山中潤氏の語る「ガロ」

2017年03月18日

また訃報が…

昨年から漫画家・漫画関係者の訃報が続いていて
悲しく思っておりましたが、
また一人、漫画関係者である『編集者』の方が亡くなられてしまいました。

白取千夏雄さん。
元「ガロ」副編集長として「4コマガロ」や
古屋兎丸先生や福満しげゆき先生を担当され、
故・やまだ紫先生の夫でもあった方です。

2005年に白血病が発症し、近年はメルケル細胞癌の闘病の末
昨日3/17に残念ながら亡くなられてしまったとフェイスブックで知りました。

白取さんのブログには
その凄まじいまでの闘病の様子が記録されております。
http://shiratorichikao.blog.fc2.com


最期の更新は14日。
そして古屋兎丸先生のレスの承認をした所で
力つきてしまった…と推測されます。

私は白取さんとはご面識もなく、お会いした事もありませんが、
数年前、拙ブログにて元青林堂社長兼ガロ編集長であった
山中潤さんのインタビュー記事をUPした時に
白取さん直々にこちらにレスをしていただき、
その上、拙ブログのおかげで山中さんと連絡がとれたと
お礼の言葉まで書いていただいたという事がありました。

そのレスから数年後にお二人はあのガロ分裂騒動以来の
再会を果たしたとの事で、
もし私のブログ記事が万分の一でもその再会のお役にたてたのであれば
本当に光栄に思っておりましたが、
結局私は白取さんとは一度もお会いする事は出来ませんでした。

必ずや病気に打ち克って編集業に復帰するという
鬼気迫るまでの強い意志でもって闘病されていたので、
本当にご無念だとは思います。

氏の魂の安らかなる事と、ご冥福をお祈りさせていただきます。

合掌。

yota874harahara at 20:36コメント(0)トラックバック(0) 

2008年10月20日

最後に

「山中潤氏の語る『ガロ』」
最後まで読んでいただいた方々に感謝します。

何度も言い訳をしてしまいますが、
私は文章の勉強は、学校の作文の授業うけた程度の素人なので、
読みづらい部分や、変な表現も多々みられると思います。

なにより、お話をしていただいた、山中さん本人にも、
細かい間違いが多い等、不安な思いをさせてしまった事に、
改めて自分の未熟さを痛感し、反省する事しきりです・・・

改めて申し訳ありませんでした。

今思うと、ブログに記事を載せるのも、
もったいつけずに、いっぺんにアップすればよかったのかもしれません。

とりあえず、記事はこれで終了ですが、
細かい間違いの箇所は後で訂正しますので、
まだこれが完成というワケではありません。

  
昔から憧れの雑誌だった『ガロ』
それが突然の休刊になり、
その裏には経営陣と編集部員との間のトラブルがあったと、
当時色々な新聞や雑誌の記事にかかれていました。

しかし、山中さんは、『入院してた』(実際はしていなかった)
と伝えられたせいか、取材要請も特になかったそうで、
そうなると、記事は福井氏と元編集部員の話を元にして書かれた事になります。

今回こうして、お話をうかがって、
あまりにも当時書かれた記事と違うのに驚いてしまいました。

もっとも福井氏や元編集部員に今もしお話を伺ったら、
立場の違いから、また違ったお話をするのかもしれません。

『ガロ』は多くの読者に愛された雑誌で、
日本の漫画界の隆盛は『ガロ』なくしてありえなかった
と、言っても過言ではないと思っています。
(もちろんガロだけの功績ではありませんが)

それ故に色々な思いを『ガロ』に持っている方が、
今でもたくさんいられると思います。

今回こうして記事を書く事は、
コメントを中止したり、更新を見合わせた日があったりと、
正直プレッシャーに押しつぶされそうでした。
本当に私には分不相応な作業だと感じました。

取材させて頂く前に、山中さんには、
「一日50件前後のアクセスしかない弱小ブログですが、
 そんなのに記事を載っけていいんでしょうか?」
と、まず問いました。

それに対して山中さんは、
「一日50件といいますけど、その50件の裏には、
 それこそ、その何倍もの読者がいると思いますよ。
 現に、こうして僕だって原田さんのブログをみつけて、
 それで、こうしてお会いできている訳ですし」
と答えてくれました。

全くその通りで、『その1』をアップした時、
普段の3倍の150件のアクセスがありました。


改めて、山中潤様には、
事務所まで押し掛けて、お邪魔した事をお詫びすると共に、
貴重なお話をしていただいた事に感謝したいと思います。

有難うございました。

原田 高夕己


※2017年2月17日追記

青林堂元社員に対するパワハラ問題が報道された事で
拙ブログに訪問される方がここ数日増えております。

しかし、私が山中氏からお話を伺い
(本当に不慣れでご迷惑をかけたと反省しております)
ブログ記事にしたのは日付をみてもわかる通り、すでに8年ほど前の事です。
主題になっているのは旧ガロの休刊と分裂騒動についてです。

当時は青林堂もまだ雑誌「ジャパニズム」創刊前で
いわゆる保守系・右系の出版社といわれてはおらず、
パワハラ問題も無かったか、あるいは明るみになってなかった時期です。
ですのでパワハラとか思想に関する話はブログ記事には載っておりません。

今回の青林堂の問題については山中氏ご本人が
Facebook・Twitter上においてメッセージをアップしておりますので、
ここでリンクを貼る事はしませんが、
見る事の出来る環境にある方は
ぜひそちらのほうをお読みいただく事をお勧めします。

なお、私は過去・現在に至るまで青林堂および青林工藝舎とは
一切お仕事をさせていただいた事もなければ、もちろん関係者でもない
単なる1ファンにすぎないという事を改めて記しておきます。

yota874harahara at 23:21コメント(18)トラックバック(0) 

山中潤氏の語る「ガロ」・8

私は山中さんに現在の漫画業界の事を質問してみました。

現在は、山中さんが関わる前のガロと同じ様に、
雑誌の収入が見込めないので、単行本収入で補填するという雑誌が、
増えてきている。
マイナー誌だけではなく、メジャーといえる雑誌も休刊してきて、
業界全体で雑誌の売り上げが落ちて行ってる・・・

そういった状況を、どう思ってられるのだろう?

