2016年07月08日

トキワ荘復元

豊島区が2020年にトキワ荘の復元を正式発表したと
各所で報道されましたね。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160707-00000086-asahi-soci

http://www.sankei.com/entertainments/news/160707/ent1607070013-n1.html

http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyo23/news/20160708-OYTNT50002.html

数年前から豊島区高野区長は2020年までにトキワ荘を復元し
ミュージアムにするとの発言は何度かはしていましたが、
ついに「正式発表」と、いう事ですね!
そこまでの道のりも確か3年ほどはかかったと思います。

計画が具体化されたという事で、
これから復元に向けて本格的に動き出すのでしょうが
超えるべきハードルはたくさんあります。

まず復元されるトキワ荘が建つのは
記念碑のある花咲公園が私は「第一候補」と私は聞いてましたが
報道では花咲公園に決定というふうに書かれてますね。
そちらも場合によっては別の候補地に変更される可能性も
あるかもしれません。

別の候補地がどこかまで聞いてませんが
(聞いていても今発表できるワケはありませんがw)
跡地には日本加除出版の新館が建っているので
そちらはほぼありえない話ですね。

さて、私はトキワ荘通りの一ボランティアでしかないので
こちらの復元されるトキワ荘の計画に携わる事はありません。

そのかわりと言ってはなんですがトキワ荘の「謎」の部分、
「新漫画党」の事や坂本三郎先生の件、
「学童社」や「漫画少年」の事などを
トキワ荘が復元されるまでに皆様と協力し整理をして、
手つかずにされた研究面を微力ながらサポートしていければと
思っています。

復元される「トキワ荘」が
どのようなミュージアム(施設)になるか
今から楽しみにしています^^


yota874harahara at 19:42コメント(0)トラックバック(0)トキワ荘の話 

2016年07月05日

永田竹丸先生が「綴る」坂本三郎先生

永田竹丸先生から坂本三郎先生の貴重な思い出話を
語っていただいて、本当に感謝しておりますが、
実は「どこにも発表していない話」はその中のほんの一部だったのです。

どういう事か?といいますと、
「まんが道」にも書かれていない
漫画家を引退したあとの坂本先生のエピソードを
永田先生はすでに文章に書いて発表していたのです。

トキワ荘通りのK理事に、坂本先生のご子息が来るという事で、
改めて永田先生が坂本先生について書いた文章を探していただいたので、
今になって判明した次第です…

いくら研究者では無いにせよ、
最近研究者モドキな活動をしていた私として恥ずかしい限りでした
調子にのってはいけないという事ですね。反省。

さて、その永田先生の文章ですが、
ひとつは坂本先生が存命だった昭和63年の記事です。

漫画の通信教育をしていた「日本漫画学院」(数年前廃業したそうです)が
発行の「漫画新聞」に永田先生が連載していた
「私の出会った漫画家たち」で坂本先生について
ピープロで一緒に仕事していた事と、
当ブログの前回の記事にも書いた、坂本先生が永田先生に仕事を紹介した事が
ちゃんと触れられています。

この連載は翌年平成元年にペップ出版より
「まんが横町の住人たち」という単行本にまとめられています。
もちろん、私も読んではいたのですが、
この坂本先生の記事は収録されてません。
それというのも、単行本収録分は連載の前半のみであり、
続編の単行本には後半にあたるこの記事も収録される予定ではあったものの
版元であるペップ出版が倒産してしまったために結局刊行されなかったそうです。


もうひとつは、その顛末と、晩年の坂本先生について書かれた
月刊「広場」連載の「わたしの漫画50年」33回目の文章です。

浪人まんが家坂本三郎氏月刊「広場」は会員制(だったと思います)の漫画研究誌であり、
その分野では有名なのですが…
またまた恥ずかしながら私は購読していないために
この記事を見逃してしまっていたのです。

この記事を読むと、坂本先生から前述の「漫画新聞」の
永田先生の記事に対し「好意的に書いてくれて嬉しかった」と
礼状が届いた事や、
「まんが横町の住人たち」の感想や書評記事の切り抜きの手紙が
届いた事など、第一次新漫画党メンバーだったこのお二人が
脱会後30年以上たっても交流が続いていた事がわかります。

そして藤木てるみ先生から
坂本先生がホスピス病棟に入院している事をきき、
藤木先生と、森安なおや先生(!)と一緒にお見舞いにいくつもりが
藤木先生が急用ができ、森安先生が足をくじいたという事でキャンセル。
結局、永田先生が一人でお見舞いに行ったというエピソードも記しています。

永田先生は「森安なおや氏が健在だった頃だから
たぶん平成9年(1997年)の初夏のことだったろう」と述懐してますが、
坂本先生が亡くなられたのがその前年平成8年(1996年)2月ですので
正確には平成7年(1995年)の初夏だろうと思われます。

そこで坂本先生から入院先の病院の院長の似顔絵を描き、
院長室にかざってもらった話を聞いたと永田先生は書いてます。
その事実は、私もご子息のKさんから聞いておりました。
さらに、病院で書き溜めた絵をロビーに飾って展覧会をした事を
坂本先生はうれしそうに語っていた事や、
数ヶ月後に坂本先生が亡くなった事を知らせる手紙が届いた事に触れています。

…正直いって、媒体がマイナーなので
これらの記事は多くの目にふれる事はなく、
従って、ウィキにもこうした永田先生の「証言」は反映されず
(まあ私のブログ記事もまだ反映されてませんが…)
坂本先生は「謎」のまんまだったという事なのでしょうね。

