二塁手  高橋洋 ブログ

阪神タイガースが痛快な勝利を収めたというニュースをみると反射的に「ああオヤジ今ごろ喜んでるだろな」と思う。…というクセが、昔からある。先日もふとそう思い、思ってから「ああそっかオヤジはいないんだった」…とひとり苦笑した。でもこれけっしてセンチメンタルな話じゃなくてただ単に、そんな条件反射がいまだに自分のなかに残っていることが妙に可笑しい、というだけのこと。昨年末に父が亡くなって、そのあと家も引き払った。おやじが一人暮らしをしていた府営住宅を返還してしまうと、自分たち子供にとっての「いなか」はもうない。そんなこと頭では理解していたが、「故郷」というものはやはり「家」にむすびついているようで、たとえ仮住まいであっても帰る家がないということは「還る場所」がない、ってことなのですね。場所がないと、理由もなくなる。これからも大阪には帰るだろうけど(姉夫婦と愛する甥姪がいますから)、自分にとっての家があった「あの場所」にはもう行くことはないだろうな、と。えっと繰り返しますがこれ、しんみりした話じゃなくてなんというのか新鮮な発見…のような感覚。で、そのたぶんもう行かないだろう団地と道路ひとつ隔てた斜め向かいにマンションが立っていて、そこに住んでいた中学の同級生が先日うちに遊びに来てくれた。

 

以前もこのブログでちらっと書いたかもしれないが、同級生イッチンは僕が十代でもっとも影響を受けた人物である。…と一方的に思っていて、でもよくよく考えてみると僕らがクラスメイトだったのは中学三年のとき、その一年だけ。高校も違うし大学も離れたし、彼が予想通り優れた社会人になってからは海外を飛び回り、僕が意外にも俳優なんかを目指してからはどこかの稽古場に入り浸り…とにかく年を取ればとるほど距離は遠くなって。大学生のとき東京に遊びに来て僕のアパートに何度か泊まっていった彼と、その後は年賀状とか旅先・出張先からの葉書とか…それも次第になくなり互いにどこで何をしているのやらよくわからん…ちょうど40歳頃だったでしょうか、『半沢直樹』というドラマで僕を見つけたイッチンのお母さんが驚いて。なんだかんだで彼が僕の所属事務所までたどり着いたがそのホームページには個人の連絡先がなく(そりゃそうだわ)コンタクトがとれず、そこでSNSという僕が頑なに距離を置いていたツールに手を出したことが幸いしようやく再会、したのが二年前くらいだったかな。とにかく、印象が変わらない。どうして天は二物(いや三物!)を与え給うのか!と抗議したくなるような男です、僕などからみれば。しかも、人間性がいい。正直アンフェアですって神様。

 

あらためて、自分は彼の何に影響を受けたのかを考えてみた。それはたぶん、不公平さが極まったその才能や資質…みたいなものに対してじゃないのだと思う。ま、なくはないけどそんなことよりも、たったひとこと「信じられる」ということじゃないのかなあ…と、人間としてね。「勝れている」とか「秀でている」とか、そんなひとはたくさんいるでしょう。もしかしたら彼よりも優秀で結果を出すトンデモナイひとはまだまだいるかもしれない。でも、そういうこととは関係なくて。と自分は思う。圧倒的に「信じられる」という感覚は、理屈抜きですから。ところで不思議なことに…というかそれフツーか…彼の奥さんもまた、彼のような空気を発している人間なのです。じつにそっくり。はじめてお会いした時、「へー、背が高いひとって背が高いひとと結婚するのかあ!」と思わず声を上げてしまったくらいスーパー長身夫婦の印象だったけど、ゆっくりお話してみると人間性もまたスゲー似てるのね。いい夫婦、というのはこういうふたりを言うのだな。「今はなんの仕事中なのか」と彼に聞かれ答えると、「それ毎週見てる」と。ドラマ『小さな巨人』は、『半沢直樹』のチームが製作しています。やはりサラリーマンというのは日曜の夜にドラマをみてスカッとした気分で翌日から仕事に励むものなのだろうか。

 

 

TBSドラマ『小さな巨人』
http://www.tbs.co.jp/chiisanakyojin_tbs/

役所広司さんだったかな?…渡辺謙さんだっけか? ちょっとはっきり思い出せないんだけど、以前なにかのインタビュー記事を読んで、へえなるほどなあ…すごい俳優ってこんなこと考えて役をつくってるんだ…おれもマネしよ、と思ったことがあります。それは「一本筋の通った人物像をつくりあげない」ってことだった。表現は全然違うかもしれない、でも真意はたぶんそんな感じ。つまり、俳優って生き物はついつい自分の役に一貫したキャラクターを与えたがると。キャラクターをつくりあげようとするあまり、それが作品のなかでぶれてしまうことを恐れる。この役だったらこのシーンではこんな喋り方をしないんじゃないかとか、このシーンではこんな行動に出ないんじゃないかとか。でもね、人間ってふだんそんなに一貫してないよね、と。あれ?なんでこの人がこんなこと言ってるの?あら?どうしてあの人がこんなことしちゃうの?ってことがむしろ、生きてて当たり前じゃない? だからある人物を演じるときにも、そういうズレた部分を逆に探っていくんだよね、とまあざっとこういう話でしたかね。へーそっかそっか、なるほどたしかにそうだわおれも是非これやってみよう!…と常々意気込んでいるのですが、正直全然うまくできません。できたためしがありません。当然ながら、ある人間を幅をもって演じるためには、それだけその幅が脚本上に描かれている(いわゆる主役はトップオブですね)ということがより好条件なわけですが、そういうこととは関係なくただ己の力量として、なかなかこれが難しく実現困難なハードルなわけです。

