二塁手  高橋洋 ブログ

舞台『クレシダ』の東京公演が終わりました。このあと水戸・大阪と続くのでまだご覧になっていない方のためにここでくわしく触れるのはやめるとして、まずはシアタートラムにご来場いただいた皆さまにお礼を申し上げます。僕は以前からこの劇場が好きでいつか自分もここでと願っておりました。いざ立ってみるとほんとうにいい劇場。一体感みたいなものが劇場空間においてほぼ平等に行き渡る感じがします。もちろん大劇場やさらに小さな小屋にもそれぞれの良さがあり、演じる面白さや観る楽しさは空間によって微妙に変わるものだけど。観に来ていただいた皆さまはいかがでしたでしょうか?と、お訊ねすることはなかなかできません。ほとんどのお客様とは直接会うこともお話することもできません。顔も名前も知らない老若男女が暗闇からじっとこちらを見ているわけで、たとえば前方三~四列目くらいまでは明かりがもれていて顔を判別しようと思えばできるのですが、残念ながら僕は焦点をお客様には合わせないので目が合っているようでも自分にはわかりません。ただそういった匿名的な視線がグワンとひとつになりこちらをフォーカスする半端ない集中力や、こころが震える瞬間に息を呑むそのフリーズ具合などはじつによく伝わってきます。そんなときLIVEっていいなあと思うのです。

 

さて、客席にすわるとそこにチラシの束がありましたね。それは開場前に女性スタッフさんが毎日並べ置いているものなのですが、その中に『はるねこ』というアーティスティックかつまあまあ意味不明なチラシが挟まっていたのをご覧になりましたでしょうか。それは、僕も出演させていただいている12月公開の映画のチラシです。どんな映画ですか?と問われたら僕もひとことでは答えづらいのですが、はっきり言えることは僕自身がとても楽しみにしている映画です、ということでしょうか。というのは、自分はまだ完成作品を見ていないからであり、さらにはとっくに撮影を終了しているにも関わらず仕上がりの予想がまったくつかないからであります。ただし脚本を読んだときからこれはおもしろくなるなと確信し、また実際に演じていてもそのように感じたので、そのチラシを見たときには確信しましたね。自分の出演抜きにしても「好きな映画」だろうと。監督は、今作が長編デビューとなる甫木元空さん。ほきもとそら、さんです。本名だそうです。男性です。詩人みたいです。そしてとても若いのです。脚本も音楽もご自分で担当されています。…なんて言うとめちゃくちゃミステリアスじゃねーか…いや見た目はフツーのお兄ちゃんなんですけど彼は、僕などが考えないものを感じて見えないものをとらえているのだろうと思います。思わせてくれる。

 

プロデューサーは、青山真治・仙頭武則の両氏です。えっ?ウソでしょ!?と、僕などはひっくり返るわけですが、いったいこのおふたりがプロデュースする映画って何なんだ?絶対観に行こう!行かなくては!たとえ自分が出演していなくともそう思ったはずです。いや…そりゃもし出ていなければ激しい嫉妬にかられながら映画館で悔し涙にくれていたでしょうが、そしてそういう映画はこれまで数多あったわけですが、今回は参加させていただいておりますので堂々と清々しく観させていただこうかなと。とはいえ予告動画はチェックしていまして、そのわずかな時間に流れる世界のありさまは見れば見るほどなんだかよくわからない…しかしますます観たくなる。とそんなような空気でした。「分かる、分からない」という物差しだけではつかまえられない表現というものが圧倒的に避けられ不足しつつあるこの時勢に、まるで理屈抜きに湧き出る感情にオロオロさせられる優れたLIVEを体感するように、「とりあえずお金を払って丸腰で身を任せてみる」という観劇があってもよいのではないでしょうか。ちなみにこの映画、撮影時は今とは違ったタイトルでした。その後『はるねこ』というタイトルに決まって、妙にワクワクしました。不思議なものだけど。