私が人の事はいえませんが、
チェックの甘さが「謎」を招く事はままありますので、
今後、もう少し関係資料に留意するよう気をつけたく思います。

…そういえば坂本先生の漫画家時代の作品だって
全然集められない始末なんですよね

yota874harahara at 01:20コメント(0)トラックバック(0)漫画家に関する話トキワ荘の話 

2016年07月04日

永田竹丸先生が「語る」坂本三郎先生

7/2トキワ荘の跡地にある日本加除出版において
「トキワ荘塾」が開催されたので参加してきました。

講師は永田竹丸先生。
新漫画党でもピー・プロダクションで坂本先生と交流があり、
坂本先生が亡くなられた時、少数の方にしか伝えなかったという
「訃報通知リスト」にも名前のあった、
漫画家時代の坂本先生をよく知る数少ないひとりです。

今回は永田先生の著作「ロボットS1号」の復刻(単行本化)発売記念の
講演でしたが、
私のほうで、坂本先生のご子息であるKさんをお誘いして、
そしてKさんが来られる事を永田先生にも伝えていたので、
坂本先生の思い出話もいろいろと伺わせていただきました!

今回は、その永田先生のご証言を書かせていただきます。

金嶺荘まず、坂本三郎先生の謎のベールに迫るきっかけとなった、
上野動物園徒歩圏内に現存するアパート金嶺荘。
たぶん、このアパートに坂本先生が住まわれていた事は
当時のハガキから確かではありますが、
関係者の証言はありません。
(Kさんの生まれる前に住まわれていたみたいです)

それをまず永田先生に写真をみてもらい
確認していただきました。

「中に入った事はなかったけど確かにこんなアパートだったよ」
と、永田先生からの貴重なご証言をいただきました!
さらに、一人ぐらしだったのか、どなたか家族と暮らしていたのかを
伺ったところ
「たぶんお父さんと住んでいたような記憶はあるんだけど…」と
はっきりは覚えてないものの、「まんが道」にも少し触れられているように
たぶん一人暮らしではなかった事も確認できました!

さて、永田先生は東京オリンピックの年1964年に
アニメ・特撮制作会社「ピープロダクション」に
半年間在籍して、坂本先生と一緒に仕事しておりましたので
「永田先生がピープロに入ったきっかけは何ですか?
坂本先生にさそわれたとかあったのでしょうか?」と質問したところ、
誰に誘われたかは残念ながらはっきり記憶されてなかったのですが、
「一緒にピープロに入ったのは僕と、坂本氏と、鈴木英二氏と、木村氏の4人で
僕は素人だったのにチーフにされちゃったね」と
当時の思い出を語っていただきました。

鈴木英二先生こそが坂本先生と仲の良かった元漫画家で
ピープロにいた「鈴木某」氏だったという事が判明しました!
鈴木先生は永田先生と同じ新人漫画家の親睦団体「どんぐり漫画研究会」の
メンバーでもありました。
そして木村氏は下の名前は失念しましたが「漫画少年」に執筆していた漫画家で、
たぶん全員素人の漫画家四人が集められた…という事は、
ピープロ社長の、うしおそうじ先生が集めたメンバーと考えるのが自然ですね。
Kさんは「父もアニメーターとしての最初の仕事かも?」と推測していました。

うしお先生の事は「いつも金策に困って、鞄もって走り回っていたね」
と、そうした印象をもたれていたようです。

ただ、坂本先生が漫画家をやめた理由は詳しくはわからないそうなので、
坂本先生本人にもなんでやめたのか詳しく聞いていなかったという事ですね。
伝聞される「編集者と衝突して漫画家を廃業した」以上の事はわからずじまいで、
やはり石ノ森先生の「マンガ家入門」の記述が一番詳しいみたいです。

「坂本氏はギャグも面白く、将来伸びると思っていたのに、
漫画家をやめてしまった事には首をかしげた」と永田先生の言。

ほか、永田先生がピープロ退社後、仕事が少なくなった時期に、
坂本先生からテレビの3分の帯番組につかう漫画の絵コンテの仕事を
永田先生に紹介してもらった事もあり、その厚意が身にしみて嬉しかった
というエピソードも語っていただきました。

講演が終わったあとも、永田先生がKさんに
ピープロで坂本先生の奥様(つまりKさんのお母様)の事も
思い出されたようで少しその事について話されていました。

そして、ホスピス病棟に入院されていた坂本先生の
お見舞いに行った時のいきさつも話していただきましたが、
永田先生は藤木てるみ先生に坂本先生が入院している事をきいて、
それでお見舞いに行かれたという事で…

そうしたいきさつを考えると、
藤木先生のほうが永田先生よりいくらかは坂本先生と親しかった…
という事かもしれません。
(訃報通知リストにも藤木先生のお名前はあります)

ウィキには触れられてませんが、
残念ながら藤木先生はすでに数年前に亡くなられてしまい、
やはり漫画家時代の坂本先生の全体像は
まだまだそう簡単には明らかにはなりませんね…

ですが、いくつかの裏付けができた事や
謎もとけたのは収穫ですね^^

何よりも坂本先生のご子息であるKさんが
トキワ荘の跡地に来ていただいたという事が
トキワ荘の歴史を考えると、感慨深いというか
ひとつの大きな収穫に感じました。

永田先生もKさんに会えて喜ばれている様子でした。

永田先生、Kさん、
この日お会いした皆様方(みなもと太郎先生と久松文雄先生も来られていました!)
本当にありがとうございました!




yota874harahara at 02:21コメント(0)トラックバック(0)漫画家に関する話トキワ荘の話 

2016年07月02日

巴里夫先生の訃報

7/1巴里夫先生の訃報が
先生の公式ホームページにて記載された事を知りました。

http://www.tomoesatoo.jp/
(今月7月には閉鎖し、新たなサイトを立ち上げる予定との事です)

