いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2014年06月

以前「結婚指輪の悲哀」というタイトルでブログを書いた。
この記事に書いた通り、
かみさんが亡くなった後も、俺は左手の薬指に結婚指輪をはめている。

俺の指輪は、他の人々が身に着けている指輪とは意味合いが違う。

他の人々にとっての結婚指輪は、「私には伴侶がいます」ということを意味している。
その人が「今現在」、幸せであることの象徴だ。

だが俺にとっては違う。
かみさんと俺が、「かつて」幸せだったことの証であるとともに、
かみさんを喪ったという残酷な現実にささやかながら抵抗しているのだ。
「遠い過去」の、幸せだった想い出にしがみつき、心の中で涙を流している象徴なのだ。

・・・

電車の中で指輪をはめている人を見たとき、
あるいは会社で部下や同僚が指輪をはめていることに気づいたとき、
俺の心は痛む。
寂しくて、哀しい。

指輪をはめている人を見るたびに、
「この人には伴侶がいるんだな…」、「この人は家に帰れば家族が待ってるんだな…」と思う。
「なのに、俺にはもう家族はいないんだ…」、「かみさんは死んじゃったんだ…」、「俺は独りぼっちなんだ…」と思う。
他の人々と自分との立場の違いを思い知らされ、寂しさや孤独感が腹の底から湧き上がってくる。

そんな負の感情を少しでも整理したくて、「結婚指輪の悲哀」という記事を書いたのだが、
どうやら逆効果だったようだ。
この記事を書いて以来、以前よりも他人の薬指が気になるようになってしまった。

・・・

やめればいいのに、つい他人の薬指を見てしまう。
そして結婚指輪が目に入ると、表現し難いほどの深くて大きな寂しさに襲われる。
思わず目を逸らしてしまうのだが、既に手遅れだ。
「この人には大切な家族があるんだな…」、「かみさんはもういないんだ…」、「俺は孤独なんだ…」という負の感情で頭がいっぱいになってしまう。

そして俺は、自分の左手の薬指を見つめるのだ。
そこには、かみさんと俺が夫婦だった証が、虚しく光っている。


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心のどこか奥底で、俺はかみさんが生き返ると思っているのかもしれない。

一晩眠って、朝起きたら、翌日にはかみさんが生き返っている。
心の奥底で、俺はそう期待しているのかもしれない。

朝目覚めた瞬間、「あっ…、容ちゃんがいない…」と気づく。
「せっかく一晩寝たのに、容ちゃんは生き返ってない…」、そう感じて絶望的な気持ちになる。

そもそも、亡くなった人が生き返るわけがない。
そんなことは分かっている。

それなのに、かみさんが生き返ることを本気で期待し、目覚めた瞬間に絶望する。
きっと寝惚けているのだろう。

あるいは、すべてが悪い夢だったと思いたいのかもしれない。
かみさんが癌になったことも、かみさんが亡くなったことも、それ以降の独りぼっちの生活も、すべてが俺の悪夢であり、夢から覚めれば、かみさんが俺の横で笑っている。
心の底の方で、俺はそんなことを願っているのかもしれない。

そして俺は、「二度寝」をする。
「もっとたくさん寝れば、目覚めた時には容ちゃんが生き返ってるかもしれない…」。

そして「二度寝」から覚めた後、再度、期待は裏切られる。

俺の一日は、そんな風にして始まる。


心のどこか奥底で、俺はかみさんが生き返ると思っているのかもしれない。

心のどこか奥底で、俺はかみさんに生き返って欲しいと願っている。


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周囲を見渡せば、幸せそうな人々の笑顔が目に入ってくる。

みんな、「死別の悲しみ」など自分とは無縁だと思っている。
自分の身に「伴侶や子どもとの死別」が起こるなんて、これっぽっちも考えてはいない。

笑顔で他愛ない会話を楽しむ夫婦やカップル。
手をつなぎ、ゆっくりと歩く老夫婦。
夫婦と子どもで買い物を楽しむ家族づれ。
ベビーカーを押しながら赤ん坊の顔を見つめ、笑顔を浮かべる主婦。
電車の中でスマホを弄りながら、にこやかな笑顔を浮かべているサラリーマン。
挙げればキリがないが、みんなみんな、幸せそうだ。

伴侶や子どもが死んでしまうかもしれないなどと考えたこともない人々の、安心しきった表情。
俺はその表情に、苛立ちと怒りを感じてしまう。

かみさんが亡くなった今、そんな幸せに満ちた風景の中に、俺の入り込む余地はない。

・・・

かみさんが元気だった頃は、俺もそんな風景の一部だった。

かみさんと二人で他愛ない会話をしながら散歩をした。
かみさんと二人で買い物に行った。
かみさんと一緒に映画を観に行った。
かみさんと一緒に食事をした。
かみさんと一緒にテレビを視た。

