いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2014年01月

1月27日は、かみさんの月命日だった。
かみさんが亡くなってから、3年7ヶ月が経った。

月命日には、
かみさんが大好きだった寿司屋の特上寿司を注文し、かみさんにお供えをする。あるいは、かみさんのお位牌をつれて、かみさんが大好きだった料理屋に食事に行く。
また、花を買い、かみさんの仏前に飾る。
そして、いつも以上に、かみさんに想いを馳せる。
3年7ヶ月の間、俺はそんな風にして、毎月の命日を過ごしてきた。

だが、先日の1月27日は、いつもと違った。
昨日の記事に書いたとおり、俺はこの日、インフルエンザで寝込んでいた。
寿司を届けてもらい、かみさんに供えてあげることはできたのだが、花を買いに行く体力がなかった。
かみさんに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

・・・

3年7ヶ月。
この間、俺の中で何かが変わっただろうか。

泣く回数は減った。
以前は毎日毎晩、欠かさず泣いていた。
身を切られるような、心を抉られるような激しい哀しみに襲われ続け、頭を掻き毟り、大声を張り上げ、身を捩りながら泣きじゃくっていた。
だが最近では、号泣するのはせいぜい2日に1回程度だろうか。

多少は笑えるようにもなった。
一時は笑顔を失い、「俺は生涯、もう二度と笑うことはないんじゃないか」と考えていた時期もある。
だが最近は、作り笑い程度ならできるようになってきた(作り笑いの後に襲ってくる虚しい気分は、如何ともし難いが)。

その一方で、変わらないこともたくさんある。

自分の身体の半分をもぎ取られてしまったような感覚が無くならない。
心にポッカリと穴が開き、いつでもその穴を見つめている俺がいる。
周囲の世界に現実感がなく、自分だけが世界から隔離されているかのような感覚を抱えている。
これらは3年7ヶ月が経過しても、何らの変化も見られない。

・・・

3年7ヶ月…
俺は立ち直りつつあるんだろうか。
それとも、まったく立ち直っていないのだろうか。

ある人が言っていた。
「亡くなってから何ヶ月経ったとか、何年経ったとか数えているのは、立ち直っていない証拠だよ」
この言葉、妙に説得力があった。

俺は依然として数えている。
かみさんが亡くなってから何年何ヶ月経ったな…と数えている。
「あれから3年7ヶ月…」
そんな風に数え続けている俺は、立ち直りからは程遠いのかも知れない。

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先日の記事に書いたとおり、1月28日から正式に復職することになっていたのだが、
しょっぱなから躓いてしまった。
インフルエンザに罹ってしまったのだ。

・・・

(1月23日の木曜日)
午後から鼻水と鼻づまり、咳など、風邪の諸症状が出てきた。時間が経つにつれて、全身がだるくなっていく。歩くことさえしんどい。

会社からの帰宅途中、病院に行こうかとも思ったが、自宅の最寄にある病院はどこも閉まっていた。
やむを得ず、風邪薬とマスクを買って、自宅に帰った。

自宅に着いて、何よりもまず、かみさんの仏前に座った。
遺影に向かって「容ちゃん、ただいま」と声を掛け、手を合わせた。

その後、午後7時半頃に体温を測ってみると、37度5分。
それ以降も定期的に測ってみたが、最終的には38度5分まで上がった。


(1月24日の金曜日)
午前中、病院に向かう。
歩くのが辛いのでタクシーに乗ろうと思ったが、こんな日に限ってタクシーがつかまらない。フラフラ歩きながら、何とか病院に到着した。

受付で問診表を渡され、必要事項を記入している間、体温を測らされた。38度ジャスト。
その後、1時間ほど待たされ、ようやく診察室に入った。病状を説明したところ、「インフルエンザの可能性が高い」と言われた。その場で検査をされ、10分ほど待っていると、検査結果を告げられた。やはりインフルエンザだった。医師の言うところでは「周囲に感染させないために、発症した日から5日間は出勤してはいけない」とのこと。

帰宅後、かみさんにお供えをしてあげるために米を炊いた。仏前にお供えをしてあげるまでは、寝てしまうわけにはいかない。
米が炊き上がると、かみさんにお供えをし、線香をあげ、手を合わせた。
そして、薬を飲み、眠りに就いた。

夕方目覚めて、再度熱を測ってみると、体温は40度2分。
食欲もなく、水分だけ補給して、再び眠りに就いた。

夜中に何度も目が覚めた。
そのたびに熱を測るのだが、何度測っても40度近い熱があった。


(1月25日の土曜日)
早朝目を覚まし、熱を測ると、38度5分まで下がっていた。その後は順調に熱が下がり、この日の昼前には平熱に戻っていた。
だが、全身のだるさは前日より酷くなっていた。また、咳をするたびに激しい頭痛に襲われた。