私は去年の一月に京都マンガミュージアムまで
下元克己先生のお付きみたいな形で足を運んでおりまして、
その時に下元先生と共演の巴先生、漫画研究家の加藤さんとご一緒に、
伝説の劇画家・山森ススム先生のお宅に同行させていただいたのですが、
その日の事が昨日のように思いだされます。

巴先生からは半世紀前にトキワ荘をおとずれた時のお話や
寺田ヒロオ先生、森安なおや先生の思い出話を
聞かせていただきました。

今年一月、みなもと先生の講演で
お見かけした時はまだまだお元気そうでしたので驚きました。

また漫画界に大きな足跡をのこした
先達がひとり旅立たれてしまい、
哀悼の気持ちでいっぱいです。

巴先生のご冥福をお祈りします。
合掌。


yota874harahara at 11:08コメント(0)トラックバック(0)漫画家に関する話 

2016年06月05日

「新漫画党」オリジナルメンバーの謎

新漫画党の結成の経緯の記事のつづきですが、
「公式」とは何がどうほんの少し違うのでしょうか?

まず、ウィキペディアでのソースとして扱われている
藤子不二雄A先生の著書「トキワ荘青春日記」をひも解いてみましょう。

「新漫画党」が結成されたという1954年7月9日をみると、
確かに新漫画党の結成の事に触れられています。

引用しますと

名称 新漫画党
同人 五人 (寺田ヒロオ、藤本弘、森安なおや、坂本三郎、小生)
会費 暫定 百円
会計 責任者 寺田氏
会場 持ちまわり

と、ありますので「公式」のソースもたぶんこの記述から取ったと思われます。
ただ大きく気になる点がひとつあります。
そう、日記に永田竹丸先生の名前がなく、同人(党員)が五人となっている点です。

同じく藤子不二雄A先生の著作(正確にはF先生との合作でもありますが)
「二人で少年漫画ばかり描いてきた」にもこのA先生の日記は引用されてます。
しかし、その引用された1954年7月9日の日記には、
前述の「トキワ荘青春日記」とは記述が違っているのです。
そこには同人は六人と書かれていて、
永田先生の名前もちゃんとあるのです。

その他の出来事もこちら「二人で少年漫画ばかり描いてきた」のほうに
引用された日記のほうが「トキワ荘青春日記」に引用された日記よりも
その内容が詳しく書かれております。

これはつまり、当たり前といえば当たり前の話ですが、
A先生は自分の日記を原文そのままで本に載せたわけではなく、
自ら編集をした上で載せているので、多少記述が違ったのでしょう。

では、永田先生の党への加入についてはどちらの
「日記」の記述が正しいのでしょうか?

こちらは事実を元にしたフィクションですが「まんが道」でも
永田先生は新漫画党がトキワ荘で結成された時にその場にいますし、
普通に考えて「二人で少年漫画ばかり描いてきた」にあるように
7月9日に同人6名参加が正確だと、
豊島区の図録を担当された方もそう判断したのでしょう。

しかし、どうやらこれは「トキワ荘青春日記」に書かれているように
7月9日の時点では永田先生は参加してないのが正しいようなのです。

それを裏付ける資料は新漫画党が1961年に出した
機関紙「新漫画党」です。
そこに「しんまんがとうひすとりい青春群像」という連載がありますが
第三号にA先生の件の7月9日の日記が紹介されてます。

こちらの日記はカタカナと漢字まじりで、
細かい内容も前述の二冊とは異なります。
つまり同じ7月9日の藤子A先生の日記が
三種類もあるというややこしい状態という事になりますが、
これは推測ですが、たぶんこちらが原文に近いか原文ママなのかもしれません。

で、肝心の新漫画党員の人数についてこちらの日記には、

同人ハ五名(寺田ヒロオ、藤本弘、森安直哉、坂本三郎、安孫子素雄)

と、書かれていて、永田先生の名前はありません。
「トキワ荘青春日記」と同じという事ですね

では、永田先生はいったいいつ新漫画党に参加したのでしょうか?

その答えは次号の第四号の同連載に、
日記の引用という形ではないものの、きちんと触れておりました。

1954年7月24日、隅田川の川開きの花火大会があった日に
当時藤子不二雄両先生が下宿していた両国(森下)の二畳間で
新漫画党第二回の会合が開かれ、
「この日入会した永田竹丸が参加した」と書かれています。

また「この日は新漫画党第二回目の会合、
正式には全員初めて顔を揃えた第一回目の会合が行われていた」
とも、書かれてあります。
(この会合の様子は「まんが道」でも描かれてますが、
ストーリーの都合上か9月に変更され、そのせいか印象に強く残るだろう
花火のシーンはありませんでした)

この機関紙「新漫画党」は党の結成から7年後の発行で、
党員の記憶も新しく、記述の信用性が高い第一級の資料です。

つまり正確には新漫画党は7月9日にトキワ荘でまずは5名で結成。
それから少し遅れた(なぜ遅れたかご本人の証言がないので不明なれど)
7月24日に永田先生が入党して
新漫画党員は6名になったのですが、
党員はこの日の会合を正式な第一回目の会合と見なしていたようで、
それで混乱してしまった…という感じになったと思います。

ただ遅れて参加したとはいえ、
永田先生は結成前に党への勧誘をされているはずですし、
新漫画党の「オリジナルメンバー」には間違いないでしょう。
そのへんは劇画家のグループ「劇画工房」に遅れて参加した
松本正彦先生が工房のオリジナルメンバー扱いなのと同様の形ですね。

永田先生が参加した7月24日を「正式な結成」として、
7月9日結成というのはいわば「仮結成」だった…とみなす事もできますが、
その9日に「新漫画党」の名称や会費等がいっぺんに決まっていますし、
やはり従来通り新漫画党の結成は1954年7月9日のままでいいと思います。


