いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2013年11月

以前、「『オガタセン』の思い出」というタイトルでブログを書いた。
かみさんが「屋形船」を「オガタセン」と読み間違えたエピソードだ。

今回の記事も、かみさんが、ある漢字を読み間違えた思い出について綴る。

・・・

ある日、かみさんが言った。
「ねぇ、プーちゃん。今度、キドガワ温泉に行こうよ」

キドガワ温泉?
聞いたこともない。

「それ、どこ?」と聞くと、かみさんは旅行雑誌を見せてくれた。
そこには「鬼怒川温泉」と書かれていた。

「あのねぇ、これは『キドガワ』じゃなくて、『キヌガワ』って読むんだよ」
俺がそう言うと、かみさんは俺の顔をキョトンと見ていた。

しばし、沈黙が流れた。
すると、突然、かみさんが腹を抱えて笑いだした。

・・・

その後、二人で旅行の計画を立てた。

まずは鬼怒川温泉に行って、温泉にゆったりと浸かろう。
鬼怒川に2泊して、その後は日光に行こう。
日光では東照宮を見たり、二人で散歩をしよう。
帰りには、日光から宇都宮に行って、二人でいっぱい餃子を食べよう。

そんな計画を立てた。

かみさんが癌だと分かる2,3ヶ月前のことだった。

・・・

結局、この計画を実行に移すことは無かった。
かみさんと俺、二人で一緒に計画を立てたのに、実行されることは無かった。

かみさん、鬼怒川に行きたかっただろうな…
宇都宮で餃子を腹いっぱい食べたかっただろうな…

・・・

やりたいことは、いっぱいあったはずだ。
だが、それらの希望のすべてが、癌によって奪われてしまった。

かみさんが可哀想だ。かみさんが不憫だ。


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俺のブログは…暗い。
とてつもなく、暗い。

だが、死別体験者のブログや、死別体験者が集まる掲示板などを読んでいると、
すべての人が暗いわけではなさそうだ。

それらを読んでいて、よく目につくのは、こんな書き込みだ。

「子どもと一緒にディズニーランドに行ってきました!」
「子どもと一緒に焼き肉を食べてきました!」
「子どもと一緒にドライブに行きました!」

ブログや掲示板、SNSのコミュニティには、子どもと一緒に過ごしたことが、いかに楽しかったかが延々と綴られている。

要するに、俺のブログと違って明るいのだ。

・・・

もちろん、明るいからと言って、伴侶を亡くした悲しみが、俺より小さいわけではあるまい。
明るいからと言って、悲しみが「小さい」わけでも、「弱い」わけでもあるまい。

ただ、子どもがいることで、伴侶を喪った悲しみが「紛れる」のは事実だろう。

以前、俺は「人は自分が愛する人のために生きている」というタイトルの記事を書いた。

これはやはり真実だとしか思えない。

伴侶を喪っても、子どもがいる人。
自分の愛する人が、一人でもこの世にいる人。
そういう人は、大きな悲しみを抱えつつも、どこか明るさを残している。

それは、「子ども」という、自分の愛する存在がこの世にいるっていうことが救いになっているんじゃないだろうか。
自分の愛する人が一人でもこの世にいれば、人は多少なりとも前向きに生きていけるんじゃないだろうか。

・・・

そんな人々が俺に言う。
「アンタも前向きになりなさい」

でも、そういうことを言う人たちと俺とでは、条件や環境が違うのだ。

俺にはこの世に愛する人、自分の命を賭してでも守りたい人は、もういない。

そんな俺に対して、子どものいる人たちが、「アンタも前向きになりなさい」というのは残酷だ。

やめてほしい。


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11月25日の夜から11月26日の朝にかけて、いくつかの夢を見た。

夢の内容は忘れてしまったのだが、ひとつだけ覚えていることがある。
それは、「どの夢にも、かみさんが出てきてくれた」ということだ。

内容を覚えていないにも関わらず、かみさんが夢に出てきてくれたことだけは、はっきりと記憶している。

夢の中で、かみさんと語り合い、かみさんと触れ合った。
うれしい。

かみさんと夢で逢えること。
それだけが、今の俺にとって、幸せな時間だ。

夢を見ている間は、至福の時間。
久しぶりに心が暖まり、安らかな気持ちになれた。

夢の中でもいい、かみさんに逢えれば、俺は癒される。
かみさんのことを愛している証なんだな…と思った。


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「あなたより不幸な人、辛い人はいくらでもいます」
「自分がこの世で一番不幸だと思ってんじゃないよ!」
「悲しいのはアナタだけじゃない。みんな誰でも悲しみを背負って生きているんです」

こんな言葉を散々ぶつけられてきた。

こういうことを言う人たちは、ほぼ例外なく、死別体験の無い人だ。
あったとしても、せいぜい、祖父母を亡くしたとか、両親を亡くしたとか、
その程度の死別体験しかしていない人たちだ。

・・・

以前にもこのブログに書いたが、俺は祖父母や両親との死別、友人との死別など眼中に無い。
俺が問題にしているのは、「伴侶」との死別、あるいは「子ども」との死別だけだ。

祖父母や両親、あるいは友人などと死別した人は問題外、俺にとっては「部外者」に過ぎない。

そういう「部外者」たちが俺に言う。
「あなたより不幸な人、辛い人はいくらでもいます」
「自分がこの世で一番不幸だと思ってんじゃないよ!」
「悲しいのはアナタだけじゃない。みんな誰でも悲しみを背負って生きているんです」

・・・

こういうことを言う人たちは例外なく、既に立ち直っている。
平穏な日常を取り戻し、笑顔で暮らしている。

そりゃあ、そうだろう。
亡くしたのは「最愛の人」ではないのだから。
さっさと立ち直れるのは当然だろう。

・・・

だが、自分が立ち直ったからと言って、俺に立ち直ることを強制することは止めて欲しい。
俺が亡くしたのは、たった一人の「最愛の人」なのだから。

「最愛の人」を亡くすということがどういうことなのか。
それは、散々、このブログでも語ってきた。

平穏な日常を失い、笑顔を忘れる。
心も身体も崩れ去る。
悲しみ以外の感情を無くす。
残された者は、すべてを失い、自らの「死」だけが救いだと考えるようになる。

「最愛の人」を喪うというのは、そういうことだ。

・・・

「最愛の人」を亡くした経験がない、だからこそ、すぐに立ち直れる。
俺はそのことを否定しないし、批判もしない。

だが、俺に対して立ち直ることを強制すること、
上から目線で知った風なことを言うこと、
それだけは止めて欲しい。


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身体の中、心の中に、かみさんを喪った悲しみが鬱積していく。

まるで、風船の中に、どんどんと空気を入れているかのようだ。
俺の身体と心の中に、どんどんと悲しみが蓄積されて、膨らんでいく。

そんな時、俺は泣きたくなる。
泣き叫びたくなる。

涙が出れば、身体と心に溜まったガスも放出されるに違いない。
泣いて、泣き叫んで、溜まった悲しみを発散したくなる。

だが、そんな時であっても、どうしても涙が出ない時がある。
パンクしそうだ。
身体と心に悲しみが溜まり、放出する先さえない。

泣ければ楽になれるのに…
子供みたいに泣きじゃくれば、少しは楽になれるのに…

どうして涙が出ないんだろう?
理由は分からない。

発散されない悲しみは、どんどん鬱積していき、俺の心と体を苛む。

そんな時がある。

そんな時、俺は気が狂いそうになる。
いっそのこと、狂ってしまえれば楽になれるだろうに。


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