いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2013年12月

かみさんと俺は、平成2年の6月ごろから付き合い始め、
平成3年4月から一緒に暮らしていたが、
平成11年まで、かみさんは「専業主婦」ではなく、アルバイトをしていた。

かみさんが専業主婦になったのは、確か平成12年のことだったと思う。
専業主婦になってから、かみさんは、ほぼ毎日NHKの「連続テレビ小説」を視ていた。

俺は日中、会社にいる。
当然のことながら、連続テレビ小説を視ることはできない。

だが、かみさんは、自分が気に入ったドラマがあると、必ず毎日、俺のために録画をしてくれた。
「面白いから、プーちゃんも視てみな」
かみさんに勧められるまま、休日にまとめてドラマを視た。

・・・

今でもはっきり記憶しているのは、
平成12年の上半期に放送していた「私の青空」だ。
内舘牧子さんが原作・脚本を担当、主演は田畑智子さん。

かみさんも俺も、夢中で視たものだ。
このドラマは評判が良く、続編も制作された。

・・・

この他にも印象に残っているドラマがある。
平成15年の上半期に放送された「こころ」だ。
浅草のウナギ屋が舞台で、中越典子さんが主役を務めていた。

このドラマを視ていたかみさんは、「ウナギ、食べに行きたいな」と言った。
そこで、ある日の土曜日の夕方、浅草に近い駒形の老舗のウナギ屋「前川」で食事をした。

かみさんも俺も若かった。
いくらでも食べられた。
うな重に加え、白焼きだの、う巻きだの、キモ焼き、キモ吸いだのを腹いっぱい食べた。

この日はたまたま、隅田川の花火大会の当日だった。
店の2階から、打ち上げ花火が見えた。
かみさんと一緒に、打ち上げ花火を眺めながら、食事をしたことを覚えている。

かみさんと俺が幸せだった頃の想い出のひとコマだ。

・・・

かみさんが最期に視た連続テレビ小説は「ゲゲゲの女房」だった。
主演は松下奈緒さん。
平成22年の上半期に放送された。
正確な放送期間は、平成22年3月29日から9月25日まで。

結局、かみさんは、このドラマを最後まで視ることはできなかった。
平成22年6月27日、かみさんはこのドラマの最終回を視ることなく、息を引き取った。

このドラマの主題歌 いきものがかりの「ありがとう」を聴くと
かみさんの闘病中の記憶が頭に浮かぶ。
必死で病と闘い、必死で生きようとしたかみさんの姿が目に浮かぶ。
未来があると信じて、二人で支えあい、寄り添い合ってきた濃密な時間の記憶が蘇る。
俺にとっては、涙無しでは聴けない曲になってしまった。

・・・

NHKの連続テレビ小説…
そんなところにも、かみさんと俺の想い出がいっぱい詰まっている。


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年末年始をかみさんの実家で過ごすのは、
かみさんの生前からの、俺とかみさんの習慣だ。
かみさんと俺にとって、一年で最も楽しいイベントのひとつだった。

この習慣は、かみさんが亡くなった後も変えていない。
俺は毎年、かみさんのお位牌を連れて、かみさんの実家がある北海道にやって来る。

だがやはり、かみさんがいた頃とはまったく違う。
隣にかみさんがいない。
かみさんの実家に着いても、かみさんが俺を待っていてくれるわけでもない。

かみさんがいた頃は楽しかったはずのイベントが、ただの惰性と化してしまった。
乱暴な言い方をすれば、
かみさんのいないかみさんの実家に来ることが、虚しくもあり、面倒でもあり、滑稽でもある。

・・・

12月26日の夜。
年末年始をかみさんの実家で過ごさせてもらうため、俺は北海道にやって来た。
「新千歳空港」から快速に乗り、「札幌」を経由して「琴似」まで。

かみさんが亡くなって以来、電車の窓から見える北海道の風景は、
美しいとも、楽しいとも感じることのできない、無機質な世界になってしまった。
そのことは、このブログの過去の記事でも触れた。

だが、今回は、夜10時過ぎに快速に乗ったため、電車の窓外は真っ暗闇。
見える物といえば、街灯や車のヘッドライトくらい。
おかげで、無機質な世界と化してしまった風景を見ずに済んだ。

そのことは、わずかばかり、心の救いになった。

・・・

多少の安堵を感じつつ、電車に乗っていると、「桑園」という駅を通過した。
そこで目に入った風景が、俺の心を抉った。
「心の救い」や「安堵感」は、一瞬にして吹き飛んだ。