最後に結論をまとめますと

1954年7月9日トキワ荘にて
寺田ヒロオ先生、藤子不二雄A先生、藤子・F・不二雄先生、
森安なおや先生、坂本三郎先生のまずは五名で新漫画党は結成。

遅れて同年7月24日に両国(森下)の藤子先生の下宿にて
実質的な新漫画党第一回目の会合が開かれ、
永田竹丸先生も党に加入して、党員は六名になった。

と、これが残された資料からみる
「史実」になると思います。

…ですが、ご存命の当事者の先生方にお話をうかがうと、
また違った証言が出る可能性も考えられますね。


yota874harahara at 02:32コメント(2)トラックバック(0)トキワ荘の話 

2016年06月04日

「新漫画党」結成の経緯

坂本三郎先生の一連の記事には大きな反響をいただきました。
この一連の記事がきっかけとなって、
新たな坂本先生の情報が集まって、
そして再評価の声が高まっていく事を期待しております。

もちろん私のほうでも出来る範囲で坂本先生の事および
トキワ荘に関する事を調べていきたいとは思っていまして、
まずは「漫画少年」に寄稿する新人漫画家グループとして発足し、
のちにトキワ荘住人の漫画家たちの親睦グループとなった「新漫画党」について、
とりあえず今回はその結成の経緯を詳しく書いてみたいと思います。

ずいぶん前の話ですが、私はこの「新漫画党」の正式な
第一次解散時期と第二次結成時期について調べ、
(その記事はグーグルで「新漫画党」を検索すると2番目に出てしまうので
恐縮の至りです…)
「第一次と第二次は後に便宜的に分けて語る様になっただけで
明確な解散→再結成という流れは無かった」と、
私は推測したのですが、結局断定は出来ず仕舞でした。

戦後漫画史を語る上で避けては通れない「新漫画党」ですが
「新漫画党」イコール「トキワ荘」と同義に語られる事が多く、
トキワ荘の事を書いた本を色々通してみても、
いまいち分からない「謎」な部分が結構多いのです。
今回はその謎に再挑戦する第一歩という意味合いもあります。

長い前置きはこれくらいにして本題に入りますと・・・

そもそも新漫画党は寺田ヒロオ先生と藤子不二雄A先生との
出会いがきっかけとなって結成されました。

1954年6月28日に藤子不二雄両先生は郷里富山を出立し上京するのですが、
それよりちょっと前の同年春にA先生はひとり下見のために東京に訪れていました。

その時にトキワ荘に住む手塚治虫先生に会いにいったのですが、
手塚先生は仕事が忙しく、編集者にいわゆる「カンヅメ」に
されてしまったがためにA先生の相手はできませんでした。
そんな手塚先生が「すぐもどるから、一晩泊めてやってくれ」と、
同じトキワ荘の向かいの部屋に住まう寺田先生に
A先生をあずけたまま一週間もどって来なかったので、
丸々一週間A先生は寺田先生の部屋に泊めてもらっていました。

そこで二人は意気投合をし、
児童漫画家のグループをつくろうと決めました。
寺田ヒロオ先生の「トキワ荘青春物語」によるとA先生が、
機関紙「新漫画党」の第二号によると寺田先生が言い出したとあり、
どちらが言い出しっぺかはわかりませんが、
とにかくこの二人が出会った事で新漫画党は結成されるのです。

と、いう事でまず寺田先生とA先生。
そしてA先生の相棒の藤子・F・不二雄先生の三人はメンバーに決定しました。
では他のメンバーはどうやって選出されたのでしょうか?

寺田先生は前述の「トキワ荘青春物語」に寄せた回顧録に
「『漫画少年』の特集企画から誕生した新漫画党というグループ」
と書いています。

漫画少年の特集企画とは、
同年1月号から始まった新人漫画家の合同作品のことで、
その企画に参加したのは寺田先生の他には
山根赤鬼先生、山根青鬼先生、永田竹丸先生、坂本三郎先生の計5人。

つまり、自然に考えて寺田先生はこの企画に参加している
新人漫画家全員に声をかけたのでしょう。

しかしこの中で山根赤鬼先生と山根青鬼先生は
お父さんが反対したために新漫画党員にはなりませんでした。

ちなみに山根青鬼先生は近年トークショーに出演した時、
「新漫画党に入ったけど、父の反対ですぐぬけた」といった
発言をされております。

これはたぶん、勧誘を受けた時にOKをしたので、
それをもって「加入」として、父の反対で加入を撤回した事を「脱会」と
いうふうな感じではないのかな…と私は推測しますが、
この辺、山根先生に詳しくお聞きしないとわからないですね。

さて、ここに名前が無い新漫画党オリジナルメンバーの
森安なおや先生の新漫画党参加の経緯ですが、
先輩漫画家の古沢日出夫先生に寺田先生を紹介されてトキワ荘を訪ね、
そこで新漫画党の構想をきき参加するに至ったそうです。

時系列までは詳しくわからないのですが、
もしかしたら山根兄弟が参加しなかったかわりみたいな感じで
寺田先生は訪ねて来た森安先生を誘ったのかもしれません。
まあそれは推測の域をでませんが…

ともかく、こうして
寺田ヒロオ先生
藤子不二雄A先生
藤子・F・不二雄先生
永田竹丸先生
森安なおや先生
坂本三郎先生
計6名の若手漫画家がそろい、
同年7月に新漫画党は結成されました。

豊島区が出した図録「トキワ荘のヒーローたち〜マンガにかけた青春〜」には
7月9日にこの6名で結成されたと描かれてます。

豊島区が出している以上、これが「公式」となるのでしょうが、
いくつかの資料を調べてみると…
これがまたこの「公式」とはほんの少し違ってくるのです。

長文になりましたので以下の記事は次回に書かせていただきます。



yota874harahara at 23:52コメント(0)トラックバック(0)トキワ荘の話 

2016年05月27日

父親としての坂本三郎先生

最後に、
ご家庭で父親としての坂本先生はどんな方だったのでしょうか?