映画『はるねこ』
http://haruneko-movie.com/ 

昨年の夏、僕は目の手術を受けた。もともと視力はとても悪いのだが年明けくらいから急激に見えづらくなりあわてて病院へ行ったら白内障と診断され、両目ともに水晶体再建手術というものを受けた。手術は成功し世界が文字通り何倍も明るく見え、しばらくのあいだ外出する時はもちろんスーパーマーケットなどに入る時も冗談ぬきでサングラスをかけていた。野菜や果物やあらゆる商品の色彩がビビッド過ぎてまぶしいのだ。初診察から執刀、その後のケアまで一貫して担当してくれた医者は僕と同い年くらいだろうか、眼科医としてはまあ中堅なのかもしれないが、僕には彼がとても立派な先生に思えた。診断や手術の正確性は当然のことながら、明晰な病状の説明・患者の仕事に関するわがままな要求に対する具体的で個別的な対応・術後の生活に対する完璧なフォロー…そして何より終始おだやかで真摯でそのうえ堅苦しくない雰囲気が、ああスゲーなと僕は思った。思いながらつぶさに観察していた…ほとんど見えない目で、あるいは見えすぎてまぶしい目で。なぜならその手術を終えて僕が最初に演じる役が、医者だったからだ。人工透析の医師である。人工透析というものをなんとなくしか知らない自分は、その専門医がいったいどんな雰囲気で患者と接するのかまったくイメージできない。もちろん資料などで自分なりに勉強するわけだが、その優秀な同年代(たぶん)の眼科医さんと接するうちにあきらかに影響を受け、「彼が鈴鹿医師(役名です)だったら…」と思いながら役をイメージしたところも多分にあります。

 

映画『泣き虫ピエロの結婚式』は、職業クラウン(道化師)である望月美由紀さんが自身の体験をもとに書かれた本を原作とした「純愛映画」です。純愛…よい響きですね。ふだん生きていてあまり「純愛」ということばを発したり記したりすることのなくなってしまった44歳の職業俳優ですが、そんな自分のハートが撮影現場できゅきゅっと絞られるような主演のお二方でした。それはけっして白内障手術後のまぶしさによるものではなく、現場における志田未来さんと竜星涼さんのなんともいえない距離感から生まれる「できたてほやほやの純愛感」がみずみずしかったからです。「できたてほやほや」というのはもちろん映画のストーリーとリンクしていて、ふとした出会いから一瞬で駆け抜けるラストまでをふわりと疾走するおふたりの鮮度みたいなものが、現場でのたたずまいから自然と現れているような気がして微笑ましく感じたわけです、担当医師としても。僕自身が出演しているシーンは役柄上おもに病院だったのですが、ふだん病院というものを患者サイドでしかとらえない自分が演技とはいえ時々こうして医者サイドから関わってみると、それはそれでつらい場所なのかもしれないなと思います。ひとの命をあずかることが仕事。その命をつなぐのも、つなぎきれないのも仕事ですからね。撮影中、あるシーンで僕は思いがけず込み上げてしまう瞬間があり、いやいやそれは医者として絶対ないなとつよく戒めました。御法川修監督は今回が二度目の仕事です。僕と同い年。さいきんほんと同世代の監督さんとご一緒させていただくことが増えました。御法川さんの腹の奥深くにしまわれているドスを、ぜひいつかの現場で突きつけていただきたいと思っております。

 
 