駅のホームに一組の男女がいた。
恐らく夫婦だろう。
二人は顔を見合わせ、何かを話しながら、満面の笑みを浮かべていた。

その笑みを見た瞬間、俺は感じた。
「そうか…。かみさんは死んじゃったんだな…。もう、かみさんには会えないんだな…」
「俺はもう二度と、あんな笑顔にはなれないんだろうな…」

・・・

周囲の人々の表情やしぐさを目にしただけで、かみさんを喪った悲しみに打ちひしがれる。
まったく困ったものだ。
神経過敏にも程がある。

そうは思うのだが、
周囲のあらゆる風景を目にするたび、かみさんが亡くなったという現実が胸に迫ってくる。

こんな風に生きていくのは、本当に辛いことだ。


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平成22年6月13日の日曜日。
 
この日の朝も、かみさんは元気そうに見える。
汗をかいても消耗しない、吐いても消耗しない。

だが冷静に考えて、この状態を「元気」と言っていいのだろうか。
「吐く」ということ自体、かみさんの身体が悲鳴をあげている証ではないのか。


・・・


朝食。
少しずつしか食べられない。
一口食べては横たわってしまう。
しばらくして起き上がっては、また一口食べる。
そしてまた、ベッドに横になる。


食事をすること自体が苦痛になっている。
身体が食べ物を受け付けなくなっている。
 
それでも生きるために、かみさんは食べ続けた。
生きようとするかみさんの強い意志。


そんなかみさんの姿が痛々しい。
食事を苦痛に感じているようで、心が痛む。
涙が噴き出しそうになるのを、俺は必死で堪える。


時間はかかったが、出された食事をほとんど食べた。
生きたいというかみさんの意志を感じた。


だが、黄疸やむくみは引かない。


・・・

10時半ごろ、かみさんは吐いてしまった。
その後、目の力が衰えてきた。

「少し昼寝したら?」というと、かみさんは「ごめんね」と言って眠りについた。


なぜ謝る?
治って欲しいという俺の希望に応えられないことに罪の意識を感じているのか。
謝られた俺の心は痛む。


・・・


午後1時ごろ、かみさんは目を覚ました。
目の力は戻らない。


・・・


午後2時ごろ、昼食。
朝食と同じように、一口食べては横になり、
体力の回復を待って起き上がり、
また一口食べる。


身体が食物を受け付けない。


俺はかみさんに言った。「早く元の生活に戻ろうね」。
かみさんは頷いた。

俺は涙が出そうになるのを堪えた。


・・・


昼食後、かみさんはシャワーを浴びに行った。
浴室から戻ると「シャワーを浴びたら元気が出た」と言う。


二人で院内の庭園に散歩に出た。
癌研有明病院の5階の庭園。
二人で一緒に、何度も散歩をした場所だ。


ベンチに座って何気ないおしゃべりをした。
俺はかみさんに言った。
「元の生活に戻ったら、俺ががソファーにごろ寝して、容ちゃんが俺に抱きついてきて…。また、そんな生活をしたいね」。
そう言いながら、涙が溢れそうになった。
必死で涙を堪えた。


・・・

「早く元の生活に戻ろうね」

かみさんと俺には、まだまだ未来がある。

かみさんにそう信じて欲しい、そして、俺自身がそう信じたい。
そう思って口にした言葉だった。


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以下は、沢田知可子の曲、「会いたい」の歌詞の一部だ。

> ビルが見える教室で、ふたりは机並べて、同じ月日を過ごした
> 少しの英語とバスケット、そして私はあなたと恋を覚えた
> 卒業しても私を子供扱いしたよね、「遠くへ行くなよ」と
> 半分笑って、半分真顔で 抱き寄せた

> 低い雲を広げ 冬の夜
> あなた 夢のように死んでしまったの

> 今年も海へ行くって
> いっぱい 映画も観るって
> 約束したじゃない
> あなた 約束したじゃない
> 会いたい…

CDの発売日は、1990年の6月27日だそうだ。

6月27日。偶然にも、かみさんの祥月命日。
2010年の6月27日、俺がこの世で一番大切な人を看取った日だ。

・・・

俺はこの曲が嫌いだった。
かみさんが元気だった頃から大嫌いだった。

愛する男性に先立たれた女性の想いを唄った曲。
自分がこんな目にあってしまったら…
かみさんに先立たれることになってしまったら…

そんな光景を想像するだけで、大きな恐怖と悲嘆に襲われた。

そんな時、俺は自分に言い聞かせた。
俺たちは大丈夫だ。
かみさんも俺も、絶対に長生きする。
決して若くして死別したりなんかしない。
そう言い聞かせ、大きな恐怖を振り払った。