坂本先生はとにかく寡黙な方で、
そうした事からか、ご長男は「怖い」という印象を
父・坂本先生に抱いていて、
よく話す様になったのは高校に入ってからだったそうです。

ただお姉さん(ご長女)からみると父・坂本先生は
母(奥様)や弟(ご長男)に甘いというふうに見えていたそうです。

一人称は「僕」で、物腰が穏やかだったので
職場の人は怒った所が想像出来ないと言っていたとの事。

坂本先生は案外と茶目っ気もある方だったそうで、
怖い絵を描いて机の引き出しに入れておいたり、
寝ている隙にその絵をふたりの子供の
枕の隣においたりするイタズラをしたり
玄関の向かいにリアルなゴキブリの絵を描いては
お客さんをおどろかせたりする事もあったとか。
「まんが道」に描かれた寡黙で真面目な坂本先生の
イメージが変わる微笑ましいエピソードですね^^

「まんが道」といえば、ご長男は友人に藤子先生のファンがいたので
「まんが道」に父・坂本三郎先生が登場している事は
その友人に教えられて知ってはいました。

ネットで「謎」とか書かれていたり
「アニメーター坂本三郎と漫画家坂本三郎は別人説」が
流れている事も知ってはいたのですが、
レスしても「ソースを出せ」と返されるだけだろうと
今までスルーをしていたそうです。

ある時、ご長男が父・坂本先生に
どうすれば絵が上達するか質問した事があるそうですが
そうしたら坂本先生は
「同じものを毎日100回描きなさい」とアドバイスしたそうです。
100冊をこえるスケッチブックに動物デッサンを描いた
坂本先生らしい凄まじいアドバイスといえます。
そしてそのアドバイス通りに、ご長男は同じものを100回描いたという
事ですからまたそれも凄まじい話です。

坂本先生の動物デッサン画こちらの画像はご長男が保管されている
坂本先生の動物デッサンの一部です。

漫画家時代に描かれた絵ではないそうですが、
つのだ先生が証言されたとおりの
本当に正確で精密な
動物デッサン画に圧倒されます!
この素晴らしい絵をナマで拝見できるなんて!





坂本三郎先生は50代の時に一度胸にガンを患われておりました。
その時は手術は成功して、それから検診もしていたのですが、
ある時から今度は腰や背中が痛み出しました。

しかし検査してもわからない状態がつづき、
最終的には立ち上がる事ができなくなり入院。
そこで再検査すると腰より少し高い箇所に
ガンが転移しているのがみつかりましたが、
すでに手の施しようがありませんでした。

坂本先生は抗がん剤を使っての延命治療は選ばず、
痛み止めの処置のみの緩和ケアを選択し、
ホスピス病棟に入院しました。
病院へは漫画家時代・ピープロ時代の友人永田竹丸先生も
お見舞いにきたことがあったそうです。

入院中は寝たきりになりながらも、
ご長男が坂本先生をはげますために持ち込んだノートと色紙を
備え付けの机は小さいため、まるでスケッチブックのように、
若き日に上野動物園で動物デッサンをしていた時のように
手にもって絵を描きました。

看護士やケースワーカーにもその絵をプレゼントしていたので、
しばらく病院にも坂本先生の絵が飾られていたそうです。
(現在も飾られてるか、保管されてるかは不明)
そしてノートには日記やアニメの技法の他、
自分が亡くなった時にその事を知らせる人のリストと、
「葬式不要」という「遺言」が書きのこされました。
その「死亡通知」リストに書かれた名前は9名のみでした。

ひねくれたく坊ノートに最後に記された絵…つまり坂本先生の「絶筆」は
漫画家時代の代表作「ひねくれたく坊」のイラストと
そしてこの「漫画」でした。

「アニメーター」坂本三郎先生が最期に描かれたのが
「漫画」だったという事実を知って私は鳥肌がたつほどの衝撃をうけました。
アニメーターになってからは完成しなかった絵物語を描いた事はあっても
「たく坊」の漫画を描いたのは、
およそ40年ぶりの事ではないでしょうか?
坂本先生は最期は漫画家であろうとしたのでしょうか?

その心境はもう亡くなられた今となってはわかりません。
ただご長男は「漫画自体に思い入れがあったというよりは
たぶん青春時代の思い出としてたく坊を描いたのでは?」と仰っていました。

坂本先生の最期の言葉は、
病院に泊まり込んだご長男にかけた一言
「もういいから寝なさい」でした。

1996年2月23日
坂本三郎先生は家族全員に看取られて、
穏やかにこの世を去りました。

没年60歳。
奇しくもその没年は手塚先生や石ノ森先生と同じでした。

坂本先生の絶筆最後に絶筆となった「ひねくれたく坊」のイラストを
再度貼ります。

画像が小さくわかりにくいと思いますが、そこには
『(ひねくれたく坊)雪ダルマをつくって
病床の作者をなぐさめるの図』
と書き記されてあります。

了。





yota874harahara at 00:26コメント(2)トラックバック(0)トキワ荘の話漫画家に関する話 

2016年05月26日

坂本三郎先生のアニメーター時代

漫画家を引退した後の坂本先生の
アニメーターとしてのキャリアの正確なスタート時期は
はっきりとはわかりませんが、
漫画家・うしおそうじ(鷺巣富雄)先生が中心となり設立した
アニメ・特撮会社「ピー・プロダクション」に在籍し
1964年制作の「0戦はやと」に参加。
この「ピー・プロ」では新漫画党で一緒だった永田竹丸先生も在籍していました。
そして前回のブログで前述したように、ここで出会った女性と結婚。
のちに一女一男に恵まれます。

