幸せな人々は、時に残酷だ。
家族がいて、家庭があって、
愛する人との平穏な暮らしがある人々は、時に残酷だ。
愛する人が傍にいるのが当たり前で、その日々が永遠に続くと錯覚していられる人々は、時に残酷だ。

自分の命を賭してでも守りたい人がいる。
自分が愛していて、
自分を愛してくれる人がいる。
こんなに幸せなことはない。

かつては俺も、そんな幸せの中にいた。
かみさんには俺がいて、
俺にはかみさんがいてくれた。

かみさんと俺が一緒にいること。
それは幸せの源だった。
その源があったからこそ、俺は「すべて」
を肯定することができた。

あの頃の俺も、きっと「時に残酷」
だったんだろう。



かみさんが死んだ。
俺は「すべて」を失った。

そんな俺に、周囲は家族の大切さ、家庭の温かさを見せつける。
俺は「仮面」を被り、笑顔で応じるが、内心は穏やかではいられない。
心の傷に塩を塗り込まれているみたいだ。
身体の一部を刃物で抉り取られるみたいだ。

温かくて柔らかい家庭を持っている人々のことが、
心底うらやましい。



幸福を幸福と感じないでいられることが、
どんなに幸福なことなのか、「時に残酷」な人々は知らない。
大きな悲しみや恐怖も知らず、なんの屈託もなく笑っていられる人々は、自分が「時に残酷」だということを知らない。

でも、
そんな人々を責めることはできない。
以前は俺だって、自分が「
時に残酷」だということを知らなかったんだから。

だが俺は、
大きな悲しみや恐怖を知ってしまった。
できることなら知りたくなかった。

知らないために、「時に残酷」
に振る舞うことになったとしても、大きな悲しみや恐怖なんて知らない方がいい。

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