映画『泣き虫ピエロの結婚式』
http://nakimushi-pierrot.jp/

俳優という職業が、というか俳優である自分が、「見せ物」であると強く実感する瞬間がある。それは舞台でお客さんの前に立ったりカメラの前に立つときではなく、衣装合わせの時間です。まあこれは僕個人の感想なのでほかの俳優さんのことは知らないけど。衣装合わせというのは、舞台でいえば稽古も中盤あたりでしょうか、演出家のイメージするプランに沿った服を衣装チームがひととおり用意して俳優にいろいろと着せる。そしてああでもないこうでもないと意見し合った宿題をスタッフが持ち帰り、今度は稽古も後半そろそろ劇場入りというあたりで再び修正版の本番衣装として持ち込まれる。それを僕ら俳優がまたずらっと並んで着せられる。着せられた状態で、演出家とスタッフが我々を頭からつま先まで見つめ倒し、最後の詰め。…と、この一連で僕は、自分が「見世物」だなあと強く感じるのです。なんというか…自分という存在が人形的な?というかもう文字通り人形になって陳列されてガラスの向こうからジロジロ見られている、というような極めて居心地の悪い精神状態になるのだ。おれだけなのかな…そうなんだろうな。俳優って「見られる」仕事なんだ!と突然意識しはじめ、そのくせ自分という人間が是非とも「見られたい」種類の生き物では決してないことを再認識し、おろおろするのです。

 

もちろん仕事なのでオロオロした態度はとりませんが、こころの中でこの時間早く終わってくんねーかなと念じる始末。当然ながら演者が身にまとう衣装がどれだけ大事か、またそれがどれほど演技の後押しになるか、重々承知した上での話ですが。しかし…なぜでしょうかね。舞台に立って何百人というお客さんを前にしても、カメラの前に立ってその背後から大勢のスタッフに見つめられても、あるいはスチール撮影でカメラを向けられても、舞台挨拶でフラッシュをたかれても、「あぁおれ今、見られてるぅぅぅ!」とは感じないのに。衣装合わせの時間はなぜだか「見世物」風の圧迫感が半端なく、「やいやいっ、こちとら見世物じゃねーんだよ!」という江戸前啖呵が頭に浮かびます。そして、なぜ自分が俳優などという「前に出る」仕事をやっているのかを改めて思う。それはおそらくこういうことじゃないでしょうか。ふだん決して前に前に出たいわけではないワタクシが、前に出るためのスイッチが入ったときつまり演技というモードに入ったときには、もはや自分が「前に出たい」とか「前に出たくない」とかそんなことどうでもよくなっている、もっと言うと「自分」そのものがどーでもよくなっているのです。で、それが楽しいのだと思う。解放感、に近いかな。自分というちっちゃくてメンドクサイ存在からの自由、を感じます。さて、今回はどうか。

 

舞台『クレシダ』の稽古が終わり、明日から劇場入り。検討に検討をかさねた衣装やヘアメイクや小道具などを身にまといできたてホヤホヤのセットに立って俳優は、あ~いよいよ始まるんだなと実感するのです。衣装合わせではやはり人形的な息苦しさはあったものの、各パートがベストを尽くして創りあげたツクリモノの世界に命をあたえホンモノの時間を板の上に流すのは僕ら俳優の仕事。だいたいいつもそうなんですが、劇場に入った瞬間から俄然やる気が出てきます。もちろん稽古だって一生懸命やっているけれど、やっぱりお客さんがいないとね。最初に舞台から見るガラガラの客席というものは、じつはとてもお客さんの存在を意識させる。あ、そっか、自分たちはこれから芝居を「見せる」んだよね、と。つまり、「やいやいっ、こちとら見世物だよ!観ていきなよ!」というモードにすっかり変わるわけです。俳優とは勝手なものです、つかおれが勝手なのか… いずれにしてもあのクソあつい照明の下、だいたいにおいて厚着な衣装を着て演じるのはかなりの肉体労働だけど、本番ってやはり稽古とはまるで違う。「自由」という、ことばでは説明できない痺れが違うのです。0100かというくらいに。森新太郎さんほど稽古大好きな演出家さんは、僕ははじめてで刺激的でした。とても濃密な稽古だった。でもやっぱり、本番がいいな。



舞台『クレシダ』 
http://www.cressida-stage.com/

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