「いや、それは昔も今も同じで、雑誌はもともと儲けが少ないモノですよ。
 当時だって単行本頼みだったのは今と同じ。
 いくら、ジャンプやマガジンが売れていたって、
 雑誌だけの収入なんて、他の大企業の年収に比べたら少ないほうです。
 波及効果とかを考えるとスゴイんですけどね。
 ・・・それで、現在は漫画業界全体が低迷しているという話はよく聞きますが、
 その割に映画やドラマの原作は漫画からとってるのが多いですよね?
 アレはなんででしょうね?どう思いますか?」

逆に質問されてしまいました。
私も詳しくはよくわからないので、

それは多分ドラマも映画も自前で脚本家を育てられないから、
漫画にしろ小説にしろ他の媒体から原作を借りていて、
さらに言うなら、出版社の方から原作の売り込みを働きかけ、
相乗効果を期待しているのではないか・・・

と、一般論を述べるにとどまった。

「やはり育てられないという事は、
 映画業界とかに入って行く若者が少ないとか、
 若い人が希望をもてなくなっているせいなんでしょうね。
 たとえば金持ちになりたいと思っても、
 ホリエモンみたいに逮捕されるのを見てしまうと、
 希望ももてず、ニートとかになっていくのかもしれませんね・・・」



さて、山中さんから、
現在のカスタムパソコンショップ『JUNS』の事で
なにか告知する事はないでしょうか?
と伺った所、
「特に現在の告知とか宣伝とか、そういうのはいいです」
と、答えられました。

けれど、ショップのアドレスだけは貼っておこうと思います。

http://www.juns.jp/


最後に山中さんの今後の活動や展望について伺った。

「今、足場も固まってきたので、
 もう一度雑誌をやってみたい気持ちがあるんです」

失礼ながら、少々意外にも感じた。
なにしろ現在は出版不況で雑誌が売れなくなっている。

「ネットが普及して雑誌が読まれなくなったと言われますが、
 それでも紙媒体だからこそ出来るモノ。
 紙媒体でないと成り立たないモノってのがあると思います。
 それに、広告にしてもウェブ上に広告を出さずに、
 雑誌や新聞にしか広告をださない大企業だってあります。
 写真とかの特集でも、ウェブより紙媒体でないとダメと思う人も、
 まだまだ多く存在する。
 なんだか、今もう一度雑誌をやれる時期が来たんじゃないかな?
 と、思うんですよ」

そして、山中さんの思いは雑誌だけにはとどまらない。

「映像も最近は一眼レフでいい映像が撮れるカメラがあるし、
 ハイビジョンカメラも安くなって、以前より簡単に、
 クオリティ高く、低予算映画を撮れる様になってきました。
 今、クリエーター向けのパソコンを作っているから、
 そういうのを見たり触ったりできています。
 たまたま『m.o.v.e』のt-kimuraさん(注1)にマシンを提供して、
 知り合ったり、石井聡互監督(注2)にも会ったりしていますし、
 今後は映画と雑誌の両方やって行けたらいいなと思っています」

帰りぎわ、山中さんはエレベーターまで
笑顔で見送ってくれました。

不景気だとか、夢の無い時代とか言われる現在、
今なお、挑戦しようと意欲をみせる山中さんに、
勇気づけられる思いで私は事務所を後にしました。
 
追記は注釈解説。

文責・構成
原田 高夕己

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2008年10月19日

山中潤氏の語る「ガロ」・7

福井氏体勢下の青林堂とガロには山中さんは関わっておらず、
ではこの頃何をしていたかというと、写真の個展を開いていたそうです。

「青林堂の社長だったという身分を隠して、
 写真の売り込みとかしてたんですよね。
 アートギャラリーの渋谷美蕾樹で個展を開きました」

そして、蟹江氏が青林堂社長に就任し、2000年1月号より再々度復刊したガロは、
また以前のサブカルチャー情報誌に近い形に戻っていった。
その新生ガロに山中さんは、再び関わる事になった。

「復刊した最初の号の台割は僕がやりました。
 だけど、その後に長井勝一資料室のある宮城県の塩釜まで取材にいって、
 東京に戻ってきたら、もう席がなくなっていました」

そこで山中さんはガロから完全に離れて行ったらしい。

「蟹江さんはカゴメ創業者一族の人なんですが、
 色々苦労したそうで、高校は中退だったか、行かなかったかみたいなので、
 大検をとって早稲田大学に入ったそうです。
 プラモデルが好きで、『大和堂』って名前も戦艦大和からとったらしいです。
 ねこぢるのCDロムを作りたいって言ってきたから、
 僕がもっていた版権を大和堂にうつしました。
 この頃は経済的にも苦しくって、その上に迫られた感じになって、
 青林堂を大和堂に売るハンコも押してしまいました」

福井氏はどうしてるのかというと、
この頃はガロ復刊の為に色々な所からお金を借り、
某出版社の人たちとチームを組んで、編集会議をひらいていたそうだ。

その後、蟹江体勢下のガロは2001年半ばより隔月刊誌に、
2002年半ばから季刊誌へと移行していった。

「その頃のガロで良かったと思えたのは、
 鳥肌実(注1)を起用した事ぐらいですね」

そして2002年。ガロはオンデマンド出版の雑誌になる。
内容は過去の名作(主にガロ作家以外)の再録で、
ガロの最大の特徴である「新人起用」の伝統はここで潰えた。

そして、休刊の正式決定もでないまま、
現在まで最新号の刊行はされてない、事実上の休刊状態となっている。
(「妖怪ガロ」等のガロの名のついた、増刊的な本は発行された事がある)

その後の青林堂は主に漫画のネット配信や、
オンデマンドの単行本の販売をしている。
子会社の青林堂ビジュアルは2003年にタカラの子会社になったが、
タカラの会社統合により、同列関係は清算されている。

さて、元ガロ編集部員の興した青林工藝舎と、新生青林堂の関係はどうだったのか?
お話をうかがったあとに、山中さんから資料として当時の記事を送っていただいた。

それによると、蟹江氏は休刊騒動の際に元編集部員が行った、
原稿もちだしや、福井氏を非難する声明文をだした事に対し、
名誉毀損で損害賠償請求を2000年におこしたそうだ。

この裁判は和解で終わってるが、和解内容は不明。

そして、昨年2007年に蟹江氏はインターネットオークションにて、
模造拳銃を売り、銃刀法違反で逮捕された。


さて、ガロとも青林堂も離れた山中さんはというと、
これからはのんびりと暮らそうと2000年より沖縄に移住した。

「そこでたまたま『編集長募集』なんてトンデもない求人があったんで、
 面接に行ったら、採用されました。
 それで、沖縄の印刷会社の子会社の広告代理店が出していた雑誌
 『住宅情報』の編集長になりました」
 