そして1967年、坂本先生が憧れていた山川惣治先生が自ら
出版社「タイガー書房」を興し、絵物語雑誌「WILD」を創刊。
そこに坂本先生ご本人ではなく、奥様が持ちこみに行き、
それを受けて坂本先生はもともと描きたいと思っていた絵物語を
描きはじめるのですが、作品が完成する前にタイガー書房は倒産(1968年)
「WILD」も廃刊し結局作品は完成しませんでした。

歴史に「もしも」は許されないという常套句を無視して語らせてもらうと
もしも雑誌がつぶれていなかったら、
もしも絵物語というジャンルが廃れずにいたら、
坂本先生の人生は大きく変わっていたかもしれません。

ちなみにサンライズに在籍する前の坂本先生は
自らアニメスタジオをたち上げ、
その頃から低賃金だったアニメーターの待遇を改善しようと
給料を多く支払っていたら、資金繰りが苦しくなったので
畳んでしまったという事もあったそうです。

アニメの仕事は基本自宅でやっていて、
打ち合わせ等、必要な時にしか会社に行かず、
制作進行やその助手が坂本先生のお宅まで
原画を受けとりに来ていたために会社の人でも
坂本先生の顔をしらないという人もいたそうです。

土日関係なく、ほぼ休み無く机にむかい、
ひとつのアニメが終って、次のアニメが始まる間の
「休養期間」も動物画など趣味の絵を描いていたとの事。
漫画家時代の動物デッサンも勉強という意味もあったのでしょうが
「それよりもまず、好きだから描いていたのでは?」とご長男の言。

取材等、メディアへの露出は苦手で遠慮しており、
依頼がきても基本断っていたので、
「漫画関連の取材も特に漫画だったから断ったというわけではないでしょう」
と、ご長男は推測しています。
トキワ荘関連の依頼を断った時には、
奥様が坂本先生に「受ければよかったのに」と言っていたそうですが、
それがCOMの「トキワ荘青春物語」の依頼なのか
NHKのトキワ荘同"荘"会の依頼なのかは定かではありませんが、
その両方とも坂本先生は参加していません。

さて、寺田ヒロオ先生が坂本先生に「漫画少年史」を贈呈したというエピソードですが、
その「漫画少年史」にも坂本先生はコメントを寄せてはおりません。
寺田先生は坂本先生にもう一度漫画を描いてほしいと
希望している内容の手紙も出していたそうです。
坂本先生は寺田先生が酒浸りで引きこもっているという話を聞いて
心配をしていたそうです。

漫画関連だけでなくアニメ関連の取材も断れる限りは断っていたそうなので、
ここまで第一線で活躍していたアニメーターとしては
取材記事や寄稿が少ないのも、こうして理由を知ればうなずけます。
それが故に後年「謎が多い」と評される事にもなるのですが…

メディア露出こそは極端に少ないものの
ファンは大切にしていて、作品をあげてしまう事もしばしばあり、
そのお礼などでファンから作品(同人誌?)が送られてくる事も当然あるわけですが、
その中には後に有名な作家になった方が参加していた本もありました。

坂本先生はキャラクターデザインの設定画に忠実に作画し、
自分の絵柄を出す事は無かったのですが
「暖かみのある絵」だとアニメファンから評されています。

その実力はサンライズ周囲でも評価が高く、
「イデオン」のキャラクターデザインを担当した湖川友謙氏は
当時のサンライズ第一スタジオの力量に不安を感じたので
坂本先生に「イデオン」への参加を要請しています。
その時の事は「頼まれたから移動した」とだけ坂本先生ご本人が
ご長男に話していたそうです。

「イデオン」「ダンバイン」「ザブングル」と
最終回の作画監督を務めたのも、
富野由悠季監督の信頼が厚かったからでしょう。

後年はサンライズを離れてフリーになり、
アニメ制作会社「ライフワーク」が制作協力をしている
「ちびまる子ちゃん」や「少年アシベ2」等
ファミリー向けのアニメ作品の作画監督を勤めます。

坂本先生は自分の関わったアニメ作品を
テレビでチェックする事は特になかったそうですが、
ディズニーアニメは好きでよく観ていたそうです。

若き日は雑誌「ディズニージャーナル」に
イラストを投稿して掲載された事もあるそうです。
(こちらはネット情報)

続く








yota874harahara at 19:47コメント(0)トラックバック(0)トキワ荘の話漫画家に関する話 

2016年05月24日

坂本三郎先生の漫画家時代

坂本三郎先生は1935年5月22日に東京で誕生しました。
戦争中は疎開をしていて、東京に帰ると
家は空襲で焼けてなくなっていたそうです。

母は早くに亡くし、きょうだいは上に早世した歳のはなれた姉がいて
兄がふたり(一郎・次郎)がいたとの事。
坂本先生はその名前からわかるとおり三男でした。

入谷に現存するアパート「金嶺荘」にいつまで住んでいたか、
ご長男も坂本先生から聞いてはおらず不明ですが、
たぶん兄と一緒に住んでいたのではないか…と推測されます。

もともと坂本先生は山川惣治先生に憧れて絵物語作家を志してましたが
当時新人漫画家の投稿を奨励していた伝説の雑誌「漫画少年」に投稿するも落選。
そこで「なにくそ!」と奮起して漫画家になったそうです。
ご長男曰く「一度決めるとそれに真面目にとりくむ人でした」

