いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2013年02月

平成22年5月31日の月曜日。

抗がん剤を投与して以来、かみさんの体重が少しずつ増えていく。
腹水が溜まっているのだろうか。
尿も便もほとんど出ない。
全身が少しずつではあるが、浮腫んでいく。

抗がん剤が効いていないのだろうか。

俺は医師の回答が怖くて、聞けない。
医師も何も言おうとしない。

だが、近い将来、医師から「抗がん剤が効いていないので、手の施しようがない」と言われるのではないか。

体重計の目盛りを見るたびに恐怖に駆られる。

だが、かみさんのことだけは、恐怖から守ってあげなきゃいけない。
かみさんにだけは、絶望感や死の恐怖を感じさせてはいけない。

万一、医師から「手の施しようがない」と言われた時、どうしたらいいか。
次に打てる戦略を用意しておく必要がある。
「抗がん剤が効いていない。諦めろ」と言われたからといって、諦めるわけにはいかない。

もし「抗がん剤が効いていない」のであれば、頼れるのは補完代替医療だけだ。
そこで俺は、この日の前日、病院から帰宅した後、真夜中までパソコンに向かって、インターネットで補完代替医療について、徹底的に調べた。

すると、標準治療と補完代替医療を併用してくれる病院を見つけることができた。
埼玉県川越市にある「帯津三敬病院」である。

「癌研有明病院」で補完代替医療を行ってくれるなら、それに越したことはない。
だが、過去のブログにも書いた通り、「癌研有明病院」は丸山ワクチンの治験さえ認めてくれなかった。
「癌研有明病院」は標準治療以外、認めてくれない。
標準治療で手の施しようがないと判断されれば、「諦めろ」と言われかねない。

「手の施しようがない」と言われたら、「帯津三敬病院」に転院しよう。
俺は新たな戦略を手に入れた。

・・・

翌朝、俺は「帯津三敬病院」に診療申込書をFAXで送った。
その後、俺は病院に向かった。

かみさんの体重は、わずかではあるが、また増えていた。
脚の浮腫みが目立つようになった。

かみさんは「脚が浮腫んで痛いんだよね~」と言っていた。
俺は看護師さんを呼び、脚の浮腫みを取るマッサージの仕方を教えてもらった。

「俺がマッサージしてやる」と言うと、かみさんはベッドに横になった。

かみさんの脚をマッサージしながら、俺はかみさんに言った。
「明日も早い時間に病院に来るからね」

かみさんは、「うん。来て」と応えた。


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眠っている間以外、俺はいつだって苦痛だ。
苦しくて、苦しくて仕方がない。
息苦しいとか、どこかが痛いとかいうのではない。
悲しくて、寂しくて、辛いのだ。

その苦しさは、抗鬱剤を飲んでも治まることはない。

苦しさから逃れたい時、かみさんの仏前に座る。
そして線香を供える。
かみさんの位牌を見つめ、心の中で、かみさんの戒名を唱える。
それだけで、わずかに落ち着く時もある。

だが、それでは如何ともしがたい場合も多い。
そんな時、苦しさから逃れようとすれば、酒を飲んで、眠りに落ちるしかない。
酒を飲み、寝床に横になり、目を瞑ってジッとしている。
運が良ければ、眠れる。

眠ることは、苦痛から逃れるための最良の薬だ。
眠っている間だけは、かみさんがいない現実から目を背けることができる。
かみさんが死んだという事実から逃避することができる。
過酷で悲痛な現実から逃れることができる。

だが、目覚めれば、俺の目の前には、かみさんのいない現実が待ち構えている。
現実という名の恐ろしい怪物は、眠っている俺の周りを取り巻き、大きな口を開けて、俺が目覚めるのを待っている。

・・・

俳優の仲代達矢さんがおっしゃっていた。
奥様の宮崎恭子さんが膵臓癌で亡くなった後、数年間、仲代さんは後追い自殺することばかり考えていたのだそうだ。

残念ながら、俺には自死する勇気など無い。

だとすれば、お迎えの来るその日まで、歯を食いしばって生きていかなくてはならない。
かみさんと会えるその日まで、この苦しみと折り合いをつけて生きていかなければならない。