だが、後でその誌名がネックになる。

「東京の『住宅情報』から誌名を変更してほしいとクレームがついたので、
 ならばもう全く違う新しい雑誌をやったほうがいいと上からいわれて、
 女性誌『KeyRey』(キレイ)を創刊しました。
 表紙モデルは高校生だった、比嘉愛未さん(注2)です」

だが、それから山中さんは沖縄を離れる。

「この頃mixiをやりはじめました。
 山野一さんや、いしかわじゅん(注3)ともマイミクになりました。
 そうして、このまま50になったら、もう沖縄から出れなくなるな・・・
 と、思い、それから九州に行き、広島に行き、どんどん北上していって、
 東京にもどりました。ミクシィの旅です(笑)」

そして、趣味で作ったパソコンをネットオークションで販売。

「それが評判になり、カスタムパソコンの会社をつくって、
 現在に至る・・・というカンジですね」

・・・その8に続く。
追記は注釈解説。

文責・構成

原田 高夕己続きを読む

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2008年10月18日

山中潤氏の語る「ガロ」・6

ガロ休刊号私がブログに「ガロ休刊騒動」という記事を書いたのは、
漫画のウンチク話のひとつとして、
好きだったガロについて触れたかったからで、
休刊当時の記事数点とネット情報を資料にしました。

その参考にした資料のひとつ、「コミックボックス」誌に載った記事。
「ガロ休刊の真相・ここには真実のみが語られています」
と、題されたその記事によると、1997年7月4日がXデーだったそうだ。
その7月4日に何がおきたのかをまとめてみると・・・


まず福井氏が手塚副編集長に尋ねる。
「青林堂をある所に売却するらしいと山中君に聞いているが、事実なのか?」
それに対し手塚副編集長は「それは山中さんに頼まれた」と返答されたので、
福井氏は、その場(青林堂)に山中さんを召還し、事実関係を確かめた所、
「そんなことはいってない」と、山中さんは否定。
その上で青林堂の親会社であるツァイトの社長の福井氏に内緒で、
会社の売却は出来ないと語った事で、
編集部員はよってたかって山中さんを責め立てる。

福井氏は「体調不良の山中に対し、集団でこんなことするのは暴力だ」
と、擁護し、
「山中がそんな状態の時に勝手に会社の売買は承認できない」
と、青林堂の代表者印をあずかる。

そして、7月7日に、編集部員全員が辞表を出す・・・



しかし、山中さんから伺った7月4日のお話は、
この記事にかかれた出来事とはかなり違っていました。

「福井さんは代表者印が欲しくて、ずっと探していたらしいです。
 そういう動きを知ってたので、僕は福井さんを避けていました。
 日にちはよく覚えていないんですが、たぶん7月4日の事でしょう。
 昔の友人に呼ばれて、ツァイトと青林堂のある初台のビルに行った所、
 そこに福井さんが現れたのです」

そして、山中さんは8階の青林堂に連れられた。

「福井さんには編集部員のいる前で、
 会社のハンコを渡してほしいといわれました。
 それで、その場で福井さんに代表者印をわたしてしまいました。
 高市さん(注1)は泣いていました。
 浅川さん(注2)からは『とうとうガロをつぶしたね・・・』
 とポツリと言われました。
 本当に、今となって思えばなんでそういう事をしたかわからない。
 この時は体調がよくない事もあって、マトモじゃなかったのかもしれません」

そこで山中さんは少しの間、絶句した。思い出すのも辛い記憶だったのだろう。
初めて取材というのを経験する私にも、こういう話を詳しく伺うのは辛かった。

「ガロの事をよく知らない、つげ義春先生や林静一先生の作品も
 多分読んだ事がないだろう福井さんに青林堂をわたしてしまって、
 大丈夫なのだろうか?と、そういう事を思うとやりきれない気持ちになって、
 僕はガックリと、その場でへたりこんで泣いてしまいました」

記事とは全く違う話だ。
実際には青林堂の売却話は山中さんが手塚副編集長に依頼しているし、
記事にかかれた様な編集部員たちの『罵声』も無かった。
そして、福井氏も特に山中さんをかばう行為はしてないという。

「福井さん自体はそんな悪い人ではない。素朴な人だと思ってます。
 ただ、こうして直接でなく、別の人を使って僕を呼び出して、
 そこでハンコをわたしてくれだなんて行為はひどいんじゃないか・・・
 と、思いましたが、結局その福井さんに負けた自分も悪いんですよね」

そして7月7日の編集部員全員の辞表提出に関しては、
山中さんはいっさい関わっていない。
その後、辞職した元ガロ編集部員たちが興した『青林工藝舎』や、
ガロの後継誌といえる「アックス」にも山中さんは関わっていない。

ともかく、編集部員が一斉に退職してしまったこの時点で、
9月号の刊行は不可能になり、ガロは突然休刊する事になったのである。

「この前10年ぶりかに元編集部員の一人からメールが届いたので、
 久しぶりに会って『あの時はお互いオカシかったね』と話しました。
 他の元編集部員にもメールしましたが、
 何人かは返事をかえしてはくれませんでしたね。
 ガロはあの時つぶれる状態じゃなかったですから、
 たぶん僕の事を恨んでるんでしょうね」

現在アックスの編集長である手塚氏は、
本当にガロを心から愛してる人だったそうです。

となると、騒動当時に囁かれた、"元編集部員達のクーデター"
というのは事実とは違うという事になる。

ところで休刊騒動の時に当事者である山中さん本人に取材要請は無かったのか?

「フジテレビのプロデューサーが電話してきた位です。
 やっぱりガロは長井勝一のモノで、その長井さんが亡くなって、
 ガロもつぶれた・・・と、そんな認識だったんでしょうね」

取材がなかったのは山中さんが入院していたと伝えられてたせいもあるだろう。

「入院はしてません。その頃はスペインで静養してました。
 多分福井さんが入院したってみんなに言ったんではないかと思います」

「結局福井さんはOさんの言いなりになっていたんじゃないんでしょうか?
 Oさんが出すと言ってた6000万円はいっこうに出る気配無く、
 結局ツァイトは潰れた。潰れる前に僕はやめてるのですが、
 倒産の案内は山中名義でだされていました」

その後97年12月に新生青林堂は、新たに編集部員を集め、
元ガロ作家の長戸雅之(注3)編集長の下、復刊する。

「こう言ったら悪いけど、新しいガロは
 趣味に走りすぎてる様に感じた。まるで同人誌みたいな・・・
 もちろん同人誌が悪いという意味ではありませんが」

結局復刊したガロだったが98年9月、再度休刊する。
しかし、ガロはそこで終わらない。
ねこぢるの版権を所有するCDロム制作会社『大和堂』の系列となり、
再々度復刊を果たす。