坂本先生は寡黙な方でしたので自分の事は聞かれない限りは語らず、
隠していたわけではないのですが元・漫画家だと自ら話す事はありませんでした。

ご長男が父が元・漫画家だと知ったきっかけも
家に藤子先生から年賀状が来てるのを不思議に思って質問したら
「お父さん昔漫画家だったんだ」と答えて、それで初めて知ったとの事です。

坂本先生はアニメ制作会社ピー・プロの同僚の女性と20代後半で結婚しました。
当時としては晩婚のほうなので、もちろんご長男はアニメーターとしての父しかしらず
漫画家時代のこともあまり聞かなかったので、
その当時の話はご長男もご存知ない事が多いそうです。

「思えば性格的になぜ父が新漫画党に入ったかがわからない」と
ご長男は不思議に感じつつも
「たぶん漫画家として駆け出しだったので不安だったのかもしれません」
とも推測されていました。

ここで「新漫画党」結成の経緯を書きますと…

新漫画党は1954年、本格的に上京する下調べの為にトキワ荘に訪れた
藤子不二雄A先生が寺田ヒロオ先生と意気投合し、
若手漫画家を集めてグループをつくろうと話した事がきっかけで
同年7月に寺田ヒロオ先生を党首として結成されました。

メンバーは他に藤子不二雄A先生、藤子・F・不二雄先生、
森安なおや先生、永田竹丸先生、そして坂本三郎先生の6名。
その時代の話は藤子A先生の「まんが道」で詳しく描かれています。

前述通り漫画家時代の事はご長男もあまり聞いておらず、
坂本先生がなぜ脱退したかもわからないのですが、
遅筆だったので自分の作品だけでもいっぱいいっぱいで
「漫画少年」で連載されてる「新漫画党合作」を描くのが
もしかしたら辛かったのかもしれないとご長男は推測していました。

新漫画党結成前、坂本先生は「漫画少年」に「漫画家訪問」を連載していて、
福井英一先生や田中正雄先生の他、憧れてた山川惣治先生、
そしてのちアニメーターに転身した時に在籍する「ピー・プロ」創設者
うしおそうじ先生も訪問しております。

もちろん手塚治虫先生も訪問しており、それがきっかけかはわかりませんが、
手塚先生の手伝い(今で言うヘルプアシ)もした事があるそうで、
その時、手塚先生は「あとは任せた」と言い残し逃走したとの事。

手塚先生らしいエピソードですねw

「まんが道」では新漫画党脱退(ちなみに坂本先生が脱退したのは1956年5月)
と同時に漫画家も辞めてるような描き方をされていますが、
実際はそのあとも漫画家を続けていたようなのです。

漫画家を辞めた詳しい理由も坂本先生はご長男に語ってはおりません。
ですが、ご長男が母(坂本先生の妻)や姉(坂本先生のご長女)から
聞いた話を総合すると、
石ノ森章太郎先生が「マンガ家入門」にかいた事でほぼ間違いはないそうです。

ここでは、その詳しい内容は書きませんが、
気になる方は「マンガ家入門」は文庫にもなってますので
そちらを参照されて下さい。


それで嫌気がさして辞めたのは確かなのでしょうが、
「漫画そのものに愛想がつきたわけではないと思う」と
ご長男は仰っておりました。

漫画家時代の坂本先生は毎日の様に上野動物園に通いつめて、
正確な動物デッサン画を何枚も描いていましたが、
漫画家引退後もそれはつづけていたそうで、
その頃に藤子A先生と坂本先生は上野動物園で偶然再会した事があると
A先生も証言されています。
そのエピソードは(脚色もあるでしょうが)
「まんが道」続編「愛…知りそめし頃に…」にも描かれています。

ちなみに、つのだじろう先生が
「百冊をこえる恐ろしく正確な動物デッサンのスケッチブック」
と印象的に「トキワ荘青春物語」に描いた
この坂本先生のスケッチブックの行方ですが…

「残っていません。たぶん引っ越しの時とかに父が処分したのだろうと思います」
と、ご長男の言。

…今も残っていたらもの凄く貴重だったのに残念です。

続く。



yota874harahara at 20:22コメント(0)トラックバック(0)トキワ荘の話漫画家に関する話 

2016年05月23日

ご長男の綴る父・坂本三郎伝

5/22奇しくも坂本三郎先生がご存命ならば81歳のお誕生日に、
私は坂本先生のご長男であるKさんとお会いし、
(ご本人がブログ上では匿名を希望されてるので以下は「ご長男」と書かせていただきます)
色々と貴重なお話を伺わせていただきました。

まずお会いする前にご長男からはメールにて
ご尊父・坂本三郎先生の略歴をまとめて送っていただいておりました。

坂本先生と面識の一切無い私の聞き書きよりは、
まずはご長男自ら書かれた文を紹介したほうが、
より「坂本三郎像」が伝わると思い、
ブログでの発表は差し控えてほしいという箇所は除き、
ご長男承諾の上でこちらにその略歴…「坂本三郎伝」を転載させていただきます。

以下『』内の文章がご長男の文章(編集は私、原田高夕己)になります。
(※)での注釈は私の文章による「補足」です。
文中の「自分」はご長男。「父」が坂本三郎先生。
「母」が坂本先生の奥様で「姉」が坂本先生のご長女の事です。


『坂本三郎(1935.5.22〜1996.2.23)

厳しい、怖いという印象は自分一人だけで、
他の人達は寡黙、温厚、勉強家でだいたい共通している。
趣味は絵、読書(小説ではない)。貰い物以外の漫画やアニメの本はない。

もともとやりたかったのは絵物語で好きな作家は山川惣治さん(代表作は少年王者)。
動物のデッサン(※注1)を好んだのは少年王者の影響が大きい。
漫画は楽勝と思っていたのに最初の投稿で落選したため
ムキになったとのこと。