 

そういう目線で世界のニュースを日々見渡していると、たしかにその人のキャラクター(とこちらが思い込んでいる)との「ギャップ」におどろかされることばかりです。というか、「ギャップ」そのものがいかにも現実的で、むしろギャップの存在がキャラクターを一層くっきり際立たせているような気もする。とすればやはり、役所さんが、つか謙さんが…あれ?橋爪功さんだったかな…がおっしゃっていることは正しいってことで、かつ演技のなかにそういう説得力をちゃんともたせているのはやっぱりすごいなあ…ってことですよね。まぁお三方のどなたであるにしても(もしどなたでもなかったらスミマセン)。で、常日ごろそういう意識も頭の隅にもちながら役をつくっている僕ですが、今回もまたホンを読んだときからなんとなくそういうイメージがもやもやとありました。試行錯誤はおもしろい。時間とお金とその他もろもろオトナの事情の網のなかで、試行錯誤をおもしろがる監督さんは、仕事していておもしろい。事前にぜーんぶアタマのなかで出来上がっていて、あまりにもスムーズにその通りに流れていく現場は(…そんなのないか?)、きっとつまらないだろうな。というわけで今回いただいた役名は「ハブ」、台本には「手配師」とありました。監督は今作で二度目となる原桂之介さん。『コードネームミラージュ』は深夜帯の30分ドラマです。そういえば、以前このブログに書いたある文章がプロデューサーの逆鱗に触れ撮影中のドラマを突然降板させられた、という超絶ホラーな夢を今朝見たばかり。冒頭のインタビュー記事が万が一お三方のどなたでもなかったとしても、お許しください。

 

 

テレビ東京系ドラマ 『コードネームミラージュ』
http://code-mirage.jp/

 『蜷川幸雄シアター』、という企画があります。演出家・蜷川幸雄さんの一周忌追悼企画として、「数多くの蜷川演出作品から厳選した作品を全国15ヶ所の映画館で上映」するようで、ぜんぶで四作品。そのうちのひとつ、『間違いの喜劇』に僕は出演させていただいています。2006年に上演されたシェイクスピアのオールメールシリーズ、つまりは歌舞伎みたいに女性の役も男性が演じるという、舞台上野郎オンリーの芝居ですね。でこの芝居、僕が蜷川作品に出させていただいたなかでも特に思い入れのある五本指のひとつなのです。理由は、大変だったから。というかもう死ぬほど大変だったから。稽古中あるいは本番中に、今日こそおれ死ぬかも…と幾度思ったか。ざっと挙げられる五本の指が示す基準は、「圧倒的な大変さ」これ一発です。思い入れというのは、美しく愉快な記憶とは真逆の、限界まで追い詰められた修羅場が遺すトラウマ(と言ってもいいですね)に宿るものなのでしょうか。ま、僕の場合。…蜷川作品の場合? そういえば先日ある方とお話していて、「当時蜷川さんに学んだことを、分かりやすくひとことで表すと何ですか?」と聞かれ、とっさに出た答えが「演じることに命をかける、ってことですかね」…だった。そう答えてみて自分でも「なるほどそうだったのかぁ」と思ったくらいで、まあでも実際そんな感じだったのかも。「24時間ひたすら演技のことだけ考えて生きる」という教えは、今考えると俳優のすべての段階に当てはまるとはもちろん思わないけど、たしかにそういう時期は必要なのかもしれない。「お前は何者でもないんだ」、「何者かになったと思ったら終わりだ」…と、蜷川さんとご一緒した十年のあいだ僕はこれでもかと刷り込まれた。

 

このブログを読んでいただいている方のなかに、『間違いの喜劇』をご覧になったひとがいらっしゃるかもしれません。いったいあの作品は観客の皆さまにどんな記憶をいちばん残しているでしょうか。記憶の中でさらにふるい落とされた結晶、みたいな一点が残っていくのかな。僕自身の場合、思い入れがあると言いながら芝居について具体的なことをほとんどおぼえていないのですよ。おそらくいま台本を引っ張り出してきたら、うわこんな話だっけ…と驚くはず。じゃあいったいお前にとって『間違いの喜劇』の結晶は何なのかと問われれば、左の手首でしょうか。劇場入りして舞台稽古、客席通路を俳優が上がっていくという演出シーンで僕は、チャップリンみたいに長~いクツをパカパカさせて駆けあがっている時、爪先を引っ掛け勢いよく倒れた。とっさに左手をつきそこに全体重がかかってグニャってなりました。楽屋まで診にきてくれたお医者さんに「ギプスでしっかり固定し二週間ほど絶対に動かさないように」と言われ、いやいやもう初日だしギプスも安静もできないから診にきてもらったんです僕、道化の役でひたすらカラダ張って動き回る役なんです、ハンドスプリングとかもろもろメッチャ手首使うんです…と言えず。痛みで靴下さえ履けないのに湿布にサポーターだけ巻いて本番ぜんぶ板の上でやってしまった。板に乗ったらアドレナリンで痛さを忘れるってあれウソなんかいっ…激痛でした。おかげでそのあと五年以上のあいだ僕の左手首は壊れてしまった。代償ってこんな高くつくのね…とは思ったけど、いま同じようなシチュエーションになったら、おれまたやってしまうかもしれない…。とはいえ僕はいま現在、「自分は何者でもないんだ」と言い聞かせているわけではなく、「まだ何者にもなっていない」と心の底から思っているだけなのです。




一周忌追悼企画 『蜷川幸雄シアター』
http://hpot.jp/stage/nt

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