その『大和堂』の社長、蟹江幹彦氏(注4)は、
その後、福井氏に代わって青林堂の社長になる。

・・・その7につづく。
追記は注釈解説。

文責・構成
原田 高夕己続きを読む

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2008年10月14日

山中潤氏の語る「ガロ」・5

1996年にガロ編集部員や、昔からの作家達の心のよりどころといえた、
青林堂創業者・長井勝一氏が亡くなる。
後になって『この時にガロは休刊すべきだった』
といった厳しい意見も聞かれるのだが、
まだこの時は青林堂もガロも経営状態は安定していた。

ではなぜ翌年の1997年に休刊騒動がおきたのか?
その原因として、まず『デジタルガロ』があげられる。

「95年にウィンドウズが発売されて、外国からソフトが大量に入ってきて、
 それでソフト制作会社であるツァイトが苦しくなって行きました。
 それに加えてアスキーでお家騒動がおき、
 朝日新聞は一面でアスキーの不良債権の事をかき立てた。
 アスキーを潰そうって思ってたんでしょうかね?新聞の怖さを知りました。
 それでアスキーの資金ぐりも悪化したんですが、
 どういう訳か、そのアスキーがツァイトにお金を振り込んでくれたのです」

そこで、山中さんは勝負にでたのである。

「当時はネットを繋げるにはなんだかんだで2万円位かかっていました。
 じゃあ、そんな中CDをのっけて、入会費無料で、ネットに繋ぐ事も出来る。
 そんな画期的な商品を980円で、コンビニにも流通して、
 大々的に売り出そうと考えたんです。
 しかし、取次は紙のページの無い、CDロムだけの商品は取り扱ってくれません。
 そこで、紙のページをつけて、雑誌の形態にしたので、
 結果的に『デジタルガロ』っていう名前になっちゃったんです。
 最初からそういう名前にするつもりはなかったんですよ。
 それで紙のページが埋めらんなくて、何でもつっこんじゃった(笑)
 沼田元気さんと羽良多平吉(注1)さんはケンカしちゃうし、
 メチャクチャな雑誌になっちゃいました」

この時、ガロ編集部からは、編集職を辞めて、
白取千夏雄氏(注2)がツァイトに移籍し、デジタルガロ編集長として、
制作にかかわっている。
白取氏は休刊騒動の事を詳しくウェブ上に発表して、
今回、私が山中さんの取材をする際の資料として参考になりました。

「けど、『デジタルガロ』は企画自体は良かったんですよ。
 980円でネットに繋げ、入会費無料だし、コンビニの人もノってくれたので、
 初回に8万部投入しました。表紙はエビスさん(蛭子能収)です。
 だけど結局パッとみたかんじ何の本なんだかわからない。
 それにインターネットをやろうと思う層とガロ読者との接点が無かった。
 電車の吊り広告もやったんですが、ガロにからめてしまったのが悪かった。
 それが失敗。だけど、『デジタルガロ』はガロの名前を名乗っていても、
 ツァイトが制作したモノで、青林堂のお金は一切使っていません」

休刊騒動時の記事によると、
『デジタルガロ』の失敗で青林堂も傾いたと読み取れる箇所がある。

「当時青林堂は4億の資金があったし、休刊する状態ではありませんでした」

しかし、その頃、山中さんは、急激に痩せる。
短期間で60キロ台だった体重が一気に40キロ台に・・・

「20キロも痩せて、もうツァイトは閉めようと思ってたんです。
 そうしたら、先輩筋にあたる福井さん(注3)が現れて、
 『ならオレが社長になろうか』って言ってきたんです」

その福井氏は大阪のOという人物に心酔していたらしい。
そのO氏に頼んで6000万ほどの資金を用意してもらう手筈だったそうだ。

「もうその頃は体重が20キロ減った事もあって、とにかくガロから離れたいと思っていた。
 だからまず最初にツァイトは福井さんに預けて、青林堂は他の人に買ってもらおうと、
 副編集長の手塚(能理子)さん(注4)に頼んで、誰か買ってくれる人がいないか、
 探してもらいました。
 そこで手塚さんは白夜書房の末井(昭)さん(注5)に相談して、
 ガロをひきとってくれる様に話が進んでたんですが、
 白夜書房の社長は絶対的な人で、その社長が反対したので、その話は流れました」

ツァイトは福井氏が社長になったが、青林堂の社長はまだ山中さんだった。
だが、ガロの編集部員は日々、福井氏にガロが乗っ取られるのではないかと、
不安に感じていた事だろう。

さて、いよいよこれから、ガロ休刊騒動の話を山中さんに聞く事になる。
色々と思い出したく無い事も多いとは思いましたが、
やはり、それが一番気になる事。

当時の記事には、元編集部員のクーデターだった・・・
と、いった様なかかれ方をしていますが、
実際はどうだったのでしょうか?


・・・その6につづく。

追記は注釈解説。

文責・構成 
原田 高夕己続きを読む

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山中潤氏の語る「ガロ」・4

ガロ30周年号『ガロ』の売り上げが落ち込み、経営危機に陥った青林堂だが、
山中さんが編集長になり、サブカルチャー総合誌的な性格が強くなってから、
徐々に売り上げが伸びて行った。 

そして、社の生命線と言える単行本のヒットもあって、
青林堂は経営危機を脱する。

この頃の最大のヒット作。
それが内田春菊『南くんの恋人』(注1)だ。
作品はドラマ化の影響もあって、かなり売れたそうだ。


「『南くんの恋人』がドラマ化されるって事なんで、本の帯にドラマ主演の二人、
 武田真治さんと高橋由美子さんを使わせてほしいって頼んだんですが、
 OKがでませんでした。それでもコンビニで大々的に販売したい。
 だから目立たせようと主人公の『ちよみ』の人形(フィギュア)を作ってもらって、
 それを撮影した写真を本の表紙に使ってみました。
 そして従来の青林堂の単行本のA5サイズよりも一回り小さいサイズにして、
 手に取りやすくしました。
 売り上げはすごく良くって、一日で増刷が決定して、
 最終的には15万部以上売れました」

