いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2014年05月

かみさんに逢いたい。
俺はいつだって、かみさんに逢いたい。

だが、仏壇の前に座っても、遺影を眺めても、かみさんの気配を感じることはできない。
骨壷に触れても、お位牌を撫ぜても、かみさんの気配を感じることはできない。
幸せだった頃の想い出に浸っても、かみさんの気配を感じることはできない。

それでも俺は、かみさんを探し続ける。
いつまでも、かみさんを探し求める。

恐らく、いくら探しても、かみさんに逢うことなどできないのだろう。
もし逢えるとしたら、それは俺が死ぬ瞬間だ。

それまでは、仄かな期待を抱きつつ、かみさんを探し続ける。
だが、結局は絶望し、溜息をつくことしかできない。

・・・

せめて夢の中だけでもいい、かみさんに逢えたらいいのにな…と思う。
かみさんが夢に出てきてくれて、笑顔を見せてくれる。あるいは俺に触れてくれる。
そんな夢を見た翌朝は、心がほんのり暖かい。

毎晩、かみさんの夢が見られたらいいのにな…と思う。
そうすれば、今より多少は明るく生きられるかもしれないし、朝目覚めた直後の激しい絶望感にも耐えられるようになるかもしれない。

・・・

せめて夢の中で逢えたなら…
毎晩、そう願って眠りに就くのだが、ほぼ毎朝、その期待は裏切られる。

朝目覚めた瞬間、思う。
「今日も逢えなかったな…」

・・・

かみさんが亡くなって3年11ヵ月が経過した。

そんなに経ったのに、俺は今でも、かみさんに逢いたい。
俺は今でも、かみさんの姿を探し続けている。

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以前、「闘病記」のカテゴリーに
平成22年5月16日のこと ~予期悲嘆~」という記事を書いた。

かみさんの写真を眺めているとき、ふと、この時のことを想い出した。

・・・

平成22年5月16日の午後。

この日、かみさんと俺は散歩に出た。
近所のマンションの裏にある公園に行った。

よく晴れていながら気温は高すぎることもなく、低すぎることもなく、
そよ風も吹いていて、気持ちの良い気候だったことを覚えている。

・・・

公園のベンチに座り、かみさんは日光を全身で浴びた。
本当に気持ち良さそうな、幸せそうなかみさんの表情が忘れられない。

「暖かいね~」、「気持ちいいね~」という言葉を繰り返すかみさん。
そんなかみさんの姿を見ていると、
「日光をたっぷり浴びれば、かみさんの癌は治るんじゃないだろうか」なんて思ったりもした。

嬉しそうに満面の笑みを浮かべるかみさんを、俺は写真に撮った。
その写真は、自宅のリビングの壁に貼ってある。

・・・

その写真を眺めながら、俺はあの時のかみさんに想いを馳せた。
あの時、確かにかみさんは俺の隣にいた。
あの時、確かにかみさんは俺の横で笑っていた。

写真を見つめていると、あの時のかみさんの表情がリアルに想い出される。
「暖かいね~」という声まで聞こえてくるかのようだ。

かみさんの表情と声を想い出し、俺はかみさんの存在を身近に感じた。
まるで今でも、かみさんが俺の隣にいるかのように。

かみさんの写真を眺めながら、あの日のことを想い出す。
俺は笑顔になり、そして泣いた。

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これまで何度か、このブログに書いてきたが、
朝目覚めるたび、俺は大きな絶望感に襲われる。

「あれ?なんで容ちゃんは、俺の横にいないんだっけ?」。しばし考え込む。
そして気づく。「ああ、そうだった…。容ちゃんは死んじゃったんだっけ…」

そう気づいた瞬間、大きな大きな絶望感に襲われる。
しばらくの間、激しい鬱に苛まれ、身動きができなくなる。

かみさんの遺体が荼毘に付された翌日から、
毎朝判を押したように、この絶望感と鬱が俺を襲う。

・・・

いつだって哀しい。
いつだって寂しい。
いつだって空虚で、心の中心にポッカリと穴が開いている。
いつだって身体の半分を失ってしまったような感覚を抱えている。

それは仕方のないことだ。
俺はかみさんを亡くしたのだから。
たった一人の家族を、この世界で最も大切な人を喪ったのだから。
哀しくないわけがない。寂しくないわけがない。

・・・

哀しみや寂しさを抱えたまま生きていく覚悟はできている。
かみさんを想い続け、かみさんを喪った哀しみや寂しさと共存していく覚悟はできている。
より正確には、「覚悟ができている」と言うよりも、「諦めている」と言った方が適当かもしれない。

それでいい。
最愛のかみさんを喪ったのに、たった一人の家族を喪ったのに、ヘラヘラと笑っているほうがどうかしている。

俺の余生は、哀しみと寂しさに包まれている。
哀しみや寂しさが消え去る日は決して来ない。
俺は、哀しみや寂しさとともに生きていかざるを得ないのだと「諦めている」

・・・

だがせめて、朝目覚めた直後の絶望感と激しい鬱、
これだけは、どうにかならないものだろうか。

平日は、この絶望感で身動きすることさえできず、仕事を休んでしまうこともしばしばだ。
休日は、この絶望感から少しでも逃れるため、朝から晩まで酒に溺れている。

哀しみや寂しさと共存することができたとしても、この絶望感だけは、抱え切れない。
すべてを諦め、哀しみや寂しさとともに生きる覚悟ができたとしても、この絶望感と共存していくことは不可能だ。