そんな時、俺もきっと、幸せそうな笑顔を浮かべていたのだろう。
安心しきった表情をしていたのだろう。

かみさんが死んだ今、もはやそんな表情は忘れてしまった。

・・・

俺とは無縁になってしまった幸せな光景を見つめていると、どす黒い欲望が俺の中を駆け巡る。

すべてを破壊したい。すべての人々の幸せを壊したい。
みんなに俺と同じ思いを味わわせたい。

思うだけで実行するわけではないのだが、
「みんなに俺と同じ思いを味わわせてやりたい」という衝動に駆られる。

みんな、知るが良い。
伴侶を亡くすことの辛さを。
最愛の人を喪った悲しみを。
独りぼっちの寂しさを。
この世界で一番大切な人を亡くした苦しみを。

・・・

そんな衝動は抑圧されなければならない。
だから俺は、目を閉じる。
幸せな人々の笑顔を見なくて済むように、しっかりと目を閉じる。
そして現実から逃避する。現実から乖離する。

しっかりと目を閉じよう。
そして、幸せな人々が作り上げるこの世界を否定しよう。

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今日、平成26年6月27日は、かみさんの祥月命日だ。
かみさんを看取った日から4年が経った。

もう4年も経つんだね…と言われることが多い。
この言葉には、「もう4年も経つなんて信じられないね…」という気持ちが込められている。

俺の実感もそうだ。
俺にとっても、あっという間の4年だった。
まるで昨日のことのようだ…とまでは言わないが、4年も昔のことだとは感じられない。

かみさんが亡くなってから、俺の時間は止まってしまったのだろう。

・・・

俺はこの4年間、心のどこかで、ずっと待ち望んでいたような気がする。

そうだ。
俺はかみさんが生き返ることを待ち望んでいた。
かみさんとの穏やかで幸せな暮らしを取り戻せるんじゃないかと思っていた。
かみさんと触れ合える日が戻ってくる、かみさんと語り合える日が戻ってくると思っていた。

そんなことはあり得ない。
理性では分かっているのだが、俺はずっと待ち望んできたのだ。

・・・

4年を節目に「諦めた」と言えば格好も良いだろう。
「諦める」という言葉には、「(事実を)明らかに見る」という意味があるそうで、
「諦める」ことでグリーフワークが一歩進むんだということも分かってはいる。

だが、ここでいう「事実」とは、「かみさんの死」であり、「かみさんは二度と生き返らない」ということだ。
俺には受け容れがたい。

・・・

たぶん、これからもそうなんだろう。

俺はこれからの日々も、かみさんの痕跡を探しながら生きていくのだろう。
俺が死ぬ瞬間まで、かみさんの姿を追い求めながら生きていくのだろう。

それでいい。
それが俺の唯一の「希望」なのだから。

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「かなしみ」という言葉を漢字にすると、「悲しみ」もしくは「哀しみ」と変換される。

このブログには、「かなしみ」という言葉が何度も出てくるが、
ある記事では「悲しみ」という漢字が使われているのに、別の記事には「哀しみ」が使われていたりして、統一性がない。
そのことに気づいていらっしゃる読者の方も多いかもしれない。

俺は決して、その場の気まぐれというか、
気分次第で「悲しみ」という言葉を使ってみたり、「哀しみ」と書いてみたりしているわけではない。
俺は「悲しみ」と「哀しみ」を意識して使い分けている。

「悲しみ」も「哀しみ」も、かみさんが亡くなった直後に俺の中に生まれた。
同時に生まれた感情でありながら、「悲しみ」と「哀しみ」は、俺の中では明確に区別されている。

・・・

「悲しみ」は単純ではあるが、とても激しい感情だ。
俺の心身が切り裂かれるような激しい「かなしみ」だ。
それは何の前触れもなく、身体の中心から突然に噴き出してきて、俺の全身を破裂させる。
この感情は、「号泣」、「慟哭」という形で表出するしかない。
以前に比べ、多少頻度は減ったものの、今でも時折「悲しみ」に振り回される。

一方「哀しみ」は、「悲しみ」と比べて複雑な感情だ。
あんなに若いのに死んじゃうなんて、かみさんがかわいそうだという気持ち…
かみさんを守れなかった罪悪感…
心の空洞や喪失感、絶望感、日々大きくなっていく寂しさ…
希死念慮や抑鬱、精神的なひきこもり…
様々な言葉で「哀しみ」の本質を表現しようとしてみたが、それでも何か足りない。それほど複雑な感情だ。
大きくて深い「かなしみ」の感情。
この感情は「悲しみ」とは異なり、突然噴き出してくる類のものではない。
いつでも俺に纏わりつき、俺の全身をつかんで離さない。

・・・

「悲しみ」の中には、何らの希望もない。光もない。
その感情の赴くままに翻弄されるしかない。
逃げ出すことも避けることもできない。
襲われたら、襲われるがままでいるしかない。

でも「悲しみ」とは違い、「哀しみ」の中には希望や光があるんじゃないか。
ふと、そんなことを感じた。

もちろん今の俺には希望などない。
俺を照らしていたはずの光は、かみさんの死とともに消え去り、今は真っ暗闇の中で蹲っている。

だが、心の空洞や喪失感を抱えていても、希望を感じることは可能なのではないか。
たとえ人生に絶望していても、仄かな希望を持つことは可能なのではないだろうか。
寂しさに押しつぶされそうになっていても、光を見ることは可能なのではないか。
「かみさんがかわいそうだ…」という気持ちや罪悪感を抱えていても、光を見ることは可能なのではないだろうか。

そんな風に感じたことに何の根拠もありはしない。
事実、今は希望もなければ、光も見えない。

でも、そんな風に考えなければ、俺は「哀しみ」に溺れそうなのだ。

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