016年05月03日

コミティア116参戦

5/5(木/祝)東京ビッグサイト東4・5・6ホールにて開催される
「COMITIA116」に、
私、原田高夕己も二年ぶりに参戦します!

http://www.comitia.co.jp/

リタパン新刊…
と言うのは微妙かもですが、
新作の6ページの4コマ漫画を
コピー本にして持って行きます。

こちら無料で頒布します。
(既刊本も持って行きますがそちらは有料です)

この漫画「リタパン」は
友人のバンド「バクガキ」の名曲
「リタはパン屋さん」をモチーフにしましたが、
「パン屋のリタという女の子」という
点しか共通項がなく、
バクガキの世界観を壊してる感もあったりします

もともとこのコピー本は、そのバクガキのメンバー同士の
結婚祝いのプレゼントのオマケとして造ったのですが、
それから未発表のまま寝かしておくのも勿体ないので
今回のコミティアで無料頒布すべく増刷しました。

もし5/5にコミティアに行かれる方がいれば
よければお立ち寄り下さいませ!

サークル名は「夕暮庵」
当日スペースは東5ホールのP42bです。

てなコトでヨロシクお願いしますm(_ _)m




yota874harahara at 20:37コメント(2)トラックバック(0)自作の漫画話 

2016年04月29日

梶川"先生"連載スタート!!

トキワ荘通り・紫雲荘の期待の新人さん
梶川岳さんが5/1から
「Webコミック ぜにょん」にて
ついに初めての連載
「真亜ちゃんは今日も家にいたい」を
スタートさせます^^

http://www.zenyon.jp/lib/top.php?id=20

月2回の更新です。

初めての連載は新人さんにとっては
やはり未知の領域なので、本人も不安はあるでしょうが、
若く瑞々しい感性をもち、才能にあふれた梶川さんならば
そのプレッシャーをはねのけて
きっと話題をよぶ良作に仕上げてくれると信じております!

改めて梶川"先生"おめでとう^^

皆様「真亜ちゃんは今日も家にいたい」
ぜひご一読と応援を宜しくお願いいたします!!

yota874harahara at 13:54コメント(0)トラックバック(0) 

2016年04月19日

「劇画おやじ会」トキワ荘通り来訪

4月17日(日)
日頃の私の行いのせいかはわからないですが
あいにくの荒天ではありましたが
「劇画おやじ会」の先生方をトキワ荘通りにご案内するという
大役をやらせていただきました!

きっかけは辰巳先生のお別れ会の時に初めてお会いした
南波健二先生が劇画家になる前の少年時代に
当時住まわれていた保谷からトキワ荘通りに自転車で通い
寺田先生や藤子不二雄両先生とお会いしたというお話をうかがい、
トキワ荘は現存しませんが、それならばぜひトキワ荘通りを
ご案内させていただきたいとお誘いをし、それが実現したのがこの日だったのです。

「劇画おやじ会」椎名町駅まずはおこしいただいた先生方と
椎名町駅の案内看板の前で記念撮影。

右から坂野大助先生
和平俊秀先生
下元克己先生
甲良幹二郎先生
南波健二先生
漫画研究家F・M・ロッカー氏
K・I先生(顔出しNG)
総勢七名様のご案内です^^

椎名町駅からトキワ荘通りへ徒歩で移動中
強い雨と風にたたられ難儀してしまいましたが
あけぼの湯跡の区民ひろば富士見台から
目白映画跡地を通ってトキワ荘通りの入り口へ。

そこにある二又交番では今から60年ほど前に
南波先生がトキワ荘の場所を尋ねられた事があるそうです。
つまりは60年ぶりとなるトキワ荘通りの再訪なのです!

雨にぬれつつもトキワ荘通りお休み処にたどりついて
ここでトキワ荘通り協働PJのメンバーと
サプライズで来ていただいた画家・岸田尚先生と合流。
2階の寺田先生のトキワ荘の部屋の再現や展示物の説明や
1階の蔵書をみなさんで読まれたりしました。

南波先生とその元アシスタントだった坂野先生が
そこで一番関心をもたれたのが
森安なおや先生の「烏城物語」
その世界観と独特な画風に興味をもたれたご様子です。

「松葉」にて記念撮影お休み処の次は
トキワ荘の先生方が通っていた中華料理店「松葉」で昼食。
下元先生を筆頭にお酒の好きな何人かの先生は
ここでビールも飲まれてました。

その間に雨はいつのまにか止んで、
店の前で記念撮影。

そして、大家さんのご厚意で
特別に紫雲荘の「赤塚先生の部屋」を
開けていただき、みなさんで見学しました。
そこで紫雲荘の住人の漫画家・桐木憲一先生と合流。

いまから半世紀以上前に実際に赤塚先生が
仕事場として使用していた部屋が現存している事に
先生方はご興味をもたれ、喜ばれていた様子で良かったです^^

紫雲荘にてその紫雲荘でこんな写真を撮っていただきました。

左から桐木先生、南波先生、岸田先生、私…
いやぁ私は肩身の狭さが表情にでちゃってますねw

なにしろご一緒にうつっている方々が凄すぎます。

新劇画工房、劇画集団メンバーであり
「タックル猛牛シリーズ」「豹マン」「処刑人ゴッド」と
数多くの名作劇画を手がけられた
大御所劇画家である南波先生に、
祖父に日本初のレビューをてがけた宝塚の演出家岸田辰彌、
大伯父に「麗子像」で知られる画家の岸田劉生をもち
ご自身も画家である岸田尚さん、
代表作「東京シャッターガール」につづき
「金沢シャッターガール」もまた映画化される予定の
イケメン漫画家・桐木さん。

これが世に言う「公開処刑」とかいうヤツかしらんw

紫雲荘のあとは記念碑をみつつ、落合南長崎駅へとむかいました。

それにしても・・・
これは私みたいな漫画の歴史好きにとってとても大きな出来事なのです。

トキワ荘が漫画家の梁山泊といわれていますが、
同時代に同じ様な「梁山泊」的な場所は他にもあったワケで
その「対抗馬」の代表格が「国分寺劇画村」なのです。

国分寺ではトキワ荘のようにひとつのアパートでの共同生活は長くは続きませんでしたが、
国分寺周辺にさいとう・たかを先生、辰巳ヨシヒロ先生、松本正彦先生ら
劇画の「三羽烏」の先生方の他、佐藤まさあき先生、桜井昌一先生ら
劇画工房のメンバーも住み、永島慎二先生も足しげく通った場所。

南波先生はその時代に盟友・川崎のぼる先生と共同生活をして、
さいとう先生のアシスタントをしていましたし、
下元先生も桜井先生にアパートを紹介してもらい国分寺に住まわれてました。
I先生も国分寺にゆかりがあり、甲良先生はさいとうプロ出身・・・

そんな「劇画おやじ会」の先生方がこうして
半世紀の時をこえて、手塚先生を中心とした「漫画」の聖地
トキワ荘通りに来ていただいたという事は
「漫画」と「劇画」の歴史的融合(?)の小さな第一歩だと
私には思えて、非常に感慨深いのです!

あいにくの荒天ではありましたが
先生方に楽しんでいただいた事、
これ以上の喜びはありません!

もちろん私ひとりだけではオロオロするばかりで
満足のいくご案内はできなかったと思います。
これもトキワ荘通りの皆様方のお力添えがあっての事です。
改めて皆様ありがとうございました。

そして「劇画おやじ会」の先生方に
改めて感謝の意をのべたいと思います。

本当にありがとうございました!!






yota874harahara at 23:47コメント(2)トラックバック(0)トキワ荘の話漫画の話 
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