朝目覚めた瞬間の絶望。
せめてこれだけでも消すことができれば…

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今日5月27日は、かみさんの月命日だ。
かみさんを看取ってから3年11か月が経った。
あと1か月で丸4年になる。

もう4年? まだ4年?
いずれにしても、まるで昨日のことのようだ。

俺の時間は「あの瞬間」に止まった。
「あの瞬間」という過去に心を置き去りにしたまま、3年11か月をやり過ごしてきた。

・・・

かみさんが亡くなった直後から、俺は毎日毎晩、号泣していた。

激しい悲しみが、身体の中心から噴き出し、俺の全身を覆った。
大きな喪失感は、俺の半身を削ぎ落とし、心に大きな穴を穿った。

仏壇の前に座り、あるいは家の中を徘徊しながら泣きじゃくっていた。
雨の降る日は傘で顔を隠し、泣きながら家路を急いだ。
布団に潜り込み、子どものように泣き喚いた。

・・・

一周忌が終わった頃だっただろうか。
俺は「ひょっとすると、三回忌の頃には涙も涸れるんじゃないか…」と思った。

そう思ったことには何の根拠もない。
ただ漠然と、「三回忌の頃には…」と感じたに過ぎない。

・・・

だが実際に三回忌を迎えても、涙が涸れることはなかった。
悲しみや喪失感は、日を追うごとに大きくなっていった。
悲しみや喪失感に堪えられず、本気で「後を追いたい」と考えるようになったのもこの頃だったと思う。

その上、「激しい悲しみ」や「大きな喪失感」に加え、別の感覚が現れてきた。
何とも表現しようのない、深い「寂しさ」と「孤独感」だ。

恐らく、かみさんが亡くなった当初から、「寂しさ」や「孤独感」は俺の心の中にあったのだろうが、
「悲しみ」や「喪失感」があまりにも大きすぎて、「寂しさ」や「孤独感」を意識する余裕がなかっただけなのかもしれない。

・・・

3年11か月を経て、俺の中に何らかの変化はあっただろうか。
なんだか、あんまり変わっていないような気がする。

それでも、ただ一つだけ、変化らしきものもある。
「悲しみ」も「喪失感」も、あるいは「寂しさ」や「孤独感」も、俺の心身にとって異物ではなくなったということだ。
外部から侵入したウィルスや細菌のようなものではなく、俺の心と身体を形成している部品の一つになってしまったということだ。
「悲しみ」や「喪失感」、「寂しさ」といった負の感情が、俺の血肉を形成している。

もはやそこから逃れることはできない。
異物なら排除できるが、自分の血肉は排除できないのだから。

ふと、「いったい、いつまで生きていかなきゃならないんだろう…」と考える。
結論ははっきりしている。
お迎えが来るその日まで、苦痛とともに生きていかなければならないのだろう。

・・・

今日は、かみさんの月命日。
いつもより豪勢なお供え物をしてあげよう。

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俺は「正気」なんだろうか。
それとも「狂気」の中にいるんだろうか。
自分でもよく分からない。

会社の部下や同僚達は、恐らく俺が「正気」だと思っているだろう。
「あの課長、なんだか寂しそうだな…」とか
「あの人、いつも悲しそうな表情をしているな…」くらいは感じているかもしれないし、
ひょっとしたら、俺が悲しかろうと、寂しかろうと、まったく眼中に無い人もいるかもしれない。
いずれにしても、まさか俺が「狂気」の中にいるなどと思っている人はいない。
「正気」だと思われているんだろう。

だが「正気」でいられるものなんだろうか。

俺はこの世で最も愛している人を喪った。
この世界で一番大好きなかみさんを喪った。
たった一人の家族を喪った。

そんな人間が、「正気」でいられるものなんだろうか。

・・・

事実、俺は、自分の中に「狂気」の影をかいま見ることがある。

朝目覚めた瞬間、俺は必ず「狂気」の中にいる。

眠りから覚め、周囲を見回しても、かみさんの姿が見えない。
そうか、かみさんは死んじゃったんだっけ…
そう気づいた瞬間、俺は奈落の底に突き落とされる。

そして狂うのだ。
現実を否定し、この世界を否定するのだ。
この世界の消滅をさえ願うのだ。

そんな時、ふと気づく。「俺は狂ってる…」

・・・

朝だけじゃない。
ふと「俺は狂ってるんじゃないか…」と感じるような言動は多々ある。

ふと、自分は「狂気」の中にいるんじゃないか、
普通に幸せに暮らしている人たちが俺の頭の中を覗いたら、
「こいつは狂ってる」と思うんじゃないかと感じるような言動は
ひとつやふたつではない。

・・・

当然だとも思う。
「正気」でいられるわけがないじゃないか。

俺は最愛のかみさんを亡くしたのだ。
俺の人生は、足元から崩壊したのだ。
俺はすべてを失ったのだ。

「正気」でいられるわけがないじゃないか。

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