もう一作、青林堂の単行本で映像化された『おもひでぽろぽろ』について

「『おもひでぽろぽろ』はジブリ映画なので、
 権利はほとんど徳間書店にもってかれちゃいました。
 プロデューサーの鈴木敏夫さん(現スタジオジブリ取締役プロデューサー) 
 にもお会いしました。
 キャラクタービジネスの話を語っていたのが印象深かったです。
 徳間の関連本ばかり売れて、単行本はあまりうれませんでしたね」

そして、94年に山中さんは念願の映画製作にとりかかる。
鈴木翁二の原作を、あがた森魚が監督した『オートバイ少女』
ガロ創刊30周年を記念して製作された作品だ。

山中さんはプロデューサーだったが、
プロデュースだけでなく、撮影・録音・編集と作品に深くかかわっている。

オートバイ少女
オートバイ少女


「映画は前から撮りたかったですからね。原作は鈴木翁二さんで行こうと決めてました。
 で、鈴木翁二作品の中の短編『オートバイ少女』を原作にして、
 あがた森魚さんに監督をお願いしました。
 イカ天に出た『マサコさん』ってバンドのキーボードやってた、
 田中さんが借りていた部屋に機材をおいて、
 そしたらそこにあがたさんが住み始めて、そのままそこが『オートバイ少女』の
 製作ルームになっていきました。
 主役の石堂夏央(注2)はオーディションで存在感があったので、
 彼女を主役の『みのる』に選びました」

山中さんは後にこの映画を観た人から言われたある言葉が印象に残っている。

「この『オートバイ少女』を観たことで、
 『今までずっと会わないままでいた父に今度会ってみようって思います』
 と、いってくれたコがいた。
 それを聞いただけで、ああ、この映画作って本当に良かったと思えました」

この時期のガロは明るい話題が多かったが、悲しい出来事もあった。
それが当時ガロで多くの作品を執筆していた漫画家・山田花子(注3)の自殺の件だ。

自殺直前日記 完全版 (QJブックス)
自殺直前日記 完全版 (QJブックス)


「当時山田花子は鬱病で入院していました。
 僕は、その時期に彼女の作品『魂のアソコ』を単行本にして売ろうとした。
 だけど、それを副編集長の手塚(能理子)さんに反対されたんです。
 『鬱で入院してる時に、自分が鬱の時に描いた作品が世に出るのを知ったら、彼女が悲しみます』
 というのが手塚さんの言い分でした。
 だけど僕は逆にそういった状態だからこそ、自分の作品を出す事で、励みになって、
 少しは前向きになってくれるという思いがあったんです。
 かなり手塚さんとはモメましたが、結局単行本化は実現しなかった。
 これで山田花子からしてみたら、最後の自分と世間との繋がりが絶たれた・・・
 と、そう感じたんじゃないか?と、僕は思うんです。
 もしかしたら、あそこで本を出してたら彼女は自殺しなかったかもしれない。
 けど、これは今でもどっちが正しかったかはわかりませんけどね」

もう一人自殺した作家ねこぢる(注4)については・・・

「チヨミちゃん(ねこぢるの本名)は夫の山野一(注5)さんのアシやってたんですよね。
 『おもひでぽろぽろ』で出来なかったキャラクタービジネスとか、
 そういう権利関係をしっかりと、ねこぢるでやろうと思って、
 話し合った事があります。自殺した時、僕はもう青林堂にいなかったので、
 詳しくはわかりません」

ガロの売り上げが伸びてきた・・・と、書きましたが、
それで気になるのは、やはりガロの最大の伝説というか、
もうトレードマークやキャッチフレーズ化しているアレ。

"原稿料ゼロ"

失礼とは思いながらもその事についても山中さんに伺った。

「ガロも売り上げがのびてきたんで、原稿料を1ページ2000円払ってました。
 だけどそれもまた払えなくなってしまったんですけど・・・
 何しろタダで描くのは大変です。
 やはりキチンとお金を貰えるからこそ漫画を描く意味がありますから。
 だけど、原稿料ゼロだからこそ、『タダでもいいから載せて欲しい』
 といった"本当に描きたいもの"を描く作家さんが出てきます。
 それで産まれてくるモノだってあるんです。
 けどもちろん原稿料払えないのはこちらが悪いんですし、
 それは甘えみたいなモノなんですけどね」

その原稿料を払えない事を新聞に強調されて報道された事があった。

「どこの新聞かはハッキリとは覚えてないんですが、
 確か東京新聞から取材うけた時、見出しに『作家はタダでも描く』
 って書かれました。もちろん僕はそんな事は言ってません。
 だけど『山中がこんな事いってるのか!』と、
 ガロの関係者の方からかなり怒られました。
 結局、後で記事を書いた記者の上司の方から謝罪されましたが、
 頼んだ謝罪広告とか訂正記事は載らなかったですね」

私はガロに設けられた新人賞『長井勝一賞』は原稿料払えないかわりに、
賞を設けて、その賞金を原稿料がわりにしてたのですか?と質問してみた。

「そういうワケじゃありません。
 なにしろガロには投稿原稿がたくさんきてましたから。
 古屋兎丸(注6)さんなんて最初から完成されていて、
 ズバぬけていましたけれど、そんな作品は一握り。
 あとはほとんどが埋もれていってますね」

そして青林堂は長年住み慣れた材木屋の二階を引っ越した。

「最初は近くのソバ屋の二階に編集部をうつして、
 それからツァイトの入ってる初台のビルの八階に転居しました。
 なにしろ僕が初台から神保町行くのに時間がかかるし、
 駐禁とられる事も多かったので、行き来するのがラクだからと、
 ビルの部屋があいた事もあって引っ越したんです」

1996年には青林堂会長で創業者、長井勝一氏が亡くなった。

「その時に僕はフランスにいってたので、対応はすべて他の社員がやってくれました。
 フランスに行く前に入院している病院にお見舞いに行ったのが最期の別れでした」

そして1997年。ガロ休刊騒動のあった年。
話は核心に迫ります。


・・・その5につづく。
追記は注釈解説。

文責・構成
原田 高夕己






 