だが、本気で心配していたわけじゃない。
まさか、本当に死別することになるなんて、これっぽっちも思っていなかった。

・・・

毎年、大晦日から元旦に日付が変わるたび、
かみさんは俺に言った。「プーちゃん、今年もよろしくね」
俺もかみさんに言った。「こちらこそ、よろしくね」

そして、新たな年をどんなふうに過ごそうか、
二人で話し合ったものだ。

海が大好きだったかみさんは、「今年もいっぱい海に行こうね」と言った。
映画を観るのが好きだったかみさんは、「今年もいっぱい映画を観に行こうね」と言った。

・・・

沢田知可子の「会いたい」を聴くたび
かみさんとの何気ない会話が思い出される。
幸せだった頃、その幸せがいつまでも続くと信じて疑わなかった頃の何気ない会話だ。

決して起こることは無いだろうと信じていたこと、
決して起こって欲しくないと思っていたこと、
それが起こってしまった。

やはり思わざるを得ない、願わざるを得ない。
「会いたい」と…


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先日、猪瀬直樹・東京都知事が、東京都議会の議長に対して辞表を提出した。
その理由は、テレビや新聞を賑わせているので、ご存知の方が多いだろう。
今後、臨時都議会が開催され、そこで承認されれば、猪瀬氏は正式に都知事の職を辞すことになる。

・・・

俺は猪瀬直樹氏には興味がなかった。
昔、話題になった「ミカドの肖像」さえ読んでいない。

彼が道路公団の民営化推進委員会の委員を務めていた頃は、
「なんだか態度のデカイ人だな~」くらいの印象しかもっていなかった。

東京都の副知事を務めていた頃は、
「以前より、ますます態度がデカくなったな~」と感じていた程度だった。

・・・

そんな俺が、猪瀬氏に初めて関心を持ったのは、今年の7月だった。
猪瀬氏の奥様・ゆり子さんが、悪性脳腫瘍で亡くなった時だ。

そのニュースを耳にしたとき、俺は
「奥さんを亡くしたショックで、猪瀬氏は都知事を辞めてしまうんじゃないだろうか…」
「仮に辞めなくても、仕事に集中できなくなってしまうんだろうなぁ…」
なんて思っていた。

だが、俺の予想は裏切られた。
その後の猪瀬氏の動向をニュースで追っていると、知事を辞めるつもりなど、まったく無さそうだった。

猪瀬氏が奥様の発病を知ったのは、今年の5月の末らしいが、
その時点で「余命数か月」と宣告されたそうだ。
俺としては、「余命数か月」と宣告された奥様の傍に寄り添っていてあげて欲しかったと思うのだが…

・・・

猪瀬氏は、入院している奥様を病院に残し、
ロシアのサンクトペテルブルクやスイスのローザンヌに海外出張している。
海外出張中は、SPに囲まれてジョギングをしていたり…
毎週金曜日の定例記者会見でも、相変わらずデカい態度で記者たちを恫喝していたり…

この人には「妻を喪ってしまうかもしれない」という不安が無かったのだろうか。
いわゆる「予期悲嘆」に襲われて、大きな悲しみや不安に翻弄されたりはしなかったのだろうか。

奥様が亡くなった後も、9月のIOC総会では、嬉々とした表情でプレゼンを行っていた。
2020年のオリンピックが東京で開催されることが決まった瞬間も、本当に嬉しそうな表情を見せていた。

そんな猪瀬氏を見ていて、俺は違和感を覚えた。
奥さんが亡くなったのに、この人は悲しくないんだろうか…

・・・

そんな時に出てきたのが、徳州会グループからの5千万円受領問題だ。
都議会の本会議、その後の総務委員会での追及が始まった。

猪瀬氏は、当初、明らかに都知事の「椅子」に固執していた。

結局は「百条委員会の設置も視野に入れる」という都議会総務委員長の発言や、
東京電力病院の売却問題に関わる疑惑が出てきたことで、
猪瀬氏は辞表を提出したのだが、
それ以前の猪瀬氏は、明らかに「権力」に固執していた。

・・・

そんな猪瀬氏の動向を見ていて感じたものだ。

猪瀬氏は、奥様より「権力」を愛していたんじゃないか。
あるいは、「権力」を握っていることで、奥様を亡くした悲しみを忘れることができたんじゃないか。
「権力」に酔っていたんじゃないか。

もちろん、奥様が亡くなって、まったく悲しくないということはないだろう(と信じたい)。
だが、その悲しみが、テレビや新聞のニュースを通して見えてこなかったのだ。

奥様を亡くしても仕事に邁進できた。
それは猪瀬氏の責任感や義務感の強さを示すものだという見方もできるだろう。

だが、あくまでも俺個人の考え方を言えば、
猪瀬氏は、奥様より「権力」の方が大切だったんじゃないか…
そう思わざるを得ない。


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