漫画家を辞めた後に母が父の絵を山川さんの雑誌(※注2)に持ち込んだ所、
次は作品(漫画ではなく絵物語だと思う)が見たいとなったが
作品が完成する前にその会社だか雑誌だか無くなってしまったそうな。

仲が良かったのは竹丸さん(※注3)で、父の見舞いにも来てくれている。
寺さん(※注4)からの手紙(メモ)に今でも漫画描いてほしいというような事が書いてあったが、
当時の仲はよく知らない。
寺さんを心配していた記憶はある。
石ノ森さんとはあまり面識ないはずだが彼の作品にトキワ荘に暮らす
イラストレーター坂本三郎というキャラが登場したり(※注5)
父が漫画辞めた理由(※注6)に詳しかったりする。
アニメ009で作画監督していた時にハガキを送ってくれたりはある。
藤子さんたちも年賀状や本を送ってくれていた。
奥さんやお姉さんの話も聞いているので新漫画党抜けたっきりではなさそう。
基本的にこっちから聞かないと話さないため、
自分のよく知らない人の話は聞いた事がない。

代表作は「ひねくれたく坊」になるのかな?
割り箸で描いてみたと聞いた程度。
ちなみに漫画辞めてからも画材は持っており、
ペン先だけでも特殊な物や高価な物が多々あったので
いろいろ試すのは好きそう。
ペンは使うが趣味で漫画を描くことはなかった。

新漫画党を抜けた理由は聞いた事がないので知らない。
漫画辞めてからも毎日のように上野動物園で動物デッサンしていた。

ピープロ(※注7)で一緒した鈴木さん?(自分は知らない)は漫画家時代の知り合い。(※注8)
ゼロ戦ハヤト(字は違うかも)という作品をやっていた。(※注9)
東映や東京ムービー、タツノコなどピープロ以外も会社や系列またいで仕事しており、
当時を知る人によれば「とても器用な人でどんな絵柄も描けたからどの会社も仕事頼めた」とのこと。

wikiにある手掛けたアニメ作品は実際の半分もない。
懐かしのアニメでよく見る「フランダースの犬」最終回なんかも父。

ファンは大切にするらしく、お礼のハガキや作品(同人誌のようなもの)が送られてきていた。
その中にはプロで有名になった人もいる。アニメの話はキリないので省略。
メディアを極端に嫌う(というより遠慮する)ため写真や証言はとても少ない。
家族や友人、仕事仲間でも知らない事(本人以外から聞いて知る事)が多い。
謎が多いとされるのはこのため。
欲しがる人には作品を平気であげてしまうため、
特に仕事上の作品は昔から手元にはあまりない。

名前使用だけをケチるとも思えないので、
ドラマで坂木四郎となったのは、(※注10)
そもそも肖像権使用うんぬんの話するアポをとれなかったのだと思う。

職場の人は怒った父を想像出来ないと言う。
漫画をモメて辞めたにも関わらず頑固と言われないのはこのためか?

父の意志により死亡通知は数名(親戚含む)にしか出さなかったため、
業界の人は自分を探していたとのこと。

他人の作品について何も言わない(そもそもあまり漫画を読まない)ため、
どう見ていたかは知らない。
漫画業界についても同様だが嫌っている感じはなかった。

最後に描いたのは「ひねくれたく坊」。(※注11)

あと何だろう?
父の漫画作品は自分も家にあった漫画少年に載っていたものしか知らず、
その漫画少年も人にあげたらしくて…(どうも少ないと思った)
新漫画党s30年頃の作品だと太郎鬼になるのかな?』



注1…坂本先生が上野動物園に通い、動物デッサンをスケッチブックに
大量に描いていた事は新漫画党の仲間うちで特に印象に残ってたらしく
藤子A先生やつのだ先生らが証言をしています。

注2…山川惣治先生が自ら興した出版社「タイガー書房」から
昭和42年8月〜43年6月まで出した絵物語雑誌「WILD」の事。
この時期、すでに坂本先生はアニメーターになっていました。

注3…永田竹丸先生。坂本先生とは第一次新漫画党メンバー同士でした。

注4…寺田ヒロオ先生。新漫画党党首。のち「漫画少年史」を寺田先生が
出した時、坂本先生は文章等の寄稿はしなかったが、本は贈呈されています。

注5…石ノ森章太郎先生作「千の目先生」でヒロインの兄として登場。

注6…石ノ森先生の名著「マンガ家入門」にてその事は詳しく書かれています。

注7…アニメ・特撮制作会社「ピー・プロダクション」の事。

注8…漫画家からアニメーターに転身した鈴木英二先生の事。

注9…「0戦はやと」辻なおき先生原作の
1964年に放映されたピープロ初のテレビアニメ作品。

注10…藤子不二雄A先生の名作「まんが道」を原作に
NHKで1987年にドラマ化された「銀河テレビ小説・まんが道青春編」で
基本実名の漫画家仲間のなかで、坂本三郎先生は坂木四郎と仮名で
登場しています。演じた俳優は田中隆三。

坂本先生の絶筆注11…坂本三郎先生が「漫画少年」にて発表した
ブラックユーモア作品で、漫画家時代の代表作。
画像はご長男が保管されている貴重な坂本先生の絶筆。
絶筆とは思えないしっかりしたペンタッチで
描かれているのには驚きました

アニメーター坂本三郎先生が最期に描いたのが
自身の漫画作品のキャラクターという所が非常に
興味深く思えます。




その他、ご長男から伺ったその他のエピソードは
また後日、当ブログに書かせていただく予定です。

いままでネット上および他のメディアでも情報がほぼ皆無で
謎とされた坂本先生の略歴がこうして明らかになった事は、
漫画史上でも貴重な事だと思いますので、
私はだいぶ興奮しております。






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