 
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2008年10月13日

山中潤氏の語る「ガロ」・3

山中さんは自身が関わる前の『ガロ』の歴史や、
そのエピソードについても色々と語ってくれた。

まずはじめに、『ガロ』及び『青林堂』創業者であり、
初代社長・長井勝一氏の話から・・・

と、その前に長井勝一という人物の来歴を説明します。

長井勝一(ながい・かついち)
1921年、宮城県塩釜市出身。東京都南千住育ち。
山師にあこがれ、早稲田工手学校採鉱冶金部の夜間部に入学。
通学しながら、昭和鉱業の調査部に勤める。
その後、満州(現・中国東北地方)に渡り、満州鉱山等で働く。終戦直前の1945年2月帰国。
戦後特価本の卸しをする傍ら、『足立文庫』『日本漫画社』で漫画出版に関わり、
結核療養中の1962年青林堂設立。64年『ガロ』創刊。
以来、長きにわたり、社長・編集長として、数多くの漫画家を輩出した。
1995年・日本漫画家協会選考委員特別賞受賞。
翌1996年。死去。享年74。
「ガロ」編集長 (ちくま文庫)
「ガロ」編集長 (ちくま文庫)


『ガロ』という奇妙な雑誌名の由来は、白土三平の作品『やませ』等に登場する、
『大摩のガロ』というキャラクターの名前からとっている。
その事からわかるように、白土三平の作品を、『カムイ伝』を載せる為に創刊した。

山中さんは創刊時のエピソードを語る。
もちろん当時は青林堂に関わっていたわけでは無いので、
聞きづての話ですが。

「長井さんは創刊号にカムイ伝を載せたかったけれど結局間に合わないので、
 白土三平さんの過去の作品を再録した。
 その他、当時は執筆者が7人以上いないと雑誌が出せない決まりがあったから、
 水木しげるさんに何個かペンネームを変えて描いてもらい、
 無理矢理7人以上の執筆者がいる様にみせて創刊したんです」
 
創刊早々すでに『ガロ』はギリギリの状態だった訳だ。 

「長井さんに『なんでガロを創刊したんですか?』って尋ねた事があるんですが、
 そうしたら『差別を無くすためだよぉ〜』って言われた。
 それが本気だったか冗談だったのかわからないですけど、
 そのわりには朝鮮人の悪口をうれしそうに言ってました。
 だけど、悪気があるとか、差別しているという感じでは全然なかったですね」

長井氏の著作『ガロ編集長』には満州時代に呉君という朝鮮の人と仲良くしていたというエピソードが載っている。
現在ネットで騒がれてるような"嫌韓"
あるいはその逆の"韓流ブーム"みたいなのとは全く次元の違う話だ。
長井氏は実際に朝鮮半島の人たちと深くつきあって、
『何でもいいあえる仲』になったのだろうと思う。
もっとも相手がどう思うかはわからないが・・・閑話休題。

「ただ、長井さんは思想的に右も左も関係なかったですね。
 愛読書は『ニューズウィーク』新聞はたしか朝日をよんでいたと思う。
 あと、趣味で株もやっていました」

次は『ガロ』の生みの親の一人、白土三平さんの話に入る。

「白土さんも父親がプロレタリアの画家(岡本唐貴)でしたけど、
 本人は長井さんと同じ様に思想的に右も左も関係なかったと思います。
 ただ"闘争のエネルギー"というのをテーマに作品を描いてました。
 忍者武芸帳の影丸とか、リーダーが代替わりする事に、
 当時の学生運動家たちは衝撃を受けましたからね」

山中さんもファンである、つげ義春については、

「つげ先生は当時所在不明だったから、ガロに尋ね人の広告だして連絡とったんですよね。
 最初は時代劇で、後の作風とは違った雰囲気の作品を発表していました。
 その頃に水木しげる先生が『テレビくん』で講談社漫画賞受賞した事から、
 仕事量も増えて忙しくなってきたので、つげ先生が水木プロのアシになって、
 そこで収入の余裕もでてきた位から、『沼』や『チーコ』といった私小説風の作品を
 ガロに載せて行く様になったんです」

そんなつげ義春の世界に魅了されたのが高野慎三氏(注1)で、
つげファンが高じて青林堂に入社している。

「『ねじ式』に対して長井さんは『こんなの載せないでいいよ』って言ってたそうです。
 漫画として認めてなかったんでしょう。
 だから結局ガロ本誌には載らず、増刊のつげ義春特集号に掲載されました。
 けど、それから一年間は何の反響もありませんでした。
 後に高野慎三さんの働きかけで漫画評論家に感想を求めるうちに、
 少しずつ『この作品は芸術だ』と騒がれ出しました。
 『漫画で芸術が出来る』というのは、はっぴいえんどの『日本語でロックが出来る』
 というのと同じ様に、既成概念を壊す、まさに衝撃的な出来事でした」
 
ちなみに『ねじ式』の"メメクラゲ"は本当は××クラゲ(バツバツクラゲ)と書いたのを、
高野氏が誤植したのだが、後につげ先生本人が「こっちのほうがいいね」と言って、
そのまま定着したというエピソードがある。

次は林静一の話。
 
「林静一さんの『赤色エレジー』を無断で曲にしたあがた森魚さんは、
 はじめて林さんに会った時、どこかの店の中にいたそうですが、
 あがたさんは『赤色エレジーの歌を作ったんです!』というや、
 突然ギターをもちだし、頼まれてないのに『赤色エレジー』を熱唱したそうです(笑)
 まわりのお客さんの目も気にせずに。みんな何事かと思ったでしょうね。
 そういえば、『同棲時代』を描く前に、上村一夫(注2)さんは林さんの所に訪れて、
 『今度、赤色エレジーと同じテーマの作品を描くのですが、よろしいでしょうか?』
 って許可をとりに来て、承諾を得たそうです」

仁義を感じさせるエピソードだ。

「その他、ガロには色々な作家が登場して、衝撃を与えつづけてました。
 佐々木マキ(注3)さんは難解で僕にはよく理解できなかったけれど、
 他にも、安部慎一(注4)鈴木翁二(注5)古川益三(注6)さんら、
 ガロ三羽ガラスと呼ばれた作家達や、なんと言っても看板作品の『カムイ伝』
 ガロの黄金時代ですね」

時代は学生運動華やかな頃。
当時の運動家や大学生にとってカムイ伝はバイブル的な存在だった。

「当時大学生は『右手に朝日ジャーナル左手に少年マガジン』を携えてると、
 よく言われてましたが、なんでガロがその中に入ってないんだろうと思いましたよ。
 マガジンよりもガロのほうが運動家や大学生に支持されていたハズなんですがね」

そんな全共闘の時代もあさま山荘事件をキッカケに一気に下火になっていった。
そして、カムイ伝が終了するとガロの売れ行きも一気に下がって行った。

「そんな中、編集部に在籍していた南伸坊(注7)さんやナベゾ(渡辺和博)さんが、
 面白ければ漫画という枠に関係なく雑誌にのせる"面白主義"を提唱します。
 この二人は編集長になりましたが、確か名目上だけで正式な編集長でなかったハズ。
 だから編集長はずっと長井さん。青林堂は長井さんの個人会社ですからね」