相変わらず食欲もない。そもそも食糧を買いに行く気力がない。
かみさんにお供えをし、その後は一日中、布団に横たわってウトウトしていた。


(1月26日の日曜日)
熱はない。
だが、全身のだるさは相変わらずだ。咳も止まらず、そのたびに頭の中がガンガンと痛む。


(1月27日の月曜日)
全身のだるさは残っているものの、咳は快方に向かっている。


(1月28日の火曜日)
この日から復職の予定だったが、相変わらず全身がだるく、フラフラだ。
やむを得ず、有給休暇を取得して会社を休んだ。

・・・

インフルエンザに罹ったのは数年ぶりのことだ。以前に罹ったのは、平成19年の冬だったと思う。その時も高熱を出し、激しい頭痛と咳、全身の痛みやだるさなどの症状が現れ、俺は寝室のベッドで寝込んでいた。

その時は、かみさんが俺の看病をしてくれた。
食欲のない俺でも食べられるような食事を用意してくれたり。
冷たいものが食べたいと言えば、アイスクリームを買いに行ってくれたり。
時折、寝室を覗いて、俺の様子を伺ってくれたり。
あるいは、「プーちゃん、大丈夫?」と声を掛けてくれたり。

インフルエンザの症状は辛かったが、孤独ではなかった。寂しくもなかった。
それは、かみさんが傍にいてくれたからだ。

・・・

今回のインフルエンザ。かみさんが亡くなってから初めてのインフルエンザだ。
正直に言って、すごく寂しかった。孤独だった。世界は真っ暗闇で、真っ黒だった。

ただでさえ、かみさんを喪った哀しみを抱えている。俺の半身をもぎ取られたような感覚を抱えている。
それに追い討ちをかけてきたのが今回のインフルエンザだ。
かみさんが亡くなってから抱えている「鬱」が、なお一層ひどくなっていく。

それでも俺は、かみさんに助けを求めようとは思わなかった。かみさんの仏前に座り、「容ちゃん、俺を助けて」なんて祈る気にはなれなかった。
俺の頭に浮かんだのは、「容ちゃんに迷惑を掛けちゃいけない。自分独りで何とかしなきゃ」という思いだ。

「容ちゃんに迷惑を掛けちゃいけない。自分独りで何とかしなきゃ」
こう書けば、俺の中に、何か前向きとでも言うような気持ちが芽生えたと誤解されるかもしれない。

だが、実際はそうではない。心の中は自暴自棄。
もうどうにでもなれ。
何もかもがどうでもいい。
消えたい。
終わりたい。
すべてを終わらせてしまいたい。

そんな、ろくでもないことを考え続けた6日間だった。

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これまでの記事にも書いてきたように、かみさんが亡くなったのは平成22年6月27日のことだ。

その日、俺は泣かなかった。

突然、心に開いてしまった大きな空洞、手脚をもぎ取られたような感覚。
周囲の世界にも、それどころか、自分の肉体にさえも現実感が感じられない。 まるで「離人症」のようだ。
言いようのない大きな悲しみ、大きな孤独感に襲われてはいた。

それなのに、亡くなった当日は涙が出なかった。

恐らく、葬儀会社との打ち合わせや、弔問に訪れる親戚の対応に追われ、悲しみに浸る時間が得られなかったからかもしれない。
また、かみさんの死に対する現実感が無く、何か夢を見ているような気がしていたからかもしれない。 

その日の晩、俺はかみさんの遺体の横に布団を敷いて、かみさんに添い寝をした。

・・・

翌朝、目覚めると、横にかみさんがいた。
かみさんの顔に掛けられた布を取り、かみさんの顔を見つめた。

かみさんは、とても穏やかで、満ち足りた笑顔を浮かべていた。
死に装束として着せられていた薄い水色の浴衣がとても似合っていた。
あんなに綺麗なかみさんを見たのは初めてだった。

そんなかみさんの様子を見つめているうちに、涙がこみ上げてきた。
激しい悲しみに打ちひしがれた。
俺は泣いた。
文字通り、慟哭だった。

俺はかみさんに話しかけた。
「俺も一緒に逝くよ。一緒に逝こう、一緒に逝こう・・・」と話しかけながら泣いた。

・・・

通夜までの数日間、かみさんと二人きりになるたびに、俺は慟哭した。
「一緒に逝こう、一緒に逝こう。俺も一緒に逝くよ」とつぶやきながら泣いた。

・・・

通夜の日と告別式の日。
俺は決して泣くまいと思っていた。

親戚の前で泣くのはまだいい。
だが、参列者には俺の会社の人たちやかみさんの友人もいる。
そんな人たちの見ている前では決して取り乱すまい、泣くまいと決めていた。

だが、ダメだった。

通夜の読経が終わり、参列者がお清めの食事の席に移動した後、俺は独り、棺の横で泣いた。

また、告別式の際の最期のお別れの時。
参列者が次々に、かみさんの棺の中に花を供えてくれる。
その光景を眺めているうちに、涙が噴き出してきた。
俺はかみさんの棺の横に座り込み、かみさんの顔を眺めながら泣き続けた。

