原題 A CARIBBEAN MYSTERY (1964)
早川書房/クリスティー文庫 43 (2003)
永井淳 訳
解説/穂井田直美(プログの記事ではアガサ・クリスティ表記に統一しています)
前作『鏡は横にひび割れて』でマープル自身の老いに踏み込んだはずなのに、まるでそんなことはなかったかのように、いつもの探偵譚に戻ってしまったのが『カリブ海の秘密』だ。本作のマープルは甥のレイモンドから援助を受け、カリブ海のコテージに静養にやってきたところで殺人事件に巻き込まれる。ポワロものの『白昼の悪魔』などとよく似た、クリスティが好んで使う旅先での事件であり、謎解き小説としてはなかなか面白い一冊である。
カリブ海の自然に囲まれたコテージで、マープルは持病のリウマチの治療をしていた。ある日コテージの客たちに誰構わず懐古談をする年老いた少佐が、マープルにスキャンダラスな殺人事件の話を始める。それはマープルが好むタイプの事件ではないが、少佐の唯一の楽しみを奪うわけにもいなかいので頷いて聞いていると、殺人犯の写真を持っていると自慢げに語り、その写真を出す最中にマープルの肩越しの何かを見て、急に様子がおかしくなってしまう。
マープルの後ろから2人に近づいてきたのは同じコテージの客たち4人で、少佐は出した写真をマーフルに見せる直前で片付け、なぜかそそくさとその場を退散するように去っていく。マープルは自分の肩越しに少佐が何を見たのか、少佐が自慢話として語った過去の殺人事件と写真が何を意味するのか、やがてこのちょっとした出来事が、コテージで起こる連続殺人事件の最初の兆候であったと、マープルは後になって気がつくことになる。
いつもながら快調な滑り出しで、本作がクリスティらしい佳品であることは間違いない。だが『カリブ海の秘密』に私が注目したいのは事件の謎でも推理でもなく、ラスト近くでマープルが口にする復讐の女神-ネメシス-という言葉なのだ。これまで書かれてきたマープルの物語は、平穏な日常の中で起こる殺人事件という災厄を、老嬢探偵が見事に解決して元の日常に戻すことが目的だった。
特に『ポケットにライ麦を』におけるマープルの行動は完全に正義のヒロインであり、彼女が颯爽と現場に到着した時は、満場が拍手喝采するほど格好良く描かれている。この『カリブ海の秘密』では真夜中の寝室に現れ、自らを復讐の女神と名乗り、犯人を捕まえるのに手を貸して欲しいとマープルは協力者に話す。見た目はか細く年老いた非力な女性かもしれないが、この場面でのマープルは堂々たる威厳を持ったヒーローとしてまったく申し分ない。復讐の女神-ネメシス-こそ、ミス・マープルの真の姿と明らかになった記念すべき瞬間である。
この『カリブ海の秘密』でマープルが協力者として選んだのは偏屈で足が不自由な富豪ラフィールだが、彼とマープルの関係はこの作品だけでは終わらず、タイトルもスバリ『復讐の女神』という次々作でもラフィールのためにマープルは再び事件の解決に乗り出すことになる。
本書は先の『魔術の殺人』の項で書いた通り、ヘレン・ヘイズ主演のアメリカでのTVドラマ作品があり、『魔術の殺人』より面白く作られている。ただし原作の良し悪しが幾分反映されているので、ドラマそのものが良質とは言いがたい。本命はやっばりジョーン・ヒクソン版の方で、ラフィールの部屋に寝間着姿でショールをかけたマープルがやってくる場面では、原作を見事に再現している。
「(あんたが)復讐の女神かね」
「手を貸してもらえれば、そうなるわ」
この粋な台詞をドラマの中で聴けただけでも、一見の価値があるだろう。