そして、この"面白主義"時代を象徴する作品が発表される。
糸井重里と湯村輝彦(注8)合作の『ペンギンごはん』だ。

「これがキッカケでヘタウマブームがおきたんですよね。
 糸井さんはコピーライターとしても西武の『おいしい生活』
 などで衝撃を与えてた頃です」

それでもガロの売り上げは不振のまま。
この頃は2月号と3月号が2・3合併号として売り出され、年11回の刊行だった。
それはやはり経営が苦しかったせいなのか?と、山中さんに聞いてみた。

「それはただ単に年末進行がしんどいんで、長井さんが、
 『ガロにあまりお金かけるのはダメだ。雑誌は儲からないんだから、単行本で儲けなさい。とにかく雑誌は続けていければいいんだ』
 ってコトで2・3月は合併号にしていました」

合併号は後に廃止され、キチンと毎月、年12回刊行する様になる。
 
 
・・・その4に続く。 
追記は注釈解説。  


文責・構成 

原田 高夕己


  




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2008年10月12日

山中潤氏の語る「ガロ」・2

さて、『ねじ式』のゲームを制作した山中さんは、
この頃に原マスミ(注1)のマネージャーをしていたという、
松沢呉一氏(注2)と出会う。

「松沢さんの紹介で『ガロ』に広告を出すんだけど、結局当時の『ガロ』読者は、
 ゲームやる人が少なかったので、全く広告効果はありませんでした。
 この時にはじめて長井さん(青林堂創立者・長井勝一)と会いました。
 青林堂に行ったら、ちょうど材木屋の二階にある編集部から階段をおりてきました」

有名な話だが、当時の青林堂は神田神保町の材木屋の二階にあった。
そしてこの頃の『ガロ』の部数は深刻なまでに落ち込んでいた。
当然青林堂の経営状態も悪化。
そこで長井氏は会社を第三者に身売りする決断をした。
 
「長井さんは赤瀬川原平(注3)さんに相談して、
 それで京都の某出版社が5000万円でひきとるという話になりました。
 だけど、ひきとるのは雑誌、つまりガロだけで、
 編集部員は全員解雇するという厳しい条件でした。
 そこで編集部員の谷田部さんが何とかならないかと、松沢さんに相談をしたら、
 『ならツァイトの山中にかってもらったらどうだ?』という話になった」

そして、山中さんは長井氏と話し合いの席についた。

「たしか神保町の『リリカ』とかいう名前の喫茶店で会う事になって、
 僕が『同じ5000万を出して、編集部員もそのまま働いてもらうという形で青林堂をひきとりたいんです』    
 と、いったら、長井さんはあっさりと『あぁ〜いぃよ〜』って言ってくれて、
 ほんの30分くらいで話し合いは終わっちゃいました」

何だか長井勝一らしいエピソードといえます。

私は長井氏に会った事はありませんが、ガロの作家達の語る人物像がほぼ一致しているので、
何となくですが、こういうおおらかな行動するだろうなというイメージをもっています。
その長井氏のトレードマークに、特徴的なしわがれ声があるのですが、
当然私はそれを聴いた事がありません。
ただ、山中さんがサービス精神旺盛に長井氏の台詞の所で、
長井氏のしわがれ声の真似をしてくれたので、多分そういった声色だったろうなと推測できました。

それにしてもゲーム業界にいた山中さんが異業種である出版業界にのりだす事に不安はなかったのだろうか?

「あの頃はバブルで景気も良かったので特に不安はありませんでした。
 アスキーが自社用の飛行機を所持するために自前の飛行場をつくるって計画があった時代。
 何でもすでに飛行場の土地も、アメリカでだいたい目星ついてたらしいですよ。
 そのアスキーから僕に社員にならないかって誘いもあったし、
 ツァイトの株も買いたいって話もあったり、お金の余裕があった」

そして箱根で青林堂の株主総会があり、青林堂は正式にツァイト傘下に、
山中さんは青林堂の社長に就任し、長井氏は会長職に就く。
それが1990年9月の出来事だ。

「資本金は1000万ほどだったけど、それから増資し、
 3000万くらいまでいったと思います」  
 
さて、ツァイト傘下となって再出発することになった青林堂とガロに対し、
山中さんはまず『特集』を組む事から改革を始める。

「参考にした雑誌は『サライ』『鳩よ!』『芸術新潮』et・・・
 漫画雑誌という枠にとらわれない誌面づくりを考えた。
 『月刊誌』というモノには特集が必要。
 それも資料的な価値のあるモノがないとなりたたないと考えていました。
 元々ガロの特徴はつげ義春や林静一の様な、他ジャンルに影響を与えた作品が多い事。
 僕は、あがた森魚(注4)やムーンライダース(注5)などのミュージシャンや、
 アラーキー・荒木経惟(注6)や沼田元氣(注7)らの写真家、他演劇関係者とか、
 そういう人たちが行き来してガロがつくられていくと思い込んでいた。
 けど、入ってみたらガロはあくまで漫画雑誌でした。
 ねらったのではなく、自然に漫画以外の才能が集っていたというワケですね」
 
92年には長井氏が編集長を辞し、山中さんが社長兼任の編集長に就任する。

「まずガロという雑誌の権威づけのために『名作劇場』という企画をたてて、
 過去の作品を再録しました。第一回はつげ義春、第二回は水木しげる等・・・
 毎号作家のインタビューものせていました。
 もっとも作家のインタビュー自体はナベゾ(渡辺和博・注8)編集長時代からありましたが」

漫画復刻本ブームが本格的に来る前の話だ。
 
「写真の特集は沼田元気さんに五万だけの予算を出して、
 ヌードグラビアを載せて、月に一度アラーキーが登場するといったかんじ。
 特集ページは多い時には70ページ以上ありましたね」

ただの漫画雑誌でなく、サブカルチャー情報誌という性格が強くなったのは、
やはり山中さんの明確な編集方針にあったようだ。

「けど、編集部員は特集を嫌がってましたよ。対立する事もあった。
 元々みんなは漫画だけを載せて行きたいという気持ちが強かったってのもあるけど、
 とにかく特集ページは作業が面倒というのも嫌がる理由でした」

