大多数の人々にとって、この世界は優しくて、暖かい。
みんな笑顔で、幸せな人生を送っている。

だが、一部の人々に対しては、世界は別の表情を見せる。
一部の人々にとって、この世界は不条理で、残酷で、理不尽だ。

一部の人々の人生は、辛くて苦しいことばっかりで、悲しみに満ち溢れている。
生きている間に、悲しいこと、苦しいことが、たくさん襲いかかってくる。

その苦しみや悲しみから逃れるために、自ら死を選ぶ人もいる。
だが、脳だか遺伝子だかにインプットされた”死の恐怖”は、多くの場合、自ら死を選ぶことを許してはくれない。

自死できないから、逃げることもできず、避けることもできない。
そんな人々に容赦なく襲いかかってくる悲しみや苦しみ。
そのあまりの残酷さに、人々は絶望する。

”何故こんなに苦しいのに、生きていかなければならないのか”と問わざるを得ない。
そして、”この悲しみや苦しみにも意味があるのかもしれない”、”今は悲しいけれど、「未来」には希望があるのかもしれない”とでも思わなければ、生きることを肯定することができない。
”どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、「いつか」は必ず報われる”とでも思わなければ、人生には絶望しかない。

ちなみに、ここでいう「未来」や「いつか」は、現世における「将来」の意味でもあり、あるいは「死後」の意味でもあるのだが、「今」はどんなに悲しくて辛くても、「未来」には救いがある、「いつか」は報われると思わせてくれたもの、それがかつての世界宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)という”大きな物語”だったのかもしれない。

だが、デカルトやニュートンから始まる近代合理主義、その後の資本主義の誕生・発展によって、世界宗教という”大きな物語”は、その有効性を失った。
ニーチェの言うとおり、”神は死んだ”のだ。
人々は再び、悲しくて苦しいだけの人生に絶望し、生きる意味を見失った。

その後、マルクス・レーニン主義が生まれ、世界宗教に代わる”大きな物語”として機能した時期もあったが、その末路は誰もが知っているだろう。

結局、一部の人々は、この不条理で、理不尽で、残酷な世界に丸裸で投げ出された。
悲しみや苦しみが、次々に襲いかかってくるこの世界。
その悲しみや苦しみに意味はなく、理由もなく、ただ”確率論”的に、ごく少数の人だけに偶然襲いかかってくる。
大多数の人々が、生涯経験しない悲惨な体験を、ごく少数の人々は体験せざるを得ない。

・・・

そんな背景があっても、ごく少数の人々は、この残酷で不条理な世界を肯定することができるんだろうか。

肯定するためには希望が必要だ。
だが、かつて希望という仮面を被った”大きな物語”は死んだ。

だからこそ、”大きな物語”に代わる”小さな物語”が量産されるようになったのだろう。
さまざまな新興宗教もそうかもしれない。
飯田史彦氏の「生きがい論」もそうかもしれない。
あるいは、矢作直樹医師の著書もそうかもしれない。

だが、本当に求められているのは、”物語”ではなく”真実”なのだ。

・・・

ある物理学者と仏教学者が言っていた。
”人生に意味は無い”。

恵まれた人生を歩む大多数の人々は、生きる意味など問う必要は無いということなのだろう。
たとえ意味が無かろうと、人生を肯定することができるということなのだろう。

だが、俺は”意味は無い”という言葉を受け入れることができない。
悲しいだけの人生、苦しいだけの人生を送る少数の人々は、”意味”を問わざるを得ないはずだ。

この残酷で不条理な世界。
俺は絶対に受け入れない。

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