・・・

泣くという作業。悲しむという作業。
その作業が本格的に始まったのは、告別式が終わり、最後まで俺の傍にいてくれたかみさんのお袋さんが帰った後だった。

俺は毎日、号泣した。
決して誇張ではない。
平成22年の7月の終わりに1日だけ涙の出ない日があったが、その日を除き、俺は1年間以上、毎日泣き続けた。

かみさんを喪って悲しいという涙。
かみさんがいなくて寂しいという涙。
もっと生きていたかったであろうかみさんが不憫でならないという涙。
かみさんが俺を支え続けてくれたこと、愛し続けてくれたことに対する感謝の涙。

色々な感情が襲ってきて、俺は1年以上にわたって泣き続けた。

おかげですっかり顔が変わってしまった。
元々は一重瞼だった俺が、1年以上泣き続け、目をこすり続けるうちに、二重瞼になってしまった。

・・・

平成22年の9月頃だったろうか。
仕事から帰り、仏前で泣いていた時、俺はふと思った。
「俺はいったい、いつまで泣き続けるのだろう」と。

そして感じた。
「いずれは涙も涸れるだろう」。

いつ涸れるのだろう。

かみさんが亡くなった数か月後には、「きっと1年もすれば涙も涸れるだろう」と思っていた。
だが、1周忌が過ぎても、涙は溢れ続けた。

1周忌が終わると、「3回忌が終わる頃には涙も涸れるだろう」と思っていた。
だが、3回忌が終わっても、涙は流れ続けた。 

・・・

平成23年の冬頃まで、涙の出ない日は無かった。
だが、冬を過ぎたあたりから、毎日泣くことはなくなった。
だが、それでも時折、涙が出る。 2,3日に一度は激しく泣いている。
涙が出るというより、号泣、慟哭と言った方が正しい。

悲しくて泣く、寂しくて泣く。
あるいは、かみさんが不憫で泣く。
かみさんに大切にしてもらってきたという感謝の気持ちで泣けてくる。

・・・

今でも忘れられないのは、3回忌の法事が終わった日のことだ。

1周忌法要の際には、僧侶の読経中に涙が溢れてしまった。
かみさんのお位牌が祀られている祭壇を見た時、「かみさんが俺の横にいない。いつも俺の隣にいたはずのかみさんが、今は俺の横にいない、祭壇にいるんだ」
そう思った瞬間、涙がドッと溢れて来た。

だが、3回忌の際には、涙を流すことなく、無事に法事を終えることができた。

3回忌の法事が終わって帰宅した俺は、かみさんの仏前に座った。
線香を供えた。
すると突然、涙が噴き出してきた。
まるで子どものように、泣きじゃくった。

・・・

平成24年12月17日の夜、携帯電話の壁紙を眺めていた。
壁紙はかみさんの写真だ。
それを眺めていた時、なぜだろう、俺は堪らない気持ちになって号泣した。

・・・

「いずれは涙も涸れるだろう」。
本当にそうなんだろうか。
涙が涸れる日など来るのだろうか。

いまだに涸れない涙。
このまま生涯、大きな喪失感を抱え、時折涙を流しながら生きていくのかもしれない。

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先日、このブログの記事に書いたとおり、
平成25年12月26日から平成26年1月5日まで、
俺はかみさんの実家で過ごさせてもらった。