材木屋の二階にいた当時の編集作業は、まず特集の原稿をもらう、
そしてネガができて、それを白黒反転する。
そのあとは編集部員がわざわざトレース台を使って、
細かいゴミとかの汚れをいちいち修正していたのだという。
それから職人さんが写植を貼る。
白黒ページならまだしも2色ページの時は特に手間がかかったという。

「後にDTPを導入したのでそういう事もなくなりましたけどね。
 ちなみにガロに台割は無くて、漫画は出来上がったモノから順に載せて行きました。
 なにしろ原稿のゴミとり作業に時間がかかってましたから・・・
 そういえばこの頃は編集部にコピー機すらありませんでした。
 コピーが必要なときは、経理から小銭もらって、外でとりに行ってました」

ガロおよび青林堂の貧乏伝説は噂にはきいていたが、
コピー機も無い環境で編集していたとは正直驚きました。
当然、後にキチンとコピー機も導入する。

「編集部員の給料も当時10万ほどでした。
 だけど、青林堂は残業がほとんどなく、9時〜5時で終わっていました。
 それでも追い込み作業で夜おそくまで残業する事はあって、
 そんなある日の夜中ファックスが僕の自宅に編集部員から送られてきた事があります。
 『お前は今頃オンナと一緒に寝てる頃だろーなー』ってな(笑)
 青林堂では夜6時すぎたら、仕事中でも酒を飲む事が許されていたんですよ。
 だから酔っぱらってそういうファックスを送ったんですね」

それもまたガロらしい、おおらかなエピソードだ。


・・・その3に続く。

文責・構成 
原田 高夕己

注釈解説は追記にて。

ガロ曼陀羅

木造モルタルの王国―ガロ20年史

 
 

 


 





 


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2008年10月11日

山中潤氏の語る「ガロ」・1

"ガロ"についてのお話をうかがうために、
山中潤氏の事務所にお邪魔したのは先週の土曜日。
山中さんは、どこの馬の骨かもよくわからぬ私を笑顔で迎えてくれました。

山中さんは実年齢より幾らか若く見える、
どこか浮世離れというか、飄々とした雰囲気の方でした。

まず、山中さんは「ガロ」に出会うまでの話をして下さいました。
(以下、カギカッコ内は山中さんの談話になります)

「僕は東京でうまれましたが、両親が離婚したので、和歌山に引っ越しました。
 高校生の頃はっぴいえんど(注1)のライナーノーツに林静一(注2)さんら、
 ガロの作家の事がかかれていて、それがガロを知ったきっかけです。
 和歌山市内の二冊か三冊位しか入荷しない本屋でガロを初めて買いました。
 確か鴨沢祐仁(注3)さんの『クシー君』の表紙で、他に川崎ゆきお(注4)さんや、
 ひさうちみちお(注5)さんらが描かれていました」

鴨沢祐仁は1978年、丸一年間ガロの表紙を担当している。

「その頃はバンドをやっていて、テレビにも出た事があった。
 音楽の他に、当時スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』が公開されて、
 映画にも興味がありました。
 それで、本格的に映画を撮りたいと思って、18で単身上京しました。
 東京生まれといっても、友達もいないし、映画は一人では撮れない。
 新聞勧誘員のバイトをしていたんですが、
 みんなは仕事中のヒマな時間にゲーセンに言ってサボッてたりしてたんですが、
 自分だけは仕事が終わってから一人でゲーセンにいってました」

そのゲームが山中さんの人生をまず動かした。

「ゲーセン通いもお金がかかる。ならば自分で作ってみようと思ったんです。 
 映画は一人では出来ないけど、ゲームだったら一人でも出来ますし。
 当時は『ぴゅう太』(注6)があればゲームが出来ると思ってましたが、
 アキバに行ったら店の人に『そんなんじゃダメだよ』といわれて、
 マトモな『PC6001』(注7)を紹介されました」

その後、山中さんはテーブルゲームの製作チームの手伝いをして、
そこでたまたまゲームコンテストの事を知って応募する。
その『マジカルズー・アドベンチャーゲームコンテスト』にて、
山中さんは見事優勝を果たした。

「そのマジカルズーでつげ義春ファンの人たちと出会って、
 ソフト制作会社『ツァイト』を創立しました。
 そこにはつげ先生の作品の他、評論本もそろえていて、
 みんな『ねじ式』とかのつげ作品の台詞を言い合ったりしてました」

"テッテ的"とか"医者はどこだ!"とか言い合っていたのだろうか?
そこまでは詳しく尋ねませんでした。

「『ツァイト』で製作したゲームを最初エニックスに売り込みに行ってたりしたのですが、
 いい返事はもらえませんでした。
 そこで、アスキーに行って、古川氏という人が買ってくれました。
 流通はアスキーで、製作はツァイトという形でソフトを作っていく事になりました。
 当時のアスキーは社員がみんな独立したがってる雰囲気でしたね」

ツァイトもアスキー本社のある初台に構える。
 
「その頃、調布の国領の中華料理屋でどこかでみたような三人家族をみかけました。
 旦那さんのほうはよくわからなかったけれど、奥さんがオカッパ頭で、
 子供もつれていたし、もしや・・・と思って声をかけたら、
 その旦那さんがつげ義春先生だったんです」

全く偶然の出会い。
これが山中さんが、ガロとますます接近していくきっかけになった。

「その時につげ先生に『ねじ式をゲームにさせて下さい』とお願いしました。
 後日正式にOKの返事がきて、『ねじ式』のゲーム化が決まったんですが、
 完成までには一年半か二年はかかりましたね」

その後、名作シリーズ第二弾として、ひさうちみちお『アソコの幸福』をゲーム化。
第三弾に川崎ゆきお『猟奇王』の制作を予定していたが、それは実現しなかった。


・・・2に続く。(追記は注釈説明です)

文責・構成 
原田高夕己

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livedoor プロフィール

原田 高夕己 (はらだ たかゆき)

売れないので兼業漫画家をしております。
現在「SPOMA」にて、プロ野球パロディ4コマ
「完全燃笑!プロ野球」が無料配信されています。
よろしければ、覗いてみてください。
http://spoma.jp/

トキワ荘好きが高じて、
トキワ荘通り恊働プロジェクトのスタッフもやっております。

【経歴】伝説のギャグ漫画家ながいけん閣下のアシを経て1999年にデビュー。
翌年小学館・少年サンデー超増刊にて「銀魚鉢」を一年間連載。
その後、2006年に芳文社・まんがタイムで4コマ漫画家として再デビュー。
未だ単行本を出す事無く、現在に至る・・・

お仕事も随時募集しています。
takayukiharada1976?yahoo.co.jp
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