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俺は人一倍、「家族」や「家庭」に対する憧れが強いのかもしれない。
お互いに癒し合える。
傍にいるだけで安心する。
そういう人を求める気持ちが強いのかもしれない。

その原因は明らかだ。
俺の生育環境が最悪だったからだ。
そのことは過去のブログで何度も書いた。

両親に愛されず、それゆえに両親を愛することもできない。
そんなふうに育った俺は、「家族の暖かさ」を渇望していたのかもしれない。

だから、大学1年生、2年生の時、たくさんの女性と交際したのだろう。
一緒にいるだけで安心し合える相手を探し求めていたのかもしれない。
それでも、お互いに癒し合える相手を見つけることはできなかった。

大学3年生の時にかみさんと出会った。
このことも過去の記事に書いた。

かみさんと俺が意気投合するまでに、それほど長い時間を要することはなかった。

お互いに、「この人と一緒にいると、楽だ」と感じられた。
お互いに、「この人と一緒にいると、癒される」と感じられた。
お互いに、「この人と一緒にいると、安心する」と感じられた。

かみさんは俺にとって、「ずっと一緒にいたいな」と感じさせてくれる人だった。

決して代替することはできない、かみさんを喪ったら、代わりに何かを手に入れれば良いというものではない。
子どもを亡くした親が、いつまでも亡くなった子のことを愛し続けるかのように…

かみさんの存在は俺にとって、何物にも代え難い。

・・・

ある女性から言われた。
「あなたには仕事っていう生きがいがあるでしょ!奥さんが亡くなっても、仕事が生きがいになるでしょ!私にはもう、子どもしかいないんだよ!」

この女性には数人の子どもがいる。
ご主人とは離婚したが、その後、別の男性と付き合っていたらしい。
だが、その男性が亡くなったのだそうだ。

自分にはもう子どもしかいない?
だから生きがいがない?
それに比べれば、仕事という生きがいのある俺の方がマシ?

俺は訳が分からなくなって、その女性との付き合いを断った(誤解のないように申し上げておくが、その女性とは恋愛関係にあった訳ではない。単なるインターネット上の友人だっただけだ)。

・・・

俺にとって、かみさんは他の誰とも代替できない。
ましてや、かみさんの代わりに仕事を生きがいにすればいいじゃないか!と言われたら…
俺の怒りは頂点に達した。

・・・

かみさんは俺にとって何物にも代え難い。
何物にも代替できないのだ。

だからこそ辛いのだ。悲しいのだ、寂しいのだ。
代わりがあれば、これほど苦しんではいない。

かみさんは俺にとって、代替不可能な存在だ。
何か代わりのモノがあれば、それで救われるという類のものではない。

かみさんは俺にとって、唯一・単独の存在であり、それを喪ったからこそ辛いのだ。


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かみさんが元気だった頃。
俺にとって時間は、「過去」から「未来」へと一直線に流れるものだった。

毒親に育てられた俺にとって、「過去」は悪夢の対象でしかない。
思い出したくもないし、できることなら「過去」のすべてを否定したい。
俺にとって「過去」は、消し去ってしまいたい記憶でしかない。

だが、そんな俺も、かみさんとの「現在」の暮らしに幸福と安心を感じる中で、ある程度なら「過去」を受容し、「過去」を肯定することができるようになっていったような気がする。

・・・

「過去」を受容できるようになったのは、他ならぬ、かみさんのおかげだ。
かみさんが「現在」の俺、あるがままの俺を肯定してくれた、あるがままの俺を受け容れてくれたからこそ、俺も自分自身を肯定できるようになった。

かみさんと暮らした20年間。
幸せと安心を感じて生きてきた20年間。

幸せにどっぷりと浸かっていた時間は、俺の心に安定をもたらした。
安定した「現在」という時間が、連綿と、淡々と続いて行った。

・・・

かみさんと出会う前、俺は不安定な「現在」を生きてきた。
一寸先は闇。
未来の自分など想像もできない。

自分がどんな仕事に就くのか想像もできない。
かみさんと出会う前にも何人かの女性と付き合ったことがあるが、その人と結婚するだろうなどと想像することもできない。
ましてや、自分がどんなふうに死んで逝くのか想像もできない。