・・・


1月5日の午後2時ごろ。
俺はかみさんのお位牌と財布だけを持って、
JR琴似駅近くにあるラーメン屋(旭川ラーメンの店)に向かった。


かみさんはラーメンが大好きだ。
とりわけ、旭川の正油ラーメンが大好きだ。


「かみさんにラーメンを食べさせてあげたい」
「大好きな旭川ラーメンを味わわせてあげたい」
そう思った俺は、かみさんのお位牌を連れて、ラーメン屋に行った。


ラーメン屋からの帰り道。
俺は心の中で、かみさんに話しかけた。
「容ちゃん。ラーメン、美味しかった?」


そして、ふと空を見上げた。
その瞬間、俺の目から涙が溢れた。


なぜ涙が出たのかは分からない。
ただ、心の中でかみさんに話しかけた瞬間、無性に悲しくて、無性に寂しかったのだ。


俺は人目も憚らず、涙を流しながら帰路を急いだ。


・・・


1月5日の午後11時過ぎ。
俺は東京に帰ってきた。


羽田空港からのリムジンバスに乗り、豊洲駅前で降りる。
豊洲駅から自宅までは7分ほど。


帰宅の途中、信号待ちをしていた時のことだ。
俺は、ふと空を見上げた。
その瞬間、俺の目から涙が噴き出してきた。


なぜ涙が出たんだろう。
わからない。
この時も、無性に悲しくて、寂しかったのだ。


道には人っ子一人いない。
俺は泣きながら自宅への道をとぼとぼと歩いた。


・・・


なぜだろう。
最近、時々、こういうことがあるのだ。
空を見上げた瞬間、涙が出てくる。


かみさんに想いを馳せる。
そんな時、堪えようとしても、自然と涙が溢れてくるのだ。

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1月22日の午後4時半。俺は会社の産業医と面談をした。
その結果、1月28日の火曜日から、正式に会社に復帰することが決まった。

復帰が決まったからと言って、特に感慨はない。
復帰できて嬉しいとも思わないし、「これから仕事を頑張るぞ!」なんて想いも全くない。
むしろ、復職することに対して罪悪感さえ持っている。

・・・

以前の記事にも書いたが、
俺の本音を言えば、会社を辞めたい。
そして、かみさんの供養に専念したい。

だが、かみさんが愛した遺品を守りたい。そのためにはマンションを手放すわけにはいかず、ローンの返済もしていかなければならない。要するに、金を稼がなくてはならない。
かみさんが大切にしていた遺品やマンションを守るため、俺は会社への復帰に努めてきたのだ。

・・・

産業医が復職を認めてくれたことも、主治医が「復職可能」という内容の診断書を書いてくれたことも、当然のことだ。
なぜなら俺は、産業医にも主治医にも、「本当の俺」を見せていないからだ。
もし「本当の俺」の片鱗でも見せたりすれば、産業医も主治医も、復職を認めてはくれなかっただろう。

「本当の俺」って何か?

俺は毎晩、かみさんの遺影の前で泣いている。
外出先から帰ってきて、玄関を開けた瞬間に涙が噴き出す。
雨の降る日などは、傘で顔を隠し、泣きながら家路を急ぐ。

いつだって悲しくて、いつだって寂しい。
かみさんの後を追いたいという気持ちも捨てられない。

ろくに食事も摂れない。
ろくに眠れない。
眠れたとしても起床が困難。

慢性的な鬱状態。
あらゆることに無関心で、無気力。

虚無感が拭えず、この世界から逃避したい願望に駆られている。

俺がそんな状態だと知れば、産業医も主治医も、俺の復職を認めはしなかっただろう。

・・・

前述したとおり、復職が決定したとき、俺の中に罪悪感が生まれた。
その罪悪感の正体は、はっきりしている。

以前にもこのブログに書いたが、かみさんと俺は、かつて次のような会話をしたことがある。

かみさんが「プーちゃん、私がもし先に死んじゃったらどうする?」と聞いた。
それに対して、俺は「仕事、やる気無くなっちゃって、廃人になっちゃうかもね」と応えた。
すると、かみさんは「嘘だね。私が死んじゃっても、プーちゃんは仕事をバリバリやって、どんどん出世すると思うな」と言った。
その言葉を聞いた瞬間、俺はかみさんを怒鳴った。「そんなこと、あるわけないじゃん!」

「そんなこと、あるわけないじゃん!」には、複雑な想いが詰まっている。
「俺にとって一番大切なのは、仕事じゃなくて、かみさんなんだということを伝えたい」という想い。
「俺にとって一番の生きがいは、かみさんだということを分かって欲しい」という想いだ。
そして、もしかみさんが先に死んだら、俺は生きる気力を失うだろう、「会社なんか辞めてやる!」という想いをも込めたつもりだった。

それなのに、俺は今、復職しようとしている。
かみさんとの誓いを破り、俺は社会復帰しようとしている。

かみさんとの誓いを破った。それが罪悪感の正体だ。

・・・

気持ちはかなり複雑だ。
かみさんの遺品を守ることと、かみさんとの誓いを守ることとを天秤にかけ、俺は前者を選んでしまった。
どちらも俺の心からの願いだが、両立し得ない以上、一方を選ばざるを得なかった。

結局、どちらを選んでも罪悪感は生まれるのだが…
それならば、「プーちゃんが仕事を辞めたりしたら、容子が悲しむよ…」という義母や義弟の言葉を信じるしかないのだ。

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