・・・

だが、かみさんと出会ったことで、俺の心が安定してきたのだろう。
「現在」が安定して見えてきた。

「現在」が安定してくると、ある程度「未来」を予測することもできる。
予測というのは正確ではないかもしれない。
むしろ希望というのだろうか。

そう。
俺はかみさんと一緒に暮らす中で、初めて「未来」への希望を持つようになった。

・・・

俺の描いていた未来。

「平日は仕事を頑張ろう。そしてこのまま順調に昇進しよう」

「土日や祭日は、かみさんとたっぷり遊ぼう。二人で散歩をしたり、映画を観に行ったり、買い物に行ったり、美味い物を食べに行ったり…」

「ゴールデンウィークと年末年始は、必ずかみさんの実家に遊びに行こう。かみさんや、かみさんの親兄弟と楽しい時間を過ごそう」

「夏休みは毎年、海外旅行に行こう。かみさんの大好きな海で泳げる場所に行こう」

「俺が定年を迎えたら、二人でゆったりと散歩をしたり、旅行に行ったりして、穏やかな老後を過ごそう」

「そして最期には、かみさんに看取ってもらって死んで逝こう。かみさんに『ありがとう』と言いながら、笑顔で死んでいこう」

かみさんとの出逢い、かみさんとの暮らしは、俺に未来を見通す力を与えてくれた。

ある程度「過去」を受け容れ、「現在」を楽しみ、「未来」を見通すことで、時間は「過去」から「未来」へと一直線に流れているという実感を得た。

・・・

「直線としての時間」という感覚が崩壊したのは、かみさんの癌が発覚した時だった。

かみさんが癌だと診断された時、(かみさんには内緒にしておいたが)医師からかみさんの余命を告げられた。

その瞬間、俺の時間に対する感覚は、「直線としての時間」から「今、ここ」という時間、言い換えれば「点としての時間」に変わった。

かみさんの闘病中、俺はかみさんの看病をするため、毎日かみさんの傍にいた。
かみさんの寝ているベッドの横で、かみさんと他愛ない会話をしていた時に感じていたのは、「今、ここ」としか表現しようのない時間の感覚だった。

「今、ここ」というのは「現在」とは似て非なるものだ。

これは実感した者でなければ分からないだろう。
言語表現の限界だ(いや、俺個人の表現力の限界かもしれない)。
言語では、「現在」と「今、ここ」は同じもののように受け取られるだろう。

だが実感として、「今、ここ」と「現在」とは似ても似つかない。
「今、ここ」は「点としての時間」。幅を持っていない。
一方で、「現在」は「今、ここ」と比べれば大きな幅を持っている。

かみさんの死期が迫っているのを知りながら、心に深い悲しみと恐怖を抱えていながら、それでも、かみさんと過ごす一瞬一瞬の時間が愛おしい。

かみさんと、「今」という時間を共有し、「ここ」という場所を共有していること。
そのことが、とても愛おしく感じられた。

「今、ここ」を大切にしよう、「今、ここ」を愛そう。
「今、ここ」にかみさんがいる、そのことに精一杯、感謝をしよう。

そう表現するしかないような感覚を持ち続けた。

・・・

かみさんの死と同時に、この「今、ここ」という感覚は消えうせた。
そして、俺の時間に対する感覚は狂った。 

言葉で表現するのは難しい。
かみさんと出会う前と同じような、一瞬先は闇の時間。
「未来」の予測、希望の消えうせた。

俺の「未来」には何が待っているのだろう。
まったく想像がつかない。

一直線に流れると感じられていた時間の感覚は無くなり、多くの分岐点が見えるようになった。
まるで、植物の根っこのような時間感覚。

・・・

そしてもう一つ。

かみさんが亡くなって以来、時間の流れる早さが変わってしまった。
と言うよりか、時間の流れる早さが、分からなくなってしまった。

かみさんが亡くなって2年7か月と少し。
この時間は、あっという間に過ぎたような気がする。
その一方で、物凄く長かったような気もする。

あっという間に過ぎたのか、それとも物凄く長かったのか。
まったく実感が無い。
分からない。

あえて言えば、時間が止まってしまったと言ってもいいかもしれない。

時間の感覚が壊れた、狂ってしまったらしい。

・・・

そんな俺でも、たった一つだけ確信している「未来」がある。
それは、俺が孤独死をするだろうということだ。
それだけは、俺の確実な「未来」だ。

その孤独死の瞬間までの未来が想像できない。
かみさんを喪って、真っ暗闇のトンネルの中に入り込んでしまったらしい。

・・・

最愛の人と死に別れると、みんな、こういう感覚を抱くのだろうか。
それとも俺個人に特有の感覚なんだろうか。

愛する人と死別した時、すべての人がこういう感覚に陥るのだとすれば、俺の抱いている感覚は、正常な(?)死別反応ということだろう。

もし俺だけが抱いている感覚なのだとすれば、かみさんを喪ったことをきっかけに、俺が狂ってしまったということだろう。

いったいどちらなのか。
いくら考えても答えは出ない。


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「独りぼっちは寂しすぎる」
「生きていくことがつまらない」
「それどころか、生きていることが辛くて仕方がない。苦しくて仕方がない」
「かみさんが死んじゃったのに、俺だけが生きてるなんて、かみさんに申し訳ない」
「早く迎えに来て欲しい。俺も早く、あっちに逝きたい」

そんなことを思いつつ、日々をやり過ごす。

だからと言って、自死する勇気はない。
自死する勇気がないなら、生きていかざるを得ない。

・・・

そのためには食べざるを得ない。

以前の記事にも書いたが、かみさんは料理が上手だった。

そんなかみさんの料理を食べ慣れている俺だ。
今は何を食べても美味いと感じることがない。

それに、一緒に食べる人、賑やかに会話をしながら食べる相手がいるからこそ、食事は美味いのだ。
独りぼっちの俺が何を食べても、美味いわけがない。

不味い物を独りぼっちで食べていれば、これでもか!というほど食事が不味い。

それでも生きるためには、食べざるを得ない。
何とか一日一食だけは食べている。

「食べる」という、生きていく上で最低限必要な行為はこなすことができる。

・・・

では、その次に何をすればいいか。
俺の余生、何をしたらいいのか。

言うまでも無く、復職することだ。

現在は「抑鬱状態(死別反応)」で休職中だ。
病院の主治医とカウンセラー、会社の産業医と臨床心理士からは、「夜眠れること、そして朝しっかりと起きられることが復職に必要な条件だ」と言われている。
また、会社の産業医と臨床心理士からは、「課長である以上は毎日しっかりと出勤できる精神状態でなければならない。管理職が頻繁に有給休暇を取るようでは困る」とも言われている。

睡眠薬を飲んでも眠れない。
眠れたとしても、朝起きられない(目覚ましを掛けても、目が覚めない)。

だが、そうした症状も少しずつ回復している。
遅くとも4月には復職できるんじゃないだろうか。

・・・

問題は復職した後だ。
かみさんの生前は、「自己実現」だの、「将来は個室をもらう(うちの会社の場合、社長や副社長、局長、部長は個室で執務しているが、管理職であっても課長には個室はない)」だの、それなりの「野心(?)」はあった。

だが、かみさんを喪って、俺は「昇進」へのこだわりは無くなった。
「もう昇進しなくていいや…。退職するまで課長のままでいいや…」と思っている。

要するに、かみさんの死後、仕事に対する情熱を失った。
仕事は生きがいの源泉にはならない。

・・・

これからの俺の生きがいは何だろう。
生きざるを得ない、お迎えが来ないのなら、せめてわずかでもいいから生きがいが欲しい。

自分が生きている意味を見出したい。

かみさんが元気だった頃の生きがい。
かみさんと散歩をすること。
かみさんと旅行に行くこと。
かみさんと映画を観に行くこと。
かみさんと買い物に行くこと。
何よりも、かみさんと共に生きること。

それらの生きがいは、すべて消えてしまった。

それ以外に生きがいと呼べるものと言えば、仕事での成功と昇進だった。
それももう、興味が無くなってしまった。

それなら何を生きがいにしたらいいのだろう。
俺の余生を何に使ったらいいのだろう。

五里霧中で、答えが出ない。

ただ一つ。

かみさんの菩提を弔うこと。
かみさんを想い続けること。

出来ることと言えば、それだけなのかもしれない。


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